1984年の夏(7/29の日曜日)、MBC主催の第5回「江辺歌謡祭(강변가요제)」に、仁川専門大学一年のイ・ソンヒは、同大の音楽サークル「4幕5場(4막5장)」からデユエットとして参加して大賞受賞した。
(本ブログ関連:”江辺音楽祭”)
この音楽祭は、年によって清平遊園地、南怡島、春川市などと場所を変えて開催されたそうだが、イ・ソンヒが大賞受賞した1984年は、(京畿道加平郡)南怡島(남이섬)で実施されている。次のYoutube映像(1:54頃)に、当時の会場周辺の様子が、「南怡島生放送」の字幕と共にうかがえる。
なにより、この音楽祭に登場したイ・ソンヒの姿(ファッション)に驚嘆する。そして、この音楽祭で歌った「Jへ(J에게)」の歌には驚く背景があった。この曲は、今も彼女の代表曲であり、彼女は国民歌手と呼ばれ続けている。
(本ブログ関連:”Jへ(J에게)”)
(Youtubeに登録した잰틀맨서に感謝)
2018年8月9日木曜日
2017年6月26日月曜日
「江辺歌謡祭」の企画者
1984年、イ・ソンヒが歌謡界にデビューするきっかけを作ったのが、MBC主催 第5回「江辺歌謡祭(강변가요제)」だった。イ・ソンヒが仁川専門大学一年のとき、同大の音楽サークル「4幕5場」からデユエットとして参加して、大賞受賞した。そのとき歌ったのが、彼女の代表曲でもある「Jへ」だ。この曲は、彼女が高校時代に通った音楽室で、偶然巡り合わせたことにより、自分の歌にした不思議な経緯がある。
(本ブログ関連:”江辺歌謡祭”)
この音楽祭について、「大学音楽祭」との比較もあり、競争的関係でもあったといわれる。大学生の音楽祭に対して、広い意味での新人歌手の登竜門として「江辺歌謡祭」は知られたようだ。
この「江辺歌謡祭」を企画したのが、MBCのプロデューサー、パク・ウォンウン氏だったという。先日の6/24に、同氏が亡くなったとネットに報じられた。享年77とのこと。
ハンギョレ紙の記事「『第1世代ポップソングDJ』パク・ウォンウン氏死去」(6/25)は、「7080世代の新人歌手の登竜門としては、イ・ソンヒ、イ・サンウンなどを誕生させた『江辺歌謡祭』も、彼の企画として知られている。」と記している。
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| 京郷新聞19840731 |
この音楽祭について、「大学音楽祭」との比較もあり、競争的関係でもあったといわれる。大学生の音楽祭に対して、広い意味での新人歌手の登竜門として「江辺歌謡祭」は知られたようだ。
この「江辺歌謡祭」を企画したのが、MBCのプロデューサー、パク・ウォンウン氏だったという。先日の6/24に、同氏が亡くなったとネットに報じられた。享年77とのこと。
ハンギョレ紙の記事「『第1世代ポップソングDJ』パク・ウォンウン氏死去」(6/25)は、「7080世代の新人歌手の登竜門としては、イ・ソンヒ、イ・サンウンなどを誕生させた『江辺歌謡祭』も、彼の企画として知られている。」と記している。
2016年12月31日土曜日
イ・ソンヒの「Jへ」
2016年はどんな年だったろうか。1年の階段を一段昇り切ったか、それとも一歩転げ落ちたか。私にしたら、日常の延長のまま師走を走り、大晦日に至った感じだが。それでも、ちゃんと過ごしたか自問する。
本年9月4日、イ・ソンヒのコンサート「The Great Concert」(世宗文化会館)にも行き、ファンとしての勤めも無事果たしたと思う。彼女が、それ以前にさまざまなテレビ番組に出演したこと、それ以後にテレビドラマのOSTを歌ったこともブログに記した。
今年も今日で最後。イ・ソンヒのコンサートの最後には、デビュー曲である 「Jへ」(1984年)が歌われる。彼女が高校時代に音楽教室に通ったこと、そこで 「Jへ」の作詞・作曲家と幸運に出会ったこと、大学時代に音楽バンド 「四幕五場」に参加したこと、そして音楽コンクール 「江辺歌謡祭」に出場して「Jへ」を歌い大賞を受賞したこと。天賦の才を元にして、いろいろな出会いを重ねてイ・ソンヒは歌謡界に解き放された。以降、30年余、「国民歌手」としてそのトップを走っている。
(本ブログ関連:”Jへ”)
J 撫でる風に、J あなた想えば
今日も静かに、あなた 偲ぶわ
J きのうの夢に、J 出会った面影
わたしの胸に、染まっているのよ
*J きれいな夏の日、遠く消えたとしても
J わたしの愛は、今も変わらない
J あなたを永久(とわ)に
J あなたを愛して
J ともに歩いた、J 思い出の道
わたしは今宵も、寂しく歩くのね
(*以下繰り返し)
寂しく歩くのね
(1984年 「江辺歌謡祭」)
(Youtubeに登録の사사구통に感謝)
本年9月4日、イ・ソンヒのコンサート「The Great Concert」(世宗文化会館)にも行き、ファンとしての勤めも無事果たしたと思う。彼女が、それ以前にさまざまなテレビ番組に出演したこと、それ以後にテレビドラマのOSTを歌ったこともブログに記した。
今年も今日で最後。イ・ソンヒのコンサートの最後には、デビュー曲である 「Jへ」(1984年)が歌われる。彼女が高校時代に音楽教室に通ったこと、そこで 「Jへ」の作詞・作曲家と幸運に出会ったこと、大学時代に音楽バンド 「四幕五場」に参加したこと、そして音楽コンクール 「江辺歌謡祭」に出場して「Jへ」を歌い大賞を受賞したこと。天賦の才を元にして、いろいろな出会いを重ねてイ・ソンヒは歌謡界に解き放された。以降、30年余、「国民歌手」としてそのトップを走っている。
(本ブログ関連:”Jへ”)
J 撫でる風に、J あなた想えば
今日も静かに、あなた 偲ぶわ
J きのうの夢に、J 出会った面影
わたしの胸に、染まっているのよ
*J きれいな夏の日、遠く消えたとしても
J わたしの愛は、今も変わらない
J あなたを永久(とわ)に
J あなたを愛して
J ともに歩いた、J 思い出の道
わたしは今宵も、寂しく歩くのね
(*以下繰り返し)
寂しく歩くのね
(1984年 「江辺歌謡祭」)
(Youtubeに登録の사사구통に感謝)
2016年9月9日金曜日
【大衆音楽家列伝】 イ・ソンヒ
釜山日報の連載の「大衆音楽家列伝(대중음악가 열전)」は、まさにイ・ソンヒのコンサート(9/2~4)直前の絶妙なタイミング(9/2)に、彼女の音楽活動を振り返る、「【大衆音楽家列伝】25.イ・ソンヒ」(チェ・ソンチョル、ペーパー・クリエイティブ代表)の記事を掲載した。
内容は、イ・ソンヒが歌謡界にデビュー以来、現在にいたる音楽活動の小史であり、正規アルバムをもとに彼女の代表的な曲目を網羅している。コンサート後になったが、次に載せさせていただく。感謝。
次の記載の曲目と、今回9月のコンサート曲目を合わせて聴けば、イ・ソンヒの全体像を素早く理解することができるでしょう!
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小さい体躯で爆発的歌唱力… 「Jへ」ただ一曲でスターダム
(写真:略) ▲ 私たち大衆音楽の「ガール・クラッシュ」の元祖、イ・ソンヒは歌を運命のように思って生きてきた(デビュー以来)32年、この時代の名歌手だ。
・最近、よく話題になる単語の中に、「ガール・クラッシュ」(Girl Crush)という言葉がある。少女(Girl)と、「惚れる」意のクラッシュ・オン(Crush On)を合成した言葉で、女性が同性に感じる、性的な感情を伴わない強い好感と定義する。かくのごとくクラッシュの魅力に陥ったせいだろうか。最近、音源チャートの上位圏、および長期ランク(イン)の女性歌手だけで何と100人余りに達する。私たちの大衆音楽のガール・クラッシュ(一目惚れした少女)の元祖は、イ・ソンヒだ。
ゴールデン ディスク、5連覇の「珍記録」
ソン・シヒョンと出会って、4、5集で音楽的変化
香港俳優の張國榮(レスリー・チャン)とデュエット・コンサート
「その中であなたに出会って」、感性際立つ
内容は、イ・ソンヒが歌謡界にデビュー以来、現在にいたる音楽活動の小史であり、正規アルバムをもとに彼女の代表的な曲目を網羅している。コンサート後になったが、次に載せさせていただく。感謝。
次の記載の曲目と、今回9月のコンサート曲目を合わせて聴けば、イ・ソンヒの全体像を素早く理解することができるでしょう!
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小さい体躯で爆発的歌唱力… 「Jへ」ただ一曲でスターダム
(写真:略) ▲ 私たち大衆音楽の「ガール・クラッシュ」の元祖、イ・ソンヒは歌を運命のように思って生きてきた(デビュー以来)32年、この時代の名歌手だ。
・最近、よく話題になる単語の中に、「ガール・クラッシュ」(Girl Crush)という言葉がある。少女(Girl)と、「惚れる」意のクラッシュ・オン(Crush On)を合成した言葉で、女性が同性に感じる、性的な感情を伴わない強い好感と定義する。かくのごとくクラッシュの魅力に陥ったせいだろうか。最近、音源チャートの上位圏、および長期ランク(イン)の女性歌手だけで何と100人余りに達する。私たちの大衆音楽のガール・クラッシュ(一目惚れした少女)の元祖は、イ・ソンヒだ。
■ 「姉さん(オンニ)部隊」、追いかけ回しクラッシュ
・仏教音楽「梵唄」の伝授者の父をもつイ・ソンヒは、幼い時から歌手の才質(才能と気質)を見せた。大学1年のとき、「4幕5場」という校内音楽サークルに入り、父が反対した歌を思う存分歌うことができるようになったし、<江辺歌謡祭>に出場する冒険も敢行する。1984年夏、MBC江辺歌謡祭に、パーマヘアーに角(つの)製の枠メガネをかけた少女が登場する。イム・ソンギュンと共に「4幕5場」という混成デュエットで参加した彼女は、小さい体躯に似合わない爆発的な歌唱力で大賞を射止める。受賞曲は、「Jへ」であった。その日を起点に、歌謡界は波打つ。 イム・ソンギュンの入隊で、ソロとして本格活動に乗り出したイ・ソンヒの人気は想像を超越した。
(本ブログ関連:”イ・ソンヒと仏教音楽”、”梵唄”)
・仏教音楽「梵唄」の伝授者の父をもつイ・ソンヒは、幼い時から歌手の才質(才能と気質)を見せた。大学1年のとき、「4幕5場」という校内音楽サークルに入り、父が反対した歌を思う存分歌うことができるようになったし、<江辺歌謡祭>に出場する冒険も敢行する。1984年夏、MBC江辺歌謡祭に、パーマヘアーに角(つの)製の枠メガネをかけた少女が登場する。イム・ソンギュンと共に「4幕5場」という混成デュエットで参加した彼女は、小さい体躯に似合わない爆発的な歌唱力で大賞を射止める。受賞曲は、「Jへ」であった。その日を起点に、歌謡界は波打つ。 イム・ソンギュンの入隊で、ソロとして本格活動に乗り出したイ・ソンヒの人気は想像を超越した。
(本ブログ関連:”イ・ソンヒと仏教音楽”、”梵唄”)
江辺歌謡祭の大賞受けて、ソロ活動
大規模の「姉さん部隊」で、時代のアイコンゴールデン ディスク、5連覇の「珍記録」
ソン・シヒョンと出会って、4、5集で音楽的変化
香港俳優の張國榮(レスリー・チャン)とデュエット・コンサート
「その中であなたに出会って」、感性際立つ
・当時、或る放送会社でデビューした歌手は、別の放送会社に出演できないという慣例を破って、「Jへ」は、KBSの「歌謡トップ・テン」で5週連続1位を占めており、1984年の最高のヒット曲になった。年末、KBS歌謡大賞と、MBC「10代歌手歌謡祭」の新人賞、やはりイ・ソンヒが占めた。当時、歌謡界の厚いファン層である女子中高生の愛を一人占めした男性歌手全盛の時代に、ディーバ(歌姫)の出現は歌謡界はもちろん、女学校にも新鮮な風になった。
・イ・ソンヒは、数多くの女学生ファンを同行するガール・クラッシュのアイコンで、爆発的な人気を享受した。チョー・ヨンピルの「兄さん(オッパ)部隊」を威嚇した「姉さん(オンニ)部隊」、幼い女子中高生が公演会場で兄さん(オッパ)の代わりに姉さん(オンニ)を叫ぶようにさせた主人公、イ・ソンヒの事務所から金を払って人を動員したという流言飛語(デマ)まで飛び交うほど、当時の「姉さん部隊」の火力は途方もなかった。
(本ブログ関連:”姉さん部隊”)
■ ソン・シヒョンと共に変曲点、確かに
・イ・ソンヒは、数多くの女学生ファンを同行するガール・クラッシュのアイコンで、爆発的な人気を享受した。チョー・ヨンピルの「兄さん(オッパ)部隊」を威嚇した「姉さん(オンニ)部隊」、幼い女子中高生が公演会場で兄さん(オッパ)の代わりに姉さん(オンニ)を叫ぶようにさせた主人公、イ・ソンヒの事務所から金を払って人を動員したという流言飛語(デマ)まで飛び交うほど、当時の「姉さん部隊」の火力は途方もなかった。
(本ブログ関連:”姉さん部隊”)
■ ソン・シヒョンと共に変曲点、確かに
・「Jへ」ただ一曲で、1984年を自身の年にしてしまったイ・ソンヒの正規1集「イ・ソンヒ1集」(1985)は、(江辺歌謡祭の)翌年の1985年初め(1/25)に現れた。ここで、「あ! 昔よ」、「葛藤」、「少女の祈り」などが相次いでヒットし、彼女は自身の人気が「Jへ」の一回だけで終わらないことを立証した。その年が過ぎ行く前(11/25)に、再び出した2集「イ・ソンヒ Vol.2」(1985)では、「秋の風」、「ケンチャナ(大丈夫)」、「そう誤りは私にあります」などのヒット曲が引き続き出ており、1986年に出した3集「イ・ソンヒ3集」(1986)でも、「分かりたいです」、「暗闇は晴れて」、「ヤング」などが多く愛(=支持)を受けた。
・ゴールデン・ディスクの5連覇を始めとして、国内にある全部門の賞を全て受賞する珍記録をたてたりもする。以後、「イ・ソンヒ4集」(1988)は、イ・ソンヒのディスコグラフィーで非常に重要な位置を占める。彼女の音楽が意味ある変曲点を迎えたためだ。その変化の端緒を説明する(人物の)名は、ソン・シヒョン(송시현)だ。
・ゴールデン・ディスクの5連覇を始めとして、国内にある全部門の賞を全て受賞する珍記録をたてたりもする。以後、「イ・ソンヒ4集」(1988)は、イ・ソンヒのディスコグラフィーで非常に重要な位置を占める。彼女の音楽が意味ある変曲点を迎えたためだ。その変化の端緒を説明する(人物の)名は、ソン・シヒョン(송시현)だ。
(写真:略) イ・ソンヒの音楽世界で意味ある変曲点になったアルバム「イ・ソンヒ4集」
・1987年、「夢みるような世界」のヒットで名を告げたシンガー・ソングライターのソン・シヒョンは、この時からイ・ソンヒのアルバム作業に参加し始める。4集で、A面のタイトル曲「愛が散るこの場所で」と、B面タイトル曲「私はいつもあなたを」を含めて、全て4曲が彼の作品だ。二人の出会いは成功した。ソン・シヒョン特有の感受性と叙情性は、イ・ソンヒの声とよく交わったし、以後も彼はしばらくイ・ソンヒと共に行動することになる。翌年、「イ・ソンヒ5集」(1989)で、イ・ソンヒはアルバムのここかしこに社会性の濃厚な曲を配置した。「五月の陽差し」は1980年の光州民主化運動の犠牲者の英霊を慰める曲であったし、「ひとしきり笑いに」も、やはり時代的痛みが滲んだ曲だった。通常の民衆歌謡に劣らず、深くやさしいものだった。
(本ブログ関連:”ソン・シヒョン”)
(本ブログ関連:”ソン・シヒョン”)
・ソン・シヒョンは、5集でも中枢的な役割をした。アルバムの代表曲である「ひとしき笑いで」と、「冬哀傷」は彼が作った曲だ。同年、チョコレートCFで最高の人気を謳歌した香港の故張國榮(レスリー・チャン)が初めての来韓する。張國榮は、イ・ソンヒと「Jへ」をデュエットで熱唱して、デュエット・コンサートを開いた。
・その縁で、張國榮は、後日イ・ソンヒを香港に招待する格別な親交を誇示したりもする。この時期に、香港BMGレコードを通じて、「It's Original Songs」というアルバムに、「Jへ」を収録発表し、英語で自身のヒット曲を翻案して歌った「Where The Love Falls..」(1989)などのアルバムも発表する。
(本ブログ関連:”張國榮 (レスリー・チャン)”)
・1990年の6集「イ・ソンヒ Ⅵ」(1990)では、「思い出のページをめくれば」が愛(支持)を受けたし、「去る者だけが愛の夢を見ることができる」という自作詩朗唱集と、カナダのモントリオール室内楽団と世宗文化会館で共演後、その実況アルバム「Lee Sun Hee ; Montreal Chamber Orchestra」(1990)を発表する。7集の「思い出の中を歩くのね」(1991)、キム・ヨンドンの国楽的な要素をたっぷり入れた8集の「李仙姫 八」(1992)、「イ・ソンヒ愛唱童謡」(1993)、9集の「イ・ソンヒ 9」(1994)、そして、多くの曲を自ら作詞/作曲したアルバム10集「First Love」(1996)を着実にリリースして、以前とは違った成熟した歌をリリースし始める。
(本ブログ関連:”張國榮 (レスリー・チャン)”)
・1990年の6集「イ・ソンヒ Ⅵ」(1990)では、「思い出のページをめくれば」が愛(支持)を受けたし、「去る者だけが愛の夢を見ることができる」という自作詩朗唱集と、カナダのモントリオール室内楽団と世宗文化会館で共演後、その実況アルバム「Lee Sun Hee ; Montreal Chamber Orchestra」(1990)を発表する。7集の「思い出の中を歩くのね」(1991)、キム・ヨンドンの国楽的な要素をたっぷり入れた8集の「李仙姫 八」(1992)、「イ・ソンヒ愛唱童謡」(1993)、9集の「イ・ソンヒ 9」(1994)、そして、多くの曲を自ら作詞/作曲したアルバム10集「First Love」(1996)を着実にリリースして、以前とは違った成熟した歌をリリースし始める。
■ あらゆる悪材料の中、挑戦は続く
・人気の下落と激しい浮上など、悪材料の中でも彼女の努力は続いた。11集以後、3年振りに発表した12集の「E Sunhee My Life + Best」(2001)で、自作曲「離別小曲」と、パク・チニョンの「生きてみると」、ユ・ヨンソクの「この歌をかりて」、キム・ジョンソの「多分(アマ)」など、11曲の新曲とベスト16曲を入れて新しい活動の序幕を知らせた。2005年、<四十代に迎える春>の意を暗に盛り込まれている13集の「四春期」(2005)は、イ・ソンヒの自作曲である「因縁」をはじめとして、9曲の新曲と20周年ライブ コンサート実況の17曲を入れた。10集から始まったシンガー・ソングライターの面目が、円熟の段階に入り込んだことを意味する真の傑作と評価を受けた。
・1990年代以後、7集から始まったやむ得ない大衆的反応の退潮にも、イ・ソンヒは堅忍主義的姿勢で、自身の音楽的内容を執拗に発展させる。2009年、デビュー25周年を迎えて、新しい音楽的感性の10曲をアップグレードした自作曲で満たした14集「愛よ…」(2009)を発表し、活動を再開した。
・1990年代以後、7集から始まったやむ得ない大衆的反応の退潮にも、イ・ソンヒは堅忍主義的姿勢で、自身の音楽的内容を執拗に発展させる。2009年、デビュー25周年を迎えて、新しい音楽的感性の10曲をアップグレードした自作曲で満たした14集「愛よ…」(2009)を発表し、活動を再開した。
・5年後、正規15集アルバムであると同時に、デビュー30周年記念スペシャルのアルバムである、「セレンディピティ Serendipity」(2014)を通じて、「女王の帰還」を知らせた。
・彼女の音楽的力量が最高に発揮された今回のアルバム(15集)、果たせるかな、11曲中9曲が自作曲だ。「その中であなたに出会って」など、より一層円熟した深みある音楽と、限りなく繊細で感性的なボーカルを披瀝し、専らイ・ソンヒだけが出すことのできる感性を表わした。偶然を通じて運命に出会うという<セレンディピティ>の意のように、音楽に出会って歌を運命のように感じて生きてきた32年目の私たちの時代の名歌手イ・ソンヒ、どんな音楽においても輝く彼女の声と表現は拒否できない永続の美学であろう。
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2016年7月8日金曜日
イ・ソンヒと「大学歌謡祭、江辺歌謡祭」
「タジン日報(딴지일보)」掲載の【サンハのコラム】の投稿記事 「伝説、『大学歌謡祭』略史3編: イ・ヨンとイ・ソンヒ、若者たちの歌謡祭」(7/4)は、1980~90年代の世相と連動して、大衆歌謡における若者たちの中心部にいた「大学歌謡祭(MBC 대학가요제)」の位置づけと、その盛衰を語っている。さらに、「大学歌謡祭」とは別に、若者たち同世代に支持された「江辺歌謡祭(MBC 강변가요제)」もあり、そこにデュエット(男女)で登場したイ・ソンヒについて記されている部分だけ抜粋し、次に掲載させてだく。感謝。
- 「大学歌謡祭」放送期間: 1977年~2012年
- 「江辺歌謡祭」放送期間: 1979年~2001年
投稿記事は、イ・ソンヒのファンが、男子高校生にまで及んでいたことを伝えている。しかも、相当なオバカ振りに笑ってしまう。
(本ブログ関連:”大学歌謡祭と江辺歌謡祭”)
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(略)
・1984年の「江辺歌謡祭」で、韓国の歌謡史に残る大型女性歌手イ・ソンヒは、「4幕5場」というちょっと曖昧な名前のデュエットで彗星のように現れた。「J」のイニシャルを持つ人々は、彼らの歌<Jへ>を聞いて、あたかもその歌が自身のための歌であるように喜んでいた。
