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2019年5月9日木曜日

(雑談)自動車の運転

子どものころ住んでいた社宅に技術者の家族がいて自動車整備を楽しんでいた。休みの日などに、技術者が車を運転する光景が見られた。車は坂道を滑らかに下って行ったが、帰りの登り坂で難儀することがあった。息子と一緒に手押ししている様子を眺めたりした。よほどに「機械遊び」が好きな人たちと思った。自家用車が珍しい時代の話だ。

昔、車が若者にとって憧れであり、ステータスだった。ジェームス・ディーンの映画「理由なき反抗」では、女性を意識したなかで度胸を示すツールだったりした。自動車は、ある意味一つのシンボルだった。そんなナイーブな青春群像とは別世界で、(むしろ現実の世界でだが)車はまかり間違うと犯罪の手段にもなった。大久保事件のような話をしても、今の若い人には通じないようだ。見知らぬ車に吸い寄せられて、同乗してしまうなんてことは到底考えられないのだ。昔は、車にそれほどの魔力があった。

今は、人口減少もあるだろうけど、若い人の車離れが進んでいるという。都市生活に、車がなくても何ら支障はない。私の場合、行動範囲が狭まっていても、近くにコンビニがある。もちろん、幼い子育ての時代には車が必要だったが。
一方、地方の街や農村では、交通網が削られて個人ごとに自家用車が必要だったり、店舗が減少して遠くまで買い物に出かける必要があったりするという。

以前、自動車の運転免許証を地元警察署に返却に行ったとき、随分早い年齢ですねと受付でいわれたことがある。そのときのいきさつはブログに記した

(本ブログ関連:”自動車運転免許証”)

最終的に運転免許証の返却を決断をさせたのは、Youtubeに登録された、ある寒い雪国で起ったたくさんの自動車事故映像(車載カメラで記録されたもの)を見ているうちに恐ろしくなってきたからだ。整備不良、不注意、何より交通ルール無視の結果だが、歳とともに誰にでも起り得ると不安になった。

最近の交通事故報道は、事故時のパニックとその判断力、もともとの適正など考え合わせるべき課題を示唆する。本来、運転者自身が自覚すべきものと思うのだが。
ただし、繰り返されるニュースを見ていて気になることがある。だから人間はダメで、AIなどで安全性を確保した自動運転の車が必要なのだという <誘導> につながっていないことを信じたい。