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2014年1月31日金曜日

旧正月

今日で1月が終わり、あっという間に今年の12分の1を食ってしまった。時が過ぎるのを、消化に例えるとあっけない。まるで食いちぎったように消え去ってしまったよ。

太陽暦の西暦2014年の元旦に、まさに新年を迎えたつもりでいたし、新しい空気を感じたが、旧暦でみれば昨年の12月1日でしかなかった・・・けれど。そして今日、やっと旧暦の新年である旧正月を迎えた。

今日、旧暦ながら新年の香りを探したが何にもない。きわめて淡々と日常が終わった。五感に訴えるような変化を感じない。街には平日しかなかった・・・当たり前だ。

旧暦の正月行事など当然ないけれど、日常に探すと、このところストーブがうっとおしくなってきたかな。そして、日没が徐々に遅くなっているのに気付く。気候に小さな変化を見つけることができる。

寒中に感じる正月がよいか、それとも寒暖の緩みに感じる正月がよいか。まっ、どっちでもいいけれど。

それよりも、このところ、日めくりカレンダーの日めくり作業がルーズになってきたなあ。3日分まとめてはがすなんてこともある・・・カレンダーが目の前にあっても気にもならないなんて。

2014年1月30日木曜日

STAP細胞って?

STAPって、SMAPじゃないよね・・・そんなわけはない。凄い発見だそうだで、同じ「命」とか「細胞」を持っているだけに、何となく分かったような気がしてくるが、本当はよくわからない。いっそ、素粒子のような世界なら、ただ受身一方でうなずくだけで済むのに。

今回の発見は、生命科学を究めるのにつながるだけでなく、医療分野への適用もあって、マスコミが大騒ぎして、わかったような気にしてくれるのはありがたい。

発見者のいうように、「数十年後、百年後」を見据えた長期的な視野の研究で、将来が期待される。それまで待っていよう・・・私の命では間に合わないって?・・・それも、いいじゃないですか。

研究リーダーの小保方(おぼかた)晴子さんは、何と30歳という若い女性だ。テレビで見る彼女は、率直な物言いでしっかりしているのだろうけど、どこかお嬢さんのような純な感じもする。可愛らしいね。
研究室は、全員が女性だそうで、壁色にいろいろあり、童話の「ムーミン」のキャラクターたちが描かれている。おまけに、ペットに亀のスッポンまで飼っているという。
うれしいことに、彼女の研究スタイルは、いわゆる白衣ではなくて、お祖母さんからの由来の「かっぽう着」だ・・・ますます、おじさんファンが増えるというもの。うれしいね。

それにしても、かつて彼女の論文を酷評した「Nature」誌の評者(論文審査員?)の面々は、今ごろ赤面していることだろう・・・と、どこか溜飲下げたように気になるが、結局はよく分からない。Natureさんにも、ごめんなさい。

すぐに科学雑誌「Newton」で特集が組まれることだろう。iPS細胞、STAP細胞など、比較した分かり易い絵解きを見よう、そしてその気になろう。楽しみだ。

イ・ソンヒの「思い出のページをめくれば」

イ・ソンヒの、6集所収の「思い出のページをめくれば(추억의 책장을 넘기면)」(1990年)の映像はネット上で数々見てきたが、秋の枯葉が敷き詰められた木々の下で彼女が歌う珍しいビデオがYoutubeに登録されている。やわらかな西陽に照らされながら、いかにも彼女らしいズボン・スタイルで、樹間を歌い逍遥する。音量がやや小さいが、それを次に埋め込む。

(本ブログ関連:”Youtubeでイ・ソンヒを見たという友に返信”、”イ・ソンヒの「思い出のページをめくれば」”)

Youtubeに記載の<概要>によれば、MBCテレビの音楽番組「土曜日土曜日は楽しくて(토요일 토요일은 즐거워)」(357回、1993年8月21日)のもので、画面表示に、撮影場所は、ソウル市北東にある京畿道抱川市に位置する「光陵樹木園(광릉수목원)」(現「国立樹木園(국립수목원)」)としている。撮影は1990年10月、ちなみに6集アルバムは同年8月20日リリースしている。
(登録者:MBCfestival

 

2014年1月29日水曜日

(資料)イ・ソンヒのスター・ストーリー「11.私の華麗な事件」

先日(2013/9/27)、「スポーツ韓国」の紙面(1991年3月8日~4月5日)に連載された「イ・ソンヒ27歳当時のスター・ストーリー」記事の目次を紹介したが、その第11回目をここに載せたい。感謝。

イ・ソンヒの、音楽以外の側面での慈善活動や、詞に政治的なテーマと取り組む試行など、あるいは彼女のファン層について知ることができた。

(本ブログ関連:”(資料)イ・ソンヒ(27歳当時)の「スター・ストーリー」”、”資料:이선희 Profile”)

[11] 私の華麗な事件
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時折、このような質問をする人がいる。「同じ歌、何度も歌ってたらウンザリしない?」

そのような問いに触れると本当にあきれる。私は、私が好む歌をその時その時の気持ちと舞台の雰囲気に合わせて歌うことがとても楽しくて、その独特の雰囲気を「満喫」しているからだ。

「炎のように(불꽃처럼)」のようなダンスミュージック風の歌も入っているが、ポップ・バラードが中心である5集アルバム(1989年)は、私が歌手デビュー後、ぴったり5年ぶりに出た。このアルバムの最高人気曲は「私の街(나의 거리)」。放送とDJ人気チャートで、2ヶ月以上頂上に留まった歌だ。

5集で格別に愛着がある曲は、「五月の陽射し」である。「5月の光州の英霊」*たちを考えて、私が歌詩を書いた。少なくとも、国民の愛(支持)を受ける歌手ならば、私たちの社会の痛みに「他人任せ」していることはできないと思った。この歌は、大学街のデモの時も「愛唱」されたし、光州のローカル放送では10週連続1位に留まったりもした。だが、一つ物足りなさは残る。私が直接行ってみた光州を素材で映像ビデオを製作しようとしたが、色々な理由で失敗に終わってしまった苦々しい記憶のためだ。**

    (*)5月の光州の英霊: 1980年5月の光州事件参照
    (**)イ・ソンヒは、善意から政治に関わった経緯があるが振幅もあって、現在は遠ざかっているようだ。

1989年6月には、香港3MGレコード社で「これがオリジナルソングだ」*というディスクが出た。ホイットニー・.ヒューストンなどそうそうたる歌手10人が、自身のヒット曲を収録したアルバムだ。アジアでは私が「代表選手」に選ばれたけれど、チョー・ヨンピル先輩が抜けたという事実が、当時にはちょっと面食らってしまった。

    (*)「これがオリジナルソングだ」: 企画アルバムのようだが詳細不明(ジャケット写真:感謝)

しばしば、イ・ソンヒのファンは少女層が大部分であると知られているが、それは事実と違う。1990年7月のある世論調査結果を見ると、男子大学生の24%、女子大生の15%が私を「最も好きな歌手」と挙げたのだ。その調査で、男性歌手ではチョン・テチュン氏が1位であり、私は女性歌手の中で人気1位だった。

(人気)数字だけ次々並べて見ると、ちょっと目まぐるしい気がする。とにかく、私のレコードは男性がたくさん探して、カセットは女性ファンがたくさん買ったそうだ。職場の趣味サークルの内では、男性中心の同好者の集いで私をよく招待する方だ。

昨年の春(1990年4月)、ミュージカルに出演したことがある。世宗文化会館で幕を上げた「オズの魔法使い」の主人公「ドロシー」役だった。ドロシー役は、米国ではダイアナ・ロスが引き受けたとか。とても手に余る舞台であった。

スカートを着て靴をはいたまま、幕間ごとに明かりの消えた舞台裏を飛び回ったら、台詞をいうたびに息があがってフウフウしなければならなかった。また、緊張の連続だったので、体と心が別々に動いた感がなくはない。気球に乗って帰宅する最後の場面では、靴のかかとに装着された豆電球に点灯しなくて慌てたりもした。確かにかかとをぶつければ明かりが「パッ」と入ってくることになっていたが・・・分かってみれば、あちらこちら暴れる(?) 間に、つながれた電線が切れてしまったのだ。

何も知らずに飛びまわったミュージカルを通じて、私は多くのことを悟った。中学2年生だった末っ子の弟(妹?)*が生まれて初めて私の姿を見に公演会場にきて、また非常に不思議に思った。漫画の映画やビデオでは味わうことが出来なかった夢と希望を感じたと言った。「ずっと大きな」子がそうなのだから、まして子供たちが・・・

    (*)イ・ソンヒは長女で、弟とさらに2人のきょうだい(男?女?)がいる。

公演練習のために、放送出演など私の「生業」が支障をきたすことになって、公演後遺症で病んで横になることが心配だけれども、私は今春にもミュージカル「ピーター・パン」に出演する。ズボンではないが、草色のタイツを着た万年少年のピーター・パンの役に。

体が「パキムチ(葱キムチ)」*になれば、いいのだが。私には、万病に効く、薬のような参鶏湯(サムゲタン)一杯あれば軽く「元気回復」するのを・・・

    (*)葱キムチ: 疲労回復に効能があると、ネット上に記述ある。

ミュージカルにすっぽりはまってみると欲が出る。子どもと青少年に夢と希望をあたえる専用の文化空間をたてたいのだ。それで、今でも日本や米国など外国の資料をこまめに集めている。合わせて、誰かが「コンチュイ・パッチュイ」*など、私たちの話をミュージカルで脚色してくださるように祈る。

