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2015年6月16日火曜日

ノ・サヨンの「出会い」

イ・ソンヒの世界にだけ遊ぶ身に、若い世代の曲は全く縁遠い。だから、教室で、コヨーテの「出会い」を聞いてきたという話しにも、ノ・サヨン(노사연)の「出会い(만남)」(1989年)しか浮かばない。

(本ブログ関連:”ノ・サヨン”)

愛とは決して偶然でないという確信は強くて切ない。誰もがそんな記憶を持っているからこそ、思い出の曲として歌われつづけているのだろう。韓国で、70~80年代に輝かしい学生時代を過ごした世代も、今や中高年世代として若者たちに押されている。俗に7080世代と呼ばれ、我が歌が懐メロになるのに抗しているようにも見えるけれど。

(本ブログ関連:”(資料)韓国ギャラップ調査「愛唱曲 2004-2014比較」”、”7080世代の好きな曲”)

美しい歌「出会い」を、SMAPの草彅剛が韓国語の語りと照れを入れて歌った珍しい映像がある。ノ・サヨンの歌と並べてみた。そういえば、彼は現在、초난강をすっかり卒業したようだ。


(Youtubeに登録のpops8090、KBKに感謝)

2010年12月14日火曜日

ノ・サヨン

大学歌謡祭からデビューを果たした、ノ・サヨン(노사연)の2集アルバム収録曲「出会い(만남)」(歌詞:1989年)は、今もカラオケに歌われる上位曲に入る。特に7080世代に受け入れられているのだろうが、そうでなくても、ゆったりとした穏やかな旋律と、一途な想いを歌うところに郷愁を誘うのかもしれない。どんな夫婦だって、互いに明かさない懐かしい想い出があるように。

(本ブログ関連:”ノ・サヨン”)

(Youtubeに登録のfallsky80に感謝)

2016年7月8日金曜日

イ・ソンヒと「大学歌謡祭、江辺歌謡祭」

「タジン日報(딴지일보)」掲載の【サンハのコラム】の投稿記事 「伝説、『大学歌謡祭』略史3編: イ・ヨンとイ・ソンヒ、若者たちの歌謡祭」(7/4)は、1980~90年代の世相と連動して、大衆歌謡における若者たちの中心部にいた「大学歌謡祭(MBC 대학가요제)」の位置づけと、その盛衰を語っている。さらに、「大学歌謡祭」とは別に、若者たち同世代に支持された「江辺歌謡祭(MBC 강변가요제)」もあり、そこにデュエット(男女)で登場したイ・ソンヒについて記されている部分だけ抜粋し、次に掲載させてだく。感謝。

- 「大学歌謡祭」放送期間: 1977年~2012年
- 「江辺歌謡祭」放送期間: 1979年~2001年

投稿記事は、イ・ソンヒのファンが、男子高校生にまで及んでいたことを伝えている。しかも、相当なオバカ振りに笑ってしまう。

(本ブログ関連:”大学歌謡祭と江辺歌謡祭”)

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(略)

・1984年の「江辺歌謡祭」で、韓国の歌謡史に残る大型女性歌手イ・ソンヒは、「4幕5場」というちょっと曖昧な名前のデュエットで彗星のように現れた。「J」のイニシャルを持つ人々は、彼らの歌<Jへ>を聞いて、あたかもその歌が自身のための歌であるように喜んでいた。

・デュエットの(相手)男性が軍隊に行ってしまった後、イ・ソンヒはソロに転向し、大型ヒット曲を出しながら、一躍スターダムに上がる。その人気がどれくらい優れていたのか、私が通った学校で起った惨事で充分に立証することができる。イ・ソンヒが公演のため釜山を訪問した時、真っ黒な高校生が「姉(누나:弟から見た姉さん)」を見に行くのだと、2階教室から数十人ずつ花壇に飛び降りてそのうちの一人の脚が折れたのだ。

(略)

<大学歌謡祭>は、90年代以後次第に衰退期に入り込む。
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「前は、『江辺(大学)歌謡祭』が新人の登竜門でした。しかし、今の新人は放送局主催のコンテストじゃなくてもいくらでもデビューすることができるようになりました。インディーもあり、すぐにアルバムを出す機会も多いのです。」
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<わが大衆音楽の巨星たち(우리 대중음악의 큰 별들)、イ・ソンヒ編> - 著:イム・ジンモ、発行:ミンメディア

・(この)イ・ソンヒの言葉が最も大きな理由になるだろう。大学の門戸も入らなかったソテジが、大衆の偶像として登板したのが90年代初頭ではなかったか。主観的に一つ付け足すなら、大学歌謡祭の隆盛期は韓国の大学生がその現代史で最も躍動的で重要な役割を遂行した70年代末と80年代を貫いている。90年代以後の社会的変化により、大学生集団がその影響力と独自性を急激に喪失しながら、大学歌謡祭自体の活力もまた、比例してだんだん少なくなったのではなかったかも。

