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2013年7月19日金曜日

イェイツの「宝石を食ふもの」

芥川龍之介訳による、イェイツの「ケルトの薄明(THE CELTIC TWILIGHT)」(William Butler Yeats)の中の3編が青空文庫に掲載されている。原本は、「(全体は約四〇の章からなる)ケルト民族の持つ、精霊や幻想の話を集めた小品、挿話集」とのこと。

青空文庫にある、3編のひとつに「宝石を食ふものthe eaters of precious stones)」がある。白日の夢に見た光景をなぞらえて、ケルト芸術の疲弊を暗喩したのだろうか、美しい宝石を貪るサルの姿に、「美なる物を求め、奇異なる物を追ふ人々が、平和と形状とを失つて、遂には無形と平俗とに堕する事を知つた」。真の美を、俗において我執にはかる限り、それは物欲の対象以外の何物でもなく、跡には底なしの空虚だけが残ることになる。

(本ブログ関連:"薄田泣菫「石を愛するもの」"、"青空文庫”)
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Ⅰ 宝石を食ふもの

平俗な名利の念を離れて、暫く人事の匆忙(そうぼう=忙しさ)を忘れる時、自分は時として目ざめたるまゝの夢を見る事がある。或は模糊たる、影の如き夢を見る。或は歴々として、我足下の大地の如く、個体の面目を備へたる夢を見る。其模糊たると、歴々たるとを問はず、夢は常に其赴くが儘に赴(おもむ)いて、我意力は之に対して殆ど其一劃を変ずるの権能すらも有してゐない。夢は夢自らの意志を持つて居る。そして彼方此方と揺曳(ようえい)して、其意志の命ずるまゝに、われとわが姿を変へるのである。

一日、自分は隠々として、胸壁(きょうへき=盛土)をめぐらした無底の大坑を見た坑は漆々然として暗い。胸壁の上には無数の猿がゐて、掌に盛つた宝石を食つてゐる。宝石は或は緑に、或は紅に輝く猿は飽く事なき饑(き=飢え)を以て、ひたすらに食を貪るのである

自分は、自分がケルト民族の地獄を見たのを知つた。己自身の地獄である。芸術の士の地獄である。自分は又、貪婪(どんらん)止むを知らざる渇望を以て美なる物を求め奇異なる物を追ふ人々が、平和と形状とを失つて、遂には無形と平俗とに堕する事を知つた

自分は又他の人々の地獄をも見た事がある。其一つの中で、ピイタア(Peter)と呼ばるゝ幽界の霊を見た。顔は黒く唇は白い。奇異なる二重の天秤の盤(さら)の上に、見えざる「影」の犯した悪行と、未(いまだ)行はれずして止んだ善行とを量(はか)つてゐるのである。自分には天秤の盤(さら)の上り下りが見えた。けれ共ピイタアの周囲に群つてゐる多くの「影」は遂に見る事が出来なかつた。

自分は其外に又、ありとあらゆる形をした悪魔の群を見た。魚のやうな形をしたのもゐる。蛇のやうな形をしたのもゐる。猿のやうな形をしたのもゐる。犬のやうな形をしたのもゐる。それが皆、自分の地獄にあつたやうな、暗い坑のまはりに坐つてゐる。そして坑の底からさす天空の、月のやうな反射をぢつと眺めてゐるのである。
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2013年7月18日木曜日

薄田泣菫「石を愛するもの」

インターネットの「青空文庫」に、薄田泣菫の「石を愛するもの」という短文がある。石を愛でる中国古典の奇人を述べている。変わらぬ石を愛着する姿に、神仙の不易に似たものを感じるかもしれないが、その実、生身の世俗部分がひょいと顔を出す可笑しさがある。

(本ブログ関連:"青空文庫”)

Wikipediaによれば、「宋代の書家として名声を馳せた米元章」は、「米芾(米元章)は奇矯な性格で、古書・名画を貪欲に蒐集するばかりではなく、奇石怪石の蒐集も趣味とし、名石に出会うと手を合わせて拝み、石に向かって『兄』よばわりするほどであったと伝えられる。よって、しばしば狂人扱いされて」とある。
ちなみに、米元章が居を定めたという潤州(現在の江蘇鎮江)から北西二百数十Km先に、奇石を産するという霊璧の地がある。

