遠いむかし、小学生のころ、父の会社で英会話を指導していた年配の英国婦人がいた。父と同僚の子どもたち向けに、婦人の自宅で月に数度、英語に親しむようミニ教室を設けてもらった。毎回、絵カードを出して英語で答えるといったゲームのような指導だった。実は、何よりうれしかったのは、指導の最後にお茶とお菓子が用意されたことだ。
もうひとつ興味があったのは、国鉄中野駅から西武江古田駅へ向かうバス(関東バスだったか西武バスだったか)に乗って揺られながら、踏切を越えて、哲学堂の横を通る街の風景を見るのも楽しかった。わたしにとって、それはちょっとした遠出だったからだ。また、同じバス路線を走る別会社の運転手さん同士が、すれ違いざまに互いに挙手で挨拶するのを見るのも関心ごとだった。
教室の帰りには、子どもたちが一緒にバスに乗り、英語ゲームのことをすっかり忘れてはしゃいでいたのを思い出す。
ところで、婦人の名はベーカーさんといった。物静かで、子どもたちに穏やかな表情をいつも向けてくれた。教室で茶菓子をいただくとき、ベーカーさんの名から、素朴にパン屋さんを想像した。もしかしたら、多分、この茶菓子を目当てに通い続けることができたのかもしれない。
そういえば、こんな話をしてくれたことを思い出した。ベイカーさんが子どものころ、キャベツの頭といわれて叱られるのが怖かった・・・、というのは、キャベツは刈り取られてしまうからだ。
今になって、そのような言い回しがあったか、生成AIのChatGPTにたずねたところ、「昔の英国文化や民間伝承の中で、こうした言い回しがあったことは確かです」と回答があった。
婦人は一人住まいだったのだろうか、ときどき、娘さんが子どもを連れてこられた。英語のゲームといっても少々疲れ気味の子どもたちに、ちょっと顔を出して和ませてくれた。
結局のところ英語に慣れたけれど、本人に自覚がなければさらに向上しないと、後に自覚することになった・・・。貴重な時間だったのに。