・大学歌謡祭も江辺歌謡祭もすでに後が絶えた。大学歌謡祭で優勝した人が、その後、ニュースや放送で紹介された記憶の流れも数年間、すっかり干上がった。だが、今後さらに年月が経って、大学歌謡祭自体が歴史の中に埋められても、私は大学歌謡祭、そして江辺歌謡祭とともにした歌を口ずさむことで、その歌を伝えた若い、いや、若かった歌の名前をときめく心に数えるだろう。

・一度、指折り数えてみよう。サンドペブルス(Sand Pebbles)、ペ・チョルス、ノ・サヨン、シム・スボン、ホン・ソボム、チョン・オチャ、チョ・ハムン、イ・ソンヒ、ウ・スンシル、ノ・サヨン、チョ・チョンヒ(スズメとカカシ)、ユヨル、シン・ヘチョル、イ・サンウン、イ・サンウ、パク・ミギョン、チュ・ヒョンミ、キム・キョンホ、キム・ドンリュル、そして<オモナ>のチャン・ユンジョンまで。あらまし挙げても両手が足りない。(略)

(略)
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2010年1月28日木曜日

7080世代の好きな曲

一昨年のことであるが、KBS1音楽番組「コンサート7080(콘서트 7080)」は200回放送('08.11.3)にあたり、全国の満39歳以上~59歳未満の男女ネットユーザー1,988人を対象に、70〜80年代の国内歌謡の中から好きな曲を、10曲以上30曲以内で選んでもらった。(hanafos_shop、KBS World掲載より)

1位~10位の結果は次の順の通り。
・ヤン・ヒウン(양희은): 朝露(아침이슬)
・キム・ヒョンシク(김현식): 私の愛、私のそばに(내사랑 내곁에)
・チョー・ヨンピル(조용필):友よ(친구여)
・オニオンズ(어니언스): 手紙(편지)
・イ・ヨン(이용): 忘れられた季節(잊혀진 계절)
・ソン・チャンシク(송창식): 鯨狩り(고래사냥)
・シム・スボン(심수봉): あの時、あの人(그때 그사람)
・ノ・サヨン(노사연): 出会い(만남)
・イ・ソンヒ: Jへ
・キム・ジョンホ(김정호): 見知らぬ少女(이름 모를 소녀) 【ケイ・ウンスクのコンサート版も良い!】

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2012年3月24日土曜日

<コンサート7080>デジタル音源発売

UP(ユニオンプレス)ニュースの記事「イ・ソンヒ、チョー・ヨンピル、ソン・チャンシク... <コンサート7080>デジタル音源で帰ってくる!」(3/22)は、イ・ソンヒの歌を含めて<コンサート7080>のデジタル音源が23日発売されると、次のように報じている。
[ユニオンプレス=キム・ヒス インターン記者]

・思い出と郷愁がいっぱいの元祖青春の感性が音楽に乗って<コンサート7080>デジタル音源で帰ってきた。

・最近、様々な音楽番組で、70、80年代の名曲のリメイクがブームの中で、KBS 1TV<コンサート7080>のデジタル音源が、23日(金)に発売される。

・今回お目見えするデジタル音源は、イ・ソンヒの「Jへ」、チョー・ヨンピルの「キリマンジャロの豹(ひょう)」、ソン・チャンシクの「日(푸르른 날)」、ノ・サヨンの「出会い」など全38曲余りで、70、80年代の名曲を中心に厳選された。

・特に今回の<コンサート7080>に収録された名曲は、KBS 2TV<不朽の名曲50選>を使用して10、20代にも人気を得たので、中・壮年層だけでなく、若い世代の共感も形成することができることに意義がある。

・中・壮年層には思い出と郷愁を、若い世代には濃い青春の感性を伝える<コンサート7080>は、さまざまなオンライン音楽サイトとCDショップで会うことができる。

・一方、KBS 1TV<コンサート7080>は、70、80年代の名曲を中心に始め、現在ではソン・シギョン、ホガクなど、さまざまな世代が好むジャンルの音楽まで広がり、視聴者の安定した愛を受けている。

2009年12月6日日曜日

カラオケ2009

KBS WORLD Rdioの「玄界灘に立つ虹」(12/2)で、市場調査会社による、今年のカラオケ・リクエスト調査結果のうち、トップ5が次の通り紹介された。全体を通じては、バラードが6割を占めているそうだ。
#1.イ・ウンミ(이은미) 「恋人がいます(애인있어요)」(歌詞)
#2.ノ・サヨン(노사연) 「出会い(만남)」(歌詞)
#3.パク・サンチョル(박상철) 「無条件(무조건)」(歌詞)
#4.チャン・ユンジョン(장윤정) 「あらまあ(어머나)」(歌詞)
#5.キム・スヒ(김수희) 「南行列車(남행열차)」(歌詞)

