帰宅途中、南西の空を眺めれば、三日月を追うように輝く星がある、金星だ。微かに明かりが残っている夜空にコントラストを強くして、月に負けずくっきり光っている。
こうやって金星を見るのは久しい。天の動きは地の動き、時が過ぎるのを思うとき、存在の小ささに気付く。といって、「寒さい、寒い」と小言して歩くのが精一杯かな。
金星が一番光度を増すのは、明後日7日(土)だそうだ。天気は次第に崩れて、雨ほどではないが、週末の夜は曇りとのこと。寒さも厳しくなるようだ。
イ・ソンヒが歌う童謡に「星を見ながら月を見ながら(별보며 달보며)」がある。高くて青い空の国お星さまの国に、永遠の笑いの国お月さまの国に住んでみたらと・・・夕べの空を眺める童たちは、子どもながらに、憂いを含めて夢が膨らむ。
(Youtubeに登録の Knightmareに感謝)
2013年12月5日木曜日
2013年12月4日水曜日
めでたい
めでたいことがあって、めでたい、めでたい。
祝いの歌を探したら、沖縄民謡に「めでたい節」があって、「めでたい めでたい すりすりめでたい めでたい めでたい」のお囃子に、なんだか南の暖かい風に酔ってしまいそうな気がする。めでたいと思うほどに、ますますめでたくなるよ。
人生一度限りという言葉、この歳になってようやく納得するが、どうやら遅きに過ぎる。でも時間のある限り大事にしたい。だから、人生を2度生きるようにすればいいのだ・・・Ampliat aetatis spatium sibi vir bonus; hoc est Vivere bis, vita posse priore frui(善き人は自分の生涯の期間を拡大する; 過ぎ去りし生涯を満足に楽しみうること、これは二度生くるなり)・・・人生満足するといわれても、どうすればいいのかな?
そういえば、サービスの定義に「生産=消費」がある。人生の瞬間(生産=消費)を満足できるように生きよ!というわけ。満足できる生き方を選択する、無理はしないけどチャレンジはしよう。そしてエンジョイしよう。
とりあえず、今宵はめでたい。明日もめでたい。(独りごと)
祝いの歌を探したら、沖縄民謡に「めでたい節」があって、「めでたい めでたい すりすりめでたい めでたい めでたい」のお囃子に、なんだか南の暖かい風に酔ってしまいそうな気がする。めでたいと思うほどに、ますますめでたくなるよ。
人生一度限りという言葉、この歳になってようやく納得するが、どうやら遅きに過ぎる。でも時間のある限り大事にしたい。だから、人生を2度生きるようにすればいいのだ・・・Ampliat aetatis spatium sibi vir bonus; hoc est Vivere bis, vita posse priore frui(善き人は自分の生涯の期間を拡大する; 過ぎ去りし生涯を満足に楽しみうること、これは二度生くるなり)・・・人生満足するといわれても、どうすればいいのかな?
そういえば、サービスの定義に「生産=消費」がある。人生の瞬間(生産=消費)を満足できるように生きよ!というわけ。満足できる生き方を選択する、無理はしないけどチャレンジはしよう。そしてエンジョイしよう。
とりあえず、今宵はめでたい。明日もめでたい。(独りごと)
2013年12月3日火曜日
流行語大賞2013
今年の流行語大賞が決まった。昨日のORICONSTYLEの記事「【2013新語・流行語】年間大賞は史上最多4つ 『じぇじぇじぇ』『倍返し』など本命勢揃い」(12/2)は次のように報じている。(抜粋)
予想した言葉「今でしょ」だけでなく、他に3語も加えて、計4語が大賞という大判振る舞いとなった。
(本ブログ関連:”2013年流行語大賞ノミネート”)
------------------------------------------------------
・その年話題となった新語・流行語を決定する年末恒例の『2013 ユーキャン新語・流行語大賞』(現代用語の基礎知識選)が2日発表され、
- 予備校講師・林修氏の「今でしょ!」、
- NHK連続テレビ小説『あまちゃん』の「じぇじぇじぇ」、
- TBS系連続ドラマ『半沢直樹』の「倍返し」、
- 東京五輪招致のプレゼンテーションで滝川クリステルが日本をPRする際に使用した「お・も・て・な・し」
が年間大賞に選ばれた。1984年に創設され、今年30回を迎える同賞において、史上最多となる4つの“言葉”が大賞に選ばれた。
・・・・また、選考員特別賞として「被災地が、東北が、日本がひとつになった 楽天、日本一をありがとう」が選ばれた。
------------------------------------------------------
予想した言葉「今でしょ」だけでなく、他に3語も加えて、計4語が大賞という大判振る舞いとなった。
(本ブログ関連:”2013年流行語大賞ノミネート”)
------------------------------------------------------
・その年話題となった新語・流行語を決定する年末恒例の『2013 ユーキャン新語・流行語大賞』(現代用語の基礎知識選)が2日発表され、
- 予備校講師・林修氏の「今でしょ!」、
- NHK連続テレビ小説『あまちゃん』の「じぇじぇじぇ」、
- TBS系連続ドラマ『半沢直樹』の「倍返し」、
- 東京五輪招致のプレゼンテーションで滝川クリステルが日本をPRする際に使用した「お・も・て・な・し」
が年間大賞に選ばれた。1984年に創設され、今年30回を迎える同賞において、史上最多となる4つの“言葉”が大賞に選ばれた。
・・・・また、選考員特別賞として「被災地が、東北が、日本がひとつになった 楽天、日本一をありがとう」が選ばれた。
------------------------------------------------------
KBS WORLD「国楽の世界へ」 伽椰琴
KBS WORLD「国楽の世界へ」は、先週水曜日(11/27)に文化的なキーワードに基づく韓国文化シリーズの第33回として、日本の琴に似た弦楽器「伽椰琴」にまつわる話を紹介した。
まず、弦楽器「伽椰琴(カヤグム、가야금)」の歴史から次のように紹介された。
・世界には多種の、世代、ジャンル、あるいは宗教によっても、それぞれに音楽がある。一国の王ならば、国民固有の音楽に対するプライドを願ったかもしれない。伽耶(3世紀~6世紀中頃)末期の王、嘉悉(カシル、가실、?~?)は、(韓国)史上、最初に音楽の力で民を治めることに注目した。この王の下に誕生したのが弦楽器の「伽椰琴」だ。
▼ 「霊山会相」中の「上霊山(상령산)」を聴く。18世紀以降の両班の風流音楽らしく揺ったり流れる。
次に、伽椰琴の創生に関わる嘉悉王と于勒(ウルグ、우륵)の話題を次のように説明された。
・伽椰琴は改良され、様々な音楽に広く使われたが、「上霊山」の演奏に使われた伽椰琴は、「正楽伽椰琴」と呼ばれ、1500年ほど前に誕生した当時の形を維持しているという。
(注)伽椰琴には、正楽演奏の「正楽伽椰琴」と、民俗楽演奏の「散調伽椰琴」の二種類がある。
・伽椰琴の創始者は、于勒が有名。(「三国史記」に、楽器作成者は嘉悉王とされている)
・伽椰琴の、半円形の上面は「空」を、平らな下面は「地面」を、弦の支えは12ヶ月を表し、奏でる音が自然に溶け込むよう考えられている。楽器が出来た後、嘉悉王から、「各国に方言があるように、音楽もひとつである必要は無い。お前が伽耶という国にふさわしい音楽をつくるのだ」と命ぜられた于勒は、伽耶国の地方名を曲名とし、全12曲を作曲した。最初の曲は「ハガラド(하가라도、現在の金海市地域,)」、2番目の曲は「サンガラド(상가라도、現在の高霊地域)」となっている。
▼ ファン・ビョンギ作曲の「加羅都(カラド、가라도)」(1963年)の第1章を聴く。古趣ただよう・・・透明感のある今様である。
最後に、伽耶から新羅に投じた于勒と、新羅王の真興(ジンフン、진흥、534年~576年)との交流を次の通り解説された。
・于勒が12曲を完成させてすぐ、伽耶は新羅に滅ぼされる。于勒は、国の危険を察し、伽椰琴と作曲した音楽を持って新羅に投降した。新羅の真興は、于勒を歓迎し、自国の若者たちを于勒の元へ派遣し、そのメロディーを学ばせた。于勒の音楽をマスターした若者たちは、さらに思いを込めた編曲と演奏をした。この事を耳にした于勒は、初めは怒りを示したが、若者たちの演奏を聞き、涙を流し感嘆したという。
・また王も、こうした新しい音楽を好んで演奏させた。それに対し家臣たちは、 滅んだ国の音楽は、わが国をも滅ぼすと揃って抗議したが、王は、国が滅んだのは王の責任であり、音楽には何の罪もないと主張し、伽耶伝来の音楽を、新羅のものとして演奏を指示した。伽椰琴が現在までに伝えられたのは、その価値を見抜いた真興王のおかげだとも言える。
▼ ファン・イジョン作曲の「于勒の舞(우륵의 춤)」の中から第1楽章を聴く。軽やかな・・・今様である。
まず、弦楽器「伽椰琴(カヤグム、가야금)」の歴史から次のように紹介された。
・世界には多種の、世代、ジャンル、あるいは宗教によっても、それぞれに音楽がある。一国の王ならば、国民固有の音楽に対するプライドを願ったかもしれない。伽耶(3世紀~6世紀中頃)末期の王、嘉悉(カシル、가실、?~?)は、(韓国)史上、最初に音楽の力で民を治めることに注目した。この王の下に誕生したのが弦楽器の「伽椰琴」だ。
▼ 「霊山会相」中の「上霊山(상령산)」を聴く。18世紀以降の両班の風流音楽らしく揺ったり流れる。
次に、伽椰琴の創生に関わる嘉悉王と于勒(ウルグ、우륵)の話題を次のように説明された。
・伽椰琴は改良され、様々な音楽に広く使われたが、「上霊山」の演奏に使われた伽椰琴は、「正楽伽椰琴」と呼ばれ、1500年ほど前に誕生した当時の形を維持しているという。
(注)伽椰琴には、正楽演奏の「正楽伽椰琴」と、民俗楽演奏の「散調伽椰琴」の二種類がある。
・伽椰琴の創始者は、于勒が有名。(「三国史記」に、楽器作成者は嘉悉王とされている)
・伽椰琴の、半円形の上面は「空」を、平らな下面は「地面」を、弦の支えは12ヶ月を表し、奏でる音が自然に溶け込むよう考えられている。楽器が出来た後、嘉悉王から、「各国に方言があるように、音楽もひとつである必要は無い。お前が伽耶という国にふさわしい音楽をつくるのだ」と命ぜられた于勒は、伽耶国の地方名を曲名とし、全12曲を作曲した。最初の曲は「ハガラド(하가라도、現在の金海市地域,)」、2番目の曲は「サンガラド(상가라도、現在の高霊地域)」となっている。
▼ ファン・ビョンギ作曲の「加羅都(カラド、가라도)」(1963年)の第1章を聴く。古趣ただよう・・・透明感のある今様である。
最後に、伽耶から新羅に投じた于勒と、新羅王の真興(ジンフン、진흥、534年~576年)との交流を次の通り解説された。
・于勒が12曲を完成させてすぐ、伽耶は新羅に滅ぼされる。于勒は、国の危険を察し、伽椰琴と作曲した音楽を持って新羅に投降した。新羅の真興は、于勒を歓迎し、自国の若者たちを于勒の元へ派遣し、そのメロディーを学ばせた。于勒の音楽をマスターした若者たちは、さらに思いを込めた編曲と演奏をした。この事を耳にした于勒は、初めは怒りを示したが、若者たちの演奏を聞き、涙を流し感嘆したという。
・また王も、こうした新しい音楽を好んで演奏させた。それに対し家臣たちは、 滅んだ国の音楽は、わが国をも滅ぼすと揃って抗議したが、王は、国が滅んだのは王の責任であり、音楽には何の罪もないと主張し、伽耶伝来の音楽を、新羅のものとして演奏を指示した。伽椰琴が現在までに伝えられたのは、その価値を見抜いた真興王のおかげだとも言える。
▼ ファン・イジョン作曲の「于勒の舞(우륵의 춤)」の中から第1楽章を聴く。軽やかな・・・今様である。
2013年12月2日月曜日
ウィンター・ワンダーランド
子ども時代、温暖地帯にある当時の家の造りは、今様に密封型ではなかった。ガラス窓と廊下の更に内側に障子で仕切った畳部屋があった。冬の夜になれば、木製の雨戸を閉めるのは必須だった。微かに隙間風がしみ込む部屋を暖めるのに火鉢を置いたりしたが、どれほどの暖房効果があっただろうか。けれど家族が集まれば、それだけで暖かく、交わす言葉にいっそう温もることができた。
今は、建物の構造が変わったし、暖房装置も石油やガスや電気を使うようになって、昔とは考えられない環境になっている。そんな変化の時代をまたいできたからか、懐旧も含めて、古い冬の歌に温もりを覚えるのかもしれない。
それは、興味しんしん眺めては触ろうとするたび親にたしなめられた、テーブルの上のいただき物のようなものだった。ビング・クロスビー(Bing Crosby、1903年5月3日~1977年10月14日)が歌う、「Winter Wonderland」(Richard B. Smith作詞、Felix Bernard作曲、1934年)はそんな歌だった。ワンダーランドの響きは、不思議というより、次々に素晴らしいものが飛び込んでくる憧れと期待の世界でもあったのだ。
(Youtubeに登録のChristmasTimeTVに感謝)
今は、建物の構造が変わったし、暖房装置も石油やガスや電気を使うようになって、昔とは考えられない環境になっている。そんな変化の時代をまたいできたからか、懐旧も含めて、古い冬の歌に温もりを覚えるのかもしれない。
それは、興味しんしん眺めては触ろうとするたび親にたしなめられた、テーブルの上のいただき物のようなものだった。ビング・クロスビー(Bing Crosby、1903年5月3日~1977年10月14日)が歌う、「Winter Wonderland」(Richard B. Smith作詞、Felix Bernard作曲、1934年)はそんな歌だった。ワンダーランドの響きは、不思議というより、次々に素晴らしいものが飛び込んでくる憧れと期待の世界でもあったのだ。
(Youtubeに登録のChristmasTimeTVに感謝)
2013年12月1日日曜日
残った林檎は12分の1
今年、残り2ヶ月しかない11月にならんとしたとき、それを林檎の実にたとえて、6分の1しか残っていないと嘆息した。今日から12月、最早12分の1を切るに至った。6分の1と12分の1では、見た目にも、気分も大違いだ。
(本ブログ関連:”残った林檎は6分の1”)
12月になると、今年のカレンダーはますます存在感が薄れて身の軽さに揺れる。来年のカレンダーは、秘かに虎視眈々とその座を狙っている。私も移り気なのか、今年のカレンダーには目もくれない・・・そんなことはないけれど、壁に掛かっている余命1ヶ月のカレンダーの心境を思うと、最後まで見届けてやろうと思う。
一足速く、この冬まだ見ぬ雪景色を、イ・ソンヒの「雪が降る(눈이내리네)」を聴きながら楽しもう。
(Youtubeに登録のYoungbum Kim·に感謝)
これは、アダモ(Salvatore Adamo)の「雪が降る(Tombe la neige)」(1963年)のカバーであり、イ・ソンヒのアルバム「冬の日のものがたり(겨울날의 이야기)」 (1988年)に収録されている。
(本ブログ関連:”雪が降る”)
(本ブログ関連:”残った林檎は6分の1”)
12月になると、今年のカレンダーはますます存在感が薄れて身の軽さに揺れる。来年のカレンダーは、秘かに虎視眈々とその座を狙っている。私も移り気なのか、今年のカレンダーには目もくれない・・・そんなことはないけれど、壁に掛かっている余命1ヶ月のカレンダーの心境を思うと、最後まで見届けてやろうと思う。
一足速く、この冬まだ見ぬ雪景色を、イ・ソンヒの「雪が降る(눈이내리네)」を聴きながら楽しもう。
(Youtubeに登録のYoungbum Kim·に感謝)
これは、アダモ(Salvatore Adamo)の「雪が降る(Tombe la neige)」(1963年)のカバーであり、イ・ソンヒのアルバム「冬の日のものがたり(겨울날의 이야기)」 (1988年)に収録されている。
(本ブログ関連:”雪が降る”)
2013年11月30日土曜日
(資料)イ・ソンヒのスター・ストーリー「6.キリギリスのように歌いながら高3の熱い夏を・・・」
先日(9/27)、「スポーツ韓国」の紙面(1991年3月8日~4月5日)に連載された「イ・ソンヒ27歳当時のスター・ストーリー」記事の目次を紹介したが、その第6回目をここに載せたい。感謝。
イ・ソンヒが、高3のときに巡り合った音楽上の幸運、チャン・ウクチョ音楽室、作曲家イ・セゴンとの出会い、仁川専門大のときに音楽環境を整えようとした武勇伝、音楽サークル<4>(四幕五場)への参加、そしてMBC「江辺歌謡祭」への準備などを知ることができた。
(本ブログ関連:”(資料)イ・ソンヒ(27歳当時)の「スター・ストーリー」”、”資料:이선희 Profile”)
[6] キリギリスのように歌いながら高3の熱い夏を・・・
--------------------------------------------------------------
(父親の意向で)絵を描けないことになると、しばらく疎(おろそ)かにした歌がやりたかった。喉(声帯)がうずうずした。普段なにげなく通り過ぎた音楽学院の看板が、突然両の目に入ってきた。
その音楽学院は、当時ソウル駅と三角地(삼각지)の間に位置していた「チャン・ウクチョ(장욱조)組音楽室」だった。
(注)本ブログ関連:”チャン・ウクチョ音楽室”
音楽室の門を叩いたが、職業歌手や芸能人になるという考えは夢にもなかった。事実、私は高等学校を卒業する時までも、友人が芸能界のスターを偶像のごとく崇拝する姿をまったく理解することができなかった。
いずれにせよ、「一度、思う存分歌でも歌ってみようかな」という、私心ない気持ちでチャン・ウクチョ音楽室に出入りし始めた。それが高3の時だ。
他の人びとは「高3病」(ストレス)だ。「入試地獄」といって盛んに「大学受験との戦争」に没頭している時、私は絵を描けないので、歌を歌おうと打って出たので、完全に「くそ度胸」だったわけだ。 率直にいって、大学に行きたい気持ちがあまりなかったし。
音楽室に出入りしたりしたが、正式に登録してレッスンを受けたわけではない。「芸能人になろうと決心したのか」と、それこそ目をむいて反対する家で、どうしてあえて受講料をもらうことができようか。私に金を儲ける能力があったわけでもなく。
世の中に無料がどこかにあるだろうけれど、私の歌の実力が音楽室でも受け入れられたし、一種の奨学生同様の待遇を受けることになる破格の経験をした。
チャン・ウクチョ音楽室に入って、歌を歌ってみたいと話すと、当時あまり名が知られなかった作曲家のイ・セゴン(이세건)、ソン・ジュホ(송주호)氏などが「一度、見せてください」と冷ややかな反応を見せた。
私が全情熱を傾けて、ニール・セダカ(Neil Sedaka)の「きみこそすべて(You Mean Everything to Me)」(1960年)を終わらせた時、その方々は非常に満足な表情であったし、したがって私はいつでも喉が「うずうず」したら、音楽室に立ち寄るようになった。
1984年に(江辺歌謡祭で)、私に大賞の栄光をもたらし遭遇したのもまさにここだった。
実力は優れていたが、単に無名の新人という理由だけで、作曲家のイ・セゴン氏は、数多くの歌手に無視されなければならなかったし、心血を注いで書いたものは危うく永遠に、「J~、私はあなたを忘れた・・・」という、残念な思いをするところだったのだ。
(注)本ブログ関連:”イ・セゴンと「Jへ」”
家中の激しい反対を押し切って、時たまではあるが、音楽室で気が晴れるまで歌を歌うことができたのは、高3の時期、両親と「生き別れ(親離れ)」をしたおかげが大きかった。
父の所属寺院が(ソウルの南の)城南にある寺に変わったが、それでも高3の私を転校させるには大学入試が気にかかったようだ。
それで、私は祖母と三人の歳下のきょうだい達と共に、ソウルの梨泰院の家で「準-少女家長」の役をして生きなければならなかった。
(注)イ・ソンヒは長女で歳下に弟がいることは知っていたが、更に2人のきょうだい(男女?)がいる。
遊んでばかりいた子どもも高3になれば、慌てて入試勉強に没頭するのが常なのに、なぜか私だけは万事泰平だった。
そのとき、私の心は、イソップ寓話に出てくる「アリ(蟻)」よりも「キリギリス」の側に傾いていたようだ。だから、友達が夏の間、アリのよう熱心に教科書と格闘したときに、私はキリギリスのように歌いながら暑い夏を涼しくおくった。
学校の成績は、「正直」にもどんどん下に落ちた。しかし、心配もなかった。大学というところに対する羨望はそもそもなかったから。
▼ 「私は大学に行かないつもりだ」という話を両親の前でも大っぴらに言い放ったりしたからか、84年度の3月、仁川専門大(인천전문대)環境管理学科に合格しても、父は私が果たして滞りなくやっていくことができるかについて、まったく信じられなかったようだ。本当はそんなことしたくないけれど、娘が大学登録料(授業料)をこっそり引き抜いて隠すのではないか心配になって学校までついてきて、登録済証の印を何度も確かめた。
大学に登録はしたが、数十万ウォンの登録料があまりにも惜しかった。「そのお金さえあれば私がしたい音楽をいくらでもできるはずなのに・・・」考えた末に、私は環境管理学のとある教授を訪ねて行った。
今思えば一言で「話にならない」哀訴を教授にならべた。「私は歌を歌いたいのにお金がないのです。 だから、登録料の半分だけ返していただけないでしょうか?」、まあ、そんな話だったようだ。
しばらく、あっけにとられた表情をしておられた教授は、やがて私を説得し始めた。「音楽することを止(と)めるつもりはない。だが、学校まで止(や)めながら歌を歌わなければならないほど、切迫したわけではないじゃないか。熱心にやって、アルバムでも世間にまず出すようになったら是非手伝ってあげる。」
お言葉を聞いて見ると、句句節節(一言一句)正しい言葉なので、私は考えを改めて講義にも洩れなく出席し、大学新入生としての自由を謳歌した。
思う存分歌を歌うことができるところを物色した私は、校内の音楽サークル<4>の新入会員募集ポスターが目について一走りに駆けつけて入会した。
(注)ここでいう音楽サークル<4>は、いわゆる「四幕五場」を指すと思われる。
<4>のメンバーは、音楽の実力は優れていたが、ろくな練習スペースが備えられない状態であった。私は、入学時の登録料を回してほしいと教授に駄々をこねた「勝ち気」だけ信じて、学長室に「談判」の長途(長い道のり)についた。学長面談の結果は、大成功だった。 <4>は、学校の建物屋上にある片隅に、ついにみすぼらしくても専用の練習室を整えることができた。
1学年の1学期が終わって夏休みが始まった。<4>は、その年7月29日のMBC「江辺歌謡祭(강변가요제)」を目標に猛練習に入っていったし、私は私なりに本格的に声を整え始めた。私が狙ったのは、秋のMBC「大学歌謡祭(대학가요제)」だったので、江辺歌謡祭はテストする一種の前哨戦ぐらいに軽く考えていた。
--------------------------------------------------------------
(Youtubeに登録のAshley Maxに感謝)
イ・ソンヒが、高3のときに巡り合った音楽上の幸運、チャン・ウクチョ音楽室、作曲家イ・セゴンとの出会い、仁川専門大のときに音楽環境を整えようとした武勇伝、音楽サークル<4>(四幕五場)への参加、そしてMBC「江辺歌謡祭」への準備などを知ることができた。
(本ブログ関連:”(資料)イ・ソンヒ(27歳当時)の「スター・ストーリー」”、”資料:이선희 Profile”)
[6] キリギリスのように歌いながら高3の熱い夏を・・・
--------------------------------------------------------------
(父親の意向で)絵を描けないことになると、しばらく疎(おろそ)かにした歌がやりたかった。喉(声帯)がうずうずした。普段なにげなく通り過ぎた音楽学院の看板が、突然両の目に入ってきた。
その音楽学院は、当時ソウル駅と三角地(삼각지)の間に位置していた「チャン・ウクチョ(장욱조)組音楽室」だった。
(注)本ブログ関連:”チャン・ウクチョ音楽室”
音楽室の門を叩いたが、職業歌手や芸能人になるという考えは夢にもなかった。事実、私は高等学校を卒業する時までも、友人が芸能界のスターを偶像のごとく崇拝する姿をまったく理解することができなかった。
いずれにせよ、「一度、思う存分歌でも歌ってみようかな」という、私心ない気持ちでチャン・ウクチョ音楽室に出入りし始めた。それが高3の時だ。
他の人びとは「高3病」(ストレス)だ。「入試地獄」といって盛んに「大学受験との戦争」に没頭している時、私は絵を描けないので、歌を歌おうと打って出たので、完全に「くそ度胸」だったわけだ。 率直にいって、大学に行きたい気持ちがあまりなかったし。
音楽室に出入りしたりしたが、正式に登録してレッスンを受けたわけではない。「芸能人になろうと決心したのか」と、それこそ目をむいて反対する家で、どうしてあえて受講料をもらうことができようか。私に金を儲ける能力があったわけでもなく。
世の中に無料がどこかにあるだろうけれど、私の歌の実力が音楽室でも受け入れられたし、一種の奨学生同様の待遇を受けることになる破格の経験をした。
チャン・ウクチョ音楽室に入って、歌を歌ってみたいと話すと、当時あまり名が知られなかった作曲家のイ・セゴン(이세건)、ソン・ジュホ(송주호)氏などが「一度、見せてください」と冷ややかな反応を見せた。
私が全情熱を傾けて、ニール・セダカ(Neil Sedaka)の「きみこそすべて(You Mean Everything to Me)」(1960年)を終わらせた時、その方々は非常に満足な表情であったし、したがって私はいつでも喉が「うずうず」したら、音楽室に立ち寄るようになった。
1984年に(江辺歌謡祭で)、私に大賞の栄光をもたらし遭遇したのもまさにここだった。
実力は優れていたが、単に無名の新人という理由だけで、作曲家のイ・セゴン氏は、数多くの歌手に無視されなければならなかったし、心血を注いで書いたものは危うく永遠に、「J~、私はあなたを忘れた・・・」という、残念な思いをするところだったのだ。
(注)本ブログ関連:”イ・セゴンと「Jへ」”
家中の激しい反対を押し切って、時たまではあるが、音楽室で気が晴れるまで歌を歌うことができたのは、高3の時期、両親と「生き別れ(親離れ)」をしたおかげが大きかった。
父の所属寺院が(ソウルの南の)城南にある寺に変わったが、それでも高3の私を転校させるには大学入試が気にかかったようだ。
それで、私は祖母と三人の歳下のきょうだい達と共に、ソウルの梨泰院の家で「準-少女家長」の役をして生きなければならなかった。
(注)イ・ソンヒは長女で歳下に弟がいることは知っていたが、更に2人のきょうだい(男女?)がいる。
遊んでばかりいた子どもも高3になれば、慌てて入試勉強に没頭するのが常なのに、なぜか私だけは万事泰平だった。
そのとき、私の心は、イソップ寓話に出てくる「アリ(蟻)」よりも「キリギリス」の側に傾いていたようだ。だから、友達が夏の間、アリのよう熱心に教科書と格闘したときに、私はキリギリスのように歌いながら暑い夏を涼しくおくった。
学校の成績は、「正直」にもどんどん下に落ちた。しかし、心配もなかった。大学というところに対する羨望はそもそもなかったから。
大学に登録はしたが、数十万ウォンの登録料があまりにも惜しかった。「そのお金さえあれば私がしたい音楽をいくらでもできるはずなのに・・・」考えた末に、私は環境管理学のとある教授を訪ねて行った。
今思えば一言で「話にならない」哀訴を教授にならべた。「私は歌を歌いたいのにお金がないのです。 だから、登録料の半分だけ返していただけないでしょうか?」、まあ、そんな話だったようだ。
しばらく、あっけにとられた表情をしておられた教授は、やがて私を説得し始めた。「音楽することを止(と)めるつもりはない。だが、学校まで止(や)めながら歌を歌わなければならないほど、切迫したわけではないじゃないか。熱心にやって、アルバムでも世間にまず出すようになったら是非手伝ってあげる。」
お言葉を聞いて見ると、句句節節(一言一句)正しい言葉なので、私は考えを改めて講義にも洩れなく出席し、大学新入生としての自由を謳歌した。
思う存分歌を歌うことができるところを物色した私は、校内の音楽サークル<4>の新入会員募集ポスターが目について一走りに駆けつけて入会した。
(注)ここでいう音楽サークル<4>は、いわゆる「四幕五場」を指すと思われる。
<4>のメンバーは、音楽の実力は優れていたが、ろくな練習スペースが備えられない状態であった。私は、入学時の登録料を回してほしいと教授に駄々をこねた「勝ち気」だけ信じて、学長室に「談判」の長途(長い道のり)についた。学長面談の結果は、大成功だった。 <4>は、学校の建物屋上にある片隅に、ついにみすぼらしくても専用の練習室を整えることができた。
1学年の1学期が終わって夏休みが始まった。<4>は、その年7月29日のMBC「江辺歌謡祭(강변가요제)」を目標に猛練習に入っていったし、私は私なりに本格的に声を整え始めた。私が狙ったのは、秋のMBC「大学歌謡祭(대학가요제)」だったので、江辺歌謡祭はテストする一種の前哨戦ぐらいに軽く考えていた。
--------------------------------------------------------------
(Youtubeに登録のAshley Maxに感謝)
2013年11月29日金曜日
地震があったんですけど
今日の日付に変わった真夜中の01:15、ドンと響いて次第に揺れがおさまったが、地震発生が最近集中する、千葉県北西部を震源にしたものだ。先週の日曜日も深夜00:50に、同じ千葉県北西部を震源にする揺れがあった。しかも深夜に地震が続くのはいい気分がしない。
(本ブログ関連:”地震が・・・”)
今日の地震について、気象庁の発表(11月29日01時19分)は次の通り。
---------------------------------------------
29日01時15分頃地震がありました。震源地は千葉県北西部で、震源の深さは約80km、地震の規模4.8と推定されます。
---------------------------------------------
地域別の震度発表では、当地の震度は「2」で、体感もそんな感じだった。
(付記)
そういえば、話題の「アイソン(ISON)彗星」が、太陽に近づいた(近日点通過29日)ところで、蒸発してしまったという話があったけれど、どうにか命をつないでいるいるという報道もある。
旅行会社主催のチャーター機に乗って、アイソン彗星を観察するというイベントがあるそうだが、どうなるのだろうか・・・12月7日の早朝に飛び立つ計画だそうだが。
(本ブログ関連:”地震が・・・”)
今日の地震について、気象庁の発表(11月29日01時19分)は次の通り。
---------------------------------------------
29日01時15分頃地震がありました。震源地は千葉県北西部で、震源の深さは約80km、地震の規模4.8と推定されます。
---------------------------------------------
地域別の震度発表では、当地の震度は「2」で、体感もそんな感じだった。
(付記)
そういえば、話題の「アイソン(ISON)彗星」が、太陽に近づいた(近日点通過29日)ところで、蒸発してしまったという話があったけれど、どうにか命をつないでいるいるという報道もある。
旅行会社主催のチャーター機に乗って、アイソン彗星を観察するというイベントがあるそうだが、どうなるのだろうか・・・12月7日の早朝に飛び立つ計画だそうだが。
2013年11月28日木曜日
石が逃げる
本当は、石が逃げれば良いのだが。美しい結晶を内蔵した岩石が、人の気配を察して地中深くに退避したら石泥棒のような事件もなかったろうに・・・それはさておき。
俳人といっても、「古句を観る」の著者としてしか存じぬが、柴田宵曲(しばたしょうきょく、1897年9月2日~1966年8月23日)の短文「動く石」に下総国葛飾郡立石村の石掘りの話しがある。畑中にある石を掘り返そうとしたが根が深くなかなか取り出せない。翌日行ってみると、石はまた深く潜り込んでいたというのだ。
江戸時代、近江国の木内石亭(きうちせきてい、1725年1月14日~1808年4月6日)の「雲根志」*にも触れられていて、「石の根を見んとして掘ったところ、言い伝えるごとく黄色の木の根の形をした石が土中にはびこっていた。その時、忽(たちま)ち石が振動、手伝った者どもは前後不覚の体となり、大いに病んだという。その後、この石の根を穿(うが)ちほじる事を固く戒めたという。」との記載がある。
(*) 「雲根志」:九州大学総合研究博物館 DIGITAL ARCHIVE
この石、現在の東京都葛飾区立石にある「立石様」の由来のようだ。インターネットに、さまざまな記載を見ることができるので、それらを元に一度現地を訪ねてみたい。
ネットの情報から、石が地中に逃げるという立石様の周辺には、「南蔵院裏古墳」があることから、石室との関連が推測できる・・・つまり、地中に空洞があってズリ込んだのではないかということだが・・・素人考えなので不思議な話のままでいようか。
俳人といっても、「古句を観る」の著者としてしか存じぬが、柴田宵曲(しばたしょうきょく、1897年9月2日~1966年8月23日)の短文「動く石」に下総国葛飾郡立石村の石掘りの話しがある。畑中にある石を掘り返そうとしたが根が深くなかなか取り出せない。翌日行ってみると、石はまた深く潜り込んでいたというのだ。
江戸時代、近江国の木内石亭(きうちせきてい、1725年1月14日~1808年4月6日)の「雲根志」*にも触れられていて、「石の根を見んとして掘ったところ、言い伝えるごとく黄色の木の根の形をした石が土中にはびこっていた。その時、忽(たちま)ち石が振動、手伝った者どもは前後不覚の体となり、大いに病んだという。その後、この石の根を穿(うが)ちほじる事を固く戒めたという。」との記載がある。
(*) 「雲根志」:九州大学総合研究博物館 DIGITAL ARCHIVE
この石、現在の東京都葛飾区立石にある「立石様」の由来のようだ。インターネットに、さまざまな記載を見ることができるので、それらを元に一度現地を訪ねてみたい。
ネットの情報から、石が地中に逃げるという立石様の周辺には、「南蔵院裏古墳」があることから、石室との関連が推測できる・・・つまり、地中に空洞があってズリ込んだのではないかということだが・・・素人考えなので不思議な話のままでいようか。
2013年11月27日水曜日
KBS WORLD「国楽の世界へ」 風流
KBS WORLD「国楽の世界へ」は、先週水曜日(11/20)に文化的なキーワードに基づく韓国文化シリーズの第32回として、「風流(풍류)」について紹介した。
まず、統一新羅時代(676年~935年)末の文人崔致遠(최치원、858年~?)による、「風流」の紹介から次のように始まった。
・崔致遠は、まだ12歳の頃に一人、唐に留学して勉学に励み、(874年)18歳で外国人のための科挙試験に合格した。その後、「黄巣(こうそう)の乱」の討伐軍軍師として従軍する。その折、黄巣が掌握した地域に、非難の文書を書いて撒いた。その文書の素晴らしさに、黄巣が驚いたという逸話がある。黄巣の乱を治めたのは、刀の力でなく、崔致遠の文章力だったといわれるほど、彼の文書の影響が強く認識された。