・デュエットの(相手)男性が軍隊に行ってしまった後、イ・ソンヒはソロに転向し、大型ヒット曲を出しながら、一躍スターダムに上がる。その人気がどれくらい優れていたのか、私が通った学校で起った惨事で充分に立証することができる。イ・ソンヒが公演のため釜山を訪問した時、真っ黒な高校生が「姉(누나:弟から見た姉さん)」を見に行くのだと、2階教室から数十人ずつ花壇に飛び降りてそのうちの一人の脚が折れたのだ。
(略)
<大学歌謡祭>は、90年代以後次第に衰退期に入り込む。
**************************************************************************
「前は、『江辺(大学)歌謡祭』が新人の登竜門でした。しかし、今の新人は放送局主催のコンテストじゃなくてもいくらでもデビューすることができるようになりました。インディーもあり、すぐにアルバムを出す機会も多いのです。」
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<わが大衆音楽の巨星たち(우리 대중음악의 큰 별들)、イ・ソンヒ編> - 著:イム・ジンモ、発行:ミンメディア
・(この)イ・ソンヒの言葉が最も大きな理由になるだろう。大学の門戸も入らなかったソテジが、大衆の偶像として登板したのが90年代初頭ではなかったか。主観的に一つ付け足すなら、大学歌謡祭の隆盛期は韓国の大学生がその現代史で最も躍動的で重要な役割を遂行した70年代末と80年代を貫いている。90年代以後の社会的変化により、大学生集団がその影響力と独自性を急激に喪失しながら、大学歌謡祭自体の活力もまた、比例してだんだん少なくなったのではなかったかも。
・大学歌謡祭も江辺歌謡祭もすでに後が絶えた。大学歌謡祭で優勝した人が、その後、ニュースや放送で紹介された記憶の流れも数年間、すっかり干上がった。だが、今後さらに年月が経って、大学歌謡祭自体が歴史の中に埋められても、私は大学歌謡祭、そして江辺歌謡祭とともにした歌を口ずさむことで、その歌を伝えた若い、いや、若かった歌の名前をときめく心に数えるだろう。
・一度、指折り数えてみよう。サンドペブルス(Sand Pebbles)、ペ・チョルス、ノ・サヨン、シム・スボン、ホン・ソボム、チョン・オチャ、チョ・ハムン、イ・ソンヒ、ウ・スンシル、ノ・サヨン、チョ・チョンヒ(スズメとカカシ)、ユヨル、シン・ヘチョル、イ・サンウン、イ・サンウ、パク・ミギョン、チュ・ヒョンミ、キム・キョンホ、キム・ドンリュル、そして<オモナ>のチャン・ユンジョンまで。あらまし挙げても両手が足りない。(略)
(略)
- 「大学歌謡祭」放送期間: 1977年~2012年
- 「江辺歌謡祭」放送期間: 1979年~2001年
投稿記事は、イ・ソンヒのファンが、男子高校生にまで及んでいたことを伝えている。しかも、相当なオバカ振りに笑ってしまう。
(本ブログ関連:”大学歌謡祭と江辺歌謡祭”)
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(略)
・1984年の「江辺歌謡祭」で、韓国の歌謡史に残る大型女性歌手イ・ソンヒは、「4幕5場」というちょっと曖昧な名前のデュエットで彗星のように現れた。「J」のイニシャルを持つ人々は、彼らの歌<Jへ>を聞いて、あたかもその歌が自身のための歌であるように喜んでいた。
・デュエットの(相手)男性が軍隊に行ってしまった後、イ・ソンヒはソロに転向し、大型ヒット曲を出しながら、一躍スターダムに上がる。その人気がどれくらい優れていたのか、私が通った学校で起った惨事で充分に立証することができる。イ・ソンヒが公演のため釜山を訪問した時、真っ黒な高校生が「姉(누나:弟から見た姉さん)」を見に行くのだと、2階教室から数十人ずつ花壇に飛び降りてそのうちの一人の脚が折れたのだ。
(略)
<大学歌謡祭>は、90年代以後次第に衰退期に入り込む。
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「前は、『江辺(大学)歌謡祭』が新人の登竜門でした。しかし、今の新人は放送局主催のコンテストじゃなくてもいくらでもデビューすることができるようになりました。インディーもあり、すぐにアルバムを出す機会も多いのです。」
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<わが大衆音楽の巨星たち(우리 대중음악의 큰 별들)、イ・ソンヒ編> - 著:イム・ジンモ、発行:ミンメディア
・(この)イ・ソンヒの言葉が最も大きな理由になるだろう。大学の門戸も入らなかったソテジが、大衆の偶像として登板したのが90年代初頭ではなかったか。主観的に一つ付け足すなら、大学歌謡祭の隆盛期は韓国の大学生がその現代史で最も躍動的で重要な役割を遂行した70年代末と80年代を貫いている。90年代以後の社会的変化により、大学生集団がその影響力と独自性を急激に喪失しながら、大学歌謡祭自体の活力もまた、比例してだんだん少なくなったのではなかったかも。
・大学歌謡祭も江辺歌謡祭もすでに後が絶えた。大学歌謡祭で優勝した人が、その後、ニュースや放送で紹介された記憶の流れも数年間、すっかり干上がった。だが、今後さらに年月が経って、大学歌謡祭自体が歴史の中に埋められても、私は大学歌謡祭、そして江辺歌謡祭とともにした歌を口ずさむことで、その歌を伝えた若い、いや、若かった歌の名前をときめく心に数えるだろう。
・一度、指折り数えてみよう。サンドペブルス(Sand Pebbles)、ペ・チョルス、ノ・サヨン、シム・スボン、ホン・ソボム、チョン・オチャ、チョ・ハムン、イ・ソンヒ、ウ・スンシル、ノ・サヨン、チョ・チョンヒ(スズメとカカシ)、ユヨル、シン・ヘチョル、イ・サンウン、イ・サンウ、パク・ミギョン、チュ・ヒョンミ、キム・キョンホ、キム・ドンリュル、そして<オモナ>のチャン・ユンジョンまで。あらまし挙げても両手が足りない。(略)
(略)
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2015年11月7日土曜日
(資料) イ・ソンヒとのインタビュー(連合ニュース)
イ・ソンヒとのインタビューが、連合ニュースの記事「<インタビュー> イ・ソンヒ 『歌は無心の作業・・・「Jへ」は今聞いても胸がキュン』」(11/4、キム・ボギョン記者)に掲載された。若いファン層への感謝、後輩歌手たちへ助言、そして彼女の今後についてなど、31年間つちかった音楽経験を交えて聞くことができる。
イ・ソンヒの語り(=音楽観)には独特のものがあるという。以前、別のインタビュー記事にも、成程とうかがい知るような記述しているものがあった。今回は、どうだろうか・・・記者も苦心されたようだが、読み進むうちにイ・ソンヒらしさがやっぱり感じられてくる。妙に安心する。
(本ブログ関連:”イ・ソンヒ インタビュー”)
ところで、現在は充填期のようで、次ぎのアルバムまで時間がいるようだ。少々待ち遠しい気がするが楽しみである。
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「音楽は私を記憶する人との疎通(コミュニケーション)・・・若いファンたち感謝する」
「声は私だけの楽器・・・他の人が出てきて違うことを認めなきゃ」
イ・ソンヒは、誰もが自信をもって「国民歌手」と呼ぶことができる、数少ない歌謡界の巨匠中の一人だ。
1984年、「第5回 江辺歌謡祭」で、「Jへ」で大賞を獲得してデビューした彼女は、翌年1集のタイトル曲「ああ! 昔よ」を始め、「秋の風」、「分かりたいです」や、「私はいつもあなたを」、「ひとしきり笑いで」などをヒットさせて、1980年代の代表的ディーバ(歌姫)として座をつかんだ。
彼女は小さい体躯から出る爆発的な歌唱力でファンたちをひきつけて、初の<姉さん部隊>(=中高女学生ファングループ)を誕生させたりもした。
~~~~~~~~~~~~~~~~
1990年代にも着実に新曲を発表したイ・ソンヒは、2011年、米国カーネギーホールのアイザック・スターン・オーディトリウムで単独コンサートも開いた。昨年(2014年)には、デビュー30周年を記念して、正規15集「セレンディピティ(Serendipity)」を発表した。
最近、イ・ソンヒを、ソウル江南区清潭洞の所属事務所(=フックエンターテインメント)の建物で会った。TVよりはるかに若く見られる容貌に記者が驚くと、すぐに彼女は、「私がTVによく出てないからよ」と冗談を言った。
まず、最近の近況を尋ねた。イ・ソンヒは、昨年3月アルバムを発売するやいなや、全国ツアーコンサートを開いて1年余りをファンたちのそばで過ごした。今年には、光復70年記念番組のKBS「私は大韓民国」に出演して「1945合唱団」を指揮したりもした。
「いま、やっとスケジュールがまばらになりました。昨年は一年中公演して、今年は『私は大韓民国』を準備するために緊張を解くことができませんでした。番組が終わって、およそ2週間患いました。そうして、ちょっと日常を楽しんだのです。休む時、したいことなどをリストに書き込みました。今は、それらをしに歩き回るのに忙しいですね。 (笑い)」
彼女は歌手として31年を生きた。短くない時間の間、彼女は歌と喜怒哀楽を一緒にこなした。イ・ソンヒにとって、音楽はどんな意味であろうか。気になってきたところで、単刀直入に尋ねた。
「音楽は一種の疎通(=コミュニケーション)でしょう。歌う人は、歌で自分を表現します。私が過ごした時間にどんな考えをし、何をいいたいのか、結局、歌で語るんです。結局、私を記憶する人とずっと疎通(=コミュニケーション)するんです。」
数えきれないほど舞台に立って、ファンたちに会いながら、おのずから記憶に残る瞬間も多かったはずなのに。質問を投げると愚問賢答(=愚かな問にも賢く答える)が返ってきた。
「留めておく性格ではないので、何かを入れれば続けて注ぎます。歌もそうですよね。感情を続けて注ぎます。それで、うれしくても悲しくても、感情はその瞬間にだけ残るもののようです。そうするうちに、あえて過ぎ去った時間に何が残ったかどうか執着しない方です。」
このような回答を聞くと、気軽に他の質問をするのがためらわれた。だが、質問を止めることができなかった。発表した曲中、最も愛着がある曲を尋ねると、自然に「Jへ」という回答が出てきた。
「私はこの質問を受けたら、いつも『Jへ』と答えます。このように淡々と話しているけど、本当に『Jへ』は、今聞いてもキュンとします。おのずから過ぎた時間を振り返り見させる歌なんです。」
この他にも、最近、彼女の口の中で巡る歌がある。昨年発表した15集収録曲「今になって(이제야)」だ。「その時は分からなかったのでしょう/すべてを知っていて思ったが、愚かにも/感嘆符、休符も、そこに込められていることを」、という歌詞がなぜか胸に迫る。
「最近、私が元々進んだ方向からちょっと違うように、方向を定めました。そのように決めて見たら葛藤が多くなりました。すると、私も気づかぬ内に、この歌を口ずさんでいましたよ。この歌をしきりに歌うのを見て、私の視線が変わったことを感じます。」
イ・ソンヒといえば浮び上がるイメージがある。短いショートカットにメガネ、ズボン、スーツがそれだ。常にズボンだけはく彼女を見て、ファンたちは「イ・ソンヒの脚に大きい傷跡がある」とひそひそ話したりもした。彼女は、デビュー後7~8年間、素顔で放送に出たりもした。
一つのスタイルに固執した理由を尋ねると、「その時は、ただそれが良かった」という素っ気無い反応が返ってきた。
「今考えれば大したことないのに、その当時、瞬間瞬間ぶつかることが多かったです。化粧もして、メガネも外せというのが何となくいやだったんです。『歌う人が好きなスタイルで行くべきなのに、私がなぜあの人たちに従って行かなければならないのか?』という問いを持ち続けました。それで、固執半分、反抗心半分でずっと押し進めたら、そのまま私のスタイルに固まったんです。ところで、そうなるとそのスタイルが嫌いになりましたよ。(笑い) そのまま、その時その時やりたい通りに自然に従ったようです。」
イ・ソンヒの公演会場に、中壮年層の観客だけ訪れると考えると相当な誤算だ。彼女のコンサート会場にはいつも20~30代の観客で賑わっている。特に映画「王の男」のオリジナル・サウンドトラック(OST)に収録された「因縁(인연)」という歌が大ヒットを記録して、彼女は若い世代に名前を知らせた。イ・ソンヒが手紙好きという話を聞いて、直接、書いたファンレターを送る少女ファンも多い。
「公演会場で、観客席を見ればびっくりです。以前よりも観客が若くなっているとはっきりしてるんですよ。とてもありがたいことです。」
「最近、若いファンの意思表明が本当にどんどん目立ちます。公演レビューの掲示板も念入りに調べる方ですが、反応を見ればとてもおもしろいです。(笑い) 私を<姉さん>と呼ぶ中学生ファンがいるのだけど、自分のママも私を<姉さん>と呼ぶといいましたよ。そうしたところ、『うちの母さんも<姉さんファン>なのに家系図がどうなるのでしょう?』と尋ねたこともあります。」
イ・ソンヒは、MBCオーディション番組「偉大なる誕生2」で、メンターを引き受けるなど、後輩たちにも格別の愛情を注ぐ。しかし、最近の歌謡界を見ると物足りなさも大きいといった。<江辺歌謡祭>出身である彼女は、最近の雨後の竹の子のよう生じるオーディション番組を見ると、特にそのような感じを受ける。
「当時、<江辺歌謡祭>や<大学歌謡祭>は、私たち同士の祭りのような感じでした。もちろん決勝、準決勝と進んで競争したりしたが、みんな歌が好きだったし、お互いが違うということを認めましたよ。ところで、最近は本当に競争だけします。皆がみな違っているんですけど、私だけ頑張らなきゃという考えをするようで残念です。1、2位を獲る瞬間に歌手になるのではないのにね。」
彼女は話を続けた。
「声は私だけの楽器です。他の人が私より歌をもっと上手だとしても、私の場所を持つのではありません。全てみな違った声を持っていますね。自分だけの声を持ってこそ、より豊かに生きていけます。グルメ通りを考えてみてください。一つのレストランでなく、多様なレストランが集まっているので、多くの人が訪ねてくるのじゃないの。他の人が出てきて、違うということを認めれば、全てみな上手くやれます。」
イ・ソンヒは、後輩たちが尊敬して似たがる巨匠の中のひとりだ。それだけに最近のTVをつければ、イ・ソンヒの歌をリメークしたり真似て歌う歌手をよく見かける。そのような姿を見て、本来本人はどんな思いがするのか気になった。
「最近の後輩たちは本当に音楽が上手いです。以前には良いものを表現する方法も知りませんでした。また、音楽される方の多くが付き従う音楽をしましたよ。ところが最近は、音楽で上手く表現する世代になりました。私の歌を、後輩たちが歌ってくれたら余りにもうれしいです。それを聞いて、『あんな方向にも歌を歌うことができるのだろう』と感じたりもします。しかし、私が歌った方式そのままに歌う後輩を見ると、上手いとは別にちょっと物足りないです。」 そのような後輩に、先輩としてしたい助言はないだろうか。
「とにかく経験するんです。編み出すというのは積もることで、積もれば吐き出すことができなければなりません。音楽をする人たちは、音楽に吐き出さなければなりません。もちろん競争が全てではないが、そのような過程を勝ち抜くのも必要です。だが、記憶しなければならないものがあります。人のために、私がだめなものなんてありません。人もなるし、私もなるんです。」
インタビューを進めて、31年(=デビュー31年目)の内面はやはり違うという考えが頭の中を離れられなかった。急がず自身の考えを一つ一つ明らかにする、彼女のカリスマに圧倒される瞬間も多かった。一時間余りのインタビューを終えて、今後の計画をたずねた。「小さい巨人」イ・ソンヒの答はやはり特別だった。
「以前には、男性と女性の声を同時に持つ少年のような声だったとしたら、今は女らしい声になりました。そうするうちに、そこに合った歌を歌うことになったし、声も澄んだのですよ。私は今、50代以後にどんな歌を歌うのか悩んでいます。次のアルバムですか? アルバムを出すというのは無心にする作業です。それで何かいっぱい満たしてようやく、結果に結び付けられます。ところで今は、満たせる時間が長く続かなかったです。それで当分は計画はありません。」
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(Youtubeに登録のqueen sallyに感謝)
イ・ソンヒの語り(=音楽観)には独特のものがあるという。以前、別のインタビュー記事にも、成程とうかがい知るような記述しているものがあった。今回は、どうだろうか・・・記者も苦心されたようだが、読み進むうちにイ・ソンヒらしさがやっぱり感じられてくる。妙に安心する。
(本ブログ関連:”イ・ソンヒ インタビュー”)
ところで、現在は充填期のようで、次ぎのアルバムまで時間がいるようだ。少々待ち遠しい気がするが楽しみである。
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「音楽は私を記憶する人との疎通(コミュニケーション)・・・若いファンたち感謝する」
「声は私だけの楽器・・・他の人が出てきて違うことを認めなきゃ」
イ・ソンヒは、誰もが自信をもって「国民歌手」と呼ぶことができる、数少ない歌謡界の巨匠中の一人だ。
1984年、「第5回 江辺歌謡祭」で、「Jへ」で大賞を獲得してデビューした彼女は、翌年1集のタイトル曲「ああ! 昔よ」を始め、「秋の風」、「分かりたいです」や、「私はいつもあなたを」、「ひとしきり笑いで」などをヒットさせて、1980年代の代表的ディーバ(歌姫)として座をつかんだ。
彼女は小さい体躯から出る爆発的な歌唱力でファンたちをひきつけて、初の<姉さん部隊>(=中高女学生ファングループ)を誕生させたりもした。
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1990年代にも着実に新曲を発表したイ・ソンヒは、2011年、米国カーネギーホールのアイザック・スターン・オーディトリウムで単独コンサートも開いた。昨年(2014年)には、デビュー30周年を記念して、正規15集「セレンディピティ(Serendipity)」を発表した。
最近、イ・ソンヒを、ソウル江南区清潭洞の所属事務所(=フックエンターテインメント)の建物で会った。TVよりはるかに若く見られる容貌に記者が驚くと、すぐに彼女は、「私がTVによく出てないからよ」と冗談を言った。
まず、最近の近況を尋ねた。イ・ソンヒは、昨年3月アルバムを発売するやいなや、全国ツアーコンサートを開いて1年余りをファンたちのそばで過ごした。今年には、光復70年記念番組のKBS「私は大韓民国」に出演して「1945合唱団」を指揮したりもした。
「いま、やっとスケジュールがまばらになりました。昨年は一年中公演して、今年は『私は大韓民国』を準備するために緊張を解くことができませんでした。番組が終わって、およそ2週間患いました。そうして、ちょっと日常を楽しんだのです。休む時、したいことなどをリストに書き込みました。今は、それらをしに歩き回るのに忙しいですね。 (笑い)」
彼女は歌手として31年を生きた。短くない時間の間、彼女は歌と喜怒哀楽を一緒にこなした。イ・ソンヒにとって、音楽はどんな意味であろうか。気になってきたところで、単刀直入に尋ねた。
「音楽は一種の疎通(=コミュニケーション)でしょう。歌う人は、歌で自分を表現します。私が過ごした時間にどんな考えをし、何をいいたいのか、結局、歌で語るんです。結局、私を記憶する人とずっと疎通(=コミュニケーション)するんです。」
数えきれないほど舞台に立って、ファンたちに会いながら、おのずから記憶に残る瞬間も多かったはずなのに。質問を投げると愚問賢答(=愚かな問にも賢く答える)が返ってきた。
「留めておく性格ではないので、何かを入れれば続けて注ぎます。歌もそうですよね。感情を続けて注ぎます。それで、うれしくても悲しくても、感情はその瞬間にだけ残るもののようです。そうするうちに、あえて過ぎ去った時間に何が残ったかどうか執着しない方です。」
このような回答を聞くと、気軽に他の質問をするのがためらわれた。だが、質問を止めることができなかった。発表した曲中、最も愛着がある曲を尋ねると、自然に「Jへ」という回答が出てきた。
「私はこの質問を受けたら、いつも『Jへ』と答えます。このように淡々と話しているけど、本当に『Jへ』は、今聞いてもキュンとします。おのずから過ぎた時間を振り返り見させる歌なんです。」
この他にも、最近、彼女の口の中で巡る歌がある。昨年発表した15集収録曲「今になって(이제야)」だ。「その時は分からなかったのでしょう/すべてを知っていて思ったが、愚かにも/感嘆符、休符も、そこに込められていることを」、という歌詞がなぜか胸に迫る。
「最近、私が元々進んだ方向からちょっと違うように、方向を定めました。そのように決めて見たら葛藤が多くなりました。すると、私も気づかぬ内に、この歌を口ずさんでいましたよ。この歌をしきりに歌うのを見て、私の視線が変わったことを感じます。」
イ・ソンヒといえば浮び上がるイメージがある。短いショートカットにメガネ、ズボン、スーツがそれだ。常にズボンだけはく彼女を見て、ファンたちは「イ・ソンヒの脚に大きい傷跡がある」とひそひそ話したりもした。彼女は、デビュー後7~8年間、素顔で放送に出たりもした。
