先日(4/9)の「八百比丘尼」の続き。
「江戸奇談怪談集」(須永朝彦 編訳、ちくま学芸文庫)には、江戸期の奇談・怪談について記した書物を並べ、それぞれの代表的な話題をピックアップしている。八百比丘尼を語るとき、まずあげられる資料に、桃井塘雨(ももいとうう)の「笈埃(きゅうあい)随筆」がある。
(本ブログ餡連:”八百比丘尼”)
上記怪談集に掲載の「笈埃随筆」の「八百比丘尼」から、ポイントを抜き出して以下に記す。
① 書き出しは、万葉集の歌から始まる。坂上大嬢(さかのうえのおおいらつめ:坂上郎女(いらつめ)の長女)が、万葉集編者の大伴家持に贈った相聞歌である。(この二人は後に結婚した)
「かにかくに人は言ふとも若狭道の後瀬の山(のちせのやま)*の後も逢はむ君」
後瀬山は、文字面から象徴的に(後に逢瀬するの意で)使われただけで、都びとが若狭まで足を運んだわけではないようだ**。
(*)八百比丘尼は各地を巡った最後に小浜(おばま)に戻り、「後瀬山」で入定したとされる。
(**)資料:「すさまじきもの ~「歌枕」探訪~」の「後瀬山(福井県小浜市)」
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②「八百比丘尼の父は秦道満(はたのどうまん)と申す由」とあり、秦の苗字を名乗っていて帰化系の響きを感じてしまう。また、名は堂満で、「陰陽師」(おんみょうじ)の「安倍晴明」と宿敵である「蘆屋道満(あしやどうまん)」が浮かんでくる・・・。
③ 八百比丘尼が「隠岐」まで訪れて杉を植え、「八百歳を経て後に、また来りて見ん」といったとある。上記の八百比丘尼が各地を巡った例のひとつ。
④ 伝説で、父親がある宴から不信に持ち帰ったもの(人魚の肉)を、娘が知らずひそかに食して八百比丘尼になるというのが主な展開だが、妻が食った例もある。妻は、その味覚・感触を次のように語った。
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・ 一口食した時は、味わい甘露のごとくに覚えましたるが、食し終えるや身体(からだ)蕩(とろ)け死して、夢のようにござりました。
・ 暫(しば)しの後、覚めますると、気骨は健やかに、目は遠くまで利き、耳はよう聞こえ、胸中は明鏡のように覚えまする。
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結果、妻は長寿を得て、親族七代を経ても生き続けた。「遂には若狭の小浜に至ったという」。