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2014年1月26日日曜日

錫高野#19

1年振りの錫高野。今日で通算19回目の採集だ。寒い1月は採取場所の選択に難儀するため、通い慣れた錫高野に毎回白羽の矢が当たる。幸いなことに、今日はしっとりと湿った、しかも温暖な気配して、冬場ながら絶好の日よりだ。

(本ブログ関連:”錫高野”)

早朝、暗いなか家を出る。路面は濡れても空気穏やか、寒気を忘れたよう。始発電車に乗り込むも、暖房がうっとおしいくらい。2度の乗り換えも、駅ホームで寒風に震えることもない。そして、待ち合わせ駅でH氏の車に同乗して、錫高野へ向かう。柔らかな陽の差した薄靄の朝、冬から春へ一っ飛びしたようだ。

さすがに、錫高野入り口にあたる仏国寺の林道を抜ける風はヒンヤリする。簡易のヤッケをジャンパーにかぶせる。今回、2人組の採集者たちと出会った。一組はやる気満々おじさん組、もう一組はほんわか父娘組だ。同好の士に次々出会うのも珍しい。

現地は、一年振りのため、風景が少々変わっていた。倒木多数。掘り起こした跡がずいぶんとあるのだ。また沢斜面にあるズリの小石が、多数滑り落ちていた・・・人為的なのか気になる。

我らは、堅実というか労を惜しんで表面採集に徹する。それでも、嬉しい良品である、この地名を表す「錫石」を収集したのだ。母岩表面にキラリと輝く(茶)黒褐色の結晶が点在する・・・錫高野の第1回採集のとき、磨耗した錫石を得て以来、それなりにしっかりしたものを手に入れたのだ。

今日の採集鉱物を次に記す・・・いただき物も含む。

・錫石(上記)、水晶(微小ながら透明)、鉄マンガン重石(再び目にするようになった)、ブロシャン銅鉱(膜状)、白鉄鉱
・(硫砒鉄鉱+黄鉄鉱+班銅鉱)、(断面:銅藍の周りをブロシャン銅鉱が包む?)

ところで、H氏採集のブロシャン銅鉱は、岩の隙間から濃い緑色した針状結晶を覗かせた。

2014年1月25日土曜日

Youtubeでイ・ソンヒを見たという友に返信

Youtubeで「赤いドレス姿」のイ・ソンヒを見たと、わざわざ今日の日付に変わった深夜にメールをくれた友へ返信した。昨日、「ファン」の心について記したところでもあり、ファンの気持ちのまま綴った返信内容をほぼそのまま載せる。筆と口が滑ったところは、ファンならではと容赦いただければ・・・。(一部変更)

(本ブログ関連:”イ・ソンヒ ファン”)
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またまた、深夜のメールありがとうございます。

ご覧になったイ・ソンヒの映像は「Turning the pages of memories」でしょうね。

タイトルは、「思い出のページをめくれば」(추억의 책장을 넘기면)です。
「추억(追憶、思い出)의(の) 책장(ページ)을(を) 넘기(繰る、めくる)면(れば)」

彼女の「ドレス姿」については、当時、コンサート会場のファンの間に「ため息」が流れたそうです・・・(賛否)いろいろな意味で。

ちなみに、彼女の「スカート」、「ズボン」(パンツというのですね)姿については・・・

イ・ソンヒは、基本的に「ズボン」姿が中心ですので・・・若い頃は「少年のよう」ともいわれました。
これは重要なポイントです。女性を前面に出す歌手が多い当時、ある意味で中性的な彼女のスタイルは、まだ性的なものに嫌悪感ある女子中高生たちに絶大な人気を得ました。そして、イ・ソンヒの人生とともに彼女たちファンは、恋愛、結婚、出産、破局、悲劇、再婚というイ・ソンヒの流転を共感できるほどに共に成長します。

ところで、イ・ソンヒの「メガネ」姿は、80年代POPやフォーク系の歌手の間で流行しました。チョー・ヨンピルもしかりです。やがて、ダンスブームの80年代末~90年代になると、歌手たちにとってメガネが邪魔になって・・・。俳優も、韓流初期の男優たちを思い出してください。

イ・ソンヒの変わらぬスタイルは、現在も韓国の中高年保守層に受け入れられています。
彼女は、無闇に音楽市場を広げようとしません・・・自身で音楽事務所や舞台を運営していたことがあって、業界のなかで生き抜く力と才知を合わせ持っているようです。
歌謡歌手として、若手を育てることもできる、とてもユニークな存在ですよ。

そうそう、彼女は高校時代に、ヘビメタに熱狂していたそうです・・・素養・素地は広いですよ。

・・・ああ、話が尽きません。次回に続けましょうか?
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2014年1月24日金曜日

ファン

気紛れなものだ、ファンっていうものは。黙っていればいいものを、言わずにおられないのがファンたる所以、熱狂というか、ファナティックというか。それを見て、常識人は「私にはわからないね」といぶかしむ。ファンは分かってもらいたいと、更に気負う。もしかしたら、反感を買うことになるかもしれないのに・・・。

食べ物だって好き嫌いがあるでしょ? 子どもは正直だから遠慮しない。それに近いかな。趣味の世界に、コレクター、マニア、あるいはオタクたちがいる。自称もあれば他称もある。そのことを秘匿するものもいれば、これ見よがしにするものもいる。

まあ、うるさがられない程度に、そしてたまには同好の士の集いでもあるコンサートや、映画館、会合に行くことになる。それで十分かな。

ところで、私は歌手の中でイ・ソンヒのファンを自認しているけれど、映画スターについては、キム・ベイシンガー(Kimila Ann “Kim” Basinger)かな。彼女がアカデミー賞(助演女優賞)を受賞した、「L.A.コンフィデンシャル(L.A. Confidential)」(1997年)は忘れられない。それは昔、八百比丘尼伝説をモチーフにした、NHKのテレビドラマ「女人幻想」(1972年)で主役を演じた佐藤友美を見て以来の感覚で、女性に心を心奪われていく展開に引き込まれた。釘付けされる心境だった。

キム・ベイシンガーの顔にどこか見覚えがある。子どもの頃の記憶か、映画雑誌のどこかで見たのか、リタ・ヘイワース(Rita Hayworth)の容貌だ。ちょっと釣り目の陰がある、我がままで奔放、意志の強そうなところが通じるよう。そして可愛い、不思議だね・・・そう思いませんか。

2014年1月23日木曜日

寒気の緩む気配して

最近、寒気の緩む気配がする。三寒四温には早過ぎるが、いっときでも春が近いと思わせてくれるのはありがたい。強張っていた体が、合わせるようにほぐれていくのを感じる。

春になれば、木々が幹中の水を走らせて若芽を膨らませるように、人の体も血流を巡らせるだろう。若ければ躍動に、年とればそれなりに元気につながる。おじさんは、ようやく背筋が伸びるというもの。

ところで人体を車に例えると、経年の痛みはあちこちキズや錆となって見つかる。よくぞ大きなトラブルもなく動いてくれたと思う。心臓は一時も休みなく脈打ち続けたのだから。人工物なら、そうはうまくいかない。随時の修理と定期的な部品交換が必要だ。生命体は丈夫だ、柔軟に内部から身を移し変えるのだから。

時として思うことがある。<セミ>は地中で幼虫に成長するのに「17年(アブラゼミは6年)」、地上に出て成虫として活動するのに「1-2週間(実際は、1ヶ月ほど)」という命であるが、彼らは一生をどう思っているのだろう。
そう、地中の孤独な時間だって、結構充実していたんじゃないだろうか・・・と。<セミ>にとって、人生の晴舞台は、もしかしたら地上に上がる時だったのかもしれないってね。

ぱあーっと明るく広がる直前は、何にも増して楽しい。

2014年1月22日水曜日

KBS WORLD「国楽の世界へ」 長丞(チャンスン)

KBS WORLD「国楽の世界へ」は、先週水曜日(1/15)に文化的なキーワードに基づく韓国文化シリーズの第39回として、日本の道祖神にも似た「長丞*(チャンスン、장승)」にまつわる話を紹介した。

    (*)長丞: 別名「将軍標」、近くでは高麗駅および高麗神社で二柱の境界標を見る。

まず始めに、長丞の姿と役割について次のような紹介から始まった。
・長丞は、手足もなく、ぶっきらぼうに突き立ち、顔だけギョロッと飛び出た目玉と、平べったい団子っ鼻が刻まれている。犬歯を突き出し、泣き笑いか分からない奇怪な表情だ。
・昔は村の入口に男女対の長丞が立ち、男の長丞は「天下大将軍」、女の長丞は「地下女将軍」の文字が体に刻まれ、村を守る役割をした。長丞の表情を滑稽・奇怪というが、見る人の心の投影かもしれない。訪れた人物が善良な場合はこれを歓迎し、悪徳な場合は足止めさせ戻るよう祈願して作られた。

▼ 「赤壁歌(적벽가)」*の中から「長丞打令(장승타령)」を聴く。敗走の曹操(조조)が長丞を押し倒したそうだが・・・

    (*)赤壁歌: 「韓国人の情緒に合わせて創作または修正された部分も多い」(Ko-wikipedia)

この歌では、同じ木から生まれても、長丞となった不遇の身を嘆く。とはいえ、長丞は道端に立ち道標の役割も果たした。

▼ 「ピョン・ガンスェ(변강쇠)打令(타령)」を聴く。ピョン・ガンスェが長丞を薪にしてしまう・・・この歌でも、長丞はその身を嘆くとか。そこに、「横負歌」とかイロイロ情報が耳に入って・・・。ところで、歌声は読経の如し。

次に、長丞の起源や地域性について次のように解説された。
・長丞の起源や由縁について、確かなことは不明だが、古代の性器崇拝信仰や、民間信仰のひとつの「ソンドル(선돌/입석, 立石)」、「ソッテ(솟대)」の風習からという見方が有力のようだ。また、トッケビ(도깨비)という鬼顔や、土俗的な仮面のイメージにつながるという考え方もある。
・長丞は、地域によって素材や顔の形が少しずつ違う。①湖南(ホナム:全羅南道と全羅北道の総称)や嶺南(ヨンナム:慶尚南道と慶尚北道の総称)の南道地方では石像が多く、平たく丸みを帯びた南方系の顔。②京畿道や忠清道地方では主に木像で、顔が長く目が切れ長で、鼻も長い北方系の顔。狭い国土の中、多様な文化が混じり合い発展したことを、長丞の顔つきからも推測できる。また、③済州島では、「トルハルバン(돌하르방)」と言われる石像が、長丞の役割を担った。このトルハルバンは本土の長丞の奇怪な姿と異なり、自愛に満ちた表情で、島に来る人々を迎える。

▼ 済州民謡「シナウェギソリ(신아외기소리)」を聴く。労働歌ながら子どもにも馴染みやすい歌で、今様編曲ながら楽しい。

2014年1月21日火曜日

40代、新しい文化消費の主役に

イ・ソンヒは、「旧暦」1964年11月11日生まれで「数え年」では50代とされるが、「新暦」に照らしてみると12月14日生まれのため、「満年齢」では現在49歳の40代である。
e-todayの記事「40代、大衆文化に応答する  少年の感性持った‘新世代中年’、新しい文化消費の主役に」(1/14、チェ・ドゥソン記者)は、韓国の40代が新しい文化消費の主役にという次のような紹介がある。(抜粋)

消費において新しい傾向であるが、流行の中身は復古調というのが特徴なのかもしれない。

ところで、若年と高年世代との狭間にある40代は、社会的に<現在の40代が、以前のような「安定的な階層」から「不安定な階層」に転落したという現実がある>という厳しい見方も他方にある。

(本ブログ関連:”40代”)
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・40代が大衆文化消費の中心層に浮び上がった。歌謡、映画、ドラマなどに復古熱風が激しい。 tvNドラマ「応答せよ1994」は文化産業全般的に大きい成功を収めたし、映画、公演界全般には初恋の思い出が主な素材として位置づけて1990年代を呼び戻している。

・昨年唯一の1000万観客映画「7号室のプレゼント」のリュ・スンニョンを始め、「雪国列車」のソン・ガンホ、「監視者たち」のソル・ギョング、「新世界」のファン・ジョンミン、イ・ジョンジェ、「かくれんぼ」のソン・ヒョンジュなど40代男性俳優の映画は、40代観客の好評に力づけられて全て興行に成功した。

・映画専門サイトのマックス・ムービー映画研究所発表は、2013年映画前売り観客分布資料によれは映画館客のうち、10代3.5%、20代24.2%、30代40.5%、40代24.9%、50代以上が6.9%を占め・・・「40代観客増加は、映画館客2億人突破を説明できる最も大きいキーワードだ。40代は家族単位観客でチケット購買量が20代より1~2枚さらに多い」と分析した。

・放送界では・・・やはり40代男性視聴者の共感を形成して新しい文化トレンドとして位置を確立した。

・大衆音楽界も同じだ。昨年「ハロー」を歌ったチョー・ヨンピルの突風の後にも40代ファンの「賓客(ひんきゃく)」があった。10年ぶりアルバムは40~50代消費者をレコード売り場とコンサート場に呼び入れ・・・20万枚の高い販売高を記録した。関係者は、40~50代が最もたくさん訪れたと説明する。

・キム・ナンド ソウル大教授は、最近発刊の「トレンド コリア2014」を通じて、「以前の中年世代のライフ・スタイルと決別を宣言した、新世代中年男性たちが文化の中心にある。新しい40代は少年のような感性を持った『おとな子ども』たちだ。これらは、既に社会的に強制された男性的イメージから抜け出して、美容・余暇・文化など多様な方面で消費の主役として位置を確立している」と40代の新しい文化消費主役での浮上を説明した。
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2014年1月20日月曜日

大寒2014 (冬哀傷)

今日は二十四節気最後の節気「大寒」である。次は二十四節気の最初に戻り、「立春」(2/4)となる。大寒は最も寒い時期といわれるが、ようやく一年の季節が一区切りされ、最終章を迎えたと考える方が先立つ。立春まで、ひと我慢である。

夕方の5時頃には陽が暮れて、一日が短くせわしく感じられたが、最近は5時過ぎでも薄明かりして余裕が出てきた感がある。夏のように、午後7時を過ぎても昼間の余韻が残っているのが理想だ。それなら、「白夜」なんか最高だろう・・・と思っても、その反対に「極夜」があって、うまい具合に我がまま通りにならない。地球が地軸を傾けて公転しているからだ。

寒い夜には、熱いラーメンがうまい。といっても、最近、夜食がきつくなってきた・・・。
ともあれ、ラーメンができあがるまでの時間に作詞したという逸話がある、5集所収の名曲「冬哀傷(겨울 애상)」(作詞:キム・ヨイル作曲:ソン・シヒョン、1989年)を聴いてみよう。まるで、氷世界が共振するような、透明感あふれる旋律も素晴らしい。そして、イ・ソンヒの安定感ある歌に聞き惚れる。

(本ブログ関連:”イ・ソンヒの「冬哀傷」を作詞した場面”、”冬哀傷”)


星明かりに澄み映える  私の悲しい顔よ
雁が鳴きながら  飛び去る  空を  見る

懐かしさ雪のように積もり  丘を転がり超えて
青い月明かり  降り注ぐ  私の空っぽの  庭に

風は木の葉を 吹きたてて  消えたが
なぜ痛く懐かしい小船は  私の胸に浮かんでいるのか

消すことが  できないのか
冬になるとよみがえる姿

青く冷たい  私の愛
凍ってしまった悲しい後姿

風は木の葉を 吹きたてて  消えたが
なぜ痛く懐かしい小船は  私の胸に浮かんでいるのか

消すことが  できないのか
冬になるとよみがえる姿

青く冷たい  私の愛
凍ってしまった悲しい後姿
凍ってしまった悲しい後姿

(Youtubeに登録のksj25374110に感謝)

2014年1月19日日曜日

数え年と満年齢

イ・ソンヒの年齢を数えるのに、「旧暦」と「新暦」、および「数え年」と「満年齢」の組み合わせで、毎回頭の中が交通整理で大変だ。
韓国では日常、誕生日を「旧暦」で、年齢を「数え年」で数えるようだ。(70年代初頭までは、旧暦の誕生日を祝ったそうだ。また現在、満年齢表記する場合、その旨「満歳(만 나이)」と注記するようだ)

イ・ソンヒの誕生日
・旧暦: 1964年11月11日
・新暦: 1964年12月14日 ← 彼女の公式ホームページでは、こちらで祝っている。(例)

イ・ソンヒの年齢
・「数え年」の場合
 - 誕生した年を1歳とし、翌年の新暦元旦を以って1歳ずつ加算する。
 - 誕生した1964年が1歳、今年2014年に51歳となる。 ← 韓国マスコミは昨年、彼女を50代とした。
・「満年齢」の場合
 - 新暦1964年12月14日に0歳で誕生、今年2014年12月14日までは49歳、まだ40代である。


そんなわけで、過去ブログで、年齢計算の仕方を間違えたところがある?・・・なら修正しなくちゃ。

2014年1月18日土曜日

イ・ソンヒの「思い出のページをめくれば」

イ・ソンヒの成熟を象徴する意味で、彼女の分岐点ともなった作品である、6集所収の「思い出のページをめくれば(추억의 책장을 넘기면)」(1990年、作詞・作曲ソン・シヒョン)は、彼女が述懐するように、一方で「ファンはほとんど期待もしなかった歌をもっと好きだった」、まさにその曲でもあった。音楽において、彼女は常に幸運に恵まれた歌手だ。

(本ブログ関連;”(資料)イ・ソンヒのスター・ストーリー「1.余裕のアピール力を持った歌手」”)
(本ブログ関連;”(資料)イ・ソンヒのスター・ストーリー「8.夜の舞台時代の警備員の話」”)
(本ブログ関連;”「思い出のページをめくれば」”)


ゆらぐる思い出のページをめくれば
ああ、遂に果たせなかった悔しさと侘しい贖罪が

むかしのことのように、ぼんやりとかすむ窓枠の塵(ちり)のように
ああ、胸に積もるよ、今は遠ざかったあなたの微笑みのように

雨風がなくても春は来て夏は行く
ああ、あなたよ・・・涙がなくても、花は咲き葉はやがて散る

ああ、わたしに残った懐かしい歳月を浮かべて、眠りにつくよ、夢を見るよ・・・


(Youtubeに登録のJzongwに感謝)

2014年1月17日金曜日

冬の土用

冬にも「土用」がある。Wikipediaの土用の説明に「四立(立夏・立秋・立冬・立春)の直前約18日間ずつ」があって、今日(1/17)の「冬の土用の入り」から「立春」(2/4)の前日2月3日までを指している。夏の土用は暑気払いとして鰻を食うが、冬の土用の場合、一体何を食うのだろうか。

スーパーやコンビニの商品棚には、気早く2月3日の「節分」に撒く豆や恵方巻(こちらはサンプルだが)、2月14日の「バレンタインデー」のチョコレート(手造り用の材料として)が並んでいる。

ちょっと残念なのは、この地に土着の風物が足りないことだ。遠の昔に農作業は消えてしまい、人々の営み中に季節を知ることはできない。流通の商品棚や通信の画面(テレビやインターネット)の中でしか感じられない。

寒暖以外に、自然の息吹を、生活に溶け込んだ伝統の行事や祭事を通じて気付きたいものだ。

(追記)
今日は、「阪神・淡路大震災」(1995年1月17日)から数えて19年目にあたる。関東の住人にとって、果たして、「東日本大震災」(2011年3月11日)を経験しなかったら、関西のひとびとの恐怖を想い描くことがどれくらいできたろうか。6年の間に東西で発生したこれらの震災は、わたしたちの心の中に自然に対してだけでなく、人との絆の意味をあらためて思い知らせた。

2014年1月16日木曜日

冬さまざま

昨日ほどではないというが、今日だってだいぶ寒い。外出には、コートの襟首まで閉じるほどだ。こんな寒中、赤ん坊をコートに包(くる)んで母子一体となった買い物姿を見ると、母性の逞しさを感じる。そして口の中で、頑張れとつぶやいてしまう。(赤ん坊は、いずれそんな覚えはないだろうけれど、あなたのお母さんは立派だよ!)

