3連休最終日のきょう、国民の祝日の「敬老の日」の昼過ぎに街へ出た。曇天の空に雨を予想してか人影は少ない。雲がみるみる灰色を増し、今にも雨が降るのじゃないかと、早々引きあげることにした。結局、雨は降らなかったが。
(本ブログ関連:”敬老の日”)
街のどこにも、敬老を示す気配はない*。日本の年寄(65歳以上)人口の割合は約29.1%という、当たり前の存在になっている。よく見れば、街中どこもかしこも年寄ばかりに気づく。
(*)スーパーの店内放送で、きょうは「じいじいの日」なんて言っていた。
ところで、むかしの物語には、集団内の物事を決めるとき、長老に判断をゆだねる場面がある。知恵と思慮深い老人がいたのだろう。しかしながら、今は年寄が貴重でもなんでもない・・・深夜のテレビショップに申し込んだり、選挙のたび投票行動するくらいしか社会参加していない。若者には、面倒くさい存在になっているのが正直なところだ。まして、判断を求める対象にはならない。
そんなわけで忸怩たる思いのする日だが、昨年(2024年)、作家佐藤愛子の随筆「九十歳。何がめでたい」(小学館文庫、「女性セブン」連載より)が話題になり、映画にもなった。さっそく映画館に足を運んだりした。大笑いした。そして、鵜飼の鵜の心境がした。
(本ブログ関連:”佐藤愛子”)