・後に、新羅に帰国した崔致遠は、有名な人物の碑文など多く書き残した。「鸞郞碑序」に、花郎(화랑)に関する一節、「國有玄妙之道曰風流~」(国には玄妙な道理があり、これを風流という~」がある。(同文は、高麗時代の「三国史記」(作成:1143年~1145年)に記載されている)
▼ 「霊山会相(영산회상)」の中から「細霊山(세령산)」を聴く。そこかしこに、アリランの風味がしてくる風流音楽。
次に、「花郎」の教えでもあったといわれる、「風流」と音楽について次のように解説された。
・花郎は、新羅の貴族子息の教育機関、或いはそこで教育を受けた人たちを指す。 「鸞郞碑序文」にある風流は、花郎の道(教え)のひとつと言われる。花郎は、「国仙」と言いい、言葉の通り、仙人のように景色のよい場所を訪ねては修練に励み、そこで、歌や音楽を楽しんだとも言われる。風流という言葉が今日、粋に遊ぶこと、麗しい情緒、俗なことを避け、高尚な遊戯にふけることといった、意味を持つようになった理由も、こうした過程から来たといわれる。
・朝鮮時代となると、ソンビ(博識な学者)たちが「舎廊房(사랑방)」に集い、音楽を聴いたり、絵を描いたり、詩をしたため、互いに意見を言い合った。こうした空間を「風流房(풍류방)」と呼び、そこで演奏しあった音楽を「風流音楽」と呼ぶ。酒のたしなみもその一つのよう。
▼ 酒を勧める「歌辞 勧酒歌(가사 권주가)」を聴く。酒杯ゆらり時に任せ、香りと味を楽しみたくなる・・・このまま酔いどれて。
最後に、風流音楽の種類とその意義を次のように説明された。
・風流音楽を、単に「風流」と呼ぶこともある。(朝鮮時代後期の)曲目「霊山会相」や、「ドドゥリ(도드리)」といった音楽は、弦楽器を中心に構成される演奏曲で、弦を表す「ジュル(줄)」をつけて「ジュル風流」という。また管楽器がメインとなる構成の場合は、その演奏を「テ風流」と呼ぶ。「テ」とは、管楽器の原材料の竹(テナム、대나무)の「テ」にちなむ。
・風流音楽は、楽器の構成を単純化し、ゆったりとした、観照的なメロディーを持つという特徴がある。淡々としていているが、心身の緊張を解きほぐし、自分自身に没頭する瞬間を作る。
▼ 「新水龍吟(신수룡음)」、「副題、還生(환생)」を聴く。基調に硬く・・・今様である。
まず、統一新羅時代(676年~935年)末の文人崔致遠(최치원、858年~?)による、「風流」の紹介から次のように始まった。
・崔致遠は、まだ12歳の頃に一人、唐に留学して勉学に励み、(874年)18歳で外国人のための科挙試験に合格した。その後、「黄巣(こうそう)の乱」の討伐軍軍師として従軍する。その折、黄巣が掌握した地域に、非難の文書を書いて撒いた。その文書の素晴らしさに、黄巣が驚いたという逸話がある。黄巣の乱を治めたのは、刀の力でなく、崔致遠の文章力だったといわれるほど、彼の文書の影響が強く認識された。
・後に、新羅に帰国した崔致遠は、有名な人物の碑文など多く書き残した。「鸞郞碑序」に、花郎(화랑)に関する一節、「國有玄妙之道曰風流~」(国には玄妙な道理があり、これを風流という~」がある。(同文は、高麗時代の「三国史記」(作成:1143年~1145年)に記載されている)
▼ 「霊山会相(영산회상)」の中から「細霊山(세령산)」を聴く。そこかしこに、アリランの風味がしてくる風流音楽。
次に、「花郎」の教えでもあったといわれる、「風流」と音楽について次のように解説された。
・花郎は、新羅の貴族子息の教育機関、或いはそこで教育を受けた人たちを指す。 「鸞郞碑序文」にある風流は、花郎の道(教え)のひとつと言われる。花郎は、「国仙」と言いい、言葉の通り、仙人のように景色のよい場所を訪ねては修練に励み、そこで、歌や音楽を楽しんだとも言われる。風流という言葉が今日、粋に遊ぶこと、麗しい情緒、俗なことを避け、高尚な遊戯にふけることといった、意味を持つようになった理由も、こうした過程から来たといわれる。
・朝鮮時代となると、ソンビ(博識な学者)たちが「舎廊房(사랑방)」に集い、音楽を聴いたり、絵を描いたり、詩をしたため、互いに意見を言い合った。こうした空間を「風流房(풍류방)」と呼び、そこで演奏しあった音楽を「風流音楽」と呼ぶ。酒のたしなみもその一つのよう。
▼ 酒を勧める「歌辞 勧酒歌(가사 권주가)」を聴く。酒杯ゆらり時に任せ、香りと味を楽しみたくなる・・・このまま酔いどれて。
最後に、風流音楽の種類とその意義を次のように説明された。
・風流音楽を、単に「風流」と呼ぶこともある。(朝鮮時代後期の)曲目「霊山会相」や、「ドドゥリ(도드리)」といった音楽は、弦楽器を中心に構成される演奏曲で、弦を表す「ジュル(줄)」をつけて「ジュル風流」という。また管楽器がメインとなる構成の場合は、その演奏を「テ風流」と呼ぶ。「テ」とは、管楽器の原材料の竹(テナム、대나무)の「テ」にちなむ。
・風流音楽は、楽器の構成を単純化し、ゆったりとした、観照的なメロディーを持つという特徴がある。淡々としていているが、心身の緊張を解きほぐし、自分自身に没頭する瞬間を作る。
▼ 「新水龍吟(신수룡음)」、「副題、還生(환생)」を聴く。基調に硬く・・・今様である。
2013年11月26日火曜日
イ・ソンヒの「ひとしきり笑いで」
イ・ソンヒの5集所収の「ひとしきり笑いで(한바탕 웃음으로)」(作詞作曲ソン・シヒョン、1989年)は、彼女の歌の中で、「あ!昔よ(아! 옛날이여)」、「美しい江山(아름다운 강산)」、「ケンチャナ(괜찮아)」などに通じる、何かを吹き払い、いかにも前向きな響きがする、韓国らしいトーンの強い曲である。
(本ブログ関連:”ひとしきり笑いで”)
ひとしきり笑いして、知らないふりをするには
この世界の若いため息が、あまりにも深くて
ひとしきり涙して、忘れてしまうには
この世界の若い傷跡が、あまりにも大きい
私は再び眠りたいだけ、子どもの頃のように夢の中で
私は再び夢を見たいだけ、ひたすら笑っていた子供の頃のように
若いため息、ため息が薄れる日、世界は本当に美しいよ
若い傷跡、傷跡が薄れる日、世界は本当に美しいよ
ひとしきり笑いして、知らないふりをするには
この世界の若いため息が、あまりにも深くて
ひとしきり涙して、忘れてしまうには
この世界の若い傷跡が、あまりにも大きい
(Youtubeに登録のsunnyfan100に感謝)
(本ブログ関連:”ひとしきり笑いで”)
ひとしきり笑いして、知らないふりをするには
この世界の若いため息が、あまりにも深くて
ひとしきり涙して、忘れてしまうには
この世界の若い傷跡が、あまりにも大きい
私は再び眠りたいだけ、子どもの頃のように夢の中で
私は再び夢を見たいだけ、ひたすら笑っていた子供の頃のように
若いため息、ため息が薄れる日、世界は本当に美しいよ
若い傷跡、傷跡が薄れる日、世界は本当に美しいよ
ひとしきり笑いして、知らないふりをするには
この世界の若いため息が、あまりにも深くて
ひとしきり涙して、忘れてしまうには
この世界の若い傷跡が、あまりにも大きい
(Youtubeに登録のsunnyfan100に感謝)
2013年11月25日月曜日
(資料)レイフ・ギャレット
昨日(11/24)登録した、「(資料)イ・ソンヒのスター・ストーリー『5.私はもうこれ以上内気な子どもではなかった』」から、気になった点や、関連情報を次のように加える。
イ・ソンヒは、小学生の頃に自分なりに童謡をアレンジして(風味をつけて)歌ったそうだが、中学生になると韓国の大衆歌謡だけでなく、カントリー・シンガーソングライターのジム・リーブス(Jim Reeves、1923年8月20日~1964年7月31日)の歌「He'll Have to Go(가야만 하리)」まで歌ったという。
イ・ソンヒ誕生は1964年であり、その年に上記ジム・リーブスは飛行機事故で亡くなっている。そのことを考えると、イ・ソンヒが中学生時代に、彼の歌を選択した背景に何があってのことだろうか。中学生の多感な時期とはいえ、まだ何を歌えばよいのか、自分にあった曲は何なのかという模索を始める前だったかもしれない。いいかえれば、彼女が書を濫読したように、音楽についてもあらゆるものを吸収しようとしていた時期だったのだろう。
イ・ソンヒが中学2年の時にようやく巡り合ったのが、新しい曲スタイルのレイフ・ギャレット(Leif Garrett、1961年11月8日~)だった。韓国のWikipediaには記載がないが、ハンギョレ紙の記事「来韓公演の歴史を書いた歌手たち」(2010年7月28日)は次のように記している。
------------------------------------------------
レイフ·ギャレット、アメリカの男性ポップ歌手。1980年、ソウル南山崇音楽堂で公演した。(ティーンエイジャーの)女性観客たちが肌着(下着)をステージに投げて話題になった。当時の公演を報道した記事には、「狂乱」、「奇声」のような言葉が登場した。来韓公演のオープニングは、多少突飛にも、第1世代の韓国のヘビメタルバンド「シャーマン」が引き受けた。
------------------------------------------------
イ・ソンヒは、小学生の頃に自分なりに童謡をアレンジして(風味をつけて)歌ったそうだが、中学生になると韓国の大衆歌謡だけでなく、カントリー・シンガーソングライターのジム・リーブス(Jim Reeves、1923年8月20日~1964年7月31日)の歌「He'll Have to Go(가야만 하리)」まで歌ったという。
イ・ソンヒ誕生は1964年であり、その年に上記ジム・リーブスは飛行機事故で亡くなっている。そのことを考えると、イ・ソンヒが中学生時代に、彼の歌を選択した背景に何があってのことだろうか。中学生の多感な時期とはいえ、まだ何を歌えばよいのか、自分にあった曲は何なのかという模索を始める前だったかもしれない。いいかえれば、彼女が書を濫読したように、音楽についてもあらゆるものを吸収しようとしていた時期だったのだろう。
イ・ソンヒが中学2年の時にようやく巡り合ったのが、新しい曲スタイルのレイフ・ギャレット(Leif Garrett、1961年11月8日~)だった。韓国のWikipediaには記載がないが、ハンギョレ紙の記事「来韓公演の歴史を書いた歌手たち」(2010年7月28日)は次のように記している。
------------------------------------------------
レイフ·ギャレット、アメリカの男性ポップ歌手。1980年、ソウル南山崇音楽堂で公演した。(ティーンエイジャーの)女性観客たちが肌着(下着)をステージに投げて話題になった。当時の公演を報道した記事には、「狂乱」、「奇声」のような言葉が登場した。来韓公演のオープニングは、多少突飛にも、第1世代の韓国のヘビメタルバンド「シャーマン」が引き受けた。
------------------------------------------------
2013年11月24日日曜日
(資料)イ・ソンヒのスター・ストーリー「5.私はもうこれ以上内気な子どもではなかった」
先日(9/27)、「スポーツ韓国」の紙面(1991年3月8日~4月5日)に連載された「イ・ソンヒ27歳当時のスター・ストーリー」記事の目次を紹介したが、その第5回目をここに載せたい。感謝。
イ・ソンヒが多感な中学時代に経験した、ジム・リーブス、レイフ・ギャレットなどの音楽や、教師との出会いを、そして夢膨らむ高校時代に、5人組(歌)の音楽グループ結成などを知ることができた。
(本ブログ関連:”(資料)イ・ソンヒ(27歳当時)の「スター・ストーリー」”、”資料:이선희 Profile”)
[5] 私はもうこれ以上内気な子どもではなかった
-------------------------------------------------
▼ 1978年、私は信光女子中(신광여중)に入学した。制服を着て頭は髪を短くしたから良かったものの、ややもすれば国民学生(小学生)と間違えられるほど私は依然として小さかった。
2年生のときまでやはり1番、3年生のとき背番号は62番だった。私が突然成長したのでなく、3年生のときは背の大きさの逆順で番号を付けたためだ。
だが、声だけは誰よりも大きくて冴さえていて、音楽の時間はそれこそ「ほとんど私の独壇場」であった。
秋の運動会や遠足の道で、私は必ず招待歌手のもてなしを受けた。パティ・キムの「初虞(초우)」やジム・リーブス「(彼は)行かなければならないだろう」を好んで歌ったし、校長先生は歌が終われば私を呼んで直接飲み物をついでくださって、ほめられたりした。
(注)記事には”짐.브리스”とあるが、ジム・リーブス(Jim Reeves)の誤記と思われる。
私は音楽の教科書に入っている歌曲や民謡よりは、ラジオに流れてくる韓国歌謡により一層心が引かれた。
ラジオ歌謡に従って口ずさみながら本を読むのは何ににも変えることのできない私だけの時間、私だけの幸福だった。
中学時代に出た活字化された印刷物は、何でも片っ端から読んだ。それこそ多読雑読というほど。歌謡だけが全てだと思っていた私は、中学校2学年の時、はじめてポップ・ソングの魅力を感じることになった。
金髪をゆらゆらと垂れた美少年歌手レイフ・ギャレット(Leif Garrett)のソウル公演が契機であった。
(1980年の)ギャレットの公演には、色々な話も多かった。当時、一部の興奮した若者たちが肌着を脱ぎ捨てたり、発作を起こすまでするなど、マスコミの言うように「狂気」を見せたその現場に私もいた。
しかし、会場である南山の「崇音楽堂」に入るまで、レイフ・ギャレットがそれほども評判のいい歌手だとは、本当に知らなかった。ただし、ライブではなく、録音された曲に合わせて口を開ける(口ぱくな)誠意のない公演だったが、不自然でないほどアクティブなギャレットの舞台マナー、幻想的な光の中でさらに多くの光線を噴出した彼の容姿、そして客席の床まで振動が感じられるほど爆発的なサウンドは、私に大きな衝撃を与えた。世の中にこんな歌もあったんだ。
彼の公演以後、私の愛聴ラジオ番組の目録には、深夜のポップソング番組が追加されたことはもちろんだ。恋人に「すっぽかされた」友人の兄さんに無料でもらった、レイフ・ギャレット コンサート チケット一枚が、私を新しい音楽世界に引き込んだのだ。
中学時代の私は、永遠に忘れるができない恩師の一人に出会った。国語科目を担当しておられたヤン・ソンオク先生がまさにその方である。
授業時間ごとに、私が国語の教科書を読む姿を注意深く見守られた先生は、ある日私を教官室に呼んだ。学生が教官室に呼び出されれば十中八九「ひどい目にあう」ことが決まっているであろうために、私はいっぱい緊張した状態で教官室に入った。
だが、意外に先生は私の声がとても朗々(낭랑)として発音も正確だといって、雄弁班に加入することを薦められた。先生は、ご自宅に私を引き連れて、雄弁練習をさせるほど熱心であられた。結局、私は校内雄弁大会で優秀賞を受賞することによって、先生の愛情に少しでも恩返しをすることになった。「最優秀賞は逃したものの、2等はなんともはや」
雄弁を通じて、内省的な性格がある程度「改造された」私は、合唱団にも入ってソプラノで活動したし、学芸会の時は(児童劇の)「靴直し屋と銀行頭取」という演劇に主演で出演したりもした。私の演技がよほど実感できたのか見物にきた高校生のお姉さんたちも絶賛した。すべてにますます自信が生じた。
周辺に友人も一人、二人増えていった。学校生活も楽しいばかりだった。
行きがかりで私は指揮者として前に出た。校内合唱大会で優勝した私たちのクラスは、教育区庁大会にまで進出した。
(注)教育区庁:ソウル特别市など広域市の教育委員会下部执行機関。
ただし、ランキングに入れなかったが、世宗文化会館の舞台に立ったという事実、しかも舞台上の小さい舞台である指揮台に上って格好良くフォームをつけて指揮をしてみたという事実だけを考えても、(ランキングに入れなかったことを)うらやむことはなかった。
前述したように、中学校時代、私は片っ端から本を読んだ。特に「ロミオとジュリエット」は何度も繰り返し読んだ本だ。
そうしているうちに、孔子の「韋編三絶(一冊の書籍を繰り返し繰り返し読む)」という話そのまま、文字通り本自体がボロボロになった。ロミオとジュリエットの年齢が私とほぼ同じなので、それだけ共感の幅も大きかったようだ。
韓国近現代の名作や世界の名作という古典は、それなりの基準を持って読んだ。いくら不朽の傑作と評価される小説でも、ある程度読んでつまらなければ、二度と調べてみなかった。今でも、興味の要素が欠如した文は、めったに読まれない。だが、かなり重い主題を下地にしていても、プロットや表現、または気持ちにすっぽり入る登場人物があれば明け方まで火を灯す。
探偵小説の類いと武侠誌も私の読書履歴で絶対に欠かすことのできない本だ。ルパンは、無性に小面憎かったし、シャーロック・ホームズはとても素晴らしく感じられた。日常生活でも、あたかも探偵にでもなったように塀に背中を密着させて、左右をきょろきょろ見回しながらわけもなく敏捷なふりをしたりしたし、教室で鉛筆一本がなくなっても、犯人を捕らえるといったあらゆる推理を動員したりした。さらに、夢の中ではプロックコートにチェック柄の帽子、その上パイプまで口に咥えてワトソン博士とコーヒーを飲んだりもしたほどだった。
漫画本もたくさん見た。最も感動を覚えた漫画は「ガラスの城」だ。ありふれた文芸作品より、はるかに秀作ということを今でも信じて疑わない。「キャンディ」はそれほどであったし、「男女共学」も「アカシア」もとてもおもしろく眺めた。夜遅くまで、小説と漫画にはまってみると、中2の頃、視力が急激に落ちてメガネが必要になった。今使っているメガネも、その時の小説と漫画のお陰だ。
中学校の時は驚くべきことに、ただ一度も学校を移ったことがなかった。ときおり、信光女子中の後輩から「信光が産んだ2大スターは、ソンヒ姉さんとタレント イ・ミスク姉さんです」云々という手紙を受けるたび、はっきりした母校を持っていることをとてもに幸いに思う。
▼ 1981年3月、私は祥明女子高(상명여고)に進学した。私は、もうこれ以上内気な子どもではなかった。
歌が好きな友人たちと5人組グループを結成して、活発な演奏活動を広げることもした。
ところで面白いことに、私たちのグループの名前はなかったのだ。昨日は「アカシア」であって、今日は「クリスタル」という式で、メンバーの気分のままチーム名称を変えたりした。
私たちは、養老院や孤児院を訪ねて行って慰問公演を繰り広げたし、校内サークルであるRCT、MRA(道徳再武装運動:Moral Rearmament)、ガールスカウトなどの招待を受けて、きれいな和音を入れることもした。私たちのグループの「名声」は口から口へ広まった。
(注)RCT: サークルについて不明
そのようなある日、近隣の男子高等学校で祭りの時、特別ゲストに私たちを招待するというではないか、胸がむやみにときめいた。
当時、私たちの5人組グループ・メンバーは、私をはずしてみなスマートで美しかったが、特にピアノを担当した友人は「絶世佳人」というに値するほどの美女であった。
講堂をいっぱい埋めた丸坊主の男子学生の視線が、ピアニストに集中したことは自然の「摂理」であった。
だが、順序に従い、私が独唱を終わらせた時状況は逆転した。思いもよらぬ度外れた歓呼と拍手喝采の中で「アンコール、アンコール」の要求がとどまるところを知らなかった。その時から、私は男子学生が「よそ見」しないように、彼らの目と耳をぎゅっとつかむのに成功した。同じ年頃の少女たちに認められた私の歌が、少年たちにも通じる可能性があることを確認した貴重な舞台であった。
私は歩くのが好きだった。高3の時まで地下鉄があることも分からないほどだ。バスもほとんど利用することがなかったので、バスに乗るたびに友人にバス料金を確認しなければならなかった。
登下校するたびに、必ず通り過ぎなければならない三角地(삼각지)陸軍本部近くの街路樹の道を私はとりわけ好んだ。帰宅途中に、友人とともに小道に沿って歩きながら楽しんだ「カバンかつぎ」は、今でも鮮やかに目に浮かぶ。
ジャンケンに無性に強い私なので、友人が私のカバンまで持たなければならない場合が大部分だったが、たまたま私が友人のカバンを持つことになる時は、(さらに)カバンの一つ持つことで恥ずかしい思いを受けなければならなかった。
ひとまず私は、二つのカバンを開きあけて中身をみな取り出した。それから教科書や辞書、重い参考書などをカバンの一つにまとめ入れて、こわれやすい物や軽い物などで、他のカバンの一つを満たした。
その次の段階は、「投げること」の連続だった。力いっぱい手前にバッグを投げては取り・・・
ある日のこと、通りすがりの黒人兵士の一人が痛ましく見えたのか情けないと感じたのか、つかつかと大股で近寄ってカバンの二つを持ってくれたこともあった。
1年生の2学期末から、私は絵にすっかりはまった。だいぶ素質があるように見えたのか、美術の先生は学校付近の画室を推薦してくださった。1年と一学期をさらに通ったから、かなり長い期間を染料の臭いの中で送ったわけだ。
父は、私が絵に没頭することがやはりとても不満だった。「お前はやれという勉強はしなくて、よりによって『芸人』、でなければ『金稼ぎ』か」といって、筆や染料を目につき次第なくしてしまった。
母はそれでも「あなたが、そんなにもしたいのであれば...」といいながら、父にこっそりとアトリエ(画室)の登録費や美術道具代を渡してくれたりしたが、結局父の厳しい反対で画家の夢は中途で放棄するほかなかった。
-------------------------------------------------
イ・ソンヒが多感な中学時代に経験した、ジム・リーブス、レイフ・ギャレットなどの音楽や、教師との出会いを、そして夢膨らむ高校時代に、5人組(歌)の音楽グループ結成などを知ることができた。
(本ブログ関連:”(資料)イ・ソンヒ(27歳当時)の「スター・ストーリー」”、”資料:이선희 Profile”)
[5] 私はもうこれ以上内気な子どもではなかった
-------------------------------------------------
▼ 1978年、私は信光女子中(신광여중)に入学した。制服を着て頭は髪を短くしたから良かったものの、ややもすれば国民学生(小学生)と間違えられるほど私は依然として小さかった。
2年生のときまでやはり1番、3年生のとき背番号は62番だった。私が突然成長したのでなく、3年生のときは背の大きさの逆順で番号を付けたためだ。
だが、声だけは誰よりも大きくて冴さえていて、音楽の時間はそれこそ「ほとんど私の独壇場」であった。
秋の運動会や遠足の道で、私は必ず招待歌手のもてなしを受けた。パティ・キムの「初虞(초우)」やジム・リーブス「(彼は)行かなければならないだろう」を好んで歌ったし、校長先生は歌が終われば私を呼んで直接飲み物をついでくださって、ほめられたりした。
(注)記事には”짐.브리스”とあるが、ジム・リーブス(Jim Reeves)の誤記と思われる。
私は音楽の教科書に入っている歌曲や民謡よりは、ラジオに流れてくる韓国歌謡により一層心が引かれた。
ラジオ歌謡に従って口ずさみながら本を読むのは何ににも変えることのできない私だけの時間、私だけの幸福だった。
中学時代に出た活字化された印刷物は、何でも片っ端から読んだ。それこそ多読雑読というほど。歌謡だけが全てだと思っていた私は、中学校2学年の時、はじめてポップ・ソングの魅力を感じることになった。
金髪をゆらゆらと垂れた美少年歌手レイフ・ギャレット(Leif Garrett)のソウル公演が契機であった。
(1980年の)ギャレットの公演には、色々な話も多かった。当時、一部の興奮した若者たちが肌着を脱ぎ捨てたり、発作を起こすまでするなど、マスコミの言うように「狂気」を見せたその現場に私もいた。
しかし、会場である南山の「崇音楽堂」に入るまで、レイフ・ギャレットがそれほども評判のいい歌手だとは、本当に知らなかった。ただし、ライブではなく、録音された曲に合わせて口を開ける(口ぱくな)誠意のない公演だったが、不自然でないほどアクティブなギャレットの舞台マナー、幻想的な光の中でさらに多くの光線を噴出した彼の容姿、そして客席の床まで振動が感じられるほど爆発的なサウンドは、私に大きな衝撃を与えた。世の中にこんな歌もあったんだ。
彼の公演以後、私の愛聴ラジオ番組の目録には、深夜のポップソング番組が追加されたことはもちろんだ。恋人に「すっぽかされた」友人の兄さんに無料でもらった、レイフ・ギャレット コンサート チケット一枚が、私を新しい音楽世界に引き込んだのだ。
中学時代の私は、永遠に忘れるができない恩師の一人に出会った。国語科目を担当しておられたヤン・ソンオク先生がまさにその方である。
授業時間ごとに、私が国語の教科書を読む姿を注意深く見守られた先生は、ある日私を教官室に呼んだ。学生が教官室に呼び出されれば十中八九「ひどい目にあう」ことが決まっているであろうために、私はいっぱい緊張した状態で教官室に入った。
だが、意外に先生は私の声がとても朗々(낭랑)として発音も正確だといって、雄弁班に加入することを薦められた。先生は、ご自宅に私を引き連れて、雄弁練習をさせるほど熱心であられた。結局、私は校内雄弁大会で優秀賞を受賞することによって、先生の愛情に少しでも恩返しをすることになった。「最優秀賞は逃したものの、2等はなんともはや」
雄弁を通じて、内省的な性格がある程度「改造された」私は、合唱団にも入ってソプラノで活動したし、学芸会の時は(児童劇の)「靴直し屋と銀行頭取」という演劇に主演で出演したりもした。私の演技がよほど実感できたのか見物にきた高校生のお姉さんたちも絶賛した。すべてにますます自信が生じた。
周辺に友人も一人、二人増えていった。学校生活も楽しいばかりだった。
行きがかりで私は指揮者として前に出た。校内合唱大会で優勝した私たちのクラスは、教育区庁大会にまで進出した。
(注)教育区庁:ソウル特别市など広域市の教育委員会下部执行機関。
ただし、ランキングに入れなかったが、世宗文化会館の舞台に立ったという事実、しかも舞台上の小さい舞台である指揮台に上って格好良くフォームをつけて指揮をしてみたという事実だけを考えても、(ランキングに入れなかったことを)うらやむことはなかった。
前述したように、中学校時代、私は片っ端から本を読んだ。特に「ロミオとジュリエット」は何度も繰り返し読んだ本だ。
そうしているうちに、孔子の「韋編三絶(一冊の書籍を繰り返し繰り返し読む)」という話そのまま、文字通り本自体がボロボロになった。ロミオとジュリエットの年齢が私とほぼ同じなので、それだけ共感の幅も大きかったようだ。
韓国近現代の名作や世界の名作という古典は、それなりの基準を持って読んだ。いくら不朽の傑作と評価される小説でも、ある程度読んでつまらなければ、二度と調べてみなかった。今でも、興味の要素が欠如した文は、めったに読まれない。だが、かなり重い主題を下地にしていても、プロットや表現、または気持ちにすっぽり入る登場人物があれば明け方まで火を灯す。
探偵小説の類いと武侠誌も私の読書履歴で絶対に欠かすことのできない本だ。ルパンは、無性に小面憎かったし、シャーロック・ホームズはとても素晴らしく感じられた。日常生活でも、あたかも探偵にでもなったように塀に背中を密着させて、左右をきょろきょろ見回しながらわけもなく敏捷なふりをしたりしたし、教室で鉛筆一本がなくなっても、犯人を捕らえるといったあらゆる推理を動員したりした。さらに、夢の中ではプロックコートにチェック柄の帽子、その上パイプまで口に咥えてワトソン博士とコーヒーを飲んだりもしたほどだった。
漫画本もたくさん見た。最も感動を覚えた漫画は「ガラスの城」だ。ありふれた文芸作品より、はるかに秀作ということを今でも信じて疑わない。「キャンディ」はそれほどであったし、「男女共学」も「アカシア」もとてもおもしろく眺めた。夜遅くまで、小説と漫画にはまってみると、中2の頃、視力が急激に落ちてメガネが必要になった。今使っているメガネも、その時の小説と漫画のお陰だ。
中学校の時は驚くべきことに、ただ一度も学校を移ったことがなかった。ときおり、信光女子中の後輩から「信光が産んだ2大スターは、ソンヒ姉さんとタレント イ・ミスク姉さんです」云々という手紙を受けるたび、はっきりした母校を持っていることをとてもに幸いに思う。
▼ 1981年3月、私は祥明女子高(상명여고)に進学した。私は、もうこれ以上内気な子どもではなかった。
歌が好きな友人たちと5人組グループを結成して、活発な演奏活動を広げることもした。
ところで面白いことに、私たちのグループの名前はなかったのだ。昨日は「アカシア」であって、今日は「クリスタル」という式で、メンバーの気分のままチーム名称を変えたりした。
私たちは、養老院や孤児院を訪ねて行って慰問公演を繰り広げたし、校内サークルであるRCT、MRA(道徳再武装運動:Moral Rearmament)、ガールスカウトなどの招待を受けて、きれいな和音を入れることもした。私たちのグループの「名声」は口から口へ広まった。
(注)RCT: サークルについて不明
そのようなある日、近隣の男子高等学校で祭りの時、特別ゲストに私たちを招待するというではないか、胸がむやみにときめいた。
当時、私たちの5人組グループ・メンバーは、私をはずしてみなスマートで美しかったが、特にピアノを担当した友人は「絶世佳人」というに値するほどの美女であった。
講堂をいっぱい埋めた丸坊主の男子学生の視線が、ピアニストに集中したことは自然の「摂理」であった。
私は歩くのが好きだった。高3の時まで地下鉄があることも分からないほどだ。バスもほとんど利用することがなかったので、バスに乗るたびに友人にバス料金を確認しなければならなかった。
登下校するたびに、必ず通り過ぎなければならない三角地(삼각지)陸軍本部近くの街路樹の道を私はとりわけ好んだ。帰宅途中に、友人とともに小道に沿って歩きながら楽しんだ「カバンかつぎ」は、今でも鮮やかに目に浮かぶ。
ジャンケンに無性に強い私なので、友人が私のカバンまで持たなければならない場合が大部分だったが、たまたま私が友人のカバンを持つことになる時は、(さらに)カバンの一つ持つことで恥ずかしい思いを受けなければならなかった。
ひとまず私は、二つのカバンを開きあけて中身をみな取り出した。それから教科書や辞書、重い参考書などをカバンの一つにまとめ入れて、こわれやすい物や軽い物などで、他のカバンの一つを満たした。
その次の段階は、「投げること」の連続だった。力いっぱい手前にバッグを投げては取り・・・
ある日のこと、通りすがりの黒人兵士の一人が痛ましく見えたのか情けないと感じたのか、つかつかと大股で近寄ってカバンの二つを持ってくれたこともあった。
1年生の2学期末から、私は絵にすっかりはまった。だいぶ素質があるように見えたのか、美術の先生は学校付近の画室を推薦してくださった。1年と一学期をさらに通ったから、かなり長い期間を染料の臭いの中で送ったわけだ。
父は、私が絵に没頭することがやはりとても不満だった。「お前はやれという勉強はしなくて、よりによって『芸人』、でなければ『金稼ぎ』か」といって、筆や染料を目につき次第なくしてしまった。
母はそれでも「あなたが、そんなにもしたいのであれば...」といいながら、父にこっそりとアトリエ(画室)の登録費や美術道具代を渡してくれたりしたが、結局父の厳しい反対で画家の夢は中途で放棄するほかなかった。
-------------------------------------------------
2013年11月23日土曜日
三段バラ
三段バラといっても、3段腹ではない。韓国料理の石焼き生三段バラ(サムギョプサル)を、いつもの教室仲間たちと新大久保に出て楽しんだ。
実は今日、教室が休みという連絡が事務局からあって、先に新大久保に出かけていたメンバーから誘いをいただいた・・・教室は休みなんだから、行かねばならない、食べねばならない。
みなと落ち合い、CD・書籍ショップ(コリアプラザ)に寄り、小冊子の「ちょっと気になる 韓流[ネット]用語99選」(KEJ)を入手した。本冊子はどちらかというと、流行語でしかも意味を圧縮したような略語の解説集だ。
例えば次のような紹介がある、「ベイグルニョ(베이글녀)」 = 「베이비(baby)」+「글래머(glamour)」+「녀(女性)」というわけで、「ベーグル女」ではない。「ベイビーフェイスにグラマーな体つきをした女性」を指すという具合。SBSのテレビドラマ「僕のガールフレンドは九尾狐」でキュートな女性(狐の化身)役をしたシン・ミナなどがあたるそうだ。
同じ系列店の伝統工芸品・化粧品ショップ(仁寺洞)にも寄って、正月の子ども遊びの「ユンノリ(윷놀이)」の遊具を求めた。Wikipediaにも解説があるので、参考にして遊んでみよう。
ちなみに、イ・ソンヒの思い出に次のような一説がある。
「(祖父は)田舎の家の裏庭にある竹で『洞箫(퉁소)』(尺八に似た笛)も直接作ってくれたし、クヌギの木で手作りで『ユッ』(小ちいさな丸い棒切れを割って作る四本一組の遊戯具)も切ってくれた。」
・・・ここでいう、「ユッ」は「ユンノリ」の「ユ」である。
さて、新大久保巡りのしめとして、家庭料理の店で、石焼き生三段バラ、ニラチヂミ、チャプチェなど旨い食事をした。腹いっぱいになって、おかげで、普段とは違ったいろいろな話をすることができた。急に教室が休みになったお蔭かもしれない。
実は今日、教室が休みという連絡が事務局からあって、先に新大久保に出かけていたメンバーから誘いをいただいた・・・教室は休みなんだから、行かねばならない、食べねばならない。
みなと落ち合い、CD・書籍ショップ(コリアプラザ)に寄り、小冊子の「ちょっと気になる 韓流[ネット]用語99選」(KEJ)を入手した。本冊子はどちらかというと、流行語でしかも意味を圧縮したような略語の解説集だ。
例えば次のような紹介がある、「ベイグルニョ(베이글녀)」 = 「베이비(baby)」+「글래머(glamour)」+「녀(女性)」というわけで、「ベーグル女」ではない。「ベイビーフェイスにグラマーな体つきをした女性」を指すという具合。SBSのテレビドラマ「僕のガールフレンドは九尾狐」でキュートな女性(狐の化身)役をしたシン・ミナなどがあたるそうだ。
同じ系列店の伝統工芸品・化粧品ショップ(仁寺洞)にも寄って、正月の子ども遊びの「ユンノリ(윷놀이)」の遊具を求めた。Wikipediaにも解説があるので、参考にして遊んでみよう。
ちなみに、イ・ソンヒの思い出に次のような一説がある。
「(祖父は)田舎の家の裏庭にある竹で『洞箫(퉁소)』(尺八に似た笛)も直接作ってくれたし、クヌギの木で手作りで『ユッ』(小ちいさな丸い棒切れを割って作る四本一組の遊戯具)も切ってくれた。」
・・・ここでいう、「ユッ」は「ユンノリ」の「ユ」である。
さて、新大久保巡りのしめとして、家庭料理の店で、石焼き生三段バラ、ニラチヂミ、チャプチェなど旨い食事をした。腹いっぱいになって、おかげで、普段とは違ったいろいろな話をすることができた。急に教室が休みになったお蔭かもしれない。
2013年11月22日金曜日
顔の識別
