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2016年7月8日金曜日

イ・ソンヒと「大学歌謡祭、江辺歌謡祭」

「タジン日報(딴지일보)」掲載の【サンハのコラム】の投稿記事 「伝説、『大学歌謡祭』略史3編: イ・ヨンとイ・ソンヒ、若者たちの歌謡祭」(7/4)は、1980~90年代の世相と連動して、大衆歌謡における若者たちの中心部にいた「大学歌謡祭(MBC 대학가요제)」の位置づけと、その盛衰を語っている。さらに、「大学歌謡祭」とは別に、若者たち同世代に支持された「江辺歌謡祭(MBC 강변가요제)」もあり、そこにデュエット(男女)で登場したイ・ソンヒについて記されている部分だけ抜粋し、次に掲載させてだく。感謝。

- 「大学歌謡祭」放送期間: 1977年~2012年
- 「江辺歌謡祭」放送期間: 1979年~2001年

投稿記事は、イ・ソンヒのファンが、男子高校生にまで及んでいたことを伝えている。しかも、相当なオバカ振りに笑ってしまう。

(本ブログ関連:”大学歌謡祭と江辺歌謡祭”)

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(略)

・1984年の「江辺歌謡祭」で、韓国の歌謡史に残る大型女性歌手イ・ソンヒは、「4幕5場」というちょっと曖昧な名前のデュエットで彗星のように現れた。「J」のイニシャルを持つ人々は、彼らの歌<Jへ>を聞いて、あたかもその歌が自身のための歌であるように喜んでいた。

・デュエットの(相手)男性が軍隊に行ってしまった後、イ・ソンヒはソロに転向し、大型ヒット曲を出しながら、一躍スターダムに上がる。その人気がどれくらい優れていたのか、私が通った学校で起った惨事で充分に立証することができる。イ・ソンヒが公演のため釜山を訪問した時、真っ黒な高校生が「姉(누나:弟から見た姉さん)」を見に行くのだと、2階教室から数十人ずつ花壇に飛び降りてそのうちの一人の脚が折れたのだ。

(略)

<大学歌謡祭>は、90年代以後次第に衰退期に入り込む。
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「前は、『江辺(大学)歌謡祭』が新人の登竜門でした。しかし、今の新人は放送局主催のコンテストじゃなくてもいくらでもデビューすることができるようになりました。インディーもあり、すぐにアルバムを出す機会も多いのです。」
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<わが大衆音楽の巨星たち(우리 대중음악의 큰 별들)、イ・ソンヒ編> - 著:イム・ジンモ、発行:ミンメディア

・(この)イ・ソンヒの言葉が最も大きな理由になるだろう。大学の門戸も入らなかったソテジが、大衆の偶像として登板したのが90年代初頭ではなかったか。主観的に一つ付け足すなら、大学歌謡祭の隆盛期は韓国の大学生がその現代史で最も躍動的で重要な役割を遂行した70年代末と80年代を貫いている。90年代以後の社会的変化により、大学生集団がその影響力と独自性を急激に喪失しながら、大学歌謡祭自体の活力もまた、比例してだんだん少なくなったのではなかったかも。

・大学歌謡祭も江辺歌謡祭もすでに後が絶えた。大学歌謡祭で優勝した人が、その後、ニュースや放送で紹介された記憶の流れも数年間、すっかり干上がった。だが、今後さらに年月が経って、大学歌謡祭自体が歴史の中に埋められても、私は大学歌謡祭、そして江辺歌謡祭とともにした歌を口ずさむことで、その歌を伝えた若い、いや、若かった歌の名前をときめく心に数えるだろう。

・一度、指折り数えてみよう。サンドペブルス(Sand Pebbles)、ペ・チョルス、ノ・サヨン、シム・スボン、ホン・ソボム、チョン・オチャ、チョ・ハムン、イ・ソンヒ、ウ・スンシル、ノ・サヨン、チョ・チョンヒ(スズメとカカシ)、ユヨル、シン・ヘチョル、イ・サンウン、イ・サンウ、パク・ミギョン、チュ・ヒョンミ、キム・キョンホ、キム・ドンリュル、そして<オモナ>のチャン・ユンジョンまで。あらまし挙げても両手が足りない。(略)

(略)
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2013年7月4日木曜日

MBC「大学歌謡祭」廃止

1984年、イ・ソンヒが思い出深いスタイルで登場してデビューのきっかけになったMBCの「江辺歌謡祭(강변가요제)」からはチャン・ユンジョンなど数々の歌手が誕生したが、1979年以来つづいたこの音楽祭は2001年に終了した。

この歌謡祭と対比されるものに、同じくMBCの「大学歌謡祭(대학가요제)」があった。1977年を第一回としながら昨年まで継続したこの音楽祭もついに終焉を迎えたと、インターネットニュース・シンムンゴは、「大学歌謡祭 『時代変わったのではなく、MBCが変わった』」(7/4)と次のように伝えている。
しかし記事にあるイ・ソンヒは「大学歌謡祭」出身ではないのだが。それに、「大学歌謡祭」にはシム・スボンがいる。
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去る36年間青年文化を引っ張ってきたMBC「大学歌謡祭」が廃止された。MBCは去る(6月)2日、大学歌謡祭プログラムに対して視聴率低調を理由に廃止を確定したと明らかにした。

MBCは今年、大学歌謡祭の予算を策定しておらず、関係者は「時代が変わった。『大学歌謡祭』の影響力と人気が以前とは違ったのが事実」としながら、「もう終える時が来たたようだ」と伝えた。

1977年初めて開催された「大学歌謡祭」は、昨年開かれた第36回まで何と36年の間、新人歌手の登竜門だった。大学歌謡祭は、ペ・チョルス、キム・ドンリュル、シン・ヘチョル、ノ・サヨン、イム・ベクチョン、イ・ソンヒ、キム・ギョンホなどを輩出してきた。

これに対し「大学歌謡祭」廃止は、単純に長寿プログラムが消えるのではなく、時代を風靡した文化コンテンツを一つ失うということなので意味するところが大きい。

一方、インターネットユーザーたちは、「時代が変わったのではなく、MBCが変わった」としながら、「惜しい」という反応が多かった。
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もっぱらスターが出てこないからというのが理由のようだが・・・。

2013年7月14日日曜日

「【萬物相】大学歌謡祭」

先月(6月)の2日に発表された、MBCの「大学歌謡祭(대학가요제)」(1977年~)の中止について、朝鮮日報の記事「【萬物相】大学歌謡祭」(7/14、呉太鎮(오태진)首席論説委員)は、大学歌謡際前後に出身の歌手たちと、歌謡祭の終焉を次のよう紹介している。

(本ブログ関連:"大学歌謡祭")
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1970年代の『KBS杯争奪全国のど自慢(KBS배 쟁탈 전국노래자랑)』は土曜日の夜、人々の目を白黒テレビにくぎ付けにした。韓国初のテレビ歌謡コンテストということで、ものすごい人気だった。71年の第1回大会年末決戦のことは40年以上も前だがはっきりと覚えている。勝者は18歳のキム・ミョンヒだった。ギターを弾きながら、細かく震えるビブラートで「セノヤ セノヤ」を歌った。現在は中堅ジャズシンガー、ユン・ヒジョンとして活躍している。丸刈りの頭を毛糸の帽子で隠した高校生チョン・ヨンノクは「デュオ」というグループで出場して奨励賞を手にした。

・この番組は70年代末に一度なくなり、80年に『全国のど自慢』として復活したが、新人歌手発掘ではなく、地域の人々が集うのど自慢大会になった。77年にMBCが始めた「大学歌謡祭」に人気を奪われたためだ。そのころの大学生たちはロックバンドに夢中だった。ソウルだけでも20を超えるバンドが毎年集まり、腕を競った。大学歌謡祭は若者文化を自作曲コンテストへと導き入れ、維新体制(朴正煕〈パク・チョンヒ〉大統領による独裁体制)に息を詰まらせていた若者たちに熱狂的に支持された。

・初期の大学歌謡祭は歌手のイ・スマン(이수만)が司会をした。ソウル大学農学部に通う大学生のバンド「サンド・ペブルス(샌드페블즈)」にいたイ・スマンは、今やK-POP界を担う大手事務所SMエンターテインメントの会長だ。第1回大賞は、イ・スマンの4年後輩のサンド・ペブルスが「僕、どうしたら(나 어떡해)」で獲得した。このグループの1年先輩に当たるキム・チャンフンが作詞・作曲した。兄のキム・チャンワンと共に「サンウルリム(こだま)」を結成した、あのキム・チャンフンだ。釜山大学合唱団「引き潮(썰물)」の「押し寄せる波の音に(밀려오는 파도소리에)」が優勝した第2回大会も話題になった。