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2015年2月27日金曜日

(資料)韓国ギャラップ調査「愛唱曲 2004-2014比較」

韓国ギャラップから、「韓国人が好きな40種類、【文化編】-趣味/運動/愛唱曲/映画/ペット(2004年-2014年)」(2/25)の調査結果が発表されている。その中で、「愛唱曲」(発表時期、歌手名、応答率)について次のように報じている。
当然、イ・ソンヒが同率7位にランクインしているので、(参考)などで赤字で追記・付記した。

(本ブログ関連:”韓国ギャラップ” ⇒ リンク先表示下「次の投稿」に続く)

今回、少々気になる説明がある。一つにアルバム購入スタイルからインターネットなどで入手するという聴取スタイルの変化について、次に1位曲にもかかわらず応答率が低いこととカラオケでの選曲のむずかしさとの関連など・・・どのように分析をされたのか知りたいところだ。
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●韓国人の愛唱曲1位は「私の歳がどうだから(내 나이가 어때서)」、また、「出会い(만남)」と「南行列車(남행열차)」は2004年に続き2014年にも愛唱曲10位中に入って

・我が国には、昔から各地方特有の「勞動謠」(=農作業など労働の民謡)があった。 しかし、今は思う存分歌を歌って仕事が出来る職業がほとんどないので、音楽を聞くため時間を多く割いて、カラオケや各種集いに参加した時、歌を歌うことになる。インターネットと放送、スマートフォンなどの普及に伴い、過去のようにあえてアルバムを購入しなくても多様な経路を通じて望む歌を選択して聞くことができる。このような環境変化が韓国人の愛唱曲にはどんな影響を与えたのだろうか?

・韓国人が最も好んで歌う歌(自由応答)
- 1位は今回調査に参加した1,700人中34人が答えた「私の歳がどうだから」(2012、オ・スングン、2.0%)
- その次は、「わけもなく(무조건)」(2005、パク・サンチョル、1.4%)と、「出会い」(1989、ノ・サヨン、1.4%)
- 「まあ(オモナ、어머나)」(2004、チャン・ユンジョン、1.1%)
- 「椿お嬢さん(トンベク・アガシ、동백아가씨)」(1964、イ・ミジャ、1.0%)と、「南行列車」(1986、キム・スヒ、1.0%)が5位圏に入った。
-(参考: 次にイ・ソンヒの「因縁(인연)」(2005、0.8%)、シン・ユの「時計の針(시계바늘)」(2008、0.8%)が7位圏に入った)

・愛唱曲1位の選好度がこのように低いのは、韓国人一人一人の特性(キャラクター)ごとに好んで歌う歌がまちまちだということを見せてくれる。もし、人々の愛唱曲が特定の歌に集中しているなら、カラオケに行った時、他の人が私の18番曲を先に歌って困るようになるケースが頻繁に起きないだろうか。

・愛唱曲の上位10位中で、
- 最も古くなった曲は、50年超えて歌われた「椿お嬢さん」であり、
- 最新曲は、2013年発表されて昨年も人気を享受した「ガゥオー(으르렁)」であり、
- 「出会い」と「南行列車」の二曲は、2004年に続き2014年にも10位中に入って名実共に国民愛唱曲の座を守った。
- (イ・ソンヒの)「因縁」、(他に)「会いたい(보고 싶다)」、「恋人います(애인 있어요)」という最近のオーディション番組を通じて再び世間の注目を受けた曲であり、「時計の針」と「安東(アンドン)駅で(안동역에서)」という若い演歌歌手の代表曲だ。


【グラフ補注】
*2004年の上位10位曲: 「出会い」、「昭陽江(ソヤンガン)乙女(소양강 처녀)」、「南行列車」、「賛美歌」、「愛(사랑)」、「アパート(아파트)」、「イバラの花(찔레꽃)」、「花を持った男(꽃을 든 남자)」、「泣いて越えるパクダル峠(울고 넘는 박달재)」、「女の一生(여자의 일생)」
*2014年10月2日~29日、全国満13才以上男女、1,700人面接調査
*曲名、括弧中(発表時期、歌手名)
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2015年1月17日土曜日

出会い

出会いが偶然だったとしても、いつか記憶に残れば、それが偶然だったのかと自問する。まして、そこに情感が漂い、懐かしさが深まれば、決して偶然ではない何かに導かれた必然があった、それは希望だったのだと。

