イ・ソンヒには、音楽的才能とは別に特別な宗教観、道徳観があるように見える。そのことは、彼女の自伝に触れられている家庭環境からうかがい知ることができる。
(本ブログ関連:”「イ・ソンヒの『スター・ストーリー』」”)
宗教観、道徳観の源は、父親が所属した仏教と大きく関係があるようだ。合わせて、韓国における仏教宗団の問題点、相克も知ることになる。彼女の生育に大きな影響と意味を持ったことだろう。
特に韓国仏教界で争点となった妻帯問題に絡めて、イ・ソンヒの父が属した宗団「太古宗」を取りあげる例が多い。イ・ソンヒの自伝では、「一乗宗」の名を挙げているが。正直いまだに、どちらの宗団に属したのか確証となる情報を得ていない。今回は太古宗を中心にしたものである。
(本ブログ関連:”太古宗”、”一乗宗”)
韓国仏教では、原則妻帯を否定した宗派「曹渓宗」が圧倒的主流である。それに対して、イ・ソンヒの父が、妻帯を認める宗派「太古宗」に属しているることから記事にされるようだ。
芸能記事に<再照明>といって、芸能人の過去記事や話題をアレンジ、詳細化して再掲することがある。イ・ソンヒの場合も度々で、ある意味プライバシーに深入りしたものが多い。コリアデイリーの記事、「イ・ソンヒの『出生の秘密』 僧侶にまつわる何事か分かってみれば『ビックリ』」(5/14、チョン・ウンチェ記者])は、妻帯問題を片手に記したものといえる。
(本ブログ関連:”韓国仏教”)
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(韓国仏教)太古宗(태고종)僧侶にまつわる、歌手イ・ソンヒの父の生(=人生)の秘密、釈迦生誕日にうわさ
14日、ネチズンの間では、釈迦生誕日に話題が集まる中、我が国仏教宗団の二番目に大きな太古宗僧侶出身である歌手イ・ソンヒの父の人生が注目をあびている。
14日、注目をあびる太古宗は、韓国仏教の27ほどある宗団の一つだ。高麗時代(末期)、太古普愚国師を宗祖としながら、釈迦世尊の自覚覚他・覚行円満の根本教理を敬って実践し、太古普愚国師の宗風を宣揚して、見性成仏・伝法度生することを宗旨としている。
<写真> イ・ソンヒの学校卒業時の両親との家族写真
このような太古宗とイ・ソンヒにまつわる人生史は、コリアデイリーとのインタビューで、「祖父が唱をされたが、私もその影響が大きいようだ」とし、「父も声が良かったです。妻帯僧で祈祷をたくさんした」と、父が僧侶だった事実をありのままに明らかにして話題になったりもした。
これに対して、イ・ソンヒは僧侶だった父のために幼年時代を林の中で暮らした。学校は都心で通って、放課後には外部と遮断された山寺で暮らした当時、とても大きい寺なので、数多くの僧侶と一緒に暮らしたしその中にあって、常に僧侶が仏教をそらんずるとき思わず真似たりしたと幼い人生を回想した。
このような父の人生により、イ・ソンヒの生(=人生)は、仏教と密接な関連があり、太古宗僧侶だった父の意により一時ソウル市(議会)議員になり、政治にも関与したりもした。
一方、イ・ソンヒの父が僧侶であった太古宗は、解放後<全国僧侶大会>の決議により、「朝鮮仏教曹渓宗総本寺太古寺法」と曹渓宗名を廃止して、「朝鮮仏教」という単一宗団でスタートしたが、3大教正(宗正)の宋曼庵によって「曹渓宗」に宗名が還元された。
1954年5月、大統領李承晩が家庭を持って生きる僧はみな寺刹から退けという特別談話以後、曹渓宗は独身を主張する勢力と僧侶の結婚を許容する勢力に二分されたが、5.16革命(朴正熙による軍事クーデター)後、仏教再建委員会によって、1962年、「大韓仏教曹渓宗」を宗名として統合宗団が成立した。
しかし、中央宗会を構成する双方の意見対立で、1970年1月、朴大輪を宗正にして統合宗団から分離して太古宗宗団を発足し、韓国仏教曹渓宗と統合して「韓国仏教太古宗」と改称し今日に至っている。
太古宗は寺刹の個人所有認定と僧侶の結婚問題を自律に任せていて、出家をしなくても寺刹を維持運営できる裁可交易者制度である校任(교임)制度を置いている。
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2016年5月19日木曜日
2012年3月10日土曜日
(資料)太古宗
イ・ソンヒの父親が、韓国(朝鮮)仏教の太古宗(태고종)*に所属していた(他のブログなどによる)ことを、このブログで何度か触れた。ただし、その確証となる記事はまだ得ていないが。
彼女の美しい声質が天性のものとしても、父親が関わったといわれる太古宗における仏教音楽の梵唄(범패)が、彼女の音楽環境の重要な要素だったと考えたい。彼女の清雅でエネルギッシュな伸びやかな高音と、宗教音楽の独特な長音に共通したものを感じる。
ちなみに太古宗の総本山である奉元寺(봉원사)で、梵唄などを含めた霊山斎(영산재)の年間定期公演が、毎年6月第1週に開始される。
しばしば太古宗は、韓国仏教の最大宗派の曹渓宗(조계종)と比丘(出家僧)について対比される。父親の宗教活動は、彼女の子ども時代に生命観、友人関係、および転居など生活に大きな影響を与えたようだ。
韓国語の教室で聞いたが、イ・ソンヒはしばらくして父親についてようやく話題にしたそうだが、いつ頃のことだろうか。
(参考)「韓国寺院の盂蘭盆斎」(野村伸一)
「一方、曹渓宗の僧侶たちは、音楽や歌舞、あるいは仏画の内容などには多くは無関心、冷淡で、そのようなことは仏教の本質とはかかわりのないことという反応がしばしばである。」
(本ブログ関連:"仏教") ← 表示後、画面右下の”前の投稿”で継続参照します。
(*)イ・ソンヒは、自伝で、父親が所属した宗派を「一乗宗」としている。
彼女の美しい声質が天性のものとしても、父親が関わったといわれる太古宗における仏教音楽の梵唄(범패)が、彼女の音楽環境の重要な要素だったと考えたい。彼女の清雅でエネルギッシュな伸びやかな高音と、宗教音楽の独特な長音に共通したものを感じる。
ちなみに太古宗の総本山である奉元寺(봉원사)で、梵唄などを含めた霊山斎(영산재)の年間定期公演が、毎年6月第1週に開始される。
しばしば太古宗は、韓国仏教の最大宗派の曹渓宗(조계종)と比丘(出家僧)について対比される。父親の宗教活動は、彼女の子ども時代に生命観、友人関係、および転居など生活に大きな影響を与えたようだ。
韓国語の教室で聞いたが、イ・ソンヒはしばらくして父親についてようやく話題にしたそうだが、いつ頃のことだろうか。
(参考)「韓国寺院の盂蘭盆斎」(野村伸一)
「一方、曹渓宗の僧侶たちは、音楽や歌舞、あるいは仏画の内容などには多くは無関心、冷淡で、そのようなことは仏教の本質とはかかわりのないことという反応がしばしばである。」
(本ブログ関連:"仏教") ← 表示後、画面右下の”前の投稿”で継続参照します。
2013年10月24日木曜日
(資料)イ・ソンヒのスター・ストーリー「3.宗教家である父と、自然とともに過ごした幼い子供」
先日(9/27)、「スポーツ韓国」の紙面(1991年3月8日~4月5日)に連載された「イ・ソンヒ27歳当時のスター・ストーリー」記事の目次を紹介したが、その第3回目をここに載せたい。感謝。
イ・ソンヒの幼い頃の祖父も含めての家族愛や、「音域の広い」彼女の声が「父から受け継いだ」と語る影響について・・・知りたかったことだ。
(本ブログ関連:”(資料)イ・ソンヒ(27歳当時)の「スター・ストーリー」”、”資料:이선희 Profile”)
[3] 宗教家である父と、自然とともに過ごした幼い子供
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私が三歳になった年である1966年、両親は私を連れて忠南(忠清南道)の保寧からソウルに移住した。初めての定着地は城北区三仙洞だった。
当時、父は大韓仏教「一乗宗(일승종)」の宗会議員と同時に、仏教音楽「梵唄(범패)」の伝授者であった。
(注) ネット上で、イ・ソンヒの父親の所属宗派を「太古宗(태고종)」と記されることがあるが、この記事から(当時)「一乗宗」が正しいようだ。なお、「一乗宗」の正式な成立は1969年とされ、この年に大法院裁定により韓国仏教の最大宗派となる「曹渓宗(조계종)」と「太古宗」が正式に分離している。
(注) イ・ソンヒの家族が保寧から転居したソウルの城北区内に「一乗宗」の一乗寺がある。
(注) 一乗宗の「主な宗団機構は宗正の下、宗務全般を掌握する総務院、糾正(きゅうせい)機関である監察院、議決機関である宗議会などがある。」
(注)「梵唄」については、「太古宗」との関連がネット上で話題にされることが多い。
父の身分が僧侶だったために、所属寺院が変わるたび、わが家は引越し荷物を荷造りしなければならなかった。
そうするうちに、私は仕方なく国民学校だけ六ヶ所を転々と移り渡った。友人とちょっと付き合うだけで、校歌を覚え歌うことができるようになると、私はまた間違いなく見知らぬ学教に転校しなければならなかった。私も知らぬうちに性格は内省的に沈んでいった。
ときおり近所の子供たちとケンカをすると、その悪童たちが必ず私の父をあげつらった。「僧(중)」がどうしたといいながら。朴景利(パク・キョンニ、박경리、1926年~2008年)先生の小説「土地(토지)」で、年齢の幼いキルサン(길상)が悪童に「僧」と冷やかし受ける気持ちを十分に理解することができた。
(注) 韓国仏教における妻帯の問題は、歴史上の課題でもあった。⇒ ”韓国仏教”
自然に私と同じ年頃の子供たちと一緒に過ごす時間が減り、周りの山、木、花、鳥そして風と親しくなった。
(ちなみに)ネパールに「導師」が多いのは、両親が仕事に出て行った後、一人で自然に接して成長した子供たちが多くてとか? とにかく私は木と草に群がる虫たちと話をして育った。
もちろん幼い時からひたすら叙情的で思索的だったことは決してない。森の古木の木の上に綱をぶら下げてターザン遊びをして時間の経つことが分からなかったし、休みになれば田舎の祖父の家に行って明け方から川岸のフナを(網で)すくいてあげた。また、真夜中に近所の野菜畑を堀り散らしに行くマクワウリとスイカ荒らしで、蚊に刺されていることも分からなかった。
ソウルではひょろひょろしっぱなしの私だったが、田舎に行ったら全身に力が湧き、敏捷で活き活きするようになった。
ソウルでも、やはり父について移動も何度もしたが、行く所ごとに常に鬱蒼とした森があった。父の勤め先(?)である寺はたいてい山の中にあるのだから。
ところで日曜日になると、悪い鳥捕りたちが空気銃をかついで「私の森の中」に狩猟にきたりした。
彼らが去った後、かわいそうにも死んだ鳥が数匹ずつ散在していた。
私は、目に映りしだい死んだ鳥のために墓を作った。墓の上に小さな木の枝で十字架を作ってさした。
ところが、まさにその木製の十字架のために、寺にいらした僧侶たちにひどい目にあったことがある。仏さまを祀った寺院のあごの下に、どうしてあえて十字架を差し込むことができるかということだった。そこまで考えが及ぶことができなかったことではないが、さりとて私の腕前で「卍」の字形を作ることは到底できなかった
私の子供時代の思い出は、祖父と父から始まる。
私の考え方や価値観に大きな影響を与えた宗教家としての父、そして特に私だけを心からも愛してくれた私の祖父。
懐かしさは、明け方の山腹を取り囲んで染み入る雲であり、灰色がかった舗道の上に溶けて落ちる白い雪であり、激しい風の末に立っている弱い木の枝だ。
会いたくて懐かしい祖父. その祖父は私が中学校2年の時に亡くなった。だが、あなたのその実直だった姿はまだ私の両目に浮かぶ。
祖父は田舎に住んでいたが、いつもソウルの我が家に来てくれて何月も留まったりした。そのたびに、祖父は古物の自転車を引いて下校時間の2時間前から校門の前で私を待ってくださった。