元来、記憶力が良い方ではないが、女優の顔の識別ができなくなった最初は随分昔のこと。テレビコマーシャルなどで見るほどの関心でしかなかったのだが、「原田知世」と「石田ひかり」のお二人がだぶってしまい、どっちがどっちなのか・・・というほどに曖昧になってからだ。
その後、新しいタレントたちに興味もなく、始めから覚えようという気もしなかったところ、とうとう最近になって、AKBのメンバーが全く判別できない・・・というより、彼女たちの歌っている番組も見たことがないのだが。意図的に見ないのではない。見ようという気力がなく、意欲も湧いてこない。それを惜しいと思うこともなくなっている・・・。
ところで、AGF「ブレンディー」のスティック・コーヒーのCMに、秋の紅葉を背景に、大人と子どもの女性が語り合うものがある。(Youtubeに登録者へ感謝)
大人の味である「コーヒー」の「濃い」と「恋」を掛け合わせるのだが、ふんわりした間合いがいい。その大人の女性が、調べてみれば原田知世だった。CF全体のバランスをとるように、ひょうきんな終わらせ方も、彼女の清潔感と合っているようで面白い。
原田知世は、イ・ソンヒと歳の差が3歳なので、近頃の女優さんは若い。
その後、新しいタレントたちに興味もなく、始めから覚えようという気もしなかったところ、とうとう最近になって、AKBのメンバーが全く判別できない・・・というより、彼女たちの歌っている番組も見たことがないのだが。意図的に見ないのではない。見ようという気力がなく、意欲も湧いてこない。それを惜しいと思うこともなくなっている・・・。
ところで、AGF「ブレンディー」のスティック・コーヒーのCMに、秋の紅葉を背景に、大人と子どもの女性が語り合うものがある。(Youtubeに登録者へ感謝)
大人の味である「コーヒー」の「濃い」と「恋」を掛け合わせるのだが、ふんわりした間合いがいい。その大人の女性が、調べてみれば原田知世だった。CF全体のバランスをとるように、ひょうきんな終わらせ方も、彼女の清潔感と合っているようで面白い。
原田知世は、イ・ソンヒと歳の差が3歳なので、近頃の女優さんは若い。
2013年11月21日木曜日
2013年流行語大賞ノミネート
今年も流行語大賞の発表時期(12/2)になり、昨日、50語の候補が発表された。その中で、だいたい知っているもの(○)、聞いたことはあるが内容を知らないもの(△)、聞いたこともなく知らないもの(×)に分類したら次のようになった。
聞いたこともなく知らない流行語が多いのに驚く。若者言葉に関心ないからか、そもそも世間に疎くなったからか・・・過去に大賞になった言葉も忘れているし。
そんなこんなで、言葉の感度もあてにならないが、私としては<流行語>として、「今でしょ」を推してみたい気がする。
-----------------------------------------
○: だいたい知っている ・・・・・・・・・・・・・・・・・ 30
△: 聞いたことはあるが内容を知らない ・・・・・ 3
×: 聞いたこともなく知らない ・・・・・・・・・・・・・ 17
○ PM2.5/ △ NISA(ニーサ)/ × 母さん助けて詐欺/ ○ 弾丸登山/ ○ 美文字/ ○ DJポリス/
× ななつ星/ ○ パズドラ/ ○ ビッグデータ/ × SNEP(スネップ)/ ○ ヘイトスピーチ/
△ さとり世代/ × ダークツーリズム/ △ ご当地電力/ ○ ご当地キャラ/ × こじらせ女子/
○ 富士山/ × 日傘男子/ × バカッター/ × 激おこぷんぷん丸/ × 困り顔メイク/
× 涙袋メイク/ ○ 倍返し/ ○ 今でしょ/ ○ ダイオウイカ/ ○ じぇじぇじぇ/ × あまロス/
○ ビッグダディ/ ○ ハダカの美奈子/ ○ ふなっしー/ ○ フライングゲット/ × マイナンバー/
○ NSC/ ○ アベノミクス/ ○ 3本の矢/ ○ 集団的自衛権/ ○ 特定秘密/ ○ 汚染水/
○ ブラック企業/ × 限定正社員/ ○ 追い出し部屋/ ○ ナチスの手口に学んだら/
○ ネット選挙/ × アホノミクス/ × 引いたら負け/ × 二刀流/ × スポーツの底力/
○ シライ/ ○ お・も・て・な・し/ ○ コントロールされている(under control)
-----------------------------------------
聞いたこともなく知らない流行語が多いのに驚く。若者言葉に関心ないからか、そもそも世間に疎くなったからか・・・過去に大賞になった言葉も忘れているし。
そんなこんなで、言葉の感度もあてにならないが、私としては<流行語>として、「今でしょ」を推してみたい気がする。
-----------------------------------------
○: だいたい知っている ・・・・・・・・・・・・・・・・・ 30
△: 聞いたことはあるが内容を知らない ・・・・・ 3
×: 聞いたこともなく知らない ・・・・・・・・・・・・・ 17
○ PM2.5/ △ NISA(ニーサ)/ × 母さん助けて詐欺/ ○ 弾丸登山/ ○ 美文字/ ○ DJポリス/
× ななつ星/ ○ パズドラ/ ○ ビッグデータ/ × SNEP(スネップ)/ ○ ヘイトスピーチ/
△ さとり世代/ × ダークツーリズム/ △ ご当地電力/ ○ ご当地キャラ/ × こじらせ女子/
○ 富士山/ × 日傘男子/ × バカッター/ × 激おこぷんぷん丸/ × 困り顔メイク/
× 涙袋メイク/ ○ 倍返し/ ○ 今でしょ/ ○ ダイオウイカ/ ○ じぇじぇじぇ/ × あまロス/
○ ビッグダディ/ ○ ハダカの美奈子/ ○ ふなっしー/ ○ フライングゲット/ × マイナンバー/
○ NSC/ ○ アベノミクス/ ○ 3本の矢/ ○ 集団的自衛権/ ○ 特定秘密/ ○ 汚染水/
○ ブラック企業/ × 限定正社員/ ○ 追い出し部屋/ ○ ナチスの手口に学んだら/
○ ネット選挙/ × アホノミクス/ × 引いたら負け/ × 二刀流/ × スポーツの底力/
○ シライ/ ○ お・も・て・な・し/ ○ コントロールされている(under control)
-----------------------------------------
2013年11月20日水曜日
大衆音楽家に対する勲章
韓国の国内に限ってのはなし。文化体育観光部が選定する文化芸術賞の最高勲章に金冠文化勲章があるが、その他に銀冠文化勲章などがある。歌謡界に対する国の評価につながるとして、SBSニュースの記事「[取材ファイル] チョー・ヨンピルがなぜ銀冠文化勲章か?」(11/19、クォン・ジョンオ記者)は、次のように言及している。(抜粋)
(本ブログ関連:”勲章”、”韓国ギャラップ”)
-----------------------------------------------
・・・今年は、現代美術の巨匠であるイ・ウファン画伯が金冠文化勲章を受賞しました。
・昨日、大衆文化芸術を導いた4人が銀冠文化勲章を受けました。「歌王」チョー・ヨンピル(63)、「喜劇界の大物」ク・ボンソ(87)、「国民俳優」アン・ソンギ(61)、「韓国最高のディーバ(歌姫)」パティ・キム(75)です。4人はこれ以上説明が必要ない大衆文化芸術界の巨木です。政府が彼らに銀冠文化勲章を授与したのは、それなりの原則と基準に基づいたものでしょう。それでもなぜか残念な気がするのは私だけではないでしょう。純粋芸術の側から、すでに多くの金冠文化勲章受賞者が出てきました。大衆芸術の中でも、映画側は故ユ・ヒョンモク監督とイム・グォンテク監督がこの勲章を受けました。しかし、大衆音楽家が最高等級の勲章を受けたことはまだ一度もありません。
・1979年、世宗文化会館は、国内の大衆歌手に公演会場を貸さなかった反面、フランスのシャンソン歌手サルヴァトーレ・アダモには貸館を許して、大きな批判を受けたことがあります。20年が過ぎた後も、大衆音楽を軽視する風潮は大きく変わらなかったのです。
1989年には、パティ·キムの「デビュー30周年公演」が開かれることになるとすぐに、世宗文化会館諮問委員の2人が辞退したりもしました。「歌手の公演は、体育館でしなければならない」という、大衆歌謡に対する侮辱の発言まで出てきました。・・・
・・・これまで大衆音楽への貢献を考えると、チョー・ヨンピル、イ・ミジャ(2009年、銀冠文化勲章受賞)、パティ・キムは、金冠文化勲章を授与されても全く遜色がないというのが私だけでなく多くの人々の考えでしょう。特にこの中でも、「歌王」チョー・ヨンピルの場合には、異論の余地がないと思われます。40年超えて数多くの国民の愛唱曲を発表し、ジャンルを越えた優れた歌唱力を披露しました。
2008年、世論調査専門機関である<韓国ギャラップ>が、建国60周年を迎え、全国民の世論調査をしました。そのとき私たち国民が最も好む歌手でチョー・ヨンピルが25.7%の支持を得て1位、続いてイ·ミジャ(2位、17.7%)、パティ・キム(5位、6.6%)がつづきました。特に、チョー・ヨンピル氏は、今年発表した19集「ハロー(HELLO)」を介して前の世代とのコミュニケーション(疎通)が可能な新しい音楽を試みながら、大衆音楽界の新しい反響を導き出したし、還暦が過ぎた年齢でも絶え間ない努力とチャレンジ精神で、国民の手本となるに十分でした。・・・大衆音楽も文化の大きな軸です。大衆音楽、歌手に対する政府の前向きな認識の転換が必要なときです。
-----------------------------------------------
(本ブログ関連:”勲章”、”韓国ギャラップ”)
-----------------------------------------------
・・・今年は、現代美術の巨匠であるイ・ウファン画伯が金冠文化勲章を受賞しました。
・昨日、大衆文化芸術を導いた4人が銀冠文化勲章を受けました。「歌王」チョー・ヨンピル(63)、「喜劇界の大物」ク・ボンソ(87)、「国民俳優」アン・ソンギ(61)、「韓国最高のディーバ(歌姫)」パティ・キム(75)です。4人はこれ以上説明が必要ない大衆文化芸術界の巨木です。政府が彼らに銀冠文化勲章を授与したのは、それなりの原則と基準に基づいたものでしょう。それでもなぜか残念な気がするのは私だけではないでしょう。純粋芸術の側から、すでに多くの金冠文化勲章受賞者が出てきました。大衆芸術の中でも、映画側は故ユ・ヒョンモク監督とイム・グォンテク監督がこの勲章を受けました。しかし、大衆音楽家が最高等級の勲章を受けたことはまだ一度もありません。
・1979年、世宗文化会館は、国内の大衆歌手に公演会場を貸さなかった反面、フランスのシャンソン歌手サルヴァトーレ・アダモには貸館を許して、大きな批判を受けたことがあります。20年が過ぎた後も、大衆音楽を軽視する風潮は大きく変わらなかったのです。
1989年には、パティ·キムの「デビュー30周年公演」が開かれることになるとすぐに、世宗文化会館諮問委員の2人が辞退したりもしました。「歌手の公演は、体育館でしなければならない」という、大衆歌謡に対する侮辱の発言まで出てきました。・・・
・・・これまで大衆音楽への貢献を考えると、チョー・ヨンピル、イ・ミジャ(2009年、銀冠文化勲章受賞)、パティ・キムは、金冠文化勲章を授与されても全く遜色がないというのが私だけでなく多くの人々の考えでしょう。特にこの中でも、「歌王」チョー・ヨンピルの場合には、異論の余地がないと思われます。40年超えて数多くの国民の愛唱曲を発表し、ジャンルを越えた優れた歌唱力を披露しました。
2008年、世論調査専門機関である<韓国ギャラップ>が、建国60周年を迎え、全国民の世論調査をしました。そのとき私たち国民が最も好む歌手でチョー・ヨンピルが25.7%の支持を得て1位、続いてイ·ミジャ(2位、17.7%)、パティ・キム(5位、6.6%)がつづきました。特に、チョー・ヨンピル氏は、今年発表した19集「ハロー(HELLO)」を介して前の世代とのコミュニケーション(疎通)が可能な新しい音楽を試みながら、大衆音楽界の新しい反響を導き出したし、還暦が過ぎた年齢でも絶え間ない努力とチャレンジ精神で、国民の手本となるに十分でした。・・・大衆音楽も文化の大きな軸です。大衆音楽、歌手に対する政府の前向きな認識の転換が必要なときです。
-----------------------------------------------
2013年11月19日火曜日
イ・ソンヒの「恋文」
週刊誌(週刊新潮)で、先月19日に作家の連城三紀彦氏が亡くなったと知った。直木賞受賞の「恋文」(1984年)に接したとき、文学音痴の私は、大人の恋愛小説といえば吉行淳之介のイメージしかないので、その延長で読んだ覚えがある。どちらかといえば、ラジオドラマにしていいような雰囲気で、ちょっと女性的な感じのする作品集だったと記憶する。
(注)「恋文」が直木賞受賞した1984年、イ・ソンヒが江辺歌謡祭で大賞受賞して世に登場した。
イ・ソンヒに7集所収の「恋文(연서)」(1991年、作詞イ・ナムギ、作曲キム・ジンリョン)がある。こちらは、歌の主人公が想っているよりも、う~んと若い恋の歌だ。旋律の心地よさに何度かこのブログにとりあげた。
(本ブログ関連:”恋文”)
(Youtubeに登録のlys2187に感謝)
(注)「恋文」が直木賞受賞した1984年、イ・ソンヒが江辺歌謡祭で大賞受賞して世に登場した。
イ・ソンヒに7集所収の「恋文(연서)」(1991年、作詞イ・ナムギ、作曲キム・ジンリョン)がある。こちらは、歌の主人公が想っているよりも、う~んと若い恋の歌だ。旋律の心地よさに何度かこのブログにとりあげた。
(本ブログ関連:”恋文”)
(Youtubeに登録のlys2187に感謝)
2013年11月18日月曜日
KBS WORLD「国楽の世界へ」 晩秋
KBS WORLD「国楽の世界へ」は、先週水曜日(11/13)に文化的なキーワードに基づく韓国文化シリーズの第31回として、「晩秋(만추)」について紹介した。
まず、高麗時代末期の懶翁(나옹)禅師(1320年~1376年)の詩について、次のような紹介から始まった。
・「広大な畑が欄干の前に開けている。四季折々、きれいな風が玄琴(コムンゴ、거문고)の音を運んでくれる。ぎっしりと並び、風の意を受けて、その影が庭を掃いても、埃はそのままだ。」
澄んだ月の光に、庭に垂れ下がった竹の陰が風に揺れている様は、まるで庭を掃いているように見える。
・風が少し吹くだけで、紅葉が頭上から舞い落ちる。昔は、竹を編んだ箒で庭掃除をした。
▼ 「掃葉山房(소엽산방)」中の「トドゥリ(도드리)」を聴く。秋晴れのした、<落ち葉がたまった庭を掃く人が住む山の家>には、葉が揺るりと舞いつづける・・・ようだ。
次に、朝鮮時代の申光洙(신광수、1712年~1775年)の詩について、次のよう説明された。
・秋の月の光を見ると、どこか物悲しい中にも、心が洗われていくようだ。こうした、晩秋の趣を表現した曲の一つに「關山戎馬(クァンサンユンマ、관산융마)」ある。
「秋の川は寂寞とし、魚さえ寒い。人々は西風を受けながら、仲宣楼(チュンソン楼、중선루)に登っている」から始まるこの歌は、申光洙が、科挙試験の際に書いた詩「登岳陽樓歎關山戎馬(등악양루탄관산융마)」を元にしている。科挙試験で2位となったこの詩は、歌として現在に伝えられる。
・この申光洙の詩は、中国唐代の詩人杜甫が、洞庭湖を見渡す岳陽樓に登って書いた詩「登岳陽樓」をモチーフとしている。「登岳陽樓」に登場する、岳陽樓や洞庭湖は瀟湘八景に数えられ、絶景とされる名勝地だ。美しい風景を前に、感嘆よりも切ない思いが先走る。杜甫は、故郷での戦話を思い出し、心を痛めたという。
▼ 詩唱「関山戎馬」を聴く。杜甫「魚龍寂寞秋江冷」、申光洙「秋江寂寞魚龍冷」・・・寂寞の様を朗詠する。
最後に、「雉鷄米(チゲミ、치계미)」の宴について次の通り解説された。
・物悲しさと華やかさが共存する、短い秋が終わると、すぐ厳しい冬がくる。昔は、貧しい人や、体の弱い人に辛い季節だった。人々は冬を前に、村の年寄りを招き、養老の宴の「雉鷄米」を開いたという。
・雉鷄米は元々、地方長官に当たる使道(사또)に出されるおかず(賄賂の意)をいう。村の年寄りを、使道のように、接待しようとする意が込められている。貧しくて、雉鷄米に米一粒も出せない家は、「溝鍋(トランタン、도랑탕)」という鍋を出した。その名は、立冬の頃、ドジョウが冬眠のため、トランという細い溝に隠れるので、掘り返してドジョウを捕え、ドジョウ鍋を出したことに由来する。
▼ 「世界で最も美しいものたち(세상에서 아름다운 것들)」を聴く。秋の映像を想わせる・・・今様である。
まず、高麗時代末期の懶翁(나옹)禅師(1320年~1376年)の詩について、次のような紹介から始まった。
・「広大な畑が欄干の前に開けている。四季折々、きれいな風が玄琴(コムンゴ、거문고)の音を運んでくれる。ぎっしりと並び、風の意を受けて、その影が庭を掃いても、埃はそのままだ。」
澄んだ月の光に、庭に垂れ下がった竹の陰が風に揺れている様は、まるで庭を掃いているように見える。
・風が少し吹くだけで、紅葉が頭上から舞い落ちる。昔は、竹を編んだ箒で庭掃除をした。
▼ 「掃葉山房(소엽산방)」中の「トドゥリ(도드리)」を聴く。秋晴れのした、<落ち葉がたまった庭を掃く人が住む山の家>には、葉が揺るりと舞いつづける・・・ようだ。
次に、朝鮮時代の申光洙(신광수、1712年~1775年)の詩について、次のよう説明された。
・秋の月の光を見ると、どこか物悲しい中にも、心が洗われていくようだ。こうした、晩秋の趣を表現した曲の一つに「關山戎馬(クァンサンユンマ、관산융마)」ある。
「秋の川は寂寞とし、魚さえ寒い。人々は西風を受けながら、仲宣楼(チュンソン楼、중선루)に登っている」から始まるこの歌は、申光洙が、科挙試験の際に書いた詩「登岳陽樓歎關山戎馬(등악양루탄관산융마)」を元にしている。科挙試験で2位となったこの詩は、歌として現在に伝えられる。
・この申光洙の詩は、中国唐代の詩人杜甫が、洞庭湖を見渡す岳陽樓に登って書いた詩「登岳陽樓」をモチーフとしている。「登岳陽樓」に登場する、岳陽樓や洞庭湖は瀟湘八景に数えられ、絶景とされる名勝地だ。美しい風景を前に、感嘆よりも切ない思いが先走る。杜甫は、故郷での戦話を思い出し、心を痛めたという。
▼ 詩唱「関山戎馬」を聴く。杜甫「魚龍寂寞秋江冷」、申光洙「秋江寂寞魚龍冷」・・・寂寞の様を朗詠する。
最後に、「雉鷄米(チゲミ、치계미)」の宴について次の通り解説された。
・物悲しさと華やかさが共存する、短い秋が終わると、すぐ厳しい冬がくる。昔は、貧しい人や、体の弱い人に辛い季節だった。人々は冬を前に、村の年寄りを招き、養老の宴の「雉鷄米」を開いたという。
・雉鷄米は元々、地方長官に当たる使道(사또)に出されるおかず(賄賂の意)をいう。村の年寄りを、使道のように、接待しようとする意が込められている。貧しくて、雉鷄米に米一粒も出せない家は、「溝鍋(トランタン、도랑탕)」という鍋を出した。その名は、立冬の頃、ドジョウが冬眠のため、トランという細い溝に隠れるので、掘り返してドジョウを捕え、ドジョウ鍋を出したことに由来する。
▼ 「世界で最も美しいものたち(세상에서 아름다운 것들)」を聴く。秋の映像を想わせる・・・今様である。
旧石器時代の人骨
昨晩、NHK教育TVの「科学番組「サイエンスZERO」は、日本国内の旧石器時代の人骨発見について、新しい情報をもとに、次のように紹介した。先日の市民向け公開講座を聞いたばかりなので興味深かった。
-----------------------------------------------------------
・日本は(火山灰による)酸性土壌が多く、旧石器時代の(リン酸カルシウムが主成分の)人骨は溶けて発見できないが、縄文時代の人骨は、(カルシウム成分が溶けた)アルカリ性の環境の貝塚で多数発見されている。
・ただし、沖縄県の港川(石灰石採石場で発見された、約1.8万年前の「港川人」)の人の骨格が旧石器時代のものとして、従来から知られている。
・また、沖縄地方を除いた旧石器時代の人骨は、静岡県の(石灰石採石場で発見された約1.8万年前の「浜北人」)が知られている。
・今回、沖縄県石垣島の新石垣空港の建設敷地内で発見された、旧石器時代の人の骨格で、国内最古の約2万年前とされ、その発掘現場が紹介された。
-----------------------------------------------------------
時間のスケールを考えると、何かの結論を出すのは慎重でなければならないだろう。研究者の方が、事実を一つ一つ積み重ねていくという風に語っていた。考古学はサイエンスだと思う。
(本ブログ関連:”旧石器時代の野川流域から見る”)
-----------------------------------------------------------
・日本は(火山灰による)酸性土壌が多く、旧石器時代の(リン酸カルシウムが主成分の)人骨は溶けて発見できないが、縄文時代の人骨は、(カルシウム成分が溶けた)アルカリ性の環境の貝塚で多数発見されている。
・ただし、沖縄県の港川(石灰石採石場で発見された、約1.8万年前の「港川人」)の人の骨格が旧石器時代のものとして、従来から知られている。
・また、沖縄地方を除いた旧石器時代の人骨は、静岡県の(石灰石採石場で発見された約1.8万年前の「浜北人」)が知られている。
・今回、沖縄県石垣島の新石垣空港の建設敷地内で発見された、旧石器時代の人の骨格で、国内最古の約2万年前とされ、その発掘現場が紹介された。
-----------------------------------------------------------
時間のスケールを考えると、何かの結論を出すのは慎重でなければならないだろう。研究者の方が、事実を一つ一つ積み重ねていくという風に語っていた。考古学はサイエンスだと思う。
(本ブログ関連:”旧石器時代の野川流域から見る”)
2013年11月17日日曜日
地震が・・・
先週の日曜日(11/10)に地元で震度3であった地震(震源地:茨城県南部、震度5弱、地震規模M5.5)から、ほぼ一週間たった昨晩(11/16)にも地元で震度2の地震(震源地:千葉県北西部、震度4、地震規模M5.4)があり、今日に日を越えたばかりの真夜中00:50にも揺れが続いた。
地震は慣れるようで慣れるものではない。それが続けば次第にストレスがたまる。わずかな揺れでも、どう変化するか知れず、慌ててストーブの日を消す。万が一、ストーブの火をつけたまま家が倒壊したら、火のついた家屋の下敷きになったらと想像するだけでも恐ろしい。
どうして気にするのかといえば、本日00:50の千葉県北西部を震源とする地震(規模M4.2)により、地元の震度1にもかかわらず・・・2階の棚に立てかけた携帯ラジオが転がり落ちたのだ。置き方が微妙だったかもしれないけれど、何ともいやな予感がする。
震源の茨城県南部と千葉県北西部とは、素人に見当がつかないが、地質学的にどういう関係にあるのだろうか、別種の構造・メカニズムなのか、それとも同種なのか知りたいところだ。といって、それが分かったからどうなるものでもないが。
地震は慣れるようで慣れるものではない。それが続けば次第にストレスがたまる。わずかな揺れでも、どう変化するか知れず、慌ててストーブの日を消す。万が一、ストーブの火をつけたまま家が倒壊したら、火のついた家屋の下敷きになったらと想像するだけでも恐ろしい。
どうして気にするのかといえば、本日00:50の千葉県北西部を震源とする地震(規模M4.2)により、地元の震度1にもかかわらず・・・2階の棚に立てかけた携帯ラジオが転がり落ちたのだ。置き方が微妙だったかもしれないけれど、何ともいやな予感がする。
震源の茨城県南部と千葉県北西部とは、素人に見当がつかないが、地質学的にどういう関係にあるのだろうか、別種の構造・メカニズムなのか、それとも同種なのか知りたいところだ。といって、それが分かったからどうなるものでもないが。
2013年11月16日土曜日
(資料)イ・ソンヒのスター・ストーリー「4.頻繁な転校と、『病気っ子』といわれていた国民学校(小学校)時代」
先日(9/27)、「スポーツ韓国」の紙面(1991年3月8日~4月5日)に連載された「イ・ソンヒ27歳当時のスター・ストーリー」記事の目次を紹介したが、その第4回目をここに載せたい。感謝。
イ・ソンヒの小学生時代の音楽経験について、例えば学芸会的なこと、子供向け音楽コンクール公開放送への出場など・・・知りたかったことだ。それに可愛い片思いの話も。
(本ブログ関連:”(資料)イ・ソンヒ(27歳当時)の「スター・ストーリー」”、”資料:이선희 Profile”)
[4] 頻繁な転校と、「病気っ子」といわれていた国民学校(小学校)時代
-------------------------------------------------
1972年3月、私は(ソウルの)城北区新洞国民学校に入学した。戸籍上、6歳であったから他の人々より2年先に学習の道に入ったわけだが、その時の私の本当の年齢は9歳だったので、むしろ一年遅れたわけだ。とにかく、私にとって国民学校への進学は以後度重なる「転校」の開始だった。
(注)年齢はすべて「数え年」
しばらく「留まった」学校でなく、それでも「在学」したと話せる学校を取り出せば、新洞、論峴、敦岩、梨泰院国民学校などだ。卒業証書を受けたところは、5年の2学期のときに転校した梨泰院国民学校だ。
(注)イ・ソンヒは父親に従って「国民学校だけ六ヶ所を転々と移り渡った。」(第3回 参照)
私は国民学校の時も、やっぱり同年輩より体つきが小さかった。6年を通して背番号の1番は私の一人占めだった。背のせいで運動場の朝会のたびに、最前列で先生と向かい合い、緊張の中に立ち続けねばならなかった。
ニックネームも「ヤマコ(『ちびちゃん:コマヤ꼬마야』を逆に)」、「テチュッシ(ナツメの種 대추씨:小柄ながらたくましくがっちりしている)」、「ちび(ジュイバンウル 쥐방울:不釣合に小柄)」など超小型だった。6年生になっても大人(?)と見違えるほどの3年生の後輩たちに「や~、~(し)よう」調のぞんざいな言葉にあう侮辱を受けたりもした。
私は背中に背負われるのにとてもなじんだ。母に背負われて登下校する姿が気の毒に見えたのか、体の大きな子供たちが時おり私を背負ってくれたりもした。
幼い頃から体が虚弱な方だった私は、体育の時間になると教室に残ったり、運動場のかげに座ってじっと見守ったりした。先生や友達に最初から「病気っ子」とつけられた私は、休みのたびに田舎で飛び回りながら体力を固めた後でも依然として、「病気の人、手をあげなさい」といえば、「この子で~す」と子供たちに指摘される「慢性患者」になってしまった。体操着に着替えるのもわずらわしいので、とても幸いなことだった。
しかし、よくある軽い病気がちでなく、どうして私が「病気っ子」であることを認めることができるだろうか。私は風邪が流行するたびに、一度も罹らずうつったことがなかった。また、病名は忘れたがかなり深刻な病気にかかった時もあった。国民学校4年生の時だったか、学校で手配してくれた病院でかなり長い間、通院治療を受けたことが思い起こされる。
私は3年生の時、およそ6ヶ月間、ガールスカウトで活動したことがある。
野営生活などを通じて心身を健全にできる良い機会であるとを何度も強調して、両親から入団の承諾を受けたが、内心目的は他の所にあった。
私が目指したのは、隣りのクラスの格好いいボーイスカウト隊員だった。女の子に人気が高かったあの子と自然に親しくなることができる方法は、私がブラウニー(Brownie:ガールスカウトの小学校低学年に相当の部門)になる道だけだった。ボーイ、ガールスカウトの合同集会などを通じて、ある程度その子と近づいたと満足していた頃、その少年はある日突然転校してしまったし、私の「第1の目標」が視野から消えたので、何の未練なく幼女隊(ブラウニー)を脱退した。
私は国民学校の時から、歌だけはどこの誰にも引けをとらなかったと自負する。
どんな場所でも歌を歌えといわれれば、遠慮したりとか、後の方をはずすことが一度もなかった。 かえって、「歌を歌うに値する場所はないのか」といいながら、ここかしこをのぞき込むほどだった。
いつだったか、国語の教科書に出てくる「森の鍛冶屋」という演劇をしたことがあった。各クラスを回っていた一種の「巡演」であったが、私が引き受けた配役は「スズメ」であった。理由はただ一つ。スズメ役の台詞部分が歌になっていたためだ。
一人でも歌うことができる歌、二人でも歌うことができる歌、多数がまじり合っても歌うことができる歌、そして歌が私になり、私が歌になる歌... 私はいつもそのような歌を歌いたかった。
「イ・ソンヒは歌が上手だ」といううわさは全校に広がったし、ある日、担任の先生がTV子供童謡大会に参加してみることを薦められた。それは4年生の時だ。
私は、「森の中の鍛冶屋」の演劇公演で「スズメ」に扮装して歌ったまさにその歌を歌って、KBS TV の(公開放送)「誰が誰がお上手か(누가누가 잘하나)」の1次予選を軽く通過した。
自信を得た私は、2次予選では歌の小節小節ごとに「雰囲気(멋)」をいっぱい入れて歌った。結果は脱落だった。私は今でもその時、情熱をつくして「童謡らしく」歌ったと信じる。国民学生があたかも「子おとな」のように童謡を歌謡調で歌って審査委員を当惑させたという話も聞いたが、私の胸の内はそうでなかった。もう少し上手くしようと、自ら「技巧」を働かせただけだった。とにかく当時の「予選脱落」は、私にとって大切な経験だった。「二度と上っ面だけのふりはしないだろう」。
-------------------------------------------------
イ・ソンヒの小学生時代の音楽経験について、例えば学芸会的なこと、子供向け音楽コンクール公開放送への出場など・・・知りたかったことだ。それに可愛い片思いの話も。
(本ブログ関連:”(資料)イ・ソンヒ(27歳当時)の「スター・ストーリー」”、”資料:이선희 Profile”)
[4] 頻繁な転校と、「病気っ子」といわれていた国民学校(小学校)時代
-------------------------------------------------
1972年3月、私は(ソウルの)城北区新洞国民学校に入学した。戸籍上、6歳であったから他の人々より2年先に学習の道に入ったわけだが、その時の私の本当の年齢は9歳だったので、むしろ一年遅れたわけだ。とにかく、私にとって国民学校への進学は以後度重なる「転校」の開始だった。
(注)年齢はすべて「数え年」
しばらく「留まった」学校でなく、それでも「在学」したと話せる学校を取り出せば、新洞、論峴、敦岩、梨泰院国民学校などだ。卒業証書を受けたところは、5年の2学期のときに転校した梨泰院国民学校だ。
(注)イ・ソンヒは父親に従って「国民学校だけ六ヶ所を転々と移り渡った。」(第3回 参照)
私は国民学校の時も、やっぱり同年輩より体つきが小さかった。6年を通して背番号の1番は私の一人占めだった。背のせいで運動場の朝会のたびに、最前列で先生と向かい合い、緊張の中に立ち続けねばならなかった。
ニックネームも「ヤマコ(『ちびちゃん:コマヤ꼬마야』を逆に)」、「テチュッシ(ナツメの種 대추씨:小柄ながらたくましくがっちりしている)」、「ちび(ジュイバンウル 쥐방울:不釣合に小柄)」など超小型だった。6年生になっても大人(?)と見違えるほどの3年生の後輩たちに「や~、~(し)よう」調のぞんざいな言葉にあう侮辱を受けたりもした。
私は背中に背負われるのにとてもなじんだ。母に背負われて登下校する姿が気の毒に見えたのか、体の大きな子供たちが時おり私を背負ってくれたりもした。
幼い頃から体が虚弱な方だった私は、体育の時間になると教室に残ったり、運動場のかげに座ってじっと見守ったりした。先生や友達に最初から「病気っ子」とつけられた私は、休みのたびに田舎で飛び回りながら体力を固めた後でも依然として、「病気の人、手をあげなさい」といえば、「この子で~す」と子供たちに指摘される「慢性患者」になってしまった。体操着に着替えるのもわずらわしいので、とても幸いなことだった。
しかし、よくある軽い病気がちでなく、どうして私が「病気っ子」であることを認めることができるだろうか。私は風邪が流行するたびに、一度も罹らずうつったことがなかった。また、病名は忘れたがかなり深刻な病気にかかった時もあった。国民学校4年生の時だったか、学校で手配してくれた病院でかなり長い間、通院治療を受けたことが思い起こされる。
私は3年生の時、およそ6ヶ月間、ガールスカウトで活動したことがある。
野営生活などを通じて心身を健全にできる良い機会であるとを何度も強調して、両親から入団の承諾を受けたが、内心目的は他の所にあった。
私が目指したのは、隣りのクラスの格好いいボーイスカウト隊員だった。女の子に人気が高かったあの子と自然に親しくなることができる方法は、私がブラウニー(Brownie:ガールスカウトの小学校低学年に相当の部門)になる道だけだった。ボーイ、ガールスカウトの合同集会などを通じて、ある程度その子と近づいたと満足していた頃、その少年はある日突然転校してしまったし、私の「第1の目標」が視野から消えたので、何の未練なく幼女隊(ブラウニー)を脱退した。
私は国民学校の時から、歌だけはどこの誰にも引けをとらなかったと自負する。
どんな場所でも歌を歌えといわれれば、遠慮したりとか、後の方をはずすことが一度もなかった。 かえって、「歌を歌うに値する場所はないのか」といいながら、ここかしこをのぞき込むほどだった。
いつだったか、国語の教科書に出てくる「森の鍛冶屋」という演劇をしたことがあった。各クラスを回っていた一種の「巡演」であったが、私が引き受けた配役は「スズメ」であった。理由はただ一つ。スズメ役の台詞部分が歌になっていたためだ。
一人でも歌うことができる歌、二人でも歌うことができる歌、多数がまじり合っても歌うことができる歌、そして歌が私になり、私が歌になる歌... 私はいつもそのような歌を歌いたかった。
「イ・ソンヒは歌が上手だ」といううわさは全校に広がったし、ある日、担任の先生がTV子供童謡大会に参加してみることを薦められた。それは4年生の時だ。
私は、「森の中の鍛冶屋」の演劇公演で「スズメ」に扮装して歌ったまさにその歌を歌って、KBS TV の(公開放送)「誰が誰がお上手か(누가누가 잘하나)」の1次予選を軽く通過した。
自信を得た私は、2次予選では歌の小節小節ごとに「雰囲気(멋)」をいっぱい入れて歌った。結果は脱落だった。私は今でもその時、情熱をつくして「童謡らしく」歌ったと信じる。国民学生があたかも「子おとな」のように童謡を歌謡調で歌って審査委員を当惑させたという話も聞いたが、私の胸の内はそうでなかった。もう少し上手くしようと、自ら「技巧」を働かせただけだった。とにかく当時の「予選脱落」は、私にとって大切な経験だった。「二度と上っ面だけのふりはしないだろう」。
-------------------------------------------------
2013年11月15日金曜日
イ・ソンヒの「なくしてしまった約束」
今となっては古風な曲調であるが、イ・ソンヒの3集に収められた1曲目の「なくしてしまった約束(잃어버린 약속)」(1986年)は、デビュー2年目の若さ溢れた彼女らしい張りのある声で力強く歌う。
秋に葉が落ちるのを見て、ふと気付くのが人生なんでしょうね・・・寒さが一層つのります。