ノ・サヨン(노사연)の2集収録曲「出会い(만남)」(1989年)は、今も7080世代にカラオケで歌われる上位曲だ。そう、誰もが思い出を持っている。おじさんだって、おばさんだって大事にしまっている、遠い美しい記憶があるんだよ。この歌が種になって結晶を作り、あの出会いを輝かせてくれる。

(本ブログ関連:”出会い”)

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2014年5月23日金曜日

ペ・チョルスとイ・ソンヒ

以前、韓国経済の記事(2011年1月8日、キム・ミョンシン記者)に、KBS音楽番組「コンサート7080」のMCペ・チョルス(배철수、裵哲秀)が、”歌手として”事実上引退の可能性を示唆したという内容があった。

(本ブログ関連:”ペ・チョルス”)

ペ・チョルスは、いわゆる歌謡祭出身の歌手で、中央日報の記事「【噴水台】スーパースターK」(2010年10月24日、ソン・ウォンソプJES記者)が、スーパースターKなどオーディション番組隆盛時に、過去の同様のイベント(歌謡祭)紹介の中で次のように記している。
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・30余年前の「大学歌謡祭」を連想させる。77年に始まった「MBC大学歌謡祭」も盛り上がったのは2年目の78年だった。第1回大会の成功でレベルの高い参加者が数多く集まり、参加者のうちペ・チョルス、ノ・サヨン、イム・ベクチョン、シム・スボンらが80年代の大衆文化の主役に成長した。同じく78年に始まったTBC(東洋放送)「海辺歌謡祭」もワン・ヨンウン、チュ・ビョンジン、グ・チャンモ、イ・チヒョンらを輩出した。その後、さまざまな大学生歌謡祭が韓国放送・歌謡界の登龍門に定着した。
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K-Wikipediaによれば、ペ・チョルスのデビューは、1978年のTBC第1回「海辺歌謡祭」のようだ。
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・1978年に 東洋放送 TBC第1回「海辺歌謡祭」では、グループ滑走路(RUNWAY )の一員として出場し、「世間知らずで生きてきた」で人気賞を受け、同年MBC第2回「大学歌謡祭」にも出場、<仮面舞踊>で銀賞を獲得した。
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(ちなみに、イ・ソンヒは、1979年に開始した「MBC江辺歌謡祭」の第5回(1984年)で、「Jへ」により四幕五場のグループとして大賞受賞している)

そんな、ペ・チョルス(1953年8月18日~)が、最近、30周年記念コンサートをした、イ・ソンヒ(1964年12月14日~)とのデュエットの申し出を断ったという、おもしろい記事がある。アジア経済の記事「【ラジオスター】ペ・チョルス 『24年間のあいだ歌っていない、イ・ソンヒのデュエット拒絶』」(5/22)で、イ・ソンヒとの、年齢差と音楽経験の違いから、次のようなやりとりを述べている。
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・自分を置いて(出演した番組中の会話)争奪戦が広がるとすぐに、ペ・チョルスは、「イ・ソンヒさんから電話があった」と、「先だって、(15集)アルバムを出しながら、先輩とデュエットで歌いたいと言っていたよ」という事情を告白した。だが、ペ・チョルスは、「ソンヒさんよ、どうか、やらないでください」と、イ・ソンヒの提案を断った。
・ペ・チョルスは、「私は、24年の間(音楽を)していなかった」と話し、歌いにくいという立場を表わした。
・【ラジオスター】ペ・チョルスの音楽ネチズンは、「ペ・チョルスの声、また聞きたいけれど」、「ペ・チョルス、イ・ソンヒとデュエット想像するだけでも良いのに」など反応を見せた。
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2013年7月4日木曜日

MBC「大学歌謡祭」廃止

1984年、イ・ソンヒが思い出深いスタイルで登場してデビューのきっかけになったMBCの「江辺歌謡祭(강변가요제)」からはチャン・ユンジョンなど数々の歌手が誕生したが、1979年以来つづいたこの音楽祭は2001年に終了した。

この歌謡祭と対比されるものに、同じくMBCの「大学歌謡祭(대학가요제)」があった。1977年を第一回としながら昨年まで継続したこの音楽祭もついに終焉を迎えたと、インターネットニュース・シンムンゴは、「大学歌謡祭 『時代変わったのではなく、MBCが変わった』」(7/4)と次のように伝えている。
しかし記事にあるイ・ソンヒは「大学歌謡祭」出身ではないのだが。それに、「大学歌謡祭」にはシム・スボンがいる。
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去る36年間青年文化を引っ張ってきたMBC「大学歌謡祭」が廃止された。MBCは去る(6月)2日、大学歌謡祭プログラムに対して視聴率低調を理由に廃止を確定したと明らかにした。

MBCは今年、大学歌謡祭の予算を策定しておらず、関係者は「時代が変わった。『大学歌謡祭』の影響力と人気が以前とは違ったのが事実」としながら、「もう終える時が来たたようだ」と伝えた。