自転車の後ろの席に座って帰宅する気持ちは喜びそのものであった。祖父は明け方のたび、私を連れて泉(薬水)の汲み場に行った。昔も今も、明け方の静かな泉には騒々しいちびっ子の出入りは禁忌視されているけれど、私だけ祖父の「こね」のおかげで、近所の老人たちが掌握していた泉でも自由にできた。
休みのたびに田舎の祖父の家に行けば、祖父は一日中私の手を握って、野原で山で、歩きながら無数の昔話を聞かせてくださった。
田舎の家の裏庭にある竹で「洞箫(퉁소)」(尺八に似た笛)も直接作ってくれたし、クヌギの木で手作りで「ユッ」(小ちいさな丸い棒切れを割って作る四本一組の遊戯具)も切ってくれた。
(注) ユッは、ユンノリ(윷놀이)遊びに使う。
祖父と私が散歩に出て行くたびに、祖母は袋いっぱいニンニクとネギを満たして祖父に渡したりした。祖父はそんな生ニンニクとネギが好きだった。
あちこち歩き回って脚を休ませようとすれば、祖父と私はニンニクとネギを食べた。口の中がとてもヒリヒリしたら、地面の穀物の穂を拾ってモグモグ食べながら。
考えてみれば、何の科学的根拠もないが、その時そんなにたくさん食べた生ニンニクが私の大きく高い声(高声)の源泉ではないだろうか・・・。
祖父は当時、日毎に変化した時代の潮流とは塀を築いた方だと父はいった。
伽耶琴(カヤグム)と唱を楽しんだ、常に高尚な人(ソンビ)としての風流が好きな方だった。また、外来の文物に対してはほとんど本能に近い警戒心を抱いておられたので、父を新式の学校に送るのは不合理な話だったようだ。
新しい学問に接する道が塞がってしまった父はそれでも何かを学ばなければならないと決心し、ある日さっさと単身寺に入られた。山寺で仏教思想の奥深さ(玄妙)に夢中になった父は永遠に仏と共に生きていく心を決めたという。
父の仏心は家族には薄情と感じられるほど敬虔だった。そのせいで母は家と寺の間を上がり下りするのに、気苦労、体の苦労が非常に激しかった。
父の仏心は、ある夏の日、土砂降りのようにあふれた豪雨で水騒動が起きた時、そしていつだったか、私の不注意で山火事を起こした時に如実にあらわれた。
国民学校の低学年の時だったと記憶している。だから70年代初期ぐらいだ。あまりにも引越しをたびたびすると町の名前もぼうっとする。三仙洞か敦岩洞か、もしかしたら論硯洞か新林洞なのかも分からない。
とにかくその時も、父は家の後方にある山中の寺にいたし、私たちの住居は山麓にあった。
その年の夏、数日をおいて空があいたように豪雨が降った。寺は高い山中にあるのでこれといった水害にあうわけはないが、ふもとにあった我が家は途方もない水騒動を体験しなければならなかった。
谷川があふれると、いつのまにか真っ赤な黄土水が家の前の梨畑を襲って中庭に迫った。母はあわてて木板などをごちゃごちゃ集めてイカダに似たものを作った。私と弟はあたかも渡し舟に乗っているような気分で、恐ろしさはおろかかえって楽しいだけだった。
その瞬間、寺から息を切らして走って降りてきた父が庭に入った。子供の目にも父の顔に心の余裕がない表情を読むことができた。「ああ、母と私たちが心配になって来たんだな。」
ところがそうでなかった。父は部屋に入るやいなや祭器、蓮の提灯、窓戸紙など寺で使う物を取りまとめ始めた。薄情だった。母性愛と父情の間にはそのように大きい差があるのだろうか?
その夏の水騒動に続き、その年の晩秋には「火事騒ぎ」があった。
深い山中の寺刹も人の住む所だと、毎日毎日ゴミがでた。ゴミを一度に捨てに下山することはできないことなので、たいてい寺近くの空地でゴミを燃やしてしまったりした。
今考えれば、乾いた落葉の覆いかぶさった山中で火をつけることがどれくらい危険千万なことなのか、めまいがするが、とにかく出たその日のゴミの山に燃料を入れて火をつけると、火は風に乗って広がり山の3分の1ほどを焼いてしまった。山火事はたまたま降った雨で消えた。
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イ・ソンヒの幼い頃の祖父も含めての家族愛や、「音域の広い」彼女の声が「父から受け継いだ」と語る影響について・・・知りたかったことだ。
(本ブログ関連:”(資料)イ・ソンヒ(27歳当時)の「スター・ストーリー」”、”資料:이선희 Profile”)
[3] 宗教家である父と、自然とともに過ごした幼い子供
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私が三歳になった年である1966年、両親は私を連れて忠南(忠清南道)の保寧からソウルに移住した。初めての定着地は城北区三仙洞だった。
当時、父は大韓仏教「一乗宗(일승종)」の宗会議員と同時に、仏教音楽「梵唄(범패)」の伝授者であった。
(注) ネット上で、イ・ソンヒの父親の所属宗派を「太古宗(태고종)」と記されることがあるが、この記事から(当時)「一乗宗」が正しいようだ。なお、「一乗宗」の正式な成立は1969年とされ、この年に大法院裁定により韓国仏教の最大宗派となる「曹渓宗(조계종)」と「太古宗」が正式に分離している。
(注) イ・ソンヒの家族が保寧から転居したソウルの城北区内に「一乗宗」の一乗寺がある。
(注) 一乗宗の「主な宗団機構は宗正の下、宗務全般を掌握する総務院、糾正(きゅうせい)機関である監察院、議決機関である宗議会などがある。」
(注)「梵唄」については、「太古宗」との関連がネット上で話題にされることが多い。
父の身分が僧侶だったために、所属寺院が変わるたび、わが家は引越し荷物を荷造りしなければならなかった。
そうするうちに、私は仕方なく国民学校だけ六ヶ所を転々と移り渡った。友人とちょっと付き合うだけで、校歌を覚え歌うことができるようになると、私はまた間違いなく見知らぬ学教に転校しなければならなかった。私も知らぬうちに性格は内省的に沈んでいった。
ときおり近所の子供たちとケンカをすると、その悪童たちが必ず私の父をあげつらった。「僧(중)」がどうしたといいながら。朴景利(パク・キョンニ、박경리、1926年~2008年)先生の小説「土地(토지)」で、年齢の幼いキルサン(길상)が悪童に「僧」と冷やかし受ける気持ちを十分に理解することができた。
(注) 韓国仏教における妻帯の問題は、歴史上の課題でもあった。⇒ ”韓国仏教”
自然に私と同じ年頃の子供たちと一緒に過ごす時間が減り、周りの山、木、花、鳥そして風と親しくなった。
(ちなみに)ネパールに「導師」が多いのは、両親が仕事に出て行った後、一人で自然に接して成長した子供たちが多くてとか? とにかく私は木と草に群がる虫たちと話をして育った。
もちろん幼い時からひたすら叙情的で思索的だったことは決してない。森の古木の木の上に綱をぶら下げてターザン遊びをして時間の経つことが分からなかったし、休みになれば田舎の祖父の家に行って明け方から川岸のフナを(網で)すくいてあげた。また、真夜中に近所の野菜畑を堀り散らしに行くマクワウリとスイカ荒らしで、蚊に刺されていることも分からなかった。
ソウルではひょろひょろしっぱなしの私だったが、田舎に行ったら全身に力が湧き、敏捷で活き活きするようになった。
ソウルでも、やはり父について移動も何度もしたが、行く所ごとに常に鬱蒼とした森があった。父の勤め先(?)である寺はたいてい山の中にあるのだから。
ところで日曜日になると、悪い鳥捕りたちが空気銃をかついで「私の森の中」に狩猟にきたりした。
彼らが去った後、かわいそうにも死んだ鳥が数匹ずつ散在していた。
私は、目に映りしだい死んだ鳥のために墓を作った。墓の上に小さな木の枝で十字架を作ってさした。
ところが、まさにその木製の十字架のために、寺にいらした僧侶たちにひどい目にあったことがある。仏さまを祀った寺院のあごの下に、どうしてあえて十字架を差し込むことができるかということだった。そこまで考えが及ぶことができなかったことではないが、さりとて私の腕前で「卍」の字形を作ることは到底できなかった
私の子供時代の思い出は、祖父と父から始まる。
私の考え方や価値観に大きな影響を与えた宗教家としての父、そして特に私だけを心からも愛してくれた私の祖父。
懐かしさは、明け方の山腹を取り囲んで染み入る雲であり、灰色がかった舗道の上に溶けて落ちる白い雪であり、激しい風の末に立っている弱い木の枝だ。
会いたくて懐かしい祖父. その祖父は私が中学校2年の時に亡くなった。だが、あなたのその実直だった姿はまだ私の両目に浮かぶ。
祖父は田舎に住んでいたが、いつもソウルの我が家に来てくれて何月も留まったりした。そのたびに、祖父は古物の自転車を引いて下校時間の2時間前から校門の前で私を待ってくださった。
自転車の後ろの席に座って帰宅する気持ちは喜びそのものであった。祖父は明け方のたび、私を連れて泉(薬水)の汲み場に行った。昔も今も、明け方の静かな泉には騒々しいちびっ子の出入りは禁忌視されているけれど、私だけ祖父の「こね」のおかげで、近所の老人たちが掌握していた泉でも自由にできた。
休みのたびに田舎の祖父の家に行けば、祖父は一日中私の手を握って、野原で山で、歩きながら無数の昔話を聞かせてくださった。
田舎の家の裏庭にある竹で「洞箫(퉁소)」(尺八に似た笛)も直接作ってくれたし、クヌギの木で手作りで「ユッ」(小ちいさな丸い棒切れを割って作る四本一組の遊戯具)も切ってくれた。
(注) ユッは、ユンノリ(윷놀이)遊びに使う。
祖父と私が散歩に出て行くたびに、祖母は袋いっぱいニンニクとネギを満たして祖父に渡したりした。祖父はそんな生ニンニクとネギが好きだった。
あちこち歩き回って脚を休ませようとすれば、祖父と私はニンニクとネギを食べた。口の中がとてもヒリヒリしたら、地面の穀物の穂を拾ってモグモグ食べながら。
考えてみれば、何の科学的根拠もないが、その時そんなにたくさん食べた生ニンニクが私の大きく高い声(高声)の源泉ではないだろうか・・・。
祖父は当時、日毎に変化した時代の潮流とは塀を築いた方だと父はいった。
伽耶琴(カヤグム)と唱を楽しんだ、常に高尚な人(ソンビ)としての風流が好きな方だった。また、外来の文物に対してはほとんど本能に近い警戒心を抱いておられたので、父を新式の学校に送るのは不合理な話だったようだ。
新しい学問に接する道が塞がってしまった父はそれでも何かを学ばなければならないと決心し、ある日さっさと単身寺に入られた。山寺で仏教思想の奥深さ(玄妙)に夢中になった父は永遠に仏と共に生きていく心を決めたという。
父の仏心は家族には薄情と感じられるほど敬虔だった。そのせいで母は家と寺の間を上がり下りするのに、気苦労、体の苦労が非常に激しかった。
父の仏心は、ある夏の日、土砂降りのようにあふれた豪雨で水騒動が起きた時、そしていつだったか、私の不注意で山火事を起こした時に如実にあらわれた。
国民学校の低学年の時だったと記憶している。だから70年代初期ぐらいだ。あまりにも引越しをたびたびすると町の名前もぼうっとする。三仙洞か敦岩洞か、もしかしたら論硯洞か新林洞なのかも分からない。
とにかくその時も、父は家の後方にある山中の寺にいたし、私たちの住居は山麓にあった。
その年の夏、数日をおいて空があいたように豪雨が降った。寺は高い山中にあるのでこれといった水害にあうわけはないが、ふもとにあった我が家は途方もない水騒動を体験しなければならなかった。
谷川があふれると、いつのまにか真っ赤な黄土水が家の前の梨畑を襲って中庭に迫った。母はあわてて木板などをごちゃごちゃ集めてイカダに似たものを作った。私と弟はあたかも渡し舟に乗っているような気分で、恐ろしさはおろかかえって楽しいだけだった。
その瞬間、寺から息を切らして走って降りてきた父が庭に入った。子供の目にも父の顔に心の余裕がない表情を読むことができた。「ああ、母と私たちが心配になって来たんだな。」
ところがそうでなかった。父は部屋に入るやいなや祭器、蓮の提灯、窓戸紙など寺で使う物を取りまとめ始めた。薄情だった。母性愛と父情の間にはそのように大きい差があるのだろうか?
