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2017年10月13日金曜日

合唱曲「おじいさんの家」

このごろ、民家の塀越しに、小さな赤い実を付けた木を見る。もしかして南天(ナンテン)の木でないかと思うが確信ない。記憶にある園芸の南天は、小振りだったし、赤い実が多数群がっていた。一方、塀越しに見る木は、それゆえに丈が大きく実はまばらだ。

南天のイメージは、中学時代に歌った合唱曲「おじいさんの家」(きさらぎゆき作詞・川口晃作曲)の「南天の木の奥の わらぶき屋根に ・・・」で始まる光景で、南天の木を透して、わらぶき屋根の家が視覚におさまる。そんな農家の庭先を思いながら歌っていた。

正式な曲名を確認したく、ネットで探したところすぐに見当たらなかった。ようやく探しあてたが、誰もが知っているはずと思っていただけに意外だった。ネット情報も、ある年齢以降の登録者によるものでしかないし、それに、記憶の何もかも登録されているわけでもない。少々寂しい思いをした次第。

Youtubeでも見つかった。< 1973年のNHK合唱コンクール予選に参加した中学生たちの発表 > のようだ。歌い継がれているのを聴いてなぜか安心した。


(Youtubeに登録のclaudiovonkarajanに感謝)

2017年10月12日木曜日

秋期イディッシュ語 2017-2nd

今年度後半の秋期コース、第2回目。我ながらようやくエンジンがかかってきたようだ。(それに、都心のサテライト教室に通うのもいい機会、いい運動である)

(本ブログ関連:”イディッシュ語”、”秋期イディッシュ語”)

テキスト教材の音声を、ネットからダウンロードして、本日分を予習した。男女別々の音声がありがたい。ただ、会話の速度が早く、リエゾンする。(白水社「エクスプレス イディッシュ語」のカセット教材は、日本人向け音声教材らしく、会話速度が<ゆっくり>と<やや早め>の2種類を聞かせる)

本日の主な内容(再学習)
・不規則動詞<האָבן>、<זײַן>を使った文章(Q&A、否定)の練習。
・<זײַן>の複1・3人称は、<זײַנען>と<זענען>のどちを使っても好い。
・「ここ」は<דאָ>、「そこ、あそこ」(区別なく)<דאָרט>
・2人称Youは、① 単数形<דו>(きみ)を通常使用、② 複数形と同形<איר>(あなた)は初対面/敬意を込めて使用。

イディッシュ語のテキストを、早速Amazonから購入された方がいて驚き。(先日確認したところ余りに高価だったので様子見したところ、現在、適正な値になったようだ)
⇒ 早速、本日帰宅後、Amazonに発注した。

秋期から、次のYoutube映像に登場するミュージシャンのお二人が教室に参加された。国際的に活躍されていて、イディッシュ語話者との人脈もあるようで羨ましいかぎり。


(Youtubeに登録のJAZZART2011に感謝)

2017年10月11日水曜日

KBS WORLD「国楽の世界へ」 秋夕の食事

KBS WORLD「国楽の世界へ」は、先週水曜日(10/4)に文化的なキーワードに基づく韓国文化シリーズとして、「秋夕(추석)」の家族の食事に関連する曲を紹介した。

始めに、朝鮮後期の実学者、丁若鏞(정약용、1762年~1836年)の農民への思いについて次のように紹介された。
・朝鮮後期の実学者「丁若鏞」は、春のある日、働く民の姿を見て詩作した。農夫にとって春の田植えは重要な時期だが、この端境期に耐えるのは簡単でなく、十分実ってない稲を脱穀し、粥にして食べた。彼は詩に、高位者もその粥を食べねばならぬと歌う。秋の穀物の収穫は、民の唯一の希望。秋夕に先祖を墓参し、伝統を守って奉祀する。一方、秋夕は、端境期を乗り越えた喜びの日でもある。

