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2017年7月7日金曜日

ひまわりとミツバチ

夏を思わせる昼過ぎ、近所の「ひまわり畑」に寄る。腰丈ほどの小型のひまわりが畑を黄色に染めていた。郊外の宅地の間に残った農地ゆえ、映画「ひまわり」のシーンに見る圧倒的な光景とは違うのはいうまでもない。でも、畑地の横を通り過ぎる人びとは、しばし歩を休めて黄色の群生に目を向けていた。

(本ブログ関連:”ひまわり”)

考えてみれば、ひまわりの花弁の構造を正確に言いあてられない。太陽のプロミネンスのように外周に広がる花弁と、まさに核融合の連鎖を繰り広げるように中央に密集する花弁がある。外側の花弁を「舌状花」、内側の密集する花弁ひとつずつを「管状花」と呼ぶ・・・そうだ。

花弁の名称の違いは、行きずりの観察者にとっても、蜜をさがすものにとっても知らぬことだろう。でも、太陽の陽射しを受けて、花弁に食い入るものたちには共感がある。(一方的かもしれないが)そんな気にさせる。

ひまわり畑にみつばちが訪れていたのだ。彼らは、春先から花蜜を求めてせっせと働いていたに違いない。そんなみつばちの存在を忘れていたことに気付き、自然の営みに気付き、生命への畏怖というか、なぜか申し訳なく思う自分の存在にようやく気付いた。

画面をクリックするとみつばちが見えてきます

七夕 小暑 2017

昨日の帰宅道、母親の自転車に乗った子どもたちと随分すれ違った。母子が会話を楽しんでいる光景はいつもと変わらないが、なぜか子どもたちが小さな笹竹を大事そうに抱えていたのだ。

そうか、きょうは、「七夕」だ。昨日の母子は、星に向かってする願いごと(七夕の短冊)を話題にしていたのだろう。それに、二十四節気の「小暑」でもある。九州地方の豪雨災害を免れた当地は、梅雨とはいえ、本格的な暑さを経験している。今週土曜日までこの空模様が続くという。

(本ブログ関連:”七夕”、”小暑”)


突然だが、「老害」について語ってみたい。歳を十分重ねても地位に連綿するさまだ。過去の「成功体験」にこだわって、時代にそぐわぬ発言をする人物を思い浮かべるかもしれない。確かに大きな老害の一つだが、もう一つある。過去の失敗を履き違えて、幻想の城を築き篭城したものたちだ。まさに、その「虚城」から出撃を繰り返し、中には、海外に移住して、伝道師の如く舞い戻って来るものもいた。

若者たちが置かれる時代と運命を共にし、担うことができない存在と覚ったとき、舞台から退くべきだろう。そして、トタン屋根がぼろぼろに錆びて朽ち果てる前に、一線を去るべきだ。市井のひとびとは、自然にそれを受け入れて後進に譲ってきた。老害といわれるのは、そのチャンスを失ったことだ。発言するものにはそれを見極める責任がある。

「成功体験」を持ったことも、「虚城」に籠り続けたわけでもないけれど、ひとなみに老いを感じれば、老犬の毛並みがやつれているのに心痛めるように、老害についても気掛かりである。高齢化社会で、立ち位置を見誤ると、若者たちのあるべき場所、いや運命まで奪いかねない。

七夕の若い男女の願いを彼方から見守るように、時代への余裕が欲しいものだ。