その夏の水騒動に続き、その年の晩秋には「火事騒ぎ」があった。
深い山中の寺刹も人の住む所だと、毎日毎日ゴミがでた。ゴミを一度に捨てに下山することはできないことなので、たいてい寺近くの空地でゴミを燃やしてしまったりした。
今考えれば、乾いた落葉の覆いかぶさった山中で火をつけることがどれくらい危険千万なことなのか、めまいがするが、とにかく出たその日のゴミの山に燃料を入れて火をつけると、火は風に乗って広がり山の3分の1ほどを焼いてしまった。山火事はたまたま降った雨で消えた。
火が広がる兆しが見えるやいなや、私は遁走を決めた。突然怖くなったためだ。怒られるのが恐ろしくて家にも入れぬまま、夜12時まで雨が降る晩の秋山の中で寒さに震えた。
家で私を探しに出た気配も全くなかった。結局、寒さと腹ペコということと山の獣の鳴き声にこれ以上持ちこたえることができなくて家に入った。
父は鞭を持って私を待っていた。翌日、明け方まで私は涙がにじむように鞭で打たれたし、一場の訓戒(その場だけの戒め)を聞き終えた後、はじめて母の懐で寝つくことができた。
幼い時の父は、私に常に「恐ろしい人」だったが、音域の広い私の声は父から受け継いだようだ。
今でも父の声は素晴らしい「響き」を持っている。朝早く、目覚ましの音には起きられないでも、父の咳は家族全員を起こすほどで、たまに友人の方々を連れて家に来られる時も、「ここが我が家です」という声が家まで聞こえてくる。強いてベルを押す必要がないのだ。
2009年12月31日木曜日
太古宗と梵唄
Daumアゴラ(아고라:集会所)には有名人の宗教一覧があり、イ・ソンヒについて「歌手、父親が太古宗僧侶(부친이 태고종 스님)」と紹介されている。
イ・ソンヒの父親が、仏教音楽の「梵唄」(ぼんばい:범패)の伝授者であるという情報を以前のブログに記した。さらにインターネット情報(記載者に感謝)を追加してみる。
「中外Webインタビュー」(駒沢女子大学学長 東 隆眞氏)より
・(禅宗系の)曹渓宗から分かれた太古宗では坊さんはともかくとして、 妻子の住まいは寺院の外にある。
・お寺は公のもので私生活の場所ではない。 妻は夫である住職の協力者、 奉仕者として手伝いに上がる形を取る。
「文化庁国際フォーラム」より
・韓国の梵唄は布教を目的とし、実用性の観点から親しみやすい旋律に発展してきた側面と、死後への畏れを思い浮かばせる神秘性を重視した耳になじみのない旋律として変化・発展した側面とがあり、日本の声明とは違った発展を遂げたといえる。
「Journalist-Net」より
(2008年に大阪韓国文化院で開催された「太古宗 霊山斎(ヨンサンジェ)」についての解説から)
・霊山斎は儀式の手順は、各種伝統文化を内に秘めた音楽的・・・要素というものは、儀式進行中での「梵音」や「和唱」などが音楽的効果を出す・・・。
・これらの仏教音楽「梵唄」、「和唱」などは韓国の伝統的民俗音楽家歌曲や回心曲などに大きい影響を及ぼし・・・。(注: 「民俗舞踊の僧舞(スンム)」についても触れている)
・韓国には数多くの宗教団体がありますが、このような荘厳な仏教儀式の霊山斎を挙行している宗教は(太古宗の)他にはありません。
(本ブログ関連:4/14、 7/25、8/27、9/5、10/7、11/7)
(参考)イ・ソンヒは今夜、「奉恩寺」の除夜の鐘(イ・ソンヒと打鐘式)の仏教行事に参加する。
イ・ソンヒの父親が、仏教音楽の「梵唄」(ぼんばい:범패)の伝授者であるという情報を以前のブログに記した。さらにインターネット情報(記載者に感謝)を追加してみる。
「中外Webインタビュー」(駒沢女子大学学長 東 隆眞氏)より
・(禅宗系の)曹渓宗から分かれた太古宗では坊さんはともかくとして、 妻子の住まいは寺院の外にある。
・お寺は公のもので私生活の場所ではない。 妻は夫である住職の協力者、 奉仕者として手伝いに上がる形を取る。
「文化庁国際フォーラム」より
・韓国の梵唄は布教を目的とし、実用性の観点から親しみやすい旋律に発展してきた側面と、死後への畏れを思い浮かばせる神秘性を重視した耳になじみのない旋律として変化・発展した側面とがあり、日本の声明とは違った発展を遂げたといえる。
「Journalist-Net」より
(2008年に大阪韓国文化院で開催された「太古宗 霊山斎(ヨンサンジェ)」についての解説から)
・霊山斎は儀式の手順は、各種伝統文化を内に秘めた音楽的・・・要素というものは、儀式進行中での「梵音」や「和唱」などが音楽的効果を出す・・・。
・これらの仏教音楽「梵唄」、「和唱」などは韓国の伝統的民俗音楽家歌曲や回心曲などに大きい影響を及ぼし・・・。(注: 「民俗舞踊の僧舞(スンム)」についても触れている)
・韓国には数多くの宗教団体がありますが、このような荘厳な仏教儀式の霊山斎を挙行している宗教は(太古宗の)他にはありません。
(本ブログ関連:4/14、 7/25、8/27、9/5、10/7、11/7)
(参考)イ・ソンヒは今夜、「奉恩寺」の除夜の鐘(イ・ソンヒと打鐘式)の仏教行事に参加する。
2011年10月11日火曜日
KBS WORLD「国楽の世界へ」 祭礼音楽
KBS WORLD放送の「国楽の世界へ」は、先週水曜日(10/5)に、「朝鮮時代から現在まで守り伝えられてきた音楽、(王室と庶民の)祭礼音楽」が紹介された。
<王室の祭礼音楽>
・ソウルの中心にある、朝鮮時代歴代の王と王妃の位牌が祀られている霊廟で、毎年5月の第一日曜日に大々的に開かれる祭礼の祭祀(제사)を宗廟祭礼(종묘 제례)、演奏される音楽を宗廟祭礼楽(종묘 제례악)という、とのこと。
▼国立国楽院、正楽団による宗廟祭礼楽の中から「保太平(보태평)」を聴く。明るめな響きにおやっという感じがして、歌まで聞こえる。踊りもあるようなので、見てみたい気がする。
(インターネットで宗廟の建造物、遺物の映像を見て、そうか儒教の景観なんだと気付く。)
・宗廟祭礼楽は、上記の保太平(歴代王たちの学問や徳を賛える)と、定大業(정대업:武功、つまり軍事に関する功績を賛える)の2つの楽章からなっている、とのこと。
▼国立国楽院、正楽団による宗廟祭礼楽の中から武功を賛える「定大業」を聴く。芯の太い重量感がする。
・(世宗大王の命による)宗廟祭礼楽は、韓国の伝統音楽の中でも最も重要な文化遺産で、1964年には、国の重要無形文化財、第1号に登録され、また、2001年には 宗廟祭礼と共にユネスコの世界無形遺産にも指定された、とのこと。
<庶民の祭礼音楽>
・庶民の祭礼として、亡くなった人を偲び、仏教にしたがい最後の日、49日目に開く祭礼を霊山斎(영산재)といい、仏教声楽曲の梵唄(범패)と楽器演奏、そして僧侶らの踊りで構成される盛大な儀式である、と紹介された。
・特に儀式の終盤、この内容を韓国語で簡単に歌う和唱(화청、和請)がある、と紹介された。
▼ソンアム僧侶による霊山斎で歌われる梵唄の中から「祝願和請(축원화청)」を聴く。庶民に身近にして耳に馴染む。
・霊山斎は、1973年に重要無形文化財の第50号に指定され、さらに2009年にはユネスコ人類にの無形遺産に登録されている、とのこと。
この霊山斎は、太古宗(태고종)の仏教儀式としてとりおこなわれ、仏教音楽の梵唄については、イ・ソンヒの父親が指導者であったと知られている。太古宗本山の奉元寺(봉원사)を訪ねたことがある。
ところで、曹渓宗(조계종)も霊山斎に取り組むといったニュースを見たことがあるが・・・。
(本ブログ関連;"太古宗"、"梵唄")
<王室の祭礼音楽>
・ソウルの中心にある、朝鮮時代歴代の王と王妃の位牌が祀られている霊廟で、毎年5月の第一日曜日に大々的に開かれる祭礼の祭祀(제사)を宗廟祭礼(종묘 제례)、演奏される音楽を宗廟祭礼楽(종묘 제례악)という、とのこと。
▼国立国楽院、正楽団による宗廟祭礼楽の中から「保太平(보태평)」を聴く。明るめな響きにおやっという感じがして、歌まで聞こえる。踊りもあるようなので、見てみたい気がする。
(インターネットで宗廟の建造物、遺物の映像を見て、そうか儒教の景観なんだと気付く。)
・宗廟祭礼楽は、上記の保太平(歴代王たちの学問や徳を賛える)と、定大業(정대업:武功、つまり軍事に関する功績を賛える)の2つの楽章からなっている、とのこと。
▼国立国楽院、正楽団による宗廟祭礼楽の中から武功を賛える「定大業」を聴く。芯の太い重量感がする。
・(世宗大王の命による)宗廟祭礼楽は、韓国の伝統音楽の中でも最も重要な文化遺産で、1964年には、国の重要無形文化財、第1号に登録され、また、2001年には 宗廟祭礼と共にユネスコの世界無形遺産にも指定された、とのこと。
<庶民の祭礼音楽>
・庶民の祭礼として、亡くなった人を偲び、仏教にしたがい最後の日、49日目に開く祭礼を霊山斎(영산재)といい、仏教声楽曲の梵唄(범패)と楽器演奏、そして僧侶らの踊りで構成される盛大な儀式である、と紹介された。
・特に儀式の終盤、この内容を韓国語で簡単に歌う和唱(화청、和請)がある、と紹介された。
▼ソンアム僧侶による霊山斎で歌われる梵唄の中から「祝願和請(축원화청)」を聴く。庶民に身近にして耳に馴染む。
・霊山斎は、1973年に重要無形文化財の第50号に指定され、さらに2009年にはユネスコ人類にの無形遺産に登録されている、とのこと。
この霊山斎は、太古宗(태고종)の仏教儀式としてとりおこなわれ、仏教音楽の梵唄については、イ・ソンヒの父親が指導者であったと知られている。太古宗本山の奉元寺(봉원사)を訪ねたことがある。
ところで、曹渓宗(조계종)も霊山斎に取り組むといったニュースを見たことがあるが・・・。
(本ブログ関連;"太古宗"、"梵唄")
2015年1月29日木曜日
(資料)韓国の宗教人口
韓国の宗教人口について、1984年~2014年の間、韓国ギャラップが5回の調査を基にした「韓国人の宗教1984-2014(1)宗教の実態」報告(1/28)を、クリスチャン・トゥデイの記事「無宗教の人たちの選好する宗教、仏教・キリスト教(カトリック)・キリスト教(プロスタント)の順」(1/28、イ・デウン記者)は、次のように要約している。(抜粋)
(本ブログ関連:韓国の”宗教人口”、”仏教宗派”)
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韓国ギャラップ、30年間の変化の実態を発表・・・儀礼などの参加度はキリスト教が最も高く
・韓国ギャラップで、1984年から2014年までの30年間、韓国人の宗教と宗教意識の変化を比較した「韓国人の宗教の実態」調査結果を28日発表した。
・韓国ギャラップは、①1984年に初めて全国民を対象とした宗教関連の調査を開始した後、②1989年、③1997年、④2004年、⑤2014年の比較調査をそれぞれ実施した。2014年の調査では、4月17日から5月2日まで済州を除く全国満19歳以上の男女1500人を対象に実施された(信頼水準95%)。
・2014年現在、宗教分布は、仏教22%、キリスト教(プロテスタント)21%、キリスト教(カトリック)7%の順だった。ギャラップ側は、「仏教は、高齢者と我が国東側(慶南・北)で、プロテスタントは若年層と我が国西側(首都圏·全羅)で、相対的に強みを見せた」と明らかにした。調査結果だけで見れば、知られているものとは異なり、カトリックの教勢は大きく増えなかった。
(本ブログ関連:韓国の”宗教人口”、”仏教宗派”)
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韓国ギャラップ、30年間の変化の実態を発表・・・儀礼などの参加度はキリスト教が最も高く
・韓国ギャラップで、1984年から2014年までの30年間、韓国人の宗教と宗教意識の変化を比較した「韓国人の宗教の実態」調査結果を28日発表した。
・韓国ギャラップは、①1984年に初めて全国民を対象とした宗教関連の調査を開始した後、②1989年、③1997年、④2004年、⑤2014年の比較調査をそれぞれ実施した。2014年の調査では、4月17日から5月2日まで済州を除く全国満19歳以上の男女1500人を対象に実施された(信頼水準95%)。