一つのスタイルに固執した理由を尋ねると、「その時は、ただそれが良かった」という素っ気無い反応が返ってきた。
「今考えれば大したことないのに、その当時、瞬間瞬間ぶつかることが多かったです。化粧もして、メガネも外せというのが何となくいやだったんです。『歌う人が好きなスタイルで行くべきなのに、私がなぜあの人たちに従って行かなければならないのか?』という問いを持ち続けました。それで、固執半分、反抗心半分でずっと押し進めたら、そのまま私のスタイルに固まったんです。ところで、そうなるとそのスタイルが嫌いになりましたよ。(笑い) そのまま、その時その時やりたい通りに自然に従ったようです。」
イ・ソンヒの公演会場に、中壮年層の観客だけ訪れると考えると相当な誤算だ。彼女のコンサート会場にはいつも20~30代の観客で賑わっている。特に映画「王の男」のオリジナル・サウンドトラック(OST)に収録された「因縁(인연)」という歌が大ヒットを記録して、彼女は若い世代に名前を知らせた。イ・ソンヒが手紙好きという話を聞いて、直接、書いたファンレターを送る少女ファンも多い。
「公演会場で、観客席を見ればびっくりです。以前よりも観客が若くなっているとはっきりしてるんですよ。とてもありがたいことです。」
「最近、若いファンの意思表明が本当にどんどん目立ちます。公演レビューの掲示板も念入りに調べる方ですが、反応を見ればとてもおもしろいです。(笑い) 私を<姉さん>と呼ぶ中学生ファンがいるのだけど、自分のママも私を<姉さん>と呼ぶといいましたよ。そうしたところ、『うちの母さんも<姉さんファン>なのに家系図がどうなるのでしょう?』と尋ねたこともあります。」
イ・ソンヒは、MBCオーディション番組「偉大なる誕生2」で、メンターを引き受けるなど、後輩たちにも格別の愛情を注ぐ。しかし、最近の歌謡界を見ると物足りなさも大きいといった。<江辺歌謡祭>出身である彼女は、最近の雨後の竹の子のよう生じるオーディション番組を見ると、特にそのような感じを受ける。
「当時、<江辺歌謡祭>や<大学歌謡祭>は、私たち同士の祭りのような感じでした。もちろん決勝、準決勝と進んで競争したりしたが、みんな歌が好きだったし、お互いが違うということを認めましたよ。ところで、最近は本当に競争だけします。皆がみな違っているんですけど、私だけ頑張らなきゃという考えをするようで残念です。1、2位を獲る瞬間に歌手になるのではないのにね。」
彼女は話を続けた。
「声は私だけの楽器です。他の人が私より歌をもっと上手だとしても、私の場所を持つのではありません。全てみな違った声を持っていますね。自分だけの声を持ってこそ、より豊かに生きていけます。グルメ通りを考えてみてください。一つのレストランでなく、多様なレストランが集まっているので、多くの人が訪ねてくるのじゃないの。他の人が出てきて、違うということを認めれば、全てみな上手くやれます。」
イ・ソンヒは、後輩たちが尊敬して似たがる巨匠の中のひとりだ。それだけに最近のTVをつければ、イ・ソンヒの歌をリメークしたり真似て歌う歌手をよく見かける。そのような姿を見て、本来本人はどんな思いがするのか気になった。
「最近の後輩たちは本当に音楽が上手いです。以前には良いものを表現する方法も知りませんでした。また、音楽される方の多くが付き従う音楽をしましたよ。ところが最近は、音楽で上手く表現する世代になりました。私の歌を、後輩たちが歌ってくれたら余りにもうれしいです。それを聞いて、『あんな方向にも歌を歌うことができるのだろう』と感じたりもします。しかし、私が歌った方式そのままに歌う後輩を見ると、上手いとは別にちょっと物足りないです。」 そのような後輩に、先輩としてしたい助言はないだろうか。
「とにかく経験するんです。編み出すというのは積もることで、積もれば吐き出すことができなければなりません。音楽をする人たちは、音楽に吐き出さなければなりません。もちろん競争が全てではないが、そのような過程を勝ち抜くのも必要です。だが、記憶しなければならないものがあります。人のために、私がだめなものなんてありません。人もなるし、私もなるんです。」
インタビューを進めて、31年(=デビュー31年目)の内面はやはり違うという考えが頭の中を離れられなかった。急がず自身の考えを一つ一つ明らかにする、彼女のカリスマに圧倒される瞬間も多かった。一時間余りのインタビューを終えて、今後の計画をたずねた。「小さい巨人」イ・ソンヒの答はやはり特別だった。
「以前には、男性と女性の声を同時に持つ少年のような声だったとしたら、今は女らしい声になりました。そうするうちに、そこに合った歌を歌うことになったし、声も澄んだのですよ。私は今、50代以後にどんな歌を歌うのか悩んでいます。次のアルバムですか? アルバムを出すというのは無心にする作業です。それで何かいっぱい満たしてようやく、結果に結び付けられます。ところで今は、満たせる時間が長く続かなかったです。それで当分は計画はありません。」
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(Youtubeに登録のqueen sallyに感謝)
2015年3月20日金曜日
(資料)「【パク・ソンソ評論】 韓国最高のディーヴァ、イ・ソンヒを再び聞く」
今年1月、イ・ソンヒが1984年の「江辺歌謡祭」に登場して翌年発表した第1集アルバム「あ! 昔よ(아! 옛날이여)」(1985年)のリマスター版(JCDS0824)が発売された。そのとき、このアルバムについて解説された記事がネットにあって、本ブログに紹介させていただいた。
(本ブログ関連:”(資料)イ・ソンヒ「1集(REMASTERING ALBUM)」の紹介”)
(重複部分である第1集リマスター版の解説部分は上記リンク先を示してあるので、後述部分を次のように載せていただく。感謝)
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「8090熱風(80年代、90年代ブーム)」と共に「イ・ソンヒ再び聞くブーム」 - デビュー30年、イ・ソンヒのデビュー当時のレコードを再び聞き直す
改めて、「8090熱風」に加え、「イ・ソンヒの再リスニング」ブームである。
再び、歌謡界の原動力となっている、8090曲の単純な記憶の中の歌ではなく、
実際に、多くのオールドファンに思い出という新たな響きを満たしてくれている、
デビュー30年、しかし今も相変らず「少女」のような姿に透明な音色の、
そして、一層深くなった感性・・・イ・ソンヒは、ますます音楽愛好家の関心が高まる不思議な魅力の所有者だ。
特に、最近の世界的な傾向である、リマスタリング(Remastering)アルバムの発売ラッシュに合わせて、イ・ソンヒのデビュー当時のアルバム1、2、3集もすべてリマスタリング、再発売されるところになった。
このアルバムが発表された1980年代、わが国の大衆音楽界にも新しい変化を繰り返していた。
特に、当時の男女歌手の最高のスター、チョー・ヨンピルとイ・ソンヒによって、わが国大衆音楽の地図が「ポップの時代」から「歌謡の時代」に転換し始めたのがそれ。
最近のある調査で、40~50代中高年のための「土土歌(MBC「土曜日、土曜日は歌手だ」)」を作成するならば、最も見たい歌手Top3に、チョー・ヨンピル、イ・ムンセ、イ・ソンヒがそれぞれ選ばれた。
かように、彼らのその何がオールドファンを今でも熱狂させるのだろうか。
デビュー当時の、イ・ソンヒのアルバムを探して、再び聞いてみる。
(文、パク・ソンソ大衆音楽評論家、ジャーナリスト)
■ イ・ソンヒ1集、デビュー30周年を迎えるイ・ソンヒ 初のソロアルバム「あ!昔よ」
(略)本ブログ掲載の”(資料)イ・ソンヒ「1集(REMASTERING ALBUM)」の紹介”に相当します。
■ イ・ソンヒ2集 イ・ソンヒ再発見、10代若者のスターから万人の恋人に浮上する
「イ・ソンヒ2集」は、無限の変化を繰り返している、現在のイ・ソンヒに最も近いアバター(avatar)だ。現在のイ・ソンヒの歌には慣れ親しんでいるものの、初期の歌が多少馴染み薄い今の世代、すなわちニンジン(イ・ソンヒのファンクラブ)たちには、「デジャヴ(既視感、deja vu)」が強く感じられそうだ。様々なジャンルの歌でも、「絶対音感の所有者」という評価とともに、シンガーソングライターとしての第一歩を踏み出したアルバムだからである。
1984年、デビュー初年、MBC 10代歌手賞、新人賞、最高人気歌謡賞を総なめし、3冠王に上がったイ・ソンヒ、これに対し専属会社<地球(レコード)>は、「10代だけのスター」から「全国民的に愛を受ける歌手」にするために、ソン・ジュホ作曲の歌で満ちあふれた「1集」からの軌道を旋回、当時のヒットメーカー作家を大挙参加させて、二番目のレコード制作に入る。
「秋の風(갈바람)」(チョン・ウンイ作詞、ナム・グクイン作曲)、「ケンチャナ(괜찮아、大丈夫)」(パク・ゴンホ、イ・ボムヒ)、「貧しい恋人のために(가난한 연인을 위하여)」(イ・ギョンミ、イ・ヒョンソプ)、「ソウルの夜(서울의 밤)」(ハ・ジヨウン、イ・ホジュン)、「そうです、誤りは私にあります(그래요, 잘못은 내게 있어요)」(チュ・セホ、チョン・ギョンチョン)などをはじめとして、イ・ソンヒ本人作曲の「風の中で(바람 속에서)」まで。
「デビューから5ヶ月だけで、10代歌手賞を受賞するほどの大型歌手としての力量が十分だったんですよ。音感も非常に良かったし。そして、『江辺歌謡祭の1等』より、『歌謡界全体の1等』を作らなければならないという考えでヒットメーカーを動員、様々なジャンルで幅を広げましたよ。また、本人が直接作った曲はもちろん、(イ・ソンヒ)本人が歌いたいと持ってきた『後悔(후회)』まで多様に収録しました。」と、アルバムA&R(Artist&Repertoire)を務めたイム・ソクホ、当時文芸部長の言葉だ。このように幅広いジャンルを試みた「イ・ソンヒ再誕生プロジェクト」は、すぐに続く3集の収録曲「分かりたいです(알고 싶어요)」(ヤン・インジャ作詞、キム・ヒガプ作曲)などで絶頂に達する。
去る2012年、イ・ソンヒはある媒体とのインタビューでこのように明らかにした。 「これ(2012年)まで、音楽的関心や趣向がずっと変わってきましたよ。子供の頃は、音楽の海が無尽蔵なことをそこまで知らなかった。しかし、デビュー以来、私が手にしたものが全てではないということに気づいたでしょう。意地がちょっと強いけれど、心を開いて受け入れるのも分かります。他の人たちがこの音楽が好きだ、あなたのものにしてみろ・・・ そのように薦めれば、ためらわず受け入れました。」
作曲家なら誰も曲を与えたいこのシンデレラについて、「2集」参加の作家はこのように評価する。
「声において非常に原則的な歌手です。基本的な発声、正確な拍子はもちろん、感情を節制しながらも、音そのものを堅固に出す、きれいな声を持った歌手でしょう。そういう少女的感性を生かしたくて『そうです、誤りは私にあります』の歌詞を書きましたよ。」 - 作曲家チュ・セホ。
「歌詞と意を正確に伝達する優れた歌手です。歌詞の感情を適切に表現する点も高く評価したいです。」 - 作詞家イ・ギョンミ。
「音色自体に豊かな感性が含まれている不思議な魅力の所有者でしょう。中 - 低 - 高音域、どの音域でもブレのない歌唱力、そのような利点を生かしてあげたくて、『貧しい恋人のために』と『希望(소망)』を作りましたよ。」 - 作曲家イ・ヒョンソプ。
今から30年前の85年11月に発売された、このレコードジャケットとジャケットに入っているブロマイドも当時話題になった。俗称「おばさん(アジュンマ)パーマ」という、いわゆる「滝(폭포)パーマスタイル」で、<江辺歌謡祭>に初めて姿を現したイ・ソンヒが、いつのまにか10代の少女たちに「イ・ソンヒそっくり(따라하기)ブーム」を起こらせた、「トンボ眼鏡にカットヘヤのキャラクター」を存分に誇ったアルバムだからである。この写真は、現在のドキュメンタリー写真家キム・ヨンボムが当時ファッションとロマンのメッカであった梨大(梨花女子大)入口を巡って撮影したものである。
純粋さ、それ以上この歌に込められてまだドキドキがそのまま感じられる、イ・ソンヒだけのアナログ的感性、その深い響きがファンにどのような感動的に近付くかとても気になる。
■ イ・ソンヒ3集、最高のArtistが集まって作ったイ・ソンヒの力作、その美しいラブソング
新たに「8090熱風」と共に、「イ・ソンヒの再リスニング」ブームだ。耳を傾けるほど、清らかで透明な音色に盛り込められている感性の深さが違うためだ。再び歌謡界の原動力となっている8090曲の、単純な記憶の中の歌ではなく、実際に多くの人々にとって思い出となり、80年代と90年代をまた他の響きで満たしてくれている。
このアルバムが初めて発売された1986年11月、大衆音楽界も新しい変化を重ねていた。特に、当時の男女歌手最高のスター、チョー・ヨンピルとイ・ソンヒなどによって、韓国大衆音楽の支配権が「ポップの時代」から「歌謡の時代」に転換し始めたのがそれ。
「イ・ソンヒブーム」を起こしたこのアルバムは、当時の最高のアーティストたちが大挙参加した力作である。そのラインナップを見ると、「A&R(Artist&Repertoire)_イム・ソクホ/ Violin_キム・ドンソク/キム・ジョンサン、イ・グァンイル、チョン・ミョンジャ、キ・ムユソン、シン・ユミ/ Cello_クォン・スミ、ペク・ンオク/ Guitar_イ・ユシン、キム・グァンソク/ Keyboard&Synthesizer_キム・ヨンニョン、キム・ジョンテク/ Bass_イ・スヨン/ Drums_ペ・スヨン/指揮_オ・チス/ Recording&Mixing_イ・テギョン、チャン・インソク/ Cutting_チャン・ジョングァン/ Photo_ホ・ジョンテ/ Design_ファン・チョルジュン」。
「10代スター」から「万人の恋人」として位置づけになる2集に続き、3集も当時のヒットメーカーたちが大挙アルバムに参加した。作曲家キム・ヒガプ、ナム・ククイン、イ・ボムヒ、チェ・ジョンヒョクを始め、ロックスタイルの実験的な音楽を追求していたキム・ホンタク、ユン・フイジュンはもちろん、「大学歌謡祭」出身の大学生作曲家まで、例えば、プロからアマチュアまでの様々な音楽ジャンルが共存するアルバムなのである。
「Young(영)」、「涙(눈물)」に加え、イ・ソンヒ3集の中で最も注目された曲は、やはり「分かりたいです(알고 싶어요)」だ。今でも最もソンヒらしいという評価を受けるの歌でもある。
■ 名コンビ「ヤン・インジャとキム・ヒガプのカップル」が歌詞とメロディーでやりとりした世紀のラブレター、「分かりたいです」
▼先に発表した「Jへ(J에게)」と「あ!昔よ」がそうであったように、「分かりたいです」もイ・ソンヒにに来て新たに生まれた歌だ。この歌は、これより先に1978年、「秋の木々の間で(가을나무 사이로)」(キム・ヒガプ作詞・作曲、キム・イルウ*歌)というタイトルで、すでに発表された歌だ。題名と歌詞を変えて「分かりたいです」に再誕生させた作詞家ヤン・インジャさんに、当時の逸話を聞いてみた。
(*)「秋の木々の間で」を歌った歌手を、1984年にイ・スンジェ(이승재)と紹介する記述がある(チェ・ギュソン大衆文化評論家)。上記によれば、1978年発表とのことで更に以前になる。
(本ブログ関連:”分かりたいです”)
「1985年、仕事のためにキム・ヒガプ先生のお宅に行くことになりました。その日、音楽を一つ聞かせてくれましたが、『秋の木々の間で』という歌でしたね。メロディーが美しくて寂しい歌詞と合わないようだといったところ、それでは歌詞を新しく書いてみろとおっしゃったのです。それで歌詞を書こうと、あれこれと思って考えているちょうど、ラジオでエルヴィス・プレスリーの「Are You Lonesome Tonight」が流れて出てきました。注意深く聞いてみたら、歌詞が最初から最後まで、質問形式ですよね。だから私も質問だけの歌詞を一度作ってみよう、と思って作った歌です。」
しかし、しばらくの間、「分かりたいです」の歌詞は、キム・ヒガプ先生の引き出しの中でただ眠っていた。 「わけもなく一人で恥ずかしかったんですって。本当にまれことでしょうか? そうなのかも知らずに、私は、なぜ吹き込まないかとずっと尋ねたところ、そのたびに『しなければならないですね・・・』といって言葉を濁したんですね。」
▼歌詞を歌詞以上に考えたためなのか、当時の状況をキム・ヒガプ先生に直接聞いてみた。
「歌詞を受けてみると、率直な感情のままに直接的話法で表現しましたよ。なぜか瞬間恥ずかしい思いをした。何か一言いわなければならないではないか、という考えにぎこちない気分にもなって・・・だから、慌てて引き出しの中のうち閉じ込めて置きましたよ。そうしている間、イ・ソンヒの新しいアルバムに入れる曲を頼まれ、ヤン・インジャさんに歌を作ろうといったところ、「分かりたいです」こそイ・ソンヒにぴったり、なのに何をまたか・・・ってね。そして、しぶしぶ持っていった楽譜でした。最初はアルバムの裏に、それも三番目に挟んで入れたが皆がこの曲が良いということでしょう。いやはや・・・」
歌詞が、歌の理性ならばメロディーは歌の感性だ。その感性と理性に、イ・ソンヒのいきいきとして暗い影のない感情がさらに作用して、この歌は、発表直後の1987年当時、KBS「歌謡トップ10」の5週連続1位を取ってゴールデンカップを占めており、「You」、「闇は晴れて(어둠은 걷히고)」、「清らかな愛(청아한 사랑)」などと一緒に、イ・ソンヒに1987年ゴールデン・ディスク賞を与えた。
瞬く間に「万人の恋歌」に位置したこの歌(「分かりたいです」)は、その後、おしどり夫婦であり名コンビの「キム・ヒガプ - ヤン・インジャカップル」の結婚式の祝歌でも歌われた。新郎側の祝歌はブルーベルジュの「私の人生後悔はありませんが(내 인생 후회는 없지만)」、そして新婦側の祝歌がまさにこの歌「分かりたいです」であった。祝歌は、イ・ソンヒが直接歌った。
「イ・ソンヒを念頭に置いた歌詞とメロディー・・・イ・ソンヒは、私が望んだ私の姿の完成でした。歌が良いだけ考えも正しくて尊敬すべき部分が多い歌手ですよ。」ヤン・インジャさんのイ・ソンヒの評価がそうであるよう結論的に、この歌は、歌詞とメロディーでやりとりした「世紀のラブレター」であり、両方の結婚式場で祝歌に歌われた「愛のセレナーデ」になったわけである。一方、裏面のタイトル曲「遅れました(늦었어요)」は、ヤン・インジャさんが執筆したラジオドラマ「朝霧(아침안개)」の主題歌だ。
パワフルなロックスタイルの唱法がそっくりそのまま盛られている曲「もう離れなくちゃ(이제는 떠나야지)」と「暗闇を経て(어둠은 거치고)」もやはり、イ・ソンヒのもう一つの魅力が存分に引き立つ曲だ。
「歌唱力とフィーリング、そしてあや(彩)という三拍子を兼ね備えた歌手ですよ。特にイ・ソンヒのパワフルな歌唱力を生かすために、ソウル・シンガーのアレサ・フランクリン(Aretha Franklin)の歌を集中して聞きました。もちろん、イ・ソンヒはその時も見事だったが、時間が経つにつれ、より良い歌手になるだろう、こういう考えたこと思い出します。」 -「もう離れなくちゃ」の作曲家キム・ホンタク(He5、He6のリーダー)の言葉だ。
また、「その表情の意味(그 표정의 의미)」と「別れは本当に難しいです(이별은 정말로 어려워요)」は、1980年の「大学歌謡祭」に「厄払い(푸닥거리)」で参加した「ジプシー」のメンバーのヤン・シチュンが作った曲である。そのように、このアルバムを通じて当時の最高のヒットメーカーと、純粋な大学生作曲家たちが一緒に参加し、イ・ソンヒの隠れた魅力を多様に表出させている。
トップ・アーティストたちが参加したこのアルバムがリマスター作業を経て、原音そのままの音が蘇ったことも意味が大きい。まるで虫眼鏡で見るように声が、そして歌うシーンが歳月の厚さを退けて、まるで目の前に見えるようだ。アナログ的感性をそっくりそのまま再現した、30年前のこの曲は、母と娘の世代を分ける境界線ではなく、一緒に聞いても良い曲に生まれ変わるだろう。
デビュー30周年を経た今もまだ「少女」のような姿にきれいな透明な音色、そしてさらに深くなった感性・・・ますます関心が高まる不思議な魅力の持ち主、イ・ソンヒ。
「思い出はすべてを記憶できるが、記憶は全て思い出しきれない・・・」とか。しかし、長年の記憶の中で蘇る深い響き、鮮やかな現場の音を通じて、単に記憶される歌ではなく、多くの人々に、より大切な思い出としての地位になることを期待してみる。NM(NewsMaker)
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(付記)
イ・ソンヒの1集リマスタリングアルバムを手にしていた・・・ところ、なんと2集、3集もリマスタリングしているというではないか。ネットで調べると確かにある・・・また、新宿に行かねばならない。
(本ブログ関連:”(資料)イ・ソンヒ「1集(REMASTERING ALBUM)」の紹介”)
大衆音楽評論家・ジャーナリストのパク・ソンソ氏の評論で、リマスター版登場の意義を、彼女の衝撃的なデビューとその才能、国民からの支持について、振り返る意味で記されたものだ。
イ・ソンヒの初期アルバムが、続けてリマスタリングされている2集、3集についても、以下の記事のようにパク・ソンソ氏の評論がなされている。イ・ソンヒの2集以降、デビュー当時の活躍も含めて論評が、NewsMakerの記事、「【パク・ソンソ評論】現 大韓民国 最高のディーヴァ(歌姫)、イ・ソンヒを再び聞く」(3/5)として掲載されている。