    (*)忘れ形見の娘コンチュイが継母とその娘パッチュイにいじめられるが幸せをつかむ。(シンデレラと似る)

また、学生家長と進学できない不遇な青少年のための奨学財団の設立も着々進行中だ。隠れてしようとしたことなのに、つい言論(マスコミ)に「見つけられて」'しまった。全国から多くの方々が寄付を送ってくださるが、ほとんど送り返している。例外は、ぴったり二件、①同じことなら障害者も助けようと直接お金を持って訪ねてこられたある障害者の寄付と、②自身も豊かではないスーパーマーケット女性従業員が寄託された「大金」の百万ウォンは、お二方の勢いがあまりにも「みなぎ」って、どうにもならなく「受付」してしまったのだ。

昨年秋(1990年10月)には、カナダのモントリオール室内管弦楽団と共演した。あの「敷居の高い」世宗文化会館大講堂で。その楽団が著名な外国クラシックオーケストラではなかったとしたら、私一人で世宗文化会館の舞台に立つということが可能だったのだろうか? ほろ苦い。また、私が望んだことは、外国楽団でない私たちのオーケストラであった。しかしながら、伴奏はできないというのだから、私だってどうすることができようか。

昨年の春(1990年4月)には詩集も出版して、詩朗唱会も持った。「去る者だけが愛を夢見ることができる(떠나는 자만이 사랑을 꿈 꿀 수 있다)」という自作詩集であるが、大型書店のベストセラー詩集部門1位に上がったりした。元老詩人の趙炳華(チョ・ビョンファ、조병화)先生は「きれいな露をうける小さい野草のような詩・・・繊細で愛らしい詩語・・・」と過分な評をしくださったりもした。

だが、詩をもって、話したい言葉を全て語ることが少し難しかったので、今年の末か来年の初め頃、私の考え、私の生活を書いたエッセイ集*を出そうと思う。

    (*)エッセイ集: 未確認

昨年の初冬には、哲学者金容沃(김용옥)教授と東国大講堂で「デュエット」で歌ったことがある。曲目は「美しい江山」、金教授の招待で行われた突然この日舞台は、私の歌が主でなく、東洋哲学の講義が目的だったが、教授は「芸術はすべからく大衆と近づかなければならない」という信念で、私を講壇上に呼び出したのだった。金教授はまた、私にまるで詩のようでもあって、幽玄な哲学のようでもある歌詞を二編もくださった。
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2014年1月28日火曜日

KBS WORLD「国楽の世界へ」 鷹狩り

KBS WORLD「国楽の世界へ」は、先週水曜日(1/22)に文化的なキーワードに基づく韓国文化シリーズの第40回として、「鷹狩り(매사냥)」にまつわる話を紹介した。

まず始めに雉猟に関わる諺について次のような紹介から始まった。
・諺に「雉の代わりに鶏(꿩 대신 닭)」がある。同様に「歯がなければ歯茎で(이가 없으면 잇몸으로)」もあって、必要な物がなければ他で代替する意だ。昔、餅の雑煮(トックク)に雉肉(現在は牛肉)を入れた。農耕社会で不可欠な牛肉を食べるのは難しく、雉肉は味もよく、また天からの使者として縁起よい鳥とされた。そこで新年を迎えて雉肉を食し、天の気運を頂く思いがあったが、捕えるのが難しい雉の代わりに鶏を使った。
・そうした風習から、旧正月目前に、雉を捕まえに寒い山に入る者が大勢いた。このときの猟師の猟法が鷹狩りだった。

▼ 「雌雉打令(カトゥリタリョン、까투리타령)」を聴く。雉の鳴声に似てかまびすしく・・・山々巡る。

・この「雌雉打令」のカトリ(까투리)は雌雉を表し、羽の美しい雄雉はチャンキ(장끼)という。

次に鷹狩りに使う鳥の種類や鷹狩りの伝統について次のように解説された。
・鷹が狩るので鷹狩りという。鷹狩りに、まだ飛べぬ幼鳥から手なずけるため「大鷹(オオタカ)」か「隼(ハヤブサ)」がよいとされる。①大鷹はスピードが速く、獲物に急降下して捕まえる。鋭い嘴(くちばし)で獲物を一撃して即死させる。②隼は鋭い爪で獲物の喉笛を襲い窒息させたり、嘴で胸元を突刺す。強い鳥で空の帝王ともいう。羽の抜け変わる前の幼隼を「ボラメ」という。
・鷹狩りに手なずけた鷹を「スジニ」といい、最初の1年ほどを「チョジニ」、2年過ぎて「チェジニ」、3年ほどで「サムジニ」と呼び方を変える。勇猛で素早いチョジニが狩りに最も適している。猟師が「ウーウー」と言って森の木を揺さぶると、隠れていた雉が飛び出したのを逃さず、綱を解かれた鷹は雉めがけて飛んでいく。

▼ 「南原山城(ナムォンサンソン、남원산성)」を聴く。・・・以前聴いた陽気な歌だが、鳥の美しさ?

・狩に使う鷹の尾の飾りつけを「ペジッチェ」と呼ぶ。飾りに、飼主の名を書いた「シチミ」と、鈴が付けられる。鷹が捕えた雉肉を引裂くとき鈴が鳴る、あるいは鷹を見失っても、この音で居場所を知ることができる。
・鷹狩りは古くから楽しまれたが、百済の法(ポプ、법)王は、仏教信仰から殺傷を禁止し、狩猟用の鷹全ての解放を命じた。一方、高麗のとき、鷹を訓練させ狩専門の官庁「ウンバン」が作られた。現在、鷹狩りを楽しむ人は少ないが、伝統は受け継がれている。2010年に、モンゴル、スペイン、アラブ首長国連邦など、11カ国共同で、ユネスコ人類無形遺産に登録された。

▼ 伽倻琴(カヤグム)演奏による「Flying bird」を聴く。・・・天空を軽快に泳ぎ漂うよう、今様である。

2014年1月27日月曜日

鉱物採集では落ち木を杖にする

寒い季節のこのごろ、負荷のかかる運動といえば、毎週の健康体操と、ほぼ毎月の鉱物採集くらいしかない。そんなわけで、たまに体を動かすと、その翌日以降にジワジワと筋肉痛になる。若い頃は、このくらいの運動なら平気だった・・・のに。

昨日、鉱物採集に行った錫高野の入り口にある小さな山越えと、採集場所の沢を上がり降りしたくらいだが、今日の夕方には「ひざ」と「ふくらはぎ」が筋肉痛するが・・・。

以前は、足腰が弱まってきているのに、鉱物採集の山歩きを痩せ我慢していた。この頃は、落ち木をひろって杖代わりにするようにしている。落ち木の杖を使うと、岩の沢や急坂を登り降りするとき安定感が増す。第三の足が加わって、ふらつくことも少なくなる・・・もちろん、落ち木の杖に頼り切るのは危険と承知している。

だいぶ前のこと、幅は狭いが水流の激しい沢にかかった丸太橋を渡ったことがある。橋の長さは2m位い、太い丸木一本だけなのだ。石仲間はそれをスイスイと渡りきる。私は沢の近場に落ちていた木を探して、杖代わりにした。丸太橋を横歩きして、落ち木の杖を流れに刺して、3点で体を支えながら渡った。

最近は杖を使う習慣がついてきて、鉱物採集の山に入るときは、まず落ち木の杖を探す。

2014年1月26日日曜日

錫高野#19

1年振りの錫高野。今日で通算19回目の採集だ。寒い1月は採取場所の選択に難儀するため、通い慣れた錫高野に毎回白羽の矢が当たる。幸いなことに、今日はしっとりと湿った、しかも温暖な気配して、冬場ながら絶好の日よりだ。

(本ブログ関連:”錫高野”)

早朝、暗いなか家を出る。路面は濡れても空気穏やか、寒気を忘れたよう。始発電車に乗り込むも、暖房がうっとおしいくらい。2度の乗り換えも、駅ホームで寒風に震えることもない。そして、待ち合わせ駅でH氏の車に同乗して、錫高野へ向かう。柔らかな陽の差した薄靄の朝、冬から春へ一っ飛びしたようだ。

さすがに、錫高野入り口にあたる仏国寺の林道を抜ける風はヒンヤリする。簡易のヤッケをジャンパーにかぶせる。今回、2人組の採集者たちと出会った。一組はやる気満々おじさん組、もう一組はほんわか父娘組だ。同好の士に次々出会うのも珍しい。

現地は、一年振りのため、風景が少々変わっていた。倒木多数。掘り起こした跡がずいぶんとあるのだ。また沢斜面にあるズリの小石が、多数滑り落ちていた・・・人為的なのか気になる。

我らは、堅実というか労を惜しんで表面採集に徹する。それでも、嬉しい良品である、この地名を表す「錫石」を収集したのだ。母岩表面にキラリと輝く(茶)黒褐色の結晶が点在する・・・錫高野の第1回採集のとき、磨耗した錫石を得て以来、それなりにしっかりしたものを手に入れたのだ。

今日の採集鉱物を次に記す・・・いただき物も含む。

・錫石(上記)、水晶(微小ながら透明)、鉄マンガン重石(再び目にするようになった)、ブロシャン銅鉱(膜状)、白鉄鉱
・(硫砒鉄鉱+黄鉄鉱+班銅鉱)、(断面:銅藍の周りをブロシャン銅鉱が包む?)