・2014年現在、宗教分布は、仏教22%、キリスト教(プロテスタント)21%、キリスト教(カトリック)7%の順だった。ギャラップ側は、「仏教は、高齢者と我が国東側(慶南・北)で、プロテスタントは若年層と我が国西側(首都圏·全羅)で、相対的に強みを見せた」と明らかにした。調査結果だけで見れば、知られているものとは異なり、カトリックの教勢は大きく増えなかった。
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| 調査 | 事例数 | 韓国の宗教人口分布(%) | ||||||
| (年) | (人) | 仏教 | プロテスタント | カトリック | その他宗教 | 非宗教者 | ||
| 1984 | 1,946 |
19
|
17
|
6
|
3
|
56
|
||
| 1989 | 1,990 |
21
|
19
|
7
|
2
|
51
|
||
| 1997 | 1,613 |
18
|
20
|
7
|
1
|
53
|
||
| 2004 | 1,500 |
24
|
21
|
7
|
1
|
47
|
||
| 2014 | 1,500 |
22
|
21
|
7
|
0
|
50
|
||
【第5回 比較調査概要】
(注)仏教について、曹渓宗(조계종)、太古宗(태고종)などの宗派に分かれる。
⇒ ”妻帯僧”
⇒ 東京大学仏教青年会「第16回 朝鮮仏教史 5. 韓日併合期と独立後の仏教」
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・明治時代に入ると日本仏教勢力が朝鮮に進出してきます。最初に江戸時代の朝鮮通信使とも繋がりのあった浄土真宗大谷派が、続いて日蓮宗、浄土真宗本願寺派、浄土宗と進出してきました。 そのような日本仏教の進出を受け、朝鮮仏教界も大きく動きます。日本を訪れ積極的に開化政策を進めようとする僧侶が出る一方で、それに反対し伝統仏教を回復しようとする鏡虚(きょんほ)らのグループも現れました。 日本が韓国を併合すると、朝鮮総督府が直接、朝鮮仏教の統率に乗り出し、寺刹令(じさつれい)を制定しました。 ・・・
・第二次世界大戦が終わり、日本から独立した韓国の仏教は、日本仏教の支配と影響を廃して、復興に向かいました。その第一歩として妻帯僧を追放し寺院の生活を正す浄化運動が起きます。 日本では明治時代に入って僧侶の妻帯が認められたこともあり、その支配下にあったときには妻帯する僧侶が韓国でも現れました。 それに対して戒律の遵守を求め妻帯を禁止する僧侶らと妻帯僧の間で紛争が起きました。その結果、曹渓宗から妻帯僧らが分派して太古宗が生まれました。 その他にも、新たに円仏教、真覚宗、元暁宗、法華宗、仏入宗といった宗派が誕生し、今に至っています。
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(注)シャーマニズム的な巫俗(ふぞく:무속)は、宗教としてでなく精神の源泉として下部構造に位置づけられるようだ。
(注)儒教も宗教としてでなく、儒教>宗教>巫俗といった精神構造の道徳律的な最上位に位置づけられるようだ。
- 調査期間: 2014年4月17日~5月2日(3週間)
- 調査対象: 全国(済州除く)満19歳以上の男女1500人
- 標本誤差: ± 2.5%ポイント(95%の信頼水準)
- 標本抽出: ステップ2層別化集落地域無作為抽出
- 標本ポイント内の性/年齢別の割り当て抽出 →(参考)「韓国ギャラップ・オムニバス調査標本設計報告書」
- 応答方式: 面接調査員のインタビュー
- 依頼先: 韓国ギャラップ独自の調査過去の調査の概要
- 調査対象: 全国(済州除く)は、18歳以上の男女
調査期間/サンプルサイズ/標本誤差(95%の信頼水準)/すべての面接調査、韓国ギャラップ独自の調査
(注)仏教について、曹渓宗(조계종)、太古宗(태고종)などの宗派に分かれる。
⇒ ”妻帯僧”
⇒ 東京大学仏教青年会「第16回 朝鮮仏教史 5. 韓日併合期と独立後の仏教」
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・明治時代に入ると日本仏教勢力が朝鮮に進出してきます。最初に江戸時代の朝鮮通信使とも繋がりのあった浄土真宗大谷派が、続いて日蓮宗、浄土真宗本願寺派、浄土宗と進出してきました。 そのような日本仏教の進出を受け、朝鮮仏教界も大きく動きます。日本を訪れ積極的に開化政策を進めようとする僧侶が出る一方で、それに反対し伝統仏教を回復しようとする鏡虚(きょんほ)らのグループも現れました。 日本が韓国を併合すると、朝鮮総督府が直接、朝鮮仏教の統率に乗り出し、寺刹令(じさつれい)を制定しました。 ・・・
・第二次世界大戦が終わり、日本から独立した韓国の仏教は、日本仏教の支配と影響を廃して、復興に向かいました。その第一歩として妻帯僧を追放し寺院の生活を正す浄化運動が起きます。 日本では明治時代に入って僧侶の妻帯が認められたこともあり、その支配下にあったときには妻帯する僧侶が韓国でも現れました。 それに対して戒律の遵守を求め妻帯を禁止する僧侶らと妻帯僧の間で紛争が起きました。その結果、曹渓宗から妻帯僧らが分派して太古宗が生まれました。 その他にも、新たに円仏教、真覚宗、元暁宗、法華宗、仏入宗といった宗派が誕生し、今に至っています。
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(注)シャーマニズム的な巫俗(ふぞく:무속)は、宗教としてでなく精神の源泉として下部構造に位置づけられるようだ。
(注)儒教も宗教としてでなく、儒教>宗教>巫俗といった精神構造の道徳律的な最上位に位置づけられるようだ。
2016年11月2日水曜日
妻帯僧(帯妻僧)
韓国の仏教新聞の書評記事、「仏教の生活方式・文化を訪れる歴史旅行」(10/31、アン・ジクス記者)は、同紙記者チャン・ヨンソプ(ペンネーム、チャン・ウンヨン)が著した、「仏教に関する些細だが、決定的な問い49」(ダムエンブックス)を紹介している。
同書は、仏教について一般的な49の質問、「尋ねるには曖昧な、些細だが気になる問い」に回答するという。僧侶がなぜ菜食(精進料理)なのか、仏教から見た「神」とは、「高僧」とはどういう僧侶なのかなど、いってみれば素朴な疑問に解説回答している。
そのなかで、イ・ソンヒの父親に関連して、僧侶の妻帯(韓国では”帯妻”)の解説があり、次のような説明(⇒引用)がある。余りにさらりと書き流しているが、韓国の仏教界の独特な内情について、戦後史も含めて特有な性格の理解が必要と思われるのだが・・・。
(本ブログ関連:”妻帯僧”、”韓国仏教”)
------------------------------------------
「歌手イ・ソンヒ氏が、ある放送で、父が帯妻僧(대처승)であったという事実を告白した。父のために幼い頃いじめを受けたというイ・ソンヒ氏のやるせない話しのように、帯妻僧は現代史のシミとして残っている。一時は、帯妻僧が韓国仏教の主流だった時代があった。僧侶の帯妻は日本から渡ってきた風習だ。12世紀以前まで、日本の仏教は修行者に結婚生活を許諾しなかった。明治維新以前の日本では女性と同衾した僧侶を刑事処罰できたが、1872年3月、(キリスト教)プロテスタント牧師を意識して、政権は僧侶にも帯妻を許諾した。」
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韓国仏教には、妻帯を認める「太古宗」(韓国仏教界最大宗派で妻帯を認めない「曹渓宗」に次ぐ第2位の宗派)などがある。イ・ソンヒの父親は、仏教音楽「梵唄(ぼんばい:범패)」の指導者であったという。所属宗派は、イ・ソンヒの言葉によれば「一乗宗」、ネット情報では「太古宗」というものもある。
(参考)
・浄土真宗、親鸞の夢(1201年)
・明治5年(1872年)4月25日、太政官布告第133号 「僧侶肉食妻帯蓄髪並ニ法用ノ外ハ一般ノ服着用随意タラシム」
同書は、仏教について一般的な49の質問、「尋ねるには曖昧な、些細だが気になる問い」に回答するという。僧侶がなぜ菜食(精進料理)なのか、仏教から見た「神」とは、「高僧」とはどういう僧侶なのかなど、いってみれば素朴な疑問に解説回答している。
そのなかで、イ・ソンヒの父親に関連して、僧侶の妻帯(韓国では”帯妻”)の解説があり、次のような説明(⇒引用)がある。余りにさらりと書き流しているが、韓国の仏教界の独特な内情について、戦後史も含めて特有な性格の理解が必要と思われるのだが・・・。
(本ブログ関連:”妻帯僧”、”韓国仏教”)
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「歌手イ・ソンヒ氏が、ある放送で、父が帯妻僧(대처승)であったという事実を告白した。父のために幼い頃いじめを受けたというイ・ソンヒ氏のやるせない話しのように、帯妻僧は現代史のシミとして残っている。一時は、帯妻僧が韓国仏教の主流だった時代があった。僧侶の帯妻は日本から渡ってきた風習だ。12世紀以前まで、日本の仏教は修行者に結婚生活を許諾しなかった。明治維新以前の日本では女性と同衾した僧侶を刑事処罰できたが、1872年3月、(キリスト教)プロテスタント牧師を意識して、政権は僧侶にも帯妻を許諾した。」
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韓国仏教には、妻帯を認める「太古宗」(韓国仏教界最大宗派で妻帯を認めない「曹渓宗」に次ぐ第2位の宗派)などがある。イ・ソンヒの父親は、仏教音楽「梵唄(ぼんばい:범패)」の指導者であったという。所属宗派は、イ・ソンヒの言葉によれば「一乗宗」、ネット情報では「太古宗」というものもある。
(参考)
・浄土真宗、親鸞の夢(1201年)
・明治5年(1872年)4月25日、太政官布告第133号 「僧侶肉食妻帯蓄髪並ニ法用ノ外ハ一般ノ服着用随意タラシム」
2011年6月3日金曜日
(資料)霊山斎、奉元寺
AMAZONに発注した「韓国の梵唄 霊山斎 太古宗奉元寺」(VZCG-234)のCDが昨日届いた。レーベルは、ビクター伝統文化振興財団である。太古宗(태고종)の本山奉元寺(봉원사)で催される霊山斎(齋)の仏教音楽を収録したもので、梵唄(ぼんばい:범패)を中心に構成されている。
先日(5/23)、奉元寺を訪れた際に、境内にある玉泉梵音大学と霊山斎保存会の名を記した建物で霊山斎の音楽についてたずねたところ、上記CDは当然ながらなくて、教育用のものがあり、1セット15枚程度と紹介された。知識も素養もないので、エッセンスだけでもと、結局AMAZONのものを求めることにした。
奉元寺の境内を出て、坂道を下る両側に、霊山斎の教室が数軒並んでいた。民家風の建物からして、奉元寺以外に、一般の信者向けの私塾のようなものかと想像したが不明。少なくとも、梵唄の教育機関に奉元寺のものと、私営のものと2種類あるようだが、調査が必要。
イ・ソンヒの父親が、梵唄の指導者だったことから、その関わり方にいくつかの場面が推定できそうだ。イ・ソンヒを知る者の言葉によれば、「(イ・ソンヒの父親は)仏教音楽『梵唄』の伝授者であった。父の身分が僧侶だったため、所属寺刹が変わる時ごとに、一家は引越し荷物を荷造りしなければならなかった。そうして彼女はやむを得ず国民学校だけで六つ転校した。」といわれている。
「法鼓舞」
さて、霊山斎の音楽であるが、このなかでも「法鼓舞」(ポプコム)は、吹打(チュイダ)の旋律を中心に打楽器との圧倒的な掛け合いをしていて、題名の通り鼓舞させる。舞台を見てみたい。(かつて、大阪と東京で演じられたとき、法鼓舞も演じられたのだろうか)
そういえば、チャルメラに似た音のする楽器の喇叭(ナパル)を使っているが、吹打は、打楽器的なリズムをとるそうだ。トランペットも時代を遡れば、オーケストラの中でリズム中心の楽器である。