・第2回に準優勝に当たる金賞を受賞したのは、「曲がりくねった道(돌고 돌아가는 길)」を歌った檀国大学のノ・サヨン(노사연)だった。銀賞にはペ・チョルス率いる航空大学在学生によるバンド「滑走路」の「仮面劇」が選ばれた。だが、当時人気があったのは断然、明知大学のシム・ミンギョンだった。大学生お決まりのジーンズとTシャツではなく、きちんとした襟のある水色のワンピース姿でピアノの前に座った。歌もロックやフォークではなく、トロット(明るい歌詞やメロディーの演歌)だった。シム・ミンギョン(심민경)はピアノを弾きながら自作曲「あの時 あの人(그때 그 사람)」を情感豊かに歌った。間もなく「歌手シム・スボン(심수봉)」としてデビュー、この曲は歌謡ランキング番組を総なめにした。

・数々のスター歌手やヒット曲を生み出した大学歌謡祭が、その歴史にピリオドを打った。MBCは、「制作費がかなり掛かるのに視聴率は非常に低い。大衆と呼応できない『むなしいこだま』だった」と理由を説明した。2000年代になるとスター育成は芸能プロダクションが担うようになった。そして歌手の登竜門といえばオーディション番組に取って代わられた。昨年の大学歌謡祭の賞金は500万ウォン(約44万円)だったが、オーディション番組の賞金は5億ウォン(約4400万円)に達した。あらゆる分野間で壁が取り払われようとしている時代に、大学生という「くくり」があるのも感覚的に古かったのだろう。70-80年代に青春を過ごした世代にとってまた一つ、思い出が遠くなった。
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2009年10月2日金曜日

大学歌謡祭

<Daum知識>に(1984年にイ・ソンヒが大賞を受賞した)「江辺歌謡祭」のその後の質問に対して、次のような回答がされている。
・MBC主催で毎年8月に春川市(춘천시)で開かれる歌謡祭でしたが、『江辺歌謡祭(강변가요제)』は2001年の22回を最後に廃止されました。現在は『大学歌謡祭(대학가요제)』だけがその命脈をつないでおり、2009年の33回MBC『大学歌謡祭』は9月25日に開催されます。

今年の大学歌謡祭の結果について、「Innolife.net」(9/27)が次のように伝えている。
・歌手アレックスとイ・ヒョリの進行で、25日午後10時から放送された2009大学歌謡祭で「梨花大出身の女」チーム(在学生二人)は、個性を失った20代の悩みを表現した「鷄群無鶴(군계무학)」という曲で最高点を得て、大賞と特別賞の2冠王に輝いた。
(YouTubeに登録のにkorea724感謝)

以前どこかのブログで、現在の大学歌謡祭の位置づけ、役割について時代に沿っているかどうかを語られていたが、歌謡祭の実状がどうなのか知りたいところだ。

2012年6月20日水曜日

(資料)イ・ヨンウ大衆音楽評論家「江辺歌謡祭とイ・ソンヒ」

ブログ「タンサン(딴산)」に連載されている、イ・ヨンウ(이용우)大衆音楽評論家のシリーズにある「(77)爆発的歌唱力で姉さん部隊を号令したイ・ソンヒ - 五月の陽射し」(2006年12月4日)は、イ・ソンヒがトップ歌手として確立するまでを、アルバム6集までの経過と合わせて説明している。
イ・ソンヒの出発を知る貴重な資料として、次のように掲載させていただく。感謝

「爆発的歌唱力で80年代の"姉さん部隊"号令」
韓国ポップの事件・事故60年

(70)江辺歌謡祭とイ・ソンヒ

・ここらで1980年代半ばの大学生歌謡祭を見て回る必要があるようだ。MBC大学歌謡祭の話は何回も扱ったことがあるので、今度はMBC江辺歌謡祭*に集中してみよう。1979年江辺祭りという名前で始まった江辺歌謡祭は初年度ホンサムトリオの<祈り>(大賞受賞曲)をヒットさせたがしばらく大学歌謡祭の威勢に押されて相対的に水準が落ちる行事と見なされる傾向があった。こういう通念の底辺には江辺歌謡祭が出場資格で大学歌謡祭より柔軟なためという学閥主義的見解も厳存したが、これは「悲しいが真実」だった。

(*補注:"(資料)江辺歌謡祭の曲")

・だが、1980年代半ばに達して江辺歌謡祭は大学歌謡祭の牙城を威嚇するほどになった。その出発点は1983年ソン・ヒョンヒの<名前がない鳥>(大賞)を上げられるだろうが、真の大当たりは1984年5回大会の時に炸裂した。まさに混成デュエット4幕5場が歌った<Jへ>(大賞)だ。4幕5場の女性リード・ボーカルが1980年代中後半歌謡界を号令したイ・ソンヒという事実は当時に青年期を送った彼らには蛇足である。

(1集、2集)
・<Jへ>は、1984年下半期最大のヒット曲に浮び上がったし、勢いを駆ってイ・ソンヒは翌年初め地球レコードを通じてソロ・デビューした。イ・ソンヒの(1集)デビュー作はタイトル曲<ああ! 昔よ>が途方もないヒットを記録し、<葛藤>もやはり人気を得ながら歌謡界の新しいディーバ(歌姫)が誕生したことを知らせた。2集もやはりタイトル曲<秋の風>をチャート上位圏に上げて連続ヒットを打ったし、こういう勢いは1980年代が終るまで続いた。

(3集)
・1980年代下半期は、イ・ソンヒの全盛時代であった。1986年発売された3集から1990年6集まで4枚のアルバムは軽重を問い詰めにくい程ヒットした。3集ではヤン・インジャ(양인자)、キム・ヒガプ(김희갑)のコンビが作詞・作曲を引き受けたバラード<分かりたいです>が途方もないヒットを記録したし、軽快な雰囲気の<ヨン>もそれに劣らない人気を享受した。「当代のメジャー中のメジャー」であった地球レコードの時期、ベテランのソング・ライターと演奏者の後押しを受けたイ・ソンヒは、3集を最後に地球レコードと決別して以後、ヘグァン企画所属で、ソウルレコードでレコードを発売し始めた。

(4集から6集)
・4集からイ・ソンヒはもう少し若いソング・ライターと演奏者を招へいして音楽的にも自分色を洗練していった。4集は<私はいつもあなたを>、<愛が散るこの場所>をチャート頂上に上げただけでなく、新鋭作曲家ソン・シヒョン(송시현)を人気作曲家の位置に引き上げた。作曲家群にキム・ポムニョン(김범룡)、キム・チャンワン(김창완)、イ・チェソン(이재성)などを加えた5集は<私の街>、 <五月の陽射し>、<ひとしきり笑いで>の ヒットで結実を結んだし、6集は<なぜ私だけ>と<思い出のページをめくれば>でロングランを継続した。

・小さいで信じ難いほど爆発的な歌唱力を誇るイ・ソンヒのボーカルは、一気にそして長らく大衆の感性を吸引した。清らかで純粋ながら、しっかりしているイメージまで兼ね備えたイ・ソンヒは数多くの男性、女性の追っかけ(部隊)をファン層で確保した。

・イ・ソンヒは、1980年代中後半少女ファンたちの独歩的な偶像だったが人気に安住しないで彼らと共に成長していった。

2014年5月23日金曜日

ペ・チョルスとイ・ソンヒ

以前、韓国経済の記事(2011年1月8日、キム・ミョンシン記者)に、KBS音楽番組「コンサート7080」のMCペ・チョルス(배철수、裵哲秀)が、”歌手として”事実上引退の可能性を示唆したという内容があった。

(本ブログ関連:”ペ・チョルス”)

ペ・チョルスは、いわゆる歌謡祭出身の歌手で、中央日報の記事「【噴水台】スーパースターK」(2010年10月24日、ソン・ウォンソプJES記者)が、スーパースターKなどオーディション番組隆盛時に、過去の同様のイベント(歌謡祭)紹介の中で次のように記している。
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・30余年前の「大学歌謡祭」を連想させる。77年に始まった「MBC大学歌謡祭」も盛り上がったのは2年目の78年だった。第1回大会の成功でレベルの高い参加者が数多く集まり、参加者のうちペ・チョルス、ノ・サヨン、イム・ベクチョン、シム・スボンらが80年代の大衆文化の主役に成長した。同じく78年に始まったTBC(東洋放送)「海辺歌謡祭」もワン・ヨンウン、チュ・ビョンジン、グ・チャンモ、イ・チヒョンらを輩出した。その後、さまざまな大学生歌謡祭が韓国放送・歌謡界の登龍門に定着した。
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K-Wikipediaによれば、ペ・チョルスのデビューは、1978年のTBC第1回「海辺歌謡祭」のようだ。
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・1978年に 東洋放送 TBC第1回「海辺歌謡祭」では、グループ滑走路(RUNWAY )の一員として出場し、「世間知らずで生きてきた」で人気賞を受け、同年MBC第2回「大学歌謡祭」にも出場、<仮面舞踊>で銀賞を獲得した。
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(ちなみに、イ・ソンヒは、1979年に開始した「MBC江辺歌謡祭」の第5回(1984年)で、「Jへ」により四幕五場のグループとして大賞受賞している)

