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2013年12月11日水曜日

(資料)イ・ソンヒのスター・ストーリー「7.『江辺歌謡祭』の裏話」

先日(9/27)、「スポーツ韓国」の紙面(1991年3月8日~4月5日)に連載された「イ・ソンヒ27歳当時のスター・ストーリー」記事の目次を紹介したが、その第7回目をここに載せたい。感謝。

イ・ソンヒが、いよいよ才能が世に見出される瞬間の「江辺歌謡祭」での大賞受賞にかかわる数々のエピソード、あるいは出場したときの名前のセンシティブな情報など・・・まさに数々の裏話を知ることができた。(今回、原文中に特定字句の脱字がいくつか見られた:表示上の理由か?

(本ブログ関連:”(資料)イ・ソンヒ(27歳当時)の「スター・ストーリー」”、”資料:이선희 Profile”)


[7] 「江辺歌謡祭」の裏話
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私は一人でソロとして、<4>はグループとして、江辺歌謡祭に参加した。

私は(ソ)ロの決選にのぼったが、<4>は予選で脱落した。私は、学校の名誉のために決選で「イ・ソンヒ」の代わりに<4>というチーム名の中に私の名前を埋めてほしいという、先輩の提案を受け入れた。決選で、サークルの先輩イム・ソンギュンさんが、その他伴奏と和音を合わせてくれた。

純粋な気持ちで、私が属した音楽サークルを助力しようとしたことなのに、後日あたかも私が<4>の知名度にタダ乗り(無賃乗車)したように知られたのは、今考えてもとんでもないことだ。

私は、84年の「江辺歌謡祭」もまたTVに中継がないと思っていた。例年は、確かにFMラジオでだけ放送されたのを記憶していたから。さらに、生放送で中継されるのをあらかじめ知ったならば、私は多分参加願書も出さなかっただろう。大学入学後にも、私が勉強よりは歌に陥っている姿を父は極めて不満だった。内心、頑固な父を説得できる「締切期日」を、その年の秋ぐらいに捉えていたので、私はまず父に「バレ」ないことが急務であった。

「江辺歌謡祭」の1、2次予選はソウルで執り行なったが、最終予選と決選は南怡島で寝泊りしながら進行した。「これは困った。家に何か言い訳して抜け出すか。数日だが・・・」

結局、私はちょっと無理をしなければならなかった。ムシムシする7月の蒸し暑さの中で、私は往復5時間の距離の、家と南怡島の間を三日間毎日行き来したのだ。

待望の「江辺歌謡祭」決選の前日、私は「変装」した。ひょっとして父や知り合いがTVを見ても、私が誰なのかを見間違えるようにしようと。まず、頭をチリチリにパーマしたし、メガネも視力が似た友人のものと替えて使ったその上、行事当日の演出者シン・スンホ先生の強要(?)で、着ていたジーンズをスカートに着替えたので、それなりにほとんど完ぺきな変装をしたわけだ

その時借りてはいたスカートの持ち主は春川から来たオ・ヘウォンという女子中学生だった余裕がなくて返すことができなかったが、今も家に保管している。この記事を読むことになれば、その時の私のジーンズとヘ・ウォンさんのスカートを交換をする心の準備はないのだろうか・・・。

「江辺歌謡祭」TV生放送時間のカウントダウンが始まった時、私は瞬間的に現場から逃げるところだった父が近づいて来たのだ叔父と叔母も一緒に

叔母はMBC FMを通じて江辺歌謡祭の案内放送で私の名前を確認し、直ちに父に連絡して私を「捕らえに」「出動」したのだった。

私を一時見おろした父の口から想像もできない言葉が流れて出た「せっかくこのようになったこと、必ず1等になりなさい、学生時代の良い思い出を作ると思って・・・

夢にも見られなかった「応援団」が現れたのだ。あらためて決意を固めて舞台に上がった。観客席の中の父と目を合わせて呼吸を整えた。

それなりに最善を尽くしてを歌ったが、「大賞」を授かるなんて想像さえしなかった。

私が心の中で「1等」と目をつけたチームは、「アダダ」という歌を歌ったあるデュエットだった。彼らがどの順位にも入ることが出来なかった事実は、今も理解することができない。