ところで、H氏採集のブロシャン銅鉱は、岩の隙間から濃い緑色した針状結晶を覗かせた。

2014年1月25日土曜日

Youtubeでイ・ソンヒを見たという友に返信

Youtubeで「赤いドレス姿」のイ・ソンヒを見たと、わざわざ今日の日付に変わった深夜にメールをくれた友へ返信した。昨日、「ファン」の心について記したところでもあり、ファンの気持ちのまま綴った返信内容をほぼそのまま載せる。筆と口が滑ったところは、ファンならではと容赦いただければ・・・。(一部変更)

(本ブログ関連:”イ・ソンヒ ファン”)
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またまた、深夜のメールありがとうございます。

ご覧になったイ・ソンヒの映像は「Turning the pages of memories」でしょうね。

タイトルは、「思い出のページをめくれば」(추억의 책장을 넘기면)です。
「추억(追憶、思い出)의(の) 책장(ページ)을(を) 넘기(繰る、めくる)면(れば)」

彼女の「ドレス姿」については、当時、コンサート会場のファンの間に「ため息」が流れたそうです・・・(賛否)いろいろな意味で。

ちなみに、彼女の「スカート」、「ズボン」(パンツというのですね)姿については・・・

イ・ソンヒは、基本的に「ズボン」姿が中心ですので・・・若い頃は「少年のよう」ともいわれました。
これは重要なポイントです。女性を前面に出す歌手が多い当時、ある意味で中性的な彼女のスタイルは、まだ性的なものに嫌悪感ある女子中高生たちに絶大な人気を得ました。そして、イ・ソンヒの人生とともに彼女たちファンは、恋愛、結婚、出産、破局、悲劇、再婚というイ・ソンヒの流転を共感できるほどに共に成長します。

ところで、イ・ソンヒの「メガネ」姿は、80年代POPやフォーク系の歌手の間で流行しました。チョー・ヨンピルもしかりです。やがて、ダンスブームの80年代末~90年代になると、歌手たちにとってメガネが邪魔になって・・・。俳優も、韓流初期の男優たちを思い出してください。

イ・ソンヒの変わらぬスタイルは、現在も韓国の中高年保守層に受け入れられています。
彼女は、無闇に音楽市場を広げようとしません・・・自身で音楽事務所や舞台を運営していたことがあって、業界のなかで生き抜く力と才知を合わせ持っているようです。
歌謡歌手として、若手を育てることもできる、とてもユニークな存在ですよ。

そうそう、彼女は高校時代に、ヘビメタに熱狂していたそうです・・・素養・素地は広いですよ。

・・・ああ、話が尽きません。次回に続けましょうか?
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2014年1月24日金曜日

ファン

気紛れなものだ、ファンっていうものは。黙っていればいいものを、言わずにおられないのがファンたる所以、熱狂というか、ファナティックというか。それを見て、常識人は「私にはわからないね」といぶかしむ。ファンは分かってもらいたいと、更に気負う。もしかしたら、反感を買うことになるかもしれないのに・・・。

食べ物だって好き嫌いがあるでしょ? 子どもは正直だから遠慮しない。それに近いかな。趣味の世界に、コレクター、マニア、あるいはオタクたちがいる。自称もあれば他称もある。そのことを秘匿するものもいれば、これ見よがしにするものもいる。

まあ、うるさがられない程度に、そしてたまには同好の士の集いでもあるコンサートや、映画館、会合に行くことになる。それで十分かな。

ところで、私は歌手の中でイ・ソンヒのファンを自認しているけれど、映画スターについては、キム・ベイシンガー(Kimila Ann “Kim” Basinger)かな。彼女がアカデミー賞(助演女優賞)を受賞した、「L.A.コンフィデンシャル(L.A. Confidential)」(1997年)は忘れられない。それは昔、八百比丘尼伝説をモチーフにした、NHKのテレビドラマ「女人幻想」(1972年)で主役を演じた佐藤友美を見て以来の感覚で、女性に心を心奪われていく展開に引き込まれた。釘付けされる心境だった。

キム・ベイシンガーの顔にどこか見覚えがある。子どもの頃の記憶か、映画雑誌のどこかで見たのか、リタ・ヘイワース(Rita Hayworth)の容貌だ。ちょっと釣り目の陰がある、我がままで奔放、意志の強そうなところが通じるよう。そして可愛い、不思議だね・・・そう思いませんか。

2014年1月23日木曜日

寒気の緩む気配して

最近、寒気の緩む気配がする。三寒四温には早過ぎるが、いっときでも春が近いと思わせてくれるのはありがたい。強張っていた体が、合わせるようにほぐれていくのを感じる。

春になれば、木々が幹中の水を走らせて若芽を膨らませるように、人の体も血流を巡らせるだろう。若ければ躍動に、年とればそれなりに元気につながる。おじさんは、ようやく背筋が伸びるというもの。

ところで人体を車に例えると、経年の痛みはあちこちキズや錆となって見つかる。よくぞ大きなトラブルもなく動いてくれたと思う。心臓は一時も休みなく脈打ち続けたのだから。人工物なら、そうはうまくいかない。随時の修理と定期的な部品交換が必要だ。生命体は丈夫だ、柔軟に内部から身を移し変えるのだから。

時として思うことがある。<セミ>は地中で幼虫に成長するのに「17年(アブラゼミは6年)」、地上に出て成虫として活動するのに「1-2週間(実際は、1ヶ月ほど)」という命であるが、彼らは一生をどう思っているのだろう。
そう、地中の孤独な時間だって、結構充実していたんじゃないだろうか・・・と。<セミ>にとって、人生の晴舞台は、もしかしたら地上に上がる時だったのかもしれないってね。

ぱあーっと明るく広がる直前は、何にも増して楽しい。

2014年1月22日水曜日

KBS WORLD「国楽の世界へ」 長丞(チャンスン)

KBS WORLD「国楽の世界へ」は、先週水曜日(1/15)に文化的なキーワードに基づく韓国文化シリーズの第39回として、日本の道祖神にも似た「長丞*(チャンスン、장승)」にまつわる話を紹介した。

    (*)長丞: 別名「将軍標」、近くでは高麗駅および高麗神社で二柱の境界標を見る。

まず始めに、長丞の姿と役割について次のような紹介から始まった。
・長丞は、手足もなく、ぶっきらぼうに突き立ち、顔だけギョロッと飛び出た目玉と、平べったい団子っ鼻が刻まれている。犬歯を突き出し、泣き笑いか分からない奇怪な表情だ。
・昔は村の入口に男女対の長丞が立ち、男の長丞は「天下大将軍」、女の長丞は「地下女将軍」の文字が体に刻まれ、村を守る役割をした。長丞の表情を滑稽・奇怪というが、見る人の心の投影かもしれない。訪れた人物が善良な場合はこれを歓迎し、悪徳な場合は足止めさせ戻るよう祈願して作られた。

▼ 「赤壁歌(적벽가)」*の中から「長丞打令(장승타령)」を聴く。敗走の曹操(조조)が長丞を押し倒したそうだが・・・

    (*)赤壁歌: 「韓国人の情緒に合わせて創作または修正された部分も多い」(Ko-wikipedia

この歌では、同じ木から生まれても、長丞となった不遇の身を嘆く。とはいえ、長丞は道端に立ち道標の役割も果たした。

▼ 「ピョン・ガンスェ(변강쇠)打令(타령)」を聴く。ピョン・ガンスェが長丞を薪にしてしまう・・・この歌でも、長丞はその身を嘆くとか。そこに、「横負歌」とかイロイロ情報が耳に入って・・・。ところで、歌声は読経の如し。

次に、長丞の起源や地域性について次のように解説された。
・長丞の起源や由縁について、確かなことは不明だが、古代の性器崇拝信仰や、民間信仰のひとつの「ソンドル(선돌/입석, 立石)」、「ソッテ(솟대)」の風習からという見方が有力のようだ。また、トッケビ도깨비)という鬼顔や、土俗的な仮面のイメージにつながるという考え方もある。
・長丞は、地域によって素材や顔の形が少しずつ違う。①湖南(ホナム:全羅南道と全羅北道の総称)や嶺南(ヨンナム:慶尚南道と慶尚北道の総称)の南道地方では石像が多く、平たく丸みを帯びた南方系の顔。②京畿道や忠清道地方では主に木像で、顔が長く目が切れ長で、鼻も長い北方系の顔。狭い国土の中、多様な文化が混じり合い発展したことを、長丞の顔つきからも推測できる。また、③済州島では、「トルハルバン(돌하르방)」と言われる石像が、長丞の役割を担った。このトルハルバンは本土の長丞の奇怪な姿と異なり、自愛に満ちた表情で、島に来る人々を迎える。

▼ 済州民謡「シナウェギソリ(신아외기소리)」を聴く。労働歌ながら子どもにも馴染みやすい歌で、今様編曲ながら楽しい。

2014年1月21日火曜日

40代、新しい文化消費の主役に

イ・ソンヒは、「旧暦」1964年11月11日生まれで「数え年」では50代とされるが、「新暦」に照らしてみると12月14日生まれのため、「満年齢」では現在49歳の40代である。
e-todayの記事「40代、大衆文化に応答する  少年の感性持った‘新世代中年’、新しい文化消費の主役に」(1/14、チェ・ドゥソン記者)は、韓国の40代が新しい文化消費の主役にという次のような紹介がある。(抜粋)

消費において新しい傾向であるが、流行の中身は復古調というのが特徴なのかもしれない。

ところで、若年と高年世代との狭間にある40代は、社会的に<現在の40代が、以前のような「安定的な階層」から「不安定な階層」に転落したという現実がある>という厳しい見方も他方にある。