▼ 月が明るく「丸い月が浩浩と(둥근 달 휘영청)」のカヤグム演奏を聴く。ジャジーに月明かりを楽しむ、今様に。

次に、パンソリ「興甫歌(흥보가)」の「貧打令(가난타령)」から幸運について次のように紹介された。
・秋夕が近づき、村中で馳走の準備で忙しい時期、嘆く人物が登場する話しがある。パンソリ「興甫歌」の「貧打令」の場面だ。興甫は脚を怪我をしたツバメを治すほどの善人だが、とても貧しく、家には食べものがない。妻は嘆くばかり。だが、その後に面白いことが起こる。興甫が助けたツバメが、恩返しに「ふくべ(ヒョウタン)」を運んでくる。それを割ってみると、中から米と金が詰まった箱が出てきたのだ。人生は、予測できぬもの、どう変わるか分からない。

▼ パンソリ「興甫歌」から「貧打令」を聴く。声を絞って貧困を嘆くよう。

最後に、新羅時代の玄琴(コムンゴ)の名手、「百結(백결)」の貧困の逸話について次のように紹介された。
・新羅時代の「百結」はとても貧しく、その名は、服を百回も縫い直して着たことから呼ばれた。玄琴の名手だったが、家族の食事を担う妻の立場にすれば気がかりなこと。秋夕を前に涙を流したという。彼は、妻をなだめるため、玄琴で穀物を搗(つ)く音を演奏したという。果たして妻は、どんな気持ちだったろう。あきれ果てたか、あるいは、慰める夫の姿に感動をしたか。

▼ 穀物を搗く臼(방아)から、珍島の「穀物打令(방아타령)」を聴く。何だかいいなあ、楽しくなる。

2017年10月10日火曜日

ナショジオの表紙

「ナショジオ」は、世界的な紀行雑誌「ナショナルジオグラフィック」の略称である。日本語版、同誌ホームページにもなかば公認のようにこの略称がある。今月号(2017年10月号)は、ロシアをある意味<東西>に分けるウラル山脈の東側、むしろシベリアの西端といった方がいい北極海に面したヤマル半島で、南北にトナカイの遊牧をする民族「ネネツ」を紹介している。ネネツの生活、風習だけでなく、資源開発の影響まで踏み込んでいる。(特集のサブタイトルは「トナカイの民の苦境」)

(本ブログ関連:”シベリア”)

なにより、今月号の表紙が素晴らしい。少女が弓を射る真似をする愛らしく無垢な写真だ。いずれ学校に行けば寄宿舎に入る。それまでの間、両親の目に届くなかで、自然をたっぷり味あわせることだろう。見れば気になることがある。子どもらしい飾り付けをした毛皮の防寒服を、成長に合わせて、母親は縫いかえるのだろうか。


学生時代、シャーマニズムに興味を持った。シベリアの少数民族に伝わる、自然界と人間の精神世界が融合した独特な世界観を持つ信仰だ。認識の原初に思えるし、いまだに僕らの精神構造の基底にもなっているような気がする。(フィールドワークの成果は圧倒的にロシア語の世界のようだ)

(本ブログ関連:”シャーマニズム”)

特集に語られたトナカイで思い出したことがある。昔のこと、書名を失念したが、トナカイにまたがるとき、右側から乗るか、左側から乗るかによって、トナカイとの、遊牧または狩猟といった関わり方がわかるという・・・そんな話しがあった気がする。

ところで、ナショジオの表紙で話題になった、緑眼の「アフガニスタンの少女」(1985年6月)が忘れられない。(彼女はその後忘れられ、現在不運に身を置いているというニュースがある)
上記の「ネネツ」の少女にも、当たり前だが、この後つづく時間がある。いずれネネツの誇りを持った幸せな家庭を見せて欲しい。そんな再訪記事もいいものだと思う。

2017年10月9日月曜日

「体育の日」の休日散歩

体育の日」の今日、思いつきで休日散歩した。風の向くまま、気の向くまま。

北側の街の公園ベンチで、途中コンビニで買った新聞に目を通す。秋晴れの空、たちまち日差しにたじろぐ。紫外線が見えるよう。コスモス畑を巡れば、パステル色の花々が風に揺れていた。一面咲きほころぶには少し時間がかかりそう。

次に、隣り駅前を経由して、南側にある公園にたどり着く。緑陰でしばし休憩。そのとき撮ったのが次の写真。大雨対策用の窪地(調節池として利用)は、すでにススキの原になっていた。秋深まる。