1977年初めて開催された「大学歌謡祭」は、昨年開かれた第36回まで何と36年の間、新人歌手の登竜門だった。大学歌謡祭は、ペ・チョルス、キム・ドンリュル、シン・ヘチョル、ノ・サヨン、イム・ベクチョン、イ・ソンヒ、キム・ギョンホなどを輩出してきた。

これに対し「大学歌謡祭」廃止は、単純に長寿プログラムが消えるのではなく、時代を風靡した文化コンテンツを一つ失うということなので意味するところが大きい。

一方、インターネットユーザーたちは、「時代が変わったのではなく、MBCが変わった」としながら、「惜しい」という反応が多かった。
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もっぱらスターが出てこないからというのが理由のようだが・・・。

2013年7月14日日曜日

「【萬物相】大学歌謡祭」

先月(6月)の2日に発表された、MBCの「大学歌謡祭(대학가요제)」(1977年~)の中止について、朝鮮日報の記事「【萬物相】大学歌謡祭」(7/14、呉太鎮(오태진)首席論説委員)は、大学歌謡際前後に出身の歌手たちと、歌謡祭の終焉を次のよう紹介している。

(本ブログ関連:"大学歌謡祭")
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・1970年代の『KBS杯争奪全国のど自慢(KBS배 쟁탈 전국노래자랑)』は土曜日の夜、人々の目を白黒テレビにくぎ付けにした。韓国初のテレビ歌謡コンテストということで、ものすごい人気だった。71年の第1回大会年末決戦のことは40年以上も前だがはっきりと覚えている。勝者は18歳のキム・ミョンヒだった。ギターを弾きながら、細かく震えるビブラートで「セノヤ セノヤ」を歌った。現在は中堅ジャズシンガー、ユン・ヒジョンとして活躍している。丸刈りの頭を毛糸の帽子で隠した高校生チョン・ヨンノクは「デュオ」というグループで出場して奨励賞を手にした。

・この番組は70年代末に一度なくなり、80年に『全国のど自慢』として復活したが、新人歌手発掘ではなく、地域の人々が集うのど自慢大会になった。77年にMBCが始めた「大学歌謡祭」に人気を奪われたためだ。そのころの大学生たちはロックバンドに夢中だった。ソウルだけでも20を超えるバンドが毎年集まり、腕を競った。大学歌謡祭は若者文化を自作曲コンテストへと導き入れ、維新体制(朴正煕〈パク・チョンヒ〉大統領による独裁体制)に息を詰まらせていた若者たちに熱狂的に支持された。

・初期の大学歌謡祭は歌手のイ・スマン(이수만)が司会をした。ソウル大学農学部に通う大学生のバンド「サンド・ペブルス(샌드페블즈)」にいたイ・スマンは、今やK-POP界を担う大手事務所SMエンターテインメントの会長だ。第1回大賞は、イ・スマンの4年後輩のサンド・ペブルスが「僕、どうしたら(나 어떡해)」で獲得した。このグループの1年先輩に当たるキム・チャンフンが作詞・作曲した。兄のキム・チャンワンと共に「サンウルリム(こだま)」を結成した、あのキム・チャンフンだ。釜山大学合唱団「引き潮(썰물)」の「押し寄せる波の音に(밀려오는 파도소리에)」が優勝した第2回大会も話題になった。

・第2回に準優勝に当たる金賞を受賞したのは、「曲がりくねった道(돌고 돌아가는 길)」を歌った檀国大学のノ・サヨン(노사연)だった。銀賞にはペ・チョルス率いる航空大学在学生によるバンド「滑走路」の「仮面劇」が選ばれた。だが、当時人気があったのは断然、明知大学のシム・ミンギョンだった。大学生お決まりのジーンズとTシャツではなく、きちんとした襟のある水色のワンピース姿でピアノの前に座った。歌もロックやフォークではなく、トロット(明るい歌詞やメロディーの演歌)だった。シム・ミンギョン(심민경)はピアノを弾きながら自作曲「あの時 あの人(그때 그 사람)」を情感豊かに歌った。間もなく「歌手シム・スボン(심수봉)」としてデビュー、この曲は歌謡ランキング番組を総なめにした。

・数々のスター歌手やヒット曲を生み出した大学歌謡祭が、その歴史にピリオドを打った。MBCは、「制作費がかなり掛かるのに視聴率は非常に低い。大衆と呼応できない『むなしいこだま』だった」と理由を説明した。2000年代になるとスター育成は芸能プロダクションが担うようになった。そして歌手の登竜門といえばオーディション番組に取って代わられた。昨年の大学歌謡祭の賞金は500万ウォン(約44万円)だったが、オーディション番組の賞金は5億ウォン(約4400万円)に達した。あらゆる分野間で壁が取り払われようとしている時代に、大学生という「くくり」があるのも感覚的に古かったのだろう。70-80年代に青春を過ごした世代にとってまた一つ、思い出が遠くなった。
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2010年12月12日日曜日