そういえば、今年から毎日一枚ずつ剥がす日めくりカレンダーが加わった。これが結構手間がかかり、気付けば昨日のママ、何てことを繰り返している。ひと月たって、ああ時の流れの速い事よと諦観してみせるが、日めくりだと毎日追われ、今年の時間が加速したような気がする。いずれ時間に追いつけなくなるときが・・・。

昨年の成人の日は1月14日で、まさかの大雪だった。今年の冬は一昨日~昨日に降雪の気配があったが、予報の通り積もることはなかった。近在のスーパーは、プラスティック製の雪かきスコップを陳列している。オレンジ色のでっかいものだ。買った方が良いのだろうか・・・といっても、数年に1回くらいしか使うこともない。どうしようか。

冬でも石採りに行きたいが、寒いのはつらい。歳とともに、ますます厳しく感じる。といいながら、今年最初の採集地は錫高野を予定している。ここでは以前、積雪が残った沢で採集していたとき、吹き降りる沢風にビニールの雨合羽でも耐えられず、熱燗缶の日本酒で寒さをしのいだことがある・・・でも、全然温まらないのに酔いだけが廻るのだ。そして、さめた後の悲惨さといったら。

早く冬が終わらないかな。

2014年1月15日水曜日

(資料)イ・ソンヒのスター・ストーリー「10.それが歌なの 発声練習では」

先日(2013/9/27)、「スポーツ韓国」の紙面(1991年3月8日~4月5日)に連載された「イ・ソンヒ27歳当時のスター・ストーリー」記事の目次を紹介したが、その第10回目をここに載せたい。感謝。

イ・ソンヒの、ヒットの数々とトラブル、慈善活動、海外とのかかわり(マイケル・ジャクソン、レスリー・チャン)、ファンクラブ誌(ニンジン)などを知ることができた。

(本ブログ関連:”(資料)イ・ソンヒ(27歳当時)の「スター・ストーリー」”、”資料:이선희 Profile”)

[10] それが歌なの 発声練習では
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・1985年11月、私の2集アルバムが出た。タイトル曲は「秋の風」。

・ところで、この歌が盛んに電波に乗っている頃、盗作の是非にまきこまれて、すぐさま放送停止にあってしまった。公演倫理委員会が立てた理由は、キム・ヨンジャさんが1983年発表した「愛の迷路」中の「あぁ、私たちの愛のロウソクの灯り/消えて道に迷ったね」の部分をそのまま盗作したというのだ。私が作曲した歌でなく、何か抗弁する立場ではなかったが、ちょっとくやしかった。メロディが全く同じならばともかく.・・・結局、私は「秋の風」を再録音しなければならなかった。それでも若干惜しくなかったのは、「ケンチャナ(大丈夫)」が「秋の風」に劣らずヒットしたという事実だ。慰めはなった。

・3集の「分かりたいです」を準備しながら、私は最初のリサイタルを持った。それが1986年7月26日、 収益金は全額「恵まれない学生家長*助け合い」募金に出した。奨学金形式で渡されたお金の中には、新光女子中と祥明女子高の後輩に与えられたのもある。最初の数回は、学校に直接訪ねて行って、奨学金を学校に寄託したが、そのたびに校長先生が学生たちに紹介してほめるお言葉がなぜか過分で照れくさくて、この頃は人伝に学校に送っている。

    (*)学生家長: 家長の役割を合わせ持つ学生 (本ブログ関連:”学生家長”)

・当時は、「学生家長」という概念さえ曖昧な時だったので、私は「有名税」を利用したいわゆる、「マスコミ・プレー」をよくした。広告費はとても高くて、また往来にポスター貼りは不法で・・・したがって、私は放送に出演するたびに、私の慈善公演日程を大々的に「広報」したりした。

・実際にチャリティー・コンサートを準備しながら、後悔(?)もたくさんある。準備期間が3ヶ月ほどかかるからだ。普通のファンは、TVに映らなければ「あの子、もう終わった」といいながら速断することが常なので、コンサート準備期間中には、かなり大きい打撃を甘受しなければならないのだ。

・とにかく、困難を訴える学生家長の手紙を知らない振りすることもできなくて、収益金を狙った(?)慈善公演を今まで40回余り行った。手に余っても、引き続き強行しようとしている。

3集では「分かりたいです」が最も多い愛を受けた(人気があった)曲だ。1987年4月の一ヶ月間、放送回数107回を記録したので、いつでもどこででも聞こえる歌だったと言える。「やはり」タイトル曲でないこの歌が大ヒットした原因は、ヤン・インジャ先生*の歌詞のためのようだ。「忙しい時、電話しても私の声うれしいんですか」などの歌詞は、女性心理を見抜いたという評を聞いて、それゆえに男性ファンからは「男に疲れさせる(重い)歌」という愚痴も聞こえてきた。

    (*)本ブログ関連:”ヤン・インジャ”

時折、私に向かって「それが歌か、発声練習では」と厳しく批判する人もいる。認める。私の歌が主に高音域中心であるから。

それで、6集「思い出のページをめくれば」では、トーンをかなり低く下げた。偏狭な考えかも知れないが、6集くらいで満足できなければ、私は致し方ない。世の中のすべての人を満足させる能力は私にはないので。

私はそれなりに情熱と誠意を尽くして歌う。全身に力を集中して「熱唱」する数年・・・いつのまにか私の手の平にはタコができた。私も知らない新しいマイクを握った掌中に力が入っていたようだ。

私の名前の前に「歌手」という接頭辞がつき始めて以来、私は実に多くの仕事を経験した。

日刊スポーツのゴールデン・ディスク賞5連覇*をはじめとして、歌謡と関連した賞ほぼ一度ずつは全て取ってみた。そして望んだだけファンから愛も受けている。今でもファンレターと一緒に熊のぬいぐるみなど様々なプレゼントの包が、1年なら小型トラック2台分位ずつ家に舞い込む。

    (*)ゴールデン・ディスク賞5連続受賞、1990年12月9日(イ・ソンヒ公式ホームページより)

外国にも何度も出かけたし、私の歌が香港映画「野生の花」*の主題歌で歌われることもあった。 また、つぎつぎ翻案して歌った外国の歌手もかなり多くて、誰が誰なのか確かに分からないほどだ。

    (*)香港映画「野生の花」・・・未確認

あの有名なマイケル・ジャクソンも、私とともにデュエット・アルバムを吹き込もうと申し入れて来たりした。ところで問題は「踊り」だった。レコードと同時に、ミュージックビデオまで作るつもりだったジャクソンは、テープに録音された「私はいつもにあなたを」など数曲を聞いてみて極めて満足したのか、私自身の振りつけ担当まで付けてやると米国に来ないかなど、積極性を見せたが私は断った。理由は、ただ一つ。 自尊心(プライド)が傷つけられたためだ。

「時価いくらの世界的なスターでも、私に2年も踊りを習えだって? フン、素晴らしいね、このひとは。 私、そんなに暇な女ではないね」

香港の歌手、張國榮(レスリー・チャン)とも共に舞台に立ったことがある。彼のステージ・マナーは本当に良かった。かなり多くの曲を歌ったが、そのうちの二曲だけがライブであった。放送でもないコンサートなのに・・・それは香港式、いや英国式なのか?

「張國榮」といえば思い浮かぶ気が乗らない記憶一つがある。彼は若くも老いもない女性を自分の母親と紹介したが、その女性は私が張國榮と話すたびにとても気遣う様子だった。「チェッ」誰が自分の息子、なんという大儺(鬼払い)。*

    (*)世間で言われるような関係はなかったのだろうか

ところで後ほど分かってみれば、彼女がまさに張國榮の隠した「スポンサー」とか。だが確認する方法はない。

ファンが声援してくださることにはいつも感謝するが、できるならあまり興奮はしないようにされたら良いだろう。特にコンサート現場では。

1987年の冬、63ビルディングで公演を持った時、女子学生4人が気絶したことがある。病院に移す途中、靴までなくしたそのうちのある少女に私の履き物を履かせてあげて、私はスリッパ姿で帰宅したりした。弱り目にたたり目で、その日、汝矣島(ヨイド)広場ではある政党の群衆(大衆)集会があったので、そこでケガした人々に、私のコンサートで過度に興奮した少女4人まで加勢して、近所の病院は時ならぬ好況(?)を向かえ、汝矣島一帯の交通はしばらくの間麻痺したようなものだった。

熱狂ファンに自ら少しでも誠意の表示をするという気持ちで始めたのが、1年に四回ずつ直接お送りするファンクラブ誌「ニンジン」である。ファンクラブの会員数が1万5千人ほどだから、一度発送するには、それこそ私の周辺には「大騒ぎ」がある。

「ニンジン」の内容は、「イ・ソンヒは、その間何をしながら過ごしたか」が主流をなしてファンたちの各種「称賛」と「抗議」、そして「悩みの相談」も多く入っている。 懸賞クイズもある。「イ・ソンヒ姉さんが一番明るく笑う時は、歯が最大限でいくつ見えでしょうか?」
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2014年1月14日火曜日

KBS WORLD「国楽の世界へ」 北斗七星

KBS WORLD「国楽の世界へ」は、先週水曜日(1/8)に文化的なキーワードに基づく韓国文化シリーズの第38回として、「北斗七星(북두칠성)」にまつわる話を紹介した。

まず、夜空の星々と北斗七星の歌について、次のような紹介から始まった。
・韓国のことわざに、とても不可能の意を表す、「空の星を取る(하늘의 별 따기)」がある。確かに、星を手にすることは難しく、現代の都心では、星さえ忘れて暮らしている。昔の人々は、きらめく夜空を見上げて様々な思いをはせ、星々に特別な力があると考えた。
・朝鮮時代の女性歌曲(여창가곡)にも、北斗七星(평롱)が登場する。「北斗七星、一つ、二つ、三つ、四つ、五つ、六つ、七つの星たちよ、私の願いを聞いてください。恋しいあの方がいらっしゃったから、この夜がどうか、ゆっくりと明けるようにしておくれ」。

▼ 界面調(계면조) 平弄(평롱)「北斗七星(북두칠성)」を聴く。星の輝きする・・・今様に編曲したのか?

次に、北斗七星に寄せる思いの強い歴史的、文化的なかかわりについて次のように解説した。
・北斗七星は、ひしゃく形をして明るく光るため、簡単に見つかる。西洋では神話に登場するが、韓国でも、先史時代の支石墓(コインドル、고인돌)に、北斗七星が刻まれている。また高句麗時代の墓の壁画に北斗七星が描かれている。
・空に東西南北の四方位を守る神がいて、北斗は北の空を司る神の意がある。さらに空を神と見立てて、北はその喉と舌に当たり、北斗七星は、空それ自体を象徴すると捉えられた。
・古く、空は人の運命をも左右する力を持つとされ、北斗七星は人間の生き方、寿命、幸福、災いなどと関連すると神格化された。(一)母親は、家族の健康と和平を祈るため、甕の上に水を汲んで、北斗七星に祈りをささげた。(二)(シャーマンの)巫堂(ムーダン、무당)によるクッ(굿)のお払いの際、北斗七星を祀ることが多かった。さらに、(三)寺院には、釈迦を祭った本堂とは別に、七星閣(チルソンガク、칠성각)という小さな建物がある。仏教が根付く過程で、深く信じられた北斗七星信仰をたくみに習合した。

▼ 済州(島)の七頭堂クッ(칠머리당굿)中の「七星本プリ(칠성 본풀이)」を聴く。淡々と語りつぐ・・・七にこだわり、ヘビ信仰と?(「本プリ」とは、クッを受ける神が神となった話を含む部分とのこと)

最後に、済州島の北斗七星にまつわる伝説を次のように紹介した。
・済州島には、(一)年老いた母に孝行を尽くした息子たちが死後に星となった話、(二)あの世の尊い薬を手に入れ、父の命を救ったパリ姫の息子が7つの星となった話が伝えられている。この島の北斗七星の伝説には、不思議なことに、全て女性が関連している。女性が他地域に比べて多く、家庭のやりくりを主導していた風習が反映されていたからだろう。

▼ 「The Starry Night(별금자)」を聴く。コムンゴファクトリーの演奏・・・超モダンで難解に・・・。

・・・わかりました、空の星を眺めながら、遠く宇宙のかなたに想いをはせてみましょう。

2014年1月13日月曜日

冬景色(続)

今日は成人の日。夕方の街中、成人式の帰りだろうか、かわいらしい振袖姿があちらこちらに目につく。何はともあれ、若いことはよいものだ。当人たちにとって、私のときもそうだったが、成人式の今日は単なる通過点でしかない。でも、この日を祝われてこそ、自覚を促されるというもの。頑張れ。

ところで、近隣の駅ビルにある本屋で、「唱歌・童謡ものがたり」(読売新聞文化部、岩波現代文庫)を求めた。というのも、本書に収められた71曲中に、昨日の本ブログに記した唱歌「冬景色」について、次のような記載(岡田康晴記者)を目にしたからだ。(抜粋)

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「私が好きなのは『朧月夜(おぼろつきよ)』と・・・・・・『冬景色』です」
皇后陛下(美智子妃殿下)からそうお聞きして、国語学者の金田一春彦はポンとひざを打ちたかったという。金田一も詞の美しい、この二つの歌が大好きだった。

『冬景色』は、一九一三年(大正二)、音楽教科書「尋常小学唱歌(五)」で発表された。

(歌詞が当時として斬新な)六五調の節回しとリズミカルな三拍子
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この項の最後に、作詞・作曲不詳であるいきさつと、作詞者の推定までされていて興味深い。

それにしても、この歌の始まり(早朝)と終わり(黄昏)の描写がことのほか美しい。

    さ霧消ゆる湊江(みなとえ)の
    舟に白し朝の霧

    若(も)し燈火(ともしび)の漏れ来ずば
    それと分じ野辺の里

2014年1月12日日曜日

冬景色

冬の夜、起きているときはガス・ストーブで部屋中熱くしても、就寝中はガス・ストーブをつけっ放しにするわけにもいかず、足元を暖めるため電気あんかを使った。しかし、それでも暖が足りず、昨晩ついに電気マットに取り替えた。

今年の冬は、昨年より厳しいのだろうか、それとも歳とともに寒さに耐え難くなったのか。こんなとき、少しでも心を癒すのは昔の歌だ。文部省唱歌の「冬景色」は、その歌詞がなぜか優雅な気がする。しっかりした文体は、心落ち着かせるものだ。
「京都 大原 三千院」の詞で思い出深い、デュークエイセスの歌で「冬景色」を聴いてみよう。

(Youtubeに登録のhinanohiに感謝)

2014年1月11日土曜日

イ・ソンヒの「あなたに届くなら」

イ・ソンヒの11集所収の「あなたに届くなら(너에게 가면)」(1998年)は、この歌の作者から、あるいは彼女の人生から、つい深読みしたくなるが、素直に聴けばよいのであって、かえって何処かで耳にしたような親和な曲風である・・・でも、気になる。

(本ブログ関連:”イ・ソンヒの「あなたに届くなら」”)

耐えられぬ日々の様に  忘れられないあなたに届くなら
ふるえる手で  記憶の中をたぐっても

怒れぬ時間の中で  忘れられないあなたの前に立てば
私の小さな手に  むせび泣きささやくでしょう

倒れないで、私が耐えられる また戻ってくる  その日を忘れないで
いわないで、あなたをしのんで待っています

隠さないで、忘れられぬ時間を すすり泣きながら  私のぬれた目で
愛しています、永・遠・に


(Youtubeに登録のsunnyfan100に感謝)

2014年1月10日金曜日

「知りたい」と「分かりたい」こと

以前このブログで、イ・ソンヒの「分かりたいです」という曲名から、「知りたい」と「分かりたい」ことについて考えてみた。

(本ブログ関連:”イ・ソンヒの「分かりたいです」”、”分かりたいです”)

さらにもう一歩、高尚な捉え方かもしれないが、次のような話を読んで、上記曲名の理解にそのまま当てはめてよいか躊躇するが・・・ある高名な歴史家*が、若い頃に恩師の語った言葉を伝えたもので、歴史(対象)と取り組む姿勢を若者に伝えたものだ。

(恩師の言葉) 「解るということはそれによって自分が変わるということでしょう」
(歴史家の解説) 「・・・何かを知ることだけではそうかんたんに人間は変わらないでしょう。しかし、『解る』ということはただ知ること以上に自分の人格にかかわってくる何かなので、そうのような『解る』体験をすれば、自分自身が何がしかは変わるはずだと思えるのです。」