特に、イ・ソンヒ最大級のヒット曲である「分かりたいです」登場に直接関わった作詞家、作曲家とのインタビューもあり大変興味深い記事になっている。
イ・ソンヒの初期アルバムが、続けてリマスタリングされている2集、3集についても、以下の記事のようにパク・ソンソ氏の評論がなされている。イ・ソンヒの2集以降、デビュー当時の活躍も含めて論評が、NewsMakerの記事、「【パク・ソンソ評論】現 大韓民国 最高のディーヴァ(歌姫)、イ・ソンヒを再び聞く」(3/5)として掲載されている。
特に、イ・ソンヒ最大級のヒット曲である「分かりたいです」登場に直接関わった作詞家、作曲家とのインタビューもあり大変興味深い記事になっている。
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「8090熱風(80年代、90年代ブーム)」と共に「イ・ソンヒ再び聞くブーム」 - デビュー30年、イ・ソンヒのデビュー当時のレコードを再び聞き直す
改めて、「8090熱風」に加え、「イ・ソンヒの再リスニング」ブームである。
再び、歌謡界の原動力となっている、8090曲の単純な記憶の中の歌ではなく、
実際に、多くのオールドファンに思い出という新たな響きを満たしてくれている、
デビュー30年、しかし今も相変らず「少女」のような姿に透明な音色の、
そして、一層深くなった感性・・・イ・ソンヒは、ますます音楽愛好家の関心が高まる不思議な魅力の所有者だ。
特に、最近の世界的な傾向である、リマスタリング(Remastering)アルバムの発売ラッシュに合わせて、イ・ソンヒのデビュー当時のアルバム1、2、3集もすべてリマスタリング、再発売されるところになった。
このアルバムが発表された1980年代、わが国の大衆音楽界にも新しい変化を繰り返していた。
特に、当時の男女歌手の最高のスター、チョー・ヨンピルとイ・ソンヒによって、わが国大衆音楽の地図が「ポップの時代」から「歌謡の時代」に転換し始めたのがそれ。
最近のある調査で、40~50代中高年のための「土土歌(MBC「土曜日、土曜日は歌手だ」)」を作成するならば、最も見たい歌手Top3に、チョー・ヨンピル、イ・ムンセ、イ・ソンヒがそれぞれ選ばれた。
かように、彼らのその何がオールドファンを今でも熱狂させるのだろうか。
デビュー当時の、イ・ソンヒのアルバムを探して、再び聞いてみる。
(文、パク・ソンソ大衆音楽評論家、ジャーナリスト)
■ イ・ソンヒ1集、デビュー30周年を迎えるイ・ソンヒ 初のソロアルバム「あ!昔よ」
(略)本ブログ掲載の”(資料)イ・ソンヒ「1集(REMASTERING ALBUM)」の紹介”に相当します。
■ イ・ソンヒ2集 イ・ソンヒ再発見、10代若者のスターから万人の恋人に浮上する
「イ・ソンヒ2集」は、無限の変化を繰り返している、現在のイ・ソンヒに最も近いアバター(avatar)だ。現在のイ・ソンヒの歌には慣れ親しんでいるものの、初期の歌が多少馴染み薄い今の世代、すなわちニンジン(イ・ソンヒのファンクラブ)たちには、「デジャヴ(既視感、deja vu)」が強く感じられそうだ。様々なジャンルの歌でも、「絶対音感の所有者」という評価とともに、シンガーソングライターとしての第一歩を踏み出したアルバムだからである。
1984年、デビュー初年、MBC 10代歌手賞、新人賞、最高人気歌謡賞を総なめし、3冠王に上がったイ・ソンヒ、これに対し専属会社<地球(レコード)>は、「10代だけのスター」から「全国民的に愛を受ける歌手」にするために、ソン・ジュホ作曲の歌で満ちあふれた「1集」からの軌道を旋回、当時のヒットメーカー作家を大挙参加させて、二番目のレコード制作に入る。
「秋の風(갈바람)」(チョン・ウンイ作詞、ナム・グクイン作曲)、「ケンチャナ(괜찮아、大丈夫)」(パク・ゴンホ、イ・ボムヒ)、「貧しい恋人のために(가난한 연인을 위하여)」(イ・ギョンミ、イ・ヒョンソプ)、「ソウルの夜(서울의 밤)」(ハ・ジヨウン、イ・ホジュン)、「そうです、誤りは私にあります(그래요, 잘못은 내게 있어요)」(チュ・セホ、チョン・ギョンチョン)などをはじめとして、イ・ソンヒ本人作曲の「風の中で(바람 속에서)」まで。
「デビューから5ヶ月だけで、10代歌手賞を受賞するほどの大型歌手としての力量が十分だったんですよ。音感も非常に良かったし。そして、『江辺歌謡祭の1等』より、『歌謡界全体の1等』を作らなければならないという考えでヒットメーカーを動員、様々なジャンルで幅を広げましたよ。また、本人が直接作った曲はもちろん、(イ・ソンヒ)本人が歌いたいと持ってきた『後悔(후회)』まで多様に収録しました。」と、アルバムA&R(Artist&Repertoire)を務めたイム・ソクホ、当時文芸部長の言葉だ。このように幅広いジャンルを試みた「イ・ソンヒ再誕生プロジェクト」は、すぐに続く3集の収録曲「分かりたいです(알고 싶어요)」(ヤン・インジャ作詞、キム・ヒガプ作曲)などで絶頂に達する。
去る2012年、イ・ソンヒはある媒体とのインタビューでこのように明らかにした。 「これ(2012年)まで、音楽的関心や趣向がずっと変わってきましたよ。子供の頃は、音楽の海が無尽蔵なことをそこまで知らなかった。しかし、デビュー以来、私が手にしたものが全てではないということに気づいたでしょう。意地がちょっと強いけれど、心を開いて受け入れるのも分かります。他の人たちがこの音楽が好きだ、あなたのものにしてみろ・・・ そのように薦めれば、ためらわず受け入れました。」
作曲家なら誰も曲を与えたいこのシンデレラについて、「2集」参加の作家はこのように評価する。
「声において非常に原則的な歌手です。基本的な発声、正確な拍子はもちろん、感情を節制しながらも、音そのものを堅固に出す、きれいな声を持った歌手でしょう。そういう少女的感性を生かしたくて『そうです、誤りは私にあります』の歌詞を書きましたよ。」 - 作曲家チュ・セホ。
「歌詞と意を正確に伝達する優れた歌手です。歌詞の感情を適切に表現する点も高く評価したいです。」 - 作詞家イ・ギョンミ。
「音色自体に豊かな感性が含まれている不思議な魅力の所有者でしょう。中 - 低 - 高音域、どの音域でもブレのない歌唱力、そのような利点を生かしてあげたくて、『貧しい恋人のために』と『希望(소망)』を作りましたよ。」 - 作曲家イ・ヒョンソプ。
今から30年前の85年11月に発売された、このレコードジャケットとジャケットに入っているブロマイドも当時話題になった。俗称「おばさん(アジュンマ)パーマ」という、いわゆる「滝(폭포)パーマスタイル」で、<江辺歌謡祭>に初めて姿を現したイ・ソンヒが、いつのまにか10代の少女たちに「イ・ソンヒそっくり(따라하기)ブーム」を起こらせた、「トンボ眼鏡にカットヘヤのキャラクター」を存分に誇ったアルバムだからである。この写真は、現在のドキュメンタリー写真家キム・ヨンボムが当時ファッションとロマンのメッカであった梨大(梨花女子大)入口を巡って撮影したものである。
純粋さ、それ以上この歌に込められてまだドキドキがそのまま感じられる、イ・ソンヒだけのアナログ的感性、その深い響きがファンにどのような感動的に近付くかとても気になる。
■ イ・ソンヒ3集、最高のArtistが集まって作ったイ・ソンヒの力作、その美しいラブソング
新たに「8090熱風」と共に、「イ・ソンヒの再リスニング」ブームだ。耳を傾けるほど、清らかで透明な音色に盛り込められている感性の深さが違うためだ。再び歌謡界の原動力となっている8090曲の、単純な記憶の中の歌ではなく、実際に多くの人々にとって思い出となり、80年代と90年代をまた他の響きで満たしてくれている。
このアルバムが初めて発売された1986年11月、大衆音楽界も新しい変化を重ねていた。特に、当時の男女歌手最高のスター、チョー・ヨンピルとイ・ソンヒなどによって、韓国大衆音楽の支配権が「ポップの時代」から「歌謡の時代」に転換し始めたのがそれ。
「イ・ソンヒブーム」を起こしたこのアルバムは、当時の最高のアーティストたちが大挙参加した力作である。そのラインナップを見ると、「A&R(Artist&Repertoire)_イム・ソクホ/ Violin_キム・ドンソク/キム・ジョンサン、イ・グァンイル、チョン・ミョンジャ、キ・ムユソン、シン・ユミ/ Cello_クォン・スミ、ペク・ンオク/ Guitar_イ・ユシン、キム・グァンソク/ Keyboard&Synthesizer_キム・ヨンニョン、キム・ジョンテク/ Bass_イ・スヨン/ Drums_ペ・スヨン/指揮_オ・チス/ Recording&Mixing_イ・テギョン、チャン・インソク/ Cutting_チャン・ジョングァン/ Photo_ホ・ジョンテ/ Design_ファン・チョルジュン」。
「10代スター」から「万人の恋人」として位置づけになる2集に続き、3集も当時のヒットメーカーたちが大挙アルバムに参加した。作曲家キム・ヒガプ、ナム・ククイン、イ・ボムヒ、チェ・ジョンヒョクを始め、ロックスタイルの実験的な音楽を追求していたキム・ホンタク、ユン・フイジュンはもちろん、「大学歌謡祭」出身の大学生作曲家まで、例えば、プロからアマチュアまでの様々な音楽ジャンルが共存するアルバムなのである。
「Young(영)」、「涙(눈물)」に加え、イ・ソンヒ3集の中で最も注目された曲は、やはり「分かりたいです(알고 싶어요)」だ。今でも最もソンヒらしいという評価を受けるの歌でもある。
■ 名コンビ「ヤン・インジャとキム・ヒガプのカップル」が歌詞とメロディーでやりとりした世紀のラブレター、「分かりたいです」
▼先に発表した「Jへ(J에게)」と「あ!昔よ」がそうであったように、「分かりたいです」もイ・ソンヒにに来て新たに生まれた歌だ。この歌は、これより先に1978年、「秋の木々の間で(가을나무 사이로)」(キム・ヒガプ作詞・作曲、キム・イルウ*歌)というタイトルで、すでに発表された歌だ。題名と歌詞を変えて「分かりたいです」に再誕生させた作詞家ヤン・インジャさんに、当時の逸話を聞いてみた。
(*)「秋の木々の間で」を歌った歌手を、1984年にイ・スンジェ(이승재)と紹介する記述がある(チェ・ギュソン大衆文化評論家)。上記によれば、1978年発表とのことで更に以前になる。
(本ブログ関連:”分かりたいです”)
「1985年、仕事のためにキム・ヒガプ先生のお宅に行くことになりました。その日、音楽を一つ聞かせてくれましたが、『秋の木々の間で』という歌でしたね。メロディーが美しくて寂しい歌詞と合わないようだといったところ、それでは歌詞を新しく書いてみろとおっしゃったのです。それで歌詞を書こうと、あれこれと思って考えているちょうど、ラジオでエルヴィス・プレスリーの「Are You Lonesome Tonight」が流れて出てきました。注意深く聞いてみたら、歌詞が最初から最後まで、質問形式ですよね。だから私も質問だけの歌詞を一度作ってみよう、と思って作った歌です。」
しかし、しばらくの間、「分かりたいです」の歌詞は、キム・ヒガプ先生の引き出しの中でただ眠っていた。 「わけもなく一人で恥ずかしかったんですって。本当にまれことでしょうか? そうなのかも知らずに、私は、なぜ吹き込まないかとずっと尋ねたところ、そのたびに『しなければならないですね・・・』といって言葉を濁したんですね。」
▼歌詞を歌詞以上に考えたためなのか、当時の状況をキム・ヒガプ先生に直接聞いてみた。
「歌詞を受けてみると、率直な感情のままに直接的話法で表現しましたよ。なぜか瞬間恥ずかしい思いをした。何か一言いわなければならないではないか、という考えにぎこちない気分にもなって・・・だから、慌てて引き出しの中のうち閉じ込めて置きましたよ。そうしている間、イ・ソンヒの新しいアルバムに入れる曲を頼まれ、ヤン・インジャさんに歌を作ろうといったところ、「分かりたいです」こそイ・ソンヒにぴったり、なのに何をまたか・・・ってね。そして、しぶしぶ持っていった楽譜でした。最初はアルバムの裏に、それも三番目に挟んで入れたが皆がこの曲が良いということでしょう。いやはや・・・」
歌詞が、歌の理性ならばメロディーは歌の感性だ。その感性と理性に、イ・ソンヒのいきいきとして暗い影のない感情がさらに作用して、この歌は、発表直後の1987年当時、KBS「歌謡トップ10」の5週連続1位を取ってゴールデンカップを占めており、「You」、「闇は晴れて(어둠은 걷히고)」、「清らかな愛(청아한 사랑)」などと一緒に、イ・ソンヒに1987年ゴールデン・ディスク賞を与えた。
瞬く間に「万人の恋歌」に位置したこの歌(「分かりたいです」)は、その後、おしどり夫婦であり名コンビの「キム・ヒガプ - ヤン・インジャカップル」の結婚式の祝歌でも歌われた。新郎側の祝歌はブルーベルジュの「私の人生後悔はありませんが(내 인생 후회는 없지만)」、そして新婦側の祝歌がまさにこの歌「分かりたいです」であった。祝歌は、イ・ソンヒが直接歌った。
「イ・ソンヒを念頭に置いた歌詞とメロディー・・・イ・ソンヒは、私が望んだ私の姿の完成でした。歌が良いだけ考えも正しくて尊敬すべき部分が多い歌手ですよ。」ヤン・インジャさんのイ・ソンヒの評価がそうであるよう結論的に、この歌は、歌詞とメロディーでやりとりした「世紀のラブレター」であり、両方の結婚式場で祝歌に歌われた「愛のセレナーデ」になったわけである。一方、裏面のタイトル曲「遅れました(늦었어요)」は、ヤン・インジャさんが執筆したラジオドラマ「朝霧(아침안개)」の主題歌だ。
パワフルなロックスタイルの唱法がそっくりそのまま盛られている曲「もう離れなくちゃ(이제는 떠나야지)」と「暗闇を経て(어둠은 거치고)」もやはり、イ・ソンヒのもう一つの魅力が存分に引き立つ曲だ。
「歌唱力とフィーリング、そしてあや(彩)という三拍子を兼ね備えた歌手ですよ。特にイ・ソンヒのパワフルな歌唱力を生かすために、ソウル・シンガーのアレサ・フランクリン(Aretha Franklin)の歌を集中して聞きました。もちろん、イ・ソンヒはその時も見事だったが、時間が経つにつれ、より良い歌手になるだろう、こういう考えたこと思い出します。」 -「もう離れなくちゃ」の作曲家キム・ホンタク(He5、He6のリーダー)の言葉だ。
また、「その表情の意味(그 표정의 의미)」と「別れは本当に難しいです(이별은 정말로 어려워요)」は、1980年の「大学歌謡祭」に「厄払い(푸닥거리)」で参加した「ジプシー」のメンバーのヤン・シチュンが作った曲である。そのように、このアルバムを通じて当時の最高のヒットメーカーと、純粋な大学生作曲家たちが一緒に参加し、イ・ソンヒの隠れた魅力を多様に表出させている。
トップ・アーティストたちが参加したこのアルバムがリマスター作業を経て、原音そのままの音が蘇ったことも意味が大きい。まるで虫眼鏡で見るように声が、そして歌うシーンが歳月の厚さを退けて、まるで目の前に見えるようだ。アナログ的感性をそっくりそのまま再現した、30年前のこの曲は、母と娘の世代を分ける境界線ではなく、一緒に聞いても良い曲に生まれ変わるだろう。
デビュー30周年を経た今もまだ「少女」のような姿にきれいな透明な音色、そしてさらに深くなった感性・・・ますます関心が高まる不思議な魅力の持ち主、イ・ソンヒ。
「思い出はすべてを記憶できるが、記憶は全て思い出しきれない・・・」とか。しかし、長年の記憶の中で蘇る深い響き、鮮やかな現場の音を通じて、単に記憶される歌ではなく、多くの人々に、より大切な思い出としての地位になることを期待してみる。NM(NewsMaker)
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(付記)
イ・ソンヒの1集リマスタリングアルバムを手にしていた・・・ところ、なんと2集、3集もリマスタリングしているというではないか。ネットで調べると確かにある・・・また、新宿に行かねばならない。
2015年1月2日金曜日
イ・ソンヒの「Jへ」
高校時代、イ・ソンヒは、通っていた音楽室であわや消え去ろうとしていた譜面を作曲家から譲り受けた。後に20歳となる大学時代の夏、「江辺歌謡祭」(1984年)に出場してその曲を歌い大賞受賞した。「Jへ(J에게)」である。女学生たちに圧倒的な支持を受けることになる。
(本ブログ関連:”京郷新聞”)
1980年代当時の空気を知る、ソウルにいた日本人留学生の思い出に、なぜかカセットテープの彼女の歌を求めたという記述がある。考えてみれば、LPプレーヤーを持って留学するような時代ではなかった。
江辺歌謡祭には「4幕5場」というデュエットでステージに立ったが、髪型(チリチリパーマ)、丸縁のメガネスタイル、スカート(ベトナムスカート)というファッションのどれをとってもユニークだった。後の彼女は、コンサートでバックにその映像を映すことをためらわない。次のYoutube映像(デビュー20年のコンサート、2004年)で見ることができる。清清しいほどだ。
「Jへ」
J 撫でる風に、J あなた想えば
今日も静かに、あなた 偲ぶわ
J きのうの夢に、J 出会った面影
わたしの胸に、染まっているのよ
J きれいな夏の日、遠く消えたとしても
J わたしの愛は、今も変わらない
J あなたを永久(とわ)に
J あなたを愛して
J ともに歩いた、J 思い出の道
わたしは今宵も、寂しく歩くのね
寂しく歩くのね
(Youtubeに登録のjustine kellyに感謝)
(本ブログ関連:”京郷新聞”)
1980年代当時の空気を知る、ソウルにいた日本人留学生の思い出に、なぜかカセットテープの彼女の歌を求めたという記述がある。考えてみれば、LPプレーヤーを持って留学するような時代ではなかった。
江辺歌謡祭には「4幕5場」というデュエットでステージに立ったが、髪型(チリチリパーマ)、丸縁のメガネスタイル、スカート(ベトナムスカート)というファッションのどれをとってもユニークだった。後の彼女は、コンサートでバックにその映像を映すことをためらわない。次のYoutube映像(デビュー20年のコンサート、2004年)で見ることができる。清清しいほどだ。
「Jへ」
J 撫でる風に、J あなた想えば
今日も静かに、あなた 偲ぶわ
J きのうの夢に、J 出会った面影
わたしの胸に、染まっているのよ
J きれいな夏の日、遠く消えたとしても
J わたしの愛は、今も変わらない
J あなたを永久(とわ)に
J あなたを愛して
J ともに歩いた、J 思い出の道
わたしは今宵も、寂しく歩くのね
寂しく歩くのね
(Youtubeに登録のjustine kellyに感謝)
2014年8月29日金曜日
(資料)京郷新聞 1984年「江辺歌謡祭」でイ・ソンヒが大賞受賞した記事
イ・ソンヒが、1984年に「Jへ」で大賞受賞したMBC第5回「江辺歌謡祭」(7月29日)の結果について、「京郷新聞」(7月31日)が報じた記事「若い熱気むんむん『江辺歌謡祭』 - MBC 創作曲・進行手腕目立つ」(【聖】記者)を、NAVER提供の「デジタルニュースアーカイブ」で見ることができる。
7月29日(日)に開催された歌謡祭の結果は、月曜日が新聞休刊だったため、7月31日(火)に掲載されている。
記事の最後に、「李嬢は仏教界に従事する李鐘圭氏(50)の長女。」と記されている。イ・ソンヒが登場した最初から、父親と仏教との関係について知られていたことになる。
(本ブログ関連:”イ・ソンヒと江辺歌謡祭新聞記事”、”NAVERデジタルニュースアーカイブ”)
当時の紙面について
① 使用の文字、記述
・ 括弧書きを” ”ではなく、「 」を使用(横書・縦書き同様)
・ 名前に漢字を使用(例:李文世=イ・ムンセ、이문세)
・ 敬称に「嬢」、「君」を使用
・ 句点をピリオドではなく、「。」を使用
② 歌謡界への健全化の意向を反映して、「健全さ」を強調
-----------------------------------------------------------
先日29日、京畿道加平郡南怡島にて開かれた「84MBC江辺歌謡祭」決戦大会は、3,000余名の傍聴客が集まった中、決戦進出の10チームが出場、熱烈な競り合いを広げた。MBCは、若い大学生たちの好評に支えられて、第5回を迎えたこのたびの江辺歌謡祭の決戦実況をTVおよびラジオで生中継、夏夜の舞台をなお一層熱気でいっぱい満たした。
キャンパスのアマチュア歌手たちの登用門である「84MBC江辺歌謡祭」出品作は、大賞の栄誉を抱いた「Jへ」を始め、若者たちの切ない恋と友情を描いた曲が大部分で、エレキギターを動員した激しい曲よりは穏やかで情感ある曲が主流をなした。
文化放送がキャンパス内の隠れた人材を発掘のため設けたこのたびの行事は、参加曲がみな創作曲という点で、放送界には意味あることとして受け取っている。
一方、このたびの行事は進行を引き受けた、李文世・吉恩貞2人の軟な話術が舞台ならびに放送席の雰囲気を健全に誘導し一層引き立つ舞台だった。李君は夏キャンプで広がりやすい低俗な揶揄と怪声を笑(え)みで誘導する老練味を見せたし、先の4月、歌謡界にデビュー、初めての舞台進行を引き受けた吉嬢は、経験がない学生たちがまごつかないように安定感ある態度で司会に臨んだ。
大賞の栄誉を抱いた混声デュエット「4幕5場」のメンバー、李仙姫嬢(18・仁川専門大環境管理科 1年)と林成均君(22・〃機械科 2年)は、思いがけない喜びに返って面食らった表情。