米元章の石好きに対して、それ以上に物欲をみせてしまった上役の滑稽な話を薄田泣菫はつぎのように著している。(抜粋)
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霊璧は変つた石を産するので名高いところだが、米元章はそこからあまり遠くない郡で役人をしてゐたことがあつた。大の石好きが、石の産地近くに来たのだから堪らない。元章は昼も夜も石を集めては、それを玩んでゐるばかしで、一向役所のつとめは見向かうともしないので、仕事が滞つて仕方がなかつた。ところへ、丁度楊次公が按察使として見廻りにやつて来た。楊次公は、元章とは眤懇のなかだつたが、役目の手前黙つてもゐられないので、苦りきつていつた。
『近頃世間の噂を聞くと、また例の癖が昂じてゐるさうだね。石に溺れて役向きを疎にするやうでは、お上への聞えもおもしろくなからうといふものだて。』
 米元章は上役の刺(とげ)のある言葉を聞いても、ただにやにや笑つてゐるばかしで、返事をしなかつた。そして暫くすると、左の袖から一つの石を取出して、按察使に見せびらかした。
『といつてみたところで、こんな石に出会つてみれば、誰だつて愛さないわけにゆかないぢやありませんか。』
 楊次公は見るともなしにその石を見た。玉のやうに潤ひがあつて、峰も洞もちやんと具つた立派な石だつた。だが、この役人はそしらぬ顔ですましてゐた。すると、米元章はその石をそつと袖のなかに返しながら、今度はまた右の袖から一つの石を取出して見せた。
『どうです。こんな石を手に入れてみれば、誰だつて愛さないわけに往かないぢやありませんか。』
 その石は色も形も前のものに較べて、一段と秀れたものだつた。米元章はそれを手のひらに載せて、やるせない愛撫の眼でいたはつて見せた。楊次公は少しも顔色を柔げなかつた。
 米元章はその石をもとのやうに袖のなかに返したかと思ふと、今度はまた内ふところから、大切さうに第三の石を取出した。按察使はそれを見て、思はず胸を躍らせた。黒く重り合つた峰のたたずまひ、白い水の流れ、洞穴と小径との交錯、――まるで玉で刻んだ小天地のやうな味ひは、とてもこの世のものとは思はれなかつた
『どうです。これを見たら、どんな人だって、愛さないわけにはゆきますまい。』
 嬉しくてたまらなささうな米元章の言葉を、うはの空に聞きながら、楊次公は呻くやうに言つた。
『ほんたうにさうだ。私だつて愛する…………』
 そしてすばしこく相手の手からその石をひつ攫(さら)つたかと思ふと、獣のやうな狡猾さと敏捷さとをもつて、いきなり外へ駆け出して往つた。
 門の外には車が待たせてあつた。楊次公はそれに飛び乗るが早いか、体躯(からだ)中を口のやうにして叫んだ。
『逃げろ。逃げろ。早く、早く……』
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水晶の玉中に先を占うように、奇石に宇宙の凝縮を幻視することができれば立派な石狂いだ。ただし、この石狂い、物欲と紙一重で、奇においては狂気に走らせ、俗においては我執に囚われる。奇と俗の峻別できぬものに触ってならない世界なのかもしれない。

2013年7月17日水曜日

KBS WORLD「国楽の世界へ」 東屋(あずまや)

KBS WORLD「国楽の世界へ」は、先週水曜日(7/10)に、文化的なキーワードに基づく韓国文化シリーズの第14回として、風流を感じながら涼をとることのできる「東屋(あずまや、정자)」について紹介された。

まず川遊びの話題や曲紹介から始まり、東屋と楼閣について次のような解説があった。

▼フュージョン国楽グループThe林による「夏の眠り(여름잠)」を聴く。古趣を残しながらも今様である。

・美しい山川を背景に「東屋」は、壁のない柱に屋根をのせただけで、床に木板を敷いた建屋である。私有の場合、冬にも利用できるよう中央に小さなオンドル部分を設けたという。東屋より若干大きなものを「楼閣」と呼び、ほとんどが高い丘の上や、土石で固めた土台上に建てたため「楼台」ともいう。今も、江原道江陵市の鏡浦臺や、慶尚南道晋州市の矗石樓の楼閣は全国的に知られる。
・東屋や楼閣は主に両班が使用して、詩を読み、絵を描き、音楽を聴くといった風流を楽しんだ。竹で有名な全羅南道潭陽は、東屋文化で最も有名で、都落ちしたソンビたちが集まり、各々東屋(俛仰亭、息影亭、瀟灑園、環碧堂など)を建て、「歌辞(가사)」と呼ぶ独特な詩文化を育てた。歌辞文学の大家、鄭澈(정철、1536年~1593年)も、この地で「星山別曲」、「思美人曲」など代表作を書いたといわれる。

▼「瀟灑園(소쇄원)」を聴く。風流を意識した描写的な音色・・・今様である。

代表的な庭園の瀟灑園について次のように紹介された。
・紹介曲のタイトルに使われた「瀟灑園(소쇄원)」は、16世紀に梁山甫(양산보)によって作られた庭園で、生い茂った竹道を入ると、待鳳臺、光風閣、霽月堂の小さな東屋が配置され、その間を渓流が流れ、小さな滝がある。大きくはないが、自然をそのままに生かし、空間を有効に利用して、必要に応じて手が加えられた。梁山甫は子孫に、この場所を売り渡したり、またむやみに手を加えてはならぬと遺言した。

▼江原道の「江陵鏡浦臺(강릉 경포대)」を聴く。砂洲に封されたのか、鏡浦湖の水面は静に、歌も穏やかに流れる。

2013年7月16日火曜日

イ・ソンヒの「Jへ」

イ・ソンヒのデビュー曲であり、国民歌手に一挙に高めたのが「Jへ(J에게)」(1984年)だ。彼女には、圧倒的な歌唱力だけでなく、この曲の作者との不思議な出会い、大賞受賞したMBC第5回「江辺歌謡祭」(1984年7月29日)ステージ上のスタイルなど興味深いものがある。

その江辺音楽祭が催された時期にそろそろ迫ってきた。何度も聴いては胸にしみる「Jへ」をYoutubeで見てみよう。多分、2004年20周年コンサートの映像で、その最後に歌われたもののようだ。

(本ブログ関連:"Jへ-1"、"Jへ-2"、"Jへ-3"、"Jへ-4")



(Youtubeに登録のdove2727に感謝)