次の(資料1)は、打楽器中心の舞として「法鼓舞」を説明していて、奉元寺のものと同じ所作かどうか確信ないが掲載させていただく。舞の意図を知ることができる。
(資料1)[法鼓舞](出典: nunghwa>仏敎舞踊の韓国的受容と展開)
---------------------------------------------
・法鼓舞は衆生済度の思想を含んでいる踊りです。
お寺で打つ打楽器は各々意味がちがいます。皮で作った太鼓は地上の衆生の為に打ち、雲板は空中に棲んでいる動物の為に打ち、梵鐘は地下の生物の為に打ち、木で作った木魚は水中の生物の為に打つのです。仏様の慈悲は人にだけ恵まれるのでなく十方の萬物に恵まれるのだから、その功徳を讃えて色々の音を出すのであります。
済度は仏の教えによって人の迷いや苦しみを救うことであります。
・法鼓舞は地上の生物の中でも特に人の為の踊りであり、つまり、愚かな衆生を悟らせて、仏の教えにしたがうようにして、苦界から救う誓願が踊りの動作に表れるのです。
法鼓舞だといって太鼓を打つだけでなく、色々な動作を取りながら踊ります。衆生を強く戒めるという意味で速く先進して強く太鼓を打つこともあり、衆生をなだめるように軽く身を揺すぶることもあり、しゃがんだり立ったりして衆生の精進を促すこともあり、太鼓ばちを高く持ち上げながら太鼓を目ざして衆生の誓願を促したりするのです。終わりに、軽くくるくる回りながら太鼓ばちを振り上げるのは衆生を済度した満足感を表すのであります。
---------------------------------------------
「和請、祝願和請」
霊山斎の「和請、祝願和請」については、次の(資料2)にある梵唄の解説の中でも特に注釈が設けられている。更に詳細な解説は、CDの解説から(資料3)として掲載させていただく。
(資料2)「NAVER百科事典」の「梵唄」(ぼんばい:범패)の解説
---------------------------------------------
・寺院で主に斎を上げる時歌う歌。
・1973年に重要無形文化財第50号に指定。
・ボムウム(梵音)、オサン(魚山)とも呼ばれている。仏の功徳を賛美する歌で、「ボムペ(梵唄)」は、インドの声という意味だ。荘重で厳粛で、화청(和請)を除いては声に意味が含まれていないことが特徴だ。
---------------------------------------------
(資料3)上記CD解説「奉元寺の霊山斎」>「和請、祝願和請」より(文:植村幸生)
---------------------------------------------
・「和請」とは韓国語の歌詞で仏法をわかりやすく説く歌謡で、法会の終わりに僧侶が歌う。しばしば「回心曲(ホェシムゴク)」とも称されるが、厳密には和請のうち特定の歌詞を持つものだけを回心曲と呼ぶ。音楽的にも梵唄とは一線を画し、むしろ民謡に近い。途中からリズムがかわり、漢文歌詞による祝願和請(単に祝願ともいう)に移る。
---------------------------------------------
(本ブログ関連:”梵唄”、”霊山斎”)
先日(5/23)、奉元寺を訪れた際に、境内にある玉泉梵音大学と霊山斎保存会の名を記した建物で霊山斎の音楽についてたずねたところ、上記CDは当然ながらなくて、教育用のものがあり、1セット15枚程度と紹介された。知識も素養もないので、エッセンスだけでもと、結局AMAZONのものを求めることにした。
奉元寺の境内を出て、坂道を下る両側に、霊山斎の教室が数軒並んでいた。民家風の建物からして、奉元寺以外に、一般の信者向けの私塾のようなものかと想像したが不明。少なくとも、梵唄の教育機関に奉元寺のものと、私営のものと2種類あるようだが、調査が必要。
イ・ソンヒの父親が、梵唄の指導者だったことから、その関わり方にいくつかの場面が推定できそうだ。イ・ソンヒを知る者の言葉によれば、「(イ・ソンヒの父親は)仏教音楽『梵唄』の伝授者であった。父の身分が僧侶だったため、所属寺刹が変わる時ごとに、一家は引越し荷物を荷造りしなければならなかった。そうして彼女はやむを得ず国民学校だけで六つ転校した。」といわれている。
「法鼓舞」
さて、霊山斎の音楽であるが、このなかでも「法鼓舞」(ポプコム)は、吹打(チュイダ)の旋律を中心に打楽器との圧倒的な掛け合いをしていて、題名の通り鼓舞させる。舞台を見てみたい。(かつて、大阪と東京で演じられたとき、法鼓舞も演じられたのだろうか)
そういえば、チャルメラに似た音のする楽器の喇叭(ナパル)を使っているが、吹打は、打楽器的なリズムをとるそうだ。トランペットも時代を遡れば、オーケストラの中でリズム中心の楽器である。
次の(資料1)は、打楽器中心の舞として「法鼓舞」を説明していて、奉元寺のものと同じ所作かどうか確信ないが掲載させていただく。舞の意図を知ることができる。
(資料1)[法鼓舞](出典: nunghwa>仏敎舞踊の韓国的受容と展開)
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・法鼓舞は衆生済度の思想を含んでいる踊りです。
お寺で打つ打楽器は各々意味がちがいます。皮で作った太鼓は地上の衆生の為に打ち、雲板は空中に棲んでいる動物の為に打ち、梵鐘は地下の生物の為に打ち、木で作った木魚は水中の生物の為に打つのです。仏様の慈悲は人にだけ恵まれるのでなく十方の萬物に恵まれるのだから、その功徳を讃えて色々の音を出すのであります。
済度は仏の教えによって人の迷いや苦しみを救うことであります。
・法鼓舞は地上の生物の中でも特に人の為の踊りであり、つまり、愚かな衆生を悟らせて、仏の教えにしたがうようにして、苦界から救う誓願が踊りの動作に表れるのです。
法鼓舞だといって太鼓を打つだけでなく、色々な動作を取りながら踊ります。衆生を強く戒めるという意味で速く先進して強く太鼓を打つこともあり、衆生をなだめるように軽く身を揺すぶることもあり、しゃがんだり立ったりして衆生の精進を促すこともあり、太鼓ばちを高く持ち上げながら太鼓を目ざして衆生の誓願を促したりするのです。終わりに、軽くくるくる回りながら太鼓ばちを振り上げるのは衆生を済度した満足感を表すのであります。
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「和請、祝願和請」
霊山斎の「和請、祝願和請」については、次の(資料2)にある梵唄の解説の中でも特に注釈が設けられている。更に詳細な解説は、CDの解説から(資料3)として掲載させていただく。
(資料2)「NAVER百科事典」の「梵唄」(ぼんばい:범패)の解説
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・寺院で主に斎を上げる時歌う歌。
・1973年に重要無形文化財第50号に指定。
・ボムウム(梵音)、オサン(魚山)とも呼ばれている。仏の功徳を賛美する歌で、「ボムペ(梵唄)」は、インドの声という意味だ。荘重で厳粛で、화청(和請)を除いては声に意味が含まれていないことが特徴だ。
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(資料3)上記CD解説「奉元寺の霊山斎」>「和請、祝願和請」より(文:植村幸生)
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・「和請」とは韓国語の歌詞で仏法をわかりやすく説く歌謡で、法会の終わりに僧侶が歌う。しばしば「回心曲(ホェシムゴク)」とも称されるが、厳密には和請のうち特定の歌詞を持つものだけを回心曲と呼ぶ。音楽的にも梵唄とは一線を画し、むしろ民謡に近い。途中からリズムがかわり、漢文歌詞による祝願和請(単に祝願ともいう)に移る。
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(本ブログ関連:”梵唄”、”霊山斎”)
2010年2月2日火曜日
イ・ソンヒの小学生時代
イ・ソンヒの子ども時代の音楽環境を知りたいが、それを進めるヒントがなかなか見つからない。
昨年4月のいくつかのニュース記事に、イ・ソンヒが出演したMBC「黄金漁場」トーク番組で、小学校6年まで寺に住んでいたと語ったことが報じられている。
一部ブログでは、父親が(仏教)太古宗で梵唄の指導をしていたと紹介している。太古宗の場合、妻子の住まいは寺院の外にあるといわれているので、「寺に住んだ」というのは具体的にどのような空間のことだろうか。例えば、居宅が寺院敷地の近辺にあったのか、それとも寺院につながっていたのか。
また、イ・ソンヒの公式ホームページ(HOME > Biograph > 프로필)では、梨泰院初等学校(이태원 초등학교)を卒業ということで、ソウルの初等学校が考えられる。梨泰院近くにあって、通学範囲のいずれの寺が、彼女の居住した寺ということになるのだろうか。また、本籍地の保寧からソウルへ転校したのだろうか。もしそうなら、その時期はいつか。あるいは、本籍地での居住経験はないのか。
どちらにしろ、父親が梵唄を指導していたと仮定して、それを身近に感じていたというのが一番わかりやすいのだが。
昨年4月のいくつかのニュース記事に、イ・ソンヒが出演したMBC「黄金漁場」トーク番組で、小学校6年まで寺に住んでいたと語ったことが報じられている。
一部ブログでは、父親が(仏教)太古宗で梵唄の指導をしていたと紹介している。太古宗の場合、妻子の住まいは寺院の外にあるといわれているので、「寺に住んだ」というのは具体的にどのような空間のことだろうか。例えば、居宅が寺院敷地の近辺にあったのか、それとも寺院につながっていたのか。
また、イ・ソンヒの公式ホームページ(HOME > Biograph > 프로필)では、梨泰院初等学校(이태원 초등학교)を卒業ということで、ソウルの初等学校が考えられる。梨泰院近くにあって、通学範囲のいずれの寺が、彼女の居住した寺ということになるのだろうか。また、本籍地の保寧からソウルへ転校したのだろうか。もしそうなら、その時期はいつか。あるいは、本籍地での居住経験はないのか。
どちらにしろ、父親が梵唄を指導していたと仮定して、それを身近に感じていたというのが一番わかりやすいのだが。
2010年5月22日土曜日
イ・ソンヒの生誕
イ・ソンヒの誕生について、「老木樹のチャン・ウクチョ(장욱조)が生命樹になって」のブログに「チャン・ウクチョ牧師と歌手イ・ソンヒの縁」(2006年3月30日)として、興味深い貴重な情報が記載されている。
書き出しにある彼女の誕生などについて、次にいろいろなことを知った。
・イ・ソンヒは、(陰暦の)1964年11月11日に、(本籍地)忠清南道保寧郡(現在は市)珠山面篁栗里に誕生した。 父(イ・ジョンギュ:이종규)、母(チェ・ビョンムン:최병문)の初めての子として誕生した。父母のそれぞれの夢に、男の子が示唆されていた。父の夢にあらわれた、山の神を意味する虎のために、彼女の名前(李仙姫)に神仙の「仙」の字が入ることになった。
(⇒母の名前、イ・ソンヒの名前の由来を知った)
・彼女の戸籍上の生年月日は、1967年3月10日だ。 父に頼まれた祖母が届けを忘れて、出生申告が3年も遅れた。
(⇒生年月日の相違を話題にしているブログがあった)
・当時や今もいつも寺と家を行き来している父は、彼女が生まれた直後にまた入山した。
(⇒家と寺が分離されていることがわかる)
・三歳なった日の1966年、両親は彼女を連れて忠南保寧からソウルに移住した。初めての定着地は城北区三仙洞だった。当時父は大韓仏教一乗宗(대한불교 일승종)の宗会議員と同時に、仏教音楽「梵唄(ポムペ)」の伝授者であった。父の身分が僧侶だったため、所属寺刹が変わる時ごとに、一家は引越し荷物を荷造りしなければならなかった。そうして彼女はやむを得ず国民学校だけで六つ転校した。
(⇒父親の所属宗派を太古宗としてきたが、一乗宗なのか?)