(「Jへ」)で、大賞を獲得した後、私はあらゆる流言に苦しめられなければならなかった。いったい「J」が誰なのかということだった。ある新聞か雑誌は、「J」の仮想図をカラフルに載せたりもした。長身に俊秀な容貌だが、洋服の上着に韓服のズボンを好んで着る変わり者の文学青年とか、実名は「ノ・ソクヒョン」なのに「ノ・ソクチン」というペンネームを使うとか、「J」というイ・ソンヒの祥明女子高時代の片想いとか・・・。

    (注)歌「Jへ」に登場する「J」については、作者のイ・セゴンの言葉から知ることができる。

あまりにも問い質すので、ある席だったか「J」という私の甥(姪)の「ジェヒ」を意味すると話してしまった。その声を聞けなかったある記者は、「ジェヒ」が誰かとまた何度も尋ねた。「ジェヒはわが家の子犬の名前です」

冗談で発した返事だったが、いやはてさて、その記者はその話をそのまま記事にしてしまった。「『J』は、イ・ソンヒが飼っている犬の名前だ」と。

誓って、特定の「J」は、この世界にいない。子どもも、青少年も、また中年層さえも口ずさみながら歩いたように、「J」という、誰もが自分の胸中深く大事におさめている思い出の恋人であることもあれば、また、幼なじみであることもあるのだ。チャン(Jang、장)さん、チョ(Jo、조)さん、チョン(Jeon、전)さん、チュ( Ju、주)さんなどが、自分を忘れられないという歌詞を聞いて、非常にうれしがるという話も聞いた。

(「Jへ」)は、私としては信じられないほど大ヒットをした。1985年1月には、放送回数95回で、最も放送された曲になるほどだった。その時、2位はナミ(나미)氏の「クルクル(빙글빙글)」、3位はイ・ウンハ(이은하)氏の「恋もしたことない人は(사랑도 못해본 사람은)」であったと記憶する。

(「Jへ」)の人気は、MBCとKBS両放送局の間の見えなかった「壁」を崩したという話も聞いた。その前までは、MBCの歌謡祭の出身歌手がKBSに出演するということはほとんど想像も出来ないことだったので、私は今でもその時「糸口」をつけたのをこころよく思っている。

さらに、その年12月30日には、KBS「放送歌謡大賞」の新人賞まで受賞した。MBC側で、それとなく期待を抱いていたが、ライバルの放送会社から賞まで与えるとは・・・私もうれしかったが、MBCのシン・スンホ先生は私よりもっと喜ばれた。「ソンヒ(ソニ)よ、きみ、堰の水を切ったね」

MBCでは、その翌日(12月31日)、私は10代歌手に選ばれたし、新人賞に加え最高人気歌手賞まで上乗せてくれた。 3冠王・・・江辺歌謡祭(7/29)以後、ぴったり五月ぶりにあげた収穫だった。

TVをつけたりラジオをつけるたびに響き渡る私の歌に父は慌てた。仕事がそんなに大きくなるとは(?) そこまで予想できなかったのだ。「おまえ、それは趣味でやったことではなかったのかい?」

しばらく歌って彷徨(?)していれば、再び勉強するだろうだと信じた父は、日ごとに職業歌手になっていく私の姿に、ある危機感を感じたようだ。

芸能人に対してはいつも否定的な見解を持っている父との「暗闘」は、かなり長い間持続した。しかしながら、「子どもに勝つ親がいるだろうか」。結局、父は条件付きで、私の歌手活動を許諾した。

「醜聞を起こして、マスコミの噂にのぼる歌手にはならないこと。外ではお前がスターかも知らないけれど、家に帰れば私の子どもであり、私にとってまだ子どもでしかないことを肝に銘じること。 少しでも様子がおかしいなら、再び歌を歌えないようにするぞ。」 おおまかにそのような言葉だった。