(本ブログ関連:”40代”)
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・40代が大衆文化消費の中心層に浮び上がった。歌謡、映画、ドラマなどに復古熱風が激しい。 tvNドラマ「応答せよ1994」は文化産業全般的に大きい成功を収めたし、映画、公演界全般には初恋の思い出が主な素材として位置づけて1990年代を呼び戻している。

・昨年唯一の1000万観客映画「7号室のプレゼント」のリュ・スンニョンを始め、「雪国列車」のソン・ガンホ、「監視者たち」のソル・ギョング、「新世界」のファン・ジョンミン、イ・ジョンジェ、「かくれんぼ」のソン・ヒョンジュなど40代男性俳優の映画は、40代観客の好評に力づけられて全て興行に成功した。

・映画専門サイトのマックス・ムービー映画研究所発表は、2013年映画前売り観客分布資料によれは映画館客のうち、10代3.5%、20代24.2%30代40.5%40代24.9%、50代以上が6.9%を占め・・・「40代観客増加は、映画館客2億人突破を説明できる最も大きいキーワードだ。40代は家族単位観客でチケット購買量が20代より1~2枚さらに多い」と分析した。

・放送界では・・・やはり40代男性視聴者の共感を形成して新しい文化トレンドとして位置を確立した。

・大衆音楽界も同じだ。昨年「ハロー」を歌ったチョー・ヨンピルの突風の後にも40代ファンの「賓客(ひんきゃく)」があった。10年ぶりアルバムは40~50代消費者をレコード売り場とコンサート場に呼び入れ・・・20万枚の高い販売高を記録した。関係者は、40~50代が最もたくさん訪れたと説明する。

・キム・ナンド ソウル大教授は、最近発刊の「トレンド コリア2014」を通じて、「以前の中年世代のライフ・スタイルと決別を宣言した、新世代中年男性たちが文化の中心にある新しい40代は少年のような感性を持った『おとな子ども』たちだこれらは、既に社会的に強制された男性的イメージから抜け出して、美容・余暇・文化など多様な方面で消費の主役として位置を確立している」と40代の新しい文化消費主役での浮上を説明した。
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2014年1月20日月曜日

大寒2014 (冬哀傷)

今日は二十四節気最後の節気「大寒」である。次は二十四節気の最初に戻り、「立春」(2/4)となる。大寒は最も寒い時期といわれるが、ようやく一年の季節が一区切りされ、最終章を迎えたと考える方が先立つ。立春まで、ひと我慢である。

夕方の5時頃には陽が暮れて、一日が短くせわしく感じられたが、最近は5時過ぎでも薄明かりして余裕が出てきた感がある。夏のように、午後7時を過ぎても昼間の余韻が残っているのが理想だ。それなら、「白夜」なんか最高だろう・・・と思っても、その反対に「極夜」があって、うまい具合に我がまま通りにならない。地球が地軸を傾けて公転しているからだ。

寒い夜には、熱いラーメンがうまい。といっても、最近、夜食がきつくなってきた・・・。
ともあれ、ラーメンができあがるまでの時間に作詞したという逸話がある、5集所収の名曲「冬哀傷(겨울 애상)」(作詞:キム・ヨイル作曲:ソン・シヒョン、1989年)を聴いてみよう。まるで、氷世界が共振するような、透明感あふれる旋律も素晴らしい。そして、イ・ソンヒの安定感ある歌に聞き惚れる。

(本ブログ関連:”イ・ソンヒの「冬哀傷」を作詞した場面”、”冬哀傷”)


星明かりに澄み映える  私の悲しい顔よ
雁が鳴きながら  飛び去る  空を  見る

懐かしさ雪のように積もり  丘を転がり超えて
青い月明かり  降り注ぐ  私の空っぽの  庭に

風は木の葉を 吹きたてて  消えたが
なぜ痛く懐かしい小船は  私の胸に浮かんでいるのか

消すことが  できないのか
冬になるとよみがえる姿

青く冷たい  私の愛
凍ってしまった悲しい後姿

風は木の葉を 吹きたてて  消えたが
なぜ痛く懐かしい小船は  私の胸に浮かんでいるのか

消すことが  できないのか
冬になるとよみがえる姿

青く冷たい  私の愛
凍ってしまった悲しい後姿
凍ってしまった悲しい後姿

(Youtubeに登録の길성배に感謝)

2014年1月19日日曜日

数え年と満年齢

イ・ソンヒの年齢を数えるのに、「旧暦」と「新暦」、および「数え年」と「満年齢」の組み合わせで、毎回頭の中が交通整理で大変だ。
韓国では日常、誕生日を「旧暦」で、年齢を「数え年」で数えるようだ。(70年代初頭までは、旧暦の誕生日を祝ったそうだ。また現在、満年齢表記する場合、その旨「満歳(만 나이)」と注記するようだ)

イ・ソンヒの誕生日
・旧暦: 1964年11月11日
・新暦: 1964年12月14日 ← 彼女の公式ホームページでは、こちらで祝っている。(

イ・ソンヒの年齢
・「数え年」の場合
 - 誕生した年を1歳とし、翌年の新暦元旦を以って1歳ずつ加算する。
 - 誕生した1964年が1歳、今年2014年に51歳となる。 ← 韓国マスコミは昨年、彼女を50代とした。
・「満年齢」の場合
 - 新暦1964年12月14日に0歳で誕生、今年2014年12月14日までは49歳、まだ40代である。


そんなわけで、過去ブログで、年齢計算の仕方を間違えたところがある?・・・なら修正しなくちゃ。

2014年1月18日土曜日

イ・ソンヒの「思い出のページをめくれば」

イ・ソンヒの成熟を象徴する意味で、彼女の分岐点ともなった作品である、6集所収の「思い出のページをめくれば(추억의 책장을 넘기면)」(1990年、作詞・作曲ソン・シヒョン)は、彼女が述懐するように、一方で「ファンはほとんど期待もしなかった歌をもっと好きだった」、まさにその曲でもあった。音楽において、彼女は常に幸運に恵まれた歌手だ。

(本ブログ関連;”(資料)イ・ソンヒのスター・ストーリー「1.余裕のアピール力を持った歌手」”)
(本ブログ関連;”(資料)イ・ソンヒのスター・ストーリー「8.夜の舞台時代の警備員の話」”)
(本ブログ関連;”「思い出のページをめくれば」”)


ゆらぐる思い出のページをめくれば
ああ、遂に果たせなかった悔しさと侘しい贖罪が

むかしのことのように、ぼんやりとかすむ窓枠の塵(ちり)のように
ああ、胸に積もるよ、今は遠ざかったあなたの微笑みのように

雨風がなくても春は来て夏は行く
ああ、あなたよ・・・涙がなくても、花は咲き葉はやがて散る

ああ、わたしに残った懐かしい歳月を浮かべて、眠りにつくよ、夢を見るよ・・・


(Youtubeに登録のJzongwに感謝)

2014年1月17日金曜日

冬の土用

冬にも「土用」がある。Wikipediaの土用の説明に「四立(立夏・立秋・立冬・立春)の直前約18日間ずつ」があって、今日(1/17)の「冬の土用の入り」から「立春」(2/4)の前日2月3日までを指している。夏の土用は暑気払いとして鰻を食うが、冬の土用の場合、一体何を食うのだろうか。

スーパーやコンビニの商品棚には、気早く2月3日の「節分」に撒く豆や恵方巻(こちらはサンプルだが)、2月14日の「バレンタインデー」のチョコレート(手造り用の材料として)が並んでいる。

ちょっと残念なのは、この地に土着の風物が足りないことだ。遠の昔に農作業は消えてしまい、人々の営み中に季節を知ることはできない。流通の商品棚や通信の画面(テレビやインターネット)の中でしか感じられない。

寒暖以外に、自然の息吹を、生活に溶け込んだ伝統の行事や祭事を通じて気付きたいものだ。

(追記)
今日は、「阪神・淡路大震災」(1995年1月17日)から数えて19年目にあたる。関東の住人にとって、果たして、「東日本大震災」(2011年3月11日)を経験しなかったら、関西のひとびとの恐怖を想い描くことがどれくらいできたろうか。6年の間に東西で発生したこれらの震災は、わたしたちの心の中に自然に対してだけでなく、人との絆の意味をあらためて思い知らせた。

2014年1月16日木曜日

冬さまざま

昨日ほどではないというが、今日だってだいぶ寒い。外出には、コートの襟首まで閉じるほどだ。こんな寒中、赤ん坊をコートに包(くる)んで母子一体となった買い物姿を見ると、母性の逞しさを感じる。そして口の中で、頑張れとつぶやいてしまう。(赤ん坊は、いずれそんな覚えはないだろうけれど、あなたのお母さんは立派だよ!)