この言葉を、世俗に引き寄せて、曲名「分かりたいです」を解すれば、想いを相手に伝え、応えを求めて、よって自身が変わろうとするまでを含むようだ。一方、「知りたいです」では、知りたい側の言葉だけで、相手との共鳴する想いが響いてこない。

少々大げさだが、そう理解した。

(*)「自分のなかに歴史を読む」阿部謹也著)

2014年1月9日木曜日

健康体操教室の翌日は

毎週水曜日に、市の施設で開かれる健康体操教室に通っている。年末と年始の2回は休みだったため、体が少々なまってきたところで、昨日、今年最初の教室に出かけた。

運動を教わっているとき、「休みの間、自宅でやっていましたか?」という先生の問いかけに、視線が思わず天井に向いてしまう。まあ、回りの皆さんも同様だったが。そんなわけで、久し振りの運動をして気付いたのは、①屈伸をすると腹が邪魔になる、②太もも、ふくらはぎの後ろ側を伸ばすと痛いのだ。年末、年始をダラダラ過ごしたせいだろうか。反省。

いつも通りの体操にもかかわらず、(それを家で繰り返すこともなく)暫く間を空けたため、「明日は体が痛くなりますよ」といわれた・・・まさにその通り、今日は体のあちこちが強張る。あらためて、体操教室のありがたさに気付く、人間の体は少しの荷重が必要だ。納得。

ところで、椅子に座りながらブログを作成しているとき、姿勢が自然と前かがみになるのを防ぐために、子ども用のボール(φ22cm位い)を背中~腰にあてて、背筋を伸ばすようにしている。まだ一ヶ月ほどの試行だが、姿勢を意識するのに無理のない道具だと思う。推奨。

2014年1月8日水曜日

イ・ソンヒの「Jへ」

イ・ソンヒは20歳になる1984年に、MBCの第5回「江辺歌謡祭」において、「Jへ(J에게)」で大賞を受賞してデビューを果たした。このいきさつについては、本ブログで何度も繰り返しとりあげてきた。

(本ブログ関連:”Jへ”、”江辺歌謡祭”、”イ・ソンヒのスター・ストーリー「7.『江辺歌謡祭』の裏話」”)

「サニー」の愛称でファンに親しまれる彼女は、今年デビュー30周年を迎える。来月、アルバム15集を出すことになり、マスコミは、「いつの間にかデビュー30年」、「カムバック」、「ディーバ(歌姫)の帰還」と同時に、昨年のチョー・ヨンピルの復活に照らして、「バタフライ効果」、「音楽業界の圧力」などとベテラン歌手の彼女への大きな期待を伝えている。

「江辺歌謡祭」のステージに立ったイ・ソンヒは、ある意味、歌の力だけを信じて挑むことができた、よき時時代の象徴でもあった。

(Youtubeに登録の526apolloに感謝)

2014年1月7日火曜日

ボルヴィック

数日前、名前を忘れたがテレビ番組で、スタッフ?の(日本)女性がフランスの名勝を廻るというコーナーがあって、ある家?に泊った翌朝、その家庭の若い娘が洗顔しないことに驚く場面があった。フランスの水道水は硬質で、肌が荒れるからだそうで、以って化粧水で代用するという。

いわれることに、フランスの水道水は硬水のため、飲料水に適さない。代わりに、ミネラルウォーターやワインを飲むのだと。日本でポピュラーな、フランスのミネラルウォーターに「ボルヴィック(Volvic)」がある。このボルヴィックは、どんな処で汲み出されているのだろうか。

▼ ボルヴィックを販売しているKIRINのホームページに、次のように紹介されている。
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・ボルヴィックが生まれるフランス中部オーヴェルニュ地方は、「ピュイ・ド・ドーム」、「カンタル」、「オート・ロワール」、「アリエ」の4つの県からなり、北のアリエ県を除く南部3県は全て山岳地帯で、中央山地(マッシフ・サントラル)と呼ばれています。フランスの中では珍しく変化に富んだ地形をもつこの地方では、昔の火山活動でできた湖や渓谷がいたる所にあります。

・ボルヴィックの水源地はおよそ4,000ヘクタール。その広さは東京ドーム約850個分にも及びます。フランス中部オーヴェルニュ地方に広がる火山自然公園の中心にあるピュイ山脈。・・・

・オーヴェルニュ地方に広がる緑濃い火山自然公園の北端にある美しい村がボルヴィックの故郷、ボルヴィックです。・・・
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ボルヴィックは、硬度60で「軟水」の範疇に入る、1927年に発見された比較的歴史の新しいミネラルウォーターである。


▼ 「ヨーロッパ火山紀行」(小山真人著、ちくま新書)に、ボルヴィックの産地ピュイ・ド・ドームが次のように紹介されている。
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・パリ盆地と地中海にはさまれる形で、広大なフランス中央山塊(Massif central)が存在し、2000メートル近い高山がひしめいている。ただし、山塊の大部分は、険しい山と言うよりはなだらかな高原によって占められている。・・・

・このフランス山塊に数多くの火山が存在する、といっても大部分はすでに活動を終えた古い火山であり、豊かな森におおわれ、その懐には町や村が作られている。・・・

・ピュイ・ド・ドームは、シェヌ・デ・ビュイ火山群の最高峰(一四六四メートル)であり、およそ一万一○○○年前に噴火した溶岩ドームである。高原上に噴出したので、ドームそのものの高さは四五○メートルであり、ドームの底径は二キロである。・・・

・シェヌ・デ・ビュイ火山群には数多くのハイキングコースが整備されている。・・・お勧めは、ピュイ・ド・ドーム北側にあるいくつかのスコリア丘や溶岩ドームである。・・・
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約1万1,000年前に噴火した溶岩ドームのピュイ・ド・ドーム(Puy de Dôme)の写真を見ると、何となく伊豆半島の伊東にある、約4000年前に噴火した単成火山であるスコリア丘の大室山の姿を連想する。時間の経過と、緑に覆われた遠望がそうさせるのだろう。

ボルヴィックのボトルラベルに、なだらかな緑のピュイ・ド・ドームの絵が描かれている。高尾山に登るような気楽さなのだろうか・・・。

(本ブログ関連:”大室山”)

KBS WORLD「国楽の世界へ」 (吉報)

KBS WORLD「国楽の世界へ」は、毎週水曜日に放送されているが、先週水曜日は元旦(1/1)であり、特別放送(仁川アジア大会開催)のためにお休みだった。

ところで、昨年大晦日(12/31)に「アナウンサー・オン・パレード」があって、日本語放送の番組関係者がそろって歌対抗する恒例のイベントを放送した。

そのなかで、いつも楽しく拝聴している「国楽の世界へ」担当の岸加那子さんが、昨年3月17日に結婚されて、今年には赤ちゃん誕生と紹介された。おめでとうございます。そしてお体大事に願います。

七草粥

今日で松の内が明ける。

「せり/なずな、ごぎょう/はこべら/ほとけのざ、すずな/すずしろ」と暗記した、春の七草の七草粥を食べる風習がある。草の名は何となく覚えても、七草粥を食べた覚えはない。

春の息吹を感じるよう、そろそろ気持ちを切りかえるときである。

2014年1月6日月曜日

本屋の棚から消えるもの

文学者であり小説家が、以前雑誌に肩のこらぬ連載をしていて、それがまとまって確か文庫本になっていた筈だと、近在の中古書チェーン店の数店に探しに行った。ところが、その方の作品が書棚に驚くほど見当たらないのだ。

昨年、亡くなられたばかりというのに、扱いがこんな風なのかと少々驚いた。旧仮名遣いを押し通したせいでもないだろうけれどと思いながら、書店を巡ったが、何処も同じだった。今の若い世代には、とっつきにくい作家だったのかもしれない・・・そうでもあるまいに。似た雰囲気の女性作家も、今は高齢となれば作品は見当たらない。

文学や評論は、活字として残ると思いたいのだが、残念なことに余程に特質なのものでない限り、読み継がれることは結局ないのだろう。つくづく古典の凄さがわかるというものだ。

本屋の書棚から、時代を共有しただけだが、著名な作家、文学者そして評論家たちの作品が次々消えていくのは、火が薄れていくようでさびしいものだ。

2014年1月5日日曜日

小寒2014

今日は、二十四節気の最後から二番目である「小寒」だ。新暦の正月の行事が一通り過ぎたところ、季節の変化を意識するわけだが、この後、更に「大寒」が待っている生憎の節気でもある。(寒の入りの小寒の方が大寒よりも寒いということもある)

昨日、マフラーをつけて外出したところ、店舗内の暖房に額に汗が滲んだものの、一歩外に出れば、寒風にその効用に気付く。やはり、今は厳冬だ。

とはいえ、陽の温みをそろそろ察知して、雁は北へ帰り始めるという。ネット情報をいくつか見ると、地域によって異なるが、実際は、来月(2月)下旬頃から飛び立つようだ。寒い時期にやがて来る温もりを避けて北帰行するわけだが、それを見送る者には置いてけぼりされたような寂しさと少しの不安が残る。

イ・ソンヒの「冬哀傷(겨울 애상)」(1989年)も、傷心のまま癒されることもなくじっと、飛び去る雁を見送るだけのようだ。

(本ブログ関連:”イ・ソンヒの「冬哀傷」”)

ところで、イ・ソンヒの2月リリースの15集アルバムが(日本の)店頭に並ぶのは、いつのことかな。待ち遠しい。

2014年1月4日土曜日

魯迅の「お長と山海経」

魯迅の短編「お長と山海経」(藤井省三訳、光文社古典新訳文庫)に登場する「お長(阿長)」は、まるで漱石の「坊っちゃん」の下女(養育係り)の「清」のように、主人公の世話をする。「坊っちゃん」の明治気質の清と違って、「お長と山海経」のお長は頑固さや狡さがあり、そして適当さもあわせ持っていているが、人間味のある彼女と主人公(僕)との距離感は返って近いようにも見える。

「お長と山海経」の主人公は、大叔父の影響もあって、彼から聞いた絵入りの中国古代の地理書である「山海経」が欲しくなり、新年のお年玉としてお長にそれを求めた。後日、お長は実家からの帰りがけに、木版色刷りの「山海経」四冊を買ってきてプレゼントしてくれたのだ。

「ページをめくれば、たしかに人面の獣、九頭の蛇、一本足の牛がおり、袋のような帝紅鳥、頭がなくて『乳を目とし、臍(へそ)を口とし』、さらに『干戚(たてとおの)を執って舞う』刑天がいるのだ。」という、粗末な色刷りだが、その図は少年の空想を膨らませるに十分なお宝となった。

(本ブログ関連:”山海経”)

イ・ソンヒの歌「狐の嫁入り(여우비)」がOSTである、SBSのロマンチック・コメディ「僕のガールフレンドは九尾狐」の主人公「九尾狐」について、その起源を記した「山海経」に関心がますます深まる。魯迅が幼い頃に見たであろう、子供向け色刷りの「山海経」の四冊(「南山経」、「大荒東経」、「東山経」、「海外東経」)を、実際に手にとって見てみたいと思う。

(本ブログ関連:”狐の嫁入り”)

2014年1月3日金曜日

イ・ソンヒ 来月(2月)に15集をリリース!

イ・ソンヒは来月(2月)、ついにアルバム15集をリリースする。

NEWSIS.COMの記事「『サニー姉さん』 イ・ソンヒ、いつのまにかデビュー30年…来月15集」(1/3、イ・ジェフン記者)は、次のような期待を込めた情報を知らせる。いやあ、待ち遠しい。それにしても突然知った。

イ・ソンヒの再婚した夫からの昨年の情報では、「最近、活動がまばらな妻イ・ソンヒの近況については『非常によくやっている。今は休んでいるが近いうちにコンサートをするのか、アルバムを出すのかよくわからない。妻の歌手活動については一切関与していない』と述べた。」と、確証を得られていないが、一方、彼女のファンクラブは、30周年記念に向けて応援を企画している。

ともあれ、ついにというか、やっと期待が実ることになった。早速、記事を見てみよう。感謝。
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・今年でデビュー30周年を迎えた歌手イ・ソンヒ(50)が、5年ぶりに正規アルバムを発表する。

・マネージメント社のフックエンターテインメント(Hook Entertainment)によれば、イ・ソンヒは、2月中に第15集を出す。2009年2月の14集「愛よ・・・(사랑아・・・)」以来初めてだ。

・正規アルバムだが、30周年記念の意味も入れる。既存のヒット曲を再びのせるのを検討中だ。

・1984年江辺歌謡祭で、「Jへ」で大賞を受賞してデビューしたイ・ソンヒは、爆発的な歌唱力で人気を享受した。「分かりたいです」や「私はいつもあなたを」、「ひとしきり笑いで」など、多くのヒット曲を出した。

・2011年2月米国、ニューヨークのカーネギー・ホールのアイザック・スターン オーディトリアムでコンサートを開いた。同マネージメント社所属歌手兼タレントのイ・スンギ(27)の音楽先生としても有名である。
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チャン・ヘリの「私に残った愛を差しあげます」

チャン・ヘリ(장혜리)の歌「私に残った愛を差しあげます(내게 남은 사랑을 드릴께요)」(作詞ハム・キョンムン、作曲ハ・クァンフン、1988年)をYoutubeで聴こう。

まず、Youtubeの登録者pops8090のおかげで、こんなに美しい映像を見ることができて感謝。それに、登録者がいずれのYoutube映像に選ぶ女性たちも、古風というか日本人の感覚にマッチしているのがうれしい。

今回Youtubeに登場の、ソン・イェジン(손예진)については、この歌にまさにピッタリの映画に出演していることなどの情報を、以前の本ブログで触れた。ところで、私は女性の涙が戦術的だ・・・と思うのだが、ソン・イェジンの、鼻を赤かめてうっすら涙を浮かべる顔を見ると・・・はい、女性の涙はやっぱり強力です。(今日の日付に変わった、深夜の午前2時30分から、その映画がテレビ放映された)
なお、Youtube後半に、この歌の歌い手であるチャン・ヘリが登場する。

(本ブログ関連:”チャン・へリ「私に残った愛を差し上げます」”)

そよぐ風の便りに
愛の歌 聞こえます
私のそばから離れてしまった
懐かしい愛の歌が聞こえて 心 震えます

暗闇が過ぎ去って
明日が来ると
焦がれた過去の日々が
私にそっとまた近づく ようです

もう泣かないわ
別れはあまりにも苦しいのです
再び離れるとしても
私に残った愛を差しあげます

記憶はなくても
消せないのです
悲しいように押し寄せる懐かしさ

歳月が流れても
いつまでもそのまま
私のかたわらにいてください


(Youtubeに登録のpops8090に感謝)

2014年1月2日木曜日

(資料)イ・ソンヒのスター・ストーリー「9.忙しい活動の中の毎日」

先日(9/27)、「スポーツ韓国」の紙面(1991年3月8日~4月5日)に連載された「イ・ソンヒ27歳当時のスター・ストーリー」記事の目次を紹介したが、その第9回目をここに載せたい。感謝。

イ・ソンヒが、マネジャーとの出会い、忙しい新人時代の様子、そして健康管理などを知ることができた。

(本ブログ関連:”(資料)イ・ソンヒ(27歳当時)の「スター・ストーリー」”、”資料:이선희 Profile”)


[9] 忙しい活動の中の毎日
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初めてのアルバムが想像以上に大ヒットをした後、私は新しいマネジャーのユン・ヒジュン先生*と手を取り合って2集の準備に入った。

    (*) ユン・ヒジュン先生:イ・ソンヒの人生に大きく関係することになる。
          1991年の27歳当時の手記であるため、後の1998、1999年の出来事を知るべくもない。

ユン先生は、まずナイトスポットの出演を厳禁した。そうしたところに出て行って、煙たいタバコの煙とホコリの中で歌ってみても良いことは一つもないといって、放送出演以外の時間はみな練習に費やせと忠告した。また、ギターリスト出身の専門の音楽家らしく各種の名曲を聞かせながら、先生の言葉通りに「基礎から再び」教えた。

私はその時、音楽理論もたくさん学んだ。さらに国楽まで学びに通うほどであった。

だが、私の周辺の状況は、のんびりと(?)音楽の勉強でもするように日中放っておくだけではなかった。スケジュールがハードな日は、一日に何と八ヶ所の舞台に上がったりもした。

特に、両方の放送局の特集番組が一度に集まる年末年始には、言葉通り「あわてて(目をつり上げて)」MBCからKBSに、KBSからMBCに飛び回らなければならなかった。私は化粧もしなくて舞台衣装もズボンにジャケットを掛ける式で、気軽な方なので、それなりにちょっと落ち着いたりしたが・・・

それでも、ソウルでの放送出演は、地方に比べれば「両班」(気楽)だ。済州道と釜山などで、まるで隣家に飲みに行くように足しげく上がり下りして見たら、苦労は並大抵ではなかった。その上、今も飛行機酔いのある私は、主に自動車を愛用する。公演開始時間に合わせて見ると、食堂を訪ねて食事を済ませる余裕は最初から考えもできない。やむを得ず、車中でカップラーメンの切れ端で食事を間に合わせたりするけれど、その姿を見たある雑誌社記者は「イ・ソンヒが好む食べ物はカップラーメンだ」と書いたりした。

その記事のおかげで、我が家にしばらくの間、ファンが送ったラーメンが「どこにでも」あるほどあふれた。

目が廻るほど忙しい「行軍」を2年ほどしたので、そうでなくても虚弱な私の体は耐えることができなかった。結局、10日間病院の世話にならなければならなかった。退院後は、無理な出演依頼をできるだけ断る方だが、それでも定期的に「バタバタ」倒れるのは昔も今もあまり変わらない。

「健康に留意」という水準を越えて、「体力を鍛練」する必要がある私は、規則的な生活を最優先にする。

たいてい歌手たちは、「ふくろうの生活」(夜間の仕事?)をする場合が大部分なので、何かわきまえず朝に電話しては「朝っぱらから何の大騒ぎだと」 「けんつく」されるのが常だ。甘い睡眠を邪魔されたくなくて、とても親しくなければ互いの電話番号も正しく教えないようにしている。

反対に、私は夜の仕事をしないので、歌手としては比較的早く寝る。私がしばらくの間、熟睡している夜明け(深夜)の1時頃にかかってくる電話は、私をとても苛立たせる。たいてい、私に電話する人は、その遅い時間まで外国歌手の公演ビデオや新曲を聞いて、音楽の話をしようとかけてきたことを分かってはいるけれど、いな、真っ暗ならば寝なければならないのではないか。