歌謡祭からシュースケまで

e-Today(이투데이)の以前の記事「大学歌謡祭からスーパースターKまで...オーディションの変遷」(11/25)に、歌謡祭と現在の音楽状況について次のように述べられている。

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・1977年に始まったMBC「大学歌謡祭」は、スター登竜門だった。ペ・チョルス(배철수)、シム・スボン(심수봉)、ノ・サヨン(노사연)、シン・ヘチョル(신해철)などを誕生させて、スター登竜門としての名声が徐々に大韓民国初の公開オーディション番組として定着した。
・MBC「江辺歌謡祭」(1979年~2001年)でデビューしたイ・ソンヒ、チュ・ヒョンミ(주현미)、パク・ミギョン(박미경)、チャン・ユンジョン(장윤정)などは、卓越した歌唱力とスター性で大衆の支持を着実に受けている。
・歌謡番組の関係者は、「以前の歌謡祭は、音楽トレンドがわずか10年の間に大きく変化しながら、昔の名声は消え失せているのが現実だ」としながら、「(その)代わりに、その席をスター性と多様なトレンドに合わせ《シュースケ(슈스케:(Mnet)スーパースターK》が、青少年から青年に至るまで多様な年齢を抱えこんで、オーディション番組の新しいジャンルを開いた」と語った。
・続けて、「過去の歌謡祭は、本人が創作した歌のみ参加が可能だったという点で、《シュースケ》とは明確に区分しなければならない」として、「《シュースケ》は、スター性だけを追求して真の音楽家を探す悩みは以前ほどない」と付け加えた。
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モーフィングを使って多数の女性写真を合成すると、いわゆる美人画像ができあがる。つまり、美しさはバランスのとれた究極の平均値である。スター性は、その時代の平均値かもしれない。ところが、時代を変える力は、全く別の場所から出現する。時代が求める美と、時代を変える美は、自ずと異質なのかもしれない。オーディションする側の感度が試されることになる。

(本ブログ関連:”大学歌謡祭”、”江辺歌謡祭”、”スーパースターK”)

2013年12月11日水曜日

(資料)イ・ソンヒのスター・ストーリー「7.『江辺歌謡祭』の裏話」

先日(9/27)、「スポーツ韓国」の紙面(1991年3月8日~4月5日)に連載された「イ・ソンヒ27歳当時のスター・ストーリー」記事の目次を紹介したが、その第7回目をここに載せたい。感謝。

イ・ソンヒが、いよいよ才能が世に見出される瞬間の「江辺歌謡祭」での大賞受賞にかかわる数々のエピソード、あるいは出場したときの名前のセンシティブな情報など・・・まさに数々の裏話を知ることができた。(今回、原文中に特定字句の脱字がいくつか見られた:表示上の理由か?)

(本ブログ関連:”(資料)イ・ソンヒ(27歳当時)の「スター・ストーリー」”、”資料:이선희 Profile”)


[7] 「江辺歌謡祭」の裏話
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私は一人でソロとして、<4>はグループとして、江辺歌謡祭に参加した。

私は(ソ)ロの決選にのぼったが、<4>は予選で脱落した。私は、学校の名誉のために決選で「イ・ソンヒ」の代わりに<4>というチーム名の中に私の名前を埋めてほしいという、先輩の提案を受け入れた。決選で、サークルの先輩イム・ソンギュンさんが、その他伴奏と和音を合わせてくれた。

純粋な気持ちで、私が属した音楽サークルを助力しようとしたことなのに、後日あたかも私が<4>の知名度にタダ乗り(無賃乗車)したように知られたのは、今考えてもとんでもないことだ。

私は、84年の「江辺歌謡祭」もまたTVに中継がないと思っていた。例年は、確かにFMラジオでだけ放送されたのを記憶していたから。さらに、生放送で中継されるのをあらかじめ知ったならば、私は多分参加願書も出さなかっただろう。大学入学後にも、私が勉強よりは歌に陥っている姿を父は極めて不満だった。内心、頑固な父を説得できる「締切期日」を、その年の秋ぐらいに捉えていたので、私はまず父に「バレ」ないことが急務であった。

「江辺歌謡祭」の1、2次予選はソウルで執り行なったが、最終予選と決選は南怡島で寝泊りしながら進行した。「これは困った。家に何か言い訳して抜け出すか。数日だが・・・」

