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2011年6月6日月曜日

イ・ソンヒの詩「マックス・ミュラーの『ドイツ人の愛』を読んで」

「ドイツ人の愛(Deutsche Liebe)」(マックス・ミュラー:神話学者)という小説がある。先日(5/20)のソウル漫歩で入手した、イ・ソンヒの詩集「去る者だけが愛を夢見ることができる(떠나는 자만이 사랑을 꿈꿀 수 있다)」(LPレコード版、1990年)に所収の詩「マックス・ミュラーの『ドイツ人の愛』*を読んで(막스 뮐러의 '독일인의 사랑'을 읽고 )」がなければ知ることもなかった。
(*)「ドイツ人の愛」は、「独逸人の愛」(相良守峯訳:太陽出版社、1944年)、「愛は永遠に」(相良守峯訳:角川文庫、1953年)というタイトルで出版された。

イ・ソンヒのこの詩は、「長く待たなければならないもの/しかし一瞬にしてたずねくるもの/そして絶対的なもの/そして利己的なもの/結局、愛は一度きりのもの」と要約されるだろう。彼女の26歳のときである。

幸いWeb上で、小説の一部(2番目と3番目の回想?)を抄訳(訳:中川英世、高岡法科大学紀要Vol.10、Mar.1990)であるが読むことができる。感謝。
随分と大袈裟な題名だが、その内容を要約すると次のようになる。

・小説は、主人公の一人称「私」で、回想風に語られている。
・幼い6歳の主人公は、父親と一緒に初めて侯爵夫妻に出会い、そのときの素朴で単純な愛情表現の振る舞いを父親から咎められ、「よその人」の存在を知り、その意味を学ぶ。純粋で深い愛情に包まれた子どもの世界から、子どもであることをやめてしまう世界に進むのだが。
・「よその人」に対する新しい愛は、渇望する愛であって、献身的に尽くす愛ではない。突き詰めれば、自分本位の愛である。そのことから、返って「見知らぬ人」こそ、もっとも近しい人だということに気付く。

・学校に通うようになった主人公は、侯爵夫妻の子どもたちと一緒に遊ぶことが許される。この頃、「私のものとあなたのもの」との所有の混乱がおこる。
(この辺りについて、作者つまり主人公のいささか社会性-他者との境(さかい)の認識-の乏しさを感じる)

・侯爵の亡き前妻の忘れ形見である、病弱で無口に寝椅子に横たわっている娘、マリーアと出会う。主人公は、成長して少年になっており、彼女を「よその人たち」のなかに見ることができるようになっていた。
・何歳か知らないマリーアは、子どものように見えたが、その物静かな態度から、もはや子どもではあり得なかった。ある暖かい春、彼女は誕生日に自ら指にはめている指輪を、4人の弟妹たちに渡す。そのとき、少年は彼女との間にある「よその人」の境を忘れる。彼女の最後の指輪を持ちたいという欲求にかられる。それに気付いた彼女は、いずれ皆の前から去るときに身に着けておきたかった指輪まで彼に渡した。
・ようやく「よその人」との境に気付いて少年は言った。「この指輪は、あなたが持っていかなければなりません。何故ならあなたのものは私のものだからです。」
指輪を自分の指にはめ直したマリーアは、「あななたは自分の言っていることが解らないのよ。自分が何をいっているのか理解することを学びなさい-そうすればあなたは幸せになれるでしょうし、多くの人々を幸せにすることができるでしょう。」と応えた。

(本ブログ関連:イ・ソンヒ詩集””)