そんな、ペ・チョルス(1953年8月18日~)が、最近、30周年記念コンサートをした、イ・ソンヒ(1964年12月14日~)とのデュエットの申し出を断ったという、おもしろい記事がある。アジア経済の記事「【ラジオスター】ペ・チョルス 『24年間のあいだ歌っていない、イ・ソンヒのデュエット拒絶』」(5/22)で、イ・ソンヒとの、年齢差と音楽経験の違いから、次のようなやりとりを述べている。
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・自分を置いて(出演した番組中の会話)争奪戦が広がるとすぐに、ペ・チョルスは、「イ・ソンヒさんから電話があった」と、「先だって、(15集)アルバムを出しながら、先輩とデュエットで歌いたいと言っていたよ」という事情を告白した。だが、ペ・チョルスは、「ソンヒさんよ、どうか、やらないでください」と、イ・ソンヒの提案を断った。
・ペ・チョルスは、「私は、24年の間(音楽を)していなかった」と話し、歌いにくいという立場を表わした。
・【ラジオスター】ペ・チョルスの音楽ネチズンは、「ペ・チョルスの声、また聞きたいけれど」、「ペ・チョルス、イ・ソンヒとデュエット想像するだけでも良いのに」など反応を見せた。
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2010年12月12日日曜日

歌謡祭からシュースケまで

e-Today(이투데이)の以前の記事「大学歌謡祭からスーパースターKまで...オーディションの変遷」(11/25)に、歌謡祭と現在の音楽状況について次のように述べられている。

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・1977年に始まったMBC「大学歌謡祭」は、スター登竜門だった。ペ・チョルス(배철수)、シム・スボン(심수봉)、ノ・サヨン(노사연)、シン・ヘチョル(신해철)などを誕生させて、スター登竜門としての名声が徐々に大韓民国初の公開オーディション番組として定着した。
・MBC「江辺歌謡祭」(1979年~2001年)でデビューしたイ・ソンヒ、チュ・ヒョンミ(주현미)、パク・ミギョン(박미경)、チャン・ユンジョン(장윤정)などは、卓越した歌唱力とスター性で大衆の支持を着実に受けている。
・歌謡番組の関係者は、「以前の歌謡祭は、音楽トレンドがわずか10年の間に大きく変化しながら、昔の名声は消え失せているのが現実だ」としながら、「(その)代わりに、その席をスター性と多様なトレンドに合わせ《シュースケ(슈스케:(Mnet)スーパースターK》が、青少年から青年に至るまで多様な年齢を抱えこんで、オーディション番組の新しいジャンルを開いた」と語った。
・続けて、「過去の歌謡祭は、本人が創作した歌のみ参加が可能だったという点で、《シュースケ》とは明確に区分しなければならない」として、「《シュースケ》は、スター性だけを追求して真の音楽家を探す悩みは以前ほどない」と付け加えた。
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モーフィングを使って多数の女性写真を合成すると、いわゆる美人画像ができあがる。つまり、美しさはバランスのとれた究極の平均値である。スター性は、その時代の平均値かもしれない。ところが、時代を変える力は、全く別の場所から出現する。時代が求める美と、時代を変える美は、自ずと異質なのかもしれない。オーディションする側の感度が試されることになる。

(本ブログ関連:”大学歌謡祭”、”江辺歌謡祭”、”スーパースターK”)

2011年3月2日水曜日

韓国オーディションの歴史

マネートゥデイ(머니투데이)の記事「大学歌謡祭、全国のど自慢.."オーディションは私たちが援助”」(3/2:キム・ゴンウ〔김건우〕記者)に、<韓国オーディションの歴史は>の副題で、「大学歌謡祭」から現在のオーディション番組にいたる<オーディション>の変遷について、次のように記している。
<緒言>
(現在のオーディション番組の流行について、本来的な)全国のファンたちが作った「草の根民主主義」の性格のオーディションが変質しているという憂慮も少なくない。・・・過度に商業的で、スターを活用するための放送局の「企画」の性格が濃いとの指摘も出ている。
<年譜>
・国内オーディションの出発は、1977年に始まったMBC「大学歌謡祭」に遡る。
・「大学歌謡祭」と対抗する新人歌手たちの登竜門で、1979年に始まったMBC「江辺歌謡祭」(2001年第22回を最後に廃止)がある。(←1984年にイ・ソンヒが登場する)
・1989年に始まった、シンガーソングライターらの登竜門である「ユ・ジェハ音楽競演大会」がある。
・(1980年以来)歴史を誇るオーディションの中で最も安定した愛を受けるプログラムに(KBS)「全国のど自慢」がある。
2000年代に入って大きな変化を迎えた。20代から10代に大衆文化の主役が変わり、大学(主導)の文化から10代のファン層に重心が変わった。
・SBS「英才育成プロジェクト99%」は、現在のアイドル文化の始まりを知らせるプログラムである。
・2002年に現在のオーディション番組に最も近い形で放送されたMBC「楽童クラブ」がある。
・2005年にMnetで「バトル神話」というプログラムを企画した。 
・2006年にSBSがパク・ジニョンと手を組んで「スーパースターサバイバル」を進行。
・2007年にはMBC「ショーサバイバル」が製作された。
・2009年にMnetの「スーパースターK」、2010年に「スーパースターK2」が登場。
・現在、地上波のMBCも(この流れに)飛び込み、「偉大なる誕生」を進めており、SBS、KBSなども先を争っている。

オーディションといっても、アマチュア歌手が未来への扉をたたくという、新人登竜門のファンと共にある時代から、<企画>といったプロ世界のプロジェクトの一環として存在する時代に変遷しているのだろうか。

(本ブログ関連:”イ・ソンヒとファン”)
(本ブログ関連:”江辺歌謡祭”←表示後、画面最下段の「前の投稿」もクリックを!)


(追記)
イ・ソンヒの改修中「公式ホームページ」の表紙に、「臨時掲示板ショートカット」ボタンが追加されている。このボタン、どうやら3/1に設けられたようだ。
「公式ホームページ」の正式公開を期待するファンたちのコメントが登録されている。考えて見れば、会員制なので・・・従来と比べてどれくらい一般への公開部分があるだろうか。せめて、以前と同程度一般公開を望む。

2011年6月15日水曜日

「歌謡祭」出身は昔話…

国民日報のクッキーニュースの記事「『歌謡祭』出身は昔話…今は『オーディション プログラム』出身に注目」(6/14)は、次のテーマ(◇)で歌謡界の状況を歌手たちをまじえて紹介している。【ユ・ミョンジュン(유명준)記者】

・Mnetプログラム「スーパースターK」で触発されたオーディション熱風はもう議論さえ食傷ぎみだ。・・・オーディション番組は出演者だけ違うだけで形式は、大同小異である。
◇ 1980~90年代を活躍した歌謡祭の没落
  大学歌謡祭と江辺歌謡祭の出身者(当然ながら1984年に江辺歌謡祭に登場したイ・ソンヒも含めて)は、1980~90年代韓国歌謡界を牛耳ったし、現在も一定部分の影響力を及ぼしている。
◇ 放送プログラム(オーディション番組)出身者たちの移籍料は天井知らず
  もちろんこれら(オーディション番組出身者)が歌謡界に及ぼす力はまだ微々たるものだ。いまやっと新人歌手でデビューしたりデビュー準備中であり、プロの世界で実力をまた検証受けなければならない課題も抱えている。

・(カン・テギュ大衆文化評論家は)「過去、歌謡祭出身者は当時としては大衆的でない音楽で大衆の支持を引き出した。しかし、今デビューしたオーディション(番組)出身者は人気曲を越えた自分だけの力量をまだ見せてくれていない。」と付け加えた。

