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2015年11月28日土曜日

仙人になりそこなう

国立国会図書館には、古書をネットで参照できるサービス、「近代デジタルライブラリー」がある。<仙人 支那>で検索すると、最近気になり探している中国の仙人話しを読むことができる。

(本ブログ関連:”仙人”、”国立国会図書館”)

池田大伍編の「支那童話集:新訳」(富山房、大正13年)に、「聊斎志異」*をもとに書いた「仙人修業」がある。仙人になりたいという思いはあるが、それを浅慮と見抜かれた男の話しだ。彼は、仙人になる一途さも、仙人になる躊躇もない。あるのは、その気になってしまう粗忽さだけだった。

(* 「聊斎志異」の「仙術修業 - 労山道士」を童話にした)

仙人になりたくて、(労山にいる)道士に弟子入りしたものの長続きしない王生は、ひと月、ふた月と我慢したものの、とうとう暇を申し出る。何を思ったか、一つだけ秘術を教え乞うたのだ。道士は、「それ見ろ。だから、わたしはお前には辛抱はできないといったのだ。」といいながらも、壁抜けの術を授けた。そして、その時は、王生にもそれができた。
家に戻った王生は、仙道を学んできたといいわけするが、長い留守に女房に散々なじられる。そこで、壁抜けの術を見せようとする。
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「ではやってみせるぞ」
と、家の壁から、五六尺離れて、呪文を唱えて、頭を突き出して、駆けぬけようとしますと、堅い壁で、どさんと頭が突当たって、目が眩んで転倒(ひっくりかえ)りました。お嫁さんが助けおこしてみると、額の上に、大きな卵ほどの瘤(こぶ)が出来ました。お嫁さんはあんまり馬鹿々々しさに、笑い出しました。王はぷんぷん怒って、「悪道士め、欺(だ)ましたな。」と、次団駄ふみましたが、どうすることもできませんでした。
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人にも見極めがある。適不適だけでなく、人格まで見抜くことだ。勘といってもよいし、経験から体得したものといってもよい。重要な仕事を共にする場合に至極当り前の判別だし、自分が編み出した術を伝授するとなればなおさら肝心である。

ところが、見極めからはずれた当人は、なぜそうなのか理解できない。はずした側にすれば、きつくいえないし、早く気付いて欲しいと願うばかりだ。