寝るとき寝て、仕事をするとき仕事をする規則的な生活以外にも、私は特に喉とお腹に神経を多く使う。

歌手にとって、生命とも同じものが正に声なので、私は一日も欠かすことなく寝床につく前に、食塩水でガラガラしながら声帯「清掃」をする。たとえ一日に一度であっても、それがどれくらい面倒なことかは、しない人は分からないことだ。体質上、生卵はちょっと吐き気を催して、それでも一日中、口の中でトローチなどをモグモグすることは嫌いで・・・それで開発した方法が、毎晩「塩味補気」(塩辛いものを飲むこと?)である。

また、朝6時なら、寝床から起きて家の近所のヘルスクラブに走って行く。その位置は、明け方に運動する方々に、どちらであるか明らかにできない点、理解して欲しい。

ヘルスクラブで最も汗をたくさん流すステップは、「腹筋運動」コースだ。それもそのはずなのが、お腹の中で鳴って出てくる声と、喉だけ使って出す音声(国楽では「黄色喉(노랑목)」といったか)とは声自体が違うものであるから。運動のおかげなのか、今でも158cm、46kgの体を無理なく維持している。平素に、体力管理を怠れば、少なくとも人気歌手になることはできない。私でも、公演スケジュールが通常6ヶ月の前までは、埋まっている状態だ。公演日程に基づいて、着々進行されるのだが、体だけが何ともはやスケジュールに従って痛むことか。

いつ寝込むかもしれなくて、用心用心するが私の体は鋼鉄ではないので、時々出演パンク(破る、펑크)を出す時がある。大慨は、痛くて出られないといえば形式的で無愛想な語り口で「健康管理、上手くしなさい」という慰めの言葉をする。だが、時々は到底抜け出せない場合もある。

去る1988年、蔚山KBSで<歌謡トップ10>を生放送したことがある。

当時、私の歌「私の街」が1位曲であったが、その日に限ってスケジュールが重なってしまった。近いといえば近い距離ではあるが、釜山でも放送に出演しなければならなかったのだ。

結局、私は釜山公演を終えるやいなや、蔚山KBSに向かって全速力で車を疾走した。今考えて物凄い途方もないスピードであり、しばらくして何か焼ける臭いがした。タイヤのフレームが、アスファルト上に転がったところで、車中いっぱい煙が立ちこんだ。窒息するようだった。マネジャーの先生が、洋服の上着で覆わなかったならば、おそらく私は窒息死まではないにせよ気絶ぐらいはしただろう。

とにかく、どうにかこうにかかろうじて蔚山スタジオに入った時は、出演歌手全員がいっぺんに歌う準備をしていた。その瞬間、あたふたと駆け付ける私の姿を見たMCが、「たった今、イ・ソンヒちゃんが到着しました」と叫ぶと、私は「私の街」を息つまるように歌った。後ほど聞いてみると、2秒だけ遅れても、私は舞台に上がることができなかったという。その日私は、どんな悪条件下でも歌を歌う可能性があることを証明した。夜10時に寝て、朝6時に起きること。これにより、ほぼ午前中に進行される放送録画の時、一部歌手のように喉がかれることがないだろう。歌手志望生に聞かせたい言葉だ。
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2014年1月1日水曜日

2014年 あけましておめでとうございます

2014年 あけまして おめでとうございます

今年も 良き年でありますように

今年の干支は 「午(うま)」で 十二支中 七番目の折り返しの年にあたる

「午」は 午前、正午、午後という風にも使われ 切れ目のいい文字だ

午年は 「西暦年を12で割って10が余る年」(Wikipedia)とのこと

今年の20124年=12×167+10 フムフム なるほど

ちなみに 丙午年は「西暦年を60で割って46が余る年」(Wikipedia)とのこと

最近では 1966年が これからでは 2026年だそうだ


さて これから 地元神社に初詣にいこう

2013年12月31日火曜日

2013年にさようなら

さて今年もあと数時間でおしまいだ。あっという間の1年だった。

こんな年の暮れ方も珍しい・・・惜しむ間もなく、ざるから漏れるように時が過ぎた。

ここで1曲、イ・ソンヒの「惜別の情(석별의 정)」、つまり「蛍の光」を聴きたいたいところだが、残念ながら単独で2013年の最後を飾るに相応しいYoutube映像が見当たらない。・・・昨年版のものはあるのだが。

そんなわけで、軽快にポール・モーリヤ(Paul Mauriat)編曲の「蛍の光(AULD LANG SYNE)」を聴きながら今年を仕舞いましょう。(Youtubeに登録のufrp136に感謝)

来年もよい年でありますように。

KBS WORLD「国楽の世界へ」 クリスマス

KBS WORLD「国楽の世界へ」は、先週水曜日(12/25)に文化的なキーワードに基づく韓国文化シリーズの第37回として、「クリスマス(크리스마스)」にまつわる話を紹介した。

まず、イエスの「5つのパンと2匹の魚」の奇跡の紹介から次のように始まった。(聖書に基づき改編)
・イエスを慕い従った人々に、夕暮れに与える食べ物が全くなく困った時、弟子はわずかに残ったパンを5つと魚を2匹差し出した。イエスはこれを裂いて5千を超える人々に与え満腹にした。このイエスの奇跡は、小さくとも、自ら所有するものを人々に喜んで差し出す行為に、尊い価値を知らせた。独占する心を、喜んで分け与える心に変えること、それがイエスの奇跡だった。

▼ パンソリ「イエス伝」中の「イエスが馬小屋で誕生する題目」を聴く。こんな・・・布教の巧みさを考える。

次に、韓国のキリスト教の広まりについて次のように解説された。
・1549年、ザビエルが日本にカトリックを布教した。文禄・慶長の役(1592年~1598年)の際、西洋のセスペデス(Sespedes)神父が、日本から朝鮮に入った記録があるが、戦乱中の宣教活動は限定的だった。1631年、中国へ朝貢の使節を通じて、カトリックが本格的に伝来した。カトリックはまず学問として西学(서학)の名で広まる。当初、友好的だったが、その後百年余りの間、迫害を受け数多くの殉教者も出したが、現在数多い信者がイエスの生き方とその教えに感化されることとなった。

▼ 「ホワイトクリスマス」を聴く。伽耶琴(カヤグム)による演奏・・・国楽から洋楽へ、いいかもしれない。

最後に、シルクロードを経由したキリスト教の話が次にように説明された。
・シルクロードの繁栄を狙っていた唐代の首都、長安には世界から人々が訪れ賑わっていた。その中で、景教というキリスト教一派が仏教に負けずに栄えていた。景教はトルコの宣教師ネストリウスから広まったもので、シルクロードを通じて中国に伝わったもので、ユーラシア大陸を行き来した躍動的な動きが感じられる。

▼ 「あなたは愛されるために生まれてきた人(당신은 사랑받기 위해 태어난 사람)」を聴く。二弦の擦弦楽器、奚琴(해금:ヘグム)による演奏・・・美しい調べする、今様である。

2013年12月30日月曜日

丸いこと

内部で回転運動をすると不思議なことに安定感が増す。といってもジャイロ効果のことだが、回転の進行は同じでも、直径の両端から向かいあって見ると、反対方向に走っているように見える。一見、互いに運動を打ち消すようで、そのことが安定をもたらすといっても・・・。

その安定感には、態勢を決める重力が関わるだろうと思っても関係ない。宇宙船のなかで実験してみせてくれる映像がYoutubeにある。どんな道具を使うのかと思ったら、なんとCDプレイヤーのスイッチを入れてCDディスクを回転させて、ジャイロ効果を見せるのだ・・・あら不思議。

(Youtubeに登録のPlasma Benに感謝)

丸い回転運動は互いに中心を引っ張り合うように、反対に走ればよい。ものごといずれに片寄っても按配よくない。回転エネルギーさえ保てば円運動はうまくいく。

そういえば、マンホールの蓋が円板なのは、それ以外の形状では、傾き具合で蓋が穴に落ちてしまう危険性があるからだ。円板の蓋なら、マンホールの穴に落ちない・・・という、まっとうな仕組みになっている。円板は回転してもじっとしても安定する。

ところが、丸い球体は転がすとどこへ進むのか分からない・・・野球、ゴルフ、ボーリング、はてはサッカーなどスポーツや娯楽に最適だ。丸が3次元に変わると、いろいろな要素が加わって、コントロールがむつかしくなる。それもいいものだ。

よく人は「丸くなれ」というが、2次元を選ぶか、3次元を選ぶか・・・私は、3次元球体も捨てがたい。その場合、でんと座っているために人は「角張れ」とでもいうのだろうか。

2013年12月29日日曜日

チョー・ヨンピルの「Hello」

以前、NHKのテレビ番組で、チョー・ヨンピル(趙容弼、조용필、1950年3月21日~)が充電のため、発声を磨くために山深くこもって、パンソリを参考に血の滲む修練をしたという伝説を聞かされて以来、一層トロット、国楽寄りのイメージを強くしてしまった。実は彼が、ロックを含めて幅広いカテゴリーを持っていることから、韓国の人気歌手のトップを走るのはいうまでもないことに気付く。

11月7日に東京国際フォーラムで、「歌王」チョー・ヨンピルの15年振りの日本公演があったけれど、行けずに残念なことをした。

ところで、イ・ソンヒのコンサートに招かれた、彼女の愛弟子のイ・スンギが、チョー・ヨンピルの「旅に出よう(여행을 떠나요)」を歌ったのを見たことがある。若々しさに溢れた歌は、まさに若い歌手に引き継がれてこそ輝きが増すと思った。

今なお、チョー・ヨンピルの活力は衰えることなく、むしろその正統な底力を発揮するように新しいアルバムをリリースして、存在の堅固さを証明したようだ。最新のアルバム19集「Hello」(2013年)の「Hello」も、ロックの響きに、若さだけでなく懐かしさも同居する。多分、それがヒットした最大の理由だろうけれど。

Youtubeで「Hello」を聴いてみよう。

2013年12月28日土曜日

今年最初の火の用心

冬に入って、寒さはますます厳しい。夜も深まった9時過ぎに、今年最初の火の用心の拍子木を打つ音が家の前を通り過ぎた。「火の用心」の掛け声は聞こえなかったが、拍子木の乾いたカン、カン(カチ、カチ)という音が聞こえてくる。

昨年も、12月26日の夜に、その年最初の火の用心の音を聞いている。一体、どんな方々が廻っているのだろうか。感謝の気持ちがして、寒い冬の夜もなんだか暖かくなる。

(本ブログ関連:”火の用心”)

町内会で火の用心の行事をしている事例を、Youtubeに登録されている映像で見ることができる・・・本来、昔から伝わる風習であるが、わが町ではここ数年のことだ。

(Youtubeに登録のchiikifureaiに感謝)

(追記)
そういえば、今日は今年最後のごみ収集日で、出し忘れのないよう用意した。けれど少量で、まあいいかと出しそこなった別種の分別ごみが残っている・・・一緒に年越しだ。

2013年12月27日金曜日

2013:7080世代が最も好きな曲

朝鮮日報(chosun.com)は、”1970年代と80年代に20代を過ごした世代”つまり中高年世代に人気のある曲について、記事「チョー・ヨンピル『その冬の喫茶店』、7080世代が挙げた最高人気歌謡」(12/27、パク・ジョングォン記者)で、次のように紹介した。(キム・キョウル記者)
ちなみに、イ・ソンヒは彼女のデビュー曲でもある「Jへ」で、歌謡部門のチョー・ヨンピルに次いで2位をキープしている。

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・7080世代が最も好む曲であるABBAの「ダンシング・クイーン(Dancing Queen)」(1976年)とチョー・ヨンピルの「その冬の喫茶店(그 겨울의 찻집)」(1985年)が選ばれた。

・KBSハッピーFM(106.1MHz)「イム・ペクチョンのラジオ7080」は、3周年を迎えて、特集「7080世代が好むポップ、歌謡ベスト100」を選定して、2014年1月1日放送する。

・「イム・ベクチョンのラジオ7080」は、2013年の1年の間の聴取者がリクエストした曲と、12月中に7080のポップ・歌謡を推薦された、ポップ50曲、歌謡50曲を選定した。調査の結果、7080世代が好むポップ1位にはアバ(ABBA)の「ダンシング クイーン」が選ばれた。歌謡1位にはチョー・ヨンピルの「その冬の喫茶店」が挙げられた。

・7080世代が好むポップ順位では、イーグルスの「ホテル・カリフォルニア」が2位、ビートルズの「イエスタディ」が3位、ライチャス・ブラザーズの「アンチェインド・メロディ(Unchained Melody)」が4位、アーハの「テークオンミー(Take On Me)」が5位をそれぞれ占めた。歌謡順位ではイ・ソンヒの「Jへ」が2位、イヨン(이용)の「忘れられた季節(잊혀진 계절)」が3位、ナミ(나미)の「悲しい縁(슬픈 인연)」が4位、チョン・ヨンノク(전영록)の「折鶴(종이학)」が5位にそれぞれランクされた。

・聴取者が直接挙げた7080名曲は「イム・ベクチョンのラジオ7080」で、3周年特集として2014年1月1日から5日まで、昼12時10分から2時まで放送される。また、歌手イ・チヒョン(이치현)、イヨン、キム・モッキョン(김목경)、五本指のイ・ドゥホン(다섯 손가락의 이두헌)、ナム・グンオクプン(남궁옥분)などがスタジオに直接出演してギターライブをプレゼントする。
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2013年12月26日木曜日

お御籤

神社にお参りすれば、境内の社務所に「お御籤」(おみくじ)が置かれているものだ。神殿に向かってした(家族や他者も含めて幅広い)願いが成就するかどうかは別にして、個人的な運勢、吉凶を占う意味でお御籤を求めることになる。
わたしは、占いを信じないからではなく、ちょっと先の運命が見えてしまうことに躊躇して、今までにお御籤を手にしたことがない・・・少々臆病なのかもしれない。

神社とは別に、子どもの頃に、デパートの屋上などで小鳥(ヤマガラ)がお御籤を引く芸があって、自分から親に頼んでお御籤を引いてもらうこともなく、観客の大人たちの隙間から覗くだけだった。それに、昔の喫茶店にあったものだが、テーブルの上に灰皿代わりのお御籤器があって、その安直さ加減に、いったい誰が求めるのだろうと不思議に思ったものだ。

中華菓子に、お御籤を埋め込んだものがある。フォーチューンクッキーという。これは以前食べたことがあるが、菓子の中から出てきたものは英語綴りのもので、いかにも輸出菓子らしく拍子抜けした記憶がある。
この菓子の名が、AKB48の歌の題名に使われている。「恋するフォーチューンクッキー」(作詞:秋元康、作曲:伊藤心太郎、編曲:武藤星児、2013年8月21日、AKB48メジャー32作目シングル)だ。それにしても、歌詞中の英語風は、「Yeah!、カモン ベイビー、Hey!、リアクション、オーベイビー」などと古色して・・・。「恋するフォーチューンクッキー!」と繰り返されるたびにどこか懐かしい、戦略的な旋律が耳に残る。

そんなわけで、実は今日初めてAKB48の「恋するフォーチューンクッキー」をYoutubeでフルで聴いた。おじさんたちにも十分聞き入れるようだ。

2013年12月25日水曜日

KBS WORLD「国楽の世界へ」 冬至

KBS WORLD「国楽の世界へ」は、先週水曜日(12/18)に文化的なキーワードに基づく韓国文化シリーズの第36回として、「冬至(동지)」にまつわる話を紹介した。

まず、冬至を題材にした黄真伊(ファンジニ、황진이)の作品の紹介から次のように始まった。
・最近、季節の変化が極端になった。韓国では、春と秋が短く、暑い夏、極寒の冬がすぐにやってくる。今年も晩秋すでに氷点下の気温となり寒さも厳しい。今月22日(日)は冬至で、一年の最も夜が長い日だ。
朝鮮時代の時調(시조)に、冬至を題材とした、妓生(기생)の黄真伊(1506年?~1567年?)の感性豊かな作品「冬月漫長夜」がある。
「冬至の長い夜を少し切り取って、布団の下にしまっておいて、恋しいあの方がいらっしゃる夜に広げたいものだ。(截取冬之夜半強 春風被裡屈幡倉 有燈無月郎來夕 曲曲鋪舒寸寸長)

▼ 平時調「冬至月(동짓달)」を聴く。楽に合わせて長々と歌う、詩吟のソフトなイメージで、管の音に似て・・・。

次に、冬至と小豆粥の関係について次のように説明された。
・小豆は、その赤い色が幽霊を追払うと考えられ、良悪につけて、小豆粥、あんこ餅などを作り厄除けした。
・冬至の小豆粥は、小豆をつぶした汁に米を入れて粥のように茹で、そこに餅米を丸めた団子の白玉(セアルシム、새알심)を入れる。冬至に、白玉を歳の数だけ食べる。小豆粥ができると、まず霊廟(사당)に供えて、冬至の祭祀を行なう。次に各部屋、甕、納屋などに一杯ずつ置き、粥が冷めたら家族でこれを頂く。また人々の出入りする玄関やドア近くで小豆粥を撒いて厄除けする風習がある。
・冬至は、陽暦の12月22日、陰暦では毎年その日が変わるため、陰暦11月初旬の場合は子冬至(애동지)、中旬の場合は中冬至(중동지)、下旬の場合は遅冬至(늦동지)と呼ぶ。子冬至に小豆粥を食べると子どもに害があるとされ、代わりにあんこ餅を食べる。中冬至では小豆粥、あんこ餅のどちらを食べても良く、遅冬至では小豆粥を必ず食べなくてはならないとされた。
・夜が最も長い冬至を過ぎれば、これから日が長くなる。

▼ パンソリ「水宮歌(수궁가)」から「果課天辺(고고천변)」を聴く。跳ねるようにリズミカルだが・・・

最後に、冬至に対する古来の考え方について次のように解説された。
・冬至は、古代西洋では、太陽が死から復活する日と考えられ、クリスマスもこうした考え方と関連があるとも言われる。さらに中国では、冬至を新年の初めと捉え、その風習が現在に伝わり、「小さな正月」とも呼ぶ。
・冬至の日が、寒いほど次の年は豊作になるという信仰から、寒く雪が降り積もる天気が好ましいとされる。冬至は、これから厳しくなる寒さに備えて、隣り同士が支えあう期間ともいえる。昔の人々にとって、寒くて厳しい季節にも、未来へ希望をもって過ごす考え方があったのだろう。