2010年9月17日金曜日

「江辺歌謡祭」の復活

驪州市民新聞に、来る10月4日に驪州郡(여주군)の南漢江で「江辺歌謡祭(강변가요제)」が復活するという記事(9/16)が次のように掲載されている。

1979年に京畿道加平郡清平遊園地、北漢江の水の流れに沿って初めて開催された「MBC江辺歌謡祭」は、その時代の若者たちの感情を反映し、1980年代まで、チュ・ヒョンミ(주현미)、イ・ソンヒ、パク・ミギョン(박미경)、イ・サンウ(이상우)など人気歌手たちを輩出した、韓国大衆音楽史の代表的な音楽祭だった。
1999年、学歴制限をなくすことで、満17歳以上の方であれば誰でも参加できるようになった「MBC江辺歌謡祭」は、当時、ソウル芸術大学に在学中のチャン・ユンジョン(장윤정)という傑出した新人を輩出したりしたが、若者たちの遊び文化が多様化し、歌手の登竜門が企画会社中心に再編され、急激に退潮の道を歩み、結局2001年の第22回を最後に廃止された。
・このような「江辺歌謡祭」の復活を、ここでは北漢江でなく、南漢江が試みる。
・驪州郡は、「第12回驪州真相名品祭り」とともに、2010年10月4日「第8回南漢江歌謡祭」を開催する。 ・・・驪州郡関係者は、<「第8回南漢江歌謡祭」は、全国の実力のある歌手志望者たちが大挙参加することで、商業的な大衆文化への偏りが懸念される韓国大衆音楽史に純粋な価値を持つ代表的な歌謡祭に生まれ変わるだろう>と述べた。

(本ブログ関連:江辺歌謡祭

2014年8月29日金曜日

(資料)京郷新聞 1984年「江辺歌謡祭」でイ・ソンヒが大賞受賞した記事

イ・ソンヒが、1984年に「Jへ」で大賞受賞したMBC第5回「江辺歌謡祭」(7月29日)の結果について、「京郷新聞」(7月31日)が報じた記事「若い熱気むんむん『江辺歌謡祭』 - MBC 創作曲・進行手腕目立つ」(【聖】記者)を、NAVER提供の「デジタルニュースアーカイブ」で見ることができる。

7月29日(日)に開催された歌謡祭の結果は、月曜日が新聞休刊だったため、7月31日(火)に掲載されている。

記事の最後に、「李嬢は仏教界に従事する李鐘圭氏(50)の長女。」と記されている。イ・ソンヒが登場した最初から、父親と仏教との関係について知られていたことになる。

(本ブログ関連:”イ・ソンヒと江辺歌謡祭新聞記事”、”NAVERデジタルニュースアーカイブ”)

当時の紙面について
① 使用の文字、記述
 ・ 括弧書きを” ”ではなく、「 」を使用(横書・縦書き同様)
 ・ 名前に漢字を使用(例:李文世=イ・ムンセ、이문세)
 ・ 敬称に「嬢」、「君」を使用
 ・ 句点をピリオドではなく、「。」を使用
② 歌謡界への健全化の意向を反映して、「健全さ」を強調

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先日29日、京畿道加平郡南怡島にて開かれた「84MBC江辺歌謡祭」決戦大会は、3,000余名の傍聴客が集まった中、決戦進出の10チームが出場、熱烈な競り合いを広げた。MBCは、若い大学生たちの好評に支えられて、第5回を迎えたこのたびの江辺歌謡祭の決戦実況をTVおよびラジオで生中継、夏夜の舞台をなお一層熱気でいっぱい満たした。

キャンパスのアマチュア歌手たちの登用門である「84MBC江辺歌謡祭」出品作は、大賞の栄誉を抱いた「Jへ」を始め、若者たちの切ない恋と友情を描いた曲が大部分で、エレキギターを動員した激しい曲よりは穏やかで情感ある曲が主流をなした。

文化放送がキャンパス内の隠れた人材を発掘のため設けたこのたびの行事は、参加曲がみな創作曲という点で、放送には意味あることとして受け取っている。

一方、このたびの行事は進行を引き受けた、李文世・吉恩貞2人の軟な話術が舞台ならびに放送席の雰囲気を健全に誘導し一層引き立つ舞台だった。李君は夏キャンプで広がりやすい低俗な揶揄怪声を笑(え)みで誘導する老練味を見せたし、先の4月、歌謡界にデビュー、初めての舞台進行を引き受けた吉嬢は、経験がない学生たちがまごつかないように安定感ある態度で司会に臨んだ

大賞の栄誉を抱いた混声デュエット「4幕5場」のメンバー、李仙姫嬢(18・仁川専門大環境管理科 1年)と林成均君(22・〃機械科 2年)は、思いがけない喜びに返って面食らった表情。

仁川専門大の音楽サークルである「4幕5場」メンバーの二人は、先春校内のギター発表会で息を合わせた後、ずっとデュエットで技量を磨いてきたと。「今、歌手としての基盤が固まったようです。趣味だけでした音楽を、今からは本格的に始める考えです」李嬢は、先輩の紹介で高校時代に歌手の張旭朝の作曲事務所(室)で、歌の練習をした隠れた経歴者。

「受賞曲もチャン・ウクチョ氏の事務所で会った先輩からもらいました」李嬢と林君は、参加曲を選定した後、約2ヶ月間、暇があるたびに息を合わせて来たと述べた。

「キャンパスソングは、大学のサークル活動の中でも人気がある課外活動ですよ」淡々とした表情の林君は、李嬢とは別に、将来の歌手活動は「考えて見るつもり」と、慎重な態度。

このたびの歌謡祭で、李嬢は高音の処理に巧みで(熟練している)、飾り気のない唱法で人気を集め、林君は豊かな低音で和音を合わせ拍手を受けた。李嬢は仏教界に従事する李鐘圭氏(50)の長女
林君は公務員である林炳業氏(52)の二男一女の末っ子である。
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2017年6月26日月曜日

「江辺歌謡祭」の企画者

1984年、イ・ソンヒが歌謡界にデビューするきっかけを作ったのが、MBC主催 第5回「江辺歌謡祭(강변가요제)」だった。イ・ソンヒが仁川専門大学一年のとき、同大の音楽サークル「4幕5場」からデユエットとして参加して、大賞受賞した。そのとき歌ったのが、彼女の代表曲でもある「Jへ」だ。この曲は、彼女が高校時代に通った音楽室で、偶然巡り合わせたことにより、自分の歌にした不思議な経緯がある。
京郷新聞19840731
(本ブログ関連:”江辺歌謡祭”)

この音楽祭について、「大学音楽祭」との比較もあり、競争的関係でもあったといわれる。大学生の音楽祭に対して、広い意味での新人歌手の登竜門として「江辺歌謡祭」は知られたようだ。

この「江辺歌謡祭」を企画したのが、MBCのプロデューサー、パク・ウォンウン氏だったという。先日の6/24に、同氏が亡くなったとネットに報じられた。享年77とのこと。

ハンギョレ紙の記事「『第1世代ポップソングDJ』パク・ウォンウン氏死去」(6/25)は、「7080世代の新人歌手の登竜門としては、イ・ソンヒ、イ・サンウンなどを誕生させた『江辺歌謡祭』も、彼の企画として知られている。」と記している。

2013年11月30日土曜日

(資料)イ・ソンヒのスター・ストーリー「6.キリギリスのように歌いながら高3の熱い夏を・・・」

先日(9/27)、「スポーツ韓国」の紙面(1991年3月8日~4月5日)に連載された「イ・ソンヒ27歳当時のスター・ストーリー」記事の目次を紹介したが、その第6回目をここに載せたい。感謝。

イ・ソンヒが、高3のときに巡り合った音楽上の幸運、チャン・ウクチョ音楽室、作曲家イ・セゴンとの出会い、仁川専門大のときに音楽環境を整えようとした武勇伝、音楽サークル<4>(四幕五場)への参加、そしてMBC「江辺歌謡祭」への準備などを知ることができた。

(本ブログ関連:”(資料)イ・ソンヒ(27歳当時)の「スター・ストーリー」”、”資料:이선희 Profile”)


[6] キリギリスのように歌いながら高3の熱い夏を・・・
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(父親の意向で)絵を描けないことになると、しばらく疎(おろそ)かにした歌がやりたかった。喉(声帯)がうずうずした。普段なにげなく通り過ぎた音楽学院の看板が、突然両の目に入ってきた。

その音楽学院は、当時ソウル駅と三角地(삼각지)の間に位置していた「チャン・ウクチョ(장욱조)組音楽室」だった

    (注)本ブログ関連:”チャン・ウクチョ音楽室

音楽室の門を叩いたが、職業歌手や芸能人になるという考えは夢にもなかった。事実、私は高等学校を卒業する時までも、友人が芸能界のスターを偶像のごとく崇拝する姿をまったく理解することができなかった。

いずれにせよ、「一度、思う存分歌でも歌ってみようかな」という、私心ない気持ちでチャン・ウクチョ音楽室に出入りし始めた。それが高3の時だ。

他の人びとは「高3病」(ストレス)だ。「入試地獄」といって盛んに「大学受験との戦争」に没頭している時、私は絵を描けないので、歌を歌おうと打って出たので、完全に「くそ度胸」だったわけだ。 率直にいって、大学に行きたい気持ちがあまりなかったし。

