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2025年5月18日日曜日

(ChatGPT)ブロードウェイ、ハリウッドを発展させたのは

映画製作の独占を目論んだエジソンから逃れるようにして、米国東部の映画関係者が西部のハリウッド移動したといわれる。その役割を果たしたのは、どんな人たちだったのだろうか調べてみた。
  • 東部の「ブロードウェイ」には、ショービジネス(舞台公演)を仕切る先発のユダヤ系移民がいて、後発のユダヤ系移民による映画産業と共存がむつかしかったという話があるが・・・。
  • 西部「ハリウッド」の映画ビジネスの先駆けも同じくユダヤ系の人びとだったことになる。
そこで、ユダヤ系の人びとが果たした役割について、ChatGPT にQ&Aを求めたので結果を載せる。

Q - ①.ブロードウェイを劇場街に仕立て上げたのは、どこからの移民でしょうか?
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A - ①.ブロードウェイを現在のような「劇場街(シアター・ディストリクト)」として発展させた中心的な役割を果たしたのは、<ユダヤ系移民(特に東欧からのユダヤ人> です。

背景と経緯:
19世紀後半から20世紀初頭にかけて、ヨーロッパ(特にロシア帝国ポーランドオーストリア=ハンガリー帝国など)から多くのユダヤ人がアメリカに移住しました。
多くはニューヨークに定住し、その一部が演劇音楽出版といった文化産業に関わるようになりました*。

(*)ブロードウェイのショービジネスが立ち上がったのは、19世紀半ば~後半(1850年代〜1880年代ころ

主な貢献:
興行師プロデューサーとして成功したユダヤ系移民**(例:フローレンツ・ジーグフェルドなど)は、ショービジネスの仕組みを整備し、商業演劇の発展を促しました。
作詞家作曲家としても多くのユダヤ人が活躍し、ブロードウェイのミュージカル文化の土台を築きました。たとえば:
    ー ジョージ・ガーシュウィン(作曲家)
    ー アーヴィング・バーリン(作詞・作曲家)
    ー リチャード・ロジャース(ロジャース&ハマースタインの一人)

(**)Googleの生成AI Gemini は「ユダヤ系移民 」について、次のように回答している。「イディッシュ劇場から発展し作曲家作詞家劇作家プロデューサーとして、ブロードウェイの黄金時代を築き上げました

影響:
彼ら(東欧系ユダヤ移民)の努力によって、ブロードウェイはアメリカ文化の中心として栄え、演劇・ミュージカルのメッカへと成長しました。

要約すると、
東欧系ユダヤ人移民が、ブロードウェイを現在のような劇場街に仕立て上げた主な担い手です。
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Q - ②.アメリカの映画産業が、「ブロードウェイ」のショービジネスと共存せず、米国西部の「ハリウッド」にあるのはどうしてですか?
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A - ②.(回答より抜粋

4. ハリウッドに集まった移民と企業家たち
・ユダヤ系移民の影響:
映画産業の初期、特にニューヨークから移住***したユダヤ系移民が重要な役割を果たしました。彼らはブロードウェイに加えて映画業界でも積極的に関与し、ハリウッドに映画スタジオを設立しました。例えば、パラマウント(ユダヤ系のアドルフ・ザカリー)やMGM(ユダヤ系のルイス・B・メイヤー)など、初期の映画スタジオの設立者たちニューヨークのユダヤ系移民が多かったです。

(***)20世紀初頭(1910年)エジソンが映画権独占を目論んだ東部から西部へ移動して製作。

・実業家たちの集まり:
ハリウッドには、映画産業を商業的に成長させるために集まった実業家や投資家が多くいました。彼らは、ブロードウェイと同じようにショービジネスを扱っていましたが、映画という新しいメディアの商業化に取り組んだため、ブロードウェイのような舞台公演とは異なるアプローチを取ることになりました。
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2020年10月23日金曜日

(雑談)ちらりと聞いて早とちり

とりとめもなく、ちらりと聞いてネットを上滑りした与太話。

ラジオから、センセーショナルというかショッキングな場面が展開するという映画「異端の鳥」の映画評が聞こえてきた。遠くの国の人間が語るにはおぞましい、第二次大戦下の悲惨な経験を経たユダヤ人少年がいかに生き延びたかを描いた映画についてだ。映像化に賛否両論があったという。