なくしてしまった その約束を ふたたび探せるなら
消えてしまった 愛の花火を すべて燃やせても
再会の ちぎりもなく 私たちはそんなに背を向けて
今日も 懐かしさに 胸を焦がしてこの夜を明かす
愛 それは第二の生命(いのち) 誰にも与えられないもの
ただ あなたにだけに与えたいもの そして受けたいもの
(Youtubeに登録のsun5054に感謝)
秋に葉が落ちるのを見て、ふと気付くのが人生なんでしょうね・・・寒さが一層つのります。
なくしてしまった その約束を ふたたび探せるなら
消えてしまった 愛の花火を すべて燃やせても
再会の ちぎりもなく 私たちはそんなに背を向けて
今日も 懐かしさに 胸を焦がしてこの夜を明かす
愛 それは第二の生命(いのち) 誰にも与えられないもの
ただ あなたにだけに与えたいもの そして受けたいもの
(Youtubeに登録のsun5054に感謝)
2013年11月14日木曜日
頭痛薬
風邪のせいか、気圧の変化のせいか、頭がズキズキする。鎮痛剤を飲めばすぐに治まるのに、このときばかりなぜか、やせ我慢する。そして、耐え切れなくなって棚から薬を探し出すことになる。
飲むのは頭痛薬の「ノーシン」だ。それも、昔からの散剤(紙に包んだ粉末薬)である。同じノーシンでも錠剤の方はダメなのだ。わが家の常備薬であった散剤の方でなければ効かない。分かっているが、多分に心理的な効果もあってのことだろう。
ここ数日の寒さは、「12月上旬から下旬並み」という。まるで、映画「デイ・アフター・トゥモロー(The Day After Tomorrow)」のように、飛行中のヘリコプターにいっきに氷が張り付くような厳しさを想像する。慣れれば別だろうが、まだ「しばれる」感じだ。
NHKとBBCが共同制作した、自然ドキュメント番組「フローズン・プラネット」で、南極の浅海に氷柱ができ、それがやがて海底を這う現象である「Brinicle(ブライニクル)」(「死のつらら」)を見たことがある。ヒトデなど海底生物が氷漬けされていくさまは、見ているだけで恐ろしい。氷漬けされたら、頭がジンジンしてきつかったことだろうと思った。(ところで、棘皮動物のヒトデには頭はないようだ)
飲むのは頭痛薬の「ノーシン」だ。それも、昔からの散剤(紙に包んだ粉末薬)である。同じノーシンでも錠剤の方はダメなのだ。わが家の常備薬であった散剤の方でなければ効かない。分かっているが、多分に心理的な効果もあってのことだろう。
ここ数日の寒さは、「12月上旬から下旬並み」という。まるで、映画「デイ・アフター・トゥモロー(The Day After Tomorrow)」のように、飛行中のヘリコプターにいっきに氷が張り付くような厳しさを想像する。慣れれば別だろうが、まだ「しばれる」感じだ。
NHKとBBCが共同制作した、自然ドキュメント番組「フローズン・プラネット」で、南極の浅海に氷柱ができ、それがやがて海底を這う現象である「Brinicle(ブライニクル)」(「死のつらら」)を見たことがある。ヒトデなど海底生物が氷漬けされていくさまは、見ているだけで恐ろしい。氷漬けされたら、頭がジンジンしてきつかったことだろうと思った。(ところで、棘皮動物のヒトデには頭はないようだ)
2013年11月13日水曜日
イ・ソンヒの「ピーターパン」を見た思い出(ソヌジョンア)
イ・ソンヒは数々のミュージカル舞台に立ったことがある。「オズの魔法使い」(1990年)の主人公ドロシーや、「ピーターパン」(1991年)の主人公ピーターパンなどを演じた。子どもの頃に母親と一緒にその舞台を見たという、女性シンガーソングライターのソヌジョンア(28、선우정아)とのインタビューが、ブログに掲載されている。中央日報のイ・ギョンヒ記者が、同紙の記事から溢れた内容をブログに書き記したものである。
(本ブログ関連:”ミュージカル”)
ソヌジョンアについては上記ブログで知ったわけだが、ここでは彼女がイ・ソンヒについて語っている部分だけ次の通り抜き書きする。感謝。
-------------------------------------------------
7才の時、「ピーターパン」のミュージカルを見た。世宗文化会館の大劇場にそうそうたる人々が出演した。イ・ソンヒがピーターパン(役)だった。母に、「ピーターパンは男性なのに、なぜ女性がするの?」と尋ねたところ、イ・ソンヒファンだった母は、「韓国で歌が最も上手な方だからなのよ」とファンの心いっぱいの答えをした。衝撃だった。どんなに達者に男性を追い抜いて、男性の役ができるかと思って。ワイヤーに乗って飛び回るのも素晴らしかったし、私もあの人たちのように音楽の中で生きたいと考えた。おもしろいことに、この前イ・ソンヒさんから連絡が入った。私のアルバムを聞いてみて、おもしろいとフィードバックをくださったのだ。普通は、音楽を聞いて連絡する方が多かったが、私に妖精と同じ、この世の人とは感じられない方であったが・・・電話を受けると正気でおられなかったよ。
-------------------------------------------------
(本ブログ関連:”ミュージカル”)
ソヌジョンアについては上記ブログで知ったわけだが、ここでは彼女がイ・ソンヒについて語っている部分だけ次の通り抜き書きする。感謝。
-------------------------------------------------
7才の時、「ピーターパン」のミュージカルを見た。世宗文化会館の大劇場にそうそうたる人々が出演した。イ・ソンヒがピーターパン(役)だった。母に、「ピーターパンは男性なのに、なぜ女性がするの?」と尋ねたところ、イ・ソンヒファンだった母は、「韓国で歌が最も上手な方だからなのよ」とファンの心いっぱいの答えをした。衝撃だった。どんなに達者に男性を追い抜いて、男性の役ができるかと思って。ワイヤーに乗って飛び回るのも素晴らしかったし、私もあの人たちのように音楽の中で生きたいと考えた。おもしろいことに、この前イ・ソンヒさんから連絡が入った。私のアルバムを聞いてみて、おもしろいとフィードバックをくださったのだ。普通は、音楽を聞いて連絡する方が多かったが、私に妖精と同じ、この世の人とは感じられない方であったが・・・電話を受けると正気でおられなかったよ。
-------------------------------------------------
2013年11月12日火曜日
KBS WORLD「国楽の世界へ」 オンドル
KBS WORLD「国楽の世界へ」は、先週水曜日(11/6)に文化的なキーワードに基づく韓国文化シリーズの第30回として、床下暖房の「オンドル(溫突、온돌)」について紹介した。
まず始めに、寒い冬に床下から部屋を暖めるオンドルについて次のように紹介した。
・11月に入り急に朝の空気が冷え、本格的な冬を思う・・・明日(11/7)は冬の始まり「立冬」だ。零下20度近く下がる極寒の冬が来る。
・この時期、韓国ではオンドルが重宝される。最近は床が均一に温まるが、昔は火元に近い床の「アレッモク(아랫목)」が、家中で一番温かい場所だった。昔の田舎では、飯を遅くにも温かく食べられるよう、ふた付き鉄製の器に入れ、アレッモクに敷いた布団の中で保温した。また明け方に冷めた床を暖めるため、おばあさんが早朝火を入れる光景も見られた。人々は、こうした温かい部屋で二日ほど休むと「これまでの積み重なる疲れも飛んでいく」とよく言う。
▼ 家の敷地を司る、成造神を称える南道民謡「城主祭歌(성주풀이)」を聴く。新築、転居のとき、家族のために巫堂(ムーダン、무당:シャーマン)を呼んで祓った際の歌が起源という。張りよくテンポよく聞こえる・・・Youtubeでイ・ソンヒは民謡三曲のニ番目で勢いよく歌っている。
次に、オンドルの構造と歴史、普及に関わった木こり歌について次のように解説された。
・韓国固有のオンドルは、料理の火を利用して室内まで温める実用的な暖房器具と言える。焚口から、煙突まで、熱い煙が通る道を作り、その上にオンドルの石を並べる。オンドルの初期、4世紀頃は、室内に並べた石は二列ほどで、部屋全体を暖める方式ではなかった。高麗時代に入り、部屋全体を暖める本格的なオンドルになった。
・古くは、垂れ幕のあるベッドや椅子を用い、部屋の中でも靴を履いた生活だったが、オンドルで、韓国人の生活が変わった。17世紀、世界的に急激に寒さが厳しくなったといわれ、韓国中にオンドルが広まった。家々で火を焚くため、木の枝が大量に必要となり、木こりたちは厳しく寒い山中に、薪集めに行った。こうしたハン(恨)が込められた木こりの歌が多く残されている。
▼ 慶尚北道の木こりたちが木を切りながら歌った「オサヨン(어사용)」を聴く。歌声から労働の場面を想像して・・・どのような地形で、何の木を、どんな道具で、独り或いは仲間と切ったのか気になる・・・それにしても、厳しい思いがこもる歌だ、独り歌だろうか。
最後に、七佛寺の亜字房のオンドルと、今なお続くオンドルについて次のように説明された。
・オンドルの機能を果たすため、石の配置など知恵が必要だ。慶尚南道の河東地域にある七佛寺(칠불사)に亜字房(아자방)の部屋がある。亜字房は石の並びが「亜」の字に配列した、一度火を入れると100日間も温もりが残ったと伝えられる。
・近年の100年余り、生活や文化が洋風化する中、伝統を守っているのがまさにオンドルだ。家族がひとつの部屋に集まり、ぴったりくっついて温まった、そんな古き時代のよき思い出を、体で覚えているからだろうか。
▼ 済州島に伝わる子守唄「ウォンイチャラン(웡이자랑)」を聴く。家族の温もり・・・う~ん、今様の「島の赤ん坊(섬집아기)」などとは随分違うけど、子どもには母や祖母の声と「手の温もり」が一番なんですね。なるほど。
まず始めに、寒い冬に床下から部屋を暖めるオンドルについて次のように紹介した。
・11月に入り急に朝の空気が冷え、本格的な冬を思う・・・明日(11/7)は冬の始まり「立冬」だ。零下20度近く下がる極寒の冬が来る。
・この時期、韓国ではオンドルが重宝される。最近は床が均一に温まるが、昔は火元に近い床の「アレッモク(아랫목)」が、家中で一番温かい場所だった。昔の田舎では、飯を遅くにも温かく食べられるよう、ふた付き鉄製の器に入れ、アレッモクに敷いた布団の中で保温した。また明け方に冷めた床を暖めるため、おばあさんが早朝火を入れる光景も見られた。人々は、こうした温かい部屋で二日ほど休むと「これまでの積み重なる疲れも飛んでいく」とよく言う。
▼ 家の敷地を司る、成造神を称える南道民謡「城主祭歌(성주풀이)」を聴く。新築、転居のとき、家族のために巫堂(ムーダン、무당:シャーマン)を呼んで祓った際の歌が起源という。張りよくテンポよく聞こえる・・・Youtubeでイ・ソンヒは民謡三曲のニ番目で勢いよく歌っている。
次に、オンドルの構造と歴史、普及に関わった木こり歌について次のように解説された。
・韓国固有のオンドルは、料理の火を利用して室内まで温める実用的な暖房器具と言える。焚口から、煙突まで、熱い煙が通る道を作り、その上にオンドルの石を並べる。オンドルの初期、4世紀頃は、室内に並べた石は二列ほどで、部屋全体を暖める方式ではなかった。高麗時代に入り、部屋全体を暖める本格的なオンドルになった。
・古くは、垂れ幕のあるベッドや椅子を用い、部屋の中でも靴を履いた生活だったが、オンドルで、韓国人の生活が変わった。17世紀、世界的に急激に寒さが厳しくなったといわれ、韓国中にオンドルが広まった。家々で火を焚くため、木の枝が大量に必要となり、木こりたちは厳しく寒い山中に、薪集めに行った。こうしたハン(恨)が込められた木こりの歌が多く残されている。
▼ 慶尚北道の木こりたちが木を切りながら歌った「オサヨン(어사용)」を聴く。歌声から労働の場面を想像して・・・どのような地形で、何の木を、どんな道具で、独り或いは仲間と切ったのか気になる・・・それにしても、厳しい思いがこもる歌だ、独り歌だろうか。
最後に、七佛寺の亜字房のオンドルと、今なお続くオンドルについて次のように説明された。
・オンドルの機能を果たすため、石の配置など知恵が必要だ。慶尚南道の河東地域にある七佛寺(칠불사)に亜字房(아자방)の部屋がある。亜字房は石の並びが「亜」の字に配列した、一度火を入れると100日間も温もりが残ったと伝えられる。
・近年の100年余り、生活や文化が洋風化する中、伝統を守っているのがまさにオンドルだ。家族がひとつの部屋に集まり、ぴったりくっついて温まった、そんな古き時代のよき思い出を、体で覚えているからだろうか。
▼ 済州島に伝わる子守唄「ウォンイチャラン(웡이자랑)」を聴く。家族の温もり・・・う~ん、今様の「島の赤ん坊(섬집아기)」などとは随分違うけど、子どもには母や祖母の声と「手の温もり」が一番なんですね。なるほど。
2013年11月11日月曜日
東京地方、木枯らし1号
昼間は陽射しが穏やかだったというに、午後も夕方に近づく頃、気付けば窓の外は土砂降りで、止んだと思えば今度は急速に冷え込んできた。足がじんじんと冷える・・・家路も寒さは尋常でなく、まさに冬到来を思わせる。
帰宅して、Googleニュースを見ても、東京地方に木枯らし1号が来たという情報はない。唯一、テレ朝ニュースのコメントに、「東京では11日夕方以降、北寄りの風が強まり、木枯らし1号となるかもしれません。」とあるのみだ。
体感は、まさに木枯らし1号といってよく・・・それほどの冷え込みと風の強さだったのだ。
ちなみにネットには、「東京地方の木枯らし1号」(気象庁天気相談所)の記録があって、昭和26年以降の木枯らし1号到来日を一覧することができる。過去10年間について、ざっと見渡せば次の通り・・・今日あたり、わるくないと思う。
--------------------------
2003(平15) 11月17日
2004(平16) 11月13日
2005(平17) 11月12日
2006(平18) 11月12日
2007(平19) 11月18日
2008(平20) 11月01日
2009(平21) 11月02日
2010(平22) 10月26日
2011(平23) 10月26日
2012(平24) 11月18日
--------------------------
やっぱり、木枯らしだった。
時事通信の記事「東京でも木枯らし1号=昨年より7日早く-気象庁」(11/11、19:33)は、次のように木枯らしが到来したと報じた。(明日は冬物の衣服が必要らしい)
------------------------------------------
気象庁は11日午後、東京地方で木枯らし1号が吹いたと発表した。昨年より7日早い。
同庁によると、午後2時54分に最大瞬間風速17.9メートルを記録した。近畿地方では昨年より6日遅い4日に1号が吹いた。
------------------------------------------
(本ブログ関連:”木枯らし”)
帰宅して、Googleニュースを見ても、東京地方に木枯らし1号が来たという情報はない。唯一、テレ朝ニュースのコメントに、「東京では11日夕方以降、北寄りの風が強まり、木枯らし1号となるかもしれません。」とあるのみだ。
体感は、まさに木枯らし1号といってよく・・・それほどの冷え込みと風の強さだったのだ。
ちなみにネットには、「東京地方の木枯らし1号」(気象庁天気相談所)の記録があって、昭和26年以降の木枯らし1号到来日を一覧することができる。過去10年間について、ざっと見渡せば次の通り・・・今日あたり、わるくないと思う。
--------------------------
2003(平15) 11月17日
2004(平16) 11月13日
2005(平17) 11月12日
2006(平18) 11月12日
2007(平19) 11月18日
2008(平20) 11月01日
2009(平21) 11月02日
2010(平22) 10月26日
2011(平23) 10月26日
2012(平24) 11月18日
--------------------------
やっぱり、木枯らしだった。
時事通信の記事「東京でも木枯らし1号=昨年より7日早く-気象庁」(11/11、19:33)は、次のように木枯らしが到来したと報じた。(明日は冬物の衣服が必要らしい)
------------------------------------------
気象庁は11日午後、東京地方で木枯らし1号が吹いたと発表した。昨年より7日早い。
同庁によると、午後2時54分に最大瞬間風速17.9メートルを記録した。近畿地方では昨年より6日遅い4日に1号が吹いた。
------------------------------------------
(本ブログ関連:”木枯らし”)
2013年11月10日日曜日
旧石器時代の野川流域から見る
(後期)旧石器時代に地元野川流域に残された石器や黒曜石を通して、日本人類の起源を語る講演があり聴講した。講演タイトルは、「旧石器時代の日本列島 - 野川流域から日本人類史の起源を考える」で、講師は安蒜政雄(あんびるまさお)明治大学教授である。
6万年前にアフリカから世界に拡散した私たちの祖先は、4~3万年前に日本列島に至ったといわれていることから、野川流域の旧石器人(3.5万年前~1.5万年前までの間)は相当に古いひとびとといえるようだ。
この4万年前(日本列島到着)と3.5万年前(野川流域定着)を比べると、5,000年の差しかないように考えてしまうが、つまり私たちの2,000年の歴史と比べて時間オーダーが極端に大きな時の流れであり、しかも証拠は石器しかない。いろいろとイメージが膨らんでしまい、素人には楽しいことだが。
関東地方を含めて日本は火山国のため、旧石器時代の証拠物は石器しか残ってない。他の有機物は火山灰地により一切溶けてしまっている。そんな中で、石器が見つかった地層に依ったり、石器の分布に依ったりして、旧石器時代の集落や人口の規模を想定されるという・・・ただし、生活や移動がどうであったか検証が必要。
また、産地がある程度限定される石材の黒曜石の地域間移動が分かっており、ひとびとの交流が想像されるという。さらに、野川流域の石器(石斧)、黒曜石を使った複数の特性から、他の周辺地域と比べて日本独自の性格を持っているという。
発見された遺物から歴史上の想定が語られたが・・・最後にいろいろな視点や解釈も含めて、会場とのQAがあった。
それらを聞いて、確かに2,000年前の歴史でさえ物証は完全ではないのに、旧石器時代の石斧など限られた遺物から、3.5万年前~1.5万年前までの2万年の間の歴史を語るのは容易なことではないだろうと感じた。
歴史は時間だけでなく、空間の流れでもある。会場で求めた、安蒜政雄氏の著書「旧石器時代の知恵」を読んで復習してみよう。
常々思うことがある。歴史の中で個人は小さいけれど、仮に4万年前の私の祖先が子孫を残す前に、何かのことで亡くなっていたら、私は今いないのだ。命は連鎖する。それも際どい偶然のおかげで。
6万年前にアフリカから世界に拡散した私たちの祖先は、4~3万年前に日本列島に至ったといわれていることから、野川流域の旧石器人(3.5万年前~1.5万年前までの間)は相当に古いひとびとといえるようだ。
この4万年前(日本列島到着)と3.5万年前(野川流域定着)を比べると、5,000年の差しかないように考えてしまうが、つまり私たちの2,000年の歴史と比べて時間オーダーが極端に大きな時の流れであり、しかも証拠は石器しかない。いろいろとイメージが膨らんでしまい、素人には楽しいことだが。
関東地方を含めて日本は火山国のため、旧石器時代の証拠物は石器しか残ってない。他の有機物は火山灰地により一切溶けてしまっている。そんな中で、石器が見つかった地層に依ったり、石器の分布に依ったりして、旧石器時代の集落や人口の規模を想定されるという・・・ただし、生活や移動がどうであったか検証が必要。
また、産地がある程度限定される石材の黒曜石の地域間移動が分かっており、ひとびとの交流が想像されるという。さらに、野川流域の石器(石斧)、黒曜石を使った複数の特性から、他の周辺地域と比べて日本独自の性格を持っているという。
発見された遺物から歴史上の想定が語られたが・・・最後にいろいろな視点や解釈も含めて、会場とのQAがあった。
それらを聞いて、確かに2,000年前の歴史でさえ物証は完全ではないのに、旧石器時代の石斧など限られた遺物から、3.5万年前~1.5万年前までの2万年の間の歴史を語るのは容易なことではないだろうと感じた。
歴史は時間だけでなく、空間の流れでもある。会場で求めた、安蒜政雄氏の著書「旧石器時代の知恵」を読んで復習してみよう。
常々思うことがある。歴史の中で個人は小さいけれど、仮に4万年前の私の祖先が子孫を残す前に、何かのことで亡くなっていたら、私は今いないのだ。命は連鎖する。それも際どい偶然のおかげで。
2013年11月9日土曜日
(資料)一乗宗
▼ Daum知識(2006.2.2)のQAに、韓国仏教宗派の質問中に「一乗宗」について次のような回答がある・・・この記述は、K-Wikipediaにリンクされている。
---------------------------------------------------
25.大韓仏教一乗宗
韓国の法華信仰系統仏教宗団。
1968年2月 法華宗で崔恵正が一乗宗団を創設。
1969年1月 大韓仏教一乗宗布教院で文化公報部に仏教団体登録。
1973年 大韓仏教一乗宗に改称。「妙法蓮華経の会三帰一思想と大乗菩薩行をそれぞれ『体』と『用』として国を守って広く衆生を済度する」を宗旨としている。
所依経典は<妙法蓮華經>で、本尊仏は釈迦牟尼仏。
本寺は、ソウル特別市城北区城北洞にあって、宗正は権梵虎だ。
教勢は、1988年現在、寺院455ヶ所、僧侶536人、信徒16万3,332人。
---------------------------------------------------
▼ (次のソースは過激なため要注意!・・これについて未だ確証を得ていない)
仏教と巫俗の習合という観点から、一乗宗と巫堂(ムーダン、무당:シャーマン)の関係について批判的なコメントがある。(アンチニュース)
▼ 一乗宗 自身によるによる巫堂(무당)についての解説。
http://www.ilseung.or.kr/bbs/board.php?bo_table=qna&wr_id=70&page=3
(本ブログ関連:”一乗宗”)
---------------------------------------------------
25.大韓仏教一乗宗
韓国の法華信仰系統仏教宗団。
1968年2月 法華宗で崔恵正が一乗宗団を創設。
1969年1月 大韓仏教一乗宗布教院で文化公報部に仏教団体登録。
1973年 大韓仏教一乗宗に改称。「妙法蓮華経の会三帰一思想と大乗菩薩行をそれぞれ『体』と『用』として国を守って広く衆生を済度する」を宗旨としている。
所依経典は<妙法蓮華經>で、本尊仏は釈迦牟尼仏。
本寺は、ソウル特別市城北区城北洞にあって、宗正は権梵虎だ。
教勢は、1988年現在、寺院455ヶ所、僧侶536人、信徒16万3,332人。
---------------------------------------------------
▼ (次のソースは過激なため要注意!・・これについて未だ確証を得ていない)
仏教と巫俗の習合という観点から、一乗宗と巫堂(ムーダン、무당:シャーマン)の関係について批判的なコメントがある。(アンチニュース)
▼ 一乗宗 自身によるによる巫堂(무당)についての解説。
http://www.ilseung.or.kr/bbs/board.php?bo_table=qna&wr_id=70&page=3
(本ブログ関連:”一乗宗”)
2013年11月8日金曜日
イ・ソンヒの「冬哀傷」
名曲とは不思議なもので、イ・ソンヒの「Jへ」は作者がその曲の扱いに苦悶していたときに偶然出会ったことによるし、また5集所収の「冬哀傷(겨울 애상)」(作詞:キム・ヨイル作曲:ソン・シヒョン、1989年)は思いもかけないかたちでできあがったものだ。
(本ブログ関連:”冬哀傷”)
この時期になると、美しく透明感のある「冬哀傷」の余韻にひたりたくなる。
星明かりに澄み映える 私の悲しい顔よ
雁が鳴きながら 飛び去る 空を 見る
懐かしさ雪のように積もり 丘を転がり超えて
青い月明かり 降り注ぐ 私の空っぽの 庭に
風は木の葉を 吹きたてて 消えたが
なぜ痛く懐かしい小船は 私の胸に浮かんでいるのか
消すことが できないのか
冬になるとよみがえる姿
青く冷たい 私の愛
凍ってしまった悲しい後姿
風は木の葉を 吹きたてて 消えたが
なぜ痛く懐かしい小船は 私の胸に浮かんでいるのか
消すことが できないのか
冬になるとよみがえる姿
青く冷たい 私の愛
凍ってしまった悲しい後姿
凍ってしまった悲しい後姿
(Youtubeに登録のKnightmareに感謝)
(本ブログ関連:”冬哀傷”)
この時期になると、美しく透明感のある「冬哀傷」の余韻にひたりたくなる。
星明かりに澄み映える 私の悲しい顔よ
雁が鳴きながら 飛び去る 空を 見る
懐かしさ雪のように積もり 丘を転がり超えて
青い月明かり 降り注ぐ 私の空っぽの 庭に
風は木の葉を 吹きたてて 消えたが
なぜ痛く懐かしい小船は 私の胸に浮かんでいるのか
消すことが できないのか
冬になるとよみがえる姿
青く冷たい 私の愛
凍ってしまった悲しい後姿
風は木の葉を 吹きたてて 消えたが
なぜ痛く懐かしい小船は 私の胸に浮かんでいるのか
消すことが できないのか
冬になるとよみがえる姿
青く冷たい 私の愛
凍ってしまった悲しい後姿
凍ってしまった悲しい後姿
(Youtubeに登録のKnightmareに感謝)
2013年11月7日木曜日
立冬2013
今日は立冬、暦上、秋分(9/23)と冬至(12/22)の真ん中で、いよいよ冬の始まりである。といって、木枯らしが吹くでもない。(ただし近畿地方では、今月4日に1号が吹いた)
暦に知る季節なわけで、実感が伴わない・・・と思ったら、Weathernewsの天気予報(ピンポイント天気)で、当地辺りも明日以降、木枯らしの可能性があるという。なんだ、冬はすぐそこに来ている。
ところで本日午後1時14分(日本時間)、カザフスタンのバイコヌール宇宙基地からソユーズTMA-11M宇宙船に乗り、JAXAの若田光一宇宙飛行士(50)が、国際宇宙ステーション(ISS)に向けて飛び立つ。来年の5月14日頃まで、約6ヶ月のISS滞在とのこと。
JAXAの「ISS第38次/第39次長期滞在概要」に次のように説明がある。
-------------------------------------------------
・第38次/第39次長期滞在クルーとしてISSに長期滞在します。
・若田宇宙飛行士は、第38次長期滞在ではフライトエンジニアとして、ISSの運用、「きぼう」日本実験棟を含むISS各施設のシステム運用、日本および国際パートナーの科学実験をはじめとする宇宙環境の利用に重点をおいた活動などをISSで行います。
・滞在の後半となる第39次長期滞在では日本人初のコマンダー(船長)として、滞在期間中の指揮をとることになります。
-------------------------------------------------
(本ブログ関連:”若田光一”)
暦に知る季節なわけで、実感が伴わない・・・と思ったら、Weathernewsの天気予報(ピンポイント天気)で、当地辺りも明日以降、木枯らしの可能性があるという。なんだ、冬はすぐそこに来ている。
ところで本日午後1時14分(日本時間)、カザフスタンのバイコヌール宇宙基地からソユーズTMA-11M宇宙船に乗り、JAXAの若田光一宇宙飛行士(50)が、国際宇宙ステーション(ISS)に向けて飛び立つ。来年の5月14日頃まで、約6ヶ月のISS滞在とのこと。
JAXAの「ISS第38次/第39次長期滞在概要」に次のように説明がある。
-------------------------------------------------
・第38次/第39次長期滞在クルーとしてISSに長期滞在します。
・若田宇宙飛行士は、第38次長期滞在ではフライトエンジニアとして、ISSの運用、「きぼう」日本実験棟を含むISS各施設のシステム運用、日本および国際パートナーの科学実験をはじめとする宇宙環境の利用に重点をおいた活動などをISSで行います。
・滞在の後半となる第39次長期滞在では日本人初のコマンダー(船長)として、滞在期間中の指揮をとることになります。
-------------------------------------------------
(本ブログ関連:”若田光一”)
2013年11月6日水曜日
発泡にごり酒
先日、寝つきが悪くて、深夜に冷蔵庫の日本酒をお猪口一杯飲んでみたら、意外やぐっすりと眠れた。そうれなら、口当たりのよい日本酒はないものかと近所の酒店を訪れた。
店のガラス張りの冷蔵庫に、日本酒の発泡酒(「神亀純米活性にごり酒」)が見えた。ドア越しにラベルの注意書きを観察すると、詮を開ける際に勢いよく発泡するので開詮を微妙に繰り返し、噴出しに注意するよう書かれていた。面白そう、ということで購入し、家に戻るや早速開詮してみた。
詮をゆるりと開けると、瓶の中を泡が口元まで駆け上がってくる。あわてて詮を強く閉め直す。発泡が治まるまで、それを繰り返して、ようやくお猪口に注ぐことができた。結構手間取る。
元来、酒は強くない。飲兵衛でもない。だから、ほどほどにたしなむ程度なのに、発泡の様子が面白くて、口当たりもよいので立て続けに3杯も飲んでしまった。酔いが次第に廻り、ふらふらしてきた。耳元を血流がドクドク音を立てる、腕が妙にピリピリしてきた・・・ああ、こりやいかん・・・すっかり酔っ払ってしまった。
店のガラス張りの冷蔵庫に、日本酒の発泡酒(「神亀純米活性にごり酒」)が見えた。ドア越しにラベルの注意書きを観察すると、詮を開ける際に勢いよく発泡するので開詮を微妙に繰り返し、噴出しに注意するよう書かれていた。面白そう、ということで購入し、家に戻るや早速開詮してみた。
詮をゆるりと開けると、瓶の中を泡が口元まで駆け上がってくる。あわてて詮を強く閉め直す。発泡が治まるまで、それを繰り返して、ようやくお猪口に注ぐことができた。結構手間取る。
元来、酒は強くない。飲兵衛でもない。だから、ほどほどにたしなむ程度なのに、発泡の様子が面白くて、口当たりもよいので立て続けに3杯も飲んでしまった。酔いが次第に廻り、ふらふらしてきた。耳元を血流がドクドク音を立てる、腕が妙にピリピリしてきた・・・ああ、こりやいかん・・・すっかり酔っ払ってしまった。
2013年11月5日火曜日
KBS WORLD「国楽の世界へ」 菊花
KBS WORLD「国楽の世界へ」は、先週水曜日(10/30)に文化的なキーワードに基づく韓国文化シリーズの第29回として、菊の花(국화)について紹介した。
始めに、秋の花の菊とそれに関わる詩について、次のような紹介から始まった。
・花というと春を思い浮かべるが、秋にも春に劣らず、きれいに咲く花がある。コスモスを筆頭に、オシロイバナや野菊、そして名も知らぬ花たちが力強く花を咲かせ、散った後、目に入るのが菊の花だ。朝鮮後期、李鼎輔(イ・ジョンボ、이정보、1693年~1766年)が残した、菊の登場する次の時調(시조)がある。
「菊よ、おまえは、三月の春の風(東風)を過ぎ、/ 落木寒天にひとり花を咲かせたのか、/ おそらく、霜が降りる季節に屈しないのはおまえだけだろう。」
・「落木寒天」は、木の葉が落ち、寒くわびしい冬の風景を表す。この時調は、暖かい春の風が吹いても花を咲かせず、寒い冬になるまで待って、さびしそうに、けれど力強く咲く菊の花を歌う。
▼ 平時調(평시조)の「菊よ(국화야)」を聴く。上記詩の一音一音を延ばし朗詠する。夕陽を逆光に揺れる野菊のよう。
次に、李鼎輔の仕事と彼にまつわる逸話が、次のように語られた。
・李鼎輔は、詞のように相手が王であれ、間違ったことには果敢に言上する政治家だったという。
・一方で、音楽にも造詣が深く、上記時調以外に80編を超える作品を残し、音楽家養成にも携わった。弟子に、桂纖(ケソム、계섬)がいた。彼女は、幼くして両親を亡くし奴婢となったが、李鼎輔と出会い、彼を師匠として歌を学ぶ。彼は桂纖の才を見抜き、常に傍に置き指導した。彼女は名唱として名を轟かした。李鼎輔が世を去ったとき、桂纖は実の父の死を前にしたかのようだった。その後毎日、師匠の墓前で泣きながら歌い続け、生涯かけて恩返した。その姿は、晩秋の道端に咲く野菊のようだ。
▼ 新民謡「野菊(들국화)」を聴く。なんだか、野に咲くの花の陽気で力強さを感じる。
最後に、菊を愛でる優雅な光景について、次のように語られた。
・昔から、ソンビ(博識な学者)たちは、菊を、梅、蘭、竹と共に並べ、四君子と呼ぶ。これらは、操と節義を象徴する花とされ、広く好まれ、植えられた。フンタリョン(흥타령)の歌詞に、四君子のひとつ、菊に関する次の一節がある。
「窓の外に菊を植え、菊の下で酒を醸しておいた。/ 酒が熟成し、菊の花が咲き、友人が来て、月が昇った。/ それ、コムンゴを一曲弾け、夜が明けるまで遊ぼうではないか。」
・花もきれいに咲き、さらにその香りまで漂い、友を誘って一杯傾ける光景、なかなか粋である。菊の酒をゆったりと嗜みながら、あれこれ話をする時間、これこそ、至福のひと時と言えるかもしれない。
▼ 「歌詞 勧酒歌(가사 권주가)」を聴く。揺ったりと古色を漂わせるが・・・どこか新酒の香りする。
始めに、秋の花の菊とそれに関わる詩について、次のような紹介から始まった。
・花というと春を思い浮かべるが、秋にも春に劣らず、きれいに咲く花がある。コスモスを筆頭に、オシロイバナや野菊、そして名も知らぬ花たちが力強く花を咲かせ、散った後、目に入るのが菊の花だ。朝鮮後期、李鼎輔(イ・ジョンボ、이정보、1693年~1766年)が残した、菊の登場する次の時調(시조)がある。
「菊よ、おまえは、三月の春の風(東風)を過ぎ、/ 落木寒天にひとり花を咲かせたのか、/ おそらく、霜が降りる季節に屈しないのはおまえだけだろう。」
・「落木寒天」は、木の葉が落ち、寒くわびしい冬の風景を表す。この時調は、暖かい春の風が吹いても花を咲かせず、寒い冬になるまで待って、さびしそうに、けれど力強く咲く菊の花を歌う。
▼ 平時調(평시조)の「菊よ(국화야)」を聴く。上記詩の一音一音を延ばし朗詠する。夕陽を逆光に揺れる野菊のよう。
次に、李鼎輔の仕事と彼にまつわる逸話が、次のように語られた。
・李鼎輔は、詞のように相手が王であれ、間違ったことには果敢に言上する政治家だったという。
・一方で、音楽にも造詣が深く、上記時調以外に80編を超える作品を残し、音楽家養成にも携わった。弟子に、桂纖(ケソム、계섬)がいた。彼女は、幼くして両親を亡くし奴婢となったが、李鼎輔と出会い、彼を師匠として歌を学ぶ。彼は桂纖の才を見抜き、常に傍に置き指導した。彼女は名唱として名を轟かした。李鼎輔が世を去ったとき、桂纖は実の父の死を前にしたかのようだった。その後毎日、師匠の墓前で泣きながら歌い続け、生涯かけて恩返した。その姿は、晩秋の道端に咲く野菊のようだ。
▼ 新民謡「野菊(들국화)」を聴く。なんだか、野に咲くの花の陽気で力強さを感じる。
最後に、菊を愛でる優雅な光景について、次のように語られた。