どうということもない風景だけど
この公園は、さらに東と南へ、公園名を分けて続く。いずれも休日のせいか家族連れで賑わっていた。さらに南へ進むと飛行場になる。ドルニエ機が離着陸する様を目と耳で楽しむ。

以上、同じ道を往復することなく、一筆書きで巡った。中学時代からの心がけである。

2017年10月8日日曜日

イ・ソンヒのカバー「ハル(いちにち)」

夕方、ちょっと帰宅を遅らせば、辺りはすっかり日が落ちて夜のさま。冷えが加われば、もはや冬といってもおかしくない。今年も、あっけなく終わりそうな気配する。

こんな晩、イ・ソンヒにしんみりする曲はないかと探せば、過ぎるほどのものがある。キム・ボムス(김범수)の「ハル(いちにち、하루)」(2000年)をカバーしたものだ。イ・ソンヒはそれを見事に彼女らしく再生する。

(本ブログ関連:”ハル”)

原曲の、情念を貼り付けたような独特な歌い方を脱色し、あらためてイ・ソンヒの色に染め上げる・・・旋律と歌詞がそれぞれ独立しながらも共鳴する。透明感あふれるバラードに変身したのも、彼女の歌唱力のなせるわざだ。


*愛がまた傷つけます・・・
愛がまた泣かすのね・・・
あんなに愛した思い出まで忘れてくれといって
愛は残酷に去っていくのね・・・

本当に耐えられるでしょうか・・・
あなたが言った その言葉のように
そう、あなたは目を覆って 知らない振りして去るのが
いっそ、気楽なのでしょう・・・

変わることもできるのでしょう
あの風も 毎日は違うから・・・
それでもこの世に 生きたいという幸せをくださったのは
今まで、とてもありがとう

(* 最初の4行のみ繰り返し)


(Youtubeに登録のlys2187に感謝)

2017年10月7日土曜日

狸(たぬき)

きのう、純真無垢で愛らしい「タミー」について、彼女の名をタイトルにした歌と合わせて記した。響きが似てるから「狸(たぬき)」の話でもと・・・無理なこじつけだが、してみよう。

山を巡る猟師や山小屋の主人たちの、山中での不思議な体験を集めた「山怪」や「黒部の山賊」には、狸についてもいろいろ語られている。共通しているのは、山陰や鬱蒼とした木立の奥から、あるいは寝静まった山小屋の外で、打撃音が聞こえるというのだ。

(本ブログ関連:”山怪、黒部の山賊”)

それは、木を打つ音であったり、深夜に山小屋の屋根を叩く音であったりする。機械的な物理的な響きがするという。人の気配がない場所で聞こえるにもかかわらず、不思議と恐怖を与えることはないようだ。狸の姿を見たわけではないのに、体験者は、あれは狸の仕業と口にするというのが妙。(童謡「証城寺の狸囃子」の狸も、<ぽんぽこ ぽんの ぽん>といった腹鼓(はらずつみ)する)

ところで、狸はとぼけた風情がして、どちらかといえばおどけた存在に描かれる。そんな狸が、安永の俳人(澤田庄造、号を鹿鳴)と暖かい関係を結んだという。田中貢太郎の掌編「狸と俳人」は、一人暮らしの俳人のもとに通った狸との深い交遊を描いている。(抜粋)

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・・・其の庄造が病気になった。初めはちょっとした風邪であったが、それがこうじて重態に陥った。村人達はかわりがわり庄造の病気を見舞ったが、其の都度庄造の枕許まくらもとに坐っている狸の殊勝な姿を見た。庄造は自分の病気が重って永くないことを悟ったので、某日其の狸に云った。
「お前とも永らくの間、仲よくして来たが、いよいよ別れなくてはならぬ日が来た。私がいなくなったら、もうあまり人に姿を見せてはならんぞ。それにどんなことがあっても、田畑などは荒さぬようにしろよ。さあ、もういいから帰れ」
 庄造の言葉が終ると狸は悄然(しょうぜん)として出て往った。其の夜、庄造は親切な村人達に看みとられて息を引きとった。それは安永七年六月二十五日のことであった。