1965年出版の「異端の鳥(ペインティッド・バード)」(西成彦訳、2011年)の原著者イェジー・コシンスキはとても個性的な人物で、ネットでは盗作などいわくつきの背景があるように紹介されている。この小説を自伝的といったり、架空の話といったり変転するくらいだそうだ。(未読のため深入りできないが)

ところで、この物語と大筋が似た児童書「走れ、走って逃げろ」(U. オルレヴ、母袋夏生訳、岩波少年文庫)がある。こちらの場合、作家オルレブ自身の経験ではなく、体験者というべきモデルが存在すると巻末に訳者解説がある。

(本ブログ関連:”走れ、走って逃げろ”)

「走れ、走って逃げろ」の原著「Run, Boy, Run(רוץ、ילד、רוץ)」が発表されたのは、なんと2001年とのこと。コシンスキとオルレブがほぼ同年代のため、コシンスキのよからぬ噂からあらぬ疑いを想ってしまったが・・・しかし発表時期から、それはとんでもない濡れ衣だった・・・早とちりにもほどがある。

(参考)
イェジー・コシンスキ:ポーランド系ユダヤ人、יז'י קושינסקי、Jerzy Nikodem Kosiński、1933年6月18日~1991年5月3日
ウーリー・オルレブ:ポーランド系ユダヤ人、אורי אורלב、Uri Orlev、1931年2月24日~


雑談
「走れ、走って逃げろ」の原題「Run, Boy, Run」をYoutubeで検索したところ、おもしろいミュージックビデオ(MV)と出会った。映像作家でミュージシャンであるヨアン・ルモワンヌ(プロジェクトWOODKID)の作品のようだが・・・初めて知るわけで。WOODKIDのMVを次の①、②の順に見ると、いろいろ思いを巡らすことができそう。これらに共通して登場する塔を持つ白い建造物に、どこか純正芸術的な臭いがする、それを狙ってのことだろうか?

(本ブログ関連:”純正芸術”)

① Iron:
・ https://www.youtube.com/watch?v=vSkb0kDacjs&list=RDvSkb0kDacjs&start_radio=1
・ https://www.youtube.com/watch?v=lmc21V-zBq0&list=RDvSkb0kDacjs&index=2
・(和訳) https://www.youtube.com/watch?v=HWx-PV5ptTs (Stay Aliveに感謝)


(追記 2025.6.23)
・ウーリー・オルレブ 原作「The Island on Bird Street:האי ברחוב הציפורים」(1981)が映画になっている。
    ー 映画(日本語タイトル)「マイ・リトル・ガーデン」 (1997年)
    ー https://www.youtube.com/watch?v=O468As0i-B4

2020年8月6日木曜日

おかしな主人公たちの住む町

世の中には色んな阿呆がいる。わたしもその一人で気持ちがよく通じる。もし阿呆たちがそろったらどうなるだろう。収拾の付かないことばかりかもしれないが、意外とよく事が済むかもしれない。

イディッシュ語を少しかじったとき、語学テキストに閑話休題として小話が用意されていた。ストーリーの舞台に「ヘルム」の町(村)が出てくる。当然ながら、架空の町(村)で、ポーランドにあるという。まさにイディッシュの息づかいを感じる気がする。以来、彼らの粗忽さに落語と似た親近感を感じている。

(本ブログ関連:”阿呆”、”ヘルム”)

イディッシュ語作家でもあるアイザック・バシェヴィス・シンガーの児童書「まぬけなワルシャワ旅行」(工藤幸雄訳)の訳者解説に、同書で話題にしたポーランドのユダヤ人が住む町「ヘルム」の他に、おかしな主人公たちのいる民話の町として次が紹介されていて、以前このブログの「おバカな村」にも記した。
・イギリス「ゴタム」
・オランダ「カンペン」
・イタリア「クネオ」
・ドイツ「シュリートブルク」など

ところで、ドイツにはシュリートブルクの他に「シルダ」というおバカな町があるという。

アンソロジー「日本の名随筆40 愚」(山田風太郎選)に収載の、北杜夫の「阿保について」(「マンボウ人間博物館」の第一話)に、児童文学者のケストナーが記した、<賢人が出張して阿保ばかりが残った*ドイツ中世の「シルダ」の町>について紹介している。
(*)阿保ばかりが残ったのか、賢い者が戻ってきて阿呆の振りをしているだけなのか諸説あるようだ。