2013年7月15日月曜日

いつまでも若いねえ

子どものころ、銀幕スターが健在だった時代、いつも両親が口にしていたのは、山本富士子の「いつまでも若いねえ」だった。そうかなあ、若いっていうのは、それこそ吉永小百合のように初々しい若手女優のことではないのかなと、疑問を持ちながらも聞き流していた。

そういえば、最近の実力スターというのは誰なんだろうか。映画館に足を運んで邦画を見たのは、いつのことだろうか。なんと随分以前の「劒岳 点の記」(2009年)が一番新しいのだ。それは将来、映画界を背負っていく役者たちが演じていた。香川照之、浅野忠信だ。

では、テレビを探しても見当たらない。役者が浮かんでこないのだ。懐かしいマクルーハン流にいえば、銀幕に投影して映じられる反射の世界と、テレビ画面の内部から電子的に映じられる放出の世界の違いだろう・・・って、煙にまかれるけれど、この大量消費の現代、心的な映像に長くとどまる役者はいないようで、光りのままに発散して霧消するようだ。

いつまでも若いねえ、という前に姿を消してしまうのだろう。あるいは、若いねえといういうには、とっくに廻りが歳をとり過ぎたのだろうか。

2013年7月14日日曜日

「【萬物相】大学歌謡祭」

先月(6月)の2日に発表された、MBCの「大学歌謡祭(대학가요제)」(1977年~)の中止について、朝鮮日報の記事「【萬物相】大学歌謡祭」(7/14、呉太鎮(오태진)首席論説委員)は、大学歌謡際前後に出身の歌手たちと、歌謡祭の終焉を次のよう紹介している。

(本ブログ関連:"大学歌謡祭")
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1970年代の『KBS杯争奪全国のど自慢(KBS배 쟁탈 전국노래자랑)』は土曜日の夜、人々の目を白黒テレビにくぎ付けにした。韓国初のテレビ歌謡コンテストということで、ものすごい人気だった。71年の第1回大会年末決戦のことは40年以上も前だがはっきりと覚えている。勝者は18歳のキム・ミョンヒだった。ギターを弾きながら、細かく震えるビブラートで「セノヤ セノヤ」を歌った。現在は中堅ジャズシンガー、ユン・ヒジョンとして活躍している。丸刈りの頭を毛糸の帽子で隠した高校生チョン・ヨンノクは「デュオ」というグループで出場して奨励賞を手にした。

・この番組は70年代末に一度なくなり、80年に『全国のど自慢』として復活したが、新人歌手発掘ではなく、地域の人々が集うのど自慢大会になった。77年にMBCが始めた「大学歌謡祭」に人気を奪われたためだ。そのころの大学生たちはロックバンドに夢中だった。ソウルだけでも20を超えるバンドが毎年集まり、腕を競った。大学歌謡祭は若者文化を自作曲コンテストへと導き入れ、維新体制(朴正煕〈パク・チョンヒ〉大統領による独裁体制)に息を詰まらせていた若者たちに熱狂的に支持された。

・初期の大学歌謡祭は歌手のイ・スマン(이수만)が司会をした。ソウル大学農学部に通う大学生のバンド「サンド・ペブルス(샌드페블즈)」にいたイ・スマンは、今やK-POP界を担う大手事務所SMエンターテインメントの会長だ。第1回大賞は、イ・スマンの4年後輩のサンド・ペブルスが「僕、どうしたら(나 어떡해)」で獲得した。このグループの1年先輩に当たるキム・チャンフンが作詞・作曲した。兄のキム・チャンワンと共に「サンウルリム(こだま)」を結成した、あのキム・チャンフンだ。釜山大学合唱団「引き潮(썰물)」の「押し寄せる波の音に(밀려오는 파도소리에)」が優勝した第2回大会も話題になった。

・第2回に準優勝に当たる金賞を受賞したのは、「曲がりくねった道(돌고 돌아가는 길)」を歌った檀国大学のノ・サヨン(노사연)だった。銀賞にはペ・チョルス率いる航空大学在学生によるバンド「滑走路」の「仮面劇」が選ばれた。だが、当時人気があったのは断然、明知大学のシム・ミンギョンだった。大学生お決まりのジーンズとTシャツではなく、きちんとした襟のある水色のワンピース姿でピアノの前に座った。歌もロックやフォークではなく、トロット(明るい歌詞やメロディーの演歌)だった。シム・ミンギョン(심민경)はピアノを弾きながら自作曲「あの時 あの人(그때 그 사람)」を情感豊かに歌った。間もなく「歌手シム・スボン(심수봉)」としてデビュー、この曲は歌謡ランキング番組を総なめにした。

・数々のスター歌手やヒット曲を生み出した大学歌謡祭が、その歴史にピリオドを打った。MBCは、「制作費がかなり掛かるのに視聴率は非常に低い。大衆と呼応できない『むなしいこだま』だった」と理由を説明した。2000年代になるとスター育成は芸能プロダクションが担うようになった。そして歌手の登竜門といえばオーディション番組に取って代わられた。昨年の大学歌謡祭の賞金は500万ウォン(約44万円)だったが、オーディション番組の賞金は5億ウォン(約4400万円)に達した。あらゆる分野間で壁が取り払われようとしている時代に、大学生という「くくり」があるのも感覚的に古かったのだろう。70-80年代に青春を過ごした世代にとってまた一つ、思い出が遠くなった。
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2013年7月13日土曜日