・昔から、ソンビ(博識な学者)たちは、菊を、梅、蘭、竹と共に並べ、四君子と呼ぶ。これらは、操と節義を象徴する花とされ、広く好まれ、植えられた。フンタリョン(흥타령)の歌詞に、四君子のひとつ、菊に関する次の一節がある。
「窓の外に菊を植え、菊の下で酒を醸しておいた。/ 酒が熟成し、菊の花が咲き、友人が来て、月が昇った。/ それ、コムンゴを一曲弾け、夜が明けるまで遊ぼうではないか。」
・花もきれいに咲き、さらにその香りまで漂い、友を誘って一杯傾ける光景、なかなか粋である。菊の酒をゆったりと嗜みながら、あれこれ話をする時間、これこそ、至福のひと時と言えるかもしれない。
▼ 「歌詞 勧酒歌(가사 권주가)」を聴く。揺ったりと古色を漂わせるが・・・どこか新酒の香りする。
2013年11月4日月曜日
菊の花
秋の花に菊がある。鑑賞に、一輪もあれば、束ねたものもある。あるいは、更に集めて加工したものもある。歳をとると、それぞれに美しさを気付くようになる。
子どもの頃、連れられて菊人形展を眺めたけれど、小さな菊の花弁を衣装代わりに身に包んで置かれただけの人形を間近に見て、拍子抜けした記憶がある。大人になれば、菊人形師の努力と期待も合わせてうかがえ受容できるようになる。たぶん鑑賞の視野が広がったのだろう。
イ・ソンヒのアルバム9集の一曲目にアルバムタイトルでもある「一輪菊(한송이 국화)」(作詞チェ・ユジョン、作曲ヤン・ムンソン、1994年)がある。群れて咲く野菊とは別に、一輪の菊にも独特の美しさがある。
一輪の野菊見やれば、貴方の姿を見るよう
一輪の野菊見やれば、貴方の姿を見るよう
華やかな姿なくとも 素朴な香りに染まるように
小さな花瓶の中で一輪の菊 この世の憂いを洗ってくれる
黄色い花びら差し出した顔 ささやくように愛を語るよ
一輪の野菊見やれば、貴方の姿を見るよう
華やかな姿なくとも 素朴な香りに染まるように
あ~
(本ブログ関連:”一輪菊”)
(Youtubeに登録のKnightmareSMに感謝)
子どもの頃、連れられて菊人形展を眺めたけれど、小さな菊の花弁を衣装代わりに身に包んで置かれただけの人形を間近に見て、拍子抜けした記憶がある。大人になれば、菊人形師の努力と期待も合わせてうかがえ受容できるようになる。たぶん鑑賞の視野が広がったのだろう。
イ・ソンヒのアルバム9集の一曲目にアルバムタイトルでもある「一輪菊(한송이 국화)」(作詞チェ・ユジョン、作曲ヤン・ムンソン、1994年)がある。群れて咲く野菊とは別に、一輪の菊にも独特の美しさがある。
一輪の野菊見やれば、貴方の姿を見るよう
一輪の野菊見やれば、貴方の姿を見るよう
華やかな姿なくとも 素朴な香りに染まるように
小さな花瓶の中で一輪の菊 この世の憂いを洗ってくれる
黄色い花びら差し出した顔 ささやくように愛を語るよ
一輪の野菊見やれば、貴方の姿を見るよう
華やかな姿なくとも 素朴な香りに染まるように
あ~
(本ブログ関連:”一輪菊”)
(Youtubeに登録のKnightmareSMに感謝)
2013年11月3日日曜日
日光鉱山
さすがに11月ともなれば、早朝は冷える。栃木県塩谷郡塩谷町にある日光鉱山へ鉱物採集に出かけるため、始発電車に間に合うよう家を出ると、あたりはまだ暗い。
いつもお世話になっているH氏と待ち合わせの駅に着いた頃は、空も白みはじめていた。さっそく、H氏の車に同乗させていただき現地に向けて出発する。
昨日ネットで収集した産地情報を片手に、車中で鉱物談義する。H氏は、既に日光鉱山の鉱物採集は経験済みで、今回は何としても美しい二次鉱物の斜開銅鉱(Clinoclase、Cu3AsO4(OH)3)を目玉にされている。わたしも、斜開銅鉱に出会えればと、期待が膨らむ。
さて、下流に石積みの砂防ダムを何重にも構築している大きく広がった沢と重なっている、日光鉱山の【南側】ズリから採集を始めた。陽差しが反射してまぶしい。目が肥えてくると、次々いろいろな鉱物が見えてきた。
沢伝いに登ると、せばまった沢の奥には鉄条網にさえぎられて立ち入り禁止になっている。その奥には、ふさがれた坑口や、更に奥に進む沢も見えるが・・・ここまで。この境界辺りでの採集は、極めて残念な結果だった。
いったん道路に戻って【北側】に少し歩み、新たな入り口から山道を登り、斜面の上側に坑口が見える所まで進む。坑口はふさがれていないが、当然ながら覗き見するだけ・・・なにしろ、坑口付近には落盤跡?のような岩が見えるのだから。
以上の結果、採集鉱物は次の通り。
・南側採集地: 黄銅鉱、黄鉄鉱、ブロシャン銅鉱、孔雀石、輝銅鉱、方鉛鉱、閃亜鉛鉱、水晶(小型の美群晶)
・北側採集地: 斜開銅鉱(小片)
日光鉱山の行きも帰りも、国道・県道利用で通したが、休日にもかかわらず渋滞に巻き込まれることはなかった。
いつもお世話になっているH氏と待ち合わせの駅に着いた頃は、空も白みはじめていた。さっそく、H氏の車に同乗させていただき現地に向けて出発する。
昨日ネットで収集した産地情報を片手に、車中で鉱物談義する。H氏は、既に日光鉱山の鉱物採集は経験済みで、今回は何としても美しい二次鉱物の斜開銅鉱(Clinoclase、Cu3AsO4(OH)3)を目玉にされている。わたしも、斜開銅鉱に出会えればと、期待が膨らむ。
さて、下流に石積みの砂防ダムを何重にも構築している大きく広がった沢と重なっている、日光鉱山の【南側】ズリから採集を始めた。陽差しが反射してまぶしい。目が肥えてくると、次々いろいろな鉱物が見えてきた。
沢伝いに登ると、せばまった沢の奥には鉄条網にさえぎられて立ち入り禁止になっている。その奥には、ふさがれた坑口や、更に奥に進む沢も見えるが・・・ここまで。この境界辺りでの採集は、極めて残念な結果だった。
いったん道路に戻って【北側】に少し歩み、新たな入り口から山道を登り、斜面の上側に坑口が見える所まで進む。坑口はふさがれていないが、当然ながら覗き見するだけ・・・なにしろ、坑口付近には落盤跡?のような岩が見えるのだから。
以上の結果、採集鉱物は次の通り。
・南側採集地: 黄銅鉱、黄鉄鉱、ブロシャン銅鉱、孔雀石、輝銅鉱、方鉛鉱、閃亜鉛鉱、水晶(小型の美群晶)
・北側採集地: 斜開銅鉱(小片)
日光鉱山の行きも帰りも、国道・県道利用で通したが、休日にもかかわらず渋滞に巻き込まれることはなかった。
2013年11月2日土曜日
日暮れの早いこと、一年の早いこと
夕方というに、ちょいと気を許せば、外はすっかり闇に沈んでいる。帰宅にせわしい街の雑踏も、かえって落ち着きを増すよう。けれども、駅から離れて家路になれば、次第に人影の薄れるのが寂しい。風でも吹けば、否応なしに年末へと押しやられる。
テレビ・ショッピングで、おせち料理の予約受付で豪華?な詰め合わせを説明していた。ハロウィンが終ったと思ったら、あっさり場面転換して、クリスマスそして正月の行事が待っている。
ラジオで聞いたことだが、今年は3連休が多いんだそうだ。10回もあるという。休みが多いからって、それもなんだか・・・気ぜわしいなあ、何かしなければという強迫観念に駆られて、むやみに出かけるのもなあ・・・。
といいながらも、お呼びがかかった石採りに・・・幸い、明日は天気がよいようだ。
テレビ・ショッピングで、おせち料理の予約受付で豪華?な詰め合わせを説明していた。ハロウィンが終ったと思ったら、あっさり場面転換して、クリスマスそして正月の行事が待っている。
ラジオで聞いたことだが、今年は3連休が多いんだそうだ。10回もあるという。休みが多いからって、それもなんだか・・・気ぜわしいなあ、何かしなければという強迫観念に駆られて、むやみに出かけるのもなあ・・・。
といいながらも、お呼びがかかった石採りに・・・幸い、明日は天気がよいようだ。
2013年11月1日金曜日
VESPA APE50
昔、雑誌に小型自動車の特集記事があって、戦後近くに生まれたさまざまな小型自動車を紹介していた。面白くて興味がそそられ、乗ってみたい気がした。記事を切り取って保存したが、今探してみると見当たらない・・・残念なことをした。
(注) 小型車といっても、これから普及が試行される「超小型電気自動車」のことではない。
ネットを探してみれば、Wikipediaの「バブルカー」の項に、製造各社の小型自動車の写真が載っている。ヨーロッパで、戦後荒廃した中から生まれた、かつての航空機の技術者たちが関わっている。「バブル」とは、「航空機などの操縦席(コックピット)の風よけの覆い」で・・・つまり「風防」のことで、自動車の運転席の覆いがそれを想わせる構造をしている・・・ということだ。
これらの小型車の中で、わたしのお気に入りは、メッサーシュミット社のKR200(191cc)だ。まさに、航空機に関わった技術者の心意気が感じられる。
そういえば、後発日本のスバル360(360cc)も小型車に属するだろう。製造元の富士重工は旧中島飛行機という航空機メーカーだったわけだし。
今日、イタリア大好きな鉱物仲間から、イタリアのピアッジオVESPA APE50(49.77cc)という小型三輪車を、再生しているという話を聞かせてもらった。1964年に日本に輸入された5台の内の一台だそうで、構造図、配線図などの図面をネット上で探し、一部部品から作って、組み立て直しているというのだ。
(注) Youtubeの「APE50」(新型のよう)、旧型は2サイクル単気筒50ccだが排気音がいい。(登録者Paulo Cabralに感謝) ← 赤字訂正
(注) VESPA APE50が輸入された1964年といえば、イ・ソンヒが生まれた年でもある。
(注) VESPA APE50は、スクーターのVESPAのエンジンそのままに、車体だけ発展させたもののようだ。
この三輪車、バッテリーがないそうで、スターターは手動、ワイパーは足動というまさにアナログカーである。聞いているだけで楽しくなる。・・・でも、それ以上の技術的なことになると素人の悲しさ、よく分からない、残念。
三輪車といえば、日本のダイハツ・ミゼットD型(250cc)があるが、これも小型車の仲間に入れることにしよう。
(注) 小型車といっても、これから普及が試行される「超小型電気自動車」のことではない。
ネットを探してみれば、Wikipediaの「バブルカー」の項に、製造各社の小型自動車の写真が載っている。ヨーロッパで、戦後荒廃した中から生まれた、かつての航空機の技術者たちが関わっている。「バブル」とは、「航空機などの操縦席(コックピット)の風よけの覆い」で・・・つまり「風防」のことで、自動車の運転席の覆いがそれを想わせる構造をしている・・・ということだ。
これらの小型車の中で、わたしのお気に入りは、メッサーシュミット社のKR200(191cc)だ。まさに、航空機に関わった技術者の心意気が感じられる。
そういえば、後発日本のスバル360(360cc)も小型車に属するだろう。製造元の富士重工は旧中島飛行機という航空機メーカーだったわけだし。
今日、イタリア大好きな鉱物仲間から、イタリアのピアッジオVESPA APE50(49.77cc)という小型三輪車を、再生しているという話を聞かせてもらった。1964年に日本に輸入された5台の内の一台だそうで、構造図、配線図などの図面をネット上で探し、一部部品から作って、組み立て直しているというのだ。
(注) Youtubeの「APE50」(新型のよう)、旧型は2サイクル単気筒50ccだが排気音がいい。(登録者Paulo Cabralに感謝) ← 赤字訂正
(注) VESPA APE50が輸入された1964年といえば、イ・ソンヒが生まれた年でもある。
(注) VESPA APE50は、スクーターのVESPAのエンジンそのままに、車体だけ発展させたもののようだ。
この三輪車、バッテリーがないそうで、スターターは手動、ワイパーは足動というまさにアナログカーである。聞いているだけで楽しくなる。・・・でも、それ以上の技術的なことになると素人の悲しさ、よく分からない、残念。
三輪車といえば、日本のダイハツ・ミゼットD型(250cc)があるが、これも小型車の仲間に入れることにしよう。
2013年10月31日木曜日
残った林檎は6分の1
月の銀の林檎、太陽の黄金の林檎、永遠に摘むことはできないけれど、わが家の台所では冷蔵庫の中で冷たいリンゴが待っている。皮が硬くてちょっと酸っぱいが、サクッと丸かじりすると口中に果汁がほとばしる。
林檎一個を一年に見たてて、芯を通して縦に6等分に切ると、今年は残すところ6分の1しかないことに気付く。あっという間の一年だったな。ゆっくり賞味したろうか、がつがつ貪ったろうか・・・月や太陽に値するというのに、もったいないことをした。
今宵、たそがれにさまよう悪霊、死霊たちが一暴れするかもしれないけど、でも新しい年を迎えられるならしかたないのだが、林檎はまだ6分の1残っている。そう6分の1も残っているのだ。
リンゴをかみしめながら、イ・ソンヒの13集所収の「リンゴの木の下で(사과나무 아래서)」(2005年)を聴こう。リンゴの味は、甘いのか、酸っぱいのか、それとも苦いのか。
(本ブログ関連;”イ・ソンヒの「リンゴの木の下で」”)
(Youtubeに登録のKnightmareSMに感謝)
林檎一個を一年に見たてて、芯を通して縦に6等分に切ると、今年は残すところ6分の1しかないことに気付く。あっという間の一年だったな。ゆっくり賞味したろうか、がつがつ貪ったろうか・・・月や太陽に値するというのに、もったいないことをした。
今宵、たそがれにさまよう悪霊、死霊たちが一暴れするかもしれないけど、でも新しい年を迎えられるならしかたないのだが、林檎はまだ6分の1残っている。そう6分の1も残っているのだ。
リンゴをかみしめながら、イ・ソンヒの13集所収の「リンゴの木の下で(사과나무 아래서)」(2005年)を聴こう。リンゴの味は、甘いのか、酸っぱいのか、それとも苦いのか。
(本ブログ関連;”イ・ソンヒの「リンゴの木の下で」”)
(Youtubeに登録のKnightmareSMに感謝)
なぜハロウィン
この時期、ハロウィンがメディアにとりあげられるたび、置き場がないというか落ち着き場所の定まらぬ感覚にとらわれる。人生長いと、様々な行事が次第に既定になっていくのを見てきたが、異質さに馴染むのはなかなか容易でない。若ければあっさり受容してしまうのかもしれないが。
ハロウィンは現在、あくまでも商業的なイベントを超えていない。多分、お盆のような宗教的なものと結びつくことがあるわけではないので、風習になるには時間がかかるだろう。その意味で、クリスマスは家族の結びつきを確かめる最早風習に近い。そして、義理を含めてバレンタインはハロウィンより先行している。
ハロウィンのちょっとおどろおどろした雰囲気を知ったのは、米国のブラッドベリ(Ray Bradbury, 1920年8月22日~2012年6月5日)のSFファンタジーの短編集を読んでからのことだ。その頃は、日本でのハロウィンはまだ文字の世界で語られたものだったはず。映画などで見る光景ではあったので、全く知らないわけでもなかった。
(本ブログ関連:”ハロウィン”)
だから、ハロウィンに強い拒絶感はないけれど、ちょっと気になる点がある。ハロウィンのデコレーションに使われる小物もそうだが、全体的な色彩のトーンとして、あのオレンジ色はどうだろう。日本の色使いではないと思うが。
とはいえ、わたしたちの色彩感覚もだいぶ変わってしまっている。そう、アウトドア用品やその衣料品を見れば分かるが、深緑色や青紫色などがすっかり定着してきている。アメリカ発の色彩感覚がそのままとりいれられている。
ハロウィンは現在、あくまでも商業的なイベントを超えていない。多分、お盆のような宗教的なものと結びつくことがあるわけではないので、風習になるには時間がかかるだろう。その意味で、クリスマスは家族の結びつきを確かめる最早風習に近い。そして、義理を含めてバレンタインはハロウィンより先行している。
ハロウィンのちょっとおどろおどろした雰囲気を知ったのは、米国のブラッドベリ(Ray Bradbury, 1920年8月22日~2012年6月5日)のSFファンタジーの短編集を読んでからのことだ。その頃は、日本でのハロウィンはまだ文字の世界で語られたものだったはず。映画などで見る光景ではあったので、全く知らないわけでもなかった。
(本ブログ関連:”ハロウィン”)
だから、ハロウィンに強い拒絶感はないけれど、ちょっと気になる点がある。ハロウィンのデコレーションに使われる小物もそうだが、全体的な色彩のトーンとして、あのオレンジ色はどうだろう。日本の色使いではないと思うが。
とはいえ、わたしたちの色彩感覚もだいぶ変わってしまっている。そう、アウトドア用品やその衣料品を見れば分かるが、深緑色や青紫色などがすっかり定着してきている。アメリカ発の色彩感覚がそのままとりいれられている。
2013年10月30日水曜日
イ・ソンヒ 「朴景利 ブック・コンサート」
イ・ソンヒは、今月31日に催される「朴景利 ブック・コンサート」に出演する。ファイナンシャルニュースの記事「文学と音楽の調和... 『朴景利 ブック・コンサート』 開催」(10/29)は次のように報じている。(江原=ニュース1、クォン・ヘミン記者)
--------------------------------------------
・「土地(토지)詩朗読会」が主管し、「朴景利文学公園」が主催する、「朴景利 ブック・コンサート」が今月31日午後7時に、江原道原州市の朴景利文学公園内の野外ステージで行われる。
(注) 朴景利(パク・キョンニ、박경리、1926年~2008年)、作家、小説「土地(토지)」で著名。
(資料)イ・ソンヒのスター・ストーリー「3.宗教家である父と、自然とともに過ごした幼い子供
・「朴景利 ブック・コンサート」は、小説家朴景利の文学を伝えたり、彼女の知己を特別ゲストとして招待して文学の世界についての話を聞いたり、音楽演奏を通じて秋の夜の叙情を感じることができる行事だ。今回のブック・コンサートには、文芸評論家チョン・ヒョンギ、小説家キム・イジョンが出演してトークイベントを行い、声楽家クォン・スンハン、テギ(태기)舞踊団の扇舞、ミカ-ウル(미가 울)民謡、フランスの詩人ロスリンの詩朗読、バク・ヨウンオのクラシックギター演奏などが用意されている。
・また、歌手イ・ソンヒ、ムン・ケジョンが歌謡舞台も披露する予定だ。朴景利文学公園の関係者は、 「文学と音楽、舞踊が融合した行事で、全国の朴景利の作品を発表し、地位を高め、秋の叙情を感じることができるだろう」と明らかにした。
--------------------------------------------
・「土地(토지)詩朗読会」が主管し、「朴景利文学公園」が主催する、「朴景利 ブック・コンサート」が今月31日午後7時に、江原道原州市の朴景利文学公園内の野外ステージで行われる。
(注) 朴景利(パク・キョンニ、박경리、1926年~2008年)、作家、小説「土地(토지)」で著名。
(資料)イ・ソンヒのスター・ストーリー「3.宗教家である父と、自然とともに過ごした幼い子供
・「朴景利 ブック・コンサート」は、小説家朴景利の文学を伝えたり、彼女の知己を特別ゲストとして招待して文学の世界についての話を聞いたり、音楽演奏を通じて秋の夜の叙情を感じることができる行事だ。今回のブック・コンサートには、文芸評論家チョン・ヒョンギ、小説家キム・イジョンが出演してトークイベントを行い、声楽家クォン・スンハン、テギ(태기)舞踊団の扇舞、ミカ-ウル(미가 울)民謡、フランスの詩人ロスリンの詩朗読、バク・ヨウンオのクラシックギター演奏などが用意されている。
・また、歌手イ・ソンヒ、ムン・ケジョンが歌謡舞台も披露する予定だ。朴景利文学公園の関係者は、 「文学と音楽、舞踊が融合した行事で、全国の朴景利の作品を発表し、地位を高め、秋の叙情を感じることができるだろう」と明らかにした。
--------------------------------------------
2013年10月29日火曜日
KBS WORLD「国楽の世界へ」 金剛山
KBS WORLD「国楽の世界へ」は、先週水曜日(10/23)に文化的なキーワードに基づく韓国文化シリーズの第28回として、朝鮮半島の太白山脈中央に位置する金剛山(クムガンサン、금강산、最高峰毘盧峰は標高1,638m)について紹介した。
まず四季の変化と金剛山の美しさについて次のような説明から始まった。
・四季折々の変化がはっきりすると人々は自慢する。幼いころから、春夏秋冬を感じて育ったためだ。今の時期、高く、真っ青な空をながめると、風景を分かち合いたいと思う。ソウルを囲んでそびえる山々は、真っ赤に染まった紅葉が目に飛び込む。一生を終えて散り行く物悲しさも加わり、花より美しいと言えるかも知れない。
・昔から、美しい山と川を「三千里錦繡江山(삼천리금수강산)」と呼ぶ。その中で最も美しいとされるのが金剛山だ。古来、多くの詩人や画家、ソンビたちが一度は訪れるべき場所として知られる。
▼「金剛山打令(금강산타령)」を聴く。悠々とした景色を眺めてか、とてもメロディアスに聞こえる。
次に金剛山に遊んだ李穀の「東遊記(동유기)」から次のように紹介している。
・高麗時代(918年~1392年)末期、李穀(イ・ゴク、이곡、1298年~1351年)は、ある秋の日、金剛山を訪れた感動を次のように記している。
「秋にこれから金剛山を遊山にでかけようと、天磨嶺を越えて山の麓で一夜を明かし、朝早く寝床で食事をした後、山に登ると、雲と霧に覆われて薄暗かった。人々が言うところによると、『秋に金剛山に行った人が、雲と霧のため、何も見られずに戻ってくるることが多い』という。共に来た者たちは、みな真剣に黙黙と祈りつづけた。5里ほど行くと、陰った雲が徐々にうすくなり、そこから日の光が漏れ出してきた。『お辞儀峠』に差し掛かったとき、空は明るく、空気も澄み渡り、山の明るさが一段と映えて見えた。1万2000ともいわれる峰を一つ一つ数えることができそうだった。この山に来る人はすべて、必ずこの峠を経由する。峠を登りきると、人々は山を眺めようと、首を下に傾ける。自ら意識しなくとも、この峠では、お辞儀をするかのように頭を下げることになるのだ。このような理由から、この峠は『お辞儀峠』(절재)と呼ばれている」。
今はこの金剛山も人々の想像の中にしかない。
▼「金剛仙女(금강선녀)」を聴く。ちょっと、ソ連映画の音楽のよう・・・今様である。
最後に、鄭敾の「金剛全図」とそこに記された詩を次のように紹介している。
・金剛山を描写した古い絵もたくさん残り、最も有名なのが朝鮮時代の画家、鄭敾(チョン・ソン、정선、1676年~1759年)の「金剛全図」だ。ある冬の日の、寒々しい峰の連なる風景を力強く描き、一角に自ら詠んだ詩が書かれている。
・「岩山は何輪もの蓮華の花のように連なり白い光を放っている。またその横には松の木が茂り、道をつくっている。たとえ私の足で直接踏んでみることにしても、これから、またあまねく歩かなくてはならない場所だ。それなのに、どうして枕に寝転び、私の絵だけをじっと見つめているというのか。」。今はこの金剛山に冬が訪れようとしている。
(注)「金剛全図」には、花崗岩の複雑な白い岩肌と多数の峰々が幾重にも描かれている。
▼「美しい国へ(아름다운 나라로)」を聴く。ミュージカル曲だろうか・・・今様である。
まず四季の変化と金剛山の美しさについて次のような説明から始まった。
・四季折々の変化がはっきりすると人々は自慢する。幼いころから、春夏秋冬を感じて育ったためだ。今の時期、高く、真っ青な空をながめると、風景を分かち合いたいと思う。ソウルを囲んでそびえる山々は、真っ赤に染まった紅葉が目に飛び込む。一生を終えて散り行く物悲しさも加わり、花より美しいと言えるかも知れない。
・昔から、美しい山と川を「三千里錦繡江山(삼천리금수강산)」と呼ぶ。その中で最も美しいとされるのが金剛山だ。古来、多くの詩人や画家、ソンビたちが一度は訪れるべき場所として知られる。
▼「金剛山打令(금강산타령)」を聴く。悠々とした景色を眺めてか、とてもメロディアスに聞こえる。
次に金剛山に遊んだ李穀の「東遊記(동유기)」から次のように紹介している。
・高麗時代(918年~1392年)末期、李穀(イ・ゴク、이곡、1298年~1351年)は、ある秋の日、金剛山を訪れた感動を次のように記している。
「秋にこれから金剛山を遊山にでかけようと、天磨嶺を越えて山の麓で一夜を明かし、朝早く寝床で食事をした後、山に登ると、雲と霧に覆われて薄暗かった。人々が言うところによると、『秋に金剛山に行った人が、雲と霧のため、何も見られずに戻ってくるることが多い』という。共に来た者たちは、みな真剣に黙黙と祈りつづけた。5里ほど行くと、陰った雲が徐々にうすくなり、そこから日の光が漏れ出してきた。『お辞儀峠』に差し掛かったとき、空は明るく、空気も澄み渡り、山の明るさが一段と映えて見えた。1万2000ともいわれる峰を一つ一つ数えることができそうだった。この山に来る人はすべて、必ずこの峠を経由する。峠を登りきると、人々は山を眺めようと、首を下に傾ける。自ら意識しなくとも、この峠では、お辞儀をするかのように頭を下げることになるのだ。このような理由から、この峠は『お辞儀峠』(절재)と呼ばれている」。
今はこの金剛山も人々の想像の中にしかない。
▼「金剛仙女(금강선녀)」を聴く。ちょっと、ソ連映画の音楽のよう・・・今様である。
最後に、鄭敾の「金剛全図」とそこに記された詩を次のように紹介している。
・金剛山を描写した古い絵もたくさん残り、最も有名なのが朝鮮時代の画家、鄭敾(チョン・ソン、정선、1676年~1759年)の「金剛全図」だ。ある冬の日の、寒々しい峰の連なる風景を力強く描き、一角に自ら詠んだ詩が書かれている。
・「岩山は何輪もの蓮華の花のように連なり白い光を放っている。またその横には松の木が茂り、道をつくっている。たとえ私の足で直接踏んでみることにしても、これから、またあまねく歩かなくてはならない場所だ。それなのに、どうして枕に寝転び、私の絵だけをじっと見つめているというのか。」。今はこの金剛山に冬が訪れようとしている。
(注)「金剛全図」には、花崗岩の複雑な白い岩肌と多数の峰々が幾重にも描かれている。
▼「美しい国へ(아름다운 나라로)」を聴く。ミュージカル曲だろうか・・・今様である。
2013年10月28日月曜日
パティ・キムの引退公演
韓国歌謡のCDを集めだしたのは、秋葉原にあった研修センターの帰り道、電器店やCDショップを巡って見つけたパティ・キム(패티김、1938年2月28日~)のCDアルバムからだった。パティ・キムの歌う「マリア」の声量というべきか迫力にひかれて、彼女のシリーズはもちろん、ナフナ(羅勲児)やイ・ミジャ(李美子)、ヘウニ(혜은이)、ミン・ヘギョン(閔海景)などのCDやVHSを探した。当時、日本における代表的な韓国歌手はケイ・ウンスク(桂銀淑)だった。彼女の韓国歌謡からトロットを含めて様々な曲目を知った。
韓国専門書店にも足を運んで店主から情報を得たり、新大久保というよりはそれ以前のこと、新宿職安通りに面した「コリアプラザ」のCDの山をなめた。その頃やっと、イ・ソンヒのCDと出逢うことができた。もちろん、イ・ソンヒについては、CDだけでなく、LPレコードを探しにソウル地下街にある中古LPショップに出かけたことはいうまでもない。
ところで、そのパティ・キムが引退を発表したのは、昨年の2月15日のことだったが、ついに今月の26日に引退公演を迎えた。連合ニュースの記事「パティ・キム、55年の歌人生終了... "本当に恵まれた"」(10/26、イ・テス記者)は、「26日午後、松坡区芳夷洞オリンピック公園体操競技場で開かれた、公式引退公演『グッバイ パティ - パティ・キム 彼女が歌う最後の歌』」を次のように報じている。(抜粋)
(本ブログ関連:”パティ・キム”)
----------------------------------------------
「長年いつも拍手で私を愛してくださりありがとうございます。私は今、舞台を去りますが、みなさんのそばにいつも私の歌があるよう願います。」
歌手パティ・キム(75)は「ありがとうございます。グッバイ!」という挨拶を最後にマイクを置いて舞台を去った。55年の舞台人生の幕を下ろす瞬間だった。
後輩歌手のヤン・ヒウン(楊姬銀)、イ・ソンヒ、イン・スニ、イ・ウンミなどと孫たちは、先輩であり祖母である彼女に花束を渡して祝福し、客席は手を振って最後の挨拶を送った。
----------------------------------------------
パティ・キムを日本人歌手にあてはめれば、雪村いずみに当たるのではないだろうか。ともに、時代とジャンル、それにスケールの大きさが重なる大歌手だ。
最後にパティ・キムについて、彼女と吉屋潤(길옥윤)との、出会いと「別離」を知らぬ人はいない。
韓国専門書店にも足を運んで店主から情報を得たり、新大久保というよりはそれ以前のこと、新宿職安通りに面した「コリアプラザ」のCDの山をなめた。その頃やっと、イ・ソンヒのCDと出逢うことができた。もちろん、イ・ソンヒについては、CDだけでなく、LPレコードを探しにソウル地下街にある中古LPショップに出かけたことはいうまでもない。
ところで、そのパティ・キムが引退を発表したのは、昨年の2月15日のことだったが、ついに今月の26日に引退公演を迎えた。連合ニュースの記事「パティ・キム、55年の歌人生終了... "本当に恵まれた"」(10/26、イ・テス記者)は、「26日午後、松坡区芳夷洞オリンピック公園体操競技場で開かれた、公式引退公演『グッバイ パティ - パティ・キム 彼女が歌う最後の歌』」を次のように報じている。(抜粋)
(本ブログ関連:”パティ・キム”)
----------------------------------------------
「長年いつも拍手で私を愛してくださりありがとうございます。私は今、舞台を去りますが、みなさんのそばにいつも私の歌があるよう願います。」
歌手パティ・キム(75)は「ありがとうございます。グッバイ!」という挨拶を最後にマイクを置いて舞台を去った。55年の舞台人生の幕を下ろす瞬間だった。
後輩歌手のヤン・ヒウン(楊姬銀)、イ・ソンヒ、イン・スニ、イ・ウンミなどと孫たちは、先輩であり祖母である彼女に花束を渡して祝福し、客席は手を振って最後の挨拶を送った。
----------------------------------------------
パティ・キムを日本人歌手にあてはめれば、雪村いずみに当たるのではないだろうか。ともに、時代とジャンル、それにスケールの大きさが重なる大歌手だ。
最後にパティ・キムについて、彼女と吉屋潤(길옥윤)との、出会いと「別離」を知らぬ人はいない。
2013年10月27日日曜日
調布飛行場巡り
秋の陽を受けようと、野川の岸辺を巡り、緑陰の野川公園を抜けて、あわただしさもほどほどに落ち着いてのんびりとした調布飛行場に行く。
旅客ターミナルを見て驚いた。南の島のつながりを感じさせるローカル色が残っていたあのモルタル作りのターミナルが、大きなガラス張りの建物に変わっていたのだ。今年の4月にリニューアルしたとのこと。最近も飛行場近くに何度か訪れたことがあるのに気付かなかった。都下のローカル飛行場(都営コミューター空港)といえども、大きな施設ゆえ・・・と言い訳する。いやあ本当に知らなかった。
以前のようにロビーは狭くて暗くないので、旅行者の動きに慌しさがなくゆったりして見える。そんなわけで、ピカピカのロビーの座席に座って、わたしも旅する気分を味わって、ロビー脇に置かれた観光リーフレットをのぞきながら、新島へちょっと行ってきますという具合だ。
新島の有名な、こうが石で作った緑色のガラス細工写真を見ると、まるで橄欖(かんらん)石の緑色を思いだす。そのまま飛んで行ってみたい気になる。
しばらくの間、いただいたメールの返信など作成して、ターミナルの雰囲気にひたった後、場所を変えて南側にあるプロペラカフェの建物に足を運ぶ。こちらは家族連れで満員状態。プロペラカフェに隣接した格納庫を覗くと、次のような飛行機(ほかにも多数配置されている)が並んでいた。
・JA3187 : 高翼単発セスナ150(写真上部に翼のみ見える、見学用仕切り内側に配置の中古機のよう)
・JA9664 : ヘリコプター、アグスタA109AⅡ、ほか
ところで、カフェの席待ちリストに署名したが、あまりの混み具合に結局辞退した。帰り道は、風が吹き始めたようで、陽も西に傾きひんやりとしてきた。滑走路北側には相変わらずドルニエ機が翼を休めていた。
(本ブログ関連:”調布飛行場”)
旅客ターミナルを見て驚いた。南の島のつながりを感じさせるローカル色が残っていたあのモルタル作りのターミナルが、大きなガラス張りの建物に変わっていたのだ。今年の4月にリニューアルしたとのこと。最近も飛行場近くに何度か訪れたことがあるのに気付かなかった。都下のローカル飛行場(都営コミューター空港)といえども、大きな施設ゆえ・・・と言い訳する。いやあ本当に知らなかった。
以前のようにロビーは狭くて暗くないので、旅行者の動きに慌しさがなくゆったりして見える。そんなわけで、ピカピカのロビーの座席に座って、わたしも旅する気分を味わって、ロビー脇に置かれた観光リーフレットをのぞきながら、新島へちょっと行ってきますという具合だ。
新島の有名な、こうが石で作った緑色のガラス細工写真を見ると、まるで橄欖(かんらん)石の緑色を思いだす。そのまま飛んで行ってみたい気になる。
しばらくの間、いただいたメールの返信など作成して、ターミナルの雰囲気にひたった後、場所を変えて南側にあるプロペラカフェの建物に足を運ぶ。こちらは家族連れで満員状態。プロペラカフェに隣接した格納庫を覗くと、次のような飛行機(ほかにも多数配置されている)が並んでいた。
・JA3187 : 高翼単発セスナ150(写真上部に翼のみ見える、見学用仕切り内側に配置の中古機のよう)
・JA9664 : ヘリコプター、アグスタA109AⅡ、ほか
ところで、カフェの席待ちリストに署名したが、あまりの混み具合に結局辞退した。帰り道は、風が吹き始めたようで、陽も西に傾きひんやりとしてきた。滑走路北側には相変わらずドルニエ機が翼を休めていた。
(本ブログ関連:”調布飛行場”)
![]() |
管制塔とターミナル |
![]() |
プロペラカフェから覗いた航空機 |
2013年10月26日土曜日
地震、台風、そして感謝会
地震、雷、火事、親父・・・のことではない。
今日の日付に変わった深夜2時10分頃、緩やかな揺れが始まった。いつまでも続く振動が次第に強度を増していくのではないかと不安が走る。深夜のテレビ討論番組を見ていたが、画面に地震速報のテロップが流れない・・・急いで他局を見ると、福島県沖に地震が発生したと表示していた。
気象庁の地震情報は、「福島県沖(牡鹿半島の東南東290km付近)で、震源の深さは約10km、地震の規模はM7.1と推定」とのこと。気象庁によればわが家の震度は「2」だが、不安感を含めると「3」ぐらい・・・だ。
しかも、テレビは繰り返し「津波の注意」を報じた。討論番組のテーマと心配が重なる。
一方、その襲来を恐れていた台風27号は、思いの他平穏であった。進路は当初の予想より南側にずれたような気がする。
過ぎてしまえばホッとする。何事もなかったように終わるが、そんな自分自身に不思議を感じる。恐怖に敏感でも忘れることは速い。地震も台風すら忘れがちだ。
ところで今晩、久し振りに都心に出た。
