台風一過の空とは別に、昨日の大雨は北上し、宮城県に新たな堤防決壊の被害をもたらした。午前3時過ぎ、栃木県・茨城県に出されていた「大雨特別警報」が宮城県にも出されたのだ。
NHKのニュースWEBの記事「宮城・渋井川の堤防決壊 宮城や秋田で河川増水」(9/11、16時38分)によれば、「宮城・渋井川の堤防決壊 宮城や秋田で河川増水 - 国土交通省などによりますと宮城県大崎市を流れる渋井川は、11日午前、古川西荒井地区で堤防が決壊して氾濫したほか、宮城県を流れる吉田川とその支流は、富谷町と大和町で水位が上昇して水があふれ、周辺の地域が水に浸かっているのが確認されました。」とのこと。(抜粋)
(Wikpedia「鬼怒川」より)
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・(鬼怒川は)江戸時代までは毛野国(栃木・群馬の旧国名)を流れる「毛野河」あるいは穏やかな流れを意味する「衣川」「絹川」と書かれた。
・<六国史続日本紀>には古来毛野河は下総国と常陸国の境界を成しているとあり、また<常陸風土記>には、かつて筑波西部は紀の国であり毛野河が各郡の境界を成していたとある。
平安時代の書物(<延喜式兵部式>、<倭名類聚抄>など)には「河内郡衣川」や「下野国驛家衣川」などが見え、江戸時代の古地図にも「衣川」とあり、明治時代に編纂された<日本地誌提要>では「絹川」とされているが、<下野國誌>には「衣川」とあり、かつては「きぬがわ」が「衣川」「絹川」と書かれていたことが判る。
「鬼怒川」という表記は明治政府が編纂した<古事類苑>に見られ、これが「鬼怒川」の初出である。「鬼怒川」の表記は、暴れ川である「鬼が怒る川」から「鬼怒川」となった、などと云われるが、「鬼怒」は明治期以降の当て字である。
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今夕、午後8時前に、「大雨特別警報」がすべて取り下げられた・・・。
2015年9月11日金曜日
KBS WORLD「国楽の世界へ」 梅窓
KBS WORLD「国楽の世界へ」は、先週水曜日(9/2)に文化的なキーワードに基づく韓国文化シリーズとして、妓生の梅窓(매창、1573年~1610年)にかかわる3曲を紹介した。
(本放送は先月末までアーカイブされたが、今月から聴けなくなった)
始めに、梅窓と詩人の劉希慶(유희경, 1545年~1636年)の関係を歌った詩について次のように紹介された。
・朝夕に涼しい風も感じられ、夏が過ぎて、秋が訪ねくるようだ。今年も終わりに近づく。なぜか、懐かしい人を思い出す季節でもある。全羅北道の扶安地域に、妓生の梅窓が住んでいた。昔の恋人を愛しく思い詩を書いた。梨の花が咲く春に涙で見送った彼は、秋になっても戻ってこないという内容だ。彼とは詩人の劉希慶で、梅窓が二十歳のとき、28歳年上の彼と恋に落ちた。低い身分出身の詩人であった。梨の花がまるで雨のように降る様を指して、「梨花雨(이화우)」と言う。
▼ 頭学時調(지름시조、定型詩)の歌「梨花雨」を放送と別に、”ustreamの댕기언니”で聴く。秋風に舞う花弁・葉の如く。
次に、梅窓は、黄真伊(황진이、1506年?~1567年?)と並ぶ妓生(詩妓)だったことを次のように紹介された。
・梅窓は、黄真伊と並ぶ朝鮮時代を代表する詩妓だ。梅窓が亡くなると、人々は彼女の詩を探し、地方で身分を誇示した村役人が金を集めて詩集を作った。男女や身分の関係が厳しい時代、、妓生の詩集を出したのは驚くべきことだ。
・梅窓は、「洪吉童(홍길동)」の著者、許筠(허균、1569年~1618年)とも親しかった。彼は、梅窓を妓生としてでなく、人生や芸術を語り合える友としたようだ。梅窓に送った面白い手紙がある。梅窓がコムンゴを奏でながら歌っている姿を、通りがかったソンビが詩に表し広く知られた。詩を聞いた許筠は、梅窓へ冷やかす手紙を送った。梅窓が歌ったのは許筠を恋しいからという噂が流れ、悔しいという内容だ。梅窓がそのとき歌ったのは、「山慈姑鳥(산자고새)」という鳥の名の曲・・・だ。