(⇒ソウルへの移動時期が判明、転校が友人関係をむつかしくして内向的になったようだ)
(参考)韓国仏教宗派別寺院のリスト(万仏会)
★★★★★ 孫が、幼児用椅子にお腹をぽってりして、余裕たっぷりに座っている写真が届いた ★★★★★
書き出しにある彼女の誕生などについて、次にいろいろなことを知った。
・イ・ソンヒは、(陰暦の)1964年11月11日に、(本籍地)忠清南道保寧郡(現在は市)珠山面篁栗里に誕生した。 父(イ・ジョンギュ:이종규)、母(チェ・ビョンムン:최병문)の初めての子として誕生した。父母のそれぞれの夢に、男の子が示唆されていた。父の夢にあらわれた、山の神を意味する虎のために、彼女の名前(李仙姫)に神仙の「仙」の字が入ることになった。
(⇒母の名前、イ・ソンヒの名前の由来を知った)
・彼女の戸籍上の生年月日は、1967年3月10日だ。 父に頼まれた祖母が届けを忘れて、出生申告が3年も遅れた。
(⇒生年月日の相違を話題にしているブログがあった)
・当時や今もいつも寺と家を行き来している父は、彼女が生まれた直後にまた入山した。
(⇒家と寺が分離されていることがわかる)
・三歳なった日の1966年、両親は彼女を連れて忠南保寧からソウルに移住した。初めての定着地は城北区三仙洞だった。当時父は大韓仏教一乗宗(대한불교 일승종)の宗会議員と同時に、仏教音楽「梵唄(ポムペ)」の伝授者であった。父の身分が僧侶だったため、所属寺刹が変わる時ごとに、一家は引越し荷物を荷造りしなければならなかった。そうして彼女はやむを得ず国民学校だけで六つ転校した。
(⇒父親の所属宗派を太古宗としてきたが、一乗宗なのか?)
(⇒ソウルへの移動時期が判明、転校が友人関係をむつかしくして内向的になったようだ)
(参考)韓国仏教宗派別寺院のリスト(万仏会)
★★★★★ 孫が、幼児用椅子にお腹をぽってりして、余裕たっぷりに座っている写真が届いた ★★★★★
2009年10月7日水曜日
イ・ソンヒと山寺音楽会
韓国の寺院は歴史的事情から山深くにあって、9月-10月の清々しい時期に山寺音楽会が行われているようだ。イ・ソンヒの音楽活動の場に、この山寺音楽会があるのはいうまでもない。
彼女の出自を別にすれば、特別に仏教との関係を強調しているか定かでないが、例えばNATE Q&Aに「仏教を信じるアーティストリスト」に、イ・ミジャなどとともに名前があげられている。
韓国仏教について、東国大学教授の金浩星氏による「韓国から見た日本仏教史」(山形大学「歴史・地理・人類学論集」第8号,13-22,2007年)という、ある書評をベースにされたものがある。韓国仏教のある事情を次のように説明されている。
独立前の「朝鮮仏教のほとんどのお坊さんたちは日本仏教の影響を受けて結婚してしまった。1945年独立の後、極少数の比丘(結婚しない独身の僧侶)たちが寺院から結婚していた僧侶(韓国語では「帯妻」といい、日本では「妻帯」という。)たちを追い出したこと。1954年8月24日、禅学院(ソウル)で「全国比丘僧代表者大会」から始まって、1970年5月9日、太古宗が成立されて終わった。比丘僧の宗団がいまの曹渓宗である。」
全羅北道の高敞郡にある曹渓宗禅雲寺(ソヌンサ)で、「禅雲寺の四季」を主題にした山寺音楽会が開催されて、イ・ソンヒが出演している。(「mediabuddha.net 」(9/10)、本ブログ:9/5)
(本ブログ関連:4/14、9/5)
彼女の出自を別にすれば、特別に仏教との関係を強調しているか定かでないが、例えばNATE Q&Aに「仏教を信じるアーティストリスト」に、イ・ミジャなどとともに名前があげられている。
韓国仏教について、東国大学教授の金浩星氏による「韓国から見た日本仏教史」(山形大学「歴史・地理・人類学論集」第8号,13-22,2007年)という、ある書評をベースにされたものがある。韓国仏教のある事情を次のように説明されている。
独立前の「朝鮮仏教のほとんどのお坊さんたちは日本仏教の影響を受けて結婚してしまった。1945年独立の後、極少数の比丘(結婚しない独身の僧侶)たちが寺院から結婚していた僧侶(韓国語では「帯妻」といい、日本では「妻帯」という。)たちを追い出したこと。1954年8月24日、禅学院(ソウル)で「全国比丘僧代表者大会」から始まって、1970年5月9日、太古宗が成立されて終わった。比丘僧の宗団がいまの曹渓宗である。」
全羅北道の高敞郡にある曹渓宗禅雲寺(ソヌンサ)で、「禅雲寺の四季」を主題にした山寺音楽会が開催されて、イ・ソンヒが出演している。(「mediabuddha.net 」(9/10)、本ブログ:9/5)
(本ブログ関連:4/14、9/5)
2010年5月20日木曜日
イ・ソンヒと仏教音楽
イ・ソンヒの父親が韓国仏教の太古宗で仏教音楽「梵唄(ぼんばい:범패ボンベ【参考:NAVER百科事典】)」の指導をしていたことから、彼女がどのように仏教(音楽)の影響を受けているのか、つながりがあるのかを知りたいと思っている。
(本ブログ関連:2009年の4/14、 7/25、8/27、9/5、10/7、11/7、12/31、2010年の2/2)
「仏教新聞(불교신문)」の記事「仏教信者 歌手イ・ソンヒ ライブ劇場引き受け」(2002年7月12日)に、イ・ソンヒにとって仏教の影響の傍証になるかもしれないことが次のように触れられている。
・(記事主題)大学路のライブ劇場を買収、国内では初めて歌手が公演場を直接運営することになった。(2002年6月29日)
・知られているように、イ・ソンヒは、仏教音楽「梵唄(ポムペ)」の伝授者で出家した父親イ・ジョンギュ(이종규)氏の影響で、幼い時から仏教的な生活に慣れている仏教信者だ。 「父がいた寺は常にうっそうとした森の中にあるので、幼い時から自然を友として過ごしたのが最も良かった」と回顧した彼女は、「その時期、猟師らの空気銃に犠牲になった鳥を探して『薦度※』してくれた記憶が鮮明だ」と話した。
(※:「薦度」=【仏教】死者の霊魂を極楽に導くこと)
★★★★★ 孫が、ワールドカップに合わせた子供用サッカーボールを体で抱え持つ写真が届いた ★★★★★
(本ブログ関連:2009年の4/14、 7/25、8/27、9/5、10/7、11/7、12/31、2010年の2/2)
「仏教新聞(불교신문)」の記事「仏教信者 歌手イ・ソンヒ ライブ劇場引き受け」(2002年7月12日)に、イ・ソンヒにとって仏教の影響の傍証になるかもしれないことが次のように触れられている。
・(記事主題)大学路のライブ劇場を買収、国内では初めて歌手が公演場を直接運営することになった。(2002年6月29日)
・知られているように、イ・ソンヒは、仏教音楽「梵唄(ポムペ)」の伝授者で出家した父親イ・ジョンギュ(이종규)氏の影響で、幼い時から仏教的な生活に慣れている仏教信者だ。 「父がいた寺は常にうっそうとした森の中にあるので、幼い時から自然を友として過ごしたのが最も良かった」と回顧した彼女は、「その時期、猟師らの空気銃に犠牲になった鳥を探して『薦度※』してくれた記憶が鮮明だ」と話した。
(※:「薦度」=【仏教】死者の霊魂を極楽に導くこと)
★★★★★ 孫が、ワールドカップに合わせた子供用サッカーボールを体で抱え持つ写真が届いた ★★★★★
2010年1月26日火曜日
みかん
NHKテレビで、近年ミカンの売り上げが減少傾向にあると紹介されていた。市場の仲買人がインタビューに答えて、家族で炬燵を囲む生活スタイルが減ってきていることを要因にあげていた。ミカンと平行して炬燵も売り上げが減少しているグラフが表示された。
炬燵の四方にひとが座ったらテレビが見えませんねと、司会者が語っていた。テレビのせいだけではないだろうが、みなで炬燵に暖まり、ミカンの皮をのんびり剥きながら、談話する余裕までなくなったのだろうか。
ところが、要因はそれだけではなくて、ミカンの皮を剥くこと自体面倒だとか、女性の爪(のマニュキア)を汚すからとか、いろいろ説明されていた。ティッシューをミカンにかぶせて皮を剥いている映像を見たときには、さすがにたまげた。実際、こんなことをしているのだろうかと思ったりもしたが。
しまいには、皮剥き済ミカンの商品まで登場した。時代は変わってしまったと思わざる得なかった。
足腰を炬燵で暖めて、ちょっと喉が乾いたとき、冷たいミカンを食うのは美味い。ファンヒーターで部屋全体暖めたときは、それこそオレンジジュースとか、アイスクリームが合うのかもしれない。
テレビを見て思い巡らし、炬燵から抜け出て、台所のミカンを炬燵の上に運んだ。そして立て続けミカンを食った。炬燵で食うミカンはやっぱり美味い。
(付記)
神保町の韓国関連の専門書店で、太古宗の寺院リストを見せていただいた。イ・ソンヒの父親が仏教音楽「梵唄」(ぼんばい:범패【参考:NAVER百科事典】)の伝授をしていた寺院を知りたかったからだ。(彼女の歌唱に仏教音楽の唱法が影響しているかヒントをつかみたい)
父親の寺院があるのは、彼女の本籍地の保寧なのか、それとも小学校を通ったソウル梨泰院地区近くにあるのか、候補をあげたかったからだが・・・難しい。
(本ブログ関連:'09/12/26、1/7 )
炬燵の四方にひとが座ったらテレビが見えませんねと、司会者が語っていた。テレビのせいだけではないだろうが、みなで炬燵に暖まり、ミカンの皮をのんびり剥きながら、談話する余裕までなくなったのだろうか。
ところが、要因はそれだけではなくて、ミカンの皮を剥くこと自体面倒だとか、女性の爪(のマニュキア)を汚すからとか、いろいろ説明されていた。ティッシューをミカンにかぶせて皮を剥いている映像を見たときには、さすがにたまげた。実際、こんなことをしているのだろうかと思ったりもしたが。
しまいには、皮剥き済ミカンの商品まで登場した。時代は変わってしまったと思わざる得なかった。
足腰を炬燵で暖めて、ちょっと喉が乾いたとき、冷たいミカンを食うのは美味い。ファンヒーターで部屋全体暖めたときは、それこそオレンジジュースとか、アイスクリームが合うのかもしれない。
テレビを見て思い巡らし、炬燵から抜け出て、台所のミカンを炬燵の上に運んだ。そして立て続けミカンを食った。炬燵で食うミカンはやっぱり美味い。
(付記)
神保町の韓国関連の専門書店で、太古宗の寺院リストを見せていただいた。イ・ソンヒの父親が仏教音楽「梵唄」(ぼんばい:범패【参考:NAVER百科事典】)の伝授をしていた寺院を知りたかったからだ。(彼女の歌唱に仏教音楽の唱法が影響しているかヒントをつかみたい)