 それから数日の後のことであった。一日の仕事を終った村人の一人が家路に急ぎながら、庄造の墓の傍近くに来かかった時、其の墓の前に、蹲(うずくま)っている女の姿が眼に注いた。其の女は美しい衣服(きもの)を着て手に一束の草花を持っていた。そして、よく見ると女は泣いているらしく、肩のあたりが微(かすか)に震えていた。それは此の附近ではついぞ見かけたことのない女であった。村人は何人(たれ)だろうと思って不審しながら其の傍へ往った。
「もし」
 村人がこう云って声をかけた途端、其の女の姿は忽然と消えてしまった。そして、其の傍には女が手にしていた草花が落ちていた。村人達はそれを聞いて、それはきっと例の狸だったろうと云って、其の行為を殊勝がったが、其の心が村人達をして狸には決して危害を加えまいという不文律をこしらえさせた。爾来(じらい)其の村では今に至るまで狸は獲(と)らないことになっている。
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これが狐だったら、随分と色っぽくなったろうし、下世話な感情も浮かんでこようというもの。狸でよかった。狸と俳人との間に取り交わしたことだからこそ、村人と狸との間に純粋で暖かな絆まで遺した。

2017年10月6日金曜日

タミー

秋雨は冷え冷えして治まらず、ついに今秋初のヒーターを入れた。雨が外出のチャンスを奪ったからか、それとも雨のせいか、家にいてささいな家事に終始してしまう。といって、何も変わっちゃいないけど。

雨音に耳を傾けると、静けさがしみてくる。雨粒のすきまに、昔の音がよみがえる。題名も知らない、懐かしい旋律ばかり流れてくる。

素朴でやさしい民謡のような歌「タミー(Tammy)」(1957年、デビー・レイノルズが映画「タミーと独身者」で歌った主題歌)が聞こえてくる。無垢な少女タミーの想いが聞こえてくる。

今とはまったく違う時代。そう、ぼくらにとってあこがれであったTV番組「パパは何でも知っている」の時代の気分で、そんな時代の価値観で聞いてみたい。人びとが、男女が、今のようにささくれ立つことを知らなかった時代に戻って。

この映画を見たことないのに、メロディーは心のどこかに残っていて、あるとき、ふっと浮かんでくる。この映画とデビー・レイノルズ(当時23歳)、そして歌(詞)について、次のYoutubeに解説がある。


(Youtubeに登録のNedNickerson2010に感謝)

2017年10月5日木曜日

秋期イディッシュ語 2017-1st

今日から、イディッシュ語秋期コースが始まった。それなのに、タキシングの心構えなく、ましてリフト・オフに程遠い・・・そんな状態で出席するのを恥じるばかり。

(本ブログ関連:”イディッシュ語”、”秋期イディッシュ語”)

思い返せば、春期コースを終えて、夏休み中しっかり定着させると宣言したはずなのに何としよう。暑さに負けて、心頭滅却どころでない、志を忘却してしまったのだ。ただのぐうたらを反省するばかり。

幸い、新しい仲間も加わって、教材を一新。最初からの再スタートとなったが、授業は高速に進んだ。(ネットでも音声を聞けるとのこと、携帯デジタルプレイヤーに収録した)

教材音声を聞きつつ公園散歩もできるようになったのはありがたい。(今から寒くなるけれど)

(補足) 秋期コースからは思いつくまま感想を記すだけにしたい。

(「クレズマー音楽」についても、これから少しずつ理解できるようになりたい)

(Youtubeに登録のBGKOに感謝)

2017年10月4日水曜日

中秋の名月 2017

今日は旧暦8月15日、今晩の月を「中秋の名月」という。天気もよく、丸い月を見ることができるだろう。月見どきだ。

(本ブログ関連:”中秋の名月”)

といって、今晩は満月ではないそうで、実際の満月は明後日深夜とのこと。でも、今晩もひとの目には真ん丸な月だろう。(ふと思い出したこと、近くの公園の「お月見のつどい」は、9/30、10/1だった)