音楽室に出入りしたりしたが、正式に登録してレッスンを受けたわけではない。「芸能人になろうと決心したのか」と、それこそ目をむいて反対する家で、どうしてあえて受講料をもらうことができようか。私に金を儲ける能力があったわけでもなく。

世の中に無料がどこかにあるだろうけれど、私の歌の実力が音楽室でも受け入れられたし、一種の奨学生同様の待遇を受けることになる破格の経験をした。

チャン・ウクチョ音楽室に入って、歌を歌ってみたいと話すと、当時あまり名が知られなかった作曲家のイ・セゴン(이세건)、ソン・ジュホ(송주호)氏などが「一度、見せてください」と冷ややかな反応を見せた

私が全情熱を傾けて、ニール・セダカ(Neil Sedaka)の「きみこそすべて(You Mean Everything to Me)」(1960年)を終わらせた時、その方々は非常に満足な表情であったし、したがって私はいつでも喉が「うずうず」したら、音楽室に立ち寄るようになった。

1984年に(江辺歌謡祭で)、私に大賞の栄光をもたらし遭遇したのもまさにここだった。

実力は優れていたが、単に無名の新人という理由だけで、作曲家のイ・セゴン氏は、数多くの歌手に無視されなければならなかったし、心血を注いで書いたものは危うく永遠に、「J~、私はあなたを忘れた・・・」という、残念な思いをするところだったのだ。

    (注)本ブログ関連:”イ・セゴンと「Jへ」

家中の激しい反対を押し切って、時たまではあるが、音楽室で気が晴れるまで歌を歌うことができたのは、高3の時期、両親と「生き別れ(親離れ)」をしたおかげが大きかった。

父の所属寺院が(ソウルの南の)城南にある寺に変わったが、それでも高3の私を転校させるには大学入試が気にかかったようだ。

それで、私は祖母と三人の歳下のきょうだい達と共に、ソウルの梨泰院の家で「準-少女家長」の役をして生きなければならなかった。

    (注)イ・ソンヒは長女で歳下に弟がいることは知っていたが、更に2人のきょうだい(男女?)がいる。

遊んでばかりいた子どもも高3になれば、慌てて入試勉強に没頭するのが常なのに、なぜか私だけは万事泰平だった。

そのとき、私の心は、イソップ寓話に出てくる「アリ(蟻)」よりも「キリギリス」の側に傾いていたようだ。だから、友達が夏の間、アリのよう熱心に教科書と格闘したときに、私はキリギリスのように歌いながら暑い夏を涼しくおくった。

学校の成績は、「正直」にもどんどん下に落ちた。しかし、心配もなかった。大学というところに対する羨望はそもそもなかったから。

▼ 「私は大学に行かないつもりだ」という話を両親の前でも大っぴらに言い放ったりしたからか、84年度の3月、仁川専門大(인천전문대)環境管理学科に合格しても、父は私が果たして滞りなくやっていくことができるかについて、まったく信じられなかったようだ。本当はそんなことしたくないけれど、娘が大学登録料(授業料)をこっそり引き抜いて隠すのではないか心配になって学校までついてきて、登録済証の印を何度も確かめた。

大学に登録はしたが、数十万ウォンの登録料があまりにも惜しかった。「そのお金さえあれば私がしたい音楽をいくらでもできるはずなのに・・・」考えた末に、私は環境管理学のとある教授を訪ねて行った。

今思えば一言で「話にならない」哀訴を教授にならべた。「私は歌を歌いたいのにお金がないのです。 だから、登録料の半分だけ返していただけないでしょうか?」、まあ、そんな話だったようだ。

しばらく、あっけにとられた表情をしておられた教授は、やがて私を説得し始めた。「音楽することを止(と)めるつもりはない。だが、学校まで止(や)めながら歌を歌わなければならないほど、切迫したわけではないじゃないか。熱心にやって、アルバムでも世間にまず出すようになったら是非手伝ってあげる。」

お言葉を聞いて見ると、句句節節(一言一句)正しい言葉なので、私は考えを改めて講義にも洩れなく出席し、大学新入生としての自由を謳歌した。

思う存分歌を歌うことができるところを物色した私は、校内の音楽サークル<4>の新入会員募集ポスターが目について一走りに駆けつけて入会した

    (注)ここでいう音楽サークル<4>は、いわゆる「四幕五場」を指すと思われる。

<4>のメンバーは、音楽の実力は優れていたが、ろくな練習スペースが備えられない状態であった。私は、入学時の登録料を回してほしいと教授に駄々をこねた「勝ち気」だけ信じて、学長室に「談判」の長途(長い道のり)についた。学長面談の結果は、大成功だった。 <4>は、学校の建物屋上にある片隅に、ついにみすぼらしくても専用の練習室を整えることができた。

1学年の1学期が終わって夏休みが始まった。<4>は、その年7月29日のMBC「江辺歌謡祭(강변가요제)」を目標に猛練習に入っていったし、私は私なりに本格的に声を整え始めた。私が狙ったのは、秋のMBC「大学歌謡祭(대학가요제)」だったので、江辺歌謡祭はテストする一種の前哨戦ぐらいに軽く考えていた。
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(Youtubeに登録のAshley Maxに感謝)

2010年4月6日火曜日

イ・ソンヒ 歌謡祭が生んだ歌手

NAVERキャストの「むかし新聞」にある「歌謡祭が生んだ彼女たち」('09/6/3)に、80年代と90年代初頭に新人歌手登竜門であった「大学歌謡祭」、「辺歌謡祭」出身の女性歌手たちについて、当時の新聞記事を紹介している。

イ・ソンヒについて次の2紙の記事が紹介されており、当時の記事にリンクすることができる。
・「京郷新聞(경향신문)」1984年7月31日
「『'84 MBC辺歌謡祭』の応募作は、大賞の栄誉を授かった『Jへ』をはじめ、若者たちの切ない愛と友情を描いた曲がほとんどで、エレキギターを使った激しい曲より、やわらかくて情感ある曲が主流をなした。 (中略)
大賞の栄誉を授かった混成デュエット『4幕5場』のメンバー、イ・ソンヒさん(18、仁川専門大環境管理科1年)とイム・ソンギュン君(22、機械科2年)は、思いがけない喜びにむしろとまどう表情...」

・「毎日経済(매일경제)」1984年11月24日
「歌謡界のシンデレラと呼ばれることについて、イ・ソンヒさんは不満が多い。たまたま運良く、自分が人気を得ることになったのでは決してないからというもの。(中略)
しかし、どんなに忙しくても欠かさないのはニンジン食べること。 一日2本ずつ毎日食べるのは幼いころからの習慣だ。茶目っ気の多いこのお嬢さんは、ガールフレンドをたくさん引き連れていて、おかげで中学時代の体育の先生が付けた『サニー』をはじめ、『ワルヒ(おてんばソンヒ)』などのニックネームだけでも20ヶ以上に達すると... 」

あらら、イ・ソンヒとニンジンの関係は、そうだったのですか・・・初めて知りました。

(本ブログ関連:2009年の8/10、2010年の2/33/24

★★★★★ 孫が、保育園の散歩で電車を喜び、園の絵本の電車を指差したというメールが届いた ★★★★★
★★★★★ 孫が、保育園でお行儀よく、保育士さんからお昼の食事を受けている写真が届いた ★★★★★

2013年12月11日水曜日

(資料)イ・ソンヒのスター・ストーリー「7.『江辺歌謡祭』の裏話」

先日(9/27)、「スポーツ韓国」の紙面(1991年3月8日~4月5日)に連載された「イ・ソンヒ27歳当時のスター・ストーリー」記事の目次を紹介したが、その第7回目をここに載せたい。感謝。

イ・ソンヒが、いよいよ才能が世に見出される瞬間の「江辺歌謡祭」での大賞受賞にかかわる数々のエピソード、あるいは出場したときの名前のセンシティブな情報など・・・まさに数々の裏話を知ることができた。(今回、原文中に特定字句の脱字がいくつか見られた:表示上の理由か?