▼ 「密陽アリラン(밀양아리랑)」を聴く。ジャズ風味を効かせた演奏だが、歌詞があれば最後に冬至、師走が・・・。

2013年12月24日火曜日

イ・ソンヒの「ラスト・クリスマス」

先日のテレビ番組の中で、世代別にクリスマスに聞きたい曲アンケートで、山下達郎の「クリスマス・イブ」(1983年)は当然として、40代以上の世代は、ワムの「ラスト・クリスマス(Last Christmas)」(1984年)を、若い世代は、マライア・キャリーの「恋人たちのクリスマス(All I Want for Christmas Is You)」(1994年)を上位に選んだ・・・ような(記憶違いがあるかもしれないが)気がする。

イ・ソンヒの特別アルバム「冬の日のものがたり(겨울날의 이야기)」(1988年)に所収の「ラスト・クリスマス」は、ワムの「ラスト・クリスマス」をカバーしたものだ。ワムの場合、去年の失恋のクリスマスから今年、そして来年へと想いを語るが、イ・ソンヒの場合、「ラスト・クリスマス」は一つの記号として、まるで今を祝うよう・・・賛歌に通じる。当時、テレビから流れてきたワムの歌は、ハレの音楽記号だったのだ。

(本ブログ関連:”冬の日のものがたり”)

 
(Youtubeに登録のKnightmareに感謝)

2013年12月23日月曜日

イ・ソンヒのエピソード

以下は、RigVeda Wiki(β)のイ・ソンヒの項に掲載されたエピソードであるが、イ・ソンヒの自伝などで照合しない限り、記述者の主観も混在している可能性がある。(抜粋)

・1991年、民主自由党(民自党)*所属で、ソウル市議会市会議員に当選して活動したりした。しかし、1年3ヶ月目に所属党に失望感を感じたすえ、民自党を離党して民主党**に入党し、野党議員で最後まで活動し、その後、政治とは距離を置いている。後日、「膝打ち道士」***での発言には「ボランティア」に関心があって出馬したことで、歳費も受けなかったという。

(*) 民主自由党: 慶尚道を支持基盤とする保守系政党
(**) 民主党: 全羅道を支持基盤とする進歩系政党
(***) 「膝打ち道士」: ゲストを迎えて進める談笑番組

・イ・ソンヒの父は、仏教音楽の梵唄*の奏者であり、母は父の弟子であった。寺で居住するようにしたので、幼い時のイ・ソンヒは、父が僧侶という誤解と、寺で生きるという冷やかしをたくさん受けねばならなかった。本来この世界で、師匠と弟子の間に異性関係が続くのはダブー視される暗黙的ルールがあったし、婚姻届をするまで迂余曲折が多かったという。それでイ・ソンヒは、幼い時期の両親の職業や名前を何となくおおっぴらに挙げるできなかったし、親戚も対外的に分からない振りをして生きなければならなかったという。このような複雑な家庭事情で、かなり不安定な青少年期を送ったようだ。
・インターネットがなかった時期、口コミでデマが広がった両親世代は、イ・ソンヒの良くない噂をほとんど聞いて知っている方だ。主に家庭の事情で派生したデマだったという。

(*) 梵唄: 仏教音楽の「ぼんばい」(범패)

・90年代半ばに、ミュージックビデオ*撮影中、金属でできた電灯が傾き倒れて(彼女の)頭を直撃したせいで、途方もなく大きな手術をして、全治6週以上の大事故にあった。このために、活動復帰もキャンセルされ、本人にとって最大の暗黒史だ。これを、演芸関連番組で、イ・ソンヒが電灯に頭があたる場面をそのまま放送して、とんでもない非難を聞くことにさえなった。

(*) 本ブログ関連:”イ・ソンヒの「見知らぬ海辺で」”

・90年代後半には、従軍慰安婦の老女を称える歌を歌って、歌の題名*にチョセンピ(조센삐:朝鮮女性を卑下する名称)が入ったと、どんな老人となろうと慰安婦の老女を卑下すると言って告訴されたりもした。

(*) 題名:1992年、すなわち90年代初めに、8集収録の「あるおばあちゃんの極楽(어느 할머니의 극락)」があるが・・・朝鮮女(조센삐)は削除されている。(Youtubeに登録のKnightmareに感謝)

以下、ネット情報(「再麦笛雑談」)によれば、
・・・「チョセンピ」の一部の音から悪寒を連想させるという。
・・・告訴の経緯について、告訴を受けた側が納得と合点のいかぬまま対応を急いだようだ。

2013年12月22日日曜日

冬至2013、小来川鉱山、引田鉱山、そして初雪

冬至の今日、鉱物採集に行った。午前中は、栃木県日光市小来川(おころがわ)にある、銅鉱山の小来川鉱山にラング石など二次鉱物を探した。過去、2006年、2007年、2011年に訪問している。
午後は、栃木県鹿沼市引田にある、引田鉱山に日本式双晶(水晶)を妄想して採集に行った。こちらは、初めての訪問である。

冬至の早朝、寒中に始発電車を待つ。まだ暗い。途中、乗り換えた電車は車庫から出たばかりだろうか、冷え切ったままだ。待ち合わせ駅で、お世話になるH氏の車に乗って現地に向かう。この頃になると、空に明るさが増してきた。

【 小来川鉱山 】
前回の採集で体力の衰えが実証されて不安だった。しかし、麓からゆっくり沢伝いに採集しながら登ったおかげで、気ぜわしさもなくて済んだ。到達地は前回同様、トロッコ2台が転がっている場所だ。到達地に至るまでに、私の今年の初雪を経験した。収穫は到達地よりも、沢の方が多かった。
帰路は、沢の斜面にある道を下った。おかげで楽ちんだった・・・前回もこの道を下っていたら、小学生ハンターの背を追うこともなかったろうに。
成果は次の通り。
- 孔雀石、ブロシャン銅鉱、黄銅鉱、黄鉄鉱、白鉄鉱+閃亜鉛鉱、含銅アロフェン、ラング石?、銅藍?

(本ブログ関連:”小来川鉱山・久良沢鉱山、初雪も”)


【 引田鉱山 】
引田鉱山近くの路上に車を停めて昼食をとる。鉱山は意外な場所にあり、裏山であり裏庭といった景観だ。日本式双晶を期待したが、甘くはなかった。一面に枯葉が敷きつまっていて、貪欲さに乏しいため、一部顔を出したものだけ採集した。
成果は次の通り。
- 白鉄鉱+黄鉄鉱、水晶+黄鉄鉱、赤鉄鉱or赤銅鉱


地元駅に着いたときには既に暗くなっていた。冬至は昼が短い。

2013年12月21日土曜日

なぜか深夜に地震がつづく

今日の日付に変わったばかりの深夜に、テレビで「タモリ倶楽部」(今回のテーマは、雑草の不条理なネーミングについての話など)を視聴して、しばらくしてのこと・・・地震が来たのだ。気象庁の発表では、当地は震度2だが、体感は短時間だったとはいえ、震度2強≒震度3近く感じた。

気象庁の地震情報は次の通り。
「平成25年12月21日01時15分 気象庁発表: 21日01時10分頃地震がありました。震源地は茨城県南部(北緯36.0度、東経140.2度)で、震源の深さは約70km、地震の規模(マグニチュード)は5.3と推定されます。」

最近、地震が週末・日曜の日付に変わった深夜に、「茨城県南部」または「千葉県北西部」を震源として襲ってくる。今回の震源地は、またしても「茨城県南部」なのだ・・・気になってしょうがない。

(付記)
先日(12/19)、政府の中央防災災会議が「首都直下地震対策検討ワーキンググループ最終報告の概要」を発表して、「区部直下のM7クラスの地震 【都心南部直下地震(Mw7.3)】 (30年間に70%の確率で発生)」による被害想定したばかり・・・。

2013年12月20日金曜日

東京に初雪が降ったそうだ

今日は、晴れ間もあれば、しとしと雨もあり、おまけに(東京都心の大手町では)初雪まで、一日せわしかった。といっても、初雪は、ちょびっと降っただけで、当地には気配もなかったけれど。

今日降ったものに、「ひょう(雹)」、「あられ(霰)」、「みぞれ(霙)」もあったようだ。

TBS Newsの報道「全国的に大気不安定、東京では初雪・ひょうも」(12/20)は次のように報じている。(抜粋)
「20日の昼過ぎに東京では、ひょうが降りました。さらに、都心では平年よりも早い初雪も観測しました。・・・」

Wikipediaの説明
・「雹(ひょう)とは、積乱雲から降る直径5mm以上の氷の粒のこと。直径5mm未満のものは霰(あられ)と呼ばれ区別される。」・・・つまり、「ひょう」と「あられ」は氷であって、雪ではない。
・「霙(みぞれ)とは、雨と雪が混ざって降る気象現象である。・・・雨が雪に変わるときや、その逆のときによく見られる。」・・・というわけで、「みぞれ」は雪の前兆でもあり、その中に(雪の)結晶があれば、雪と判定できる。

都心で積雪が観測されたようではなく、今日の「みぞれ」に、どうやら雪の結晶が存在して「初雪」と認定されたようだ。

(追記)
東京都心の観測場所は、今年まで、気象庁舎のある大手町だ。来年の「2014年からは北の丸公園での観測データが、『東京』の気象記録として発表されることになる。」(日テレニュース24、「『東京』の気象観測地点、50年ぶり移転へ」(12/20)抜粋)とのこと。

2013年12月19日木曜日

2013年を輝かせた歌手

韓国ギャラップは、恒例の、その年に輝いた歌手人気度調査である「2013年今年を輝かせた歌手と歌謡」(12/19)の結果を次のように発表した。第1位に歌王チョー・ヨンピルの新たなチャレンジによる復帰が最大の話題だ。そして相変わらず強さを誇るトロットクイーンのチャン・ユンジョンは第3位と上位を堅持している。

ところで、世代別に見ると30代を汽水にして老若の傾向が見られる。つまり40代からは、おじさん・おばさんの世界である・・・よ。それに、10代に人気の歌手の名はほぼ知らない。

(本ブログ関連:ギャラップ調査、”2009年”、”2010年”、”2011年”、”2012年”)


▶2013年を輝かせた歌手-最近7年間の推移(3人まで自由回答、単位:%)

順 2008年 2009年 2010年 2011年 2012年 2013年
1位

2
位

3
位

4
位

5
位
WonderGirls
(22.2)
BIGBANG
(21.2)

チャン・ユンジョン
(9.9)

少女時代
(7.8)
イ・ヒョリ
(6.5)
少女時代
(29.8)
BIGBANG
(21.1)
2PM
(12.5)
WonderGirls
(10.4)

チャン・ユンジョン
(9.6)
少女時代
(31.5)
2PM
(12.5)

チャン・ユンジョン
(11.6)
テジナ
(8.4)
KARA
(7.7)
少女時代
(26.1)
BIGBANG
(8.2)

チャン・ユンジョン
(6.9)
キム・ボムス
(6.3)

IU
(6.0)
サイ
(24.4)

少女時代
(19.8)
BIGBANG
(9.5)
IU
(6.9)

チャン・ユンジョン
(6.6)
チョー・ヨンピル
(17.6)
サイ
(11.7)
チャン・ユンジョン
(8.8)
EXO
(8.4)
少女時代
(8.3)


▶2013年を輝かせた歌手-年齢別(上位5位、3人まで自由回答、単位:%)

順 10代 20代 30代 40代 50代
1位

2位

3位

4位

5位
EXO
(27.4)
Crayon POP
(12.3)

GD/
BIGBANG
(11.9)
A pink
Girl's Day
BEAST
(11.4)
SISTER
(12.5)
EXO
(11.5)

IU
(11.1)
GD/
BIGBANG
(9.9)

少女時代
(9.7)
チョー・ヨンピル
(14.7)

サイ
(12.9)

少女時代
(12.0)
SISTER
(10.6)

IU
(10.0)
チョー・ヨンピル
(29.6)

サイ
(17.4)

チャン・ユンジョン
(12.4)

イ・スンチョル
(10.6)

IU
(7.9)
チョー・ヨンピル
(31.2)

チャン・ユンジョン
(20.0)

サイ
(12.9)
テジナ
(9.1)
イ・スンチョル
(5.9)

【調査の概要】
・調査期間: 2013年(1次)7月18日~8月5日、(2次)9月25日~10月15日、 (3次)11月1~18日
・サンプリング:ステップ2段層化集落地域無作為抽出-標本ポイント内の性/年齢別の割り当て抽出
    →(参考) 韓国ギャラップ・オムニバス調査の標本設計報告書
・応答方式: 面接調査員インタビュー
・調査対象: 全 ​​国(済州を除く)満13歳以上の男女4,263人
・標本誤差: ±1.5%ポイント(95%信頼水準)
・依頼先: 韓国ギャラップ独自の調査

(資料)イ・ソンヒのスター・ストーリー「8.夜の舞台時代の警備員の話」

先日(9/27)、「スポーツ韓国」の紙面(1991年3月8日~4月5日)に連載された「イ・ソンヒ27歳当時のスター・ストーリー」記事の目次を紹介したが、その第8回目をここに載せたい。感謝。

イ・ソンヒが、デビュー初期の待遇や環境の変化への戸惑いと驚き、いわゆる夜営業(ステージのある店)に出演する際に直面したそして軋轢をガードした警備員の存在などを知ることができた。

(本ブログ関連:”(資料)イ・ソンヒ(27歳当時)の「スター・ストーリー」”、”資料:이선희 Profile”)


[8] 夜の舞台時代の警備員の話
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1985年2月、私は初めて第一アルバムを世の中に出した。1集に収録されたすべての曲は、全てソン・ジュホ氏が作曲した歌だ。高校時代、チャン・ウクチョ音楽室での出会いが縁だった。

<少女の祈り(소녀와 기도)>と<女心(여심)>をそれぞれ(レコード)裏表面のタイトル曲として載せた1集アルバムはあきれるほどとても売れた。ソウルでは「あ! 昔よ(아! 옛날이여)」と「葛藤(갈등)」が人気であり、地方では「また咲く愛のために(다시 필 사랑위해)」、「光の子ら(빛의 자손들)」、「愛の約束(사랑의 약속)」、「少女の祈り(소녀의 기도)」などが強い勢いを見せた。(レコード)盤一つで、何と六曲もヒットしたのだ。ファンは、レコードの入手が難しいと不平を言うほどであった。

ただ一つ、今でも予測するのが難しいのは、特定の歌に対するファンの反応だ。作曲家や歌手が(レコードの)A、B面の頭の曲なら明らかに最も自信がある歌であるのに間違いないはずなのに、ファンはほとんど期待もしなかった歌をもっと好きだったりする。6集アルバム中の「思い出のページをめくれば(추억의 책장을 넘기면)」もやはりタイトル曲ではないのだから。

とにかく、1集の大ヒットは、私を「マイカー族」の隊列に立たせた。今でも忘れることはできない、私の一番の車、(現代製の)白色のポニー2。

私は、レコードがよく売れて、自家用車を運転する厳然とした歌手だった。歌が下手な歌手は、もう歌手ではない。私はデビュー直後から、そうそうたる先輩歌手を追いかけて行くのではなく、「正面対決」を繰り広げて、私の道を歩んできたと思う。

歌唱力を評価する基準は、他の人の歌をどれくらい上手く歌うかにかかっていると私は信じる。

私は、デビュー当初や今も、放送に出演して他の歌手の曲をたくさん歌う方だ。私の歌があまり多くなかった新人時代には、70年代のフォークソングと先輩歌手の歌をたくさん歌った。チョー・ヨンピル、キム・スヒ、ユン・シネ、キム・ヨンジャさんなど当時最高歌手と舞台に一緒に立って、内心競争的に相手の方の歌を熱唱したその時の経験が、今日の私に多いに役に立ったと思う。

私も自分の声が高いと感じている。キー(Key)がハイ(high)なため、私は歌わねばならない相手歌手の歌が低音を中心にしている場合には、ちょっと苦労しなければならなかった。寝る間を惜しんで、歌詞を諳んじて、私の声をその歌手の声に合わせて・・・

先に話したように、デビュー初め、私はしばらく夜営業の所(キャバレー・酒場など)に出演した時期があった。ところで、行く所ごとに、どこでどのように聞いてきたのか、青少年のファンたちまで未成年者の立入禁止場所である酒場の中に入ってこようと出入口前でもめごとをしたりした。また、客は、客なのに「いくら芸能人でも『ちっちゃな』学生がこのように出てはいけないよ」と、隙さえあれば意見しようとした。

「いや、私も法的には完全な成人なのに、なんでこのように・・・」 しかし、何となく「突っ張って」自然に夜営業の所には往来を控えるようになった。

(この)夜営業の出演と関連して、ほとんど伝説的な話で、チェ・ヒジュン先輩が酔客から白のスーツに酒とおつまみの洗礼を受けた時、気まずくなった雰囲気を淡々として余有ある態度で、それ以上悪化させなかったという話がある。

反面、ある女性歌手は、意地悪な客にあらゆる悪口を浴びせまくることによって、禍を自ら招いたという話も聞いた。

私は、幸い酒に酔った客に辱めに会ったことが一度もなかった。恐らく、放送などを通して映った幼いイメージのおかげでないかと思う。その上、私は舞台の上に釘付けされたように、本来の場所で歌を歌うスタイルでない。客席と客席の間、テーブルとテーブルの間の通路をうんと歩き回る方だった。できるだけ多くの人々と握手もしながら・・・

荒いことで有名な永登浦地域の夜営業で2ヶ月間歌を歌う時、私はウェイターから感謝の言葉をしばしば聞いた。普段あまり目立たないが、円形舞台の周囲にはウェイターの「きらりと光る」視線がある。舞台上の芸能人が、警備員の役割まで兼ねているのだ。

ところが、私が出演してからは、荒い客よりネクタイ姿の会社員が多くなって仕事をするのがはるかに楽というのだった。あたかも「剣道館」や(学級委員の中から選ばれる)「善導部長」になったように、得意になった瞬間だった。

