五行の要素でも、とりわけ「火」に強く反応する。日常、当り前のように火を操るが、火山の噴火、落雷や山火事で延焼する炎に超越した力を感じる。火は当たり前の、当たり前でない存在なのだ。
火は信仰につながる。護摩に火を焚いたり、山伏の火渡りがあったりする。宗教行事であり、習俗として身近に接するものがある。火は、神事であれ、仏事であれ、燃え継ぐことで永遠性を想わせる。
大晦日の夜、京都「八坂神社」の「をけら参り」で、火のついた縄をもらいうけ、消えぬよう縄を廻しながら帰宅する。学生時代、京都の知人の下宿を足場にして正月前後の行事を見て廻った。そういえば、火縄をぐるぐる廻す光景が記憶にないな。
今晩も行なわれる、天平勝宝4年(752年)以来の奈良「東大寺二月堂」の「お水取り」行事、「修二会」の大松明を見に3度出かけたことがある。二月堂の高い舞台から延びた大松明の火の粉が舞い散るのを人々は歓声をあげて見守る。かすかに火の粉が流れてきてもいとわない。春が来る喜びでもある。帰り道、甘酒売りがあって、冷えた体を温めたりする。行ってみたかった。
お水取りの行事に「達陀(だったん)の行法」があるが、この「達陀」の音に「韃靼」がイメージしてならない。
(素晴らしいお水取りのYoutube映像・音声、感謝)
(Youtubeに登録のsharakucorpに感謝)