いつも真ん丸ではつまらない。丸いときも、尖ったときもあるのが月。満ち欠けを繰り返すのが月。だから真ん丸なときがよい。そんなときこそ、ひとびとは目を向ける。

今晩、月餅でも食べながら、真ん丸月を眺めてみよう。

(追記)
今日の外気は思った以上に冷たく、空も晴れ間がない。初冬の気配すらする。そんな中、スタディールームの帰り道、もしかしたら十五夜の月を眺めることができるかもしれないと期待し、コンビニで菓子を探した。「わらび餅&白玉くりいむぜんざい」というカップ入り生菓子を手元に月の出を待ったが、残念ながら雲が低くたれこもったまま。空模様に関係なく菓子をいただくことにした。

KBS WORLD「国楽の世界へ」 梨花雨

KBS WORLD「国楽の世界へ」は、先週水曜日(10/4)に文化的なキーワードに基づく韓国文化シリーズとして、朝鮮時代の妓生の梅窓(매창、1573年~1610年)の「梨花雨(이화우)」ほか関連する曲を紹介した。

始めに、秋の寂しさを歌った、妓生の梅花の詩「梨花雨」について次のように紹介された。
・秋には、朝晩に冷気を感じ、秋風に落葉を見る。今年も終わりに近づき、うまく成就できたかと想う。朝鮮時代の妓生「梅窓」は、秋の寂しい気持ちを、<梨の花が咲いていた春のある日、恋人が去ってしまった。何の便りもない。夏が過ぎ去り秋になっても、彼は戻って来ない。夢の中ででも会いたい>と歌う。

▼ 梅窓の詩「頭学時調(지름시조)、梨花雨」を聴く(声を張り上げて歌う)。秋風に葉が舞い心揺れるよう。

次に、朝鮮時代の文人、「尹善道윤선도、1587年~1671年、号は孤山)」について次のように紹介された。
・ひと恋しくなる秋、人々から遠ざかった人がいた。朝鮮時代の文人「尹善道」だ。彼が描いた漁師の歌「漁父四時詞(어부사시사)」に、秋の場面がある。秋は漁師の仕事が増え忙しくなる。尹善道も海に出るが漁でなく、ただ海を楽しむためだ。世間から遠ければ遠いほど良い。彼は、長い歳月、島流しの生活をした。 元の生活に戻りたい気持ちを押さえたためか。

▼ 「アジサイに秋が漂う(수국에 가을이 드니)」を聴く。<「漁父四時詞」に、アジサイに秋が漂うと魚が肥える>内容があるという。秋の空気を感じる、今様に。

最後に、女性の「彩鳳(채봉)」と恋人の「張弼成(장필성)」の切ない恋物語について次のように紹介された。
秋に思い浮かぶ話がある。「彩鳳」と「張弼成」の切ない物語だ。彩鳳の父が首都漢陽(한양)に出かけたときのこと、この二人の関係に気づいた彩鳳の母は、二人の結婚を認めるが、漢陽から戻った父は、彩鳳を他家に嫁がせようとする。父は出世のため、彩鳳を偉い家柄の妾にさせようとしたが、かえって獄中生活をする羽目になる。彩鳳は父を助けるために自ら妓生になる。その後も、愛する弼成を忘れることができず、月の明るい秋の夜、弼成を想いながら詩を作った。「秋風感別曲(추풍감별곡)」という詩だ。ところで、彩鳳の詩を耳にした観察使は、彼らの悲しい恋物語を知り、二人を結んでやったという。

▼ <北部西道地域の独特な雰囲気で歌った>「秋風感別曲」を聴く。読み聞かせるように歌う。

2017年10月3日火曜日

もみじ(紅葉)

小学校で学んだ合唱曲で一番記憶にあるのは、唱歌「もみじ」(高野辰之作詞、岡野貞一作曲、1911年:明治44年)だろう。私にとって、琴線にふれるような思いで深い曲だ。

遅くまでみなで合唱曲の「もみじ」を練習したとき、教室の窓にきらきら輝く夕陽が差し込んだのを思い出す。そんな思い出を独り占めしたいのか、一緒の仲間たちの影がすっかり霞んでしまっているのだ。歌の気分に、記憶まで染まってしまったようだ。