■ まず、北杜夫の「阿保」の定義が面白い。精神科医の作家なればこその紹介だが、孫引きする。
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ドイツの誇る精神科医、故ホルスト・ガイヤー博士に、『愚鈍について』という著作がある。彼は白痴患者の専門家であった。その一説、
勤勉は阿呆の埋め合わせにはならない。勤勉な阿呆ほど、はた迷惑なものはない。
・・・・
そもそも世に名高きシルダ人の愚行を記さぬ法はなかろう。シルダ人は、ドイツ中世の伝説の一つで、『ティル・オイレンシュピーゲルのいたずら』と共に、双璧をなしている。いろんな作家がシルダ人の愚行について、童話や小説を書いているが、ケストナーのものがいちばん面白いようだ。
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というわけで、ケストナーの「シルダの町の人びと」が少し触れられている。一匹の海老(ザリガニ)が巻き起こす騒動が面白い。

■ ちくま文庫「ケストナーの『ほらふき男爵』」(池内紀、泉千穂子訳)に所収の「シルダの町の人びと、ザリガニを裁判にかける」は、次のように書かれている。
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ある日、町にやってきたザリガニが、はさみを持っていることから仕立て屋に違いないと町長が結論を出す。さっそく布を切らせてみるとズタズタになる。そこからドタバタが始まり、結果、ザリガニは裁判にかけられる。裁判長は「溺死させるのがよろしい」と死刑を宣告する。
シルダの町の人びとは刑の執行を見守った。「かわいそうだがしかたない。法は曲げられぬ」と。
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こんな具合で、ザリガニは溺死の刑に処せられた。

■ そういえば、上記のシンガーの児童書「まぬけなワルシャワ旅行」にもこんな話がある(「ヘルムのとんちきまぬけな鯉」)。
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ヘルムの長老から大とんまな男へ贈られた鯉が、ぴしゃりと跳ねて男のお顔を叩いた。罰を与えようといろいろ算段したあげく、結局、溺死の刑に処すことになった。
鯉を湖に投げ込む処刑を見ながら、ヘルムの市民は歓声を挙げた。「卑怯きわまる鯉はおぼれてくたばれ!」と。
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ちなみに、ユダヤ料理の一品に使われる「ゲフィルテ」は、鯉のすり身団子だ。瓶詰から取り出してそのまま食べればさっぱりした味わいだ。わたしは、うどんと一緒に煮こんだりした。少々甘みが出てくるが、ふうふういいながら食うのも美味いものだ。

(本ブログ関連:”ゲフィルテ”)


(参考1)
学問的なことは全く不案内だが、ヘルマン・バウジンガー「ドイツ人はどこまでドイツ的?(2)― 国民性をめぐるステレオタイプ・イメージの虚実と因由 ―」(河野眞訳、愛知大学 言語と文化 No. 21)の翻訳に「シルダ」の町について次のような<訳注>がある。
https://taweb.aichi-u.ac.jp/tgoken/bulletin/pdfs/NO21/04KonoS.pdf
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p.68  シルダ(Schilda):シルダは,架空の都市の名前で,民衆本に頻繁に現れ,その市民はいたずら好きな主人公や,また主人公にからかわれる馬鹿な民衆でもあった。シルダの元になった町としては,ザクセンの「シルダウ (Schildau)」 やブランデンブルクの「シルダ (Schilda)」 などが挙がられる。
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(参考2)
学問的なことは全く不案内だが、「論説 《世間》は日本社会の特異性か?  - 欧文の翻訳における《世間》の用例に即した検証 -」(河野眞)も参考に記す。
https://aichiu.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=9219&file_id=22&file_no=1

2020年1月20日月曜日

ユダヤの歴史を学ぶ(第2部)-11、 大寒 2020

きょうは、二十四節気の「大寒(だいかん)」。以前のブログ(1/6)に、大寒よりも「小寒」の方が寒さが厳しいといわれると記した。しかし、東京都心の最高気温の「平年値」を見ると、今年の小寒にあたる1/6は 9.9大寒にあたる1/20は 9.3で、大寒にあたる1/20の方が低い(9.9>9.3)ことになる。まったく逆の話だった。
(怪しい情報をブログに記載してしまったこと訂正します)