仁川専門大の音楽サークルである「4幕5場」メンバーの二人は、先春校内のギター発表会で息を合わせた後、ずっとデュエットで技量を磨いてきたと。「今、歌手としての基盤が固まったようです。趣味だけでした音楽を、今からは本格的に始める考えです」李嬢は、先輩の紹介で高校時代に歌手の張旭朝の作曲事務所(室)で、歌の練習をした隠れた経歴者。
「受賞曲もチャン・ウクチョ氏の事務所で会った先輩からもらいました」李嬢と林君は、参加曲を選定した後、約2ヶ月間、暇があるたびに息を合わせて来たと述べた。
「キャンパスソングは、大学のサークル活動の中でも人気がある課外活動ですよ」淡々とした表情の林君は、李嬢とは別に、将来の歌手活動は「考えて見るつもり」と、慎重な態度。
このたびの歌謡祭で、李嬢は高音の処理に巧みで(熟練している)、飾り気のない唱法で人気を集め、林君は豊かな低音で和音を合わせ拍手を受けた。李嬢は仏教界に従事する李鐘圭氏(50)の長女。
林君は公務員である林炳業氏(52)の二男一女の末っ子である。
7月29日(日)に開催された歌謡祭の結果は、月曜日が新聞休刊だったため、7月31日(火)に掲載されている。
記事の最後に、「李嬢は仏教界に従事する李鐘圭氏(50)の長女。」と記されている。イ・ソンヒが登場した最初から、父親と仏教との関係について知られていたことになる。
(本ブログ関連:”イ・ソンヒと江辺歌謡祭新聞記事”、”NAVERデジタルニュースアーカイブ”)
当時の紙面について
① 使用の文字、記述
・ 括弧書きを” ”ではなく、「 」を使用(横書・縦書き同様)
・ 名前に漢字を使用(例:李文世=イ・ムンセ、이문세)
・ 敬称に「嬢」、「君」を使用
・ 句点をピリオドではなく、「。」を使用
② 歌謡界への健全化の意向を反映して、「健全さ」を強調
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先日29日、京畿道加平郡南怡島にて開かれた「84MBC江辺歌謡祭」決戦大会は、3,000余名の傍聴客が集まった中、決戦進出の10チームが出場、熱烈な競り合いを広げた。MBCは、若い大学生たちの好評に支えられて、第5回を迎えたこのたびの江辺歌謡祭の決戦実況をTVおよびラジオで生中継、夏夜の舞台をなお一層熱気でいっぱい満たした。
キャンパスのアマチュア歌手たちの登用門である「84MBC江辺歌謡祭」出品作は、大賞の栄誉を抱いた「Jへ」を始め、若者たちの切ない恋と友情を描いた曲が大部分で、エレキギターを動員した激しい曲よりは穏やかで情感ある曲が主流をなした。
文化放送がキャンパス内の隠れた人材を発掘のため設けたこのたびの行事は、参加曲がみな創作曲という点で、放送界には意味あることとして受け取っている。
一方、このたびの行事は進行を引き受けた、李文世・吉恩貞2人の軟な話術が舞台ならびに放送席の雰囲気を健全に誘導し一層引き立つ舞台だった。李君は夏キャンプで広がりやすい低俗な揶揄と怪声を笑(え)みで誘導する老練味を見せたし、先の4月、歌謡界にデビュー、初めての舞台進行を引き受けた吉嬢は、経験がない学生たちがまごつかないように安定感ある態度で司会に臨んだ。
大賞の栄誉を抱いた混声デュエット「4幕5場」のメンバー、李仙姫嬢(18・仁川専門大環境管理科 1年)と林成均君(22・〃機械科 2年)は、思いがけない喜びに返って面食らった表情。
仁川専門大の音楽サークルである「4幕5場」メンバーの二人は、先春校内のギター発表会で息を合わせた後、ずっとデュエットで技量を磨いてきたと。「今、歌手としての基盤が固まったようです。趣味だけでした音楽を、今からは本格的に始める考えです」李嬢は、先輩の紹介で高校時代に歌手の張旭朝の作曲事務所(室)で、歌の練習をした隠れた経歴者。
「受賞曲もチャン・ウクチョ氏の事務所で会った先輩からもらいました」李嬢と林君は、参加曲を選定した後、約2ヶ月間、暇があるたびに息を合わせて来たと述べた。
「キャンパスソングは、大学のサークル活動の中でも人気がある課外活動ですよ」淡々とした表情の林君は、李嬢とは別に、将来の歌手活動は「考えて見るつもり」と、慎重な態度。
このたびの歌謡祭で、李嬢は高音の処理に巧みで(熟練している)、飾り気のない唱法で人気を集め、林君は豊かな低音で和音を合わせ拍手を受けた。李嬢は仏教界に従事する李鐘圭氏(50)の長女。
林君は公務員である林炳業氏(52)の二男一女の末っ子である。
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2014年7月29日火曜日
「江辺歌謡祭」デビュー以来30年
今日は、イ・ソンヒが音楽祭にデビューして、ちょうど30年目にあたる。
1984年7月29日に、イ・ソンヒ(1964年12月14日【旧暦11月11】~)が(満)19歳のとき、第5回MBC「江辺歌謡祭(강변가요제)」に、仁川専門大学のサークル「4幕5場」を代表して、イム・ソンギュン(임성균)とのデュエットで「Jへ(J에게)」(作詞作曲イ・セゴン)を歌い大賞受賞した。これを機会に、イ・ソンヒはソロとしてデビュー、翌1985年に音楽界へ躍進、地球レコードよりアルバム第1集を発表する。
(本ブログ関連:”江辺歌謡祭”)
(Youtubeに登録の010tmehakに感謝)
江辺歌謡祭から、以来30年を記念して、今年4月にソウルの世宗文化会館大劇場で「歌うイ・ソンヒ」コンサートを開催、その後、全国ツアーを展開している。
・ソウル04.18-20: 「世宗文化会館」 ★4.19レポート
・大邱05.10-11: 「大邱エックス5階コンベンションホール」
・蔚山05.24-25: 「蔚山東川体育館」
・光州06.07-08: 「金大中コンベンションセンター」
・城南06.14-15: 「城南アートセンターオペラハウス」
・釜山06.28-29: 「KBSホール」
・富川07.12-13: 「富川室内体育館」
・全州08.30-31: 「韓国ソリ文化の殿堂 モアク堂」
・大田10.04-05: 「忠南大学正心華国際文化会館正心華ホール」
(本ブログ関連:”30周年”)
1984年7月29日に、イ・ソンヒ(1964年12月14日【旧暦11月11】~)が(満)19歳のとき、第5回MBC「江辺歌謡祭(강변가요제)」に、仁川専門大学のサークル「4幕5場」を代表して、イム・ソンギュン(임성균)とのデュエットで「Jへ(J에게)」(作詞作曲イ・セゴン)を歌い大賞受賞した。これを機会に、イ・ソンヒはソロとしてデビュー、翌1985年に音楽界へ躍進、地球レコードよりアルバム第1集を発表する。
(本ブログ関連:”江辺歌謡祭”)
(Youtubeに登録の010tmehakに感謝)
江辺歌謡祭から、以来30年を記念して、今年4月にソウルの世宗文化会館大劇場で「歌うイ・ソンヒ」コンサートを開催、その後、全国ツアーを展開している。
・ソウル04.18-20: 「世宗文化会館」 ★4.19レポート
・大邱05.10-11: 「大邱エックス5階コンベンションホール」
・蔚山05.24-25: 「蔚山東川体育館」
・光州06.07-08: 「金大中コンベンションセンター」
・城南06.14-15: 「城南アートセンターオペラハウス」
・釜山06.28-29: 「KBSホール」
・富川07.12-13: 「富川室内体育館」
・全州08.30-31: 「韓国ソリ文化の殿堂 モアク堂」
・大田10.04-05: 「忠南大学正心華国際文化会館正心華ホール」
(本ブログ関連:”30周年”)
2014年7月1日火曜日
イ・ソンヒ全州コンサート(8/30、31)
イ・ソンヒのデビュー30周年記念コンサートは、4月にソウルを起点として、現在全国ツアーを次のように展開している。今回、全羅北道全州市「韓国ソリ文化の殿堂」でのコンサートが追加されたようだ。(インターパーク)
2014年デビュー30周年記念コンサート「歌う イ・ソンヒ」
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・ソウル: 4月18日-20日、「世宗文化会館」 ★4月19日レポート
・大邱: 5月10日-11日、「大邱エックス5階コンベンションホール」
・蔚山: 5月24日-25日、「蔚山東川体育館」
・光州: 6月07日-08日、「金大中コンベンションセンター」
・城南: 6月14日-15日、「城南アートセンターオペラハウス」
・釜山: 6月28日-29日、「KBSホール」
・富川: 7月12日-13日、「富川室内体育館」
・全州: 8月30日-31日、「韓国ソリ文化の殿堂 モアク堂」
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イ・ソンヒのデビューは、1984年7月29日に京畿道加平郡南怡島で開催されたMBC第5回「江辺歌謡祭」で、仁川専門大学のグループ「4幕5場」の代表として「Jへ」をデュエットし、大賞受賞したことに始まる。
今月29日は、まさにイ・ソンヒの音楽人生30年を記念すべき日だ。
2014年デビュー30周年記念コンサート「歌う イ・ソンヒ」
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・ソウル: 4月18日-20日、「世宗文化会館」 ★4月19日レポート
・大邱: 5月10日-11日、「大邱エックス5階コンベンションホール」
・蔚山: 5月24日-25日、「蔚山東川体育館」
・光州: 6月07日-08日、「金大中コンベンションセンター」
・城南: 6月14日-15日、「城南アートセンターオペラハウス」
・釜山: 6月28日-29日、「KBSホール」
・富川: 7月12日-13日、「富川室内体育館」
・全州: 8月30日-31日、「韓国ソリ文化の殿堂 モアク堂」
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イ・ソンヒのデビューは、1984年7月29日に京畿道加平郡南怡島で開催されたMBC第5回「江辺歌謡祭」で、仁川専門大学のグループ「4幕5場」の代表として「Jへ」をデュエットし、大賞受賞したことに始まる。
今月29日は、まさにイ・ソンヒの音楽人生30年を記念すべき日だ。
2014年5月23日金曜日
ペ・チョルスとイ・ソンヒ
以前、韓国経済の記事(2011年1月8日、キム・ミョンシン記者)に、KBS音楽番組「コンサート7080」のMCペ・チョルス(배철수、裵哲秀)が、”歌手として”事実上引退の可能性を示唆したという内容があった。
(本ブログ関連:”ペ・チョルス”)
ペ・チョルスは、いわゆる歌謡祭出身の歌手で、中央日報の記事「【噴水台】スーパースターK」(2010年10月24日、ソン・ウォンソプJES記者)が、スーパースターKなどオーディション番組隆盛時に、過去の同様のイベント(歌謡祭)紹介の中で次のように記している。
------------------------------------------
・30余年前の「大学歌謡祭」を連想させる。77年に始まった「MBC大学歌謡祭」も盛り上がったのは2年目の78年だった。第1回大会の成功でレベルの高い参加者が数多く集まり、参加者のうちペ・チョルス、ノ・サヨン、イム・ベクチョン、シム・スボンらが80年代の大衆文化の主役に成長した。同じく78年に始まったTBC(東洋放送)「海辺歌謡祭」もワン・ヨンウン、チュ・ビョンジン、グ・チャンモ、イ・チヒョンらを輩出した。その後、さまざまな大学生歌謡祭が韓国放送・歌謡界の登龍門に定着した。
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K-Wikipediaによれば、ペ・チョルスのデビューは、1978年のTBC第1回「海辺歌謡祭」のようだ。
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・1978年に 東洋放送 TBC第1回「海辺歌謡祭」では、グループ滑走路(RUNWAY )の一員として出場し、「世間知らずで生きてきた」で人気賞を受け、同年MBC第2回「大学歌謡祭」にも出場、<仮面舞踊>で銀賞を獲得した。
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(ちなみに、イ・ソンヒは、1979年に開始した「MBC江辺歌謡祭」の第5回(1984年)で、「Jへ」により四幕五場のグループとして大賞受賞している)
そんな、ペ・チョルス(1953年8月18日~)が、最近、30周年記念コンサートをした、イ・ソンヒ(1964年12月14日~)とのデュエットの申し出を断ったという、おもしろい記事がある。アジア経済の記事「【ラジオスター】ペ・チョルス 『24年間のあいだ歌っていない、イ・ソンヒのデュエット拒絶』」(5/22)で、イ・ソンヒとの、年齢差と音楽経験の違いから、次のようなやりとりを述べている。
------------------------------------------
・自分を置いて(出演した番組中の会話)争奪戦が広がるとすぐに、ペ・チョルスは、「イ・ソンヒさんから電話があった」と、「先だって、(15集)アルバムを出しながら、先輩とデュエットで歌いたいと言っていたよ」という事情を告白した。だが、ペ・チョルスは、「ソンヒさんよ、どうか、やらないでください」と、イ・ソンヒの提案を断った。
・ペ・チョルスは、「私は、24年の間(音楽を)していなかった」と話し、歌いにくいという立場を表わした。
・【ラジオスター】ペ・チョルスの音楽ネチズンは、「ペ・チョルスの声、また聞きたいけれど」、「ペ・チョルス、イ・ソンヒとデュエット想像するだけでも良いのに」など反応を見せた。
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(本ブログ関連:”ペ・チョルス”)
ペ・チョルスは、いわゆる歌謡祭出身の歌手で、中央日報の記事「【噴水台】スーパースターK」(2010年10月24日、ソン・ウォンソプJES記者)が、スーパースターKなどオーディション番組隆盛時に、過去の同様のイベント(歌謡祭)紹介の中で次のように記している。
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・30余年前の「大学歌謡祭」を連想させる。77年に始まった「MBC大学歌謡祭」も盛り上がったのは2年目の78年だった。第1回大会の成功でレベルの高い参加者が数多く集まり、参加者のうちペ・チョルス、ノ・サヨン、イム・ベクチョン、シム・スボンらが80年代の大衆文化の主役に成長した。同じく78年に始まったTBC(東洋放送)「海辺歌謡祭」もワン・ヨンウン、チュ・ビョンジン、グ・チャンモ、イ・チヒョンらを輩出した。その後、さまざまな大学生歌謡祭が韓国放送・歌謡界の登龍門に定着した。
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K-Wikipediaによれば、ペ・チョルスのデビューは、1978年のTBC第1回「海辺歌謡祭」のようだ。
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・1978年に 東洋放送 TBC第1回「海辺歌謡祭」では、グループ滑走路(RUNWAY )の一員として出場し、「世間知らずで生きてきた」で人気賞を受け、同年MBC第2回「大学歌謡祭」にも出場、<仮面舞踊>で銀賞を獲得した。
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(ちなみに、イ・ソンヒは、1979年に開始した「MBC江辺歌謡祭」の第5回(1984年)で、「Jへ」により四幕五場のグループとして大賞受賞している)
そんな、ペ・チョルス(1953年8月18日~)が、最近、30周年記念コンサートをした、イ・ソンヒ(1964年12月14日~)とのデュエットの申し出を断ったという、おもしろい記事がある。アジア経済の記事「【ラジオスター】ペ・チョルス 『24年間のあいだ歌っていない、イ・ソンヒのデュエット拒絶』」(5/22)で、イ・ソンヒとの、年齢差と音楽経験の違いから、次のようなやりとりを述べている。
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・自分を置いて(出演した番組中の会話)争奪戦が広がるとすぐに、ペ・チョルスは、「イ・ソンヒさんから電話があった」と、「先だって、(15集)アルバムを出しながら、先輩とデュエットで歌いたいと言っていたよ」という事情を告白した。だが、ペ・チョルスは、「ソンヒさんよ、どうか、やらないでください」と、イ・ソンヒの提案を断った。
・ペ・チョルスは、「私は、24年の間(音楽を)していなかった」と話し、歌いにくいという立場を表わした。
・【ラジオスター】ペ・チョルスの音楽ネチズンは、「ペ・チョルスの声、また聞きたいけれど」、「ペ・チョルス、イ・ソンヒとデュエット想像するだけでも良いのに」など反応を見せた。
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2014年2月1日土曜日
(資料)50代と漢字
新聞記事を通じて韓国の世代論をフォローしているが、時代を決定する50代に差し掛かった世代およびその下の世代であるハングル世代(한글 세대)が、漢字との親和が乏しいという現状を、朝鮮日報の記事「名前さえ漢字で書けない韓国人」(2/1、(魚秀雄(オ・スウン)記者 , 兪碩在(ユ・ソクチェ)記者)は次のように報じている。抜粋。
イ・ソンヒが1984年「江辺歌謡祭」で大賞受賞を紹介する、京郷新聞(テレビ番組紙面)にある記事は(氏名を除き)ハングルばかりだが、タイトルや写真の見出し部分に「熱気」、「大賞」、「音楽」など漢字が見られる程度である。
ちなみに、イ・ソンヒの2005年の13集アルバムタイトルは漢字で「四春期」(思春期ではない!)で、2009年コンサートのタイトルに「招待」の漢字が使われた。「인연(インニョン、因縁)」以降、彼女のヒット曲に東洋的香りする旋律が織り込まれている。
(本ブログ関連:”50代”)
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・1970年に「ハングル専用政策」が始まってから44年。今や、小学校で漢字を学んでいない最初の世代は50代に差し掛かった。20-30代はもちろん、40代すらも漢字になじみがない時代になったということを意味する。
・スマートフォンやタブレットPCからは漢字の入力システムが姿を消し、ハングルだけで誤記された単語が、正しい表記として「定着」するケースも多い。
・成均館大学中文科のチョン・グァンジン教授は「漢字語は韓国語の語彙(ごい)の70%、学術用語の90%以上を占めている・・・
・仁済大学のチン・テハ碩座(せきざ)教授(寄付金によって研究活動を行えるよう大学の指定を受けた教授)は「漢字が多く使われている1980年代以前の本を大学生が全く読めないということは、韓国各地の大学図書館に所蔵されている資料の90%以上が、そのまま死蔵されるということを意味する・・・
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イ・ソンヒが1984年「江辺歌謡祭」で大賞受賞を紹介する、京郷新聞(テレビ番組紙面)にある記事は(氏名を除き)ハングルばかりだが、タイトルや写真の見出し部分に「熱気」、「大賞」、「音楽」など漢字が見られる程度である。
ちなみに、イ・ソンヒの2005年の13集アルバムタイトルは漢字で「四春期」(思春期ではない!)で、2009年コンサートのタイトルに「招待」の漢字が使われた。「인연(インニョン、因縁)」以降、彼女のヒット曲に東洋的香りする旋律が織り込まれている。
(本ブログ関連:”50代”)
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・1970年に「ハングル専用政策」が始まってから44年。今や、小学校で漢字を学んでいない最初の世代は50代に差し掛かった。20-30代はもちろん、40代すらも漢字になじみがない時代になったということを意味する。
・スマートフォンやタブレットPCからは漢字の入力システムが姿を消し、ハングルだけで誤記された単語が、正しい表記として「定着」するケースも多い。
・成均館大学中文科のチョン・グァンジン教授は「漢字語は韓国語の語彙(ごい)の70%、学術用語の90%以上を占めている・・・
・仁済大学のチン・テハ碩座(せきざ)教授(寄付金によって研究活動を行えるよう大学の指定を受けた教授)は「漢字が多く使われている1980年代以前の本を大学生が全く読めないということは、韓国各地の大学図書館に所蔵されている資料の90%以上が、そのまま死蔵されるということを意味する・・・
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2013年12月11日水曜日
(資料)イ・ソンヒのスター・ストーリー「7.『江辺歌謡祭』の裏話」
先日(9/27)、「スポーツ韓国」の紙面(1991年3月8日~4月5日)に連載された「イ・ソンヒ27歳当時のスター・ストーリー」記事の目次を紹介したが、その第7回目をここに載せたい。感謝。
イ・ソンヒが、いよいよ才能が世に見出される瞬間の「江辺歌謡祭」での大賞受賞にかかわる数々のエピソード、あるいは出場したときの名前のセンシティブな情報など・・・まさに数々の裏話を知ることができた。(今回、原文中に特定字句の脱字がいくつか見られた:表示上の理由か?)