(本ブログ関連:”紅葉”)

子どもの目に映った紅葉は、うっすらした赤い光景でしかない。それを確かめたく、大人になって山に登ったり、バスツアーで眺めた紅葉の景観は、大人の目のものでしかない。懐かしさを求めたはずのに、結局、観光気分にしかなれないのだ。

そんなことなら、子どものころに、もっとしっかり自然に親しんでおくべきだったと思うばかり。


(Youtubeに登録の3113663eeeに感謝)

2017年10月2日月曜日

残り3ヶ月

飯屋の調理場から、「今年も3ヶ月しかない」という声が聞こえた。飯を食いながら、月日の過ぎる早さをあらためて感じる。何十回と繰り返してきた。そして、忘れては何度気付いたことか。

早速、来年のカレンダーを購入して、今吊るしているカレンダーの裏に合わせた。ただし、分厚い日めくりカレンダーは一緒にするのに苦しいので、もう少しして入手しよう。

時はあっけなく目の前を通り過ぎる。子どものころ、道路を走るトラックの排気ガスが好きで、道端に立って鼻をくんくんさせたもの。高じて、ガソリンスタンドへ遊びにいったりした・・・それはそれとして、時間がカレンダーのように次々めくれていくのを楽しもう。

昔の思い出、ニール・セダカ(Neil Sedaka, 1939年3月13日~)の「カレンダー・ガール(Calendar Girl)」(1960年)を聞こう。いかにも、若い女性にモテモテといった雰囲気(少々にやけ気味)から、てっきりイタリア系と想像していたが、実は「父はトルコから移民したユダヤ系、母はポーランド・ロシア系ユダヤ移民」(Wikioedia)だったとは。

(本ブログ関連:”ニール・セダカ”)

1月から12月、カレンダーを見ては毎日思い続ける。今月は、ハロウィンの10月、ぼくらはロミオとジュリエット・・・なんという陽気さ。カレンダーをめくるのも苦じゃない。カレンダーにときめくなんて、うらやましい。


(Youtubeに登録のDheeherdian77に感謝)

2017年10月1日日曜日

イ・ソンヒの「水仙」

今日から10月。今年はもう1/4しか残っていない。あっというまに過ぎ去るだろう。日高市の巾着田で開催の「曼珠沙華まつり」は今日で終了した(そうだ)。

真っ赤な花弁と緑の茎だけで咲く曼珠沙華の群れ並ぶ光景は美しさを超えて圧倒的である(そして異様さも覚える)。その「曼珠沙華(ヒガンバナ)」と同じ<>に属する花に、「水仙(スイセン)」がある。こちらは、冬から春にかけて咲く花だが、共に根に毒性を持っ。かたや死の影を持ち、かたや自己陶酔に溺れる。

水仙の可憐な姿に、自惚れの跡がかすかに精一杯に主張しているようにも見える。そんな負けん気が聞こえてくるような、独白だけの作品「水仙(수선화)」(1989年、作詞・作曲キム・チャンワン)が、イ・ソンヒの5集に収録されている。

(本ブログ関連:”水仙”)


(ふふふ) みんな過ぎたこと
いや、違うわ

愛! 贅沢なことみたい
未練! (ふん、ふふ)

わたしが 水仙を好きだったとしよう
その花が散ったとしよう
それが 何!

誕生日が同じ人だけで会うとしよう
それも日を決めておいて
ちらりと会って別れるのが、何が違うの

(はあ~) みな、過ぎたこと

違うわ、違うわ


(Youtubeに登録の이원호に感謝)

(付記)
最近、遠出を控えている。それでも運動のつもりで、近隣の街に出かけて書店を巡った。
先日から気になり始めた、リトアニアの街「ヴィリニュス」(ユダヤ文化の花開いた街でもある)への関心から、昔、リトアニが大国であったこと、やがてロシアに押されたことで、「ルブリン合同」によりポーランドと連合して(併合されて)、「ポーランド・リトアニ大公国」ができたこと・・・についての平易な歴史解説書を探したが見つからなかった。こんなとき、Wikipediaは近道である。

