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2012年12月20日木曜日

陶淵明-5

市民講座「陶淵明の描いた世界」は、今日が最終回(第5回目)である。陶淵明の親類・家族への思いや、晩年に際しての心情をうたった詩文について、田部井文雄先生から解説をいただいた。そのうえ、講義後に半時間ほど出席者との質疑応答の時間が設けられた。

陶淵明が五人の子どもの不出来に嘆く「子を責む」(責子)の詩は、むかし教科書で読んだことがあるけれど、子を持って初めて実感できるものだろう。講師が出席者に問えば、苦笑いするばかり。
詩中「阿舒(あじょ)は己(すで)に二八(にはち)なるに」(阿舒己二八)にある、「阿」の意は「~君、~ちゃん、~のやつ」といった呼びかけのようなもので、十六歳の舒君は、舒ちゃんは、舒のやつは・・・といったところだ。そして最後に、<それはそうとして酒を飲んで憂さ晴らしでもしよう>といったニュアンス、謙遜を口実に酒を飲む。

どうやら酒好きの陶淵明は、飲酒を詩のおちにしている。自分の弔いの詩(「挽歌の詩三首」其の一)を書いておきながら、それだけでも変なのに、死して後に悔やむのは「酒を飲むこと足るを得ざりしを」(飲酒不得足)と最後に付け加えるのだから。それって、酒が得意でない人間にとっては、なかなか難しい。

最後の質疑応答の時間で、「漢詩の理解を深めるにはどうすればよいか」という質問に対して、「師について学ぶしかないだろう」との回答があった。実は前々回の講義後に、イ・ソンヒの「分かりたいです」の漢詩<読み下し文>について相談したが、同様の回答を受けた。わたしも、いい師を探すしかないようだ。

(本ブログ関連:"陶淵明")