そこで、今月の都心の最高気温「実測値」を比較してみると、小寒にあたる1/6(13:10、10分目盛観測より)は 11.7℃大寒にあたる1/20は 14.1℃(12:57)となり、大寒のきょうの方が温かい結果になった・・・今月,たまたま以前のブログに書いた通りになっただけのようだ。

(本ブログ関連:”大寒”)

ところで、久しぶりに市民講座「ユダヤの歴史を学ぶ」へ出かけた。昨年末(12/23)の第10回を欠席したため、正月休講を含めて5週間振りの聴講になる。

(本ブログ関連:”ユダヤの歴史を学ぶ”)

この講座の昨年前期と後期を合わせて構想された東京大学名誉教授の市川裕氏より「21世紀の世界でユダヤ人とイスラエル国家はどう生きるのか(総まとめ)」の話があった。関心・興味のあった話題にポイントを絞って次に記す。

・ユダヤ人は、1948年5月にイスラエルを建国したことにより、それ以前の「領土を持たず、宗教的紐帯によってのみ統合がなされ、世界中にその民族が点在しているような社会集団」(A.J.トインビーの「ユダヤ・モデル」)から、近代国民国家としての市民となる。

・ユダヤ人は、イスラエル国家が成立することで、トインビーのユダヤ・モデルとは違った存在、Majorityの立場となる。2018年7月の「基本法ーユダヤ民族国家法」でそれが明確になる。国内のMinorityの存在を認めるが、決定するのはユダヤ人であるという立場をとる。

・その他(省略)

(感想)
国家を持った現代のユダヤ人と持てなかった以前のユダヤ人が果たして同じに連続するのか。ユダヤ民族の過去史だけで正当性を維持できるのか難しい問題だ。そして誰もが、日常でさえ、MajorityとMinorityの立場を繰り返して生きている。
私のもっぱらの関心は、古き良き時代のポーランドあったという「おばか村ヘルム」のひとびとのことだけなのだから。

(本ブログ関連:”ヘルム”)

2019年11月25日月曜日

ユダヤの歴史を学ぶ(第2部)-7

快調に歩けるようになった。健康体操教室のトレーニングの成果だろう・・・負荷の少ない地味なストレッチ運動中心のおかげか、歩きに疲労感がなくなったのだ。遠くの街で開かれている市民講座「ユダヤの歴史を学ぶ(第2部)」へ通いながら実感した。
(ところで帰りの電車で、若者が席を譲ってくれた・・・最近、歳相応に感謝して座るようにしている)

(本ブログ関連:”ユダヤの歴史を学ぶ”)

今年前期の「ユダヤの歴史を学ぶ(第1部)」(7/8)で 、<アメリカへ渡ったユダヤ人>を解説をされた、東京大学准教授の鶴見太郎氏から「ソ連におけるユダヤ人の生き方」についてうかがった。

帝政ロシア・ソ連時代に、ユダヤ人がどのように生き抜いたかを次のように紹介された。

ポグロム: ロシア革命内戦期に発生したユダヤ人排斥の結果
・ユダヤ人はボリシェヴィキ支持へと傾倒していった
  - 1919年、キエフのチェーカー(秘密警察)の75%がユダヤ人だったという推計も
・一方、ユダヤ人に「シオニズム運動」を招くことになる

ソ連体制下: 民族政策の変転
・帝政時代の居住制限から、ソ連時代の当初、移動の自由があった
  - イディッシュ語(文化)の普及政策
    a.ボリシェヴィキのユダヤ人セクションにいた女性エステル・フルムキン(Esther Frumkin)は忠実に実施
      ⇒ 1940年、シベリアの収容所に送られ粛清される
    b.ユダヤ人自身は、ソ連社会との融和が難しいと判断して敬遠する傾向にあった
    c.ユダヤ自治州(州都ビロビジャン)に定着させる: 防衛上、農業定着
      ⇒ WWⅡ後、3万人に達したが、現在は2,000人程度
・WWⅡ
    a.「ホロコースト」(略)
    b.1942年、西側ユダヤ人に対し、ソ連支援のため「ユダヤ人反ファシスト委員会」を結成
・WWⅡ後
    a.スターリン時代
      ⇒ 上記ユダヤ人反ファシスト委員会関係者の暗殺・逮捕
      ⇒ 反ユダヤ主義の立場から、ユダヤ人の活動を「ブルジョワ民族主義」と呼んだ
    b.スターリン以降
      ⇒ イディッシュ語(文化)の名目上の復帰
・1967年「第3次中東戦争」、アラブ支持のソ連でイスラエル・シオニズム批判が起る
・海外(イスラエルおよび諸外国)への移住希望者が増大
    a.1989~98年、ソ連圏から120万人(内実質のユダヤ人は80万人)が出国
      ⇒ 1970~97年、ロシアから30万人が出国
      ⇒ 1970~97年、ウクライナから42万人が出国

