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2024年8月22日木曜日

処暑 2024

きょうは、二十四節気の「処暑(しょしょ)」。暑さもすでにピークに至って、後はゆるやかに反転するだけ。そういえば、朝や夜の水道の蛇口から流れ出る水が、ヒンヤリするのに気づく。

(本ブログ関連:”処暑”)

小学生の夏休みは、きょうを含めてあと11日間ほど。ツクツクボウシの鳴き声を聞きながら、宿題の仕上げに追われてあくせくしていることだろう。子どもたちの夏の終わりは、明るくせわしくて、実に健康的だ。

大人になると、この時期を「夏の終わり」と口にすると、急に気恥ずかしくなるだろう。
夏の入りの歌は、これから始まる何かに期待を込めるものが多いけれど、夏の終わりになると、熱射に燃えた興奮とはしゃぎから冷めて、あるいは情熱の経験も終わり、思い出となってしまう。バラード風になる。そんな映画がある。

映画「おもいでの夏」(19781年)
若者(15歳の少年)が妄想と経験をした夏。残念ながら未見の映画であるが、音楽は知られて、美しくセンチメンタルである。(音楽 Michel Legrand)
ー WWⅡ下、1942年の夏、ニューイングランド沖の小島に来た少年は、ある新婚の若妻に魅かれる。

(「おもいでの夏(The Summer of '42)」、Youtube登録:8823 macaron)

功徳となるか

 ● 浅草の浅草寺には、7月10日に参拝すると「四万六千日」の「功徳」*があるという。
この行事は、鎌倉の長谷寺、奈良の東大寺二月堂などでもあるようだ。また、京都の清水寺では、毎年お盆の16日までを「千日詣り」としている。決められた日に参拝するだけで、多数参ったのと同じに値する。日常せわしい庶民にとって、ありがたく便利な行事でもある。
(*)あさくさ 浅草寺: https://www.senso-ji.jp/annual_event/13.html
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平安時代頃より、(浅草寺の)観世音菩薩の縁日には毎月18日があてられてきたが、室町時代末期(16世紀半ば)頃から、「功徳日」といわれる縁日が設けられるようになった。
功徳日とは、その日に参拝すると、100日、1,000日分などの功徳が得られるという特別な日を指す。功徳日は寺社によって異なるが、現在、浅草寺では月に1度、年に12回の功徳日を設けている。このうち7月10日は最大のもので、46,000日分の功徳があるとされることから、特に「四万六千日」と呼ばれる。・・・ 46,000日はおよそ126年に相当し、人の寿命の限界ともいえるため、「一生分の功徳が得られる縁日」である。
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● 四国の寺院「八十八ヵ所」(札所)を巡る旅は、徒歩で約40~45日かかるといわれる。お遍路さんは、その行程に耐えるだけの元気さが必要だろうし時間がかかる。
今は、観光ツアーのひとつにもなっているが、お遍路はいつ頃から始まったのだろうか**。
(**)国土交通省「四国遍路の歴史」: https://www.mlit.go.jp/tagengo-db/common/001558016.pdf
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・(9世紀に四国を巡ったと言われる「空海」(774年~835年)の死後)極めて信仰心の篤かった少人数の僧が行った、これらの巡礼の最も初期の記録は、12世紀まで遡ります。
・今日知られているような四国遍路が成立したのは、平和が続き文化や宗教の追求が花開いた江戸時代(1603–1867)のことです。
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僧の修行と違い、庶民のお遍路は、平穏な時代に世界を広げるチャンスであり、楽しんだのかもしれない。

● けれど、誰もが健康なわけではないし時間に余裕もない。それにかなうように、瀬戸内の島に、四国の八十八ヵ所を短縮した「島四国」があって、徒歩7~8日で済む巡礼の道が設けられている。体のきつい人も含めてお遍路ができる。
島四国のお遍路さんには、歴史に語られることのない人びとが混じっていた。それは、小さな寺院の建物の影で、目立たぬように休憩する癩病者たちの姿だ(明治期を経験した人からの伝聞)。少し前のお遍路の旅には、今のツーリズムと違って、自らの人生を見届ける旅の意味合いもあった。

● ある種の人びとは、共同体でねんごろに最後を迎えられるわけでもない。
明治期の田舎、田んぼの中に襤褸(ぼろ)をまとった男が倒れていた。この放浪俳人にはまだ息があった。処置に困った村人は、隣村へ運び置いたし、結局、家々をたらいまわしされた。
(***)井月の生涯(一ノ瀬武志氏、井上井月顕彰会):  https://www5d.biglobe.ne.jp/~sak/seigetsu/denki.htm
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そしてとうとう、明治19年(1886年)の12月、駒ヶ根市東伊那の田んぼの中で、井月は行き倒れになって発見されました。こんなところで死なれては困ると思ったのでしょうか、村人たちは、井月を戸板に乗せて火山(ひやま)峠を越え、隣の富県(とみがた)へ運んで、置いて帰りました。
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井月の辞世の句といわれる、「何処(どこ)やらに鶴の声きく霞(かすみ)かな」はどこかさびしい。