(本ブログ関連:”(資料)イ・ソンヒ(27歳当時)の「スター・ストーリー」”、”資料:이선희 Profile”)
[7] 「江辺歌謡祭」の裏話
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私は一人でソロとして、<4>はグループとして、江辺歌謡祭に参加した。
私は(ソ)ロの決選にのぼったが、<4>は予選で脱落した。私は、学校の名誉のために決選で「イ・ソンヒ」の代わりに<4>というチーム名の中に私の名前を埋めてほしいという、先輩の提案を受け入れた。決選で、サークルの先輩イム・ソンギュンさんが、その他伴奏と和音を合わせてくれた。
純粋な気持ちで、私が属した音楽サークルを助力しようとしたことなのに、後日あたかも私が<4>の知名度にタダ乗り(無賃乗車)したように知られたのは、今考えてもとんでもないことだ。
私は、84年の「江辺歌謡祭」もまたTVに中継がないと思っていた。例年は、確かにFMラジオでだけ放送されたのを記憶していたから。さらに、生放送で中継されるのをあらかじめ知ったならば、私は多分参加願書も出さなかっただろう。大学入学後にも、私が勉強よりは歌に陥っている姿を父は極めて不満だった。内心、頑固な父を説得できる「締切期日」を、その年の秋ぐらいに捉えていたので、私はまず父に「バレ」ないことが急務であった。
「江辺歌謡祭」の1、2次予選はソウルで執り行なったが、最終予選と決選は南怡島で寝泊りしながら進行した。「これは困った。家に何か言い訳して抜け出すか。数日だが・・・」
結局、私はちょっと無理をしなければならなかった。ムシムシする7月の蒸し暑さの中で、私は往復5時間の距離の、家と南怡島の間を三日間毎日行き来したのだ。
待望の「江辺歌謡祭」決選の前日、私は「変装」した。ひょっとして父や知り合いがTVを見ても、私が誰なのかを見間違えるようにしようと。まず、頭をチリチリにパーマしたし、メガネも視力が似た友人のものと替えて使った。その上、行事当日の演出者シン・スンホ先生の強要(?)で、着ていたジーンズをスカートに着替えたので、それなりにほとんど完ぺきな変装をしたわけだ。
その時借りてはいたスカートの持ち主は春川から来たオ・ヘウォンという女子中学生だった。余裕がなくて返すことができなかったが、今も家に保管している。この記事を読むことになれば、その時の私のジーンズとヘ・ウォンさんのスカートを交換をする心の準備はないのだろうか・・・。
「江辺歌謡祭」TV生放送時間のカウントダウンが始まった時、私は瞬間的に現場から逃げるところだった。父が近づいて来たのだ。叔父と叔母も一緒に。
叔母はMBC FMを通じて江辺歌謡祭の案内放送で私の名前を確認し、直ちに父に連絡して私を「捕らえに」「出動」したのだった。
私を一時見おろした父の口から想像もできない言葉が流れて出た。「せっかくこのようになったこと、必ず1等になりなさい、学生時代の良い思い出を作ると思って・・・」
夢にも見られなかった「応援団」が現れたのだ。あらためて決意を固めて舞台に上がった。観客席の中の父と目を合わせて呼吸を整えた。
それなりに最善を尽くしてを歌ったが、「大賞」を授かるなんて想像さえしなかった。
イ・ソンヒが、いよいよ才能が世に見出される瞬間の「江辺歌謡祭」での大賞受賞にかかわる数々のエピソード、あるいは出場したときの名前のセンシティブな情報など・・・まさに数々の裏話を知ることができた。(今回、原文中に特定字句の脱字がいくつか見られた:表示上の理由か?)
(本ブログ関連:”(資料)イ・ソンヒ(27歳当時)の「スター・ストーリー」”、”資料:이선희 Profile”)
[7] 「江辺歌謡祭」の裏話
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私は一人でソロとして、<4>はグループとして、江辺歌謡祭に参加した。
私は(ソ)ロの決選にのぼったが、<4>は予選で脱落した。私は、学校の名誉のために決選で「イ・ソンヒ」の代わりに<4>というチーム名の中に私の名前を埋めてほしいという、先輩の提案を受け入れた。決選で、サークルの先輩イム・ソンギュンさんが、その他伴奏と和音を合わせてくれた。
純粋な気持ちで、私が属した音楽サークルを助力しようとしたことなのに、後日あたかも私が<4>の知名度にタダ乗り(無賃乗車)したように知られたのは、今考えてもとんでもないことだ。
私は、84年の「江辺歌謡祭」もまたTVに中継がないと思っていた。例年は、確かにFMラジオでだけ放送されたのを記憶していたから。さらに、生放送で中継されるのをあらかじめ知ったならば、私は多分参加願書も出さなかっただろう。大学入学後にも、私が勉強よりは歌に陥っている姿を父は極めて不満だった。内心、頑固な父を説得できる「締切期日」を、その年の秋ぐらいに捉えていたので、私はまず父に「バレ」ないことが急務であった。
「江辺歌謡祭」の1、2次予選はソウルで執り行なったが、最終予選と決選は南怡島で寝泊りしながら進行した。「これは困った。家に何か言い訳して抜け出すか。数日だが・・・」
結局、私はちょっと無理をしなければならなかった。ムシムシする7月の蒸し暑さの中で、私は往復5時間の距離の、家と南怡島の間を三日間毎日行き来したのだ。
待望の「江辺歌謡祭」決選の前日、私は「変装」した。ひょっとして父や知り合いがTVを見ても、私が誰なのかを見間違えるようにしようと。まず、頭をチリチリにパーマしたし、メガネも視力が似た友人のものと替えて使った。その上、行事当日の演出者シン・スンホ先生の強要(?)で、着ていたジーンズをスカートに着替えたので、それなりにほとんど完ぺきな変装をしたわけだ。
その時借りてはいたスカートの持ち主は春川から来たオ・ヘウォンという女子中学生だった。余裕がなくて返すことができなかったが、今も家に保管している。この記事を読むことになれば、その時の私のジーンズとヘ・ウォンさんのスカートを交換をする心の準備はないのだろうか・・・。
「江辺歌謡祭」TV生放送時間のカウントダウンが始まった時、私は瞬間的に現場から逃げるところだった。父が近づいて来たのだ。叔父と叔母も一緒に。
叔母はMBC FMを通じて江辺歌謡祭の案内放送で私の名前を確認し、直ちに父に連絡して私を「捕らえに」「出動」したのだった。
私を一時見おろした父の口から想像もできない言葉が流れて出た。「せっかくこのようになったこと、必ず1等になりなさい、学生時代の良い思い出を作ると思って・・・」
夢にも見られなかった「応援団」が現れたのだ。あらためて決意を固めて舞台に上がった。観客席の中の父と目を合わせて呼吸を整えた。
それなりに最善を尽くしてを歌ったが、「大賞」を授かるなんて想像さえしなかった。
私が心の中で「1等」と目をつけたチームは、「アダダ」という歌を歌ったあるデュエットだった。彼らがどの順位にも入ることが出来なかった事実は、今も理解することができない。
(「Jへ」)で、大賞を獲得した後、私はあらゆる流言に苦しめられなければならなかった。いったい「J」が誰なのかということだった。ある新聞か雑誌は、「J」の仮想図をカラフルに載せたりもした。長身に俊秀な容貌だが、洋服の上着に韓服のズボンを好んで着る変わり者の文学青年とか、実名は「ノ・ソクヒョン」なのに「ノ・ソクチン」というペンネームを使うとか、「J」というイ・ソンヒの祥明女子高時代の片想いとか・・・。
(注)歌「Jへ」に登場する「J」については、作者のイ・セゴンの言葉から知ることができる。
あまりにも問い質すので、ある席だったか「J」という私の甥(姪)の「ジェヒ」を意味すると話してしまった。その声を聞けなかったある記者は、「ジェヒ」が誰かとまた何度も尋ねた。「ジェヒはわが家の子犬の名前です」
冗談で発した返事だったが、いやはてさて、その記者はその話をそのまま記事にしてしまった。「『J』は、イ・ソンヒが飼っている犬の名前だ」と。
誓って、特定の「J」は、この世界にいない。子どもも、青少年も、また中年層さえも口ずさみながら歩いたように、「J」という、誰もが自分の胸中深く大事におさめている思い出の恋人であることもあれば、また、幼なじみであることもあるのだ。チャン(Jang、장)さん、チョ(Jo、조)さん、チョン(Jeon、전)さん、チュ( Ju、주)さんなどが、自分を忘れられないという歌詞を聞いて、非常にうれしがるという話も聞いた。
(「Jへ」)は、私としては信じられないほど大ヒットをした。1985年1月には、放送回数95回で、最も放送された曲になるほどだった。その時、2位はナミ(나미)氏の「クルクル(빙글빙글)」、3位はイ・ウンハ(이은하)氏の「恋もしたことない人は(사랑도 못해본 사람은)」であったと記憶する。
(「Jへ」)の人気は、MBCとKBS両放送局の間の見えなかった「壁」を崩したという話も聞いた。その前までは、MBCの歌謡祭の出身歌手がKBSに出演するということはほとんど想像も出来ないことだったので、私は今でもその時「糸口」をつけたのをこころよく思っている。
さらに、その年12月30日には、KBS「放送歌謡大賞」の新人賞まで受賞した。MBC側で、それとなく期待を抱いていたが、ライバルの放送会社から賞まで与えるとは・・・私もうれしかったが、MBCのシン・スンホ先生は私よりもっと喜ばれた。「ソンヒ(ソニ)よ、きみ、堰の水を切ったね」
MBCでは、その翌日(12月31日)、私は10代歌手に選ばれたし、新人賞に加え最高人気歌手賞まで上乗せてくれた。 3冠王・・・江辺歌謡祭(7/29)以後、ぴったり五月ぶりにあげた収穫だった。
TVをつけたりラジオをつけるたびに響き渡る私の歌に父は慌てた。仕事がそんなに大きくなるとは(?) そこまで予想できなかったのだ。「おまえ、それは趣味でやったことではなかったのかい?」
しばらく歌って彷徨(?)していれば、再び勉強するだろうだと信じた父は、日ごとに職業歌手になっていく私の姿に、ある危機感を感じたようだ。
芸能人に対してはいつも否定的な見解を持っている父との「暗闘」は、かなり長い間持続した。しかしながら、「子どもに勝つ親がいるだろうか」。結局、父は条件付きで、私の歌手活動を許諾した。
「醜聞を起こして、マスコミの噂にのぼる歌手にはならないこと。外ではお前がスターかも知らないけれど、家に帰れば私の子どもであり、私にとってまだ子どもでしかないことを肝に銘じること。 少しでも様子がおかしいなら、再び歌を歌えないようにするぞ。」 おおまかにそのような言葉だった。
今は、TV画面に映った私の姿と歌をモニターしてくれるほど私の生活を理解している父に、私はなかなか歌謡界の暗い面を話せない。私自身に関しては、常に恥じることがない生活をしてきたので、父の前でいつも堂々ととしていることができる。
私に対する周りの評価はどうだか分からないし、また別に耳をかたむけたい気もないが、私の両親に関する「悪評流言」(デマ)は断じて説明しておかなくちゃいけない。
父は僧侶であるから、言うまでもなく母もまた僧侶を夫としているので、勤倹節約する生活が体質化した人たちである。
したがって、娘ひとりの(おかげ)で贅沢な暮らしをしながら、貴族生活をしているという噂は、話にもならないことだ。歌手が歌数曲ヒットさせると、まず「夜の舞台」(マイナーイメージの舞台)を流れることがわたしたちの現実だが、両親は酒場で歌を歌うことだけは口を極めて止める。最も簡単に大金を握ることができる所なので色々な誘惑も多いが、私自身「夜の仕事」に出て行くことはいやだ。デビュー当初、何も分からない状態で「先輩歌手もみな出て行くので・・・」という考えで、いくつかの営業場所を転々としていた事実を今でも恥ずかしく思っている。
父は、私のために気苦労をたくさんした。娘の有名税を元手に宗団の要職に座ろうという誤解が嫌で、何と2年も寺院を離れていたりもした。
母は今でも、市場の床に散らばっているハクサイのくずやカブなどを拾ってくる。節約が習慣になったのだ。周りではこのような母を巡って、井戸端会議がはなはだしい。「外車に運転手まで置いて通う娘、恥ずかしくもないのか。どういうショーだ。貧乏たらしい様をあらわにしているね。ケチん坊。」 後生だから、「スター・ママ」と色眼鏡で見ないで、家庭を築いていく「主婦」としての私たちの母にきれいな視線を送ってくれるのをお願いする。
私は、(「Jへ」)を歌った時から、歌唱力はいい歌手という評価を受けてきた。私も認める私の歌の実力は、1984年11月、チョ・ヨンナム(조영남)氏が進めていた(KBSの)「ナイト・ショー」に招待されて、その場で初めて接したノ・サヨン氏の「あなたの影(님 그림자)」を歌った時、そしてMBCの「ショー2000」に出て行って「キャンパス ベスト10」の曲をひきつづき歌った時、完全に「公認」された。
前回、うっかり忘れて落とした話がある。江辺歌謡祭の決選で、<4>のメンバーで共に歌ったイム・ソンギュンさんとの関係についてのことだ。
江辺歌謡祭で大賞を受賞した後約3ケ月の間は、イム・ソンギュンさんとデュエットで活動した。デュエットという性格上、私は彼に付いて歩く時が多かったし、周囲では私たちの二人の間を恋人関係まで歪曲したりした。
私はそのような視線が負担だったし、また江辺歌謡祭に当初ソロで参加したように、再び一人で歌いたい欲が出た。それで、私が先に決別を宣言したいきがかりで、ソロアルバムを出すことになったのだ。「<4>の名前を借りて優勝しておいて、なぜお前一人だけスターの振舞いをするのか」という当時の一部難詰に対しては、「歌に対する欲念」のためだったと答えれば十分説明できるだろう。
なおかつ、<4>のメンバーや学校の中では、私のソロ活動に何の反感もなかった。おだてたり、けなしたりして愚弄した人たちは、私たちのグループや私とは何ら関連ない人物たちだけだった。
(「Jへ」)で、1等を「食べた」(受賞した)直後、私は地球レコード社と専属契約を結んだ。その時、契約金の名目で受けた金があれこれ差し引けば、5百万ウォン。生まれて初めてつかんでみた「大金」だった。その金は、全額父の白内障治療費に使われた。これまで、「芸能人」になろうと決意した娘のためにかなりひそひそ言われた父に、少しでも報いたというやりがいを感じる一方、何か相殺されたような妙な快感(?)も味わったことを告白する。
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(「Jへ」)で、大賞を獲得した後、私はあらゆる流言に苦しめられなければならなかった。いったい「J」が誰なのかということだった。ある新聞か雑誌は、「J」の仮想図をカラフルに載せたりもした。長身に俊秀な容貌だが、洋服の上着に韓服のズボンを好んで着る変わり者の文学青年とか、実名は「ノ・ソクヒョン」なのに「ノ・ソクチン」というペンネームを使うとか、「J」というイ・ソンヒの祥明女子高時代の片想いとか・・・。
(注)歌「Jへ」に登場する「J」については、作者のイ・セゴンの言葉から知ることができる。
あまりにも問い質すので、ある席だったか「J」という私の甥(姪)の「ジェヒ」を意味すると話してしまった。その声を聞けなかったある記者は、「ジェヒ」が誰かとまた何度も尋ねた。「ジェヒはわが家の子犬の名前です」
冗談で発した返事だったが、いやはてさて、その記者はその話をそのまま記事にしてしまった。「『J』は、イ・ソンヒが飼っている犬の名前だ」と。
誓って、特定の「J」は、この世界にいない。子どもも、青少年も、また中年層さえも口ずさみながら歩いたように、「J」という、誰もが自分の胸中深く大事におさめている思い出の恋人であることもあれば、また、幼なじみであることもあるのだ。チャン(Jang、장)さん、チョ(Jo、조)さん、チョン(Jeon、전)さん、チュ( Ju、주)さんなどが、自分を忘れられないという歌詞を聞いて、非常にうれしがるという話も聞いた。
(「Jへ」)は、私としては信じられないほど大ヒットをした。1985年1月には、放送回数95回で、最も放送された曲になるほどだった。その時、2位はナミ(나미)氏の「クルクル(빙글빙글)」、3位はイ・ウンハ(이은하)氏の「恋もしたことない人は(사랑도 못해본 사람은)」であったと記憶する。
(「Jへ」)の人気は、MBCとKBS両放送局の間の見えなかった「壁」を崩したという話も聞いた。その前までは、MBCの歌謡祭の出身歌手がKBSに出演するということはほとんど想像も出来ないことだったので、私は今でもその時「糸口」をつけたのをこころよく思っている。
さらに、その年12月30日には、KBS「放送歌謡大賞」の新人賞まで受賞した。MBC側で、それとなく期待を抱いていたが、ライバルの放送会社から賞まで与えるとは・・・私もうれしかったが、MBCのシン・スンホ先生は私よりもっと喜ばれた。「ソンヒ(ソニ)よ、きみ、堰の水を切ったね」
MBCでは、その翌日(12月31日)、私は10代歌手に選ばれたし、新人賞に加え最高人気歌手賞まで上乗せてくれた。 3冠王・・・江辺歌謡祭(7/29)以後、ぴったり五月ぶりにあげた収穫だった。
TVをつけたりラジオをつけるたびに響き渡る私の歌に父は慌てた。仕事がそんなに大きくなるとは(?) そこまで予想できなかったのだ。「おまえ、それは趣味でやったことではなかったのかい?」
しばらく歌って彷徨(?)していれば、再び勉強するだろうだと信じた父は、日ごとに職業歌手になっていく私の姿に、ある危機感を感じたようだ。
芸能人に対してはいつも否定的な見解を持っている父との「暗闘」は、かなり長い間持続した。しかしながら、「子どもに勝つ親がいるだろうか」。結局、父は条件付きで、私の歌手活動を許諾した。
「醜聞を起こして、マスコミの噂にのぼる歌手にはならないこと。外ではお前がスターかも知らないけれど、家に帰れば私の子どもであり、私にとってまだ子どもでしかないことを肝に銘じること。 少しでも様子がおかしいなら、再び歌を歌えないようにするぞ。」 おおまかにそのような言葉だった。
今は、TV画面に映った私の姿と歌をモニターしてくれるほど私の生活を理解している父に、私はなかなか歌謡界の暗い面を話せない。私自身に関しては、常に恥じることがない生活をしてきたので、父の前でいつも堂々ととしていることができる。
私に対する周りの評価はどうだか分からないし、また別に耳をかたむけたい気もないが、私の両親に関する「悪評流言」(デマ)は断じて説明しておかなくちゃいけない。
父は僧侶であるから、言うまでもなく母もまた僧侶を夫としているので、勤倹節約する生活が体質化した人たちである。
したがって、娘ひとりの(おかげ)で贅沢な暮らしをしながら、貴族生活をしているという噂は、話にもならないことだ。歌手が歌数曲ヒットさせると、まず「夜の舞台」(マイナーイメージの舞台)を流れることがわたしたちの現実だが、両親は酒場で歌を歌うことだけは口を極めて止める。最も簡単に大金を握ることができる所なので色々な誘惑も多いが、私自身「夜の仕事」に出て行くことはいやだ。デビュー当初、何も分からない状態で「先輩歌手もみな出て行くので・・・」という考えで、いくつかの営業場所を転々としていた事実を今でも恥ずかしく思っている。