お世話になった先生を囲んで感謝会を開いた。こちらは、わたしたちの興味と関心を集中的に導いていただいただけに、すぐにご恩を忘れるようなことではない。教えていただいたことを大切に守って、今の高揚を忘れずに更に前に進みたいと思う。
ご指導いただいたL先生と、お礼の会の音頭をとっていただいたK氏に感謝。
今日の日付に変わった深夜2時10分頃、緩やかな揺れが始まった。いつまでも続く振動が次第に強度を増していくのではないかと不安が走る。深夜のテレビ討論番組を見ていたが、画面に地震速報のテロップが流れない・・・急いで他局を見ると、福島県沖に地震が発生したと表示していた。
気象庁の地震情報は、「福島県沖(牡鹿半島の東南東290km付近)で、震源の深さは約10km、地震の規模はM7.1と推定」とのこと。気象庁によればわが家の震度は「2」だが、不安感を含めると「3」ぐらい・・・だ。
しかも、テレビは繰り返し「津波の注意」を報じた。討論番組のテーマと心配が重なる。
一方、その襲来を恐れていた台風27号は、思いの他平穏であった。進路は当初の予想より南側にずれたような気がする。
過ぎてしまえばホッとする。何事もなかったように終わるが、そんな自分自身に不思議を感じる。恐怖に敏感でも忘れることは速い。地震も台風すら忘れがちだ。
ところで今晩、久し振りに都心に出た。
お世話になった先生を囲んで感謝会を開いた。こちらは、わたしたちの興味と関心を集中的に導いていただいただけに、すぐにご恩を忘れるようなことではない。教えていただいたことを大切に守って、今の高揚を忘れずに更に前に進みたいと思う。
ご指導いただいたL先生と、お礼の会の音頭をとっていただいたK氏に感謝。
2013年10月25日金曜日
歳月が流れても変わらぬ歌唱力と高い音楽的完成度を見せる女性歌手
JKSTARS.COMの記事(10/24)は、昨年10月に調査した、若い世代が「歳月が流れても変わらぬ歌唱力と高い音楽的完成度を見せる女性歌手」として選んだ中に、歌手イ・ソンヒの名をあげている。
記事は、関心となる歌手を見つめる、若い2030世代(20~30代)と中年の4050世代(40~50代)ファン層の見方(世代観)について解説している・・・のだが、ここではイ・ソンヒにかかわる部分だけ焦点を合わせ抜粋する。感謝。
----------------------------------------------------
メンズウェアの代表ブランド第一毛織ギャラクシーが、「世代を越えて世代に(Generation to Generation)」との変わらぬ価値を伝える「タイムレス・クラシック」キャンペーンを展開して、昨年10月の世論調査専門機関のOPENSURVEYを通じて、「世代を超えても変わらない価値」について調査した内容によれば、4050世代に最も愛される女性アイドルグループはシスターだった。
また、2030世代は「歳月が流れても変わらない実力を誇る歌手は誰ですか?」という質問に、女性歌手ではイン・スニ(인순이)、イ・ソンヒ(이선희)、イ・ウンミ(이은미)を選択し、男性歌手ではイジョク、ユン・ミンス、キム・ゴンモを選んだ。
この調査は、(2012年)10月4日から5日まで、(韓国)国内に居住している、2030〜4050世代の500人を対象に実行された。
「おじさんファン」、 「おばさんファン」などはもう知らない単語ではない。4050世代は、積極的にアイドル文化を享受しており、逆に2030世代は、これまで活発に活動している中堅歌手たちの音楽に触れ、親の世代が感じる香りに共感する。音楽を通して世代間のギャップが狭くなっているのである。
一方、2030世代は「歳月が流れても変わらぬ歌唱力と高い音楽的完成度を見せて依然として実力を誇っている女性歌手は?」という質問で、
・1位(36%)に、イン・スニを挙げた。
・2位(23.5%)は、小さな体躯でほとばしるエネルギーと歳月を重ねる声色のイ・ソンヒが占めており、
・3位(19%)は、「私は歌手だ」などで完成度の高い歌唱力で大衆に感動を与えるイ・ウンミが選ばれた。
----------------------------------------------------
(Youtubeに登録のBong Jae Kim、doll4021に感謝)
記事は、関心となる歌手を見つめる、若い2030世代(20~30代)と中年の4050世代(40~50代)ファン層の見方(世代観)について解説している・・・のだが、ここではイ・ソンヒにかかわる部分だけ焦点を合わせ抜粋する。感謝。
----------------------------------------------------
メンズウェアの代表ブランド第一毛織ギャラクシーが、「世代を越えて世代に(Generation to Generation)」との変わらぬ価値を伝える「タイムレス・クラシック」キャンペーンを展開して、昨年10月の世論調査専門機関のOPENSURVEYを通じて、「世代を超えても変わらない価値」について調査した内容によれば、4050世代に最も愛される女性アイドルグループはシスターだった。
また、2030世代は「歳月が流れても変わらない実力を誇る歌手は誰ですか?」という質問に、女性歌手ではイン・スニ(인순이)、イ・ソンヒ(이선희)、イ・ウンミ(이은미)を選択し、男性歌手ではイジョク、ユン・ミンス、キム・ゴンモを選んだ。
この調査は、(2012年)10月4日から5日まで、(韓国)国内に居住している、2030〜4050世代の500人を対象に実行された。
「おじさんファン」、 「おばさんファン」などはもう知らない単語ではない。4050世代は、積極的にアイドル文化を享受しており、逆に2030世代は、これまで活発に活動している中堅歌手たちの音楽に触れ、親の世代が感じる香りに共感する。音楽を通して世代間のギャップが狭くなっているのである。
一方、2030世代は「歳月が流れても変わらぬ歌唱力と高い音楽的完成度を見せて依然として実力を誇っている女性歌手は?」という質問で、
・1位(36%)に、イン・スニを挙げた。
・2位(23.5%)は、小さな体躯でほとばしるエネルギーと歳月を重ねる声色のイ・ソンヒが占めており、
・3位(19%)は、「私は歌手だ」などで完成度の高い歌唱力で大衆に感動を与えるイ・ウンミが選ばれた。
----------------------------------------------------
(Youtubeに登録のBong Jae Kim、doll4021に感謝)
2013年10月24日木曜日
(資料)イ・ソンヒのスター・ストーリー「3.宗教家である父と、自然とともに過ごした幼い子供」
先日(9/27)、「スポーツ韓国」の紙面(1991年3月8日~4月5日)に連載された「イ・ソンヒ27歳当時のスター・ストーリー」記事の目次を紹介したが、その第3回目をここに載せたい。感謝。
イ・ソンヒの幼い頃の祖父も含めての家族愛や、「音域の広い」彼女の声が「父から受け継いだ」と語る影響について・・・知りたかったことだ。
(本ブログ関連:”(資料)イ・ソンヒ(27歳当時)の「スター・ストーリー」”、”資料:이선희 Profile”)
[3] 宗教家である父と、自然とともに過ごした幼い子供
----------------------------------------------
私が三歳になった年である1966年、両親は私を連れて忠南(忠清南道)の保寧からソウルに移住した。初めての定着地は城北区三仙洞だった。
当時、父は大韓仏教「一乗宗(일승종)」の宗会議員と同時に、仏教音楽「梵唄(범패)」の伝授者であった。
(注) ネット上で、イ・ソンヒの父親の所属宗派を「太古宗(태고종)」と記されることがあるが、この記事から(当時)「一乗宗」が正しいようだ。なお、「一乗宗」の正式な成立は1969年とされ、この年に大法院裁定により韓国仏教の最大宗派となる「曹渓宗(조계종)」と「太古宗」が正式に分離している。
(注) イ・ソンヒの家族が保寧から転居したソウルの城北区内に「一乗宗」の一乗寺がある。
(注) 一乗宗の「主な宗団機構は宗正の下、宗務全般を掌握する総務院、糾正(きゅうせい)機関である監察院、議決機関である宗議会などがある。」
(注)「梵唄」については、「太古宗」との関連がネット上で話題にされることが多い。
父の身分が僧侶だったために、所属寺院が変わるたび、わが家は引越し荷物を荷造りしなければならなかった。
そうするうちに、私は仕方なく国民学校だけ六ヶ所を転々と移り渡った。友人とちょっと付き合うだけで、校歌を覚え歌うことができるようになると、私はまた間違いなく見知らぬ学教に転校しなければならなかった。私も知らぬうちに性格は内省的に沈んでいった。
ときおり近所の子供たちとケンカをすると、その悪童たちが必ず私の父をあげつらった。「僧(중)」がどうしたといいながら。朴景利(パク・キョンニ、박경리、1926年~2008年)先生の小説「土地(토지)」で、年齢の幼いキルサン(길상)が悪童に「僧」と冷やかし受ける気持ちを十分に理解することができた。
(注) 韓国仏教における妻帯の問題は、歴史上の課題でもあった。⇒ ”韓国仏教”
自然に私と同じ年頃の子供たちと一緒に過ごす時間が減り、周りの山、木、花、鳥そして風と親しくなった。
(ちなみに)ネパールに「導師」が多いのは、両親が仕事に出て行った後、一人で自然に接して成長した子供たちが多くてとか? とにかく私は木と草に群がる虫たちと話をして育った。
もちろん幼い時からひたすら叙情的で思索的だったことは決してない。森の古木の木の上に綱をぶら下げてターザン遊びをして時間の経つことが分からなかったし、休みになれば田舎の祖父の家に行って明け方から川岸のフナを(網で)すくいてあげた。また、真夜中に近所の野菜畑を堀り散らしに行くマクワウリとスイカ荒らしで、蚊に刺されていることも分からなかった。
ソウルではひょろひょろしっぱなしの私だったが、田舎に行ったら全身に力が湧き、敏捷で活き活きするようになった。
ソウルでも、やはり父について移動も何度もしたが、行く所ごとに常に鬱蒼とした森があった。父の勤め先(?)である寺はたいてい山の中にあるのだから。
ところで日曜日になると、悪い鳥捕りたちが空気銃をかついで「私の森の中」に狩猟にきたりした。
彼らが去った後、かわいそうにも死んだ鳥が数匹ずつ散在していた。
私は、目に映りしだい死んだ鳥のために墓を作った。墓の上に小さな木の枝で十字架を作ってさした。
ところが、まさにその木製の十字架のために、寺にいらした僧侶たちにひどい目にあったことがある。仏さまを祀った寺院のあごの下に、どうしてあえて十字架を差し込むことができるかということだった。そこまで考えが及ぶことができなかったことではないが、さりとて私の腕前で「卍」の字形を作ることは到底できなかった
私の子供時代の思い出は、祖父と父から始まる。
私の考え方や価値観に大きな影響を与えた宗教家としての父、そして特に私だけを心からも愛してくれた私の祖父。
懐かしさは、明け方の山腹を取り囲んで染み入る雲であり、灰色がかった舗道の上に溶けて落ちる白い雪であり、激しい風の末に立っている弱い木の枝だ。
会いたくて懐かしい祖父. その祖父は私が中学校2年の時に亡くなった。だが、あなたのその実直だった姿はまだ私の両目に浮かぶ。
祖父は田舎に住んでいたが、いつもソウルの我が家に来てくれて何月も留まったりした。そのたびに、祖父は古物の自転車を引いて下校時間の2時間前から校門の前で私を待ってくださった。
自転車の後ろの席に座って帰宅する気持ちは喜びそのものであった。祖父は明け方のたび、私を連れて泉(薬水)の汲み場に行った。昔も今も、明け方の静かな泉には騒々しいちびっ子の出入りは禁忌視されているけれど、私だけ祖父の「こね」のおかげで、近所の老人たちが掌握していた泉でも自由にできた。
休みのたびに田舎の祖父の家に行けば、祖父は一日中私の手を握って、野原で山で、歩きながら無数の昔話を聞かせてくださった。
田舎の家の裏庭にある竹で「洞箫(퉁소)」(尺八に似た笛)も直接作ってくれたし、クヌギの木で手作りで「ユッ」(小ちいさな丸い棒切れを割って作る四本一組の遊戯具)も切ってくれた。
(注) ユッは、ユンノリ(윷놀이)遊びに使う。
祖父と私が散歩に出て行くたびに、祖母は袋いっぱいニンニクとネギを満たして祖父に渡したりした。祖父はそんな生ニンニクとネギが好きだった。
あちこち歩き回って脚を休ませようとすれば、祖父と私はニンニクとネギを食べた。口の中がとてもヒリヒリしたら、地面の穀物の穂を拾ってモグモグ食べながら。
考えてみれば、何の科学的根拠もないが、その時そんなにたくさん食べた生ニンニクが私の大きく高い声(高声)の源泉ではないだろうか・・・。
祖父は当時、日毎に変化した時代の潮流とは塀を築いた方だと父はいった。
伽耶琴(カヤグム)と唱を楽しんだ、常に高尚な人(ソンビ)としての風流が好きな方だった。また、外来の文物に対してはほとんど本能に近い警戒心を抱いておられたので、父を新式の学校に送るのは不合理な話だったようだ。
新しい学問に接する道が塞がってしまった父はそれでも何かを学ばなければならないと決心し、ある日さっさと単身寺に入られた。山寺で仏教思想の奥深さ(玄妙)に夢中になった父は永遠に仏と共に生きていく心を決めたという。
父の仏心は家族には薄情と感じられるほど敬虔だった。そのせいで母は家と寺の間を上がり下りするのに、気苦労、体の苦労が非常に激しかった。
父の仏心は、ある夏の日、土砂降りのようにあふれた豪雨で水騒動が起きた時、そしていつだったか、私の不注意で山火事を起こした時に如実にあらわれた。
国民学校の低学年の時だったと記憶している。だから70年代初期ぐらいだ。あまりにも引越しをたびたびすると町の名前もぼうっとする。三仙洞か敦岩洞か、もしかしたら論硯洞か新林洞なのかも分からない。
とにかくその時も、父は家の後方にある山中の寺にいたし、私たちの住居は山麓にあった。
その年の夏、数日をおいて空があいたように豪雨が降った。寺は高い山中にあるのでこれといった水害にあうわけはないが、ふもとにあった我が家は途方もない水騒動を体験しなければならなかった。
谷川があふれると、いつのまにか真っ赤な黄土水が家の前の梨畑を襲って中庭に迫った。母はあわてて木板などをごちゃごちゃ集めてイカダに似たものを作った。私と弟はあたかも渡し舟に乗っているような気分で、恐ろしさはおろかかえって楽しいだけだった。
その瞬間、寺から息を切らして走って降りてきた父が庭に入った。子供の目にも父の顔に心の余裕がない表情を読むことができた。「ああ、母と私たちが心配になって来たんだな。」
ところがそうでなかった。父は部屋に入るやいなや祭器、蓮の提灯、窓戸紙など寺で使う物を取りまとめ始めた。薄情だった。母性愛と父情の間にはそのように大きい差があるのだろうか?
その夏の水騒動に続き、その年の晩秋には「火事騒ぎ」があった。
深い山中の寺刹も人の住む所だと、毎日毎日ゴミがでた。ゴミを一度に捨てに下山することはできないことなので、たいてい寺近くの空地でゴミを燃やしてしまったりした。
今考えれば、乾いた落葉の覆いかぶさった山中で火をつけることがどれくらい危険千万なことなのか、めまいがするが、とにかく出たその日のゴミの山に燃料を入れて火をつけると、火は風に乗って広がり山の3分の1ほどを焼いてしまった。山火事はたまたま降った雨で消えた。
----------------------------------------------
イ・ソンヒの幼い頃の祖父も含めての家族愛や、「音域の広い」彼女の声が「父から受け継いだ」と語る影響について・・・知りたかったことだ。
(本ブログ関連:”(資料)イ・ソンヒ(27歳当時)の「スター・ストーリー」”、”資料:이선희 Profile”)
[3] 宗教家である父と、自然とともに過ごした幼い子供
----------------------------------------------
私が三歳になった年である1966年、両親は私を連れて忠南(忠清南道)の保寧からソウルに移住した。初めての定着地は城北区三仙洞だった。
当時、父は大韓仏教「一乗宗(일승종)」の宗会議員と同時に、仏教音楽「梵唄(범패)」の伝授者であった。
(注) ネット上で、イ・ソンヒの父親の所属宗派を「太古宗(태고종)」と記されることがあるが、この記事から(当時)「一乗宗」が正しいようだ。なお、「一乗宗」の正式な成立は1969年とされ、この年に大法院裁定により韓国仏教の最大宗派となる「曹渓宗(조계종)」と「太古宗」が正式に分離している。
(注) イ・ソンヒの家族が保寧から転居したソウルの城北区内に「一乗宗」の一乗寺がある。
(注) 一乗宗の「主な宗団機構は宗正の下、宗務全般を掌握する総務院、糾正(きゅうせい)機関である監察院、議決機関である宗議会などがある。」
(注)「梵唄」については、「太古宗」との関連がネット上で話題にされることが多い。
父の身分が僧侶だったために、所属寺院が変わるたび、わが家は引越し荷物を荷造りしなければならなかった。
そうするうちに、私は仕方なく国民学校だけ六ヶ所を転々と移り渡った。友人とちょっと付き合うだけで、校歌を覚え歌うことができるようになると、私はまた間違いなく見知らぬ学教に転校しなければならなかった。私も知らぬうちに性格は内省的に沈んでいった。
ときおり近所の子供たちとケンカをすると、その悪童たちが必ず私の父をあげつらった。「僧(중)」がどうしたといいながら。朴景利(パク・キョンニ、박경리、1926年~2008年)先生の小説「土地(토지)」で、年齢の幼いキルサン(길상)が悪童に「僧」と冷やかし受ける気持ちを十分に理解することができた。
(注) 韓国仏教における妻帯の問題は、歴史上の課題でもあった。⇒ ”韓国仏教”
自然に私と同じ年頃の子供たちと一緒に過ごす時間が減り、周りの山、木、花、鳥そして風と親しくなった。
(ちなみに)ネパールに「導師」が多いのは、両親が仕事に出て行った後、一人で自然に接して成長した子供たちが多くてとか? とにかく私は木と草に群がる虫たちと話をして育った。
もちろん幼い時からひたすら叙情的で思索的だったことは決してない。森の古木の木の上に綱をぶら下げてターザン遊びをして時間の経つことが分からなかったし、休みになれば田舎の祖父の家に行って明け方から川岸のフナを(網で)すくいてあげた。また、真夜中に近所の野菜畑を堀り散らしに行くマクワウリとスイカ荒らしで、蚊に刺されていることも分からなかった。
ソウルではひょろひょろしっぱなしの私だったが、田舎に行ったら全身に力が湧き、敏捷で活き活きするようになった。
ソウルでも、やはり父について移動も何度もしたが、行く所ごとに常に鬱蒼とした森があった。父の勤め先(?)である寺はたいてい山の中にあるのだから。
ところで日曜日になると、悪い鳥捕りたちが空気銃をかついで「私の森の中」に狩猟にきたりした。
彼らが去った後、かわいそうにも死んだ鳥が数匹ずつ散在していた。
私は、目に映りしだい死んだ鳥のために墓を作った。墓の上に小さな木の枝で十字架を作ってさした。
ところが、まさにその木製の十字架のために、寺にいらした僧侶たちにひどい目にあったことがある。仏さまを祀った寺院のあごの下に、どうしてあえて十字架を差し込むことができるかということだった。そこまで考えが及ぶことができなかったことではないが、さりとて私の腕前で「卍」の字形を作ることは到底できなかった
私の子供時代の思い出は、祖父と父から始まる。
私の考え方や価値観に大きな影響を与えた宗教家としての父、そして特に私だけを心からも愛してくれた私の祖父。
懐かしさは、明け方の山腹を取り囲んで染み入る雲であり、灰色がかった舗道の上に溶けて落ちる白い雪であり、激しい風の末に立っている弱い木の枝だ。
会いたくて懐かしい祖父. その祖父は私が中学校2年の時に亡くなった。だが、あなたのその実直だった姿はまだ私の両目に浮かぶ。
祖父は田舎に住んでいたが、いつもソウルの我が家に来てくれて何月も留まったりした。そのたびに、祖父は古物の自転車を引いて下校時間の2時間前から校門の前で私を待ってくださった。
自転車の後ろの席に座って帰宅する気持ちは喜びそのものであった。祖父は明け方のたび、私を連れて泉(薬水)の汲み場に行った。昔も今も、明け方の静かな泉には騒々しいちびっ子の出入りは禁忌視されているけれど、私だけ祖父の「こね」のおかげで、近所の老人たちが掌握していた泉でも自由にできた。
休みのたびに田舎の祖父の家に行けば、祖父は一日中私の手を握って、野原で山で、歩きながら無数の昔話を聞かせてくださった。
田舎の家の裏庭にある竹で「洞箫(퉁소)」(尺八に似た笛)も直接作ってくれたし、クヌギの木で手作りで「ユッ」(小ちいさな丸い棒切れを割って作る四本一組の遊戯具)も切ってくれた。
(注) ユッは、ユンノリ(윷놀이)遊びに使う。
祖父と私が散歩に出て行くたびに、祖母は袋いっぱいニンニクとネギを満たして祖父に渡したりした。祖父はそんな生ニンニクとネギが好きだった。
あちこち歩き回って脚を休ませようとすれば、祖父と私はニンニクとネギを食べた。口の中がとてもヒリヒリしたら、地面の穀物の穂を拾ってモグモグ食べながら。
考えてみれば、何の科学的根拠もないが、その時そんなにたくさん食べた生ニンニクが私の大きく高い声(高声)の源泉ではないだろうか・・・。
祖父は当時、日毎に変化した時代の潮流とは塀を築いた方だと父はいった。
伽耶琴(カヤグム)と唱を楽しんだ、常に高尚な人(ソンビ)としての風流が好きな方だった。また、外来の文物に対してはほとんど本能に近い警戒心を抱いておられたので、父を新式の学校に送るのは不合理な話だったようだ。
新しい学問に接する道が塞がってしまった父はそれでも何かを学ばなければならないと決心し、ある日さっさと単身寺に入られた。山寺で仏教思想の奥深さ(玄妙)に夢中になった父は永遠に仏と共に生きていく心を決めたという。
父の仏心は家族には薄情と感じられるほど敬虔だった。そのせいで母は家と寺の間を上がり下りするのに、気苦労、体の苦労が非常に激しかった。
父の仏心は、ある夏の日、土砂降りのようにあふれた豪雨で水騒動が起きた時、そしていつだったか、私の不注意で山火事を起こした時に如実にあらわれた。
国民学校の低学年の時だったと記憶している。だから70年代初期ぐらいだ。あまりにも引越しをたびたびすると町の名前もぼうっとする。三仙洞か敦岩洞か、もしかしたら論硯洞か新林洞なのかも分からない。
とにかくその時も、父は家の後方にある山中の寺にいたし、私たちの住居は山麓にあった。
その年の夏、数日をおいて空があいたように豪雨が降った。寺は高い山中にあるのでこれといった水害にあうわけはないが、ふもとにあった我が家は途方もない水騒動を体験しなければならなかった。
谷川があふれると、いつのまにか真っ赤な黄土水が家の前の梨畑を襲って中庭に迫った。母はあわてて木板などをごちゃごちゃ集めてイカダに似たものを作った。私と弟はあたかも渡し舟に乗っているような気分で、恐ろしさはおろかかえって楽しいだけだった。
その瞬間、寺から息を切らして走って降りてきた父が庭に入った。子供の目にも父の顔に心の余裕がない表情を読むことができた。「ああ、母と私たちが心配になって来たんだな。」
ところがそうでなかった。父は部屋に入るやいなや祭器、蓮の提灯、窓戸紙など寺で使う物を取りまとめ始めた。薄情だった。母性愛と父情の間にはそのように大きい差があるのだろうか?
その夏の水騒動に続き、その年の晩秋には「火事騒ぎ」があった。
深い山中の寺刹も人の住む所だと、毎日毎日ゴミがでた。ゴミを一度に捨てに下山することはできないことなので、たいてい寺近くの空地でゴミを燃やしてしまったりした。
今考えれば、乾いた落葉の覆いかぶさった山中で火をつけることがどれくらい危険千万なことなのか、めまいがするが、とにかく出たその日のゴミの山に燃料を入れて火をつけると、火は風に乗って広がり山の3分の1ほどを焼いてしまった。山火事はたまたま降った雨で消えた。
火が広がる兆しが見えるやいなや、私は遁走を決めた。突然怖くなったためだ。怒られるのが恐ろしくて家にも入れぬまま、夜12時まで雨が降る晩の秋山の中で寒さに震えた。
家で私を探しに出た気配も全くなかった。結局、寒さと腹ペコということと山の獣の鳴き声にこれ以上持ちこたえることができなくて家に入った。
父は鞭を持って私を待っていた。翌日、明け方まで私は涙がにじむように鞭で打たれたし、一場の訓戒(その場だけの戒め)を聞き終えた後、はじめて母の懐で寝つくことができた。
幼い時の父は、私に常に「恐ろしい人」だったが、音域の広い私の声は父から受け継いだようだ。
今でも父の声は素晴らしい「響き」を持っている。朝早く、目覚ましの音には起きられないでも、父の咳は家族全員を起こすほどで、たまに友人の方々を連れて家に来られる時も、「ここが我が家です」という声が家まで聞こえてくる。強いてベルを押す必要がないのだ。
2013年10月23日水曜日
霜降 2013
2013年10月22日火曜日
KBS WORLD「国楽の世界へ」 稲刈り
KBS WORLD「国楽の世界へ」は、先週水曜日(10/16)に文化的なキーワードに基づく韓国文化シリーズの第27回として、稲刈り(벼베기)について紹介した。(先々週10/9は「ハングルの日」特別番組のため休止している)
まず、「米」に対する思いや共感の言葉の紹介から次のように始まった。
・咸敏復(ハム・ミンボク:함민복、1962年~)の詩「肯定的な飯(긍정적인 밥)」の初めに、「詩、一遍に三万ウォンでは/余りにも少ないのではと思いながらも/米二升だと考えたら/すぐに温かい飯となる」とある。農作業を経験したり、親の農作業姿を見たりすれば、この一節に共感できるのではないだろうか。
・昔の人は「飯が天(밥이 하늘입니다)」と考え、米を収穫するまで八十八の手が掛かると言われた。現代は技術が発達して、米はもちろん他の穀物も大量生産が可能となったが、生産者の思いは今も変わらないだろう。
▼南道民謡の「農夫の歌(농부가)」を聴く。ネットに朝鮮時代の歌とも・・・どこか洗練された歌い方・・・現地録音盤を聴きたいけれど贅沢かな。
次に米作りについて次のように解説された。
・米一粒の重さは、0.2ミリグラムほど。この一粒を作るために、農夫は春から秋まで休みなく働く。空から眩(まばゆ)い太陽の光と恵みの雨が、地には様々な微生物が、米作りを助ける。米一粒が農民の重みであり、宇宙の重みであるという言葉が、決して誇張されたものでないと感じ取れる。
・今この時期、稲刈りが最終段階に入ったところだ。例年に増して暑い夏、それだけに穀物の成長も良かった。実りを収穫する農民は、働く体は辛くとも、心はこの上ない幸せを感じているだろう。
・最近は収穫作業も機械化し、稲刈りから脱穀までその場で行うが、昔は人手で、鎌を使って一つ一つ稲を刈り取った。短時間に刈り取るためには、村中が一斉に駆けつけて働かなければならない。大勢の村人が集まって働くとき、農作業の合間に取る間食を女性が中心に準備し、子供もマッコリ運びにかり出されたという。
▼全羅北道金堤郡の「稲刈り唄(벼 베는 소리)」を聴く。いいなあ、汗臭いフレーズの繰り返しに一気に引き込まれる・・・こうでなくては。
最後に、のんびりした時代の農村風景が語られた。
・村中総出で刈り取った稲は3、4日間、田んぼの上に広げて乾燥した。さらに藁一束ずつまとめ、立てた状態で10日ほど乾かした後、庭に運んで脱穀作業を行った。一年の農作業の集大成が、無防備に田畑に広げられていたわけだが、昔は稲が盗まれる事件はなかった。農家の実りは、いつの時代でも喜ばしいものと言える。(今はいろいろやかっかいなこともあるようだが)
▼「告祀徳談(고사덕담)」を聴く。なんだか楽しくなる、めでたい・・・体も揺れるよ。
まず、「米」に対する思いや共感の言葉の紹介から次のように始まった。
・咸敏復(ハム・ミンボク:함민복、1962年~)の詩「肯定的な飯(긍정적인 밥)」の初めに、「詩、一遍に三万ウォンでは/余りにも少ないのではと思いながらも/米二升だと考えたら/すぐに温かい飯となる」とある。農作業を経験したり、親の農作業姿を見たりすれば、この一節に共感できるのではないだろうか。
・昔の人は「飯が天(밥이 하늘입니다)」と考え、米を収穫するまで八十八の手が掛かると言われた。現代は技術が発達して、米はもちろん他の穀物も大量生産が可能となったが、生産者の思いは今も変わらないだろう。
▼南道民謡の「農夫の歌(농부가)」を聴く。ネットに朝鮮時代の歌とも・・・どこか洗練された歌い方・・・現地録音盤を聴きたいけれど贅沢かな。
次に米作りについて次のように解説された。
・米一粒の重さは、0.2ミリグラムほど。この一粒を作るために、農夫は春から秋まで休みなく働く。空から眩(まばゆ)い太陽の光と恵みの雨が、地には様々な微生物が、米作りを助ける。米一粒が農民の重みであり、宇宙の重みであるという言葉が、決して誇張されたものでないと感じ取れる。
・今この時期、稲刈りが最終段階に入ったところだ。例年に増して暑い夏、それだけに穀物の成長も良かった。実りを収穫する農民は、働く体は辛くとも、心はこの上ない幸せを感じているだろう。
・最近は収穫作業も機械化し、稲刈りから脱穀までその場で行うが、昔は人手で、鎌を使って一つ一つ稲を刈り取った。短時間に刈り取るためには、村中が一斉に駆けつけて働かなければならない。大勢の村人が集まって働くとき、農作業の合間に取る間食を女性が中心に準備し、子供もマッコリ運びにかり出されたという。
▼全羅北道金堤郡の「稲刈り唄(벼 베는 소리)」を聴く。いいなあ、汗臭いフレーズの繰り返しに一気に引き込まれる・・・こうでなくては。
最後に、のんびりした時代の農村風景が語られた。
・村中総出で刈り取った稲は3、4日間、田んぼの上に広げて乾燥した。さらに藁一束ずつまとめ、立てた状態で10日ほど乾かした後、庭に運んで脱穀作業を行った。一年の農作業の集大成が、無防備に田畑に広げられていたわけだが、昔は稲が盗まれる事件はなかった。農家の実りは、いつの時代でも喜ばしいものと言える。(今はいろいろやかっかいなこともあるようだが)
▼「告祀徳談(고사덕담)」を聴く。なんだか楽しくなる、めでたい・・・体も揺れるよ。
2013年10月21日月曜日
イ・ソンヒの「クデヨ(貴方よ)」
聞くたびに心地よい歌がある。イ・ソンヒの5集所収の「クデヨ(貴方よ、그대여)」(キム・ポムニョン作詞/作曲)もそうで、このブログに何度も記してきた。
この詞に、「貴方(그대)」と「あなた(당신)」があって、文字で情感を区別したけれど・・・。
(本ブログ関連:”クデヨ”)
貴方よ 貴方よ わたしの手を支えてください
今日もわたしの心は さまよっています
月明かりのない夜を 歩いています
雨降る道を 歩いています
あなたの愛が必要です
あなたの愛を待ちます
貴方よ 貴方はいったいどこで何をされてますか
貴方よ 貴方よ わたしの気持ちをわかってください
今日もわたしの心は あなたしかない
星明かりのない夜を 覚えていますか
その時のその思い出を 覚えていますか
あなたの愛が必要です
あなたの愛を待ちます
貴方よ 貴方はいったいどこで何をされてますか
(Youtubeに登録のkoreanballadsに感謝)
この詞に、「貴方(그대)」と「あなた(당신)」があって、文字で情感を区別したけれど・・・。
(本ブログ関連:”クデヨ”)
貴方よ 貴方よ わたしの手を支えてください
今日もわたしの心は さまよっています
月明かりのない夜を 歩いています
雨降る道を 歩いています
あなたの愛が必要です
あなたの愛を待ちます
貴方よ 貴方はいったいどこで何をされてますか
貴方よ 貴方よ わたしの気持ちをわかってください
今日もわたしの心は あなたしかない
星明かりのない夜を 覚えていますか
その時のその思い出を 覚えていますか
あなたの愛が必要です
あなたの愛を待ちます
貴方よ 貴方はいったいどこで何をされてますか
(Youtubeに登録のkoreanballadsに感謝)
2013年10月20日日曜日
2013年10月19日土曜日
一日分の野菜
どういうということもない話・・・一日分の野菜を盛った「野菜たっぷりちゃんぽん」なるものを食った。
隣町での用事が済んで帰り道、ちょいと寄ってみようかと思い、寒空のした足を向けた。ちゃんぽん一杯で一日分の野菜が摂れるなら、それにこしたことはない。ところが、運ばれてきたものを見て驚いた・・・それが凄いのなんのって、けたたましい量の野菜が盛られていて、その下に麺が沈んでいたのだ。しばらくは野菜を掻き分けて、どんぶりの奥底から探し出すようにして麺を食った。
注文を聞きに来た店員さんから「餃子もいかがですか」といわれたが頼まなくてよかった。胃袋にそんな余裕はない。汗をかき、時間をかけて腹をさすりながら食った。最後の頃にはちゃんぽんを食ったのか、ちゃんぽん味がする野菜を食ったのかわからなくなった。
野菜を摂取するのはいいことだ。けれど、一日分を一度に食べるのはきつい(当たり前だ!)。いいことだからといって、無茶はいけない・・・ものごとにはほどほどがある(当たり前だ!)。反省。
隣町での用事が済んで帰り道、ちょいと寄ってみようかと思い、寒空のした足を向けた。ちゃんぽん一杯で一日分の野菜が摂れるなら、それにこしたことはない。ところが、運ばれてきたものを見て驚いた・・・それが凄いのなんのって、けたたましい量の野菜が盛られていて、その下に麺が沈んでいたのだ。しばらくは野菜を掻き分けて、どんぶりの奥底から探し出すようにして麺を食った。
注文を聞きに来た店員さんから「餃子もいかがですか」といわれたが頼まなくてよかった。胃袋にそんな余裕はない。汗をかき、時間をかけて腹をさすりながら食った。最後の頃にはちゃんぽんを食ったのか、ちゃんぽん味がする野菜を食ったのかわからなくなった。
野菜を摂取するのはいいことだ。けれど、一日分を一度に食べるのはきつい(当たり前だ!)。いいことだからといって、無茶はいけない・・・ものごとにはほどほどがある(当たり前だ!)。反省。
2013年10月18日金曜日
女性審査委員の不在
Kstyleの記事「『SUPER STAR K5』に続き『K-POPスター3』まで、女性審査委員の不在・・・“その理由は?”」(10/9、キム・ギョンミン記者)は、韓国のオーディション番組における女性(歌手)審査員不在の現状を報じている。ここでは、唯一女性審査員としてイ・ソンヒおいてほかに人材がいないという点について語られた部分だけ記す。
-------------------------------------------------
・・・このようにオーディション番組の審査委員から女性歌手たちが外される理由は何だろうか? 放送関係者は、審査委員として出演できるような音楽的なキャリアはもちろん、知名度とバラエティセンスを兼ね備えた女性歌手の不在を理由に挙げている。
実際、最初に女性審査委員を投入した「SUPER STAR K」は新しいシーズンが始まる度に出演歌手たちの審査委員資格議論が起こった。参加者の音楽的な実力を評価できるような歌手が審査委員を務めているのかという問題だった。
女性審査委員を投入して唯一審査委員資格議論とならなかったのは、MBC「偉大なる誕生」のイ・ソンヒぐらいであった。女性歌手を代表する知名度を持つシンガーソングライターが韓国の音楽業界にはあまりいないというのが現実である。
・・・
しかし女性歌手がオーディション番組から排除された2013年の音楽業界はもちろん、最近デビューした女性歌手の場合、芸能事務所で徹底的に作り上げられる現在の音楽業界を見れば、今後数十年は審査委員を務められるような女性歌手が現れるのは期待しにくいというのが韓国音楽業界の大きな問題である。