(感想)
イスラエルにおける、ロシア語話者*のユダヤ人が多数いるという。
(*)Russia Beyond「さまざまな情報源によると、ソ連・ロシアからイスラエルに移住した人でロシア語を話すのは、25万〜50万人だ。米フォーブス誌の試算では、2017年時点でイスラエルのロシア語人口は150万だった(同国の総人口は約860万人)」(  https://jp.rbth.com/lifestyle/80162-sekai-no-roshiago-jinkou-wa-dono-kurai )
彼らがイスラヘル移住を決めた理由を知りたい。ソ連時代のロシア人だって大変な経験をしているのだから、ユダヤ人はもっと厳しい経験をしただろう。
東欧のポーランドの田舎町や村(シュテットル)にユダヤ人が多数いたことは、ポーランドやリトアニアの歴史から推察できるが、ロシアにどうして住むようになったのかも知りたい。

2019年10月28日月曜日

ユダヤの歴史を学ぶ(第2部)-4

毎週月曜日開催の市民講座「ユダヤの歴史を学ぶ(第2部)」へ通う。今日で4回目になる。私にとって少々長旅?で、ようやく体が慣れてきた感じがする。帰りの電車で転寝したことはいうまでもない・・・いい按配で心地よい。頭だけでなく、体も解きほぐしてくれる。

(本ブログ関連:”ユダヤの歴史を学ぶ”)

今回は、内容がヘビーさを増す中で、相当に厳しいテーマ <ホロコースト> について、学習院女子大学教授の武井彩佳氏から「ナチスの時代のユダヤ人」の講演があった。サブタイトルは「ホロコーストの展開と現在に残る『爪痕』」だった。
武井氏の専門分野は、<戦後のホロコーストの補償としての財産問題> とのこと。実は、来週も担当され、次回のテーマ(「ナチスの時代のユダヤ人」について」)にもつながる。

講演で個人的に関心のあったところに絞って記す。

言葉としての「ホロコースト
・ギリシャ語を語源として、ユダヤ教の「燔祭(はんさい)」(宗教的捧げ物する)の意
・ナチスによる虐殺についてフランス語の「ショアー」が使われる
・イディッシュ語で「フルブン(khurbn‎、חורבן)」

ユダヤ人の犠牲について
・ナチスの人種的優位性の理解: アーリア人 > スラブ人 > ユダヤ人
・東欧:ドイツ軍侵攻とともに殺戮が開始される(ポーランド、リトアニア、ウクライナなどで)
   西欧:ドイツ支配下(民政移行=対独強力)の国(ユダヤ人が少数)では、比較的に緩やかに進行
・ドイツ国内:ドイツ在住のユダヤ人は金があって脱出可能だった
   - 戦前在住 56万人 ⇒ 30万人が移民(逃避)、死亡14万人
   - 戦後在住 3.7万人 ⇒ 戦後も移民が止まなかった

ホロコーストの構造
・加害者: ドイツ、オーストリアの20万人
・傍観者(対独協力者): ポーランド、ウクライナ、ラトヴィア、その他(ユダヤ人不在により利益を得た者)
・犠牲者: ユダヤ人の600万人

ホロコーストの実行
・ヒトラーから直接命令の資料はないが、1941年夏ころ口頭指示があったといわれる
行動部隊: 1941年設立、親衛隊(SS)+ 通常(普通)の警察官

強制収容所
ラインハルト計画: ユダヤ人絶滅だけを目的にした絶滅収容所、トレブリンカなど
・強制労働+絶滅: アウシュビッツなど

戦後の東欧の収容所跡地の扱い
・共産党政権下: ユダヤ人を捨象して、収容民を被害者大衆として扱ったが
   自由主義化後: ユダヤ人に注視した再定義が行なわれている
・研究手法: ホロコーストの分析だけでなく、<法>考古学的な発掘調査


(感想)
なにより、ドイツ在住のユダヤ人の行動に注目した。
・ドイツを脱出したユダヤ人はどこへ行ったのだろう? アメリカではなかったのか?
   - 情勢の変化を事前にどのように察知(階層ごと情報収集)したのだろう?
・他方で、多数の犠牲者を占めた東欧のユダヤ人こそ、ユダヤ社会から置き去りにされた人びとだったのではないか?