父親の寺院があるのは、彼女の本籍地の保寧なのか、それとも小学校を通ったソウル梨泰院地区近くにあるのか、候補をあげたかったからだが・・・難しい。
(本ブログ関連:'09/12/26、1/7 )
2011年5月23日月曜日
ソウル4日目:奉元寺
最終日、時間はたっぷりあるし天気もよい。
午前中、韓国仏教の一宗派である太古宗(태고종)の本山奉元寺(봉원사)を訪ねる。同寺は、ソウルの西にあって延世大学校に隣接する。小高い山中にあり、辺りを松林に囲まれ、ハイキングコースの経路に位置する。
奉元寺に程近い、延世大学にある語学堂をのぞいてみる。紹介冊子によれば、1959.4~2010.12.18までの履修生84,411人中、Japanese23,805人、American18,673人、Chinese11,023人、Korean-Japanese10,572人、以上で75.9%を占める。(学生たちは原則堂内母語禁止だが、昼休みのロビーに日本語がちらほらと聞こえる)
午後、昨日お会いしたK氏のご好意で車に乗せていただき、お土産品を韓国郵便局で荷造り別送を手伝っていただいたうえ、旅行者を空港まで送っていただいた。感謝。
一緒に動いていただいた韓国語教室の先生に、何から何までお世話になった。あらためて感謝。
東京駅始発の武蔵小金井行き最終電車に運よく間に合い、雨の中帰宅する。
(追記)
旅行中記したブログ文は深夜記したため、いささか乱れまじりで見直したい。
(付記)
羽田到着時に、携帯に若夫婦からのメール着信を確認。
こちらの旅と同じ頃、家族旅行した写真や、風呂の中で父子たちが温まっている写真、そしてお帰りと言ってくれる孫の動画をモノレールのなかで見る。早く孫たちに会ってお土産を渡したい。
午前中、韓国仏教の一宗派である太古宗(태고종)の本山奉元寺(봉원사)を訪ねる。同寺は、ソウルの西にあって延世大学校に隣接する。小高い山中にあり、辺りを松林に囲まれ、ハイキングコースの経路に位置する。
境内に玉泉梵音大学と霊山斎保存会の名を記した建物があり、ボランティアの方によるお茶室で水晶果をいただく。別に干し柿のサービスまで受ける。イ・ソンヒの父親との関係をたずねるが不明。確認するに当方の準備不足が否めず、傍証を固めて再訪できればと思う。あせりは禁物。
6月に同寺境内で霊山斎の行事があるとのこと。
奉元寺に程近い、延世大学にある語学堂をのぞいてみる。紹介冊子によれば、1959.4~2010.12.18までの履修生84,411人中、Japanese23,805人、American18,673人、Chinese11,023人、Korean-Japanese10,572人、以上で75.9%を占める。(学生たちは原則堂内母語禁止だが、昼休みのロビーに日本語がちらほらと聞こえる)
午後、昨日お会いしたK氏のご好意で車に乗せていただき、お土産品を韓国郵便局で荷造り別送を手伝っていただいたうえ、旅行者を空港まで送っていただいた。感謝。
一緒に動いていただいた韓国語教室の先生に、何から何までお世話になった。あらためて感謝。
東京駅始発の武蔵小金井行き最終電車に運よく間に合い、雨の中帰宅する。
(追記)
旅行中記したブログ文は深夜記したため、いささか乱れまじりで見直したい。
(付記)
羽田到着時に、携帯に若夫婦からのメール着信を確認。
こちらの旅と同じ頃、家族旅行した写真や、風呂の中で父子たちが温まっている写真、そしてお帰りと言ってくれる孫の動画をモノレールのなかで見る。早く孫たちに会ってお土産を渡したい。
2013年6月11日火曜日
KBS WORLD「国楽の世界へ」 霊山斎
KBS WORLD「国楽の世界へ」は、先週水曜日(6/5)に、文化的なキーワードに基づく韓国文化シリーズの第9回として、仏教儀式のひとつである「霊山斎(ヨンサンジェ、영산재)」について紹介された。今回は、待望の「霊山斎」だ!
(本ブログ関連:"霊山斎")
まず行事としての霊山斎について次の紹介から始まった。
・「6・25」と呼ぶ「朝鮮戦争」(1950年6月25日~1953年7月27日休戦)の厳しい困難を乗り越えて今があるのは、命をささげた人々のためとして、6月6日を記念日「顕忠日」としている。政府が記念式典を開き、国立墓地である顕忠院を参拝する。
・新村にある太古宗(태고종)の本山奉元寺(봉원사)は、伝統的仏教儀式のひとつである「霊山斎」を6月6日に行なう。霊山斎は、霊魂の冥福や極楽往生を祈願する儀式で、古く歴史を持ち、独特な音楽と踊りを持つ。2009年、ユネスコ無形文化遺産に登録された。
▼霊山斎の音楽を現代風にアレンジした一曲「香を焚く」を聴く。・・・今様で、軽快で。
霊山斎での梵唄の来歴について次の解説があった。
・霊山斎の「梵唄(ボムペ、범패)」は、釈迦と歴代高僧の言葉を歌詞とするため、歌というよりは念仏に聞こえる。1500年余り前、インド仏教音楽がシルクロードを経由して中国、韓国に伝えられた。梵唄は、インド伝来の歌の意がある。
・当初、梵唄は特別な人々の間で伝承されたが、統一新羅時代、真鑑(진감)禅師(774年~850年)が唐に留学して新しい形の梵唄を学んだ結果、広く歌われようになった。
・梵唄は、専門的に学んだ僧侶だけが歌えるもので、歌詞を長く伸ばすのが特徴。例えば、霊魂を明るい道へ引導し、「引路王菩薩(인로왕보살)」を呼び寄せるために「南無大聖 引路王菩薩(나무대성인로왕보살)」を歌うとき、この9文字の歌詞に一時間ほどかける。南無(나무)の二文字に15分くらいで、発音はもはや意味を成さず、「あぁ、えぇ」といい母音を長く伸ばす。これにメロディーと長短(リズム)を付けて長吟する。高度な集中力が必要なため、梵唄を歌う僧侶は、歌うこと自体ひとつの修練と考える。
▼「南無大聖 引路王菩薩」の中から一部を聴く。聞くというよりは、ことばの響きやうねりを自己に同一化することなのだろうか。
霊山斎での舞について次の紹介があった。
・仏教儀式の舞踊は「法鼓(법고)」と呼ばれ、4つの代表的踊りがある。
- 小さな太鼓をたたきながら踊る「法鼓舞」
- インド伝来の楽器の鈸羅(バラ)を持って踊る「鈸羅舞」
- 蝶のようにひらひら揺れる美しい服を着て踊る「胡蝶舞」
- 悟りを開くための道を示す「打柱舞」
・霊山斎は本来、亡くなった人の冥福を祈るための儀式だが、それ以外にも、この世に彷徨う霊魂を始め、儀式の場に集まったすべての人々、そして動物や虫たちに至るまで、釈迦の言葉を聞いて悟りを開かせるという大きな意味を持つ。幼虫が殻を脱ぎ捨て蝶となるように、苦悩から抜け出し、解脱の境地に至るようにという、釈迦の慈悲そのものという。
▼霊山斎で踊られる鈸羅舞の際に演奏される「千手鈸羅(천수바라)」を聴く。
(参考)奉元寺の霊山斎での千手鈸羅
(Youtubeに登録のjajimalgobojiに感謝)
(本ブログ関連:"霊山斎")
まず行事としての霊山斎について次の紹介から始まった。
・「6・25」と呼ぶ「朝鮮戦争」(1950年6月25日~1953年7月27日休戦)の厳しい困難を乗り越えて今があるのは、命をささげた人々のためとして、6月6日を記念日「顕忠日」としている。政府が記念式典を開き、国立墓地である顕忠院を参拝する。
・新村にある太古宗(태고종)の本山奉元寺(봉원사)は、伝統的仏教儀式のひとつである「霊山斎」を6月6日に行なう。霊山斎は、霊魂の冥福や極楽往生を祈願する儀式で、古く歴史を持ち、独特な音楽と踊りを持つ。2009年、ユネスコ無形文化遺産に登録された。
▼霊山斎の音楽を現代風にアレンジした一曲「香を焚く」を聴く。・・・今様で、軽快で。
霊山斎での梵唄の来歴について次の解説があった。
・霊山斎の「梵唄(ボムペ、범패)」は、釈迦と歴代高僧の言葉を歌詞とするため、歌というよりは念仏に聞こえる。1500年余り前、インド仏教音楽がシルクロードを経由して中国、韓国に伝えられた。梵唄は、インド伝来の歌の意がある。
・当初、梵唄は特別な人々の間で伝承されたが、統一新羅時代、真鑑(진감)禅師(774年~850年)が唐に留学して新しい形の梵唄を学んだ結果、広く歌われようになった。
・梵唄は、専門的に学んだ僧侶だけが歌えるもので、歌詞を長く伸ばすのが特徴。例えば、霊魂を明るい道へ引導し、「引路王菩薩(인로왕보살)」を呼び寄せるために「南無大聖 引路王菩薩(나무대성인로왕보살)」を歌うとき、この9文字の歌詞に一時間ほどかける。南無(나무)の二文字に15分くらいで、発音はもはや意味を成さず、「あぁ、えぇ」といい母音を長く伸ばす。これにメロディーと長短(リズム)を付けて長吟する。高度な集中力が必要なため、梵唄を歌う僧侶は、歌うこと自体ひとつの修練と考える。
▼「南無大聖 引路王菩薩」の中から一部を聴く。聞くというよりは、ことばの響きやうねりを自己に同一化することなのだろうか。
霊山斎での舞について次の紹介があった。
・仏教儀式の舞踊は「法鼓(법고)」と呼ばれ、4つの代表的踊りがある。
- 小さな太鼓をたたきながら踊る「法鼓舞」
- インド伝来の楽器の鈸羅(バラ)を持って踊る「鈸羅舞」
- 蝶のようにひらひら揺れる美しい服を着て踊る「胡蝶舞」
- 悟りを開くための道を示す「打柱舞」
・霊山斎は本来、亡くなった人の冥福を祈るための儀式だが、それ以外にも、この世に彷徨う霊魂を始め、儀式の場に集まったすべての人々、そして動物や虫たちに至るまで、釈迦の言葉を聞いて悟りを開かせるという大きな意味を持つ。幼虫が殻を脱ぎ捨て蝶となるように、苦悩から抜け出し、解脱の境地に至るようにという、釈迦の慈悲そのものという。
▼霊山斎で踊られる鈸羅舞の際に演奏される「千手鈸羅(천수바라)」を聴く。
(参考)奉元寺の霊山斎での千手鈸羅
(Youtubeに登録のjajimalgobojiに感謝)
2012年4月7日土曜日
KBS WORLD「国楽の世界へ」 李銀珠
KBS WORLD放送の「国楽の世界へ」は、今週水曜日(4/4)に、人物シリーズ22回目として「京畿民謡(경기민요)の名人、"銀のお盆の上で玉を転がすような声"という代名詞で呼ばれているほどの美声の持ち主の李銀珠(이은주、1922年~)」を紹介した。
(本ブログ関連:"民謡"、"民謡(続)")
▼李銀珠の歌による「離別歌(이별가)」を聴く。ソウルに近いからというわけではないが、どこかスマートで伸びやかさを感じる。・・・・内面的な理解までは。