コンサート専用会場の急務

韓国の(主にソウルの)コンサート会場の現況から、イーデイリーの記事「コンサート専門公演会場 至急だ」(7/1、カン・キョンロク記者)は、コンサート専用会場の必要性を次のように報じている。(抜粋)
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大衆文化評論家カン・テギュ審査委員の提言

チョー・ヨンピルとイ・ムンセ。久しぶりに繰り広げられた両巨匠の舞台は、偶然にも音楽専門の公演会場ではなかった。体育競技場でコンサートを催したという事実が、いつまでも心残りだ。両公演会場ともに最高のサウンドを演出するには、構造的限界を持つ場所だ。もし、音楽公演のための専門の公演会場だったら、胸にぶつかる(響く)音の感度は想像以上だっただろう。

蚕室(チャムシル)運動場で公演が行なわれるとき、この場所で公演をしたひとたちの助けが切実なわけだ。チョー・ヨンピルの公演を支援するチームは、ノウハウがあると聞いた。体育館で公演を開けば、空気と音の流れの妨げを多く受けるほかない。音楽の音が裂けて、歌手の声が潰れる。

最近、文化体育観光部が、京畿道高陽市一山(イルサン)の韓流ワールドになるコンサート専用公演会場を設立することに決めた。1万5,000人以上を収容できる規模だ。韓流ワールド内の、2万余坪の公演会場敷地の無償使用と、収益許可などを通した民間投資事業で推進される。のろかったが、歓迎するだけのことだ。惜しい点は、ソウル市内にこれぐらいの規模の専門公演会場がまだないという点だ。


★(現在)コンサートが開かれている主な場所

◇蚕室(잠실)総合運動場
位置: ソウル特別市松坡区(ソンパグ)マドゥル路5街道113(蚕室洞10).
規模: 70,091席.

◇ソウル・ワールドカップ競技場
位置: ソウル特別市麻浦区(マポグ)、上岩(サンアム)地区.
規模: 66,806席

◇世宗文化会館大劇場
位置: ソウル、鍾路区(チョンノグ)世宗大路175(世宗路81-3).
規模: 3,022席.

◇チュンム・アートホール
位置: ソウル特別市中区、興仁洞(フンインドン)131.
規模: 大劇場(1,236席)、中劇場ブラック(327席)、小劇場ブルー(258席)=総1,821席.

◇芸術の殿堂
位置: ソウル特別市瑞草区(ソチョグ)、瑞草洞(ソチョドン)700.
規模: オペラハウス-オペラ劇場(2,340席)、トウォル劇場(675席)、自由小劇場(400席)、音楽堂-コンサートホール(2,600席)、リサイタルホール(400席)=総6,415席.

◇ユニクロ アクス(UNIQLO AX)
位置: ソウル特別市広津区、広壮洞319-33.
規模: 1,090席(スタンディング公演基準2,500人).

◇オリンピック体操競技場
位置: ソウル特別市松坡区、芳夷洞88-2.
規模: 14,730席.

◇奨忠(장충)体育館
位置: ソウル特別市中区、獎忠洞2街200-102.
規模: 5,248席.
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2013年7月12日金曜日

イ・ソンヒとシン・スンフンの「思い出のページをめくれば」

90年代、イ・ソンヒの完成度を高めたといわれる名曲「思い出のページをめくれば(추억의 책장을 넘기면)」(1990年、6集)を、シン・スンフンとデュエットする珍しい映像をYoutubeで見た。ともにバラード歌手として、(韓国の)国民歌手の名を冠しているだけに大いに期待して・・・といっても、随分と古い画面だ。

(本ブログ関連:"思い出のページをめくれば")

一体いつ頃のものだろうか。1990年デビューした頃のシン・スンフンだろうか。正直なところ、イ・ソンヒの歌に対して、音程、貫禄で対等ではない・・・そんな時期のもののようだ。
とはいえ、現在のシン・スンフンは、アルバム枚数、コンサート回数など飛び抜けた存在である。



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2013年7月11日木曜日

KBS WORLD「国楽の世界へ」 麻

KBS WORLD「国楽の世界へ」は、先週水曜日(7/3)に、文化的なキーワードに基づく韓国文化シリーズの第13回として、「麻(모시)」について紹介された。

まず麻糸をよるときの歌の紹介から次のように始まった。
・伝統衣装の韓服は、今もわずかだが年を通してお爺さんやお婆さんが着て過ごす。季節ごと素材が違い、夏は雪のような白い麻だ。
・トンボの羽のように細かく編んだ麻服を作るのは至難の技で、4千回に渡る作業工程が必要という。そのひとつに「モシサムギ」があり、(イラクサ科の植物)カラムシ(苧、모시풀)から繊維を取り出し、唇と唾液で糸をよる作業を語る、女性歌曲(가곡)の「モシルル(모시를)」がある。
・切れた糸を再びつなぐように、愛もつなぎつながって永遠なることを祈る女性の心が歌われる。