父は、私のために気苦労をたくさんした。娘の有名税を元手に宗団の要職に座ろうという誤解が嫌で、何と2年も寺院を離れていたりもした。
母は今でも、市場の床に散らばっているハクサイのくずやカブなどを拾ってくる。節約が習慣になったのだ。周りではこのような母を巡って、井戸端会議がはなはだしい。「外車に運転手まで置いて通う娘、恥ずかしくもないのか。どういうショーだ。貧乏たらしい様をあらわにしているね。ケチん坊。」 後生だから、「スター・ママ」と色眼鏡で見ないで、家庭を築いていく「主婦」としての私たちの母にきれいな視線を送ってくれるのをお願いする。
私は、(「Jへ」)を歌った時から、歌唱力はいい歌手という評価を受けてきた。私も認める私の歌の実力は、1984年11月、チョ・ヨンナム(조영남)氏が進めていた(KBSの)「ナイト・ショー」に招待されて、その場で初めて接したノ・サヨン氏の「あなたの影(님 그림자)」を歌った時、そしてMBCの「ショー2000」に出て行って「キャンパス ベスト10」の曲をひきつづき歌った時、完全に「公認」された。
前回、うっかり忘れて落とした話がある。江辺歌謡祭の決選で、<4>のメンバーで共に歌ったイム・ソンギュンさんとの関係についてのことだ。
江辺歌謡祭で大賞を受賞した後約3ケ月の間は、イム・ソンギュンさんとデュエットで活動した。デュエットという性格上、私は彼に付いて歩く時が多かったし、周囲では私たちの二人の間を恋人関係まで歪曲したりした。
私はそのような視線が負担だったし、また江辺歌謡祭に当初ソロで参加したように、再び一人で歌いたい欲が出た。それで、私が先に決別を宣言したいきがかりで、ソロアルバムを出すことになったのだ。「<4>の名前を借りて優勝しておいて、なぜお前一人だけスターの振舞いをするのか」という当時の一部難詰に対しては、「歌に対する欲念」のためだったと答えれば十分説明できるだろう。
なおかつ、<4>のメンバーや学校の中では、私のソロ活動に何の反感もなかった。おだてたり、けなしたりして愚弄した人たちは、私たちのグループや私とは何ら関連ない人物たちだけだった。
(「Jへ」)で、1等を「食べた」(受賞した)直後、私は地球レコード社と専属契約を結んだ。その時、契約金の名目で受けた金があれこれ差し引けば、5百万ウォン。生まれて初めてつかんでみた「大金」だった。その金は、全額父の白内障治療費に使われた。これまで、「芸能人」になろうと決意した娘のためにかなりひそひそ言われた父に、少しでも報いたというやりがいを感じる一方、何か相殺されたような妙な快感(?)も味わったことを告白する。
2013年11月30日土曜日
(資料)イ・ソンヒのスター・ストーリー「6.キリギリスのように歌いながら高3の熱い夏を・・・」
先日(9/27)、「スポーツ韓国」の紙面(1991年3月8日~4月5日)に連載された「イ・ソンヒ27歳当時のスター・ストーリー」記事の目次を紹介したが、その第6回目をここに載せたい。感謝。
イ・ソンヒが、高3のときに巡り合った音楽上の幸運、チャン・ウクチョ音楽室、作曲家イ・セゴンとの出会い、仁川専門大のときに音楽環境を整えようとした武勇伝、音楽サークル<4>(四幕五場)への参加、そしてMBC「江辺歌謡祭」への準備などを知ることができた。
(本ブログ関連:”(資料)イ・ソンヒ(27歳当時)の「スター・ストーリー」”、”資料:이선희 Profile”)
[6] キリギリスのように歌いながら高3の熱い夏を・・・
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(父親の意向で)絵を描けないことになると、しばらく疎(おろそ)かにした歌がやりたかった。喉(声帯)がうずうずした。普段なにげなく通り過ぎた音楽学院の看板が、突然両の目に入ってきた。
その音楽学院は、当時ソウル駅と三角地(삼각지)の間に位置していた「チャン・ウクチョ(장욱조)組音楽室」だった。
(注)本ブログ関連:”チャン・ウクチョ音楽室”
音楽室の門を叩いたが、職業歌手や芸能人になるという考えは夢にもなかった。事実、私は高等学校を卒業する時までも、友人が芸能界のスターを偶像のごとく崇拝する姿をまったく理解することができなかった。
いずれにせよ、「一度、思う存分歌でも歌ってみようかな」という、私心ない気持ちでチャン・ウクチョ音楽室に出入りし始めた。それが高3の時だ。
他の人びとは「高3病」(ストレス)だ。「入試地獄」といって盛んに「大学受験との戦争」に没頭している時、私は絵を描けないので、歌を歌おうと打って出たので、完全に「くそ度胸」だったわけだ。 率直にいって、大学に行きたい気持ちがあまりなかったし。
音楽室に出入りしたりしたが、正式に登録してレッスンを受けたわけではない。「芸能人になろうと決心したのか」と、それこそ目をむいて反対する家で、どうしてあえて受講料をもらうことができようか。私に金を儲ける能力があったわけでもなく。
世の中に無料がどこかにあるだろうけれど、私の歌の実力が音楽室でも受け入れられたし、一種の奨学生同様の待遇を受けることになる破格の経験をした。
チャン・ウクチョ音楽室に入って、歌を歌ってみたいと話すと、当時あまり名が知られなかった作曲家のイ・セゴン(이세건)、ソン・ジュホ(송주호)氏などが「一度、見せてください」と冷ややかな反応を見せた。
私が全情熱を傾けて、ニール・セダカ(Neil Sedaka)の「きみこそすべて(You Mean Everything to Me)」(1960年)を終わらせた時、その方々は非常に満足な表情であったし、したがって私はいつでも喉が「うずうず」したら、音楽室に立ち寄るようになった。
1984年に(江辺歌謡祭で)、私に大賞の栄光をもたらし遭遇したのもまさにここだった。
実力は優れていたが、単に無名の新人という理由だけで、作曲家のイ・セゴン氏は、数多くの歌手に無視されなければならなかったし、心血を注いで書いたものは危うく永遠に、「J~、私はあなたを忘れた・・・」という、残念な思いをするところだったのだ。
(注)本ブログ関連:”イ・セゴンと「Jへ」”
家中の激しい反対を押し切って、時たまではあるが、音楽室で気が晴れるまで歌を歌うことができたのは、高3の時期、両親と「生き別れ(親離れ)」をしたおかげが大きかった。
父の所属寺院が(ソウルの南の)城南にある寺に変わったが、それでも高3の私を転校させるには大学入試が気にかかったようだ。
それで、私は祖母と三人の歳下のきょうだい達と共に、ソウルの梨泰院の家で「準-少女家長」の役をして生きなければならなかった。
(注)イ・ソンヒは長女で歳下に弟がいることは知っていたが、更に2人のきょうだい(男女?)がいる。
遊んでばかりいた子どもも高3になれば、慌てて入試勉強に没頭するのが常なのに、なぜか私だけは万事泰平だった。
そのとき、私の心は、イソップ寓話に出てくる「アリ(蟻)」よりも「キリギリス」の側に傾いていたようだ。だから、友達が夏の間、アリのよう熱心に教科書と格闘したときに、私はキリギリスのように歌いながら暑い夏を涼しくおくった。
学校の成績は、「正直」にもどんどん下に落ちた。しかし、心配もなかった。大学というところに対する羨望はそもそもなかったから。
▼ 「私は大学に行かないつもりだ」という話を両親の前でも大っぴらに言い放ったりしたからか、84年度の3月、仁川専門大(인천전문대)環境管理学科に合格しても、父は私が果たして滞りなくやっていくことができるかについて、まったく信じられなかったようだ。本当はそんなことしたくないけれど、娘が大学登録料(授業料)をこっそり引き抜いて隠すのではないか心配になって学校までついてきて、登録済証の印を何度も確かめた。
大学に登録はしたが、数十万ウォンの登録料があまりにも惜しかった。「そのお金さえあれば私がしたい音楽をいくらでもできるはずなのに・・・」考えた末に、私は環境管理学のとある教授を訪ねて行った。
今思えば一言で「話にならない」哀訴を教授にならべた。「私は歌を歌いたいのにお金がないのです。 だから、登録料の半分だけ返していただけないでしょうか?」、まあ、そんな話だったようだ。
しばらく、あっけにとられた表情をしておられた教授は、やがて私を説得し始めた。「音楽することを止(と)めるつもりはない。だが、学校まで止(や)めながら歌を歌わなければならないほど、切迫したわけではないじゃないか。熱心にやって、アルバムでも世間にまず出すようになったら是非手伝ってあげる。」
お言葉を聞いて見ると、句句節節(一言一句)正しい言葉なので、私は考えを改めて講義にも洩れなく出席し、大学新入生としての自由を謳歌した。
思う存分歌を歌うことができるところを物色した私は、校内の音楽サークル<4>の新入会員募集ポスターが目について一走りに駆けつけて入会した。
(注)ここでいう音楽サークル<4>は、いわゆる「四幕五場」を指すと思われる。
<4>のメンバーは、音楽の実力は優れていたが、ろくな練習スペースが備えられない状態であった。私は、入学時の登録料を回してほしいと教授に駄々をこねた「勝ち気」だけ信じて、学長室に「談判」の長途(長い道のり)についた。学長面談の結果は、大成功だった。 <4>は、学校の建物屋上にある片隅に、ついにみすぼらしくても専用の練習室を整えることができた。
1学年の1学期が終わって夏休みが始まった。<4>は、その年7月29日のMBC「江辺歌謡祭(강변가요제)」を目標に猛練習に入っていったし、私は私なりに本格的に声を整え始めた。私が狙ったのは、秋のMBC「大学歌謡祭(대학가요제)」だったので、江辺歌謡祭はテストする一種の前哨戦ぐらいに軽く考えていた。
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(Youtubeに登録のAshley Maxに感謝)
イ・ソンヒが、高3のときに巡り合った音楽上の幸運、チャン・ウクチョ音楽室、作曲家イ・セゴンとの出会い、仁川専門大のときに音楽環境を整えようとした武勇伝、音楽サークル<4>(四幕五場)への参加、そしてMBC「江辺歌謡祭」への準備などを知ることができた。
(本ブログ関連:”(資料)イ・ソンヒ(27歳当時)の「スター・ストーリー」”、”資料:이선희 Profile”)
[6] キリギリスのように歌いながら高3の熱い夏を・・・
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(父親の意向で)絵を描けないことになると、しばらく疎(おろそ)かにした歌がやりたかった。喉(声帯)がうずうずした。普段なにげなく通り過ぎた音楽学院の看板が、突然両の目に入ってきた。
その音楽学院は、当時ソウル駅と三角地(삼각지)の間に位置していた「チャン・ウクチョ(장욱조)組音楽室」だった。
(注)本ブログ関連:”チャン・ウクチョ音楽室”
音楽室の門を叩いたが、職業歌手や芸能人になるという考えは夢にもなかった。事実、私は高等学校を卒業する時までも、友人が芸能界のスターを偶像のごとく崇拝する姿をまったく理解することができなかった。
いずれにせよ、「一度、思う存分歌でも歌ってみようかな」という、私心ない気持ちでチャン・ウクチョ音楽室に出入りし始めた。それが高3の時だ。
他の人びとは「高3病」(ストレス)だ。「入試地獄」といって盛んに「大学受験との戦争」に没頭している時、私は絵を描けないので、歌を歌おうと打って出たので、完全に「くそ度胸」だったわけだ。 率直にいって、大学に行きたい気持ちがあまりなかったし。
音楽室に出入りしたりしたが、正式に登録してレッスンを受けたわけではない。「芸能人になろうと決心したのか」と、それこそ目をむいて反対する家で、どうしてあえて受講料をもらうことができようか。私に金を儲ける能力があったわけでもなく。
世の中に無料がどこかにあるだろうけれど、私の歌の実力が音楽室でも受け入れられたし、一種の奨学生同様の待遇を受けることになる破格の経験をした。
チャン・ウクチョ音楽室に入って、歌を歌ってみたいと話すと、当時あまり名が知られなかった作曲家のイ・セゴン(이세건)、ソン・ジュホ(송주호)氏などが「一度、見せてください」と冷ややかな反応を見せた。
私が全情熱を傾けて、ニール・セダカ(Neil Sedaka)の「きみこそすべて(You Mean Everything to Me)」(1960年)を終わらせた時、その方々は非常に満足な表情であったし、したがって私はいつでも喉が「うずうず」したら、音楽室に立ち寄るようになった。
1984年に(江辺歌謡祭で)、私に大賞の栄光をもたらし遭遇したのもまさにここだった。
実力は優れていたが、単に無名の新人という理由だけで、作曲家のイ・セゴン氏は、数多くの歌手に無視されなければならなかったし、心血を注いで書いたものは危うく永遠に、「J~、私はあなたを忘れた・・・」という、残念な思いをするところだったのだ。
(注)本ブログ関連:”イ・セゴンと「Jへ」”
家中の激しい反対を押し切って、時たまではあるが、音楽室で気が晴れるまで歌を歌うことができたのは、高3の時期、両親と「生き別れ(親離れ)」をしたおかげが大きかった。
父の所属寺院が(ソウルの南の)城南にある寺に変わったが、それでも高3の私を転校させるには大学入試が気にかかったようだ。
それで、私は祖母と三人の歳下のきょうだい達と共に、ソウルの梨泰院の家で「準-少女家長」の役をして生きなければならなかった。
(注)イ・ソンヒは長女で歳下に弟がいることは知っていたが、更に2人のきょうだい(男女?)がいる。
遊んでばかりいた子どもも高3になれば、慌てて入試勉強に没頭するのが常なのに、なぜか私だけは万事泰平だった。
そのとき、私の心は、イソップ寓話に出てくる「アリ(蟻)」よりも「キリギリス」の側に傾いていたようだ。だから、友達が夏の間、アリのよう熱心に教科書と格闘したときに、私はキリギリスのように歌いながら暑い夏を涼しくおくった。
学校の成績は、「正直」にもどんどん下に落ちた。しかし、心配もなかった。大学というところに対する羨望はそもそもなかったから。
大学に登録はしたが、数十万ウォンの登録料があまりにも惜しかった。「そのお金さえあれば私がしたい音楽をいくらでもできるはずなのに・・・」考えた末に、私は環境管理学のとある教授を訪ねて行った。
今思えば一言で「話にならない」哀訴を教授にならべた。「私は歌を歌いたいのにお金がないのです。 だから、登録料の半分だけ返していただけないでしょうか?」、まあ、そんな話だったようだ。
しばらく、あっけにとられた表情をしておられた教授は、やがて私を説得し始めた。「音楽することを止(と)めるつもりはない。だが、学校まで止(や)めながら歌を歌わなければならないほど、切迫したわけではないじゃないか。熱心にやって、アルバムでも世間にまず出すようになったら是非手伝ってあげる。」
お言葉を聞いて見ると、句句節節(一言一句)正しい言葉なので、私は考えを改めて講義にも洩れなく出席し、大学新入生としての自由を謳歌した。
思う存分歌を歌うことができるところを物色した私は、校内の音楽サークル<4>の新入会員募集ポスターが目について一走りに駆けつけて入会した。
(注)ここでいう音楽サークル<4>は、いわゆる「四幕五場」を指すと思われる。
<4>のメンバーは、音楽の実力は優れていたが、ろくな練習スペースが備えられない状態であった。私は、入学時の登録料を回してほしいと教授に駄々をこねた「勝ち気」だけ信じて、学長室に「談判」の長途(長い道のり)についた。学長面談の結果は、大成功だった。 <4>は、学校の建物屋上にある片隅に、ついにみすぼらしくても専用の練習室を整えることができた。
1学年の1学期が終わって夏休みが始まった。<4>は、その年7月29日のMBC「江辺歌謡祭(강변가요제)」を目標に猛練習に入っていったし、私は私なりに本格的に声を整え始めた。私が狙ったのは、秋のMBC「大学歌謡祭(대학가요제)」だったので、江辺歌謡祭はテストする一種の前哨戦ぐらいに軽く考えていた。
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(Youtubeに登録のAshley Maxに感謝)
2013年9月25日水曜日
(資料)イ・ソンヒのスター・ストーリー「1.余裕のアピール力を持った歌手」
先日(9/27)、「スポーツ韓国」の紙面(1991年3月8日~4月5日)に連載された、イ・ソンヒ27歳当時の「スター・ストーリー」記事の目次を紹介したが、その第1回目をここに載せたい。感謝。
(本ブログ関連:”(資料)イ・ソンヒ(27歳当時)の「スター・ストーリー」”、”資料:이선희 Profile”)
[1] 余裕のアピール力を持った歌手
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ゆらぐる思い出のページをめくれば
ああ、遂に果たせなかった悔しさと侘しい贖罪が
むかしのことのように、ぼんやりとかすむ窓枠の塵(ちり)のように
ああ、胸に積もるよ、今は遠ざかったあなたの微笑みのように
雨風がなくても春は来て夏は行く
ああ、あなたよ・・・涙がなくても、花は咲き葉はやがて散る
ああ、わたしに残った懐かしい歳月を浮かべて、眠りにつくよ、夢を見るよ・・・
私の6集アルバムに入っている、ソン・シヒョン(송시현)作詞・作曲の「思い出のページをめくれば(추억의 책장을 넘기면)」の歌詞である。今、私の心境はこの歌の歌詞とほとんど差がない。1984年MBC FMの「江辺歌謡祭」で大賞を受賞して以来、過去7年間の歳月は、国内外での数々のコンサート、アルバム発表、ミュージカル出演、そして自作詩集の出版などで息つまるように突き進んだ日々だった。
今しばらく自分自身を整理してみる機会を持たなければならない。ただ音楽に対する熱い情熱一つで声を限りに歌い続けながら、マスコミによって一日で「歌謡界のシンデレラ」になった気持ちを満喫していた当時、ちょうど二十歳の年齢は、いつのまにか27才の女性に成長した。
周りの環境も色々な変化があった。デビュー当時、余裕がなかった家の暮らしも、今はかなり豊かになった。少年少女の歓声と拍手喝采の中にひたすら自惚れていた私はその間に、「公人」としての大衆歌手の役割を考えてみるようになった。それで、今盛んに進めているのが北朝鮮でのコンサートである。叶うなら、平壌の舞台の上で倒れることがあっても、全てを注いでしまうだろう・・・
私を大切にしてくださるファンも、むかしは青少年層一色だったが、今はその方が結婚もして職場も持ち、また、大学に進学したりしているからか、10代から30代に至るまでまんべんなくファンレターを送っていただいている。
その間、私は「歌唱力が優れた歌手」という評をしばしば聞いてきた。そうするうちに、いつからか私はダイナミックでパワーあふれる歌がまさに私だけの個性だと信じるようになった。
だが、6集アルバム「思い出のページをめくれば」では、成人趣向だがスローな味の歌が主流をなす新しい試みでファンに「イ・ソンヒも余裕のアピール力を持つ歌手だ」という認識を一新したことは大切な収穫だ。