結局、私はちょっと無理をしなければならなかった。ムシムシする7月の蒸し暑さの中で、私は往復5時間の距離の、家と南怡島の間を三日間毎日行き来したのだ。

待望の「江辺歌謡祭」決選の前日、私は「変装」した。ひょっとして父や知り合いがTVを見ても、私が誰なのかを見間違えるようにしようと。まず、頭をチリチリにパーマしたし、メガネも視力が似た友人のものと替えて使った。その上、行事当日の演出者シン・スンホ先生の強要(?)で、着ていたジーンズをスカートに着替えたので、それなりにほとんど完ぺきな変装をしたわけだ。

その時借りてはいたスカートの持ち主は春川から来たオ・ヘウォンという女子中学生だった。余裕がなくて返すことができなかったが、今も家に保管している。この記事を読むことになれば、その時の私のジーンズとヘ・ウォンさんのスカートを交換をする心の準備はないのだろうか・・・。

「江辺歌謡祭」TV生放送時間のカウントダウンが始まった時、私は瞬間的に現場から逃げるところだった。父が近づいて来たのだ。叔父と叔母も一緒に。

叔母はMBC FMを通じて江辺歌謡祭の案内放送で私の名前を確認し、直ちに父に連絡して私を「捕らえに」「出動」したのだった。

私を一時見おろした父の口から想像もできない言葉が流れて出た。「せっかくこのようになったこと、必ず1等になりなさい、学生時代の良い思い出を作ると思って・・・」

夢にも見られなかった「応援団」が現れたのだ。あらためて決意を固めて舞台に上がった。観客席の中の父と目を合わせて呼吸を整えた。

それなりに最善を尽くしてを歌ったが、「大賞」を授かるなんて想像さえしなかった。

私が心の中で「1等」と目をつけたチームは、「アダダ」という歌を歌ったあるデュエットだった。彼らがどの順位にも入ることが出来なかった事実は、今も理解することができない。

(「Jへ」)で、大賞を獲得した後、私はあらゆる流言に苦しめられなければならなかった。いったい「J」が誰なのかということだった。ある新聞か雑誌は、「J」の仮想図をカラフルに載せたりもした。長身に俊秀な容貌だが、洋服の上着に韓服のズボンを好んで着る変わり者の文学青年とか、実名は「ノ・ソクヒョン」なのに「ノ・ソクチン」というペンネームを使うとか、「J」というイ・ソンヒの祥明女子高時代の片想いとか・・・。

    (注)歌「Jへ」に登場する「J」については、作者のイ・セゴンの言葉から知ることができる。

あまりにも問い質すので、ある席だったか「J」という私の甥(姪)の「ジェヒ」を意味すると話してしまった。その声を聞けなかったある記者は、「ジェヒ」が誰かとまた何度も尋ねた。「ジェヒはわが家の子犬の名前です」

冗談で発した返事だったが、いやはてさて、その記者はその話をそのまま記事にしてしまった。「『J』は、イ・ソンヒが飼っている犬の名前だ」と。

誓って、特定の「J」は、この世界にいない。子どもも、青少年も、また中年層さえも口ずさみながら歩いたように、「J」という、誰もが自分の胸中深く大事におさめている思い出の恋人であることもあれば、また、幼なじみであることもあるのだ。チャン(Jang、장)さん、チョ(Jo、조)さん、チョン(Jeon、전)さん、チュ( Ju、주)さんなどが、自分を忘れられないという歌詞を聞いて、非常にうれしがるという話も聞いた。

(「Jへ」)は、私としては信じられないほど大ヒットをした。1985年1月には、放送回数95回で、最も放送された曲になるほどだった。その時、2位はナミ(나미)氏の「クルクル(빙글빙글)」、3位はイ・ウンハ(이은하)氏の「恋もしたことない人は(사랑도 못해본 사람은)」であったと記憶する。

(「Jへ」)の人気は、MBCとKBS両放送局の間の見えなかった「壁」を崩したという話も聞いた。その前までは、MBCの歌謡祭の出身歌手がKBSに出演するということはほとんど想像も出来ないことだったので、私は今でもその時「糸口」をつけたのをこころよく思っている。

さらに、その年12月30日には、KBS「放送歌謡大賞」の新人賞まで受賞した。MBC側で、それとなく期待を抱いていたが、ライバルの放送会社から賞まで与えるとは・・・私もうれしかったが、MBCのシン・スンホ先生は私よりもっと喜ばれた。「ソンヒ(ソニ)よ、きみ、堰の水を切ったね」

MBCでは、その翌日(12月31日)、私は10代歌手に選ばれたし、新人賞に加え最高人気歌手賞まで上乗せてくれた。 3冠王・・・江辺歌謡祭(7/29)以後、ぴったり五月ぶりにあげた収穫だった。

TVをつけたりラジオをつけるたびに響き渡る私の歌に父は慌てた。仕事がそんなに大きくなるとは(?) そこまで予想できなかったのだ。「おまえ、それは趣味でやったことではなかったのかい?」