そういえば、今年から毎日一枚ずつ剥がす日めくりカレンダーが加わった。これが結構手間がかかり、気付けば昨日のママ、何てことを繰り返している。ひと月たって、ああ時の流れの速い事よと諦観してみせるが、日めくりだと毎日追われ、今年の時間が加速したような気がする。いずれ時間に追いつけなくなるときが・・・。

昨年の成人の日は1月14日で、まさかの大雪だった。今年の冬は一昨日~昨日に降雪の気配があったが、予報の通り積もることはなかった。近在のスーパーは、プラスティック製の雪かきスコップを陳列している。オレンジ色のでっかいものだ。買った方が良いのだろうか・・・といっても、数年に1回くらいしか使うこともない。どうしようか。

冬でも石採りに行きたいが、寒いのはつらい。歳とともに、ますます厳しく感じる。といいながら、今年最初の採集地は錫高野を予定している。ここでは以前、積雪が残った沢で採集していたとき、吹き降りる沢風にビニールの雨合羽でも耐えられず、熱燗缶の日本酒で寒さをしのいだことがある・・・でも、全然温まらないのに酔いだけが廻るのだ。そして、さめた後の悲惨さといったら。

早く冬が終わらないかな。

2014年1月15日水曜日

(資料)イ・ソンヒのスター・ストーリー「10.それが歌なの 発声練習では」

先日(2013/9/27)、「スポーツ韓国」の紙面(1991年3月8日~4月5日)に連載された「イ・ソンヒ27歳当時のスター・ストーリー」記事の目次を紹介したが、その第10回目をここに載せたい。感謝。

イ・ソンヒの、ヒットの数々とトラブル、慈善活動、海外とのかかわり(マイケル・ジャクソン、レスリー・チャン)、ファンクラブ誌(ニンジン)などを知ることができた。

(本ブログ関連:”(資料)イ・ソンヒ(27歳当時)の「スター・ストーリー」”、”資料:이선희 Profile”)

[10] それが歌なの 発声練習では
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・1985年11月、私の2集アルバムが出た。タイトル曲は「秋の風」。

・ところで、この歌が盛んに電波に乗っている頃、盗作の是非にまきこまれて、すぐさま放送停止にあってしまった。公演倫理委員会が立てた理由は、キム・ヨンジャさんが1983年発表した「愛の迷路」中の「あぁ、私たちの愛のロウソクの灯り/消えて道に迷ったね」の部分をそのまま盗作したというのだ。私が作曲した歌でなく、何か抗弁する立場ではなかったが、ちょっとくやしかった。メロディが全く同じならばともかく.・・・結局、私は「秋の風」を再録音しなければならなかった。それでも若干惜しくなかったのは、「ケンチャナ(大丈夫)」が「秋の風」に劣らずヒットしたという事実だ。慰めはなった。

・3集の「分かりたいです」を準備しながら、私は最初のリサイタルを持った。それが1986年7月26日、 収益金は全額「恵まれない学生家長*助け合い」募金に出した。奨学金形式で渡されたお金の中には、新光女子中と祥明女子高の後輩に与えられたのもある。最初の数回は、学校に直接訪ねて行って、奨学金を学校に寄託したが、そのたびに校長先生が学生たちに紹介してほめるお言葉がなぜか過分で照れくさくて、この頃は人伝に学校に送っている。

    (*)学生家長: 家長の役割を合わせ持つ学生 (本ブログ関連:”学生家長”)

・当時は、「学生家長」という概念さえ曖昧な時だったので、私は「有名税」を利用したいわゆる、「マスコミ・プレー」をよくした。広告費はとても高くて、また往来にポスター貼りは不法で・・・したがって、私は放送に出演するたびに、私の慈善公演日程を大々的に「広報」したりした。

・実際にチャリティー・コンサートを準備しながら、後悔(?)もたくさんある。準備期間が3ヶ月ほどかかるからだ。普通のファンは、TVに映らなければ「あの子、もう終わった」といいながら速断することが常なので、コンサート準備期間中には、かなり大きい打撃を甘受しなければならないのだ。

・とにかく、困難を訴える学生家長の手紙を知らない振りすることもできなくて、収益金を狙った(?)慈善公演を今まで40回余り行った。手に余っても、引き続き強行しようとしている。

3集では「分かりたいです」が最も多い愛を受けた(人気があった)曲だ。1987年4月の一ヶ月間、放送回数107回を記録したので、いつでもどこででも聞こえる歌だったと言える。「やはり」タイトル曲でないこの歌が大ヒットした原因は、ヤン・インジャ先生*の歌詞のためのようだ。「忙しい時、電話しても私の声うれしいんですか」などの歌詞は、女性心理を見抜いたという評を聞いて、それゆえに男性ファンからは「男に疲れさせる(重い)歌」という愚痴も聞こえてきた。

    (*)本ブログ関連:”ヤン・インジャ

時折、私に向かって「それが歌か、発声練習では」と厳しく批判する人もいる。認める。私の歌が主に高音域中心であるから

それで、6集「思い出のページをめくれば」では、トーンをかなり低く下げた。偏狭な考えかも知れないが、6集くらいで満足できなければ、私は致し方ない。世の中のすべての人を満足させる能力は私にはないので。

私はそれなりに情熱と誠意を尽くして歌う。全身に力を集中して「熱唱」する数年・・・いつのまにか私の手の平にはタコができた。私も知らない新しいマイクを握った掌中に力が入っていたようだ。

私の名前の前に「歌手」という接頭辞がつき始めて以来、私は実に多くの仕事を経験した。

日刊スポーツのゴールデン・ディスク賞5連覇*をはじめとして、歌謡と関連した賞ほぼ一度ずつは全て取ってみた。そして望んだだけファンから愛も受けている。今でもファンレターと一緒に熊のぬいぐるみなど様々なプレゼントの包が、1年なら小型トラック2台分位ずつ家に舞い込む。

    (*)ゴールデン・ディスク賞5連続受賞、1990年12月9日(イ・ソンヒ公式ホームページより

外国にも何度も出かけたし、私の歌が香港映画「野生の花」*の主題歌で歌われることもあった。 また、つぎつぎ翻案して歌った外国の歌手もかなり多くて、誰が誰なのか確かに分からないほどだ。

    (*)香港映画「野生の花」・・・未確認

あの有名なマイケル・ジャクソンも、私とともにデュエット・アルバムを吹き込もうと申し入れて来たりした。ところで問題は「踊り」だった。レコードと同時に、ミュージックビデオまで作るつもりだったジャクソンは、テープに録音された「私はいつもにあなたを」など数曲を聞いてみて極めて満足したのか、私自身の振りつけ担当まで付けてやると米国に来ないかなど、積極性を見せたが私は断った。理由は、ただ一つ。 自尊心(プライド)が傷つけられたためだ。

「時価いくらの世界的なスターでも、私に2年も踊りを習えだって? フン、素晴らしいね、このひとは。 私、そんなに暇な女ではないね」

香港の歌手、張國榮(レスリー・チャン)とも共に舞台に立ったことがある。彼のステージ・マナーは本当に良かった。かなり多くの曲を歌ったが、そのうちの二曲だけがライブであった。放送でもないコンサートなのに・・・それは香港式、いや英国式なのか?

「張國榮」といえば思い浮かぶ気が乗らない記憶一つがある。彼は若くも老いもない女性を自分の母親と紹介したが、その女性は私が張國榮と話すたびにとても気遣う様子だった。「チェッ」誰が自分の息子、なんという大儺(鬼払い)。*

    (*)世間で言われるような関係はなかったのだろうか

ところで後ほど分かってみれば、彼女がまさに張國榮の隠した「スポンサー」とか。だが確認する方法はない。

ファンが声援してくださることにはいつも感謝するが、できるならあまり興奮はしないようにされたら良いだろう。特にコンサート現場では。

1987年の冬、63ビルディングで公演を持った時、女子学生4人が気絶したことがある。病院に移す途中、靴までなくしたそのうちのある少女に私の履き物を履かせてあげて、私はスリッパ姿で帰宅したりした。弱り目にたたり目で、その日、汝矣島(ヨイド)広場ではある政党の群衆(大衆)集会があったので、そこでケガした人々に、私のコンサートで過度に興奮した少女4人まで加勢して、近所の病院は時ならぬ好況(?)を向かえ、汝矣島一帯の交通はしばらくの間麻痺したようなものだった。

熱狂ファンに自ら少しでも誠意の表示をするという気持ちで始めたのが、1年に四回ずつ直接お送りするファンクラブ誌「ニンジン」である。ファンクラブの会員数が1万5千人ほどだから、一度発送するには、それこそ私の周辺には「大騒ぎ」がある。

「ニンジン」の内容は、「イ・ソンヒは、その間何をしながら過ごしたか」が主流をなしてファンたちの各種「称賛」と「抗議」、そして「悩みの相談」も多く入っている。 懸賞クイズもある。「イ・ソンヒ姉さんが一番明るく笑う時は、歯が最大限でいくつ見えでしょうか?」
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2014年1月14日火曜日

KBS WORLD「国楽の世界へ」 北斗七星

KBS WORLD「国楽の世界へ」は、先週水曜日(1/8)に文化的なキーワードに基づく韓国文化シリーズの第38回として、「北斗七星(북두칠성)」にまつわる話を紹介した。

まず、夜空の星々と北斗七星の歌について、次のような紹介から始まった。
・韓国のことわざに、とても不可能の意を表す、「空の星を取る(하늘의 별 따기)」がある。確かに、星を手にすることは難しく、現代の都心では、星さえ忘れて暮らしている。昔の人々は、きらめく夜空を見上げて様々な思いをはせ、星々に特別な力があると考えた。
・朝鮮時代の女性歌曲(여창가곡)にも、北斗七星(평롱)が登場する。「北斗七星、一つ、二つ、三つ、四つ、五つ、六つ、七つの星たちよ、私の願いを聞いてください。恋しいあの方がいらっしゃったから、この夜がどうか、ゆっくりと明けるようにしておくれ」。

▼ 界面調(계면조) 平弄(평롱)「北斗七星(북두칠성)」を聴く。星の輝きする・・・今様に編曲したのか?