▼女性歌曲「モシルル」を聴く。糸は愛もつなぎ、命もつなぐよう・・・糸よりの作業で女性の間で歌われたのだろう。淡々とした時間(の流れ)を感じる。

麻布の特徴と歴史について次の解説があった。
・真夏に気温が40℃に近づく湿気の多い韓国では、糊付けされた薄い麻服は、最高級の贅沢品だ。パリッとする生地は、風をよく通し、汗をかいても体につかず快適だ。古くなれば少し手を加えて、新しい服のようによみがえる。
・夏に生い茂ったカラムシを刈り、水につけ、天日に干す作業を繰り返し、白くなった硬い繊維を、つばをつけながら歯で細く割り裂く。歯で作業するため、歯がぼろぼろになったという。
・麻は乾燥に弱く、すぐに切れる。梅雨に、部屋の戸を閉め、湿気の多い室内で作業すると、糸はやわらかく、機織機もスムーズになる。できあがった糸は、漂白したり、米ぬかや紅花などで染めた。

▼慶尚北道醴泉に伝わる「サムサンヌン(삼삼는)ソリ(소리)」を聴く。回転作業のためかリズムをもって歌う、いかにも労働の歌だが、繰り返す旋律が次第に根を張るようだ。

・製作に人手のかかる麻の服は、「自然の風、太陽の光り、そして時間。ひとびとの真心が作りあげた賜物といえるかもしれません」。
・麻服は、高麗時代に王から庶民まで広がり、朝鮮時代に高級化が進み麻の生産禁止令が出たほどだ。近年、麻は超高級品として認識されるが、現在(中国産の麻が増え)、韓国産の入手が難しく、カラムシから糸をとる人々も少なくなっている。

▼「ハヌルソ(하늘소)」を聴く。・・・カミキリムシ。そうか噛み切るところからの選曲か・・・今様だ。

2013年7月10日水曜日

え~っ、東京はこんなに暑いのか

昨日まで3泊4日、新潟・秋田・岩手の三県をまたがって鉱物採集巡りをした。戻ってみて東京がこんなに暑いなんて想像もしなかった。なにしろ、雨合羽を着てずぶ濡れになりながら鉱山ズリ跡を探していたのだから。

(本ブログ関連:"新潟・秋田・岩手鉱物採集")

雨に濡れた毎日、地元に温泉を探しては、暖まり着替えしなければならなかったが・・・いい経験だった。「鉱物採集≫温泉」もいいが、「鉱物採集≒温泉」はもっといいだろう。

近所のひまわり畑が今年も花を咲かせている。姿も小さく、畑地も大きくはないが、一面に埋まる黄色いひまわりは、暑い夏の風に相応しい。ひまわりはまだまだ大きくなるだろうから、これから楽しみだ。

2013年7月9日火曜日

新潟・秋田・岩手鉱物採集(3) 和賀仙人鉱山

(後日追記)

昨日中に秋田から、福島に移って、ようやく天気は落ち着き始めたが、相変わらずの怪しい曇り空だった。採集成果は残念だったが、番外のものがあった。

・目的の場所へ移動するも、連日の雨で河が増水して、渡河できない・・・というより、この崖をどうやって降りるつもりだのかと不安になる。

・結局、あきらめて帰途につこうと駐車した場所から国道へ坂を登ろううとしたとき、キャンイングカーがスリップしてしまう。脇の林の中を見ると、どうやらこの場所は苦労するらしく、枯れ木が積んである。これを下敷きにして登ることができた。もちろん、漬かった枝木は元に戻した。

・伝聞情報があって、近くにズリがあるので探そうということになり、見つけた場所に番外の鉱物があった。この旅の最後にして最大の贈り物だ。

・昼を越えてしまい、急いで帰宅の途についた。その途中、「湯田ダム」(総貯水量:1億1416万㎥)に寄って、例のダムカードをもらう・・・癖になりそう。

・家に戻ったのは、とうに深夜零時を越えていた。同行のみなさんお疲れさま。

(本ブログ関連:"新潟・秋田・岩手鉱物採集")

2013年7月8日月曜日

新潟・秋田・岩手鉱物採集(2) 亀山盛鉱山、荒川鉱山

(後日追記)

昨日中に新潟から、秋田に移ったが、今朝から小雨が降ったり止んだりして、結局ずぶ濡れになる。水晶以外めぼしいものを採集できず。

「亀山盛(きさもり)鉱山」で昼過ぎまで採集。
・奥地の駐車場に電力関係の駐車があり、そこに居合わせた婦人から、貯鉱場跡を教えてもらうものの、ただの広場に変わっていた。

・目的地への道のりは意外と広く歩きやすい。ズリは急斜面のため、もっぱら川底から10m程度の高さまでで採集。水晶は白濁の群晶のみだが、(その片割れか)透明な単晶を入手したが・・・。その他に孔雀石など。

・雨脚は衰えず、体も冷えてくる。


「荒川鉱山」は午後になってから採集。
・亀山盛鉱山と背中合わせの場所というが、車ではけっこう遠い。雨脚はますます強まる、土砂降りだ。

・今回同行の仲間が以前採集した場所に行くが、状況は一変して、ただの草地に化したようだ。

・昨晩泊まったオートキャンプ場に戻り、周辺を探すが、先の欠けた結晶の群晶が転がっているだけ。移動して、大きな岩壁の下に行くも採集の形跡もない。

・次の採集地へ行く途中、同行の仲間が「協和ダム(総貯水量780万㎥)」の事務所で入手した案内書を分けてもらう。ダムカードは発行していないそうだ。

・次の採集地「和賀仙人鉱山」近くの錦秋湖の湖畔に駐車して泊まる。朝まで風景はおあずけ。

(本ブログ関連:"新潟・秋田・岩手鉱物採集")

