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2025年1月27日月曜日

椿(ツバキ)

冬になって公園で見かける樹の花に、花弁が散る「サザンカ」がある。花一輪ごと落ちる「椿(ツバキ)」とあまり出会わなかったが、先日(1/25)公園の外周を回ったとき、民有地側の柵越しに咲いたツバキの花が丸ごと路面側に落ちていた。久し振りの光景だ。

(本ブログ関連:”ツバキ”)

「椿」の言葉でいえば、テレビで知った「五瓣の椿」(山本周五郎 原作)のドラマの壮絶な主人公が浮かんでくる。ポピュラーなイメージから演歌「アンコ椿」(都はるみ)の方が順当かもしれないが(伊豆大島の「椿油」しかり)。名前つながりで洒落ていえば、映画「椿三十郎」(三船敏郎主演)だろう、主人公は無敵だ。椿には、かくのごとくいろいろな色合いがあるようだ。

椿の花について、柳田国男の「雪国の春」の項「樹の花」に、次のように記されている。(福井県)若狭について紀行した文末に「八百比丘尼」と <椿> の結びつきを触れるとは・・・海辺に咲く椿の花が、海中の竜宮と陸地を結ぶ。実際のところ椿の分布には、下記に転載するように、人手による考え方があるようだが。そして、その広がりの役割を果たしたのに、永遠(一応八百年を区切りにする)の若さを持った「八百比丘尼」につながる(椿の花を携えた)旅人があったという。

(本ブログ関連;”八百比丘尼”)

■ 青空文庫
「雪国の春」(柳田国男、1956年(昭和31年))
https://www.aozora.gr.jp/cards/001566/files/54403_54217.html
同文の【椿の旅】の項より抜粋
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 全体に椿という木の分布順序については、まだ若干の学者の考え残しがあるように思う。太平洋岸でも気仙、唐桑以北の数か所、日本海の方でも津軽の深浦、それから青森湾内の小湊その他の岬の蔭に、おおよそ鳥が実をついばんで一息に飛ぶ距離の、五倍か七倍かの間隔をもって、いずれも一団の林をなして成長繁茂するのを、果して自然界のでたらめと見ることができるであろうかどうか。

 しかも他の一方には若狭の八百比丘尼のごとく、玉椿*の枝を手に持って、諸国を巡歴したという旅人はあったのである。愛する土地の美女と約束をして、またの年には椿の実を携えて再び訪ねてきたら、これを見て悦ぶべき恋人はもう死んでいたので、それを地に投じて歎き慕うていると、芽を吐き成長して神の樹となったという類の言い伝えも、土地によっては残っているのである。それからまたこの木の茂る所は、たいていは神の杜である。無論椿存在の奇異が、神を祀った原因であったとも言いうるが、とにかくに人とこの植物との関係は昨今でなく、また鳥などよりも親しみが深かったのである。

 植物には榎(えのき)や柳のごとく、庭木でないまでも里の木であって、山野に行けばかえってしだいに少なくなるものが稀れでない。これらを存在せしめるだけでも人間の意思であった。奥羽に向かってはその上に積極的に、若干の努力が加わっているかと思う。人が考えて移し試みなかったならば、椿などはとうてい雪国には入りえなかったろう。この細長い日本という島は、常にチューブのごとくまた心太(ところてん)の箱のごとく、ある力があって常に南方の文物を、北に向かって押し出していたのである。椿が稲や田芋と同じ程度に、人間生活との交渉の深いものでなかったということは、天然信仰の一向に研究せられぬこの国においては、まだまだ断言しうる者はないはずである。あるいはこれもまた隠れたる一つの史蹟記念物であって、単なる天然の記念物ではなかったかもしれぬのである。むやみに専門家の独断を信じないことにしよう。
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(*)玉椿: ツバキの美称

八百比丘尼については、あらためて記したい。