2017年9月30日土曜日

「赤とんぼ」の捕らえ方

ちあきなおみの歌「赤とんぼ」について、先週触れたばかり。市井の別れ歌だ。

(本ブログ関連:”赤とんぼ”)

秋の空に浮かぶ「赤とんぼ」で思い出したことがある。高山の赤とんぼは、人に対する警戒心が薄い。だから、捕虫網を使わないでも、容易に手で捕れる。もちろん、山路の出会い、捕って標本にするつもりはない。

赤とんぼを、素手で捕らえる方法はちょっとの我慢だけ。

① 山道の石ころや岩の上に休んでいる赤とんぼに狙いを定める。
② 3mくらい離れたところから始める。片手を、ゆっくり、大きく回転する。
③ 手を回転させながら、そっと、赤とんぼに近づく。あせってはいけない。
④ 赤とんぼに1mほど近づいたら、手の回転を少し早める。あせってはいけない。
    このとき、赤とんぼの頭が、カク、カクと揺れ始めたらしめたもの。
⑤ 手の回転幅を狭め、腰をさげつつ、指先を赤とんぼに次第に近づける。
    赤とんぼの頭が、めまいでもしているかのように振り続けるのを確認する。
⑥ そして、両手で赤とんぼをくるむように捕まえる。

複眼の赤とんぼが、ひとの手の回転に目がくらんだに違いない。見えすぎるのも弱点だ。

2017年9月29日金曜日

不成就日

日めくりカレンダーの隅にその日の注記があって、暦注や伝統行事を示している。いつも素通りしがちなのに目がいった。「不成就日」と書かれていたのだ。

無力感に襲われるネーミング、成就できないなんて一体どうしたことだ。いろいろな行事が「凶」になるという。旧暦の特定日に「不成就日」があって、毎月4回巡ってくるという。

占いごとを、精緻に理論・体系化すると息苦しくなる。平穏な毎日を願っているはずなのに。出鼻をくじく先読みは、余計なお節介。それも、権威をもって語られたりすると、その言に怪しさが増す。

占いは、陽の当たる部分と影の部分を示す。吉凶の裏表。幸福と不幸、平和といくさ、生と死。避けられないもの、永遠に続かないもの。だから、ひとは占いを完全に捨て切れない。

今日は、何ごとも不完全。すべてに不成就であった。占いを待つでもない毎日のこと。

2017年9月28日木曜日

「おはようボルチモア」

先日、FM音楽番組から流れた曲に、60年代ポップスをほうふつさせる、いきのよいものがあった。耳に残った旋律というか、オールディーズ独得な歌い方にひかれてネットで探した。手元にメモしたわけではなかったけれど、歌詞に何度か出た言葉「ボルチモア」でYoutube(およびWikipedia)を検索するとすぐに見つかった。曲名は「Good Morning Baltimore」。

この曲、実はブロードウェイ・ミュージカル「ヘアスプレー(Hairspray)」(2002年、マーク・シャイマン作曲、スコット・ウィットマンおよびシャイマン作詞、マーク・オドネルおよびトーマス・ミーハン脚本)の代表曲のようだ。

原作は、コメディ映画「ヘアスプレー」(1988年、ジョン・ウォーターズ監督)であり、その後も同名「ヘアスプレー」(2007年、アダム・シャンクマン監督)でリメイクされている・・・という。

ところで、ボルチモアはアメリカの都市だが、その歴史について何にも知らない。聞いたことのある出来事といえば「大火」くらいか。まして、FMで聞いた「Good Morning Baltimore」の時代背景を知るよしもない。ただただオールディーズの郷愁にひかれただけだった。
「人種差別が色濃く残る、1962年のメリーランド州ボルチモアを舞台に、明るくふくよかな10代の女性主人公が地元のテレビ番組でダンサーとして、スターになる物語を描いている」とのこと。

2007年版の映画からと思う、次の「Good Morning Baltimore」は、とにかく明るくて陽気、健康で天真爛漫な主人公の若々しさがあふれる。どんなに憂鬱であっても、朝になれば未来が始まる・・・おはようボルチモア。