2013年7月7日日曜日

新潟・秋田・岩手鉱物採集(1) 飯豊鉱山

(後日追記)

朝から小雨、全身びしょ濡れとなり成果なし。

・新潟県の「飯豊(いいで)鉱山」(加治川治水ダム:総貯水量2.250万㎥)にて、「黄鉄鉱」を伝聞情報を頼りに探すも、産地確認できずに終わる。どうやら、ベテランでさえ苦心の場所のようだ。

・緑茂れる山中、雨と草木の露を受けて分け入ったため、雨合羽は役に立たず、汗も加わって全身びしょ濡れとなる。

・仲間の鉱物マニアから、ダム事務所でもらった「ダムカード」を分けてもらう。カードがあるなんて初めて知った。

・次の採集地近くにあるキャンプ場へ移動して泊まる。

(本ブログ関連:"新潟・秋田・岩手鉱物採集")

2013年7月6日土曜日

今日から、そうだ東北へ鉱物採集に行こう

急遽決まったことだが、石仲間のキャンピングカーに同乗させてもらい今晩から、おじさん3人組で東北の鉱山跡を巡って鉱物採集しに行きます。
いつまで・・・多分、火曜日か水曜日頃に帰京予定です。山の中からネットにアクセスできないので、このブログはしばらくお休みだ。

採集品は、等軸のでっかい黄鉄鉱、きれいな緑水晶など・・・朝から期待と妄想をして仕度を始めているれど、いかになりますやら。

(後日追記)
・夜、キャンピングカーは、一路、北へ進み、<磐梯山SA>駐車場に泊まる。

(本ブログ関連:"新潟・秋田・岩手鉱物採集")

(付記)
毎日新聞の記事「梅雨明け:関東甲信で 昨年より19日早く 史上4位タイ」(7/6、小泉大士、飯田和樹)によれば、どうやら梅雨が明けのようで次のように報じている。
先ほど、歯科医院で先生と梅雨というよりはカッとした夏のようですね・・・と話をしたばかり。

気象庁は6日、関東甲信で梅雨明けしたとみられると発表した。平年より15日早く、昨年と比べても19日早い。6日の梅雨明けは関東甲信では1951年の統計開始以来4位タイの早さとなった。

(本ブログ関連:"梅雨入り2013")

2013年7月5日金曜日

「第20回 東京国際ブックフェア」と芝居「プライド[傲慢]」

今日は一日中、汗をかきながら有明と池袋の2ヶ所を巡った。

午前から昼をまたいで、東京ビッグサイトで開かれた「第20回 東京国際ブックフェア」に行く。まず、2つのセミナー、韓国の出版業界の現状と翻訳出版事情について日韓関係者の話しを聴く。
講演録に相当する冊子が事前に配布されたので、両国の出版事情が理解しやすい。例えば、取り次ぎという管理システムの有無、再販制度の有無、日韓・韓日翻訳点数などについて日韓に大きな違いがあるが、何が売れるかという出版ビジネスの課題は双方同様である。
2012年度の出版売り上げ、日本(雑誌9,385.4億円+書籍8,012.9億円)、韓国(5兆6,754億ウォン≒5,675億円)。
さらに、電子書籍マーケットについて、日本(730億円)、韓国(60億円)という市場規模に大小の差はあるものの、今後の影響について語られた。

セミナーの次に、ブックフェアに出展の書店コーナーに欲しい書物との出会いを求めて会場を巡った。それは鉱物関連であり、稲荷信仰関連の分野だったが、残念ながら目ぼしい本は見つからなかった。あるいは高価すぎた。
今回、ブックフェアのテーマ国に韓国がなったが、販売してくれる本はなくて。随分以前、そんな機会もあったけれど。

(本ブログ関連:"第16回 東京国際ブックフェア"、"第17回東京国際ブックフェア"、"第18回東京国際ブックフェア"、第19回行かず残念)

それにしても、ブックフェア恒例のCD販売が、一般CDショップと変わらぬ価格帯になっているのが残念。
東京ビッグサイトの最後に、親類の紹介で、同館内別会場で開催中の「ナノ・マイクロビジネス展」を覗く。

3時過ぎ、東京ビッグサイトから池袋へ向かう。
昨年も観劇した、演劇レーベルBö-tanzの「七つの大罪シリーズ最終章 プライド[傲慢]」(作はなださとし)を見るためだ。今回はシリーズ最終に相当する7作目で、昨年6作目「スロウス[怠惰]」を初めて見てからの2回目だ。今回は親類と合流して・・・。

前回(6作目)は、緑の宝石エメラルドをストーリー展開のキーに使ったが、今回は青紫のカーネーションが素材に使われ・・・降りそそぐことになる。

(本ブログ関連:"芝居「Sloth-スロウス[怠惰]-」")

大音響と早い台詞廻しに、おじさんは追いつくのに大変だ・・・役者さんの舞台へ注ぎ込む情熱、そして熱演に圧倒される。

2013年7月4日木曜日

MBC「大学歌謡祭」廃止

1984年、イ・ソンヒが思い出深いスタイルで登場してデビューのきっかけになったMBCの「江辺歌謡祭(강변가요제)」からはチャン・ユンジョンなど数々の歌手が誕生したが、1979年以来つづいたこの音楽祭は2001年に終了した。

