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2016年7月25日月曜日

江戸時代の寺子屋

近隣の公共施設で、先週と今週の2回に分けて、江戸時代の寺子屋(ほぼ幼稚園から小学校に相当)について講演があった。「江戸時代の庶民教育と現代 - 『寺子屋の学び』から学ぶ -」のタイトルで、江戸東京博物館学芸員の市川寛明氏のお話しを聴講した。① 江戸時代に来訪した外国人を通して見た児童教育。② 史実としての寺子屋教育の実体。③ 寺子屋教育の考え方が、明治に入って継承されたかどうかという話題だ。以下、素人耳の理解である。

① 江戸時代に訪れた外国人の目に映った日本の児童教育のスタイルが、子どもを鞭で打って躾けるヨーロッパのスタイルと大いに違い、江戸庶民は子どもたちに対して厳しい体罰をしなかったと記している(C.P.シュンベリー)。多くの外国人の紀行文書に、日本人のあらゆる階級の男女、子どもまでもが読み書きできることに驚いている(ラナルド・マクドナルド)。

② 寺子屋でも同様で、基本的にマン・ツー・マン指導をしながら、他の子どもたちの行動は自由放任したようだ。一斉教育でない、子どもひとりひとりにカリキュラムを持った寺子屋教育は、朱子学的性善説(徳を磨く)に根ざしている。しかし、結果として教育の成果は、士農工商の範囲に留まり、それを突破するには明治時代の教育制度を待たねばならなかった。なお、寺子屋の数は、16,500ヵ所(その10~30倍との推計もある)、使用された教科書は、「往来物」で300~500版種あった。

③ 江戸時代の寺子屋は、階層を度外視した教育制度であるが、あくまで手習い所(読み書き主体)であった。それは近代化を支える教育の高さ、底力に通じた。しかしながら、国民国家となった明治期の教育は、寺子屋教育の緩さとは反対に、能力主義であり国民教育だった。

江戸時代の寺子屋教育と明治時代の国民教育が、それぞれの特性を左右に揺らしながら日本の教育制度を進展してきたように見える。江戸以来の庶民の子育てや教育観の層の厚さが、この揺れの支点となるだけの確かさを持ち合わせているようだ。日本人の教育観に、大袈裟にいえば、通底するするものがあるようだ。


(付記)
時代を解釈するのに、現在から見るのは当然だろうけれど、大きな節目や変転があったとき、それ以前を説明する或る意志が働いていることに、気付かずにいるかもしれない。江戸期を見るに、明治維新政府の意図が大いにあったろうし、明治から太平洋戦争までを見るに、戦後に投入勃興した解釈を無視できないだろう。だからこそ、時代の底を通じて流れるものを見つけるのも必要な気がする。