-------------------------------------------------
(本ブログ関連:”シンガーソングライター”)
-------------------------------------------------
・・・このようにオーディション番組の審査委員から女性歌手たちが外される理由は何だろうか? 放送関係者は、審査委員として出演できるような音楽的なキャリアはもちろん、知名度とバラエティセンスを兼ね備えた女性歌手の不在を理由に挙げている。
実際、最初に女性審査委員を投入した「SUPER STAR K」は新しいシーズンが始まる度に出演歌手たちの審査委員資格議論が起こった。参加者の音楽的な実力を評価できるような歌手が審査委員を務めているのかという問題だった。
女性審査委員を投入して唯一審査委員資格議論とならなかったのは、MBC「偉大なる誕生」のイ・ソンヒぐらいであった。女性歌手を代表する知名度を持つシンガーソングライターが韓国の音楽業界にはあまりいないというのが現実である。
・・・
しかし女性歌手がオーディション番組から排除された2013年の音楽業界はもちろん、最近デビューした女性歌手の場合、芸能事務所で徹底的に作り上げられる現在の音楽業界を見れば、今後数十年は審査委員を務められるような女性歌手が現れるのは期待しにくいというのが韓国音楽業界の大きな問題である。
-------------------------------------------------
(本ブログ関連:”シンガーソングライター”)
2013年10月17日木曜日
石への幻想
石の不思議さを古来ひとびとはどう幻視したり幻想したのだろう。もしかしたら、新しい見方なのかもしれない・・・ということ。
実は、中国東晋時代の「捜神記」(竹田晃訳、平凡社東洋文庫)に、古代の人の石に対する想像力が、動物や人間などに対するよりも意外に乏しいように見受けた。もしかしたら、石の伝承に対して選者(干宝)があまり関心がなかったともいえるけれど。
だから、石の中から笑い声が聞こえたり、石が馬に変化(へんげ)するというような不可思議さを感じる(「奇談の時代」(百目鬼恭三郎、朝日新聞社))には、石の持つ抽象性を咀嚼したうえで、時代を経て可能なのかもしれない。石の隙間から雲が湧き出たり、その姿からひとを虜にする審美を気付くまでには、幾重に重ねた物語つくりの力が必要なのだろう。
しかし石を見る目も、分類と細分化、つまり博物学的な知の独占を経て固められてしまったため、今となってはその隙間に幻想の入り込む余地もなく、むしろ宇宙への想像に向けられる。
実は、中国東晋時代の「捜神記」(竹田晃訳、平凡社東洋文庫)に、古代の人の石に対する想像力が、動物や人間などに対するよりも意外に乏しいように見受けた。もしかしたら、石の伝承に対して選者(干宝)があまり関心がなかったともいえるけれど。
だから、石の中から笑い声が聞こえたり、石が馬に変化(へんげ)するというような不可思議さを感じる(「奇談の時代」(百目鬼恭三郎、朝日新聞社))には、石の持つ抽象性を咀嚼したうえで、時代を経て可能なのかもしれない。石の隙間から雲が湧き出たり、その姿からひとを虜にする審美を気付くまでには、幾重に重ねた物語つくりの力が必要なのだろう。
しかし石を見る目も、分類と細分化、つまり博物学的な知の独占を経て固められてしまったため、今となってはその隙間に幻想の入り込む余地もなく、むしろ宇宙への想像に向けられる。
2013年10月16日水曜日
台風26号
台風26号は、太平洋上エネルギーを満喫しながら、好き放題に強風と強雨を撒き散らして関東に接近した。薄明かりの朝方5時過ぎに雨脚はいっそう強まり、ときどき唸り声あげて家を揺らす。
気象庁は警戒呼びかけのため、新たに「これまでに経験のない~」という表現を使うようになり、天候の脅威が深まるなか、今回「10年に1度の~」という強烈な但し書きがつけられた。気象表現が強まれば強まるほど、庶民には自然への無力さが増す。とはいえ、テレビの現場レポートは冷静である。
地元地域について、Weathernews(06:38現在)は次のように解説している。
--------------------------------------------------
大雨のピークは7時頃までですが、外出危険な暴風のピークは10時頃まで。雨が止んだ後も昼前まで外出は控えて下さい。また、朝は交通機関に大きな影響が出る見込みです。
※増水した河川や用水路は大変危険です。近づかないようにして下さい。
--------------------------------------------------
前回の台風20号(9/6)のときも強烈だったことを思い出す。20号の強風が夜闇に襲った不気味さと比べて、今回は朝方明るくなる中でのこと、ちょっと気分が違ってきて、余裕が出るのは不思議だ。
さて、この程度で? 7時頃にピークを迎えるのならばいいのだが。
・・・どうやら、このままでおさまりそうだ。(07:00)
・・・おやおや、07:10頃から上空でしきりに風が唸り、吹き寄せる。このまましばらく様子見だな。
・・・昼前に、いつもと変わらぬ空模様に戻った。
(追記)
KBS WORLDが毎週放送する「国楽の世界へ」を聴取して、その内容と感想を週遅れで記しているが、先週(10/9)は「ハングルの日」記念番組のため休止した。
(追記)
伊豆七島(伊豆諸島)最大の島である大島に、前線停滞による集中豪雨の結果、多数の犠牲者が出た。
気象庁は警戒呼びかけのため、新たに「これまでに経験のない~」という表現を使うようになり、天候の脅威が深まるなか、今回「10年に1度の~」という強烈な但し書きがつけられた。気象表現が強まれば強まるほど、庶民には自然への無力さが増す。とはいえ、テレビの現場レポートは冷静である。
地元地域について、Weathernews(06:38現在)は次のように解説している。
--------------------------------------------------
大雨のピークは7時頃までですが、外出危険な暴風のピークは10時頃まで。雨が止んだ後も昼前まで外出は控えて下さい。また、朝は交通機関に大きな影響が出る見込みです。
※増水した河川や用水路は大変危険です。近づかないようにして下さい。
--------------------------------------------------
前回の台風20号(9/6)のときも強烈だったことを思い出す。20号の強風が夜闇に襲った不気味さと比べて、今回は朝方明るくなる中でのこと、ちょっと気分が違ってきて、余裕が出るのは不思議だ。
さて、この程度で? 7時頃にピークを迎えるのならばいいのだが。
・・・どうやら、このままでおさまりそうだ。(07:00)
・・・おやおや、07:10頃から上空でしきりに風が唸り、吹き寄せる。このまましばらく様子見だな。
・・・昼前に、いつもと変わらぬ空模様に戻った。
(追記)
KBS WORLDが毎週放送する「国楽の世界へ」を聴取して、その内容と感想を週遅れで記しているが、先週(10/9)は「ハングルの日」記念番組のため休止した。
(追記)
伊豆七島(伊豆諸島)最大の島である大島に、前線停滞による集中豪雨の結果、多数の犠牲者が出た。
2013年10月15日火曜日
台風26号接近
昼過ぎ小雨がぱらつき、夕方には本格的な雨に変わった。雨脚はまだ穏やかだが、この後台風26号の強風・強雨が関東地方を襲う予想。その規模は、10年に1度の勢力とのこと。雨戸を閉めて台風に備える・・・それしか打つ手がないのだ。
TBSニュースは次のように報じている。(10/15、13:05)
首都圏を「10年に1度」の勢力の台風が襲うおそれ
-------------------------------------------------------
台風26号について気象庁が記者会見を開き、台風が(明日)16日朝、関東地方に最も接近すると予想される点について、首都圏を「10年に1度」の勢力の台風が襲うおそれがあるとして、厳重な警戒を呼びかけました。
「(関東に接近する台風では)ここ10年くらいで最も中心気圧が低い。これほどの台風は久しぶりなので警戒が必要」(気象庁予報部予報課 内田裕之主任予報官)
気象庁は、台風26号が16日朝、中心気圧が960ヘクトパスカルと非常に低い状態で関東地方に接近すると予想されることについて、2004年10月に東海地方や関東地方などに大きな被害をもたらした台風22号を例に、「首都圏を『10年に1度』の勢力の台風が襲うおそれがある」と表現して、厳重な警戒を呼びかけました。
-------------------------------------------------------
不気味さがます。刻々と迫る台風襲来、待つのはいやなものだ・・・悪い想像が働いてしまう。
TBSニュースは次のように報じている。(10/15、13:05)
首都圏を「10年に1度」の勢力の台風が襲うおそれ
-------------------------------------------------------
台風26号について気象庁が記者会見を開き、台風が(明日)16日朝、関東地方に最も接近すると予想される点について、首都圏を「10年に1度」の勢力の台風が襲うおそれがあるとして、厳重な警戒を呼びかけました。
「(関東に接近する台風では)ここ10年くらいで最も中心気圧が低い。これほどの台風は久しぶりなので警戒が必要」(気象庁予報部予報課 内田裕之主任予報官)
気象庁は、台風26号が16日朝、中心気圧が960ヘクトパスカルと非常に低い状態で関東地方に接近すると予想されることについて、2004年10月に東海地方や関東地方などに大きな被害をもたらした台風22号を例に、「首都圏を『10年に1度』の勢力の台風が襲うおそれがある」と表現して、厳重な警戒を呼びかけました。
-------------------------------------------------------
不気味さがます。刻々と迫る台風襲来、待つのはいやなものだ・・・悪い想像が働いてしまう。
2013年10月14日月曜日
体育の日2013
今日は祝日「体育の日」だ。久し振りに小金井公園を散策する。公園広場には、おさなごを相手にする若い家族連れが多い。陽射しも暖かくよい、小さな子どもたちのはしゃぎ声は更によい。
1964年の「東京オリンピック」開催日が10月10日だったことから「体育の日」として祝日となったが、前週末土曜日から3連休になるよう、10月の第2月曜日を祝日とした「ハッピーマンデー制度」(2000年)のおかげで、今年は今日がその祝日になった。(Wikipediaより)
(本ブログ関連:”1964年”)
で、体育の日にちなんで何かしたかというと・・・公園をぐるりと回っただけ。公園内の「江戸東京たてもの園」に寄って、同収蔵品による「武蔵野の歴史と民俗」展を見学する。正直、常設に近いもので、すでに何度見たことのある展示物だが、ちょっと気になったものがある。
観音塚古墳(東京都大田区)出土の水晶製切子玉(きりこぎょく)、碧玉製管玉および丸玉だ。特に硬度7の水晶を、縦長に中央を膨らませるように面切りした形に磨き上げている切子玉に興味を引いた。鉱物採集で、石英を叩くとき、その硬さに閉口するのに、水晶を面加工するなんてどれほど手間取ったことだろう。その時代、石職人がいて(儀式や埋葬品などの)宝石の加工も手がけていたのだろう。
そんなわけで「体育の日」の今日のんびりと、体を使わすに過ごした。
1964年の「東京オリンピック」開催日が10月10日だったことから「体育の日」として祝日となったが、前週末土曜日から3連休になるよう、10月の第2月曜日を祝日とした「ハッピーマンデー制度」(2000年)のおかげで、今年は今日がその祝日になった。(Wikipediaより)
(本ブログ関連:”1964年”)
で、体育の日にちなんで何かしたかというと・・・公園をぐるりと回っただけ。公園内の「江戸東京たてもの園」に寄って、同収蔵品による「武蔵野の歴史と民俗」展を見学する。正直、常設に近いもので、すでに何度見たことのある展示物だが、ちょっと気になったものがある。
観音塚古墳(東京都大田区)出土の水晶製切子玉(きりこぎょく)、碧玉製管玉および丸玉だ。特に硬度7の水晶を、縦長に中央を膨らませるように面切りした形に磨き上げている切子玉に興味を引いた。鉱物採集で、石英を叩くとき、その硬さに閉口するのに、水晶を面加工するなんてどれほど手間取ったことだろう。その時代、石職人がいて(儀式や埋葬品などの)宝石の加工も手がけていたのだろう。
そんなわけで「体育の日」の今日のんびりと、体を使わすに過ごした。
2013年10月13日日曜日
イ・ソンヒ「あなたが私を愛されるなら」
イ・ソンヒの7集に所収の「あなたが私を愛されるなら(그대가 나를 사랑하신다면)」(1991年)は、美しい旋律に載せて呪文のように、もしそうならばと仮定を繰り返す・・・そうなればよいのに。でも恋の歌としては想い続けるしかない、その方が押し寄せる情感が広がる。
彼女が、2011年2月3日のカーネギーホールのコンサート曲目に選んだように、この曲は元気溌剌とした少女から、しっとりとした女性をイメージさせる変曲点となるべきものだった。
(本ブログ関連:”カーネギーホール”)
(Youtubeに登録の여행 숲속に感謝)
彼女が、2011年2月3日のカーネギーホールのコンサート曲目に選んだように、この曲は元気溌剌とした少女から、しっとりとした女性をイメージさせる変曲点となるべきものだった。
(本ブログ関連:”カーネギーホール”)
(Youtubeに登録の여행 숲속に感謝)
2013年10月12日土曜日
10月の真夏日(更新)
昼間、ジャケットの下を半袖シャツにして外出の暑さをしのいだが、額にじわじわ汗が滲んだ。しかし天気予報の通り、夕方には横風が地面を這うように吹いてきて、秋の深まりを思い知らされる。
天頂に雲一点ないのに、陽の沈んだ後わずかに明かりを残した西の空に、灰色の雲がうねうね横たわり、まるで連山のような雲間から巨人が覗き見しているようだ。暑い夏の終日なら、そんな気にはならなかっただろうけど、秋風の後ろに冬の到来を思うと、自然の振る舞いに既に負けていることに気付く。
ところで、昨日(10/11)都心の最遅「真夏日」を更新したばかりというのに、今日再更新したと時事通信(時事ドットコム)の記事「真夏日、最も遅い記録更新=東京都心で31.3度-気象庁」(10/12)は次のように報じている。
--------------------------------------------
・北海道付近の低気圧に向かって、南から暖かい空気が流入した影響で、12日も関東地方で気温が上がり、東京都心では最高気温31.3度を観測した。1875年の統計開始以来、最も遅い真夏日となり、11日に更新したばかりの記録を塗り替えた。
--------------------------------------------
暑いのはうんざり、けれど涼しいのはさびしい、そして寒いのはもっといやだ。今も外では、風が吹き止まずにいるよ。
(本ブログ関連:”10月の真夏日”)
天頂に雲一点ないのに、陽の沈んだ後わずかに明かりを残した西の空に、灰色の雲がうねうね横たわり、まるで連山のような雲間から巨人が覗き見しているようだ。暑い夏の終日なら、そんな気にはならなかっただろうけど、秋風の後ろに冬の到来を思うと、自然の振る舞いに既に負けていることに気付く。
ところで、昨日(10/11)都心の最遅「真夏日」を更新したばかりというのに、今日再更新したと時事通信(時事ドットコム)の記事「真夏日、最も遅い記録更新=東京都心で31.3度-気象庁」(10/12)は次のように報じている。
--------------------------------------------
・北海道付近の低気圧に向かって、南から暖かい空気が流入した影響で、12日も関東地方で気温が上がり、東京都心では最高気温31.3度を観測した。1875年の統計開始以来、最も遅い真夏日となり、11日に更新したばかりの記録を塗り替えた。
--------------------------------------------
暑いのはうんざり、けれど涼しいのはさびしい、そして寒いのはもっといやだ。今も外では、風が吹き止まずにいるよ。
(本ブログ関連:”10月の真夏日”)
2013年10月11日金曜日
10月の真夏日
秋分の日(9/23)は遠に過ぎたというのに、今日の暑さは秋であることを忘れさせる。温暖化が進んでいるとはいっても、秋となればヒンヤリすることもあって、一度はストーブをつけたというのに、季節がすっかり逆戻りしたよう。
朝からじわじわ暑さが増して、熱気のこもった2階から1階へ退散し扇風機をまわす。クーラーをいれるほどではないが、外出すれば長袖シャツの袖口がピッタリはりつく。額の汗は止まらない・・・これでは夏じゃないか。
読売新聞の記事「都心で最も遅い真夏日…1875年統計開始から」(10/11)によれば、今日は都心の観測史上最も遅い真夏日になったという。
----------------------------------------------
・日本列島は11日、太平洋高気圧に覆われて各地で気温が上昇し、東京都心は午後1時過ぎ、30.0度を観測した。
気象庁によると、東京都心では1875年(明治8年)の統計開始から最も遅い真夏日となった。
・これまでに東京都心で真夏日が最も遅かったのは、1915年に31.3度を観測した10月9日だった。
----------------------------------------------
そんなわけで暑い一日だった。夜になっても、熱気が部屋に残っている。外は、きっと落ち着きのない秋の夜空なんだろうな。
朝からじわじわ暑さが増して、熱気のこもった2階から1階へ退散し扇風機をまわす。クーラーをいれるほどではないが、外出すれば長袖シャツの袖口がピッタリはりつく。額の汗は止まらない・・・これでは夏じゃないか。
読売新聞の記事「都心で最も遅い真夏日…1875年統計開始から」(10/11)によれば、今日は都心の観測史上最も遅い真夏日になったという。
----------------------------------------------
・日本列島は11日、太平洋高気圧に覆われて各地で気温が上昇し、東京都心は午後1時過ぎ、30.0度を観測した。
気象庁によると、東京都心では1875年(明治8年)の統計開始から最も遅い真夏日となった。
・これまでに東京都心で真夏日が最も遅かったのは、1915年に31.3度を観測した10月9日だった。
----------------------------------------------
そんなわけで暑い一日だった。夜になっても、熱気が部屋に残っている。外は、きっと落ち着きのない秋の夜空なんだろうな。
2013年10月10日木曜日
イ・ソンヒの「天使は泣かない」
木管の序奏で始まる、イ・ソンヒの4集所収「天使は泣かない(천사는 울지 않아요)」(ソン・シヒョン作詞作曲、1988年)は、端正に4拍子をきざみつつ、次第に高揚するように歌う。女学生ファンの心理に応えた、愛への興味と同時に健全さを併せ持つ。天使に託して、夜から朝への転換、そして永遠をめざすとても前向きな響きがする。
このアルバムが発表された年は、ソウルオリンピックが開催され、ひとびとは明るい朝陽を浴びていたことだろう。
ちなみに、同アルバムには、彼女の代表曲となる「私はいつもあなたを(나 항상 그대를)」(ソン・シヒョン作詞、キム・ミンジョン作曲)が収められている。ともに、無垢な想いを感じさせる歌である。
(Youtubeに登録のcoffeeletterに感謝)
このアルバムが発表された年は、ソウルオリンピックが開催され、ひとびとは明るい朝陽を浴びていたことだろう。
ちなみに、同アルバムには、彼女の代表曲となる「私はいつもあなたを(나 항상 그대를)」(ソン・シヒョン作詞、キム・ミンジョン作曲)が収められている。ともに、無垢な想いを感じさせる歌である。
(Youtubeに登録のcoffeeletterに感謝)
2013年10月9日水曜日
記憶力
今に始まったわけではないが、つまり最初からよかったわけではないのだが、歳とともに記憶力が後ずさりする。歳は増えても記憶力は減るだけ。
最近のタレントさんは、例えばAKBについて誰一人わからない。そんなとき、名前さえ知れば、画像検索とYoutubeで情報を得ることができる。テレビで以前見かけたのなら記憶をよびさませるし、初めてならこういうイメージなんだなとわかる。
ところで、歌手は歌詞をどうやって覚えているのだろう。スタジオなら、譜面台やプロンプター、あるいは手書きカンペのようなもので見ることができるだろうけれど。
ライブの場合、しかも持ち歌でないものを歌うときはどうだろう。ステージの前縁にディスプレイが数台斜めに置かれているのを見るが役立てているのだろうか。・・・歌手に、一言のもとに否定される顰蹙もので、失礼なものいいかもしれないけれど。
実は、イ・ソンヒが「島の赤んぼう(섬집아기)」をテレビのトーク番組で歌っていたが、そのときの歌詞が微妙に違っていて笑いをとっていた。こんなふうに記憶違いも笑って済ませればいいのだが。
最近のタレントさんは、例えばAKBについて誰一人わからない。そんなとき、名前さえ知れば、画像検索とYoutubeで情報を得ることができる。テレビで以前見かけたのなら記憶をよびさませるし、初めてならこういうイメージなんだなとわかる。
ところで、歌手は歌詞をどうやって覚えているのだろう。スタジオなら、譜面台やプロンプター、あるいは手書きカンペのようなもので見ることができるだろうけれど。
ライブの場合、しかも持ち歌でないものを歌うときはどうだろう。ステージの前縁にディスプレイが数台斜めに置かれているのを見るが役立てているのだろうか。・・・歌手に、一言のもとに否定される顰蹙もので、失礼なものいいかもしれないけれど。
実は、イ・ソンヒが「島の赤んぼう(섬집아기)」をテレビのトーク番組で歌っていたが、そのときの歌詞が微妙に違っていて笑いをとっていた。こんなふうに記憶違いも笑って済ませればいいのだが。
2013年10月8日火曜日
KBS WORLD「国楽の世界へ」 世宗
KBS WORLD「国楽の世界へ」は、先週水曜日(10/2)に、文化的なキーワードに基づく韓国文化シリーズの第26回として、朝鮮時代の王であった世宗(세종)大王について紹介した。
まず、世宗大王の人物について次のような説明から始まった。
・ソウルの光化門広場に世宗大王の銅像がある。朝鮮時代第4代の王である世宗大王(1397年5月7日~1450年5月18日)は、1443年ハングル(한글)を考案し、その3年後ハングル作成の目的と原理を記載した「訓民正音(훈민정음)」を公布した。当時朝鮮国内で中国の漢字(漢文)が使用されていた中で、同書にハングル創作の理由を次のように記されている。
「わが国の語音は中国とは異なり、漢字と噛み合っていないので、愚かな民たちは言いたいことがあっても書き表せずに終わることが多い。予(世宗)はそれを哀れに思い、新たに28文字を制定した。人々が簡単に学習でき、また日々の用に便利なようにさせることを願ってのことである。」(Wikipedia:訓民正音)
▼「国文余興(국문뒤풀이)」を聴く。「ハングルを学ぶ過程を歌にしたもの・・・ハングルの並びが歌詞となっている」そうだ。・・・国楽のどこに位置づけられるのかな、のどかでのんびりと聞こえる。
次にハングル文字の原理と作品について次のように解説された。
・ハングル文字は唯一、創設者と、その日時、原理まで明らかにされていて、訓民正音の解例本はユネスコ世界記録遺産に登録された。そのハングル文字の原理は、民のために作られたために、5つの基本子音と3つの基本母音の組み合わせからなる理解しやすく、記号のようだが、簡単、かつ科学的な原理が元になっている。
世宗大王は(命じて)、朝鮮建国を綴った(ハングル文献の)楽章、叙事詩である「龍飛御天歌(용비어천가)」や、釈迦の教えをまとめた「月印千江之曲(월인천강지곡)」など、様々な文学作品を残した。「龍飛御天歌」はその歌詞が音楽として現代まで残されていつ。
▼管弦合奏の「與民樂(여민락)を聴く。荘厳な響きがする・・・それにしても洗練されている。
最後に、世宗大王にかかわるイベントについて次のように紹介された。
・世宗大王は音楽の分野にも多くの関心を寄せた。当時、政治と音楽には密着な関係があると考えられた。世宗大王が直接、木の棒で地面に印を付けながら作曲したといわれる「宗廟祭礼楽」は、現在も毎年5月の第一日曜日に、宗廟祭礼を行う際に演奏されており、ユネスコ人類の無形文化にも登録されている。
10月9日は「ハングルの日」で、今年から再び祝日とされた。
▼「私たちが望むわが国(우리가 원하는 우리나라)」を聴く。コラボというか、ショスタコもさぞや・・・今様である。
まず、世宗大王の人物について次のような説明から始まった。
・ソウルの光化門広場に世宗大王の銅像がある。朝鮮時代第4代の王である世宗大王(1397年5月7日~1450年5月18日)は、1443年ハングル(한글)を考案し、その3年後ハングル作成の目的と原理を記載した「訓民正音(훈민정음)」を公布した。当時朝鮮国内で中国の漢字(漢文)が使用されていた中で、同書にハングル創作の理由を次のように記されている。
「わが国の語音は中国とは異なり、漢字と噛み合っていないので、愚かな民たちは言いたいことがあっても書き表せずに終わることが多い。予(世宗)はそれを哀れに思い、新たに28文字を制定した。人々が簡単に学習でき、また日々の用に便利なようにさせることを願ってのことである。」(Wikipedia:訓民正音)
▼「国文余興(국문뒤풀이)」を聴く。「ハングルを学ぶ過程を歌にしたもの・・・ハングルの並びが歌詞となっている」そうだ。・・・国楽のどこに位置づけられるのかな、のどかでのんびりと聞こえる。
次にハングル文字の原理と作品について次のように解説された。
・ハングル文字は唯一、創設者と、その日時、原理まで明らかにされていて、訓民正音の解例本はユネスコ世界記録遺産に登録された。そのハングル文字の原理は、民のために作られたために、5つの基本子音と3つの基本母音の組み合わせからなる理解しやすく、記号のようだが、簡単、かつ科学的な原理が元になっている。
世宗大王は(命じて)、朝鮮建国を綴った(ハングル文献の)楽章、叙事詩である「龍飛御天歌(용비어천가)」や、釈迦の教えをまとめた「月印千江之曲(월인천강지곡)」など、様々な文学作品を残した。「龍飛御天歌」はその歌詞が音楽として現代まで残されていつ。
▼管弦合奏の「與民樂(여민락)を聴く。荘厳な響きがする・・・それにしても洗練されている。
最後に、世宗大王にかかわるイベントについて次のように紹介された。
・世宗大王は音楽の分野にも多くの関心を寄せた。当時、政治と音楽には密着な関係があると考えられた。世宗大王が直接、木の棒で地面に印を付けながら作曲したといわれる「宗廟祭礼楽」は、現在も毎年5月の第一日曜日に、宗廟祭礼を行う際に演奏されており、ユネスコ人類の無形文化にも登録されている。
10月9日は「ハングルの日」で、今年から再び祝日とされた。
▼「私たちが望むわが国(우리가 원하는 우리나라)」を聴く。コラボというか、ショスタコもさぞや・・・今様である。
2013年10月7日月曜日
イ・ソンヒの童謡「青い心 白い心」
イ・ソンヒの童謡集「愛唱童謡(애창동요)」(1993年:9曲+9曲)」に、「青い心 白い心(파란 마음 하얀 마음)」(魚孝善作詞、韓龍煕作曲)が収録されている。日本の唱歌にも通じる、夏と冬の季節と色合いを心に浮かべながら歌う。この歌は、日本の教科書にも載ったことがあるそうだが、現在どうなっているのだろうか。
Youtubeに、イ・ソンヒ自身の歌声が収録されたものが見つからないのは残念だ。
(本ブログ関連:”イ・ソンヒの童謡集”)
この曲について、東京書籍の東書WEBショップには、次のような解説がある。
--------------------------------------------------------------
・1957年に韓国国定教科書に収録されてから子どもたちの間で広く歌われるようになった童謡です。1950年の朝鮮戦争の時期には,放送局の企画で「明るく美しい歌を歌おうキャンペーン」が繰り広げられ、その中で制定されたうちの1曲です。
清楚ですがすがしく、青く澄み切った空のように美しい気持ちを歌ったこの曲は、多くの韓国の子どもたちの間で歌われ、今日に受け継がれています。歌詞は韓国語の現地読みと日本語歌詞と両方載せています。3拍子の流れにのって明るい声で歌いましょう。隣国である韓国の童謡に親しむ意義深い曲です。
--------------------------------------------------------------
Youtubeに、イ・ソンヒ自身の歌声が収録されたものが見つからないのは残念だ。
(本ブログ関連:”イ・ソンヒの童謡集”)
この曲について、東京書籍の東書WEBショップには、次のような解説がある。
--------------------------------------------------------------
・1957年に韓国国定教科書に収録されてから子どもたちの間で広く歌われるようになった童謡です。1950年の朝鮮戦争の時期には,放送局の企画で「明るく美しい歌を歌おうキャンペーン」が繰り広げられ、その中で制定されたうちの1曲です。
清楚ですがすがしく、青く澄み切った空のように美しい気持ちを歌ったこの曲は、多くの韓国の子どもたちの間で歌われ、今日に受け継がれています。歌詞は韓国語の現地読みと日本語歌詞と両方載せています。3拍子の流れにのって明るい声で歌いましょう。隣国である韓国の童謡に親しむ意義深い曲です。
--------------------------------------------------------------
2013年10月6日日曜日
イ・ソンヒの「因縁」
久し振りに、イ・ソンヒの13集「四春期」(2005年)所収の「因縁(인연)」を聴いてみよう。映画「王の男(왕의 남자)」(2005年)に使われたといわれるが、実際は映画中で(サウンドトラックとして)使われたわけではないという。同映画未見のため確認したわけではないが、別にミュージックビデオ(MV)風に使われだけのようだ・・・であるから、今後も同映画の鑑賞予定を立てていない。
「因縁」のタイトルについては、他に「絆」とか「縁」などがある。すなわち、東洋の生命観である輪廻的な縁(えにし)をベースに歌っている。今は叶わぬことでも、因縁があればいずれ出逢うこともあるかもしれないという期待を・・・。
(本ブログ関連:”因縁”)
(Youtubeに登録のsoya iに感謝)
「因縁」のタイトルについては、他に「絆」とか「縁」などがある。すなわち、東洋の生命観である輪廻的な縁(えにし)をベースに歌っている。今は叶わぬことでも、因縁があればいずれ出逢うこともあるかもしれないという期待を・・・。
(本ブログ関連:”因縁”)
(Youtubeに登録のsoya iに感謝)
2013年10月5日土曜日
(資料)イ・ソンヒのスター・ストーリー「2.私が三歳も若く生きることになった理由」
先日(9/27)、「スポーツ韓国」の紙面(1991年3月8日~4月5日)に連載された、イ・ソンヒ27歳当時の「スター・ストーリー」記事の目次を紹介したが、その第2回目をここに載せたい。感謝。
(本ブログ関連:”(資料)イ・ソンヒ(27歳当時)の「スター・ストーリー」”、”資料:이선희 Profile”)
[2] 私が三歳も若く生きることになった理由
--------------------------------------------------------
小さいことは美しいんですって?
わたしは背が小さくて、
あなたはわたしを見おろしているじゃない。
まるで、小さな子どもを相手にするように、
あなたはわたしを子ども扱いする。
けれど、わたしは大人よ。
それでも、あなたの前ではどうしようもありません。
胸がドキドキするのに、
顔が赤らむのに、
何の文句を言うことができないのです。
大きくなりたいです。
あなたの心の中で。
あなたの寝ついた間に、こんなに大きくなって、
朝になったら、あなたは見つけるでしょう。
手に負えないほど大きくなってしまったわたしを。
私の自作詩「小さな不満(조그마한 불평)」の全文だ。
私は(陰暦)1964年11月11日、忠清南道保寧郡珠山面篁栗里257番地に生まれた。
父(이종규、54歳)、母(최병문、.52歳)は、私が最初の子供なのでそれとなく息子であることを期待したようだ。
更に母の胎夢は唐辛子畑で草取りするものであり、父は裏山で虎が家の垣根の中に入ってくる夢を見たので、内心息子であることを確信したという。
(参考)「(資料)胎夢」
「唐辛子」は言うまでもなく、「虎」も勇敢な男児の象徴だから、息子を望んだのもそれほど無理はなかったと思う。
いずれにせよ私は女の子で世の中に出てきて、山の神を意味する虎の夢のために、私の名前には、神仙の「仙」が入るようになった。
(参考)イ・ソンヒの漢字名は「李仙姫」である。
娘が生まれただけでも残念なのに、新生児のときの私の姿は、それこそまともに一人前に用を果たすことができるかと疑がわれほどに、「姿」が言葉にならなかったという。両親によると、頭の大きさが体の正確に2倍だった。
私の戸籍上の生年月日は、1967年3月10日である。出生届は3年も遅れたのだ。
書類上は、この世で3年の間、存在していなかった他ならぬ私であり、みれば自然に色々な憶測も多かった。
(参考)修正届けの遅れは、後の彼女のソウル市議会議員選挙立候補で問題となった。
未熟児なのですぐに死ぬと早合点をして、最初から出生届を先送りしたとか、あるいは戸籍上には64年生まれになっているが67年生まれのふりをして通しているとか・・・。
不本意ながら、なんと三歳も若返ることができた根本的な原因は、祖母と父との間の「コミュニケーション上の錯誤」だった。
その時も今も、常に寺と家を行き来している父は、私が生まれた直後に再び入山した。寺に入った父は、祖母に出生届けを頼んだので、当然戸籍に登載(登録)されていると考えていて、祖母は、昔の田舎の老人たちが当然そうであるように、うっかり忘れていたという。
そのせいで67年に生まれた私の弟も、私の戸籍上の年齢に合わせて出生届を1年遅らせなければならなかった。
大学卒業後、繊維芸術系で働いている弟は、私のために一才ほど減ってしまったことを返って幸いに思っている。 1年の浪人の末に大学に入ったが、各種の書類上は明らかに私の年齢で入学したわけだ。
--------------------------------------------------------
(本ブログ関連:”(資料)イ・ソンヒ(27歳当時)の「スター・ストーリー」”、”資料:이선희 Profile”)
[2] 私が三歳も若く生きることになった理由
--------------------------------------------------------
小さいことは美しいんですって?