この歌謡祭と対比されるものに、同じくMBCの「大学歌謡祭(대학가요제)」があった。1977年を第一回としながら昨年まで継続したこの音楽祭もついに終焉を迎えたと、インターネットニュース・シンムンゴは、「大学歌謡祭 『時代変わったのではなく、MBCが変わった』」(7/4)と次のように伝えている。
しかし記事にあるイ・ソンヒは「大学歌謡祭」出身ではないのだが。それに、「大学歌謡祭」にはシム・スボンがいる。
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去る36年間青年文化を引っ張ってきたMBC「大学歌謡祭」が廃止された。MBCは去る(6月)2日、大学歌謡祭プログラムに対して視聴率低調を理由に廃止を確定したと明らかにした。

MBCは今年、大学歌謡祭の予算を策定しておらず、関係者は「時代が変わった。『大学歌謡祭』の影響力と人気が以前とは違ったのが事実」としながら、「もう終える時が来たたようだ」と伝えた。

1977年初めて開催された「大学歌謡祭」は、昨年開かれた第36回まで何と36年の間、新人歌手の登竜門だった。大学歌謡祭は、ペ・チョルス、キム・ドンリュル、シン・ヘチョル、ノ・サヨン、イム・ベクチョン、イ・ソンヒ、キム・ギョンホなどを輩出してきた。

これに対し「大学歌謡祭」廃止は、単純に長寿プログラムが消えるのではなく、時代を風靡した文化コンテンツを一つ失うということなので意味するところが大きい。

一方、インターネットユーザーたちは、「時代が変わったのではなく、MBCが変わった」としながら、「惜しい」という反応が多かった。
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もっぱらスターが出てこないからというのが理由のようだが・・・。

2013年7月3日水曜日

KBS WORLD「国楽の世界へ」 扇子

KBS WORLD「国楽の世界へ」は、先週水曜日(6/26)に、文化的なキーワードに基づく韓国文化シリーズの第12回として、「扇子(부채)」について紹介された。

まず生活に見る扇子姿を次のように紹介した。
・暑い夏、扇子を片手に真っ白な韓服で、大木の下に座る老人に仙人の風情を感じる。祖母は孫が寝付くまで横でやさしく団扇(うちわ)で扇ぎ、ハエや蚊などを追い払う。また気性の激しいアジュンマたちは、頭にくると胸の前で扇子を激しくあおぎ心を静める。
昔の人々は、使い手のある扇子に八徳(・陽射しを防ぐ徳、・涼しい風を与える徳、・湿気を除く徳、・下に敷いて座る徳、・作りやすい徳、・値段が安い徳、・雨を防ぐ徳、・甕の蓋として使う徳)があると重宝した。

▼「夏の太陽(여름의 태양)」を聴く。陽が射すように、もはやラテン・・・今様である。

国楽で扇子なしには口演できない「パンソリ」について次のように解説した。
・パンソリは、10分から5、6時間におよぶ。歌い手は、テンポをとる伴奏の太鼓(プク)の叩き手コス(고수)と共に、ひとり舞台の中心に立ち、長丁場をこなすため体力と忍耐が必要だ。
そこで、歌い手の支えとなるのが手に持った扇子だ。歌の山場やつらいシーンなどになると、扇子を持つ両手に力を入れ、祈るようにして歌う。また題目によって、「興甫歌」で瓜を割るのこぎり、「沈清歌」で沈清の盲いた父の杖など、様々な小道具としても活躍する。

▼沈清歌の中から「沈清の盲いた父が風呂にはいる題目(심봉사 목욕하는데 )」を聴く。搾り出すようにうなり歌う・・・風呂に入るのに?・・・どうなのだろう。

さらに扇子の使い道について次のように説明した。
・「八徳扇(팔덕선)」は、草の茎を丸く編んだ庶民用の団扇として知られる。パンソリの歌い手が持つ扇子「合竹扇(합죽선)」は、材料に竹が使われて開閉でき、紙の部分に絵や文字などを描いて個性を出す。
紙の代わりにシルクを張った扇子、冬に防寒のため顔を隠して使用する扇子もあった。冬用扇子は、手のかじかみを防ぐため、持ち手に鹿やカワウソの皮を張ったりした。
婚礼の際、新郎が新婦の家に乗馬し行くとき、顔を隠すため使った「郎扇(낭선)」や、両班が葬儀の際、顔を隠し喪中を示すため使った「喪扇(상선)」などが残されている。

▼The 林グループによる「風の音の森(바람소리 숲)」を聴く。描写に富んだ・・・今様である。

(付記)
わたしも親類から扇子をいただいたばかりで、歳に合わせた色合いを選んだとのこと・・・なるほど。

2013年7月2日火曜日

半夏生2013

我が家の庭にはドクダミが生い茂って、そのまま放置しているため、薬効のせいか虫もわかない・・・と、不精をプラスに言い訳する。さて、開花期に、そのドクダミに似た臭いのする「ハンゲショウ」があるそうだが見たことあるような、ないような。

Wikipediaの「ハンゲショウ」に、「生薬の半夏(はんげ)はカラスビシャクから採れるものであり本種(ハンゲショウ)とは関係がないが、本種と開花時期が重なることから名前の由来にかかわりがあるとする説もある」とのこと。これまた、カラスビシャクを知らぬために何ともいいようがない。
それにしても、ハンゲショウもカラスビシャクも地味な草だ。