(本ブログ関連:”(資料)イ・ソンヒ(27歳当時)の「スター・ストーリー」”、”資料:이선희 Profile”)


[7] 「江辺歌謡祭」の裏話
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私は一人でソロとして、<4>はグループとして、江辺歌謡祭に参加した。

私は(ソ)ロの決選にのぼったが、<4>は予選で脱落した。私は、学校の名誉のために決選で「イ・ソンヒ」の代わりに<4>というチーム名の中に私の名前を埋めてほしいという、先輩の提案を受け入れた。決選で、サークルの先輩イム・ソンギュンさんが、その他伴奏と和音を合わせてくれた。

純粋な気持ちで、私が属した音楽サークルを助力しようとしたことなのに、後日あたかも私が<4>の知名度にタダ乗り(無賃乗車)したように知られたのは、今考えてもとんでもないことだ。

私は、84年の「江辺歌謡祭」もまたTVに中継がないと思っていた。例年は、確かにFMラジオでだけ放送されたのを記憶していたから。さらに、生放送で中継されるのをあらかじめ知ったならば、私は多分参加願書も出さなかっただろう。大学入学後にも、私が勉強よりは歌に陥っている姿を父は極めて不満だった。内心、頑固な父を説得できる「締切期日」を、その年の秋ぐらいに捉えていたので、私はまず父に「バレ」ないことが急務であった。

「江辺歌謡祭」の1、2次予選はソウルで執り行なったが、最終予選と決選は南怡島で寝泊りしながら進行した。「これは困った。家に何か言い訳して抜け出すか。数日だが・・・」

結局、私はちょっと無理をしなければならなかった。ムシムシする7月の蒸し暑さの中で、私は往復5時間の距離の、家と南怡島の間を三日間毎日行き来したのだ。

待望の「江辺歌謡祭」決選の前日、私は「変装」した。ひょっとして父や知り合いがTVを見ても、私が誰なのかを見間違えるようにしようと。まず、頭をチリチリにパーマしたし、メガネも視力が似た友人のものと替えて使ったその上、行事当日の演出者シン・スンホ先生の強要(?)で、着ていたジーンズをスカートに着替えたので、それなりにほとんど完ぺきな変装をしたわけだ

その時借りてはいたスカートの持ち主は春川から来たオ・ヘウォンという女子中学生だった余裕がなくて返すことができなかったが、今も家に保管している。この記事を読むことになれば、その時の私のジーンズとヘ・ウォンさんのスカートを交換をする心の準備はないのだろうか・・・。

「江辺歌謡祭」TV生放送時間のカウントダウンが始まった時、私は瞬間的に現場から逃げるところだった父が近づいて来たのだ叔父と叔母も一緒に

叔母はMBC FMを通じて江辺歌謡祭の案内放送で私の名前を確認し、直ちに父に連絡して私を「捕らえに」「出動」したのだった。

私を一時見おろした父の口から想像もできない言葉が流れて出た「せっかくこのようになったこと、必ず1等になりなさい、学生時代の良い思い出を作ると思って・・・

夢にも見られなかった「応援団」が現れたのだ。あらためて決意を固めて舞台に上がった。観客席の中の父と目を合わせて呼吸を整えた。

それなりに最善を尽くしてを歌ったが、「大賞」を授かるなんて想像さえしなかった。

私が心の中で「1等」と目をつけたチームは、「アダダ」という歌を歌ったあるデュエットだった。彼らがどの順位にも入ることが出来なかった事実は、今も理解することができない。

(「Jへ」)で、大賞を獲得した後、私はあらゆる流言に苦しめられなければならなかった。いったい「J」が誰なのかということだった。ある新聞か雑誌は、「J」の仮想図をカラフルに載せたりもした。長身に俊秀な容貌だが、洋服の上着に韓服のズボンを好んで着る変わり者の文学青年とか、実名は「ノ・ソクヒョン」なのに「ノ・ソクチン」というペンネームを使うとか、「J」というイ・ソンヒの祥明女子高時代の片想いとか・・・。

    (注)歌「Jへ」に登場する「J」については、作者のイ・セゴンの言葉から知ることができる。

あまりにも問い質すので、ある席だったか「J」という私の甥(姪)の「ジェヒ」を意味すると話してしまった。その声を聞けなかったある記者は、「ジェヒ」が誰かとまた何度も尋ねた。「ジェヒはわが家の子犬の名前です」

冗談で発した返事だったが、いやはてさて、その記者はその話をそのまま記事にしてしまった。「『J』は、イ・ソンヒが飼っている犬の名前だ」と。

誓って、特定の「J」は、この世界にいない。子どもも、青少年も、また中年層さえも口ずさみながら歩いたように、「J」という、誰もが自分の胸中深く大事におさめている思い出の恋人であることもあれば、また、幼なじみであることもあるのだ。チャン(Jang、장)さん、チョ(Jo、조)さん、チョン(Jeon、전)さん、チュ( Ju、주)さんなどが、自分を忘れられないという歌詞を聞いて、非常にうれしがるという話も聞いた。

(「Jへ」)は、私としては信じられないほど大ヒットをした。1985年1月には、放送回数95回で、最も放送された曲になるほどだった。その時、2位はナミ(나미)氏の「クルクル(빙글빙글)」、3位はイ・ウンハ(이은하)氏の「恋もしたことない人は(사랑도 못해본 사람은)」であったと記憶する。

(「Jへ」)の人気は、MBCとKBS両放送局の間の見えなかった「壁」を崩したという話も聞いた。その前までは、MBCの歌謡祭の出身歌手がKBSに出演するということはほとんど想像も出来ないことだったので、私は今でもその時「糸口」をつけたのをこころよく思っている。

さらに、その年12月30日には、KBS「放送歌謡大賞」の新人賞まで受賞した。MBC側で、それとなく期待を抱いていたが、ライバルの放送会社から賞まで与えるとは・・・私もうれしかったが、MBCのシン・スンホ先生は私よりもっと喜ばれた。「ソンヒ(ソニ)よ、きみ、堰の水を切ったね」

MBCでは、その翌日(12月31日)、私は10代歌手に選ばれたし、新人賞に加え最高人気歌手賞まで上乗せてくれた。 3冠王・・・江辺歌謡祭(7/29)以後、ぴったり五月ぶりにあげた収穫だった。

TVをつけたりラジオをつけるたびに響き渡る私の歌に父は慌てた。仕事がそんなに大きくなるとは(?) そこまで予想できなかったのだ。「おまえ、それは趣味でやったことではなかったのかい?」

しばらく歌って彷徨(?)していれば、再び勉強するだろうだと信じた父は、日ごとに職業歌手になっていく私の姿に、ある危機感を感じたようだ。

芸能人に対してはいつも否定的な見解を持っている父との「暗闘」は、かなり長い間持続した。しかしながら、「子どもに勝つ親がいるだろうか」。結局、父は条件付きで、私の歌手活動を許諾した。

「醜聞を起こして、マスコミの噂にのぼる歌手にはならないこと。外ではお前がスターかも知らないけれど、家に帰れば私の子どもであり、私にとってまだ子どもでしかないことを肝に銘じること。 少しでも様子がおかしいなら、再び歌を歌えないようにするぞ。」 おおまかにそのような言葉だった。

今は、TV画面に映った私の姿と歌をモニターしてくれるほど私の生活を理解している父に、私はなかなか歌謡界の暗い面を話せない。私自身に関しては、常に恥じることがない生活をしてきたので、父の前でいつも堂々ととしていることができる。

私に対する周りの評価はどうだか分からないし、また別に耳をかたむけたい気もないが、私の両親に関する「悪評流言」(デマ)は断じて説明しておかなくちゃいけない。

父は僧侶であるから、言うまでもなく母もまた僧侶を夫としているので、勤倹節約する生活が体質化した人たちである。

したがって、娘ひとりの(おかげ)で贅沢な暮らしをしながら、貴族生活をしているという噂は、話にもならないことだ。歌手が歌数曲ヒットさせると、まず「夜の舞台」(マイナーイメージの舞台)を流れることがわたしたちの現実だが、両親は酒場で歌を歌うことだけは口を極めて止める。最も簡単に大金を握ることができる所なので色々な誘惑も多いが、私自身「夜の仕事」に出て行くことはいやだ。デビュー当初、何も分からない状態で「先輩歌手もみな出て行くので・・・」という考えで、いくつかの営業場所を転々としていた事実を今でも恥ずかしく思っている。

父は、私のために気苦労をたくさんした娘の有名税を元手に宗団の要職に座ろうという誤解が嫌で、何と2年も寺院を離れていたりもした

母は今でも、市場の床に散らばっているハクサイのくずやカブなどを拾ってくる。節約が習慣になったのだ。周りではこのような母を巡って、井戸端会議がはなはだしい。「外車に運転手まで置いて通う娘、恥ずかしくもないのか。どういうショーだ。貧乏たらしい様をあらわにしているね。ケチん坊。」 後生だから、「スター・ママ」と色眼鏡で見ないで、家庭を築いていく「主婦」としての私たちの母にきれいな視線を送ってくれるのをお願いする。

私は、(「Jへ」)を歌った時から、歌唱力はいい歌手という評価を受けてきた。私も認める私の歌の実力は、1984年11月、チョ・ヨンナム(조영남)氏が進めていた(KBSの)「ナイト・ショー」に招待されて、その場で初めて接したノ・サヨン氏の「あなたの影(님 그림자)」を歌った時、そしてMBCの「ショー2000」に出て行って「キャンパス ベスト10」の曲をひきつづき歌った時、完全に「公認」された。