2019年10月21日月曜日

ユダヤの歴史を学ぶ(第2部)-3

先週月曜日(10/14)は、祝日の「体育の日」だったため、毎週月曜日開催の市民講座「ユダヤの歴史を学ぶ(第2部)」は休講となった。今日、久し振りの受講になる。セミナー会場のある「武蔵小杉駅」に電車に揺られながら向かった。

講座開始前に講師を紹介される方がいつもと違って、別の方がマイクを握った。なんと、いつもの方の自宅マンションが、先日の台風19号により被災して、その後始末に追われて休まれたというのだ。あの武蔵小杉駅周辺を冠水してタワーマンションを麻痺させた騒動を思い出した。

本日の講演のテーマは、早稲田大学名誉教授大内宏一氏による、ドイツを中心に見た「近現代の政治的イデオロギー・運動としての反ユダヤ主義」についてだ。開始前に配られた資料から、内容がヘビーなだけにどうお話されるのか気になったが、淡々としたものだった。

(本ブログ関連:”ユダヤの歴史を学ぶ”)

反ユダヤ主義」に2つある
・1879年にドイツに出現した(宗教的な観点でない)人種的批判として:「反セム主義」
・ユダヤ教に対する宗教的批判として:「反ユダヤ主義」

「反セム主義」による反ユダヤ主義のイデオロギー性(近代化への危機対応・・・「文化闘争」と反「社会主義」)
・「反セム主義」出現以前
   - 中欧・西欧は「ユダヤ人解放」の傾向にあった
   - 東欧・ロシアは反ユダヤ運動(ポグロム:1881年ロシア皇帝暗殺以降)が起った
・1870年代に政府・自由主義派とカトリック教会の「文化闘争」(カトリックは、背後にユダヤ人の存在を疑う)
・1873年の世界恐慌の結果
   - ユダヤ資本に対する反発が目立つようになる
   - 左翼思想としての社会主義政党の拡大とユダヤ人の関わりへの疑心

ユダヤ人が近代化を代表する(目立つ)存在になる
・金融業・商業、大都市集住、高学歴(大学医学部・法学部への高進学率)、高収入
・ジャーナリズム、大手出版社の経営

ドイツにおけるユダヤ人
・19世紀のドイツのユダヤ人は、ドイツに同化したユダヤ人
・彼らは、東欧から流入したユダヤ人に対して、しばしば「よそ者」扱いをした

ユダヤ人に対する様々な流言、憶測および批判
・手続き的な論証スタイルもあった

第一次大戦後のドイツ
・(口頭で語られたが)戦中・戦後のドイツ人餓死者は驚くべき数いた:70数万人(除兵士)
・(語られていないが)ドイツの戦後賠償額は、Wikipediaによれば「総額は1320億金マルク(約66億ドル、純金47,256トン相当)という1913年のドイツ国民総所得の2.5倍という莫大なもの」だった

現代のドイツでのユダヤ人問題
・元々いたユダヤ人はアメリカなどへ渡り、現在のユダヤ人は東欧から来た人たち
・労働移民のトルコ人・難民のイスラム人問題が主となり、ユダヤ人問題は低まる傾向にある

現代のイスラエルに対して
・ドイツでは、イスラエル批判は「反セム主義」のレッテルが貼られる
・一般にイスラエル批判は左派的傾向が強い

(感想)
・説明はなかったが、第一次大戦後のドイツ賠償に、ユダヤ人がどう関わったか興味深い。
・ドイツのユダヤ人と東欧(ロシア)のユダヤ人との関係が一筋縄ではいかないようだ。結果として、ドイツのユダヤ人はアメリカへ移民したのではないか? そして、東欧(ロシア)のユダヤ人こそ「反セム主義」の直接の対象になってしまったのではないか?
以前受講したときに資料で知らされた、ハインリッヒ・ハイネのドイツのユダヤ人と比較して、ポーランドのユダヤ人に対しての思いが想起される。