しばらく歌って彷徨(?)していれば、再び勉強するだろうだと信じた父は、日ごとに職業歌手になっていく私の姿に、ある危機感を感じたようだ。

芸能人に対してはいつも否定的な見解を持っている父との「暗闘」は、かなり長い間持続した。しかしながら、「子どもに勝つ親がいるだろうか」。結局、父は条件付きで、私の歌手活動を許諾した。

「醜聞を起こして、マスコミの噂にのぼる歌手にはならないこと。外ではお前がスターかも知らないけれど、家に帰れば私の子どもであり、私にとってまだ子どもでしかないことを肝に銘じること。 少しでも様子がおかしいなら、再び歌を歌えないようにするぞ。」 おおまかにそのような言葉だった。

今は、TV画面に映った私の姿と歌をモニターしてくれるほど私の生活を理解している父に、私はなかなか歌謡界の暗い面を話せない。私自身に関しては、常に恥じることがない生活をしてきたので、父の前でいつも堂々ととしていることができる。

私に対する周りの評価はどうだか分からないし、また別に耳をかたむけたい気もないが、私の両親に関する「悪評流言」(デマ)は断じて説明しておかなくちゃいけない。

父は僧侶であるから、言うまでもなく母もまた僧侶を夫としているので、勤倹節約する生活が体質化した人たちである。

したがって、娘ひとりの(おかげ)で贅沢な暮らしをしながら、貴族生活をしているという噂は、話にもならないことだ。歌手が歌数曲ヒットさせると、まず「夜の舞台」(マイナーイメージの舞台)を流れることがわたしたちの現実だが、両親は酒場で歌を歌うことだけは口を極めて止める。最も簡単に大金を握ることができる所なので色々な誘惑も多いが、私自身「夜の仕事」に出て行くことはいやだ。デビュー当初、何も分からない状態で「先輩歌手もみな出て行くので・・・」という考えで、いくつかの営業場所を転々としていた事実を今でも恥ずかしく思っている。

父は、私のために気苦労をたくさんした。娘の有名税を元手に宗団の要職に座ろうという誤解が嫌で、何と2年も寺院を離れていたりもした。

母は今でも、市場の床に散らばっているハクサイのくずやカブなどを拾ってくる。節約が習慣になったのだ。周りではこのような母を巡って、井戸端会議がはなはだしい。「外車に運転手まで置いて通う娘、恥ずかしくもないのか。どういうショーだ。貧乏たらしい様をあらわにしているね。ケチん坊。」 後生だから、「スター・ママ」と色眼鏡で見ないで、家庭を築いていく「主婦」としての私たちの母にきれいな視線を送ってくれるのをお願いする。

私は、(「Jへ」)を歌った時から、歌唱力はいい歌手という評価を受けてきた。私も認める私の歌の実力は、1984年11月、チョ・ヨンナム(조영남)氏が進めていた(KBSの)「ナイト・ショー」に招待されて、その場で初めて接したノ・サヨン氏の「あなたの影(님 그림자)」を歌った時、そしてMBCの「ショー2000」に出て行って「キャンパス ベスト10」の曲をひきつづき歌った時、完全に「公認」された。

前回、うっかり忘れて落とした話がある。江辺歌謡祭の決選で、<4>のメンバーで共に歌ったイム・ソンギュンさんとの関係についてのことだ。

江辺歌謡祭で大賞を受賞した後約3ケ月の間は、イム・ソンギュンさんとデュエットで活動した。デュエットという性格上、私は彼に付いて歩く時が多かったし、周囲では私たちの二人の間を恋人関係まで歪曲したりした。

私はそのような視線が負担だったし、また江辺歌謡祭に当初ソロで参加したように、再び一人で歌いたい欲が出た。それで、私が先に決別を宣言したいきがかりで、ソロアルバムを出すことになったのだ。「<4>の名前を借りて優勝しておいて、なぜお前一人だけスターの振舞いをするのか」という当時の一部難詰に対しては、「歌に対する欲念」のためだったと答えれば十分説明できるだろう。

なおかつ、<4>のメンバーや学校の中では、私のソロ活動に何の反感もなかった。おだてたり、けなしたりして愚弄した人たちは、私たちのグループや私とは何ら関連ない人物たちだけだった。

(「Jへ」)で、1等を「食べた」(受賞した)直後、私は地球レコード社と専属契約を結んだ。その時、契約金の名目で受けた金があれこれ差し引けば、5百万ウォン。生まれて初めてつかんでみた「大金」だった。その金は、全額父の白内障治療費に使われた。これまで、「芸能人」になろうと決意した娘のためにかなりひそひそ言われた父に、少しでも報いたというやりがいを感じる一方、何か相殺されたような妙な快感(?)も味わったことを告白する。
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