次に、北斗七星に寄せる思いの強い歴史的、文化的なかかわりについて次のように解説した。
・北斗七星は、ひしゃく形をして明るく光るため、簡単に見つかる。西洋では神話に登場するが、韓国でも、先史時代の支石墓(コインドル、고인돌)に、北斗七星が刻まれている。また高句麗時代の墓の壁画に北斗七星が描かれている。
・空に東西南北の四方位を守る神がいて、北斗は北の空を司る神の意がある。さらに空を神と見立てて、北はその喉と舌に当たり、北斗七星は、空それ自体を象徴すると捉えられた。
・古く、空は人の運命をも左右する力を持つとされ、北斗七星は人間の生き方、寿命、幸福、災いなどと関連すると神格化された。(一)母親は、家族の健康と和平を祈るため、甕の上に水を汲んで、北斗七星に祈りをささげた。(二)(シャーマンの)巫堂(ムーダン、무당)によるクッ(굿)のお払いの際、北斗七星を祀ることが多かった。さらに、(三)寺院には、釈迦を祭った本堂とは別に、七星閣(チルソンガク、칠성각)という小さな建物がある。仏教が根付く過程で、深く信じられた北斗七星信仰をたくみに習合した。

▼ 済州(島)の七頭堂クッ(칠머리당굿)中の「七星本プリ(칠성 본풀이)」を聴く。淡々と語りつぐ・・・七にこだわり、ヘビ信仰と?(「本プリ」とは、クッを受ける神が神となった話を含む部分とのこと)

最後に、済州島の北斗七星にまつわる伝説を次のように紹介した。
・済州島には、(一)年老いた母に孝行を尽くした息子たちが死後に星となった話、(二)あの世の尊い薬を手に入れ、父の命を救ったパリ姫の息子が7つの星となった話が伝えられている。この島の北斗七星の伝説には、不思議なことに、全て女性が関連している。女性が他地域に比べて多く、家庭のやりくりを主導していた風習が反映されていたからだろう。

▼ 「The Starry Night(별금자)」を聴く。コムンゴファクトリーの演奏・・・超モダンで難解に・・・。

・・・わかりました、空の星を眺めながら、遠く宇宙のかなたに想いをはせてみましょう。

2014年1月13日月曜日

冬景色(続)

今日は成人の日。夕方の街中、成人式の帰りだろうか、かわいらしい振袖姿があちらこちらに目につく。何はともあれ、若いことはよいものだ。当人たちにとって、私のときもそうだったが、成人式の今日は単なる通過点でしかない。でも、この日を祝われてこそ、自覚を促されるというもの。頑張れ。

ところで、近隣の駅ビルにある本屋で、「唱歌・童謡ものがたり」(読売新聞文化部、岩波現代文庫)を求めた。というのも、本書に収められた71曲中に、昨日の本ブログに記した唱歌「冬景色」について、次のような記載(岡田康晴記者)を目にしたからだ。(抜粋)

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「私が好きなのは『朧月夜(おぼろつきよ)』と・・・・・・『冬景色』です」
皇后陛下(美智子妃殿下)からそうお聞きして、国語学者の金田一春彦はポンとひざを打ちたかったという。金田一も詞の美しい、この二つの歌が大好きだった。

『冬景色』は、一九一三年(大正二)、音楽教科書「尋常小学唱歌(五)」で発表された。

(歌詞が当時として斬新な)六五調の節回しとリズミカルな三拍子
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この項の最後に、作詞・作曲不詳であるいきさつと、作詞者の推定までされていて興味深い。

それにしても、この歌の始まり(早朝)と終わり(黄昏)の描写がことのほか美しい。

さ霧消ゆる湊江(みなとえ)の
舟に白し朝の霧

若(も)し燈火(ともしび)の漏れ来ずば
それと分じ野辺の里

2014年1月12日日曜日

冬景色

冬の夜、起きているときはガス・ストーブで部屋中熱くしても、就寝中はガス・ストーブをつけっ放しにするわけにもいかず、足元を暖めるため電気あんかを使った。しかし、それでも暖が足りず、昨晩ついに電気マットに取り替えた。

今年の冬は、昨年より厳しいのだろうか、それとも歳とともに寒さに耐え難くなったのか。こんなとき、少しでも心を癒すのは昔の歌だ。文部省唱歌の「冬景色」は、その歌詞がなぜか優雅な気がする。しっかりした文体は、心落ち着かせるものだ。
「京都 大原 三千院」の詞で思い出深い、デュークエイセスの歌で「冬景色」を聴いてみよう。

(Youtubeに登録のhinanohiに感謝)

2014年1月11日土曜日

イ・ソンヒの「あなたに届くなら」

イ・ソンヒの11集所収の「あなたに届くなら(너에게 가면)」(1998年)は、この歌の作者から、あるいは彼女の人生から、つい深読みしたくなるが、素直に聴けばよいのであって、かえって何処かで耳にしたような親和な曲風である・・・でも、気になる。

(本ブログ関連:”イ・ソンヒの「あなたに届くなら」”)

耐えられぬ日々の様に  忘れられないあなたに届くなら
ふるえる手で  記憶の中をたぐっても

怒れぬ時間の中で  忘れられないあなたの前に立てば
私の小さな手に  むせび泣きささやくでしょう

倒れないで、私が耐えられる また戻ってくる  その日を忘れないで
いわないで、あなたをしのんで待っています

隠さないで、忘れられぬ時間を すすり泣きながら  私のぬれた目で
愛しています、永・遠・に


(Youtubeに登録のsunnyfan100に感謝)

2014年1月10日金曜日

「知りたい」と「分かりたい」こと

以前このブログで、イ・ソンヒの「分かりたいです」という曲名から、「知りたい」と「分かりたい」ことについて考えてみた。

(本ブログ関連:”イ・ソンヒの「分かりたいです」”、”分かりたいです”)

さらにもう一歩、高尚な捉え方かもしれないが、次のような話を読んで、上記曲名の理解にそのまま当てはめてよいか躊躇するが・・・ある高名な歴史家*が、若い頃に恩師の語った言葉を伝えたもので、歴史(対象)と取り組む姿勢を若者に伝えたものだ。

(恩師の言葉) 「解るということはそれによって自分が変わるということでしょう」
(歴史家の解説) 「・・・何かを知ることだけではそうかんたんに人間は変わらないでしょう。しかし、『解る』ということはただ知ること以上に自分の人格にかかわってくる何かなので、そうのような『解る』体験をすれば、自分自身が何がしかは変わるはずだと思えるのです。」

この言葉を、世俗に引き寄せて、曲名「分かりたいです」を解すれば、想いを相手に伝え、応えを求めて、よって自身が変わろうとするまでを含むようだ。一方、「知りたいです」では、知りたい側の言葉だけで、相手との共鳴する想いが響いてこない。

少々大げさだが、そう理解した。

(*)「自分のなかに歴史を読む」阿部謹也著)

2014年1月9日木曜日

健康体操教室の翌日は

毎週水曜日に、市の施設で開かれる健康体操教室に通っている。年末と年始の2回は休みだったため、体が少々なまってきたところで、昨日、今年最初の教室に出かけた。

運動を教わっているとき、「休みの間、自宅でやっていましたか?」という先生の問いかけに、視線が思わず天井に向いてしまう。まあ、回りの皆さんも同様だったが。そんなわけで、久し振りの運動をして気付いたのは、①屈伸をすると腹が邪魔になる、②太もも、ふくらはぎの後ろ側を伸ばすと痛いのだ。年末、年始をダラダラ過ごしたせいだろうか。反省。

いつも通りの体操にもかかわらず、(それを家で繰り返すこともなく)暫く間を空けたため、「明日は体が痛くなりますよ」といわれた・・・まさにその通り、今日は体のあちこちが強張る。あらためて、体操教室のありがたさに気付く、人間の体は少しの荷重が必要だ。納得。

ところで、椅子に座りながらブログを作成しているとき、姿勢が自然と前かがみになるのを防ぐために、子ども用のボール(φ22cm位い)を背中~腰にあてて、背筋を伸ばすようにしている。まだ一ヶ月ほどの試行だが、姿勢を意識するのに無理のない道具だと思う。推奨。

2014年1月8日水曜日

イ・ソンヒの「Jへ」

イ・ソンヒは20歳になる1984年に、MBCの第5回「江辺歌謡祭」において、「Jへ(J에게)」で大賞を受賞してデビューを果たした。このいきさつについては、本ブログで何度も繰り返しとりあげてきた。

(本ブログ関連:”Jへ”、”江辺歌謡祭”、”イ・ソンヒのスター・ストーリー「7.『江辺歌謡祭』の裏話」”)

「サニー」の愛称でファンに親しまれる彼女は、今年デビュー30周年を迎える。来月、アルバム15集を出すことになり、マスコミは、「いつの間にかデビュー30年」、「カムバック」、「ディーバ(歌姫)の帰還」と同時に、昨年のチョー・ヨンピルの復活に照らして、「バタフライ効果」、「音楽業界の圧力」などとベテラン歌手の彼女への大きな期待を伝えている。

「江辺歌謡祭」のステージに立ったイ・ソンヒは、ある意味、歌の力だけを信じて挑むことができた、よき時時代の象徴でもあった。

(Youtubeに登録の526apolloに感謝)

2014年1月7日火曜日

ボルヴィック

数日前、名前を忘れたがテレビ番組で、スタッフ?の(日本)女性がフランスの名勝を廻るというコーナーがあって、ある家?に泊った翌朝、その家庭の若い娘が洗顔しないことに驚く場面があった。フランスの水道水は硬質で、肌が荒れるからだそうで、以って化粧水で代用するという。

いわれることに、フランスの水道水は硬水のため、飲料水に適さない。代わりに、ミネラルウォーターやワインを飲むのだと。日本でポピュラーな、フランスのミネラルウォーターに「ボルヴィック(Volvic)」がある。このボルヴィックは、どんな処で汲み出されているのだろうか。