2019年6月24日月曜日

ユダヤの歴史を学ぶ-10 、地震さまざま

朝方、小さな地震があった。気象庁の地震情報によれば次のように発表された。なお当地は「震度2」であった。
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24日9時11分ころ、地震がありました。/ 震源地は、千葉県南東沖(北緯34.9度、東経140.0度)で、震源の深さは約60km、地震の規模(マグニチュード)は5.5と推定されます。/ この地震により観測された最大震度は4です。 (千葉、東京、神奈川の各都市)
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小雨ぱらつく中、市民講座「ユダヤの歴史を学ぶ」へ出かけた。第10回の今日、東京大学大学院博士課程の青木良華氏から「近代西欧社会へ参入するユダヤ人:ドイツ・ユダヤ人が見た光と影」の解説をいただいた。

① 18世紀頃から19世紀にかけて、欧州で行なわれたユダヤ人の(伝統からの)解放の動き
・当時「国民国家」が成立する中での、ユダヤ人(ユダヤ教)の自らの変革・解放であった
・国家に対して、ユダヤ教がキリスト教(プロテスタント)と同じ立場に立つことを目的にした
  - 「ユダヤ教は国家に従属する」(ユダヤ教優先する立場からの変更)

② 解放の過程
 ・ユダヤ人が居住する国家の側からきっかけが与えられる
   - 米国で早く、その後ドイツ(プロイセン)、フランス革命後のフランスで始まる

③ ユダヤ人による解放にさまざまな立場があった
 ・キリスト教への改宗
 ・ユダヤ教の改革あるいは伝統を保守すること
  - 改革派: ユダヤ教聖書を批判的に理解
  - 正統派: ユダヤ教改革への反発
  - 東欧での正統派: シュテトル(シュテットルユダヤ人小規模コミュニティー)を基礎とした伝統的ユダヤ教

(本ブログ関連:”シュテットル”)

④ ユダヤ教改革に関わったひとびと
 ・モーゼス・メンデルスゾーン(哲学者)
  - ユダヤ教を独自性のある調和する宗教として説いた
  - 音楽家フェリクス・メンデルスゾーンの祖父
 ・ハインリッヒ・ハイネ(詩人でありジャーナリスト)
  - (ある意味、流浪する文化人のよう)東欧ポーランドのユダヤ人への評価と共感
  - ユダヤ教から、プロテスタント ⇒ カゾリックへと改宗する

④ 社会情勢の変化(三月革命など)にユダヤ人参加とともに、新たな反ユダヤの萌芽
 ・ドイツロマン主義: ドイツ民族意識・・・対立
 ・シオニズム: イスラエルの回帰運動・・・回避

配布資料に、ハイネがポーランドのユダヤ人に触れているところがある。イディッシュ文化の原典(真髄)を知るようでとても納得する。
汚い皮帽子をかぶり、シラミの住みついた髭を垂らし、にんにくの臭をただよわせ、ユダヤことばを話すポーランド・ユダヤ人の方が、いまなお私には札びらの神々しい輝きに包まれた(ドイツ・)ユダヤ人より好ましいのである


(追記)
夕方のTVニュースで、上記の地震報道をまさに解説しようとしたとき、TV画面に地震速報が表示された。一瞬なんのことか戸惑ったが、このタイミングで新たな地震が発生したと理解した(当地では体感はなかったが)。
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24日19時22分ころ、地震がありました。/ 震源地は、伊豆半島東方沖(北緯35.0度、東経139.1度)で、震源の深さは約10km、地震の規模(マグニチュード)は4.1と推定されます。/ この地震により観測された最大震度は4です。(熱海市)
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2019年6月17日月曜日

ユダヤの歴史を学ぶ-9

燦燦たる陽光、都心の最高気温は 28.7℃(13:15)に達したが、北北西の風に熱気は吹き飛んだよう。景色は澄んで鮮明、実に爽やか。そんな昼ころに、市民講座「ユダヤの歴史を学ぶ」に出かけた。

第9回の今日、東京理科大学講師 山本伸一氏から「オスマン帝国 のユダヤ人とユダヤ神秘主義:ユダヤ社会の変容」の解説をいただいた。

(本ブログ関連:”ユダヤの歴史を学ぶ”)