今は、TV画面に映った私の姿と歌をモニターしてくれるほど私の生活を理解している父に、私はなかなか歌謡界の暗い面を話せない。私自身に関しては、常に恥じることがない生活をしてきたので、父の前でいつも堂々ととしていることができる。

私に対する周りの評価はどうだか分からないし、また別に耳をかたむけたい気もないが、私の両親に関する「悪評流言」(デマ)は断じて説明しておかなくちゃいけない。

父は僧侶であるから、言うまでもなく母もまた僧侶を夫としているので、勤倹節約する生活が体質化した人たちである。

したがって、娘ひとりの(おかげ)で贅沢な暮らしをしながら、貴族生活をしているという噂は、話にもならないことだ。歌手が歌数曲ヒットさせると、まず「夜の舞台」(マイナーイメージの舞台)を流れることがわたしたちの現実だが、両親は酒場で歌を歌うことだけは口を極めて止める。最も簡単に大金を握ることができる所なので色々な誘惑も多いが、私自身「夜の仕事」に出て行くことはいやだ。デビュー当初、何も分からない状態で「先輩歌手もみな出て行くので・・・」という考えで、いくつかの営業場所を転々としていた事実を今でも恥ずかしく思っている。

父は、私のために気苦労をたくさんした娘の有名税を元手に宗団の要職に座ろうという誤解が嫌で、何と2年も寺院を離れていたりもした

母は今でも、市場の床に散らばっているハクサイのくずやカブなどを拾ってくる。節約が習慣になったのだ。周りではこのような母を巡って、井戸端会議がはなはだしい。「外車に運転手まで置いて通う娘、恥ずかしくもないのか。どういうショーだ。貧乏たらしい様をあらわにしているね。ケチん坊。」 後生だから、「スター・ママ」と色眼鏡で見ないで、家庭を築いていく「主婦」としての私たちの母にきれいな視線を送ってくれるのをお願いする。

私は、(「Jへ」)を歌った時から、歌唱力はいい歌手という評価を受けてきた。私も認める私の歌の実力は、1984年11月、チョ・ヨンナム(조영남)氏が進めていた(KBSの)「ナイト・ショー」に招待されて、その場で初めて接したノ・サヨン氏の「あなたの影(님 그림자)」を歌った時、そしてMBCの「ショー2000」に出て行って「キャンパス ベスト10」の曲をひきつづき歌った時、完全に「公認」された。

前回、うっかり忘れて落とした話がある。江辺歌謡祭の決選で、<4>のメンバーで共に歌ったイム・ソンギュンさんとの関係についてのことだ。

江辺歌謡祭で大賞を受賞した後約3ケ月の間は、イム・ソンギュンさんとデュエットで活動した。デュエットという性格上、私は彼に付いて歩く時が多かったし、周囲では私たちの二人の間を恋人関係まで歪曲したりした。

私はそのような視線が負担だったし、また江辺歌謡祭に当初ソロで参加したように、再び一人で歌いたい欲が出た。それで、私が先に決別を宣言したいきがかりで、ソロアルバムを出すことになったのだ。「<4>の名前を借りて優勝しておいて、なぜお前一人だけスターの振舞いをするのか」という当時の一部難詰に対しては、「歌に対する欲念」のためだったと答えれば十分説明できるだろう。

なおかつ、<4>のメンバーや学校の中では、私のソロ活動に何の反感もなかった。おだてたり、けなしたりして愚弄した人たちは、私たちのグループや私とは何ら関連ない人物たちだけだった。

(「Jへ」)で、1等を「食べた」(受賞した)直後、私は地球レコード社と専属契約を結んだ。その時、契約金の名目で受けた金があれこれ差し引けば、5百万ウォン。生まれて初めてつかんでみた「大金」だった。その金は、全額父の白内障治療費に使われた。これまで、「芸能人」になろうと決意した娘のためにかなりひそひそ言われた父に、少しでも報いたというやりがいを感じる一方、何か相殺されたような妙な快感(?)も味わったことを告白する。
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