▼ ボルヴィックを販売しているKIRINのホームページに、次のように紹介されている。
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・ボルヴィックが生まれるフランス中部オーヴェルニュ地方は、「ピュイ・ド・ドーム」、「カンタル」、「オート・ロワール」、「アリエ」の4つの県からなり、北のアリエ県を除く南部3県は全て山岳地帯で、中央山地(マッシフ・サントラル)と呼ばれています。フランスの中では珍しく変化に富んだ地形をもつこの地方では、昔の火山活動でできた湖や渓谷がいたる所にあります。

・ボルヴィックの水源地はおよそ4,000ヘクタール。その広さは東京ドーム約850個分にも及びます。フランス中部オーヴェルニュ地方に広がる火山自然公園の中心にあるピュイ山脈。・・・

・オーヴェルニュ地方に広がる緑濃い火山自然公園の北端にある美しい村がボルヴィックの故郷、ボルヴィックです。・・・
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ボルヴィックは、硬度60で「軟水」の範疇に入る、1927年に発見された比較的歴史の新しいミネラルウォーターである。


▼ 「ヨーロッパ火山紀行」(小山真人著、ちくま新書)に、ボルヴィックの産地ピュイ・ド・ドームが次のように紹介されている。
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・パリ盆地と地中海にはさまれる形で、広大なフランス中央山塊(Massif central)が存在し、2000メートル近い高山がひしめいている。ただし、山塊の大部分は、険しい山と言うよりはなだらかな高原によって占められている。・・・

・このフランス山塊に数多くの火山が存在する、といっても大部分はすでに活動を終えた古い火山であり、豊かな森におおわれ、その懐には町や村が作られている。・・・

・ピュイ・ド・ドームは、シェヌ・デ・ビュイ火山群の最高峰(一四六四メートル)であり、およそ一万一○○○年前に噴火した溶岩ドームである。高原上に噴出したので、ドームそのものの高さは四五○メートルであり、ドームの底径は二キロである。・・・

・シェヌ・デ・ビュイ火山群には数多くのハイキングコースが整備されている。・・・お勧めは、ピュイ・ド・ドーム北側にあるいくつかのスコリア丘や溶岩ドームである。・・・
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約1万1,000年前に噴火した溶岩ドームのピュイ・ド・ドーム(Puy de Dôme)の写真を見ると、何となく伊豆半島の伊東にある、約4000年前に噴火した単成火山であるスコリア丘の大室山の姿を連想する。時間の経過と、緑に覆われた遠望がそうさせるのだろう。

ボルヴィックのボトルラベルに、なだらかな緑のピュイ・ド・ドームの絵が描かれている。高尾山に登るような気楽さなのだろうか・・・。

(本ブログ関連:”大室山”)

KBS WORLD「国楽の世界へ」 (吉報)

KBS WORLD「国楽の世界へ」は、毎週水曜日に放送されているが、先週水曜日は元旦(1/1)であり、特別放送(仁川アジア大会開催)のためにお休みだった。

ところで、昨年大晦日(12/31)に「アナウンサー・オン・パレード」があって、日本語放送の番組関係者がそろって歌対抗する恒例のイベントを放送した。

そのなかで、いつも楽しく拝聴している「国楽の世界へ」担当の岸加那子さんが、昨年3月17日に結婚されて、今年には赤ちゃん誕生と紹介された。おめでとうございます。そしてお体大事に願います。

七草粥

今日で松の内が明ける。

「せり/なずな、ごぎょう/はこべら/ほとけのざ、すずな/すずしろ」と暗記した、春の七草の七草粥を食べる風習がある。草の名は何となく覚えても、七草粥を食べた覚えはない。

春の息吹を感じるよう、そろそろ気持ちを切りかえるときである。

2014年1月6日月曜日

本屋の棚から消えるもの

文学者であり小説家が、以前雑誌に肩のこらぬ連載をしていて、それがまとまって確か文庫本になっていた筈だと、近在の中古書チェーン店の数店に探しに行った。ところが、その方の作品が書棚に驚くほど見当たらないのだ。

昨年、亡くなられたばかりというのに、扱いがこんな風なのかと少々驚いた。旧仮名遣いを押し通したせいでもないだろうけれどと思いながら、書店を巡ったが、何処も同じだった。今の若い世代には、とっつきにくい作家だったのかもしれない・・・そうでもあるまいに。似た雰囲気の女性作家も、今は高齢となれば作品は見当たらない。

文学や評論は、活字として残ると思いたいのだが、残念なことに余程に特質なのものでない限り、読み継がれることは結局ないのだろう。つくづく古典の凄さがわかるというものだ。

本屋の書棚から、時代を共有しただけだが、著名な作家、文学者そして評論家たちの作品が次々消えていくのは、火が薄れていくようでさびしいものだ。

2014年1月5日日曜日

小寒2014

今日は、二十四節気の最後から二番目である「小寒」だ。新暦の正月の行事が一通り過ぎたところ、季節の変化を意識するわけだが、この後、更に「大寒」が待っている生憎の節気でもある。(寒の入りの小寒の方が大寒よりも寒いということもある)

昨日、マフラーをつけて外出したところ、店舗内の暖房に額に汗が滲んだものの、一歩外に出れば、寒風にその効用に気付く。やはり、今は厳冬だ。

とはいえ、陽の温みをそろそろ察知して、雁は北へ帰り始めるという。ネット情報をいくつか見ると、地域によって異なるが、実際は、来月(2月)下旬頃から飛び立つようだ。寒い時期にやがて来る温もりを避けて北帰行するわけだが、それを見送る者には置いてけぼりされたような寂しさと少しの不安が残る。

イ・ソンヒの「冬哀傷(겨울 애상)」(1989年)も、傷心のまま癒されることもなくじっと、飛び去る雁を見送るだけのようだ。

(本ブログ関連:”イ・ソンヒの「冬哀傷」”)

ところで、イ・ソンヒの2月リリースの15集アルバムが(日本の)店頭に並ぶのは、いつのことかな。待ち遠しい。

2014年1月4日土曜日

魯迅の「お長と山海経」

魯迅の短編「お長と山海経」(藤井省三訳、光文社古典新訳文庫)に登場する「お長(阿長)」は、まるで漱石の「坊っちゃん」の下女(養育係り)の「清」のように、主人公の世話をする。「坊っちゃん」の明治気質の清と違って、「お長と山海経」のお長は頑固さや狡さがあり、そして適当さもあわせ持っていているが、人間味のある彼女と主人公(僕)との距離感は返って近いようにも見える。

「お長と山海経」の主人公は、大叔父の影響もあって、彼から聞いた絵入りの中国古代の地理書である「山海経」が欲しくなり、新年のお年玉としてお長にそれを求めた。後日、お長は実家からの帰りがけに、木版色刷りの「山海経」四冊を買ってきてプレゼントしてくれたのだ。

「ページをめくれば、たしかに人面の獣、九頭の蛇、一本足の牛がおり、袋のような帝紅鳥、頭がなくて『乳を目とし、臍(へそ)を口とし』、さらに『干戚(たてとおの)を執って舞う』刑天がいるのだ。」という、粗末な色刷りだが、その図は少年の空想を膨らませるに十分なお宝となった。

(本ブログ関連:”山海経”)

イ・ソンヒの歌「狐の嫁入り(여우비)」がOSTである、SBSのロマンチック・コメディ「僕のガールフレンドは九尾狐」の主人公「九尾狐」について、その起源を記した「山海経」に関心がますます深まる。魯迅が幼い頃に見たであろう、子供向け色刷りの「山海経」の四冊(「南山経」、「大荒東経」、「東山経」、「海外東経」)を、実際に手にとって見てみたいと思う。

(本ブログ関連:”狐の嫁入り”)

2014年1月3日金曜日

イ・ソンヒ 来月(2月)に15集をリリース!

イ・ソンヒは来月(2月)、ついにアルバム15集をリリースする。

NEWSIS.COMの記事「『サニー姉さん』 イ・ソンヒ、いつのまにかデビュー30年…来月15集」(1/3、イ・ジェフン記者)は、次のような期待を込めた情報を知らせる。いやあ、待ち遠しい。それにしても突然知った。

イ・ソンヒの再婚した夫からの昨年の情報では、「最近、活動がまばらな妻イ・ソンヒの近況については『非常によくやっている。今は休んでいるが近いうちにコンサートをするのか、アルバムを出すのかよくわからない。妻の歌手活動については一切関与していない』と述べた。」と、確証を得られていないが、一方、彼女のファンクラブは、30周年記念に向けて応援を企画している。

ともあれ、ついにというか、やっと期待が実ることになった。早速、記事を見てみよう。感謝。
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・今年でデビュー30周年を迎えた歌手イ・ソンヒ(50)が、5年ぶりに正規アルバムを発表する。

・マネージメント社のフックエンターテインメント(Hook Entertainment)によれば、イ・ソンヒは、2月中に第15集を出す。2009年2月の14集「愛よ・・・(사랑아・・・)」以来初めてだ。

・正規アルバムだが、30周年記念の意味も入れる。既存のヒット曲を再びのせるのを検討中だ。

・1984年江辺歌謡祭で、「Jへ」で大賞を受賞してデビューしたイ・ソンヒは、爆発的な歌唱力で人気を享受した。「分かりたいです」や「私はいつもあなたを」、「ひとしきり笑いで」など、多くのヒット曲を出した。