そのようなある日、舞台下に降りて握手するのを楽しむどころか、絶対に夜営業には途絶する事件が起きた。

ある夜の舞台だったか、「あ、昔よ」を歌っている時だった。

その日に限って、客席には荒っぽい男が多かった。突然どこかで何かが壊れる音が聞こえたのに続き、舞台の下が騒がしかった。 私を「警備」していた方々と、頭を剃ってズボンの胴には刃物までさげた、ある輩と喧嘩が起こったのだ。

事件の発端はこうだ。

歌手が舞台上で歌っていたら、握手するつもりで舞台の真ん前に出てくる客がいる。数ある中には、握手すると歌手を舞台の下に引っ張るやっかいな人もいる。それで、舞台周りには客を「装った」歌手のマネジャーや警備員が常に緊張の中で待機している場合が多い。

その日も、舞台上にぴたっと寄り添い座って「万が一の事態」に備えていた私の警備員(私が属したプロダクションの職員)を、その不良たちが、熱心な「イ・ソンヒ ファン」と誤認して、不正をはたらいたのだ。私に会わせてくれといって.。

歌っている私に向かって、彼らは「ソンヒよ、後で・・・」、何とかしてと、とても近い仲であるかのようにほらを吹いたし、これに対していきり立った私の「保護者」たちと言い争いを繰り広げることになったのだ。

今日、突然に「警備員」という言葉が登場するようになったのは、記憶も生々しい85年3月20日の脅迫事件がその根元になっている。

当時、私は一日平均7百~8百通ずつ押し寄せるファンレターで、集配人のおじさんの顔色をうかがわなければならない程大変な苦労をしていた。今でも一日に4百通余りの手紙を受けているが、返事はほとんどできない。デビュー初めから今まで、着実に便り伝える方々だけでも1千人近くなる。顔は分からないが名前と字体だけ見てもうれしい方々だ。

話が横道にそれたが、とにかくその頃30代初めぐらいに見える険しい若者3人が訪ねてきた。熱狂ファンなのを自任しながら。

なんだかんだとつまらぬことの末に、結論は「おれたちの店にも出演しないで、他の夜舞台をあちこち出ては『面白く』ないことと思え」と言うのだった。

実際には、一箇所と2ヶ月出演契約を結んだら、1年契約したのと変わらない。放送出演とか練習とかで言って見ると、出演キャンセルすることが多く、約束は約束だから2ヶ月間60回の舞台に立つという契約を守ろうとするなら、およそ1年ほどかかるからだ。

私を連れて行こうとしていた店は、いつのまにか「お連れ」参りし始めたし、当時では破格的な1ヶ月に7百万ウォンという最高水準の待遇を提示する所もあった。

怖いし、また昼間と夜を変えて生きるということに体質的に拒否感もあって、ずっと断ったところ「鼻っぱしらを高くふるまうな。二度と歌を歌えないようにする」という威嚇を受けたりもした。

だが、「お茶を一杯一緒に飲む機会をくれ。そうでなければ拉致する」と見えすいた脅しをする子どもっぽい少年の電話声には「ふざけているのね」といいながら、たいしたことないと思ったりもした。

しかし、私は彼らの顔が分からないが、私の一挙手一投足は完全に公開されたも同然だったので、結局、私の乗用車には警備員2人が同乗することになったのだ。
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2013年12月18日水曜日

氷雨、雪?

今日は一日中冷える。すっかり冬の厳しさだ。夕方、外を見れば、夜道は氷雨に濡れて街灯に照りかえっている。

朝からテレビの天気予報は、今夕、東京地方に初雪が降るだろうと報じたが、19:30現在、雪の気配はない。しかし、廊下や床板の冷えは厳しい。このまま続くと、まさに厳冬だ。

この寒さに、冬真っ只中を感じるが、東北、北海道の積雪の冬景色とは比べようもない。春遠からじというほど冬でもない。

ところで、モンゴロイドがシベリア、ベーリング海峡、アラスカを経由してアメリカ大陸に移動したとき、シベリヤ少数民族やイヌイットの祖先は、なぜあの雪原に残ったのだろうか。人類の大移動に取り残されたのか、追いやられたのか、あるいは自らの意志で選択したのだろうか。

2013年12月17日火曜日

KBS WORLD「国楽の世界へ」 逐鬼

KBS WORLD「国楽の世界へ」は、先週水曜日(12/11)に文化的なキーワードに基づく韓国文化シリーズの第35回として、”鬼払い”の「逐鬼(축귀)」にまつわる話を紹介した。

まず、(異人、あるいは巫俗信仰とつながるという)処容(처용)の説話から次のように始まった。
・新羅(356年~935年)の憲康王(헌강왕)は、879年のある日、蔚山の開雲浦(울산 개운포)を訪れた。突然、空に雲が陰り、深い霧がたちこめ、天地は真っ暗になった。天の様を伺った臣下が「東海の竜王(용왕)の仕業ですので、何か早めに手を打たなければなりません。」と進言した。王は竜のため寺を立てるよう命じた。
・王の恩恵に感謝した竜王は、7人の息子を連れて現れ、王の功績を称える舞を舞った。7人の息子の一人、処容は、憲康王に従い官職に就く。そして美しい妻も娶り、夜には通りで歌や踊りを楽しんだ。ある日、家に帰ったところ、伝染病の疫神(역신)が妻と寝ているのを目撃した。疫神を懲らしめるのではなく、状況を歌詞に込めて歌い踊った。疫神は、処容の大胆さと寛大さに驚き、跪き侘びて、今後現れぬと誓った。以来、人々は鬼払いの神として処容の顔の絵を門に貼った。

▼「処容歌(처용가)」を聴く。明るい月夜に遊ぶ・・・鄕歌(향가)の流れを汲むという・・・現代曲風、今様である。

・宮中にも処容の噂は広がり、祝い事や大晦日などに彼の舞を舞って様々な鬼払いをしたという。

次に、巫俗信仰などに見る鬼払いについて次のように説明があった。
・昔の人々は、出来事は全て神や鬼と関連すると考えた。良いことは先祖の助けと感謝し、悪いことは鬼の仕業と考えた。自然に対する理解は別にして、道理に逆らうことなく、自然と共に生きる慎み深さが感じられる。鬼払いは、一年の終わりや、災いがあったときなどに行なった。命に関わる重要なときは(巫俗信仰の)「クッ(굿)」の祓いが多いが、さほど重大でないときは盲人や僧侶などを呼んで経を上げたりした。

▼西道(서도)地方で盲人僧が読んだ「罷経(파경)」を聴く。飾りのない素朴な感じする祈りの歌だ。

最後に、固有の鬼である独脚鬼(トケビ、도깨비)について次のように解説された。
・未婚の男女、男やもめ、寡婦などの霊や、かんばつや長雨の被害を受けて亡くなった人たちの霊など、様々な霊を列挙し、わずかばかりの慰霊の儀式を行って、彼らの世界へ帰るようにする。
・霊の中に、独脚があり、人間の魂や幽霊と違い、日常に使用しては捨てる火箸や箒、古くなった家具などが変化したものとされる。いたずらな性格で、人を見ると相撲をしようとせがんだり、災難を起こしたりするが、共に仲良く過ごせば金銀財宝をもたらすという。韓国では、「独脚のいたずらのようだ」といった慣用句もある。隣さんのような存在と捉えた昔の人々の優しい心遣いが感じられる。

▼「山独脚鬼(산도깨비)」を聴く。独脚鬼とばったり出会って・・・今様ながらどこか長閑な感じする。(この曲、中学教科書にも載ったという)

2013年12月16日月曜日

イ・ソンヒのトートバッグ

久し振りに友人に会って、彼の仕事がら得意の技術で作ってくれたトートバッグをいただいた。イ・ソンヒがマイクを片手に前かがみして歌っている写真がプリントされているのだ。しかも、小型のファスナー付きの袋(ポーチ?)までセットにして・・・。

(イ・ソンヒさんの熱狂的ファンであるチョン・イェジンさんのブログにある左の写真がプリントされている)

感謝、感謝・・・おじさんとしては・・・以前にも作ってもらった、イ・ソンヒのコンサートポスター写真がプリントされたTシャツと同様、(使うには勿体無く、着るには気恥ずかしく自信もないので)大事に宝物としてしまっておこう。あらためて感謝。感謝。

(本ブログ関連:”夏至2013”、”ライアテア・ヘルム”)

2013年12月15日日曜日

イ・ソンヒの「なぜ私だけ」

イ・ソンヒの6集所収の、「いつか言葉を失いました  笑うことさえ去ってしまい」から始まる、「なぜ私だけ(왜 나만)」(1990年、チョ・ハムン作詞・作曲)は、離別の痛みが癒されぬ歌だ。途中、叫ぶように悲嘆し苦悩の淵をさ迷い、最後に「これが私の行く道なら、どうすればよいですか」と弱さを歌う。旋律の巧みさに聴いてしまう歌でもある。

(本ブログ関連:”なぜ私だけ”)

ところで、中島みゆきの「時代」(1975年、中島みゆき作詞・作曲)も、「今はこんなに悲しくて 涙も枯れ果てて / もう二度と笑顔にはなれそうもないけど」と始まるが、いつかの出逢いを信じて歩き出すという、彼女らしい達観と太さがある。聴くというよりも歌いたくなる歌だ。

イ・ソンヒの30周年に、彼女のバックグラウンドを活かした、地に太く逞しい曲が登場することをどこかで期待している。

2013年12月14日土曜日

繰言

流行は、雑誌(紙)、ラジオやテレビ(無線)、インターネットなど媒体が進化して、消費の時差をなくしてきた。新しい流行が発生するさまを、まるで傍で見るようになってきたのだろう。それでも、流行の発信地は、あまり変わってないようだが。

昔、母親から聞いたことで、昭和の始めころ、東京のファッションが九州に届くのに1ヶ月ほどかかったという。私が子どもの頃は、アメリカのポップが日本に流行るのにやっぱり時差があった・・・それがどれくらいかというと音楽事情をよく知るわけがなく何ともいえないが1ヶ月くらいだっただろうか。ラジオから流れる、ビルボードやキャッシュボックスの最新順位に耳を傾けてはメモをした・・・子どもの間では、曲名だけでも十分知った振りができたわけで。

ところで歳を重ねると、流行に目が向かなくなり、時間差も気にしなくなる。例えば「ことしの流行語」も、いわれれてみれば、そんなものがあったねと振り返る程度。大晦日の晩の番組「紅白歌合戦」も同様なわけで・・・初めて聞くものが増えてくる。

流行に敏感でなくなる・・・だから、歳をとるという実感は、流行り廃りよりも変わらぬものに、受け継がれるものに関心が向くことから気付く。昔から、年寄りが古典を読めといったのもよくわかる・・・解説、評論本でなくて、原典(原本じゃないよ)を読まなくちゃ・・・こういうのを、老いの繰言という。

2013年12月13日金曜日

来年(2014年)、イ・ソンヒのデビュー30周年

1984年7月29日、MBCの「江辺歌謡祭(강변가요제)」にデビューして以降、節々にコンサートを重ねてきたイ・ソンヒは、来年30周年を迎える。

彼女の公式ホームページには、30周年の節目である来年7月29日を特記しているが、この日に記念コンサートが開かれるのではないかと期待する。

現在、彼女が27歳のときに語った自伝的な記事を本ブログに掲載させていただいていおり、まさに上記の江辺歌謡祭に遭遇した際の彼女の心境、スタイル、家族、および人間関係など知ることができる。

(本ブログ関連:”(資料)イ・ソンヒのスター・ストーリー”)

ともあれ、いまだに彼女の人気の強さに驚くと同時に、来年2014年には、前回2011年のときと同様、その姿をコンサート舞台でまた見たく待ち遠しい。

2013年12月12日木曜日

(資料)イ・ソンヒの過去の日本公演と日本語曲

イ・ソンヒは日本で少なくとも二度公演している。彼女の公式ホームページから次のように知ることができる。

・大阪花博覧会(正式名称「国際花と緑の博覧会」、1990年4月1日~9月30日)で、5月22日に催された「韓国の日記念行事」に出演。

・東京の水道橋にある「韓国YMCAスペースワイ文化センター」で、1995年5月8日~6月6日に催された「YMCAチャリティー基金コンサート(正式名称「韓国大衆文化芸能祭」?)」の5月28日、29日両日に出演。

なお、イ・ソンヒは日本語CDを一度出しているようだ。ポニーキャニオンより1993年5月21日に発売されたもので、小型CD版に「空がくれたもの」と「見せたいけしき」の2曲(作詞:夏目純、作曲:都志見隆、編曲:萩田光雄)が収録されている。残念ながら、現在ネット上で聴くことができなくなってしまった。

KBS Worldの「Artist Search」でイ・ソンヒについて紹介している文中に、「90年まで、イ・ソンヒはヒットを出し続け、順風満帆な歌手活動を送る。このころ、香港で英語盤アルバム『Where The Love Falls...』を、日本ではシングルを発表し、海外進出を試みる。」がある。

90年代前半にどのように<日本進出>が企画され、なぜ果たせなかったのか知りたいところだ。

2013年12月11日水曜日

(資料)イ・ソンヒのスター・ストーリー「7.『江辺歌謡祭』の裏話」

先日(9/27)、「スポーツ韓国」の紙面(1991年3月8日~4月5日)に連載された「イ・ソンヒ27歳当時のスター・ストーリー」記事の目次を紹介したが、その第7回目をここに載せたい。感謝。

イ・ソンヒが、いよいよ才能が世に見出される瞬間の「江辺歌謡祭」での大賞受賞にかかわる数々のエピソード、あるいは出場したときの名前のセンシティブな情報など・・・まさに数々の裏話を知ることができた。(今回、原文中に特定字句の脱字がいくつか見られた:表示上の理由か?)

(本ブログ関連:”(資料)イ・ソンヒ(27歳当時)の「スター・ストーリー」”、”資料:이선희 Profile”)


[7] 「江辺歌謡祭」の裏話
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私は一人でソロとして、<4>はグループとして、江辺歌謡祭に参加した。

私は(ソ)ロの決選にのぼったが、<4>は予選で脱落した。私は、学校の名誉のために決選で「イ・ソンヒ」の代わりに<4>というチーム名の中に私の名前を埋めてほしいという、先輩の提案を受け入れた。決選で、サークルの先輩イム・ソンギュンさんが、その他伴奏と和音を合わせてくれた。

純粋な気持ちで、私が属した音楽サークルを助力しようとしたことなのに、後日あたかも私が<4>の知名度にタダ乗り(無賃乗車)したように知られたのは、今考えてもとんでもないことだ。

私は、84年の「江辺歌謡祭」もまたTVに中継がないと思っていた。例年は、確かにFMラジオでだけ放送されたのを記憶していたから。さらに、生放送で中継されるのをあらかじめ知ったならば、私は多分参加願書も出さなかっただろう。大学入学後にも、私が勉強よりは歌に陥っている姿を父は極めて不満だった。内心、頑固な父を説得できる「締切期日」を、その年の秋ぐらいに捉えていたので、私はまず父に「バレ」ないことが急務であった。

「江辺歌謡祭」の1、2次予選はソウルで執り行なったが、最終予選と決選は南怡島で寝泊りしながら進行した。「これは困った。家に何か言い訳して抜け出すか。数日だが・・・」

結局、私はちょっと無理をしなければならなかった。ムシムシする7月の蒸し暑さの中で、私は往復5時間の距離の、家と南怡島の間を三日間毎日行き来したのだ。

待望の「江辺歌謡祭」決選の前日、私は「変装」した。ひょっとして父や知り合いがTVを見ても、私が誰なのかを見間違えるようにしようと。まず、頭をチリチリにパーマしたし、メガネも視力が似た友人のものと替えて使った。その上、行事当日の演出者シン・スンホ先生の強要(?)で、着ていたジーンズをスカートに着替えたので、それなりにほとんど完ぺきな変装をしたわけだ。

その時借りてはいたスカートの持ち主は春川から来たオ・ヘウォンという女子中学生だった。余裕がなくて返すことができなかったが、今も家に保管している。この記事を読むことになれば、その時の私のジーンズとヘ・ウォンさんのスカートを交換をする心の準備はないのだろうか・・・。

「江辺歌謡祭」TV生放送時間のカウントダウンが始まった時、私は瞬間的に現場から逃げるところだった。父が近づいて来たのだ。叔父と叔母も一緒に。

叔母はMBC FMを通じて江辺歌謡祭の案内放送で私の名前を確認し、直ちに父に連絡して私を「捕らえに」「出動」したのだった。

私を一時見おろした父の口から想像もできない言葉が流れて出た。「せっかくこのようになったこと、必ず1等になりなさい、学生時代の良い思い出を作ると思って・・・」

夢にも見られなかった「応援団」が現れたのだ。あらためて決意を固めて舞台に上がった。観客席の中の父と目を合わせて呼吸を整えた。

それなりに最善を尽くしてを歌ったが、「大賞」を授かるなんて想像さえしなかった。

私が心の中で「1等」と目をつけたチームは、「アダダ」という歌を歌ったあるデュエットだった。彼らがどの順位にも入ることが出来なかった事実は、今も理解することができない。

(「Jへ」)で、大賞を獲得した後、私はあらゆる流言に苦しめられなければならなかった。いったい「J」が誰なのかということだった。ある新聞か雑誌は、「J」の仮想図をカラフルに載せたりもした。長身に俊秀な容貌だが、洋服の上着に韓服のズボンを好んで着る変わり者の文学青年とか、実名は「ノ・ソクヒョン」なのに「ノ・ソクチン」というペンネームを使うとか、「J」というイ・ソンヒの祥明女子高時代の片想いとか・・・。

    (注)歌「Jへ」に登場する「J」については、作者のイ・セゴンの言葉から知ることができる。

あまりにも問い質すので、ある席だったか「J」という私の甥(姪)の「ジェヒ」を意味すると話してしまった。その声を聞けなかったある記者は、「ジェヒ」が誰かとまた何度も尋ねた。「ジェヒはわが家の子犬の名前です」

冗談で発した返事だったが、いやはてさて、その記者はその話をそのまま記事にしてしまった。「『J』は、イ・ソンヒが飼っている犬の名前だ」と。

誓って、特定の「J」は、この世界にいない。子どもも、青少年も、また中年層さえも口ずさみながら歩いたように、「J」という、誰もが自分の胸中深く大事におさめている思い出の恋人であることもあれば、また、幼なじみであることもあるのだ。チャン(Jang、장)さん、チョ(Jo、조)さん、チョン(Jeon、전)さん、チュ( Ju、주)さんなどが、自分を忘れられないという歌詞を聞いて、非常にうれしがるという話も聞いた。