次のように李銀珠のプロフィールが紹介された。
・1922年 京畿道楊州に生まれる。(本名、李潤蘭(이윤란))
・14歳で京畿民謡大家の元慶兌(원경태)門下に入る。李銀珠の芸名を授かる。
・1942年 20歳で京城放送局と専属契約を結ぶ。
・李昌培(이창배)の下で後輩の指導にあたる一方で、積極的な音楽活動をする。
・1975年 京畿民謡の芸能保有者(重要無形文化財第57号)として選定される。
▼李銀珠ほかの歌による「ノドル江辺(노들강변)」(1934年、パク・ブヨン(박부용))を聴く。新民謡なんだね明るいな、すいすいと前向きな、水辺の柳が春風に揺れて・・・。
▼李銀珠ほかの歌による「回心曲(회심곡)」(歌詞)を聴く。太古宗奉元寺の霊山斎(「和請」)のCDでも聞いたが、女性ながら太く芯のある声に驚く。経文ではなく民謡の要素が強いとのこと、人生を宗教的に省みて俯瞰することにつながるのかな・・・。
(歌詞:ブログ「花の世 国楽芸術団」より。感謝。)
(本ブログ関連:"(資料)霊山斎、奉元寺")
(余聞)
以前、地元駅そばにあった韓国家庭料理店の名前が「ンジュ(銀珠)」だった。今は、「明洞」の名になっているが・・・家庭料理店らしいメニューと雰囲気は変わらない。
(本ブログ関連:"昼さまざま"、"明洞")
(本ブログ関連:"民謡"、"民謡(続)")
▼李銀珠の歌による「離別歌(이별가)」を聴く。ソウルに近いからというわけではないが、どこかスマートで伸びやかさを感じる。・・・・内面的な理解までは。
次のように李銀珠のプロフィールが紹介された。
・1922年 京畿道楊州に生まれる。(本名、李潤蘭(이윤란))
・14歳で京畿民謡大家の元慶兌(원경태)門下に入る。李銀珠の芸名を授かる。
・1942年 20歳で京城放送局と専属契約を結ぶ。
・李昌培(이창배)の下で後輩の指導にあたる一方で、積極的な音楽活動をする。
・1975年 京畿民謡の芸能保有者(重要無形文化財第57号)として選定される。
▼李銀珠ほかの歌による「ノドル江辺(노들강변)」(1934年、パク・ブヨン(박부용))を聴く。新民謡なんだね明るいな、すいすいと前向きな、水辺の柳が春風に揺れて・・・。
▼李銀珠ほかの歌による「回心曲(회심곡)」(歌詞)を聴く。太古宗奉元寺の霊山斎(「和請」)のCDでも聞いたが、女性ながら太く芯のある声に驚く。経文ではなく民謡の要素が強いとのこと、人生を宗教的に省みて俯瞰することにつながるのかな・・・。
(歌詞:ブログ「花の世 国楽芸術団」より。感謝。)
(本ブログ関連:"(資料)霊山斎、奉元寺")
(余聞)
以前、地元駅そばにあった韓国家庭料理店の名前が「ンジュ(銀珠)」だった。今は、「明洞」の名になっているが・・・家庭料理店らしいメニューと雰囲気は変わらない。
(本ブログ関連:"昼さまざま"、"明洞")
2017年7月25日火曜日
水晶果
冷たい飲み物に多種多様ある。韓国の庶民の味で、好みは「バナナ牛乳」だが、日本の店頭で見かけたことがない。乳製品の性質上、輸入販売できないという・・・そんな理由を聞いたことがある。
缶入り飲み物では、「水晶果*(수정과)」が喉ごしがいい。自販機から取り出して飲むと、冷たくて、シナモンの香りが広がり美味い。この作り方を、Youtubeにいくつも紹介がある。驚いたのは、材料の「シナモン」すなわち「ニッキ」/「桂皮」が、乾燥した皮であり、そのまま使用していることだ。てっきり粉末状にしたものと思っていたからだ。
(* 水晶果: 正式には「水生果」のようだ。鉱物趣味にとっては、「水晶果」の方がいいのだが)
① シナモンの皮を水で煮込むと茶色の液体になる。
② 別途、生姜のスライスを水煮する。
③ これら、①と②を混ぜ合わせ、(無漂白)砂糖を加えれば煮汁ができあがる。
④ 最後に、柔らかな干し柿をカップに置き、上記③の煮汁を足して冷やせば完成。
以前、ソウルの延世大学の近くにある「奉元寺」(太古宗: もしかして、イ・ソンヒの父親と縁があるのではないかと思い)を訪れたとき、< 境内に「玉泉梵音大学と霊山斎保存会」の名を記した建物があり、茶室でボランティアの方に水晶果をいただき、干し柿のサービスを受けた > ことがある。
暑い夏に、甘い香りなのに、きりりと引き締める、冷たく冷やした「水晶果」はかかせない。
缶入り飲み物では、「水晶果*(수정과)」が喉ごしがいい。自販機から取り出して飲むと、冷たくて、シナモンの香りが広がり美味い。この作り方を、Youtubeにいくつも紹介がある。驚いたのは、材料の「シナモン」すなわち「ニッキ」/「桂皮」が、乾燥した皮であり、そのまま使用していることだ。てっきり粉末状にしたものと思っていたからだ。
(* 水晶果: 正式には「水生果」のようだ。鉱物趣味にとっては、「水晶果」の方がいいのだが)
① シナモンの皮を水で煮込むと茶色の液体になる。
② 別途、生姜のスライスを水煮する。
③ これら、①と②を混ぜ合わせ、(無漂白)砂糖を加えれば煮汁ができあがる。
④ 最後に、柔らかな干し柿をカップに置き、上記③の煮汁を足して冷やせば完成。
以前、ソウルの延世大学の近くにある「奉元寺」(太古宗: もしかして、イ・ソンヒの父親と縁があるのではないかと思い)を訪れたとき、< 境内に「玉泉梵音大学と霊山斎保存会」の名を記した建物があり、茶室でボランティアの方に水晶果をいただき、干し柿のサービスを受けた > ことがある。
暑い夏に、甘い香りなのに、きりりと引き締める、冷たく冷やした「水晶果」はかかせない。
2012年1月22日日曜日
KBS WORLD「国楽の世界へ」 松庵和尚
KBS WORLD放送の「国楽の世界へ」は先週水曜日(1/18)に、人物シリーズ11回目として仏教音楽(梵唄(범패))の伝承に力を尽くした、松庵(송암)和尚(1915年10月14日~2000年2月1日)を紹介した。
僧侶の父を持ち、分野は異なるが音楽の道に進んだ点で、イ・ソンヒの親子関係を思い出させる。イ・ソンヒにからめて、梵唄に興味があるだけに、松庵和尚についても知ることができた。感謝。
(本ブログ関連:"梵唄"、"ソウル4日目:奉元寺")
仏教が生活の一部とも言えた時代の紹介から始まった。
▼松庵和尚による「合掌偈(합장게)」を聴く。合掌以為花/身為供養具/誠心真実相/讃嘆香煙覆
梵唄について次の通り紹介された。
・「梵」とはインドの古代言語という意味を持ち、「唄」とは歌または声といった意味を持つ。
・梵唄の起源は遠くインドにあり、仏の功徳を賞賛する内容。
・霊山斎(亡くなって49日目に開かれる祭礼=法要)など、特別な儀式で聞くことができる。
・霊山斎後半に、韓国語で分かりやすく解説する歌「和請(화청)」がある。
▼松庵和尚による「和請」を聴く。以前も聴いたもので、声も張りがあって馴染みやすいものになっている。
次のように松庵和尚のプロフィールが紹介された。
・1915年 ソウル新村奉元寺にて誕生。
・1933年 奉元寺にて出家。
・梵唄一曲覚えるのに何ヶ月もかかるのが普通のところ、一日で覚えてしまうこともあったという。
・太古宗(태고종)の本山奉元寺(봉원사)に、「霊山斎保存会」を設立する一方、梵唄を専門的に勉強するための「(玉泉)梵音大学」まで開校するなど、梵唄伝承のための大きな土台を築く。
▼安翡翠による「悔心曲」(回心曲)を聴く。「和請のうち特定の歌詞を持つものだけを回心曲と呼ぶ」そうだが、ますます民謡風で聞きやすい。
最後に、梵唄は風流音楽や歌曲などに影響を与えたと語られた。
(参考1)
漢字名に、「松庵」とは別に「松岩(巖)」がある。また祖父が、朴泳孝(박영효)という記述がある。
(ブログ「bluekayetgo」参照)
(参考2)
2005年度「韓国の宗教人口の分布」(KBS)によれば、国民人口の53.1%が宗教を持っている。宗教人口のうち、仏教徒が43.0%、キリスト教徒が55.1%(プロテスタント34.5%、カトリック20.6%)である。
(統計庁人口総調査による)
(参考3)
松庵僧侶のCD「常住勸供(상주권공)」紹介に詳細な解説あり。
僧侶の父を持ち、分野は異なるが音楽の道に進んだ点で、イ・ソンヒの親子関係を思い出させる。イ・ソンヒにからめて、梵唄に興味があるだけに、松庵和尚についても知ることができた。感謝。
(本ブログ関連:"梵唄"、"ソウル4日目:奉元寺")
仏教が生活の一部とも言えた時代の紹介から始まった。
▼松庵和尚による「合掌偈(합장게)」を聴く。合掌以為花/身為供養具/誠心真実相/讃嘆香煙覆
梵唄について次の通り紹介された。
・「梵」とはインドの古代言語という意味を持ち、「唄」とは歌または声といった意味を持つ。
・梵唄の起源は遠くインドにあり、仏の功徳を賞賛する内容。
・霊山斎(亡くなって49日目に開かれる祭礼=法要)など、特別な儀式で聞くことができる。
・霊山斎後半に、韓国語で分かりやすく解説する歌「和請(화청)」がある。
▼松庵和尚による「和請」を聴く。以前も聴いたもので、声も張りがあって馴染みやすいものになっている。
次のように松庵和尚のプロフィールが紹介された。
・1915年 ソウル新村奉元寺にて誕生。
・1933年 奉元寺にて出家。
・梵唄一曲覚えるのに何ヶ月もかかるのが普通のところ、一日で覚えてしまうこともあったという。
・太古宗(태고종)の本山奉元寺(봉원사)に、「霊山斎保存会」を設立する一方、梵唄を専門的に勉強するための「(玉泉)梵音大学」まで開校するなど、梵唄伝承のための大きな土台を築く。
▼安翡翠による「悔心曲」(回心曲)を聴く。「和請のうち特定の歌詞を持つものだけを回心曲と呼ぶ」そうだが、ますます民謡風で聞きやすい。
最後に、梵唄は風流音楽や歌曲などに影響を与えたと語られた。
(参考1)
漢字名に、「松庵」とは別に「松岩(巖)」がある。また祖父が、朴泳孝(박영효)という記述がある。
(ブログ「bluekayetgo」参照)
(参考2)
2005年度「韓国の宗教人口の分布」(KBS)によれば、国民人口の53.1%が宗教を持っている。宗教人口のうち、仏教徒が43.0%、キリスト教徒が55.1%(プロテスタント34.5%、カトリック20.6%)である。
(統計庁人口総調査による)
(参考3)
松庵僧侶のCD「常住勸供(상주권공)」紹介に詳細な解説あり。
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