・2011年2月米国、ニューヨークのカーネギー・ホールのアイザック・スターン オーディトリアムでコンサートを開いた。同マネージメント社所属歌手兼タレントのイ・スンギ(27)の音楽先生としても有名である。
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チャン・ヘリの「私に残った愛を差しあげます」

チャン・ヘリ(장혜리)の歌「私に残った愛を差しあげます(내게 남은 사랑을 드릴께요)」(作詞ハム・キョンムン、作曲ハ・クァンフン、1988年)をYoutubeで聴こう。

まず、Youtubeの登録者pops8090のおかげで、こんなに美しい映像を見ることができて感謝。それに、登録者がいずれのYoutube映像に選ぶ女性たちも、古風というか日本人の感覚にマッチしているのがうれしい。

今回Youtubeに登場の、ソン・イェジン(손예진)については、この歌にまさにピッタリの映画に出演していることなどの情報を、以前の本ブログで触れた。ところで、私は女性の涙が戦術的だ・・・と思うのだが、ソン・イェジンの、鼻を赤かめてうっすら涙を浮かべる顔を見ると・・・はい、女性の涙はやっぱり強力です。(今日の日付に変わった、深夜の午前2時30分から、その映画がテレビ放映された)
なお、Youtube後半に、この歌の歌い手であるチャン・ヘリが登場する。

(本ブログ関連:”チャン・へリ「私に残った愛を差し上げます」”)

そよぐ風の便りに
愛の歌 聞こえます
私のそばから離れてしまった
懐かしい愛の歌が聞こえて 心 震えます

暗闇が過ぎ去って
明日が来ると
焦がれた過去の日々が
私にそっとまた近づく ようです

もう泣かないわ
別れはあまりにも苦しいのです
再び離れるとしても
私に残った愛を差しあげます

記憶はなくても
消せないのです
悲しいように押し寄せる懐かしさ

歳月が流れても
いつまでもそのまま
私のかたわらにいてください


(Youtubeに登録のpops8090に感謝)

2014年1月2日木曜日

(資料)イ・ソンヒのスター・ストーリー「9.忙しい活動の中の毎日」

先日(9/27)、「スポーツ韓国」の紙面(1991年3月8日~4月5日)に連載された「イ・ソンヒ27歳当時のスター・ストーリー」記事の目次を紹介したが、その第9回目をここに載せたい。感謝。

イ・ソンヒが、マネジャーとの出会い、忙しい新人時代の様子、そして健康管理などを知ることができた。

(本ブログ関連:”(資料)イ・ソンヒ(27歳当時)の「スター・ストーリー」”、”資料:이선희 Profile”)


[9] 忙しい活動の中の毎日
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初めてのアルバムが想像以上に大ヒットをした後、私は新しいマネジャーのユン・ヒジュン先生*と手を取り合って2集の準備に入った

    (*) ユン・ヒジュン先生:イ・ソンヒの人生に大きく関係することになる。
          1991年の27歳当時の手記であるため、後の1998、1999年の出来事を知るべくもない。

ユン先生は、まずナイトスポットの出演を厳禁した。そうしたところに出て行って、煙たいタバコの煙とホコリの中で歌ってみても良いことは一つもないといって、放送出演以外の時間はみな練習に費やせと忠告した。また、ギターリスト出身の専門の音楽家らしく各種の名曲を聞かせながら、先生の言葉通りに「基礎から再び」教えた。

私はその時、音楽理論もたくさん学んだ。さらに国楽まで学びに通うほどであった。

だが、私の周辺の状況は、のんびりと(?)音楽の勉強でもするように日中放っておくだけではなかった。スケジュールがハードな日は、一日に何と八ヶ所の舞台に上がったりもした。

特に、両方の放送局の特集番組が一度に集まる年末年始には、言葉通り「あわてて(目をつり上げて)」MBCからKBSに、KBSからMBCに飛び回らなければならなかった。私は化粧もしなくて舞台衣装もズボンにジャケットを掛ける式で、気軽な方なので、それなりにちょっと落ち着いたりしたが・・・

それでも、ソウルでの放送出演は、地方に比べれば「両班」(気楽)だ。済州道と釜山などで、まるで隣家に飲みに行くように足しげく上がり下りして見たら、苦労は並大抵ではなかった。その上、今も飛行機酔いのある私は、主に自動車を愛用する。公演開始時間に合わせて見ると、食堂を訪ねて食事を済ませる余裕は最初から考えもできない。やむを得ず、車中でカップラーメンの切れ端で食事を間に合わせたりするけれど、その姿を見たある雑誌社記者は「イ・ソンヒが好む食べ物はカップラーメンだ」と書いたりした。

その記事のおかげで、我が家にしばらくの間、ファンが送ったラーメンが「どこにでも」あるほどあふれた。

目が廻るほど忙しい「行軍」を2年ほどしたので、そうでなくても虚弱な私の体は耐えることができなかった。結局、10日間病院の世話にならなければならなかった。退院後は、無理な出演依頼をできるだけ断る方だが、それでも定期的に「バタバタ」倒れるのは昔も今もあまり変わらない。

「健康に留意」という水準を越えて、「体力を鍛練」する必要がある私は、規則的な生活を最優先にする

たいてい歌手たちは、「ふくろうの生活」(夜間の仕事?)をする場合が大部分なので、何かわきまえず朝に電話しては「朝っぱらから何の大騒ぎだと」 「けんつく」されるのが常だ。甘い睡眠を邪魔されたくなくて、とても親しくなければ互いの電話番号も正しく教えないようにしている。

反対に、私は夜の仕事をしないので、歌手としては比較的早く寝る。私がしばらくの間、熟睡している夜明け(深夜)の1時頃にかかってくる電話は、私をとても苛立たせる。たいてい、私に電話する人は、その遅い時間まで外国歌手の公演ビデオや新曲を聞いて、音楽の話をしようとかけてきたことを分かってはいるけれど、いな、真っ暗ならば寝なければならないのではないか。

寝るとき寝て、仕事をするとき仕事をする規則的な生活以外にも、私は特に喉とお腹に神経を多く使う

歌手にとって、生命とも同じものが正に声なので、私は一日も欠かすことなく寝床につく前に、食塩水でガラガラしながら声帯「清掃」をする。たとえ一日に一度であっても、それがどれくらい面倒なことかは、しない人は分からないことだ。体質上、生卵はちょっと吐き気を催して、それでも一日中、口の中でトローチなどをモグモグすることは嫌いで・・・それで開発した方法が、毎晩「塩味補気」(塩辛いものを飲むこと?)である。

また、朝6時なら、寝床から起きて家の近所のヘルスクラブに走って行く。その位置は、明け方に運動する方々に、どちらであるか明らかにできない点、理解して欲しい。

ヘルスクラブで最も汗をたくさん流すステップは、「腹筋運動」コースだ。それもそのはずなのが、お腹の中で鳴って出てくる声と、喉だけ使って出す音声(国楽では「黄色喉(노랑목)」といったか)とは声自体が違うものであるから。運動のおかげなのか、今でも158cm、46kgの体を無理なく維持している。平素に、体力管理を怠れば、少なくとも人気歌手になることはできない。私でも、公演スケジュールが通常6ヶ月の前までは、埋まっている状態だ。公演日程に基づいて、着々進行されるのだが、体だけが何ともはやスケジュールに従って痛むことか。

いつ寝込むかもしれなくて、用心用心するが私の体は鋼鉄ではないので、時々出演パンク(破る、펑크)を出す時がある。大慨は、痛くて出られないといえば形式的で無愛想な語り口で「健康管理、上手くしなさい」という慰めの言葉をする。だが、時々は到底抜け出せない場合もある。

去る1988年、蔚山KBSで<歌謡トップ10>を生放送したことがある。

当時、私の歌「私の街」が1位曲であったが、その日に限ってスケジュールが重なってしまった。近いといえば近い距離ではあるが、釜山でも放送に出演しなければならなかったのだ。

結局、私は釜山公演を終えるやいなや、蔚山KBSに向かって全速力で車を疾走した。今考えて物凄い途方もないスピードであり、しばらくして何か焼ける臭いがした。タイヤのフレームが、アスファルト上に転がったところで、車中いっぱい煙が立ちこんだ。窒息するようだった。マネジャーの先生が、洋服の上着で覆わなかったならば、おそらく私は窒息死まではないにせよ気絶ぐらいはしただろう。

とにかく、どうにかこうにかかろうじて蔚山スタジオに入った時は、出演歌手全員がいっぺんに歌う準備をしていた。その瞬間、あたふたと駆け付ける私の姿を見たMCが、「たった今、イ・ソンヒちゃんが到着しました」と叫ぶと、私は「私の街」を息つまるように歌った。後ほど聞いてみると、2秒だけ遅れても、私は舞台に上がることができなかったという。その日私は、どんな悪条件下でも歌を歌う可能性があることを証明した。夜10時に寝て、朝6時に起きること。これにより、ほぼ午前中に進行される放送録画の時、一部歌手のように喉がかれることがないだろう。歌手志望生に聞かせたい言葉だ。
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2014年1月1日水曜日

2014年 あけましておめでとうございます

2014年 あけまして おめでとうございます

今年も 良き年でありますように

今年の干支は 「午(うま)」で 十二支中 七番目の折り返しの年にあたる

「午」は 午前、正午、午後という風にも使われ 切れ目のいい文字だ

午年は 「西暦年を12で割って10が余る年」(Wikipedia)とのこと

今年の20124年=12×167+10 フムフム なるほど

ちなみに 丙午年は「西暦年を60で割って46が余る年」(Wikipedia)とのこと

最近では 1966年が これからでは 2026年だそうだ


さて これから 地元神社に初詣にいこう