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2013年6月8日土曜日

御栗林

当地は江戸時代に、新田開発された、南に野川を臨む武蔵野の丘陵地のため、水田のような水利に恵まれず、農産物として主に陸稲や麦などが生産された。他にも栗の林が造られ、当時の徳川幕府に献上されたという。その意味で、歴史的に栗の産地であり、今なお生産されているが名産地として知られていないようだ。

現在、近所のそこかしこに栗林が未だあって、その管理状況を見ると、個々生産者の性格が感じられておもしろい。小学校近くの栗林は、とても管理が行き届いて、見ていてすがすがしい。あるとき、高齢の方が作業しているのを見かけたことがあるが、厳とした気風を遠くから感じた気がした。今日も見事に花を咲かせている。

ところで、小学校の門の前に史跡「御栗林跡」の掲示板が置かれていて、栗林の来歴を次のように記している。(要約)
・武蔵野新田世話役として活躍した川崎平衛門定孝は、元文年間(一七三六~一七四一)、十町二反歩(約十万二千平方メートル)に及ぶ「御栗林」を造り、武蔵野新田十か所に管理を任せた。
・精選した二千粒を幕府に献上し、残りを食料として「十ヶ新田」の他、付近の三十四の新田に配った。
・御栗林は、嘉永五年(一八五二)に大規模な補修が行なわれ、明治初年まで続いた。現在、地元の公園や通りにその名を残している。

(余談)
江戸の農家に生まれた二男、三男は養子になるか、家付きのままに終わるか、それとも水はけのよくない新田開発にチャレンジするか・・・そうして武蔵野新田が生まれた。