わたしは背が小さくて、
あなたはわたしを見おろしているじゃない。
まるで、小さな子どもを相手にするように、
あなたはわたしを子ども扱いする。
けれど、わたしは大人よ。
それでも、あなたの前ではどうしようもありません。
胸がドキドキするのに、
顔が赤らむのに、
何の文句を言うことができないのです。
大きくなりたいです。
あなたの心の中で。
あなたの寝ついた間に、こんなに大きくなって、
朝になったら、あなたは見つけるでしょう。
手に負えないほど大きくなってしまったわたしを。
私の自作詩「小さな不満(조그마한 불평)」の全文だ。
私は(陰暦)1964年11月11日、忠清南道保寧郡珠山面篁栗里257番地に生まれた。
父(이종규、54歳)、母(최병문、.52歳)は、私が最初の子供なのでそれとなく息子であることを期待したようだ。
更に母の胎夢は唐辛子畑で草取りするものであり、父は裏山で虎が家の垣根の中に入ってくる夢を見たので、内心息子であることを確信したという。
(参考)「(資料)胎夢」
「唐辛子」は言うまでもなく、「虎」も勇敢な男児の象徴だから、息子を望んだのもそれほど無理はなかったと思う。
いずれにせよ私は女の子で世の中に出てきて、山の神を意味する虎の夢のために、私の名前には、神仙の「仙」が入るようになった。
(参考)イ・ソンヒの漢字名は「李仙姫」である。
娘が生まれただけでも残念なのに、新生児のときの私の姿は、それこそまともに一人前に用を果たすことができるかと疑がわれほどに、「姿」が言葉にならなかったという。両親によると、頭の大きさが体の正確に2倍だった。
私の戸籍上の生年月日は、1967年3月10日である。出生届は3年も遅れたのだ。
書類上は、この世で3年の間、存在していなかった他ならぬ私であり、みれば自然に色々な憶測も多かった。
(参考)修正届けの遅れは、後の彼女のソウル市議会議員選挙立候補で問題となった。
未熟児なのですぐに死ぬと早合点をして、最初から出生届を先送りしたとか、あるいは戸籍上には64年生まれになっているが67年生まれのふりをして通しているとか・・・。
不本意ながら、なんと三歳も若返ることができた根本的な原因は、祖母と父との間の「コミュニケーション上の錯誤」だった。
その時も今も、常に寺と家を行き来している父は、私が生まれた直後に再び入山した。寺に入った父は、祖母に出生届けを頼んだので、当然戸籍に登載(登録)されていると考えていて、祖母は、昔の田舎の老人たちが当然そうであるように、うっかり忘れていたという。
そのせいで67年に生まれた私の弟も、私の戸籍上の年齢に合わせて出生届を1年遅らせなければならなかった。
大学卒業後、繊維芸術系で働いている弟は、私のために一才ほど減ってしまったことを返って幸いに思っている。 1年の浪人の末に大学に入ったが、各種の書類上は明らかに私の年齢で入学したわけだ。
--------------------------------------------------------
2013年10月4日金曜日
(資料)胎夢
韓国の伝承に、婦人が受胎する前後に見る夢(胎夢、태몽)の内容によって、産まれる赤子の男女の区別ができるという。「韓国の男児選好とその問題」(李京銀、杏林大学院「大学院論文集」、2003.3 Vol.1)に、次のような紹介がある。
----------------------------------------------------
・(韓国の)ある婦人が受胎する前後に、婦人自身あるいは夫人の母、姑などの親族が見る夢を胎夢という。
・夢の中でも、竜、蛇、鶴、牛、馬、亀などの動物の夢は男児を産む夢として知られ・・・その他、桃やリンゴなどの果物および花の夢は、女児を産む夢として知られている。
----------------------------------------------------
イ・ソンヒの場合、母親の胎夢で「唐辛子畑」が見られたようで、男児が期待されたという。
AMAZONの商品説明に「唐辛子の意味は・・・ 韓国では昔から家を守るため、特に男児の出産を願うアイテム」なんていうのもある。
ちなみに、唐辛子の形には男児につながるイメージがちょっと浮かぶような・・・かわいらしい。
----------------------------------------------------
・(韓国の)ある婦人が受胎する前後に、婦人自身あるいは夫人の母、姑などの親族が見る夢を胎夢という。
・夢の中でも、竜、蛇、鶴、牛、馬、亀などの動物の夢は男児を産む夢として知られ・・・その他、桃やリンゴなどの果物および花の夢は、女児を産む夢として知られている。
----------------------------------------------------
イ・ソンヒの場合、母親の胎夢で「唐辛子畑」が見られたようで、男児が期待されたという。
AMAZONの商品説明に「唐辛子の意味は・・・ 韓国では昔から家を守るため、特に男児の出産を願うアイテム」なんていうのもある。
ちなみに、唐辛子の形には男児につながるイメージがちょっと浮かぶような・・・かわいらしい。
2013年10月3日木曜日
江戸の残党
岡本綺堂の「綺堂むかし語り」に十歳頃の思い出として、維新後に生きたかつての武士と思われる人物について小文がつづられている。
「市ヶ谷(いちがや)辺に屋敷を構えていた旗本八万騎の一人」だったが身を落とし、おでんを担ぎ売りに来る男がいて、岡本綺堂の父親と挨拶するのを見たという。子どもながらに、「普通の商人(あきんど)とは様子が違うと思った。その頃にはこんな風の商人がたくさんあった。」
あるいは、「四谷伝馬町(よつやてんまちょう)の通りには幾軒の露店(よみせ)が出ていた。そのあいだに筵(むしろ)を敷いて大道(だいどう)に坐っている一人の男が、半紙を前に置いて頻(しきり)に字を書いていた。」・・・「その頃には通りがかりの人がその字を眺めて幾許(いくら)かの銭を置いて行ったものである。」
そして、父に渡された二十銭紙幣を、いわれるままその男の前に置いて一目散に父のもとに戻ったという。・・・「父はなんにも語らなかったが、おそらく前のおでん屋と同じ運命の人であったろう。」
もちろん、新政府によろしく身を寄せたものもいるだろうけれど、「明治十五、六年の頃」でも、器用に生きることのできなかったもの、心に傷を負ったままのものもいた。そして彼らは、その寿命とともに歴史に埋もれた。
「市ヶ谷(いちがや)辺に屋敷を構えていた旗本八万騎の一人」だったが身を落とし、おでんを担ぎ売りに来る男がいて、岡本綺堂の父親と挨拶するのを見たという。子どもながらに、「普通の商人(あきんど)とは様子が違うと思った。その頃にはこんな風の商人がたくさんあった。」
あるいは、「四谷伝馬町(よつやてんまちょう)の通りには幾軒の露店(よみせ)が出ていた。そのあいだに筵(むしろ)を敷いて大道(だいどう)に坐っている一人の男が、半紙を前に置いて頻(しきり)に字を書いていた。」・・・「その頃には通りがかりの人がその字を眺めて幾許(いくら)かの銭を置いて行ったものである。」
そして、父に渡された二十銭紙幣を、いわれるままその男の前に置いて一目散に父のもとに戻ったという。・・・「父はなんにも語らなかったが、おそらく前のおでん屋と同じ運命の人であったろう。」
もちろん、新政府によろしく身を寄せたものもいるだろうけれど、「明治十五、六年の頃」でも、器用に生きることのできなかったもの、心に傷を負ったままのものもいた。そして彼らは、その寿命とともに歴史に埋もれた。
2013年10月2日水曜日
イ・ソンヒ 「HIDDEN SINGER」に出演か
サムスンと名目上分離関係にる韓国代表紙「中央日報」傘下の、総合編成チャンネルテレビ局「JTBC」の番組「HIDDEN SINGER(히든싱어) シーズン2」に出演が期待される歌手に、イ・ソンヒがあげられていると、「アジア経済」(10/1)が報じた。
なお、同シーズン2の放送は、10月12日夜11時予定されている。
「HIDDEN SINGER」は、カーテン越しに隠れている本物の歌手と5人のものまねシンガーとが歌を競いあい、聴衆100人がラウンドを重ねながら歌い手を次々ふるい落していくという、生き残りゲーム的な展開だ。見たことはないけれど・・・Youtubeで「HIDDEN SINGER」と検索すれば、大体の様子が見当つく。今まで知らない面白そうな番組構成だ。
同シーズン1では、本物の歌手がそれぞれ優勝している・・・当たり前かな。
なお、同シーズン2の放送は、10月12日夜11時予定されている。
「HIDDEN SINGER」は、カーテン越しに隠れている本物の歌手と5人のものまねシンガーとが歌を競いあい、聴衆100人がラウンドを重ねながら歌い手を次々ふるい落していくという、生き残りゲーム的な展開だ。見たことはないけれど・・・Youtubeで「HIDDEN SINGER」と検索すれば、大体の様子が見当つく。今まで知らない面白そうな番組構成だ。
同シーズン1では、本物の歌手がそれぞれ優勝している・・・当たり前かな。
2013年10月1日火曜日
KBS WORLD「国楽の世界へ」 広大
KBS WORLD「国楽の世界へ」は、先週水曜日(9/25)に、文化的なキーワードに基づく韓国文化シリーズの第25回として、大道芸人の広大(クァンデ、광대)について紹介した。
まず、広大といわれた人々の紹介から次のように始まった。
・広く大道芸人を指す広大とは、現代の西洋式サーカスのピエロが思い浮かぶが、伝統的な広大は、人々の行きかう通りで楽器を演奏したり、仮面を被って踊った男寺党牌(ナムサダンペ、남사당패)の一団や、綱渡り(チュルタギ、줄타기)を見せたり、笑い話などを聞かせた漫才師たちがいわれた。広大には、パンソリの歌い手も含まれる。朝鮮時代末期、パンソリをまとめた申在孝(신재효、1812年~1884年)は、「広大」という歌を作り、パンソリを歌う広大の条件を示し、「一に人物、二に語り、三に声、四に身振り手振りが必要」と歌っている。
▼短歌「広大歌(광대가)」を聴く。パンソリの重要なキーワードの語りが・・・でもリズムが優先する。
次にパンソリ歌い手に求められる条件を詳しく次のように説明された。
- 「一に人物」は、生まれながらの外見を指す。見目形がいいことよりも、人を相手とするため、好感が持てる顔だったり、様々なパンソリの役に当てはまる、平凡ながらも自在に表情を操れる顔が広大にふさわしい。
- 「二に語り」は、大衆を相手に話したり歌ったりするため、語り上手でなければならない。
- 「三に声」は、パンソリの歌い手としてふさわしい、完成された声を指し、自身の芸事が境地に達した広大にふさわしい声をいう。
- 「四に身振り手振り」は、場面に応じて表現豊かに演じ、登場人物になりきる広大の動きに関する条件だ。
パンソリは一人劇、一人芝居と言われる通り、歌い手にどのような姿が求められているのか想像がつく。
▼パンソリ「赤壁歌(적벽가)」の中から「長承打令(장승타령)」を聴く。随分とドラマチックに聞こえてくる。
最後に、広大の伝統と現状について次のように解説された。
・広大は、人々に笑いや余裕を与えるものの、昔は常に低い身分として差別された。自ら望んで広大になるよりは、引継がれる家業のように伝わった。冷遇された身分ながら、広大たちは練習と訓練にいそしみ、芸を磨きようやく人々の前に立ち、パンソリを伝えることができた。
現在、5大パンソリに発展したのも、こうした広大の努力があったからだ。広大の精神は、国楽が大衆の趣向に合わない現状でも、若い国楽家に伝えられている。
▼「ノモガンネ(넘어갔네)」を聴く。何気ない日常のように、甘く柔らかなフレーズが耳に残る・・・今様である。
まず、広大といわれた人々の紹介から次のように始まった。
・広く大道芸人を指す広大とは、現代の西洋式サーカスのピエロが思い浮かぶが、伝統的な広大は、人々の行きかう通りで楽器を演奏したり、仮面を被って踊った男寺党牌(ナムサダンペ、남사당패)の一団や、綱渡り(チュルタギ、줄타기)を見せたり、笑い話などを聞かせた漫才師たちがいわれた。広大には、パンソリの歌い手も含まれる。朝鮮時代末期、パンソリをまとめた申在孝(신재효、1812年~1884年)は、「広大」という歌を作り、パンソリを歌う広大の条件を示し、「一に人物、二に語り、三に声、四に身振り手振りが必要」と歌っている。
▼短歌「広大歌(광대가)」を聴く。パンソリの重要なキーワードの語りが・・・でもリズムが優先する。
次にパンソリ歌い手に求められる条件を詳しく次のように説明された。
- 「一に人物」は、生まれながらの外見を指す。見目形がいいことよりも、人を相手とするため、好感が持てる顔だったり、様々なパンソリの役に当てはまる、平凡ながらも自在に表情を操れる顔が広大にふさわしい。
- 「二に語り」は、大衆を相手に話したり歌ったりするため、語り上手でなければならない。
- 「三に声」は、パンソリの歌い手としてふさわしい、完成された声を指し、自身の芸事が境地に達した広大にふさわしい声をいう。
- 「四に身振り手振り」は、場面に応じて表現豊かに演じ、登場人物になりきる広大の動きに関する条件だ。
パンソリは一人劇、一人芝居と言われる通り、歌い手にどのような姿が求められているのか想像がつく。
▼パンソリ「赤壁歌(적벽가)」の中から「長承打令(장승타령)」を聴く。随分とドラマチックに聞こえてくる。
最後に、広大の伝統と現状について次のように解説された。
・広大は、人々に笑いや余裕を与えるものの、昔は常に低い身分として差別された。自ら望んで広大になるよりは、引継がれる家業のように伝わった。冷遇された身分ながら、広大たちは練習と訓練にいそしみ、芸を磨きようやく人々の前に立ち、パンソリを伝えることができた。
現在、5大パンソリに発展したのも、こうした広大の努力があったからだ。広大の精神は、国楽が大衆の趣向に合わない現状でも、若い国楽家に伝えられている。
▼「ノモガンネ(넘어갔네)」を聴く。何気ない日常のように、甘く柔らかなフレーズが耳に残る・・・今様である。
2013年9月30日月曜日
(資料)20代の脱進歩傾向
韓国の世代について。イ・ソンヒを取り囲む40代から50代に焦点をあてて世論調査を追跡しているが、20代に新しい傾向があるとのこと。この傾向、どこかで見たようなもの・・・世界的傾向か。
(本ブログ関連:”世代”)
国民日報の記事「[保守化する20代] 『若さ≠進歩』 古い服を脱ぐ」(9/28、チョン・スミン記者)は、韓国ギャラップによる大統領支持率調査の結果をもとに、20代の脱進歩傾向について次のように報じた。(抜粋)
--------------------------------------------
・・・(専門家は)世論調査で示された20代の保守的立場は、「若さ=進歩」の等式が古いものであることを物語っているが、これを「20代の保守化」と規定しにくいと口をそろえた。「保守化」よりも「脱進歩」にもっと近いものである。
20代の脱進歩は理念より現実に敏感なこの世代の特性に起因する。民主化以後に生まれ、理念的・政治的激変なしに育った20代は、以前の世代とは全く別の「脱近代第1世代」であり、 社会進出を控えて低成長の障壁に阻まれた「低成長世代」だ。理念の問題を熟考する理由は減り、授業・アルバイト、 就職の悩みが必須になった。
当面の問題(イシュー)に敏感に反応するのも、安全保障問題に不安を感じるのも、現実の安定を優先することから始まる。このため、彼らは自分が保守か進歩かの傾向を明らかにするのに躊躇しないが、自分の信念の誕生の背景をきちんと説明できない。専門家たちは、それなりの方法で世の中に反応する20代を責めることはできないと言う。・・・
--------------------------------------------
(本ブログ関連:”世代”)
国民日報の記事「[保守化する20代] 『若さ≠進歩』 古い服を脱ぐ」(9/28、チョン・スミン記者)は、韓国ギャラップによる大統領支持率調査の結果をもとに、20代の脱進歩傾向について次のように報じた。(抜粋)
--------------------------------------------
・・・(専門家は)世論調査で示された20代の保守的立場は、「若さ=進歩」の等式が古いものであることを物語っているが、これを「20代の保守化」と規定しにくいと口をそろえた。「保守化」よりも「脱進歩」にもっと近いものである。
20代の脱進歩は理念より現実に敏感なこの世代の特性に起因する。民主化以後に生まれ、理念的・政治的激変なしに育った20代は、以前の世代とは全く別の「脱近代第1世代」であり、 社会進出を控えて低成長の障壁に阻まれた「低成長世代」だ。理念の問題を熟考する理由は減り、授業・アルバイト、 就職の悩みが必須になった。
当面の問題(イシュー)に敏感に反応するのも、安全保障問題に不安を感じるのも、現実の安定を優先することから始まる。このため、彼らは自分が保守か進歩かの傾向を明らかにするのに躊躇しないが、自分の信念の誕生の背景をきちんと説明できない。専門家たちは、それなりの方法で世の中に反応する20代を責めることはできないと言う。・・・
--------------------------------------------
2013年9月29日日曜日
秩父鉱山 大黒の河原、石灰沢
朝明けは遅く、夕暮れは早い。薄明かりのホームに始発電車を待ち、待ち合わせ駅を降りて、いつもお世話になる石仲間の車に早速同乗。朝方には、秩父鉱山の大黒の河原に着いた。
[大黒の河原]
朝は少々涼しい。薄手のヤッケを着て鉱物採集を開始した。いわゆる大黒の河原を今回も特定できていないため、いつもの同チャレンジ場所よりだいぶ上流にある脇道から河原に降りて、下流へ歩を進めた。
切り立った岸に川が挟まれて、河原がないような所では、早目に沢の崖を登った。社宅の廃墟跡の幾段もの石組みを横目にして迂回するように下流へ向かった。ある空き地で、キューピー人形や、ブラウン管テレビがぽつん廃棄されたまま置かれているのを見た。そこには若い働き手の家族がいたのだろうか。
途中の河原で鉱物採集をしている親子と会った。彼らも、友だち情報を元に来たものの、場所の確信はないという・・・一体、大黒の河原はいずこ。
しかも、目立った成果をあげられず、白鉄鉱のみ・・・如何んせん。
[石灰沢]
次に、採集場所をずっと上流にある秩父鉱山石灰沢へ移した。こちらも表面採集だけではだいぶきつい。途中昼食をはさみながら、ずっと採集を続けるも、河原の転石が陽を反射してまぶしい。随分と喉が渇く。そんなわけで、ヤッケは御免となった。昼間はやはり暑い。
こちらでは、オーソドックスだが採集種類を次のように増やすことにした。
・孔雀石、磁鉄鉱、黄鉄鉱、黄銅鉱、緑廉石、方解石・石英、
・等質石灰岩
帰宅したとき、辺りはとっくに暗くなっていた。
[大黒の河原]
朝は少々涼しい。薄手のヤッケを着て鉱物採集を開始した。いわゆる大黒の河原を今回も特定できていないため、いつもの同チャレンジ場所よりだいぶ上流にある脇道から河原に降りて、下流へ歩を進めた。
切り立った岸に川が挟まれて、河原がないような所では、早目に沢の崖を登った。社宅の廃墟跡の幾段もの石組みを横目にして迂回するように下流へ向かった。ある空き地で、キューピー人形や、ブラウン管テレビがぽつん廃棄されたまま置かれているのを見た。そこには若い働き手の家族がいたのだろうか。
途中の河原で鉱物採集をしている親子と会った。彼らも、友だち情報を元に来たものの、場所の確信はないという・・・一体、大黒の河原はいずこ。
しかも、目立った成果をあげられず、白鉄鉱のみ・・・如何んせん。
[石灰沢]
次に、採集場所をずっと上流にある秩父鉱山石灰沢へ移した。こちらも表面採集だけではだいぶきつい。途中昼食をはさみながら、ずっと採集を続けるも、河原の転石が陽を反射してまぶしい。随分と喉が渇く。そんなわけで、ヤッケは御免となった。昼間はやはり暑い。
こちらでは、オーソドックスだが採集種類を次のように増やすことにした。
・孔雀石、磁鉄鉱、黄鉄鉱、黄銅鉱、緑廉石、方解石・石英、
・等質石灰岩
帰宅したとき、辺りはとっくに暗くなっていた。
2013年9月28日土曜日
第68回国民体育大会総合開会式、第13回全国障害者スポーツ大会開式
「国体」のフルネームの話題があって、「国民体育大会」とあらためて確認した。韓国語教室の生徒の一人(若手おじさん、失礼)が、54年振りに東京で開催される「第68回国民体育大会、第13回全国障害者スポーツ大会」の開会式上空を飛行する「ブルーインパルス」を見たいと早退された。
会場は、調布市にある「味の素スタジアム」で、会場の外からも展示飛行が十分楽しめるという。飛行のスケールを考えれば、まさにその通りなわけで、どんなものかわたしも見てみたい気がした。
ブルーインパルスの機体は、川崎重工T-4 (練習機)だが、昔の記憶にノースアメリカンのセイバー(F-86F)がおぼろげにある・・・古いかなあ。ブルーインパルスのベースが、今回の東日本大震災(2011年3月11日)で津波被害受けた、松島基地ということは記憶に新しい。
教室の帰り道、会場の上空をヘリコプター数機が旋回取材しているのが見えた。
(Youtubeに登録のasihika3891に感謝)
会場は、調布市にある「味の素スタジアム」で、会場の外からも展示飛行が十分楽しめるという。飛行のスケールを考えれば、まさにその通りなわけで、どんなものかわたしも見てみたい気がした。
ブルーインパルスの機体は、川崎重工T-4 (練習機)だが、昔の記憶にノースアメリカンのセイバー(F-86F)がおぼろげにある・・・古いかなあ。ブルーインパルスのベースが、今回の東日本大震災(2011年3月11日)で津波被害受けた、松島基地ということは記憶に新しい。
教室の帰り道、会場の上空をヘリコプター数機が旋回取材しているのが見えた。
(Youtubeに登録のasihika3891に感謝)
2013年9月27日金曜日
寒いのか暑いのか
昨夜は冷えた。そして今朝涼しさが残った。で、ちょいと厚着して出かけたら、昼に汗をかいた。帰りに、スーパーで箱型のケースに入ったアイスクリームとドリップコーヒーを買う・・・品揃えがバラバラである。
この状態は、暑いのか寒いのか、(大阪弁風に)ようわかれへん。夏と秋の汽水域というか、熱力学第二法則状態というか、混沌として収斂(大阪弁風に)せえへん。ただし寒い方向に進むのだけは勘弁して欲しい。寒いのは苦手だ。
今晩、深夜の気温はわるくない・・・寒さが厳しくない。今、アイスクリームを食いながらしたためている。
このまま秋晴れが続けば・・・日曜日も高気圧に覆われ続けて天気が良いという。何かいいことがありそうだ。
この状態は、暑いのか寒いのか、(大阪弁風に)ようわかれへん。夏と秋の汽水域というか、熱力学第二法則状態というか、混沌として収斂(大阪弁風に)せえへん。ただし寒い方向に進むのだけは勘弁して欲しい。寒いのは苦手だ。
今晩、深夜の気温はわるくない・・・寒さが厳しくない。今、アイスクリームを食いながらしたためている。
このまま秋晴れが続けば・・・日曜日も高気圧に覆われ続けて天気が良いという。何かいいことがありそうだ。
2013年9月26日木曜日
彼岸明け
「秋分の日」(9/23)を挟んで前後3日間の「彼岸」が今日明けた。そして、まさに<秋>の深まりを感じる。今晩の帰り道、風に驚いた。本当に秋なんだ。
今朝、テレビの天気予報で、雨雲レーダーに風向きの矢印を重ねたCGを見たが、太平洋沖を大きく東に方向を変えた台風20号の影響で、北風が吹き込むという解説があった。
今晩、上空にうなる音が聞こえたとき、ああ、これじゃあ<冬>だと一瞬思った。風は結構冷たかった・・・。
ところで、遠く離れた相手と通じるには今でも電話だろう。耳元の小さなスピーカーから流れる肉声はどんなにかすれていても実感する。イ・ソンヒの12集所収の「世界中が眠りに落ちた後から(온 세상 잠든 후부터)」(2001年)は、<雪の夜>の電話に最後の言葉を残すよう。
(Youtubeに登録のCool Kidに感謝)
今朝、テレビの天気予報で、雨雲レーダーに風向きの矢印を重ねたCGを見たが、太平洋沖を大きく東に方向を変えた台風20号の影響で、北風が吹き込むという解説があった。
今晩、上空にうなる音が聞こえたとき、ああ、これじゃあ<冬>だと一瞬思った。風は結構冷たかった・・・。
ところで、遠く離れた相手と通じるには今でも電話だろう。耳元の小さなスピーカーから流れる肉声はどんなにかすれていても実感する。イ・ソンヒの12集所収の「世界中が眠りに落ちた後から(온 세상 잠든 후부터)」(2001年)は、<雪の夜>の電話に最後の言葉を残すよう。
(Youtubeに登録のCool Kidに感謝)
2013年9月25日水曜日
(資料)イ・ソンヒのスター・ストーリー「1.余裕のアピール力を持った歌手」
先日(9/27)、「スポーツ韓国」の紙面(1991年3月8日~4月5日)に連載された、イ・ソンヒ27歳当時の「スター・ストーリー」記事の目次を紹介したが、その第1回目をここに載せたい。感謝。
(本ブログ関連:”(資料)イ・ソンヒ(27歳当時)の「スター・ストーリー」”、”資料:이선희 Profile”)
[1] 余裕のアピール力を持った歌手
------------------------------------------------------
ゆらぐる思い出のページをめくれば
ああ、遂に果たせなかった悔しさと侘しい贖罪が
むかしのことのように、ぼんやりとかすむ窓枠の塵(ちり)のように
ああ、胸に積もるよ、今は遠ざかったあなたの微笑みのように
雨風がなくても春は来て夏は行く
ああ、あなたよ・・・涙がなくても、花は咲き葉はやがて散る
ああ、わたしに残った懐かしい歳月を浮かべて、眠りにつくよ、夢を見るよ・・・
私の6集アルバムに入っている、ソン・シヒョン(송시현)作詞・作曲の「思い出のページをめくれば(추억의 책장을 넘기면)」の歌詞である。今、私の心境はこの歌の歌詞とほとんど差がない。1984年MBC FMの「江辺歌謡祭」で大賞を受賞して以来、過去7年間の歳月は、国内外での数々のコンサート、アルバム発表、ミュージカル出演、そして自作詩集の出版などで息つまるように突き進んだ日々だった。
今しばらく自分自身を整理してみる機会を持たなければならない。ただ音楽に対する熱い情熱一つで声を限りに歌い続けながら、マスコミによって一日で「歌謡界のシンデレラ」になった気持ちを満喫していた当時、ちょうど二十歳の年齢は、いつのまにか27才の女性に成長した。
周りの環境も色々な変化があった。デビュー当時、余裕がなかった家の暮らしも、今はかなり豊かになった。少年少女の歓声と拍手喝采の中にひたすら自惚れていた私はその間に、「公人」としての大衆歌手の役割を考えてみるようになった。それで、今盛んに進めているのが北朝鮮でのコンサートである。叶うなら、平壌の舞台の上で倒れることがあっても、全てを注いでしまうだろう・・・
私を大切にしてくださるファンも、むかしは青少年層一色だったが、今はその方が結婚もして職場も持ち、また、大学に進学したりしているからか、10代から30代に至るまでまんべんなくファンレターを送っていただいている。
その間、私は「歌唱力が優れた歌手」という評をしばしば聞いてきた。そうするうちに、いつからか私はダイナミックでパワーあふれる歌がまさに私だけの個性だと信じるようになった。
だが、6集アルバム「思い出のページをめくれば」では、成人趣向だがスローな味の歌が主流をなす新しい試みでファンに「イ・ソンヒも余裕のアピール力を持つ歌手だ」という認識を一新したことは大切な収穫だ。
今後もずっと、既存の人気に安住せず、冒険になるとしても明るくて希望に満ちたメッセージを歌に入れる作業を継続しようと思う。
今後、この欄を通じて、はじめて私の存在が世の中に知らされた後の7年. そしてそれ以前の20年を淡々と書いていく。まだ多くの人生経験をしたとはいえない私だが、歌謡生活を中間決算するという心掛けで私が過ぎた27年を飾り気なく告白しようと思う。
------------------------------------------------------
(本ブログ関連:”(資料)イ・ソンヒ(27歳当時)の「スター・ストーリー」”、”資料:이선희 Profile”)
[1] 余裕のアピール力を持った歌手
------------------------------------------------------
ゆらぐる思い出のページをめくれば
ああ、遂に果たせなかった悔しさと侘しい贖罪が
むかしのことのように、ぼんやりとかすむ窓枠の塵(ちり)のように
ああ、胸に積もるよ、今は遠ざかったあなたの微笑みのように
雨風がなくても春は来て夏は行く
ああ、あなたよ・・・涙がなくても、花は咲き葉はやがて散る
ああ、わたしに残った懐かしい歳月を浮かべて、眠りにつくよ、夢を見るよ・・・
私の6集アルバムに入っている、ソン・シヒョン(송시현)作詞・作曲の「思い出のページをめくれば(추억의 책장을 넘기면)」の歌詞である。今、私の心境はこの歌の歌詞とほとんど差がない。1984年MBC FMの「江辺歌謡祭」で大賞を受賞して以来、過去7年間の歳月は、国内外での数々のコンサート、アルバム発表、ミュージカル出演、そして自作詩集の出版などで息つまるように突き進んだ日々だった。
今しばらく自分自身を整理してみる機会を持たなければならない。ただ音楽に対する熱い情熱一つで声を限りに歌い続けながら、マスコミによって一日で「歌謡界のシンデレラ」になった気持ちを満喫していた当時、ちょうど二十歳の年齢は、いつのまにか27才の女性に成長した。
周りの環境も色々な変化があった。デビュー当時、余裕がなかった家の暮らしも、今はかなり豊かになった。少年少女の歓声と拍手喝采の中にひたすら自惚れていた私はその間に、「公人」としての大衆歌手の役割を考えてみるようになった。それで、今盛んに進めているのが北朝鮮でのコンサートである。叶うなら、平壌の舞台の上で倒れることがあっても、全てを注いでしまうだろう・・・
私を大切にしてくださるファンも、むかしは青少年層一色だったが、今はその方が結婚もして職場も持ち、また、大学に進学したりしているからか、10代から30代に至るまでまんべんなくファンレターを送っていただいている。
その間、私は「歌唱力が優れた歌手」という評をしばしば聞いてきた。そうするうちに、いつからか私はダイナミックでパワーあふれる歌がまさに私だけの個性だと信じるようになった。
だが、6集アルバム「思い出のページをめくれば」では、成人趣向だがスローな味の歌が主流をなす新しい試みでファンに「イ・ソンヒも余裕のアピール力を持つ歌手だ」という認識を一新したことは大切な収穫だ。
今後もずっと、既存の人気に安住せず、冒険になるとしても明るくて希望に満ちたメッセージを歌に入れる作業を継続しようと思う。
今後、この欄を通じて、はじめて私の存在が世の中に知らされた後の7年. そしてそれ以前の20年を淡々と書いていく。まだ多くの人生経験をしたとはいえない私だが、歌謡生活を中間決算するという心掛けで私が過ぎた27年を飾り気なく告白しようと思う。
------------------------------------------------------
2013年9月24日火曜日
KBS WORLD「国楽の世界へ」 秋夕
KBS WORLD「国楽の世界へ」は、先週水曜日(9/18)に、文化的なキーワードに基づく韓国文化シリーズの第24回として、祭日の秋夕(チュソク、추석)の言葉でもある「ハンガウィ(한가위)」について紹介した。
まず、秋の真ん中の名節を表す「ハンガウィ」についての解説から始まった。
・伝承に、新羅の儒理(유리)尼師今王時代、王が王女二人を選び各々に王宮の女性をつけ、陰暦7月15日から機を織らせて8月15日にどちらが多くの布を完成させたか競わせた。負けた側は馳走を準備し、皆共に食事を歌い踊った。
このように八月の中間に行われる集いを「ハン・ガウィ(大・中間の意)」といい、大きな名節を表す。昔からの名節も今は多く忘れられる中、正月、ソルラルと並び、このハンガウィ(チュソク)も代表的な名節といえる。
▼全羅南道の「カンガンスルレ(강강술래)」を聴く。古来南風の海洋に育まれた、女性の生き方に因んだ民俗的に明るく強い遊び歌のよう。
次にハンガウィの民族行事の踊りを次のように紹介された。
・ハンガウィの代表的な遊に「カンガンスルレ」がある。月の出に、海の砂浜、村の広場に女性たちが集まり、彼女たちが中心となる独特なものと言える。手に手をとって円を作り右に大きく回る。空の丸い月と地上で円陣を組む女たちが一体となり、共に声をそろえ歌い回り続ける。日常生活の素朴な題材を表現した様々な表現がある。
- 円陣の中に2、3人が飛び出し、自由に踊るナムセンイノリ
- 前の人の腰にしがみつく形で一列をつくり、一人が列の背中の上を歩いて渡るキワパルキ
慶尚道地方に伝わる「ウォルウォリチョンチョ」ンという遊びは、女性が様々歌いながら円を描いて踊るという点で、カンガンスルレと似ている。これらの踊りの由来については、はっきりとしたことはわかっていない。
▼慶尚道地方の「ウォルウォリチョンチョン(월워리청청)」を聴く。フレーズを、そして後追いを繰り返して・・・女性たちが一体化するよう。
最後に、ハンガウィの大衆の楽しみについて次のように紹介された。
・ハンガウィはその年の収穫を先祖に捧げ、感謝を伝えるところに意義がある。夏、玉のような汗を流し仕事に励んだ農民は、この日ばかりは良い服を着て、お腹いっぱい食べ、余裕あるひと時をを楽しんだ。
中には、経済的な理由で名節の準備ができない家もあった。パンソリ「フンボガ」に、チュソクに、フンボの元に届いた瓜から、米やお金があふれ出る題目は、こうした人々の心内を代弁する一曲だといえるだろう。
▼パンソリ「興甫歌(흥보가)」から瓜を割る題目を再構成した「フンボガうれしと(흥보가 좋아라고)」を聴く。驚きと笑いがとまらない、そわそわする・・・今様の伴奏をつけて。
まず、秋の真ん中の名節を表す「ハンガウィ」についての解説から始まった。
・伝承に、新羅の儒理(유리)尼師今王時代、王が王女二人を選び各々に王宮の女性をつけ、陰暦7月15日から機を織らせて8月15日にどちらが多くの布を完成させたか競わせた。負けた側は馳走を準備し、皆共に食事を歌い踊った。
このように八月の中間に行われる集いを「ハン・ガウィ(大・中間の意)」といい、大きな名節を表す。昔からの名節も今は多く忘れられる中、正月、ソルラルと並び、このハンガウィ(チュソク)も代表的な名節といえる。
▼全羅南道の「カンガンスルレ(강강술래)」を聴く。古来南風の海洋に育まれた、女性の生き方に因んだ民俗的に明るく強い遊び歌のよう。
次にハンガウィの民族行事の踊りを次のように紹介された。
・ハンガウィの代表的な遊に「カンガンスルレ」がある。月の出に、海の砂浜、村の広場に女性たちが集まり、彼女たちが中心となる独特なものと言える。手に手をとって円を作り右に大きく回る。空の丸い月と地上で円陣を組む女たちが一体となり、共に声をそろえ歌い回り続ける。日常生活の素朴な題材を表現した様々な表現がある。
- 円陣の中に2、3人が飛び出し、自由に踊るナムセンイノリ
- 前の人の腰にしがみつく形で一列をつくり、一人が列の背中の上を歩いて渡るキワパルキ
慶尚道地方に伝わる「ウォルウォリチョンチョ」ンという遊びは、女性が様々歌いながら円を描いて踊るという点で、カンガンスルレと似ている。これらの踊りの由来については、はっきりとしたことはわかっていない。
▼慶尚道地方の「ウォルウォリチョンチョン(월워리청청)」を聴く。フレーズを、そして後追いを繰り返して・・・女性たちが一体化するよう。
最後に、ハンガウィの大衆の楽しみについて次のように紹介された。
・ハンガウィはその年の収穫を先祖に捧げ、感謝を伝えるところに意義がある。夏、玉のような汗を流し仕事に励んだ農民は、この日ばかりは良い服を着て、お腹いっぱい食べ、余裕あるひと時をを楽しんだ。
中には、経済的な理由で名節の準備ができない家もあった。パンソリ「フンボガ」に、チュソクに、フンボの元に届いた瓜から、米やお金があふれ出る題目は、こうした人々の心内を代弁する一曲だといえるだろう。
▼パンソリ「興甫歌(흥보가)」から瓜を割る題目を再構成した「フンボガうれしと(흥보가 좋아라고)」を聴く。驚きと笑いがとまらない、そわそわする・・・今様の伴奏をつけて。
登録:
投稿 (Atom)