前回、うっかり忘れて落とした話がある。江辺歌謡祭の決選で、<4>のメンバーで共に歌ったイム・ソンギュンさんとの関係についてのことだ。

江辺歌謡祭で大賞を受賞した後約3ケ月の間は、イム・ソンギュンさんとデュエットで活動した。デュエットという性格上、私は彼に付いて歩く時が多かったし、周囲では私たちの二人の間を恋人関係まで歪曲したりした。

私はそのような視線が負担だったし、また江辺歌謡祭に当初ソロで参加したように、再び一人で歌いたい欲が出た。それで、私が先に決別を宣言したいきがかりで、ソロアルバムを出すことになったのだ。「<4>の名前を借りて優勝しておいて、なぜお前一人だけスターの振舞いをするのか」という当時の一部難詰に対しては、「歌に対する欲念」のためだったと答えれば十分説明できるだろう。

なおかつ、<4>のメンバーや学校の中では、私のソロ活動に何の反感もなかった。おだてたり、けなしたりして愚弄した人たちは、私たちのグループや私とは何ら関連ない人物たちだけだった。

(「Jへ」)で、1等を「食べた」(受賞した)直後、私は地球レコード社と専属契約を結んだ。その時、契約金の名目で受けた金があれこれ差し引けば、5百万ウォン。生まれて初めてつかんでみた「大金」だった。その金は、全額父の白内障治療費に使われた。これまで、「芸能人」になろうと決意した娘のためにかなりひそひそ言われた父に、少しでも報いたというやりがいを感じる一方、何か相殺されたような妙な快感(?)も味わったことを告白する。
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2013年9月2日月曜日

イ・ソンヒのカバー「その時 その人」

イ・ソンヒが、全国ツアー中の2009年7月5(日)、「清州芸術の殿堂」のステージで、シム・スボンの「その時 その人(그때 그 사람)」をカバーしている珍しい映像がYoutubeにある。それは、1978年の第2回「MBC大学歌謡祭」で、当時、明知大学校経営学科在学中のシム・スボンが作詞作曲したトロットにジャズ風味のスタイルで歌った、後の彼女の代表的な曲のひとつだ。

K-Wikpediaによれば、「シム・スボンは、参加した歌謡祭で入賞をすることはできなかったが、大学歌謡祭で初めてトロット・ジャンルで出場した異色な経歴に大衆に注目されるという、自身が学んだジャズ音楽でないトロットで初めて歌謡界に足を踏み入れた。」ことになる。

(本ブログ関連:”シム・スボン”)

まずは、イ・ソンヒの選曲に会場がわいた後、客席と一緒に歌う「その時 その人」を聴いてみよう。



(Youtubeに登録のleesunheetownに感謝)

2010年3月24日水曜日

「ハニー」のような「サニー」

このタイトルは、イ・ソンヒがテーマソングを歌った少女アニメ「走れハニー」、およびファンからの愛称「サニー」をもとにした次の記事タイトルから採った。

「文化日報」の記事「『ハニー』のような『サニー』…その声が懐かしい」('04/8/3)には、デビュー20周年記念「Jへ 20年 イ・ソンヒ・コンサート」('04/8/26~28)の準備に忙しい頃のイ・ソンヒとのインタビューがあり、次のような話題が載っている。
・イ・ソンヒの江辺歌謡祭大賞受賞('84年)は、「背が低くて声の大きい女性歌手」のさきがけとなり、以降チョン・ユナ(전유나:'89年大学歌謡祭大賞)、ユ・ミリ(유미리:'86年江辺歌謡祭大賞)などの「イ・ソンヒにつづく歌手」が入賞している。
・高等学校の時、作曲家イ・セゴンに会ったが、その方からこの歌の楽譜を受け、そして1年6ヶ月の間温めていた。【江辺歌謡祭時期から逆算すれば、いつ頃この曲を得たかがわかる】
・「ミュージシャン」といわれるよりも「歌手」にこだわる。【それは、彼女らしい筋の通った信念だろう】

(Youtubeに登録のamplify82、koreanballadsに感謝)リンク

★★★★★ 孫が、機関車トーマスのお面で、いない・いない、ばぁ~をする動画が届いた ★★★★★

2014年7月29日火曜日

「江辺歌謡祭」デビュー以来30年

今日は、イ・ソンヒが音楽祭にデビューして、ちょうど30年目にあたる。

1984年7月29日に、イ・ソンヒ(1964年12月14日【旧暦11月11】~)が(満)19歳のとき、第5回MBC「江辺歌謡祭(강변가요제)」に、仁川専門大学のサークル「4幕5場」を代表して、イム・ソンギュン(임성균)とのデュエットで「Jへ(J에게)」(作詞作曲イ・セゴン)を歌い大賞受賞した。これを機会に、イ・ソンヒはソロとしてデビュー、翌1985年に音楽界へ躍進、地球レコードよりアルバム第1集を発表する。

(本ブログ関連:”江辺歌謡祭”)


(Youtubeに登録の010tmehakに感謝)

江辺歌謡祭から、以来30年を記念して、今年4月にソウルの世宗文化会館大劇場で「歌うイ・ソンヒ」コンサートを開催、その後、全国ツアーを展開している。

・ソウル04.18-20: 「世宗文化会館」  ★4.19レポート
・大邱05.10-11: 「大邱エックス5階コンベンションホール」
・蔚山05.24-25: 「蔚山東川体育館」
・光州06.07-08: 「金大中コンベンションセンター」
・城南06.14-15: 「城南アートセンターオペラハウス」
・釜山06.28-29: 「KBSホール」
・富川07.12-13: 「富川室内体育館」
・全州08.30-31: 「韓国ソリ文化の殿堂 モアク堂」
・大田10.04-05: 「忠南大学正心華国際文化会館正心華ホール」

(本ブログ関連:”30周年”)

2016年9月9日金曜日

【大衆音楽家列伝】 イ・ソンヒ

釜山日報の連載の「大衆音楽家列伝(대중음악가 열전)」は、まさにイ・ソンヒのコンサート(9/2~4)直前の絶妙なタイミング(9/2)に、彼女の音楽活動を振り返る、「【大衆音楽家列伝】25.イ・ソンヒ」(チェ・ソンチョル、ペーパー・クリエイティブ代表)の記事を掲載した。

内容は、イ・ソンヒが歌謡界にデビュー以来、現在にいたる音楽活動の小史であり、正規アルバムをもとに彼女の代表的な曲目を網羅している。コンサート後になったが、次に載せさせていただく。感謝。

次の記載の曲目と、今回9月のコンサート曲目を合わせて聴けば、イ・ソンヒの全体像を素早く理解することができるでしょう!

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小さい体躯で爆発的歌唱力… 「Jへ」ただ一曲でスターダム

(写真:略) ▲ 私たち大衆音楽の「ガール・クラッシュ」の元祖、イ・ソンヒは歌を運命のように思って生きてきた(デビュー以来)32年、この時代の名歌手だ。

・最近、よく話題になる単語の中に、「ガール・クラッシュ」(Girl Crush)という言葉がある。少女(Girl)と、「惚れる」意のクラッシュ・オン(Crush On)を合成した言葉で、女性が同性に感じる、性的な感情を伴わない強い好感と定義する。かくのごとくクラッシュの魅力に陥ったせいだろうか。最近、音源チャートの上位圏、および長期ランク(イン)の女性歌手だけで何と100人余りに達する。私たちの大衆音楽のガール・クラッシュ(一目惚れした少女)の元祖は、イ・ソンヒだ。

■ 「姉さん(オンニ)部隊」、追いかけ回しクラッシュ

・仏教音楽「梵唄」の伝授者の父をもつイ・ソンヒは、幼い時から歌手の才質(才能と気質)を見せた。大学1年のとき、「4幕5場」という校内音楽サークルに入り、父が反対した歌を思う存分歌うことができるようになったし、<江辺歌謡祭>に出場する冒険も敢行する。1984年夏、MBC江辺歌謡祭に、パーマヘアーに角(つの)製の枠メガネをかけた少女が登場する。イム・ソンギュンと共に「4幕5場」という混成デュエットで参加した彼女は、小さい体躯に似合わない爆発的な歌唱力で大賞を射止める。受賞曲は、「Jへ」であった。その日を起点に、歌謡界は波打つ。 イム・ソンギュンの入隊で、ソロとして本格活動に乗り出したイ・ソンヒの人気は想像を超越した。

(本ブログ関連:”イ・ソンヒと仏教音楽”、”梵唄”)