(「Jへ」)は、私としては信じられないほど大ヒットをした。1985年1月には、放送回数95回で、最も放送された曲になるほどだった。その時、2位はナミ(나미)氏の「クルクル(빙글빙글)」、3位はイ・ウンハ(이은하)氏の「恋もしたことない人は(사랑도 못해본 사람은)」であったと記憶する。

(「Jへ」)の人気は、MBCとKBS両放送局の間の見えなかった「壁」を崩したという話も聞いた。その前までは、MBCの歌謡祭の出身歌手がKBSに出演するということはほとんど想像も出来ないことだったので、私は今でもその時「糸口」をつけたのをこころよく思っている。

さらに、その年12月30日には、KBS「放送歌謡大賞」の新人賞まで受賞した。MBC側で、それとなく期待を抱いていたが、ライバルの放送会社から賞まで与えるとは・・・私もうれしかったが、MBCのシン・スンホ先生は私よりもっと喜ばれた。「ソンヒ(ソニ)よ、きみ、堰の水を切ったね」

MBCでは、その翌日(12月31日)、私は10代歌手に選ばれたし、新人賞に加え最高人気歌手賞まで上乗せてくれた。 3冠王・・・江辺歌謡祭(7/29)以後、ぴったり五月ぶりにあげた収穫だった。

TVをつけたりラジオをつけるたびに響き渡る私の歌に父は慌てた。仕事がそんなに大きくなるとは(?) そこまで予想できなかったのだ。「おまえ、それは趣味でやったことではなかったのかい?」

しばらく歌って彷徨(?)していれば、再び勉強するだろうだと信じた父は、日ごとに職業歌手になっていく私の姿に、ある危機感を感じたようだ。

芸能人に対してはいつも否定的な見解を持っている父との「暗闘」は、かなり長い間持続した。しかしながら、「子どもに勝つ親がいるだろうか」。結局、父は条件付きで、私の歌手活動を許諾した。

「醜聞を起こして、マスコミの噂にのぼる歌手にはならないこと。外ではお前がスターかも知らないけれど、家に帰れば私の子どもであり、私にとってまだ子どもでしかないことを肝に銘じること。 少しでも様子がおかしいなら、再び歌を歌えないようにするぞ。」 おおまかにそのような言葉だった。

今は、TV画面に映った私の姿と歌をモニターしてくれるほど私の生活を理解している父に、私はなかなか歌謡界の暗い面を話せない。私自身に関しては、常に恥じることがない生活をしてきたので、父の前でいつも堂々ととしていることができる。

私に対する周りの評価はどうだか分からないし、また別に耳をかたむけたい気もないが、私の両親に関する「悪評流言」(デマ)は断じて説明しておかなくちゃいけない。

父は僧侶であるから、言うまでもなく母もまた僧侶を夫としているので、勤倹節約する生活が体質化した人たちである。

したがって、娘ひとりの(おかげ)で贅沢な暮らしをしながら、貴族生活をしているという噂は、話にもならないことだ。歌手が歌数曲ヒットさせると、まず「夜の舞台」(マイナーイメージの舞台)を流れることがわたしたちの現実だが、両親は酒場で歌を歌うことだけは口を極めて止める。最も簡単に大金を握ることができる所なので色々な誘惑も多いが、私自身「夜の仕事」に出て行くことはいやだ。デビュー当初、何も分からない状態で「先輩歌手もみな出て行くので・・・」という考えで、いくつかの営業場所を転々としていた事実を今でも恥ずかしく思っている。

父は、私のために気苦労をたくさんした。娘の有名税を元手に宗団の要職に座ろうという誤解が嫌で、何と2年も寺院を離れていたりもした。

母は今でも、市場の床に散らばっているハクサイのくずやカブなどを拾ってくる。節約が習慣になったのだ。周りではこのような母を巡って、井戸端会議がはなはだしい。「外車に運転手まで置いて通う娘、恥ずかしくもないのか。どういうショーだ。貧乏たらしい様をあらわにしているね。ケチん坊。」 後生だから、「スター・ママ」と色眼鏡で見ないで、家庭を築いていく「主婦」としての私たちの母にきれいな視線を送ってくれるのをお願いする。

私は、(「Jへ」)を歌った時から、歌唱力はいい歌手という評価を受けてきた。私も認める私の歌の実力は、1984年11月、チョ・ヨンナム(조영남)氏が進めていた(KBSの)「ナイト・ショー」に招待されて、その場で初めて接したノ・サヨン氏の「あなたの影(님 그림자)」を歌った時、そしてMBCの「ショー2000」に出て行って「キャンパス ベスト10」の曲をひきつづき歌った時、完全に「公認」された。

前回、うっかり忘れて落とした話がある。江辺歌謡祭の決選で、<4>のメンバーで共に歌ったイム・ソンギュンさんとの関係についてのことだ。

江辺歌謡祭で大賞を受賞した後約3ケ月の間は、イム・ソンギュンさんとデュエットで活動した。デュエットという性格上、私は彼に付いて歩く時が多かったし、周囲では私たちの二人の間を恋人関係まで歪曲したりした。

私はそのような視線が負担だったし、また江辺歌謡祭に当初ソロで参加したように、再び一人で歌いたい欲が出た。それで、私が先に決別を宣言したいきがかりで、ソロアルバムを出すことになったのだ。「<4>の名前を借りて優勝しておいて、なぜお前一人だけスターの振舞いをするのか」という当時の一部難詰に対しては、「歌に対する欲念」のためだったと答えれば十分説明できるだろう。

なおかつ、<4>のメンバーや学校の中では、私のソロ活動に何の反感もなかった。おだてたり、けなしたりして愚弄した人たちは、私たちのグループや私とは何ら関連ない人物たちだけだった。

(「Jへ」)で、1等を「食べた」(受賞した)直後、私は地球レコード社と専属契約を結んだ。その時、契約金の名目で受けた金があれこれ差し引けば、5百万ウォン。生まれて初めてつかんでみた「大金」だった。その金は、全額父の白内障治療費に使われた。これまで、「芸能人」になろうと決意した娘のためにかなりひそひそ言われた父に、少しでも報いたというやりがいを感じる一方、何か相殺されたような妙な快感(?)も味わったことを告白する。
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2013年12月10日火曜日

KBS WORLD「国楽の世界へ」 ソウル

KBS WORLD「国楽の世界へ」は、先週水曜日(12/4)に文化的なキーワードに基づく韓国文化シリーズの第34回として、「古都」を語源とするといわれる「ソウル(서울)」にまつわる話を紹介した。

はじめに、韓国の人口・経済の規模について次のような紹介から始まった。
・世界237カ国(世界銀行統計では229カ国)中、韓国は面積で100位に入らないが、人口4900万人で25位、GDP(国内総生産、2012年基準)1兆1600億ウォン超で15位。朝鮮戦争(韓国戦争)休戦から今年60周年を迎え、現在、首都ソウルは千万人超で世界都市中で10位以内に入る。同時に、山と川に囲まれた自然の恵みのあふれる都市でもある。

▼ 短歌(단가)の「鎮国名山(진국명산)」を聴く。四囲を指し示すように歌うのだろう・・・力強い。

・短歌はパンソリを歌う前に、歌い手が喉の緊張をほぐす意味で歌う短い歌だ。「鎭國名山」は、ソウルの地について風水の視点で歌った珍しい一曲で、歌詞は全て漢文調のため、韓国人でも理解が難しいと言われる。

「景福宮の後ろに、高く切り立つように険しい峰が、ハスの花のように天に向かってそびえ立ち、三角山(サムガクサン、삼각산)となる。南側には蠶頭峰(チャムドゥボン、잠두봉:現在の龍山(ヨンサン、용산))がある。駱山(ナクサン、낙산)と仁王山(インワンサン、인왕산)はそれぞれ、左の青龍、右に白虎となって、聖なる気運を発し、それが空中に滲み出しながら宮殿へと集まっている。そのため、優れた人物が多く輩出されるのである。」

▼ 正歌の歌曲の「編数大葉(편수대엽) 鎭國名山」を聴く。こちらはゆるりとして・・・雅(みやび)である。

次にソウルの名の語源について次のように解説された。
・「ソウル」は、古都を指す普通名詞だったという。語源に諸説あって、古代の「ソド」と関連があるというのが有力な説だ。「ソド」は、出入りが厳しく制限されていた神聖な地域を指す言葉で、「ソッデ」という棒を立てて印とした。「ソド」、「ソッデ」が変化し、「ソウル」となったという。語源的「神の土地」の意を持つことになり、韓国歌中に「神様のご加護によってわが国は万代にわたって栄えよう」という一節がある。公式的には、
- 1896年、独立新聞に「ソウル」の言葉が初めて使用され、
- 1946年8月15日、ソウル市憲章が発表され、「ソウル」の名称となった。

▼ 京畿民謡「漢江水打令(한강수타령)」を聴く。水流が速いのか、愛も少々せっかちなのか・・・楽し気だ。

(付記)
K-Wikipediaにあるように、一般に「ソウル」の語源といわれる「新羅系の固有語であったソラボル(서라벌)」と、上記の解説はつながるのだろうか。

2013年12月9日月曜日

うたた寝

このところ連日、夕食後にストーブにあたりながらテレビを見ていると、いつのまにか寝入っている。小一時間もすると目覚めて、またやってしまったと溜め息をつく。

この「うたた寝」は「転寝」と書き、随分と寝相が悪い。「夢うつつ」という古い心的な振る舞いである「うつろ」につながるなら理解できるが、どうやらそうでもないらしい。

そんなわけで、見ていたテレビ番組の視聴は中途半端に終わるが、問題はその後の寝つきの悪さだ。それじゃあ、まるで子どもの問題のようで・・・。それに、風邪でも引いてしまっては元も子もない。

ところで、このブログのヘッダーのデザインを変えてみたが、つたなさに自信がない。見慣れればと・・・しばらく、これでやっていこう。

2013年12月8日日曜日

キム・ポムニョンの「冬雨は降って」

イ・ソンヒが2011年5月のコンサート「五月の陽射し」で、ゲスト出演したキム・ポムニョン(김범룡、金範龍, 1960年6月3日~)と一緒に彼の歌「冬雨は降って(겨울비는 내리고)」(1985年)を歌う映像がある。80年代をテーマに、同時代をともに駆けた、キム・ポムニョンと歌いつぐ趣向の一場面である。

キム・ポリョンは、イ・ソンヒの例えば5集(1989年)に収録の「貴方よ(그대여)」、「炎のように(불꽃처럼)」の作詞、作曲をしている。

(本ブログ関連:”キム・ポムニョン”)


(Youtubeに登録のsunnyfan100に感謝)

2013年12月7日土曜日

ユンノリ

先日(11/23)、新宿の職安通りにある韓国民芸品ショップに韓国語教室の仲間と一緒に寄ったとき求めた、韓国の正月遊び「ユンノリ(윷놀이)」の遊具を、今日の教室で試した。

蒲鉾の断面に似た、同サイズの棒(ユッ)4本を投げて、棒の平らな面の数だけ盤面(駒版)に記された経路(正方形と対角線)上の点を駒を進める<双六遊び(ノリ)>だ。チーム同士で競い合うことができる。

今日は基本的な駒の進め方を確認したが、進んだ点に自分(チーム)の駒がある場合は合体したり、相手(チーム)の駒がある場合は盤から外したりと・・・いろいろな要素もあるようだ。

ところで、イ・ソンヒの思い出に、小学校(国民学校)時代に、祖父が「クヌギの木で手作りで『ユッ』も切ってくれた」というのがある。彼女をひたすら愛してくれた祖父の思い出は、祖父との懐かしく温かい思い出を持つものに共感できる。


(追記)
NHKの「地球ドラマチック『古代マヤ文字を解読せよ』」を見ながら・・・せっかくの番組なのに寝入ってしまった。今度はしっかり見るので再放送を頼みます。

2013年12月6日金曜日

青空文庫と電子書籍リーダー

電子書籍といっても、最近の書店に並んでいる新刊本の類ではなく、青空文庫に登録されている著作権切れであるが名著として知られる書籍(夏目漱石や折口信夫など)を、小型の電子書籍リーダーで読んでみたい。

青空文庫に登録されている書籍ファイル(XHTML、TEXTなど)を取り込むとき、縦書き表示に変換するため、①アプリを事前にインストールしておく必要がある。そのうえ、②縦書き表示するための処理も必要で一発変換できないようだ。

他に、Web上の縦書き表示ツールで読む方法もあるが、それは携帯PC・パッドの世界(無線)での話で、電子書籍リーダーとは違う。

要は、XHTML、TEXT、PDFなどの書籍ファイルを入れたら、何の処理もなくすぐに縦書き表示してくれる電子書籍リーダーはないだろうか。文庫本のサイズと重さの電子書籍リーダーが一番好ましい。

2013年12月5日木曜日

宵の明星

帰宅途中、南西の空を眺めれば、三日月を追うように輝く星がある、金星だ。微かに明かりが残っている夜空にコントラストを強くして、月に負けずくっきり光っている。

こうやって金星を見るのは久しい。天の動きは地の動き、時が過ぎるのを思うとき、存在の小ささに気付く。といって、「寒さい、寒い」と小言して歩くのが精一杯かな。

金星が一番光度を増すのは、明後日7日(土)だそうだ。天気は次第に崩れて、雨ほどではないが、週末の夜は曇りとのこと。寒さも厳しくなるようだ。

イ・ソンヒが歌う童謡に「星を見ながら月を見ながら(별보며 달보며)」がある。高くて青い空の国お星さまの国に、永遠の笑いの国お月さまの国に住んでみたらと・・・夕べの空を眺める童たちは、子どもながらに、憂いを含めて夢が膨らむ。

(Youtubeに登録の Knightmareに感謝)

2013年12月4日水曜日

めでたい

めでたいことがあって、めでたい、めでたい。

祝いの歌を探したら、沖縄民謡に「めでたい節」があって、「めでたい めでたい すりすりめでたい めでたい めでたい」のお囃子に、なんだか南の暖かい風に酔ってしまいそうな気がする。めでたいと思うほどに、ますますめでたくなるよ。

人生一度限りという言葉、この歳になってようやく納得するが、どうやら遅きに過ぎる。でも時間のある限り大事にしたい。だから、人生を2度生きるようにすればいいのだ・・・Ampliat aetatis spatium sibi vir bonus; hoc est Vivere bis, vita posse priore frui(善き人は自分の生涯の期間を拡大する; 過ぎ去りし生涯を満足に楽しみうること、これは二度生くるなり)・・・人生満足するといわれても、どうすればいいのかな?

そういえば、サービスの定義に「生産=消費」がある。人生の瞬間(生産=消費)を満足できるように生きよ!というわけ。満足できる生き方を選択する、無理はしないけどチャレンジはしよう。そしてエンジョイしよう。

とりあえず、今宵はめでたい。明日もめでたい。(独りごと)

2013年12月3日火曜日

流行語大賞2013

今年の流行語大賞が決まった。昨日のORICONSTYLEの記事「【2013新語・流行語】年間大賞は史上最多4つ 『じぇじぇじぇ』『倍返し』など本命勢揃い」(12/2)は次のように報じている。(抜粋)
予想した言葉「今でしょ」だけでなく、他に3語も加えて、計4語が大賞という大判振る舞いとなった。

(本ブログ関連:”2013年流行語大賞ノミネート”)
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・その年話題となった新語・流行語を決定する年末恒例の『2013 ユーキャン新語・流行語大賞』(現代用語の基礎知識選)が2日発表され、
- 予備校講師・林修氏の「今でしょ!」、
- NHK連続テレビ小説『あまちゃん』の「じぇじぇじぇ」、
- TBS系連続ドラマ『半沢直樹』の「倍返し」、
- 東京五輪招致のプレゼンテーションで滝川クリステルが日本をPRする際に使用した「お・も・て・な・し」
が年間大賞に選ばれた。1984年に創設され、今年30回を迎える同賞において、史上最多となる4つの“言葉”が大賞に選ばれた。

・・・・また、選考員特別賞として「被災地が、東北が、日本がひとつになった 楽天、日本一をありがとう」が選ばれた。
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KBS WORLD「国楽の世界へ」 伽椰琴

KBS WORLD「国楽の世界へ」は、先週水曜日(11/27)に文化的なキーワードに基づく韓国文化シリーズの第33回として、日本の琴に似た弦楽器「伽椰琴」にまつわる話を紹介した。

まず、弦楽器「伽椰琴(カヤグム、가야금)」の歴史から次のように紹介された。
・世界には多種の、世代、ジャンル、あるいは宗教によっても、それぞれに音楽がある。一国の王ならば、国民固有の音楽に対するプライドを願ったかもしれない。伽耶(3世紀~6世紀中頃)末期の王、嘉悉(カシル、가실、?~?)は、(韓国)史上、最初に音楽の力で民を治めることに注目した。この王の下に誕生したのが弦楽器の「伽椰琴」だ。

▼ 「霊山会相」中の「上霊山(상령산)」を聴く。18世紀以降の両班の風流音楽らしく揺ったり流れる。

次に、伽椰琴の創生に関わる嘉悉王と于勒(ウルグ、우륵)の話題を次のように説明された。
・伽椰琴は改良され、様々な音楽に広く使われたが、「上霊山」の演奏に使われた伽椰琴は、「正楽伽椰琴」と呼ばれ、1500年ほど前に誕生した当時の形を維持しているという。

(注)伽椰琴には、正楽演奏の「正楽伽椰琴」と、民俗楽演奏の「散調伽椰琴」の二種類がある。

・伽椰琴の創始者は、于勒が有名。(「三国史記」に、楽器作成者は嘉悉王とされている)
・伽椰琴の、半円形の上面は「空」を、平らな下面は「地面」を、弦の支えは12ヶ月を表し、奏でる音が自然に溶け込むよう考えられている。楽器が出来た後、嘉悉王から、「各国に方言があるように、音楽もひとつである必要は無い。お前が伽耶という国にふさわしい音楽をつくるのだ」と命ぜられた于勒は、伽耶国の地方名を曲名とし、全12曲を作曲した。最初の曲は「ハガラド(하가라도、現在の金海市地域,)」、2番目の曲は「サンガラド(상가라도、現在の高霊地域)」となっている。