今日は、そのハンゲショウが花を咲かせる頃、二十四節気の一つである「半夏生(はんげしょう)」だ。朝からどんよりした空模様で、半夏生の「半」の字にふさわしい中途半端な感じがして・・・高空を飛ぶジェット機の響きがかすかにするだけで、静かなときが流れている。

この雑節(半夏生)をよく知らないが、農家の生活に密着したもののようで、最近書店で目にして求めた「日本の七十二候を楽しむ」(文 白井明大, 絵 有賀一広)によれば、「田植えを終わらせる、農事の節目とされています」として、この時期にちなんで次のキーワードをあげている。
「祇園祭」、「はも」、「おくら」、「半夏雨」、「うどんの日」、「たこの日」など。解説は読んでいただくことにして、なるほど少しは半夏生が実感してくる。

2013年7月1日月曜日

ノウゼンカズラ、ナガミヒナゲシ

通り道の塀を越えて、湧き出るようにして重なり合いながら咲くオレンジ色の花を目にする。「ノウゼンカズラ」の花だ。あまり気付かなかったものの、最近あちこちで見るようになった。その色合いが、従来になく明るく洒落ていて、オレンジ色の軽快な感じが受け入れられるのだろう。

Wikipediaによれば、「ノウゼンカズラ(凌霄花、紫葳、Campsis grandiflora)はつる性木本」とのこと。確かに近づいてよく見れば、つる状に伸びた茎に花が咲き連なり、まるで寄生しているのかと見紛うほどだ。夕方、陽が陰りだした頃、遠くに浮かぶこの花に、ほっとした安らぎを思うことがある。一輪の美しさというより、群れてこそ美しい庶民的な花なのかもしれない。

この色合い、どこかで見たと思い返せば、もう時期を過ぎたが、これも流行か最近あちこちで咲く「ナガミヒナゲシ」がある。これもWikipediaによれば、「ナガミヒナゲシ長実雛芥子、長実雛罌粟、Papaver dubium)は、ケシ科の一年草」とのこと。

ナガミヒナゲシの花は、まるで世話も受けずに、どちらかといえば身の置き場をわきまえて、一本一本けなげに咲いているように見えて切ない思いがする。なぜ、通り道の埃が吹き寄せる塀の下に植えたのかと。でも、この花は芯が強いのだろう、雑草化しつつあるというのだが、どうなることか。

2013年6月30日日曜日

韓国50代が迎える定年60歳制

韓国の年齢は数え年が普通だが、「2016年から60歳定年延長」というとき、その60歳は「数え歳」なのか「満年齢」なのか・・・実際は、満年齢であるが気になる。

(本ブログ関連:"ベビーブーマー")

JETROの海外研究員レポート「韓国ベビーブーマーの過去、現在、未来-『彼らは声を出して泣かない』から」(2013年4月、安倍誠)の「はじめに」、次のように韓国ベビーブーマーを定義している。(抜粋)
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・第二次世界大戦後、多くの国では、急速な出生数の向上、いわゆるベビーブームが生じ、そこで生まれたベビーブーマーたちはその社会において独特な地位を占めることになった。ベビーブームの期間は国によってまちまちであり、アメリカでは1946年から1959年まで日本では1947年から1949年までと言われるが、韓国の場合、朝鮮戦争の後になる1955年から1963年までがベビーブームであったとされる。現在、ベビーブーマーは約734万人、総人口の約14%を占めている。年齢は満49歳から57歳くらいまで、韓国では数え年で年齢を語ることが多いので、韓国的に言えば現在の50代がほぼベビーブーマーに相当することになる。彼らは1970年代から90年代の韓国の高度成長を支えてきた世代でもある。

朝鮮Bizの「定年60歳延長、労・使・政 葛藤新しい火種となるか」(2013年4月23日、イ・シンギ記者)は、2016年からの60歳定年延長について次のように報じている。(抜粋)
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朴槿恵政府の重要な選挙公約の一つである定年延長義務化が政界の立法で可視圏に入った。
・(4月)23日、国会環境労働委員会は、公共・民間部門の定年を満60歳に延長する「雇用上の年齢差別禁止と高齢者の雇用の促進に関する法律の一部改正案」を可決した。改正案は、現行法上の勧告事項である「定年60歳」を義務と規定し、従業員300人以上の事業所は、2016年1月1日から国と自治体と従業員300人未満の事業所は、2017年1月1日から段階的に適用することにした。

朝鮮日報(6/30)の「【コラム】60歳定年制を成功させるには」(5/16、金洪秀記者)は、対象となる50代について次のように記している。(抜粋)
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・韓国では大学を卒業した男性が兵役を終えれば27歳前後になり、それからやっと就職して50代の前半まで25年ほど働いてから退職する。しかも韓国人にとって50代の前半あるいは中ごろは、子どもを教育し独立させるために一生のうちで最も多くの金が必要な時期だ。そのため韓国人にとって50代の退職は、人生における「財政の絶壁」となっているのだ。


来年、1964年生まれのイ・ソンヒも「満年齢」で50代に入る。国民歌手らしく、ベビーブーマーも共有する<健全で希望に満ちた彼女らしい清潔な歌>が聞かれることになるかもしれない。

(追記)
今日は6月最後の日、今年も半分過ぎることになる・・・1年のリンゴを半分食ってしまった。残りのリンゴを考えると、時間を無為に過ごした罪深さをひしひしと感じる。