(Youtubeに登録のthecrazydude57に感謝)

2017年9月27日水曜日

KBS WORLD「国楽の世界へ」家族愛

KBS WORLD「国楽の世界へ」は、先週水曜日(9/20)に文化的なキーワードに基づく韓国文化シリーズとして、「両親や家族への愛」に関連する曲を紹介した。
(ブログ記述時点で、ネットで未見のため韓国語/英語版を参考にした)

始めに、親孝行の大事さを強調した中国元代の「二十四孝」をもとにした歌について次のように紹介された。
・中国の元代、孝行の徳目を編纂した「二十四孝」がある。真冬に鯉を獲ったり(=姜詩)、竹の子を採ったり(=孟宗)して親を奉養したり、また、年老いた母親のものも食べる幼子を地中に埋めようと穴を掘ったところ、金を得た(=郭巨)話など、これらをもとにした歌がある。

▼ 短歌(パンソリの喉慣らし曲)の「孝道(孝行)歌(효도가)」を聴く。淡々と歌う。

次に、パンソリ「沈清歌」で、沈清が命にかえて父の病を治そうとすることについて次のように紹介された。
・パンソリ「沈清歌」に、盲の父の目が開くよう、自ら船乗りに命を売った沈清が、船に乗って(印塘水の)海に身をなげるくだりが描かれている。船乗りは、沈清を犠牲(人柱)として祭祀を行なう。沈清は、死を控えて、父親がいる故郷に向かってお辞儀をしながらも、一人残る父親を案じる。

▼ パンソリ「沈清歌」から「沈清が海に沈むくだり(심청이 바다에 빠지는 대목)」を聴く。迫り来るものを想う。

最後に、沈清が身を投げる海(印塘水)に沈む前、船乗りに付いていく心情を現代的な観点で描いた創作曲について紹介された。

▼ 「清、海になる(청 바다가 되다)」を聴く。あまりに感傷的に、あまりに今様に。

2017年9月26日火曜日

キンモクセイ(金木犀)

この時期、「金木犀」が気になる。「彼岸明け」の今日、人影の乏しい公園に出かけて、広場に並ぶ大きな金木犀を見上げた。濃い緑葉のあちこち、オレンジ色の小さな花弁が点在する程度だが、独特の甘い香りが始まっていた。

(本ブログ関連:”金木犀”)

ちょっと前まで、しばらくの間、「百日紅」が小さな薄紅色の花を覆うようにして飾っていた。中国の古い絵を見るようで、霞んで、すごく地味で・・・。そんな地味さ加減が金木犀にもある。この時期、オレンジの花弁も咲き始めたばかり。

子どものころ、金木犀と(春を知らせる)「沈丁花」の香りが苦手だった。なんだか、年配の婦人方の香水を思い起させるからだ。でも、考えてみれば可笑しなこと。ずっと昔から、金木犀や沈丁花は、その香りを漂わせていたのだ。

(本ブログ関連:”沈丁花”)

やがて歳をとると、花の自然な香りに合わせるようになる・・・そんな気がする。

2017年9月25日月曜日

狢(ムジナ)

人を化かす動物といえば狐と。狡猾な化かしをする狐に比べて、どこか間抜けでお人好しの感がする狸。その狸を、「(ムジナ)」ともいうけれど、実体はアナグマのようだ。

写真などでみるアナグマは、狸のような丸みがなく愛嬌が不足している。まさに、イタチ科とイヌ科の違い。さらに狢とされる、ハクビシンにいたってはネコ科に属していて、もっと遠い。

この狢を題材にした、L.ハーンの怪談に登場するのは、狸でもアナグマでも、ましてハクビシンでもない。<のっぺらぼう> なのだ。夜道で、人の好い商人を巻き込んで化かして驚かす。その仕打ちは狐の化かし風。しかも、追い討ちをかけるように、屋台の蕎麦売りも組んで驚かす。

一体どうして、狢が <のっぺらぼう> なのだろう。顔を隠しながら相手を見る、正体不明の顔にしたのだろう。それとも、商人が迂闊だったのか。(顔を隠した狢に翻弄される商人、それとも目先しか見えない商人)