江辺歌謡祭の大賞受けて、ソロ活動
大規模の「姉さん部隊」で、時代のアイコン
ゴールデン ディスク、5連覇の「珍記録」

ソン・シヒョンと出会って、4、5集で音楽的変化
香港俳優の張國榮(レスリー・チャン)とデュエット・コンサート
「その中であなたに出会って」、感性際立つ

・当時、或る放送会社でデビューした歌手は、別の放送会社に出演できないという慣例を破って、「Jへ」は、KBSの「歌謡トップ・テン」で5週連続1位を占めており、1984年の最高のヒット曲になった。年末、KBS歌謡大賞と、MBC「10代歌手歌謡祭」の新人賞、やはりイ・ソンヒが占めた。当時、歌謡界の厚いファン層である女子中高生の愛を一人占めした男性歌手全盛の時代に、ディーバ(歌姫)の出現は歌謡界はもちろん、女学校にも新鮮な風になった。

・イ・ソンヒは、数多くの女学生ファンを同行するガール・クラッシュのアイコンで、爆発的な人気を享受した。チョー・ヨンピルの「兄さん(オッパ)部隊」を威嚇した「姉さん(オンニ)部隊」、幼い女子中高生が公演会場で兄さん(オッパ)の代わりに姉さん(オンニ)を叫ぶようにさせた主人公、イ・ソンヒの事務所から金を払って人を動員したという流言飛語(デマ)まで飛び交うほど、当時の「姉さん部隊」の火力は途方もなかった。

(本ブログ関連:”姉さん部隊”)

■ ソン・シヒョンと共に変曲点、確かに

・「Jへ」ただ一曲で、1984年を自身の年にしてしまったイ・ソンヒの正規1集「イ・ソンヒ1集」(1985)は、(江辺歌謡祭の)翌年の1985年初め(1/25)に現れた。ここで、「あ! 昔よ」、「葛藤」、「少女の祈り」などが相次いでヒットし、彼女は自身の人気が「Jへ」の一回だけで終わらないことを立証した。その年が過ぎ行く前(11/25)に、再び出した2集「イ・ソンヒ Vol.2」(1985)では、「秋の風」、「ケンチャナ(大丈夫)」、「そう誤りは私にあります」などのヒット曲が引き続き出ており、1986年に出した3集「イ・ソンヒ3集」(1986)でも、「分かりたいです」、「暗闇は晴れて」、「ヤング」などが多く愛(=支持)を受けた。

・ゴールデン・ディスクの5連覇を始めとして、国内にある全部門の賞を全て受賞する珍記録をたてたりもする。以後、「イ・ソンヒ4集」(1988)は、イ・ソンヒのディスコグラフィーで非常に重要な位置を占める。彼女の音楽が意味ある変曲点を迎えたためだ。その変化の端緒を説明する(人物の)名は、ソン・シヒョン(송시현)だ。

(写真:略) イ・ソンヒの音楽世界で意味ある変曲点になったアルバム「イ・ソンヒ4集」

・1987年、「夢みるような世界」のヒットで名を告げたシンガー・ソングライターのソン・シヒョンは、この時からイ・ソンヒのアルバム作業に参加し始める。4集で、A面のタイトル曲「愛が散るこの場所で」と、B面タイトル曲「私はいつもあなたを」を含めて、全て4曲が彼の作品だ。二人の出会いは成功した。ソン・シヒョン特有の感受性と叙情性は、イ・ソンヒの声とよく交わったし、以後も彼はしばらくイ・ソンヒと共に行動することになる。翌年、「イ・ソンヒ5集」(1989)で、イ・ソンヒはアルバムのここかしこに社会性の濃厚な曲を配置した。「五月の陽差し」は1980年の光州民主化運動の犠牲者の英霊を慰める曲であったし、「ひとしきり笑いに」も、やはり時代的痛みが滲んだ曲だった。通常の民衆歌謡に劣らず、深くやさしいものだった。

(本ブログ関連:”ソン・シヒョン”)

・ソン・シヒョンは、5集でも中枢的な役割をした。アルバムの代表曲である「ひとしき笑いで」と、「冬哀傷」は彼が作った曲だ。同年、チョコレートCFで最高の人気を謳歌した香港の故張國榮(レスリー・チャン)が初めての来韓する。張國榮は、イ・ソンヒと「Jへ」をデュエットで熱唱して、デュエット・コンサートを開いた。

・その縁で、張國榮は、後日イ・ソンヒを香港に招待する格別な親交を誇示したりもする。この時期に、香港BMGレコードを通じて、「It's Original Songs」というアルバムに、「Jへ」を収録発表し、英語で自身のヒット曲を翻案して歌った「Where The Love Falls..」(1989)などのアルバムも発表する。

(本ブログ関連:”張國榮 (レスリー・チャン)”)

・1990年の6集「イ・ソンヒ Ⅵ」(1990)では、「思い出のページをめくれば」が愛(支持)を受けたし、「去る者だけが愛の夢を見ることができる」という自作詩朗唱集と、カナダのモントリオール室内楽団と世宗文化会館で共演後、その実況アルバム「Lee Sun Hee ; Montreal Chamber Orchestra」(1990)を発表する。7集の「思い出の中を歩くのね」(1991)、キム・ヨンドンの国楽的な要素をたっぷり入れた8集の「李仙姫 八」(1992)、「イ・ソンヒ愛唱童謡」(1993)、9集の「イ・ソンヒ 9」(1994)、そして、多くの曲を自ら作詞/作曲したアルバム10集「First Love」(1996)を着実にリリースして、以前とは違った成熟した歌をリリースし始める

■ あらゆる悪材料の中、挑戦は続く

・人気の下落と激しい浮上など、悪材料の中でも彼女の努力は続いた。11集以後、3年振りに発表した12集の「E Sunhee  My Life + Best」(2001)で、自作曲「離別小曲」と、パク・チニョンの「生きてみると」、ユ・ヨンソクの「この歌をかりて」、キム・ジョンソの「多分(アマ)」など、11曲の新曲とベスト16曲を入れて新しい活動の序幕を知らせた。2005年、<四十代に迎える春>の意を暗に盛り込まれている13集の「四春期」(2005)は、イ・ソンヒの自作曲である「因縁」をはじめとして、9曲の新曲と20周年ライブ コンサート実況の17曲を入れた。10集から始まったシンガー・ソングライターの面目が、円熟の段階に入り込んだことを意味する真の傑作と評価を受けた

・1990年代以後、7集から始まったやむ得ない大衆的反応の退潮にも、イ・ソンヒは堅忍主義的姿勢で、自身の音楽的内容を執拗に発展させる。2009年、デビュー25周年を迎えて、新しい音楽的感性の10曲をアップグレードした自作曲で満たした14集「愛よ…」(2009)を発表し、活動を再開した。

・5年後、正規15集アルバムであると同時に、デビュー30周年記念スペシャルのアルバムである、「セレンディピティ Serendipity」(2014)を通じて、「女王の帰還」を知らせた。  

・彼女の音楽的力量が最高に発揮された今回のアルバム(15集)、果たせるかな、11曲中9曲が自作曲だ。「その中であなたに出会って」など、より一層円熟した深みある音楽と、限りなく繊細で感性的なボーカルを披瀝し、専らイ・ソンヒだけが出すことのできる感性を表わした。偶然を通じて運命に出会うという<セレンディピティ>の意のように、音楽に出会って歌を運命のように感じて生きてきた32年目の私たちの時代の名歌手イ・ソンヒ、どんな音楽においても輝く彼女の声と表現は拒否できない永続の美学であろう。  
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2013年7月29日月曜日

江辺歌謡祭

イ・ソンヒが歌謡界にデビューするきっかけとなった、MBCの第5回「江辺歌謡祭(강변가요제)」(1984年)に於いて、仁川大学の男女デュエット「4幕5場」として、「Jへ(J에게)」を歌い大賞を受賞したのが、29年前の今日だった。

(本ブログ関連:"(資料)イム・ソンギュン")

この「Jへ」を作詞・作曲したイ・セゴン(李世建、이세건)とイ・ソンヒの出会いは、彼女が高校2年生のときに通っていた音楽教室でのことで、ある意味、この曲を救い運命を変えたのは、他ならぬイ・ソンヒ自身だったといえる。

(本ブログ関連:"「Jへ」との出会い"、"チャン・ウクチョ音楽室")

さらに、この曲タイトルにあるイニシャルの「J」は、作者イ・セゴンが友人のドイツ留学先に送る手紙の書き出しの宛名書きからヒントを得たという話がある。

(本ブログ関連:"イニシャルJ")

ステージ上での彼女の髪型やスカートをはいていた理由など、この歌謡祭にまつわる話題にはこと欠かない・・・。

(本ブログ関連:”江辺歌謡祭”)



(Youtubeに登録の526apolloに感謝)