今後もずっと、既存の人気に安住せず、冒険になるとしても明るくて希望に満ちたメッセージを歌に入れる作業を継続しようと思う。
今後、この欄を通じて、はじめて私の存在が世の中に知らされた後の7年. そしてそれ以前の20年を淡々と書いていく。まだ多くの人生経験をしたとはいえない私だが、歌謡生活を中間決算するという心掛けで私が過ぎた27年を飾り気なく告白しようと思う。
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(本ブログ関連:”(資料)イ・ソンヒ(27歳当時)の「スター・ストーリー」”、”資料:이선희 Profile”)
[1] 余裕のアピール力を持った歌手
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ゆらぐる思い出のページをめくれば
ああ、遂に果たせなかった悔しさと侘しい贖罪が
むかしのことのように、ぼんやりとかすむ窓枠の塵(ちり)のように
ああ、胸に積もるよ、今は遠ざかったあなたの微笑みのように
雨風がなくても春は来て夏は行く
ああ、あなたよ・・・涙がなくても、花は咲き葉はやがて散る
ああ、わたしに残った懐かしい歳月を浮かべて、眠りにつくよ、夢を見るよ・・・
私の6集アルバムに入っている、ソン・シヒョン(송시현)作詞・作曲の「思い出のページをめくれば(추억의 책장을 넘기면)」の歌詞である。今、私の心境はこの歌の歌詞とほとんど差がない。1984年MBC FMの「江辺歌謡祭」で大賞を受賞して以来、過去7年間の歳月は、国内外での数々のコンサート、アルバム発表、ミュージカル出演、そして自作詩集の出版などで息つまるように突き進んだ日々だった。
今しばらく自分自身を整理してみる機会を持たなければならない。ただ音楽に対する熱い情熱一つで声を限りに歌い続けながら、マスコミによって一日で「歌謡界のシンデレラ」になった気持ちを満喫していた当時、ちょうど二十歳の年齢は、いつのまにか27才の女性に成長した。
周りの環境も色々な変化があった。デビュー当時、余裕がなかった家の暮らしも、今はかなり豊かになった。少年少女の歓声と拍手喝采の中にひたすら自惚れていた私はその間に、「公人」としての大衆歌手の役割を考えてみるようになった。それで、今盛んに進めているのが北朝鮮でのコンサートである。叶うなら、平壌の舞台の上で倒れることがあっても、全てを注いでしまうだろう・・・
私を大切にしてくださるファンも、むかしは青少年層一色だったが、今はその方が結婚もして職場も持ち、また、大学に進学したりしているからか、10代から30代に至るまでまんべんなくファンレターを送っていただいている。
その間、私は「歌唱力が優れた歌手」という評をしばしば聞いてきた。そうするうちに、いつからか私はダイナミックでパワーあふれる歌がまさに私だけの個性だと信じるようになった。
だが、6集アルバム「思い出のページをめくれば」では、成人趣向だがスローな味の歌が主流をなす新しい試みでファンに「イ・ソンヒも余裕のアピール力を持つ歌手だ」という認識を一新したことは大切な収穫だ。
今後もずっと、既存の人気に安住せず、冒険になるとしても明るくて希望に満ちたメッセージを歌に入れる作業を継続しようと思う。
今後、この欄を通じて、はじめて私の存在が世の中に知らされた後の7年. そしてそれ以前の20年を淡々と書いていく。まだ多くの人生経験をしたとはいえない私だが、歌謡生活を中間決算するという心掛けで私が過ぎた27年を飾り気なく告白しようと思う。
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2013年9月2日月曜日
イ・ソンヒのカバー「その時 その人」
イ・ソンヒが、全国ツアー中の2009年7月5(日)、「清州芸術の殿堂」のステージで、シム・スボンの「その時 その人(그때 그 사람)」をカバーしている珍しい映像がYoutubeにある。それは、1978年の第2回「MBC大学歌謡祭」で、当時、明知大学校経営学科在学中のシム・スボンが作詞作曲したトロットにジャズ風味のスタイルで歌った、後の彼女の代表的な曲のひとつだ。
K-Wikpediaによれば、「シム・スボンは、参加した歌謡祭で入賞をすることはできなかったが、大学歌謡祭で初めてトロット・ジャンルで出場した異色な経歴に大衆に注目されるという、自身が学んだジャズ音楽でないトロットで初めて歌謡界に足を踏み入れた。」ことになる。
(本ブログ関連:”シム・スボン”)
まずは、イ・ソンヒの選曲に会場がわいた後、客席と一緒に歌う「その時 その人」を聴いてみよう。
(Youtubeに登録のleesunheetownに感謝)
K-Wikpediaによれば、「シム・スボンは、参加した歌謡祭で入賞をすることはできなかったが、大学歌謡祭で初めてトロット・ジャンルで出場した異色な経歴に大衆に注目されるという、自身が学んだジャズ音楽でないトロットで初めて歌謡界に足を踏み入れた。」ことになる。
(本ブログ関連:”シム・スボン”)
まずは、イ・ソンヒの選曲に会場がわいた後、客席と一緒に歌う「その時 その人」を聴いてみよう。
(Youtubeに登録のleesunheetownに感謝)
2013年7月29日月曜日
江辺歌謡祭
イ・ソンヒが歌謡界にデビューするきっかけとなった、MBCの第5回「江辺歌謡祭(강변가요제)」(1984年)に於いて、仁川大学の男女デュエット「4幕5場」として、「Jへ(J에게)」を歌い大賞を受賞したのが、29年前の今日だった。
(本ブログ関連:"(資料)イム・ソンギュン")
この「Jへ」を作詞・作曲したイ・セゴン(李世建、이세건)とイ・ソンヒの出会いは、彼女が高校2年生のときに通っていた音楽教室でのことで、ある意味、この曲を救い運命を変えたのは、他ならぬイ・ソンヒ自身だったといえる。
(本ブログ関連:"「Jへ」との出会い"、"チャン・ウクチョ音楽室")
さらに、この曲タイトルにあるイニシャルの「J」は、作者イ・セゴンが友人のドイツ留学先に送る手紙の書き出しの宛名書きからヒントを得たという話がある。
(本ブログ関連:"イニシャルJ")
ステージ上での彼女の髪型やスカートをはいていた理由など、この歌謡祭にまつわる話題にはこと欠かない・・・。
(本ブログ関連:”江辺歌謡祭”)
(Youtubeに登録の526apolloに感謝)
(本ブログ関連:"(資料)イム・ソンギュン")
この「Jへ」を作詞・作曲したイ・セゴン(李世建、이세건)とイ・ソンヒの出会いは、彼女が高校2年生のときに通っていた音楽教室でのことで、ある意味、この曲を救い運命を変えたのは、他ならぬイ・ソンヒ自身だったといえる。
(本ブログ関連:"「Jへ」との出会い"、"チャン・ウクチョ音楽室")
さらに、この曲タイトルにあるイニシャルの「J」は、作者イ・セゴンが友人のドイツ留学先に送る手紙の書き出しの宛名書きからヒントを得たという話がある。
(本ブログ関連:"イニシャルJ")
ステージ上での彼女の髪型やスカートをはいていた理由など、この歌謡祭にまつわる話題にはこと欠かない・・・。
(本ブログ関連:”江辺歌謡祭”)
(Youtubeに登録の526apolloに感謝)
2013年7月14日日曜日
「【萬物相】大学歌謡祭」
先月(6月)の2日に発表された、MBCの「大学歌謡祭(대학가요제)」(1977年~)の中止について、朝鮮日報の記事「【萬物相】大学歌謡祭」(7/14、呉太鎮(오태진)首席論説委員)は、大学歌謡際前後に出身の歌手たちと、歌謡祭の終焉を次のよう紹介している。
(本ブログ関連:"大学歌謡祭")
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・1970年代の『KBS杯争奪全国のど自慢(KBS배 쟁탈 전국노래자랑)』は土曜日の夜、人々の目を白黒テレビにくぎ付けにした。韓国初のテレビ歌謡コンテストということで、ものすごい人気だった。71年の第1回大会年末決戦のことは40年以上も前だがはっきりと覚えている。勝者は18歳のキム・ミョンヒだった。ギターを弾きながら、細かく震えるビブラートで「セノヤ セノヤ」を歌った。現在は中堅ジャズシンガー、ユン・ヒジョンとして活躍している。丸刈りの頭を毛糸の帽子で隠した高校生チョン・ヨンノクは「デュオ」というグループで出場して奨励賞を手にした。
・この番組は70年代末に一度なくなり、80年に『全国のど自慢』として復活したが、新人歌手発掘ではなく、地域の人々が集うのど自慢大会になった。77年にMBCが始めた「大学歌謡祭」に人気を奪われたためだ。そのころの大学生たちはロックバンドに夢中だった。ソウルだけでも20を超えるバンドが毎年集まり、腕を競った。大学歌謡祭は若者文化を自作曲コンテストへと導き入れ、維新体制(朴正煕〈パク・チョンヒ〉大統領による独裁体制)に息を詰まらせていた若者たちに熱狂的に支持された。
・初期の大学歌謡祭は歌手のイ・スマン(이수만)が司会をした。ソウル大学農学部に通う大学生のバンド「サンド・ペブルス(샌드페블즈)」にいたイ・スマンは、今やK-POP界を担う大手事務所SMエンターテインメントの会長だ。第1回大賞は、イ・スマンの4年後輩のサンド・ペブルスが「僕、どうしたら(나 어떡해)」で獲得した。このグループの1年先輩に当たるキム・チャンフンが作詞・作曲した。兄のキム・チャンワンと共に「サンウルリム(こだま)」を結成した、あのキム・チャンフンだ。釜山大学合唱団「引き潮(썰물)」の「押し寄せる波の音に(밀려오는 파도소리에)」が優勝した第2回大会も話題になった。
・第2回に準優勝に当たる金賞を受賞したのは、「曲がりくねった道(돌고 돌아가는 길)」を歌った檀国大学のノ・サヨン(노사연)だった。銀賞にはペ・チョルス率いる航空大学在学生によるバンド「滑走路」の「仮面劇」が選ばれた。だが、当時人気があったのは断然、明知大学のシム・ミンギョンだった。大学生お決まりのジーンズとTシャツではなく、きちんとした襟のある水色のワンピース姿でピアノの前に座った。歌もロックやフォークではなく、トロット(明るい歌詞やメロディーの演歌)だった。シム・ミンギョン(심민경)はピアノを弾きながら自作曲「あの時 あの人(그때 그 사람)」を情感豊かに歌った。間もなく「歌手シム・スボン(심수봉)」としてデビュー、この曲は歌謡ランキング番組を総なめにした。
・数々のスター歌手やヒット曲を生み出した大学歌謡祭が、その歴史にピリオドを打った。MBCは、「制作費がかなり掛かるのに視聴率は非常に低い。大衆と呼応できない『むなしいこだま』だった」と理由を説明した。2000年代になるとスター育成は芸能プロダクションが担うようになった。そして歌手の登竜門といえばオーディション番組に取って代わられた。昨年の大学歌謡祭の賞金は500万ウォン(約44万円)だったが、オーディション番組の賞金は5億ウォン(約4400万円)に達した。あらゆる分野間で壁が取り払われようとしている時代に、大学生という「くくり」があるのも感覚的に古かったのだろう。70-80年代に青春を過ごした世代にとってまた一つ、思い出が遠くなった。
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(本ブログ関連:"大学歌謡祭")
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・1970年代の『KBS杯争奪全国のど自慢(KBS배 쟁탈 전국노래자랑)』は土曜日の夜、人々の目を白黒テレビにくぎ付けにした。韓国初のテレビ歌謡コンテストということで、ものすごい人気だった。71年の第1回大会年末決戦のことは40年以上も前だがはっきりと覚えている。勝者は18歳のキム・ミョンヒだった。ギターを弾きながら、細かく震えるビブラートで「セノヤ セノヤ」を歌った。現在は中堅ジャズシンガー、ユン・ヒジョンとして活躍している。丸刈りの頭を毛糸の帽子で隠した高校生チョン・ヨンノクは「デュオ」というグループで出場して奨励賞を手にした。
・この番組は70年代末に一度なくなり、80年に『全国のど自慢』として復活したが、新人歌手発掘ではなく、地域の人々が集うのど自慢大会になった。77年にMBCが始めた「大学歌謡祭」に人気を奪われたためだ。そのころの大学生たちはロックバンドに夢中だった。ソウルだけでも20を超えるバンドが毎年集まり、腕を競った。大学歌謡祭は若者文化を自作曲コンテストへと導き入れ、維新体制(朴正煕〈パク・チョンヒ〉大統領による独裁体制)に息を詰まらせていた若者たちに熱狂的に支持された。
・初期の大学歌謡祭は歌手のイ・スマン(이수만)が司会をした。ソウル大学農学部に通う大学生のバンド「サンド・ペブルス(샌드페블즈)」にいたイ・スマンは、今やK-POP界を担う大手事務所SMエンターテインメントの会長だ。第1回大賞は、イ・スマンの4年後輩のサンド・ペブルスが「僕、どうしたら(나 어떡해)」で獲得した。このグループの1年先輩に当たるキム・チャンフンが作詞・作曲した。兄のキム・チャンワンと共に「サンウルリム(こだま)」を結成した、あのキム・チャンフンだ。釜山大学合唱団「引き潮(썰물)」の「押し寄せる波の音に(밀려오는 파도소리에)」が優勝した第2回大会も話題になった。
・第2回に準優勝に当たる金賞を受賞したのは、「曲がりくねった道(돌고 돌아가는 길)」を歌った檀国大学のノ・サヨン(노사연)だった。銀賞にはペ・チョルス率いる航空大学在学生によるバンド「滑走路」の「仮面劇」が選ばれた。だが、当時人気があったのは断然、明知大学のシム・ミンギョンだった。大学生お決まりのジーンズとTシャツではなく、きちんとした襟のある水色のワンピース姿でピアノの前に座った。歌もロックやフォークではなく、トロット(明るい歌詞やメロディーの演歌)だった。シム・ミンギョン(심민경)はピアノを弾きながら自作曲「あの時 あの人(그때 그 사람)」を情感豊かに歌った。間もなく「歌手シム・スボン(심수봉)」としてデビュー、この曲は歌謡ランキング番組を総なめにした。
・数々のスター歌手やヒット曲を生み出した大学歌謡祭が、その歴史にピリオドを打った。MBCは、「制作費がかなり掛かるのに視聴率は非常に低い。大衆と呼応できない『むなしいこだま』だった」と理由を説明した。2000年代になるとスター育成は芸能プロダクションが担うようになった。そして歌手の登竜門といえばオーディション番組に取って代わられた。昨年の大学歌謡祭の賞金は500万ウォン(約44万円)だったが、オーディション番組の賞金は5億ウォン(約4400万円)に達した。あらゆる分野間で壁が取り払われようとしている時代に、大学生という「くくり」があるのも感覚的に古かったのだろう。70-80年代に青春を過ごした世代にとってまた一つ、思い出が遠くなった。
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2013年7月4日木曜日
MBC「大学歌謡祭」廃止
1984年、イ・ソンヒが思い出深いスタイルで登場してデビューのきっかけになったMBCの「江辺歌謡祭(강변가요제)」からはチャン・ユンジョンなど数々の歌手が誕生したが、1979年以来つづいたこの音楽祭は2001年に終了した。
この歌謡祭と対比されるものに、同じくMBCの「大学歌謡祭(대학가요제)」があった。1977年を第一回としながら昨年まで継続したこの音楽祭もついに終焉を迎えたと、インターネットニュース・シンムンゴは、「大学歌謡祭 『時代変わったのではなく、MBCが変わった』」(7/4)と次のように伝えている。
しかし記事にあるイ・ソンヒは「大学歌謡祭」出身ではないのだが。それに、「大学歌謡祭」にはシム・スボンがいる。
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去る36年間青年文化を引っ張ってきたMBC「大学歌謡祭」が廃止された。MBCは去る(6月)2日、大学歌謡祭プログラムに対して視聴率低調を理由に廃止を確定したと明らかにした。
MBCは今年、大学歌謡祭の予算を策定しておらず、関係者は「時代が変わった。『大学歌謡祭』の影響力と人気が以前とは違ったのが事実」としながら、「もう終える時が来たたようだ」と伝えた。
1977年初めて開催された「大学歌謡祭」は、昨年開かれた第36回まで何と36年の間、新人歌手の登竜門だった。大学歌謡祭は、ペ・チョルス、キム・ドンリュル、シン・ヘチョル、ノ・サヨン、イム・ベクチョン、イ・ソンヒ、キム・ギョンホなどを輩出してきた。
これに対し「大学歌謡祭」廃止は、単純に長寿プログラムが消えるのではなく、時代を風靡した文化コンテンツを一つ失うということなので意味するところが大きい。
一方、インターネットユーザーたちは、「時代が変わったのではなく、MBCが変わった」としながら、「惜しい」という反応が多かった。
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もっぱらスターが出てこないからというのが理由のようだが・・・。
この歌謡祭と対比されるものに、同じくMBCの「大学歌謡祭(대학가요제)」があった。1977年を第一回としながら昨年まで継続したこの音楽祭もついに終焉を迎えたと、インターネットニュース・シンムンゴは、「大学歌謡祭 『時代変わったのではなく、MBCが変わった』」(7/4)と次のように伝えている。
しかし記事にあるイ・ソンヒは「大学歌謡祭」出身ではないのだが。それに、「大学歌謡祭」にはシム・スボンがいる。
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去る36年間青年文化を引っ張ってきたMBC「大学歌謡祭」が廃止された。MBCは去る(6月)2日、大学歌謡祭プログラムに対して視聴率低調を理由に廃止を確定したと明らかにした。
MBCは今年、大学歌謡祭の予算を策定しておらず、関係者は「時代が変わった。『大学歌謡祭』の影響力と人気が以前とは違ったのが事実」としながら、「もう終える時が来たたようだ」と伝えた。
1977年初めて開催された「大学歌謡祭」は、昨年開かれた第36回まで何と36年の間、新人歌手の登竜門だった。大学歌謡祭は、ペ・チョルス、キム・ドンリュル、シン・ヘチョル、ノ・サヨン、イム・ベクチョン、
これに対し「大学歌謡祭」廃止は、単純に長寿プログラムが消えるのではなく、時代を風靡した文化コンテンツを一つ失うということなので意味するところが大きい。
一方、インターネットユーザーたちは、「時代が変わったのではなく、MBCが変わった」としながら、「惜しい」という反応が多かった。
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もっぱらスターが出てこないからというのが理由のようだが・・・。
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