▼ ファン・ビョンギ作曲の「加羅都(カラド、가라도)」(1963年)の第1章を聴く。古趣ただよう・・・透明感のある今様である。

最後に、伽耶から新羅に投じた于勒と、新羅王の真興(ジンフン、진흥、534年~576年)との交流を次の通り解説された。
・于勒が12曲を完成させてすぐ、伽耶は新羅に滅ぼされる。于勒は、国の危険を察し、伽椰琴と作曲した音楽を持って新羅に投降した。新羅の真興は、于勒を歓迎し、自国の若者たちを于勒の元へ派遣し、そのメロディーを学ばせた。于勒の音楽をマスターした若者たちは、さらに思いを込めた編曲と演奏をした。この事を耳にした于勒は、初めは怒りを示したが、若者たちの演奏を聞き、涙を流し感嘆したという。
・また王も、こうした新しい音楽を好んで演奏させた。それに対し家臣たちは、 滅んだ国の音楽は、わが国をも滅ぼすと揃って抗議したが、王は、国が滅んだのは王の責任であり、音楽には何の罪もないと主張し、伽耶伝来の音楽を、新羅のものとして演奏を指示した。伽椰琴が現在までに伝えられたのは、その価値を見抜いた真興王のおかげだとも言える。

▼ ファン・イジョン作曲の「于勒の舞(우륵의 춤)」の中から第1楽章を聴く。軽やかな・・・今様である。

2013年12月2日月曜日

ウィンター・ワンダーランド

子ども時代、温暖地帯にある当時の家の造りは、今様に密封型ではなかった。ガラス窓と廊下の更に内側に障子で仕切った畳部屋があった。冬の夜になれば、木製の雨戸を閉めるのは必須だった。微かに隙間風がしみ込む部屋を暖めるのに火鉢を置いたりしたが、どれほどの暖房効果があっただろうか。けれど家族が集まれば、それだけで暖かく、交わす言葉にいっそう温もることができた。

今は、建物の構造が変わったし、暖房装置も石油やガスや電気を使うようになって、昔とは考えられない環境になっている。そんな変化の時代をまたいできたからか、懐旧も含めて、古い冬の歌に温もりを覚えるのかもしれない。

それは、興味しんしん眺めては触ろうとするたび親にたしなめられた、テーブルの上のいただき物のようなものだった。ビング・クロスビー(Bing Crosby、1903年5月3日~1977年10月14日)が歌う、「Winter Wonderland」(Richard B. Smith作詞、Felix Bernard作曲、1934年)はそんな歌だった。ワンダーランドの響きは、不思議というより、次々に素晴らしいものが飛び込んでくる憧れと期待の世界でもあったのだ。


(Youtubeに登録のChristmasTimeTVに感謝)

2013年12月1日日曜日

残った林檎は12分の1

今年、残り2ヶ月しかない11月にならんとしたとき、それを林檎の実にたとえて、6分の1しか残っていないと嘆息した。今日から12月、最早12分の1を切るに至った。6分の1と12分の1では、見た目にも、気分も大違いだ。

(本ブログ関連:”残った林檎は6分の1”)

12月になると、今年のカレンダーはますます存在感が薄れて身の軽さに揺れる。来年のカレンダーは、秘かに虎視眈々とその座を狙っている。私も移り気なのか、今年のカレンダーには目もくれない・・・そんなことはないけれど、壁に掛かっている余命1ヶ月のカレンダーの心境を思うと、最後まで見届けてやろうと思う。

一足速く、この冬まだ見ぬ雪景色を、イ・ソンヒの「雪が降る(눈이내리네)」を聴きながら楽しもう。

(Youtubeに登録のYoungbum Kim·に感謝)

これは、アダモ(Salvatore Adamo)の「雪が降る(Tombe la neige)」(1963年)のカバーであり、イ・ソンヒのアルバム「冬の日のものがたり(겨울날의 이야기)」 (1988年)に収録されている。

(本ブログ関連:”雪が降る”)

2013年11月30日土曜日

(資料)イ・ソンヒのスター・ストーリー「6.キリギリスのように歌いながら高3の熱い夏を・・・」

先日(9/27)、「スポーツ韓国」の紙面(1991年3月8日~4月5日)に連載された「イ・ソンヒ27歳当時のスター・ストーリー」記事の目次を紹介したが、その第6回目をここに載せたい。感謝。

イ・ソンヒが、高3のときに巡り合った音楽上の幸運、チャン・ウクチョ音楽室、作曲家イ・セゴンとの出会い、仁川専門大のときに音楽環境を整えようとした武勇伝、音楽サークル<4>(四幕五場)への参加、そしてMBC「江辺歌謡祭」への準備などを知ることができた。

(本ブログ関連:”(資料)イ・ソンヒ(27歳当時)の「スター・ストーリー」”、”資料:이선희 Profile”)


[6] キリギリスのように歌いながら高3の熱い夏を・・・
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(父親の意向で)絵を描けないことになると、しばらく疎(おろそ)かにした歌がやりたかった。喉(声帯)がうずうずした。普段なにげなく通り過ぎた音楽学院の看板が、突然両の目に入ってきた。

その音楽学院は、当時ソウル駅と三角地(삼각지)の間に位置していた「チャン・ウクチョ(장욱조)組音楽室」だった。

    (注)本ブログ関連:”チャン・ウクチョ音楽室”

音楽室の門を叩いたが、職業歌手や芸能人になるという考えは夢にもなかった。事実、私は高等学校を卒業する時までも、友人が芸能界のスターを偶像のごとく崇拝する姿をまったく理解することができなかった。

いずれにせよ、「一度、思う存分歌でも歌ってみようかな」という、私心ない気持ちでチャン・ウクチョ音楽室に出入りし始めた。それが高3の時だ。

他の人びとは「高3病」(ストレス)だ。「入試地獄」といって盛んに「大学受験との戦争」に没頭している時、私は絵を描けないので、歌を歌おうと打って出たので、完全に「くそ度胸」だったわけだ。 率直にいって、大学に行きたい気持ちがあまりなかったし。

音楽室に出入りしたりしたが、正式に登録してレッスンを受けたわけではない。「芸能人になろうと決心したのか」と、それこそ目をむいて反対する家で、どうしてあえて受講料をもらうことができようか。私に金を儲ける能力があったわけでもなく。

世の中に無料がどこかにあるだろうけれど、私の歌の実力が音楽室でも受け入れられたし、一種の奨学生同様の待遇を受けることになる破格の経験をした。

チャン・ウクチョ音楽室に入って、歌を歌ってみたいと話すと、当時あまり名が知られなかった作曲家のイ・セゴン(이세건)、ソン・ジュホ(송주호)氏などが「一度、見せてください」と冷ややかな反応を見せた。

私が全情熱を傾けて、ニール・セダカ(Neil Sedaka)の「きみこそすべて(You Mean Everything to Me)」(1960年)を終わらせた時、その方々は非常に満足な表情であったし、したがって私はいつでも喉が「うずうず」したら、音楽室に立ち寄るようになった。

1984年に(江辺歌謡祭で)、私に大賞の栄光をもたらし遭遇したのもまさにここだった。

実力は優れていたが、単に無名の新人という理由だけで、作曲家のイ・セゴン氏は、数多くの歌手に無視されなければならなかったし、心血を注いで書いたものは危うく永遠に、「J~、私はあなたを忘れた・・・」という、残念な思いをするところだったのだ。

    (注)本ブログ関連:”イ・セゴンと「Jへ」”

家中の激しい反対を押し切って、時たまではあるが、音楽室で気が晴れるまで歌を歌うことができたのは、高3の時期、両親と「生き別れ(親離れ)」をしたおかげが大きかった。

父の所属寺院が(ソウルの南の)城南にある寺に変わったが、それでも高3の私を転校させるには大学入試が気にかかったようだ。

それで、私は祖母と三人の歳下のきょうだい達と共に、ソウルの梨泰院の家で「準-少女家長」の役をして生きなければならなかった。

    (注)イ・ソンヒは長女で歳下に弟がいることは知っていたが、更に2人のきょうだい(男女?)がいる。

遊んでばかりいた子どもも高3になれば、慌てて入試勉強に没頭するのが常なのに、なぜか私だけは万事泰平だった。

そのとき、私の心は、イソップ寓話に出てくる「アリ(蟻)」よりも「キリギリス」の側に傾いていたようだ。だから、友達が夏の間、アリのよう熱心に教科書と格闘したときに、私はキリギリスのように歌いながら暑い夏を涼しくおくった。

学校の成績は、「正直」にもどんどん下に落ちた。しかし、心配もなかった。大学というところに対する羨望はそもそもなかったから。

▼ 「私は大学に行かないつもりだ」という話を両親の前でも大っぴらに言い放ったりしたからか、84年度の3月、仁川専門大(인천전문대)環境管理学科に合格しても、父は私が果たして滞りなくやっていくことができるかについて、まったく信じられなかったようだ。本当はそんなことしたくないけれど、娘が大学登録料(授業料)をこっそり引き抜いて隠すのではないか心配になって学校までついてきて、登録済証の印を何度も確かめた。

大学に登録はしたが、数十万ウォンの登録料があまりにも惜しかった。「そのお金さえあれば私がしたい音楽をいくらでもできるはずなのに・・・」考えた末に、私は環境管理学のとある教授を訪ねて行った。

今思えば一言で「話にならない」哀訴を教授にならべた。「私は歌を歌いたいのにお金がないのです。 だから、登録料の半分だけ返していただけないでしょうか?」、まあ、そんな話だったようだ。

しばらく、あっけにとられた表情をしておられた教授は、やがて私を説得し始めた。「音楽することを止(と)めるつもりはない。だが、学校まで止(や)めながら歌を歌わなければならないほど、切迫したわけではないじゃないか。熱心にやって、アルバムでも世間にまず出すようになったら是非手伝ってあげる。」

お言葉を聞いて見ると、句句節節(一言一句)正しい言葉なので、私は考えを改めて講義にも洩れなく出席し、大学新入生としての自由を謳歌した。

思う存分歌を歌うことができるところを物色した私は、校内の音楽サークル<4>の新入会員募集ポスターが目について一走りに駆けつけて入会した。

    (注)ここでいう音楽サークル<4>は、いわゆる「四幕五場」を指すと思われる。

<4>のメンバーは、音楽の実力は優れていたが、ろくな練習スペースが備えられない状態であった。私は、入学時の登録料を回してほしいと教授に駄々をこねた「勝ち気」だけ信じて、学長室に「談判」の長途(長い道のり)についた。学長面談の結果は、大成功だった。 <4>は、学校の建物屋上にある片隅に、ついにみすぼらしくても専用の練習室を整えることができた。

1学年の1学期が終わって夏休みが始まった。<4>は、その年7月29日のMBC「江辺歌謡祭(강변가요제)」を目標に猛練習に入っていったし、私は私なりに本格的に声を整え始めた。私が狙ったのは、秋のMBC「大学歌謡祭(대학가요제)」だったので、江辺歌謡祭はテストする一種の前哨戦ぐらいに軽く考えていた。
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(Youtubeに登録のAshley Maxに感謝)

2013年11月29日金曜日

地震があったんですけど

今日の日付に変わった真夜中の01:15、ドンと響いて次第に揺れがおさまったが、地震発生が最近集中する、千葉県北西部を震源にしたものだ。先週の日曜日も深夜00:50に、同じ千葉県北西部を震源にする揺れがあった。しかも深夜に地震が続くのはいい気分がしない。

(本ブログ関連:”地震が・・・”)

今日の地震について、気象庁の発表(11月29日01時19分)は次の通り。
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29日01時15分頃地震がありました。震源地は千葉県北西部で、震源の深さは約80km、地震の規模4.8と推定されます。
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地域別の震度発表では、当地の震度は「2」で、体感もそんな感じだった。


(付記)
そういえば、話題の「アイソン(ISON)彗星」が、太陽に近づいた(近日点通過29日)ところで、蒸発してしまったという話があったけれど、どうにか命をつないでいるいるという報道もある。
旅行会社主催のチャーター機に乗って、アイソン彗星を観察するというイベントがあるそうだが、どうなるのだろうか・・・12月7日の早朝に飛び立つ計画だそうだが。

2013年11月28日木曜日

石が逃げる

本当は、石が逃げれば良いのだが。美しい結晶を内蔵した岩石が、人の気配を察して地中深くに退避したら石泥棒のような事件もなかったろうに・・・それはさておき。

俳人といっても、「古句を観る」の著者としてしか存じぬが、柴田宵曲(しばたしょうきょく、1897年9月2日~1966年8月23日)の短文「動く石」に下総国葛飾郡立石村の石掘りの話しがある。畑中にある石を掘り返そうとしたが根が深くなかなか取り出せない。翌日行ってみると、石はまた深く潜り込んでいたというのだ。

江戸時代、近江国の木内石亭(きうちせきてい、1725年1月14日~1808年4月6日)の「雲根志」*にも触れられていて、「石の根を見んとして掘ったところ、言い伝えるごとく黄色の木の根の形をした石が土中にはびこっていた。その時、忽(たちま)ち石が振動、手伝った者どもは前後不覚の体となり、大いに病んだという。その後、この石の根を穿(うが)ちほじる事を固く戒めたという。」との記載がある。

(*) 「雲根志」:九州大学総合研究博物館 DIGITAL ARCHIVE

この石、現在の東京都葛飾区立石にある「立石様」の由来のようだ。インターネットに、さまざまな記載を見ることができるので、それらを元に一度現地を訪ねてみたい。

ネットの情報から、石が地中に逃げるという立石様の周辺には、「南蔵院裏古墳」があることから、石室との関連が推測できる・・・つまり、地中に空洞があってズリ込んだのではないかということだが・・・素人考えなので不思議な話のままでいようか。

2013年11月27日水曜日

KBS WORLD「国楽の世界へ」 風流

KBS WORLD「国楽の世界へ」は、先週水曜日(11/20)に文化的なキーワードに基づく韓国文化シリーズの第32回として、「風流(풍류)」について紹介した。

まず、統一新羅時代(676年~935年)末の文人崔致遠(최치원、858年~?)による、「風流」の紹介から次のように始まった。
・崔致遠は、まだ12歳の頃に一人、唐に留学して勉学に励み、(874年)18歳で外国人のための科挙試験に合格した。その後、「黄巣(こうそう)の乱」の討伐軍軍師として従軍する。その折、黄巣が掌握した地域に、非難の文書を書いて撒いた。その文書の素晴らしさに、黄巣が驚いたという逸話がある。黄巣の乱を治めたのは、刀の力でなく、崔致遠の文章力だったといわれるほど、彼の文書の影響が強く認識された。
・後に、新羅に帰国した崔致遠は、有名な人物の碑文など多く書き残した。「鸞郞碑序」に、花郎(화랑)に関する一節、「國有玄妙之道曰風流~」(国には玄妙な道理があり、これを風流という~」がある。(同文は、高麗時代の「三国史記」(作成:1143年~1145年)に記載されている)

▼ 「霊山会相(영산회상)」の中から「細霊山(세령산)」を聴く。そこかしこに、アリランの風味がしてくる風流音楽。

次に、「花郎」の教えでもあったといわれる、「風流」と音楽について次のように解説された。
・花郎は、新羅の貴族子息の教育機関、或いはそこで教育を受けた人たちを指す。 「鸞郞碑序文」にある風流は、花郎の道(教え)のひとつと言われる。花郎は、「国仙」と言いい、言葉の通り、仙人のように景色のよい場所を訪ねては修練に励み、そこで、歌や音楽を楽しんだとも言われる。風流という言葉が今日、粋に遊ぶこと、麗しい情緒、俗なことを避け、高尚な遊戯にふけることといった、意味を持つようになった理由も、こうした過程から来たといわれる。
・朝鮮時代となると、ソンビ(博識な学者)たちが「舎廊房(사랑방)」に集い、音楽を聴いたり、絵を描いたり、詩をしたため、互いに意見を言い合った。こうした空間を「風流房(풍류방)」と呼び、そこで演奏しあった音楽を「風流音楽」と呼ぶ。酒のたしなみもその一つのよう。

▼ 酒を勧める「歌辞 勧酒歌(가사 권주가)」を聴く。酒杯ゆらり時に任せ、香りと味を楽しみたくなる・・・このまま酔いどれて。

最後に、風流音楽の種類とその意義を次のように説明された。
・風流音楽を、単に「風流」と呼ぶこともある。(朝鮮時代後期の)曲目「霊山会相」や、「ドドゥリ(도드리)」といった音楽は、弦楽器を中心に構成される演奏曲で、弦を表す「ジュル(줄)」をつけて「ジュル風流」という。また管楽器がメインとなる構成の場合は、その演奏を「テ風流」と呼ぶ。「テ」とは、管楽器の原材料の竹(テナム、대나무)の「テ」にちなむ。
・風流音楽は、楽器の構成を単純化し、ゆったりとした、観照的なメロディーを持つという特徴がある。淡々としていているが、心身の緊張を解きほぐし、自分自身に没頭する瞬間を作る。

▼ 「新水龍吟(신수룡음)」、「副題、還生(환생)」を聴く。基調に硬く・・・今様である。

2013年11月26日火曜日

イ・ソンヒの「ひとしきり笑いで」

イ・ソンヒの5集所収の「ひとしきり笑いで(한바탕 웃음으로)」(作詞作曲ソン・シヒョン、1989年)は、彼女の歌の中で、「あ!昔よ(아! 옛날이여)」、「美しい江山(아름다운 강산)」、「ケンチャナ(괜찮아)」などに通じる、何かを吹き払い、いかにも前向きな響きがする、韓国らしいトーンの強い曲である。

(本ブログ関連:”ひとしきり笑いで”)

ひとしきり笑いして、知らないふりをするには
この世界の若いため息が、あまりにも深くて
ひとしきり涙して、忘れてしまうには
この世界の若い傷跡が、あまりにも大きい
 
私は再び眠りたいだけ、子どもの頃のように夢の中で
私は再び夢を見たいだけ、ひたすら笑っていた子供の頃のように
 
若いため息、ため息が薄れる日、世界は本当に美しいよ
若い傷跡、傷跡が薄れる日、世界は本当に美しいよ
 
ひとしきり笑いして、知らないふりをするには
この世界の若いため息が、あまりにも深くて
ひとしきり涙して、忘れてしまうには
この世界の若い傷跡が、あまりにも大きい
 
(Youtubeに登録のsunnyfan100に感謝)