▼ 「山慈姑鳥」の演奏。
最後に、梅窓は様々な人に囲まれて人生を終えたと次のように語られた。
・梅窓はコムンゴが好きで、亡くなる時もコムンゴと一緒に埋葬して欲しいと遺言を残したという。38歳の若さで亡くなると、許筠は残念な気持ちを文に残した。梅窓は妓生だが、詩や歌、コムンゴにも優れ、人柄が良く、清い人で、自分はその才能が本当に好きだったと。妓生であったが、彼女は幸せな人だった。劉希慶のような恋人と許筠のような友がいたからだ。それに、自身の詩を詩集にしてくれる人々までいた。
▼ 愛しい気持ちを込めた詩を音楽にした「남하여 편지 伝치말고」(他の人に手紙を渡さず、あなたが運び人となって直接手紙を持ってきてください)を放送と別に、”Youtube”で聴く。聴く。歌い手の恋しい気持ちが伝わるという。今様である。
(本放送は先月末までアーカイブされたが、今月から聴けなくなった)
始めに、梅窓と詩人の劉希慶(유희경, 1545年~1636年)の関係を歌った詩について次のように紹介された。
・朝夕に涼しい風も感じられ、夏が過ぎて、秋が訪ねくるようだ。今年も終わりに近づく。なぜか、懐かしい人を思い出す季節でもある。全羅北道の扶安地域に、妓生の梅窓が住んでいた。昔の恋人を愛しく思い詩を書いた。梨の花が咲く春に涙で見送った彼は、秋になっても戻ってこないという内容だ。彼とは詩人の劉希慶で、梅窓が二十歳のとき、28歳年上の彼と恋に落ちた。低い身分出身の詩人であった。梨の花がまるで雨のように降る様を指して、「梨花雨(이화우)」と言う。
▼ 頭学時調(지름시조、定型詩)の歌「梨花雨」を放送と別に、”ustreamの댕기언니”で聴く。秋風に舞う花弁・葉の如く。
次に、梅窓は、黄真伊(황진이、1506年?~1567年?)と並ぶ妓生(詩妓)だったことを次のように紹介された。
・梅窓は、黄真伊と並ぶ朝鮮時代を代表する詩妓だ。梅窓が亡くなると、人々は彼女の詩を探し、地方で身分を誇示した村役人が金を集めて詩集を作った。男女や身分の関係が厳しい時代、、妓生の詩集を出したのは驚くべきことだ。
・梅窓は、「洪吉童(홍길동)」の著者、許筠(허균、1569年~1618年)とも親しかった。彼は、梅窓を妓生としてでなく、人生や芸術を語り合える友としたようだ。梅窓に送った面白い手紙がある。梅窓がコムンゴを奏でながら歌っている姿を、通りがかったソンビが詩に表し広く知られた。詩を聞いた許筠は、梅窓へ冷やかす手紙を送った。梅窓が歌ったのは許筠を恋しいからという噂が流れ、悔しいという内容だ。梅窓がそのとき歌ったのは、「山慈姑鳥(산자고새)」という鳥の名の曲・・・だ。
▼ 「山慈姑鳥」の演奏。
最後に、梅窓は様々な人に囲まれて人生を終えたと次のように語られた。
・梅窓はコムンゴが好きで、亡くなる時もコムンゴと一緒に埋葬して欲しいと遺言を残したという。38歳の若さで亡くなると、許筠は残念な気持ちを文に残した。梅窓は妓生だが、詩や歌、コムンゴにも優れ、人柄が良く、清い人で、自分はその才能が本当に好きだったと。妓生であったが、彼女は幸せな人だった。劉希慶のような恋人と許筠のような友がいたからだ。それに、自身の詩を詩集にしてくれる人々までいた。
▼ 愛しい気持ちを込めた詩を音楽にした「남하여 편지 伝치말고」(他の人に手紙を渡さず、あなたが運び人となって直接手紙を持ってきてください)を放送と別に、”Youtube”で聴く。聴く。歌い手の恋しい気持ちが伝わるという。今様である。
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