ユダヤ人は、ポーランドを中心に中欧に拡散したアユケナジム、スペインを基点に地中海(トルコを含む)に拡散したスファラディム、(キリスト教へ改宗した)マラーノなどがいる。その中で、オスマントルコに定住したユダヤ人について紹介された。

① ユダヤ教の伝統回帰
 ・ユダヤ人はオスマントルコ帝国で安定した生活を送る
   - 非トルコ系・非ムスリムに対する「ミッレト制」によりユダヤ人自治が認められた
   - 宮廷に従えたり、商人、医師、貿易商などに従事する
 ・安定した中から、ユダヤ教の伝統へ回帰する
   - ユダヤ人の「シャブタイ・ツヴィ」は自らをメシアと語る
   - イスラエルのガザの「預言者ナタン」は、ツヴィを原理的に最後(死後)まで支援した
   - ツヴィはイスラムに改宗する(アルバニアに流罪の末、そこで亡くなる)
 ・ツヴィの継承者に、ポーランドの「ヤコブ・フランク」がいる

② ユダヤ教の神秘主義(カバラー)
 ・カバリストは、口伝聖書に隠れた10個の神の力を探求した
   - ツヴィ亡き後、ムスリムになった(改宗した)ユダヤ人(ドンメ)たちの末裔が、後の「青年トルコ革命」に関わる
   - トルコ建国の父「ムスタファ・ケマル・アタテュルク」は、かつてドンメの学校で学んだという

ある意味熱狂的な中で変遷したツヴィ、いつまでも彼を見守り肯定したナタンといった、両者の関係は、キリスト教世界にも見られそうだし、今の時代から見ても興味深い。小説家がインスピレーションを受けたというのも分かる気がする。また、ツヴィの流れが、トルコの近代化にどこかでつながっているような、ドラマチックな紹介にも関心が湧いた。

2019年3月14日木曜日

ヘルム

イディッシュの小話に、お馬鹿(阿呆、あんぽんたん)な人々が登場する街(町、村)がある。賢人(町の指導者、宗教的な指導者)といわれる人も、粗忽な者もみなどこかおかしい。大真面目に頓珍漢なのだ。

(本ブログ関連:”ヘルム”(架空の阿呆村))

そんな、お馬鹿な場所の代表が「ヘルム(כעלעם[khelem])」だ。ポーランド語で「ヘウム(Chełm)」と呼ばれる(「L」の文字に斜め線(ストローク)を付けて[w]と発音)そうだ。ポーランド東部の国境沿いにあり、ウクライナに程近い。Wikipediaで歴史をたどれば複雑で、庶民はあっちに属したり、こっちに属したり大変だ。(一方、目鼻のきく知識人(インテリ)は、先読みの嗅覚が鋭く、融通がきき逃げるのも庶民より早い。それを「亡命」と呼ぶ)

ユダヤ人庶民は、そんな目の廻る場所を笑いの場に変えたようだ。お馬鹿なユダヤ人の住む架空の場所「ヘルム」として登場する。(「ヘウムの賢いユダヤ人」Wikipedia)

以前、イディッシュ語の授業で、ポーランドに永く住んだクラスメイトが、テキストに出てくるヘルムの町について、たしかにポーランドに存在するが、そんな理解をしたことはないと怪訝な顔をされた。笑いの場所「ヘルム」は、特定の街をターゲットにしたというより、落語の「長屋」と同様な、ユダヤ人の仮の舞台なのだろう。

「ヘルム」の人々は善良である。ただ融通がきかないだけである。

2019年3月13日水曜日

バスクの食べ物

今日の最高気温は 19.1℃(11:30)。先月(2月)20日の 19.5℃ 以来、今年に入って久し振りの暖かさだ。ただし外では風があり、スギ花粉が舞っている感じがして、外出がためらわれる。鼻水や目のかゆみという花粉症があるわけではないが、湯あたりのような「モワッ」としたのぼせた感がする。

若いころ花粉症に悩んだ。痒さに負けて目を掻き続ければ、必ず結膜炎になった。鼻の穴に小さく丸めたティッシュを詰め込んで鼻水対策もした。そんな経験も、歳をとると感度が鈍くなったせいかさほどでない。とはいえ、この季節はやっかいである。

ところで話し変わって、ポーランド菓子「ポンチキ」のイベントがあったとき、料理写真の著作もある写真家から、バスクに興味があるのなら「サンセバスチャン」の街料理がよいといわれた。ちなみに、Google Mapで都内のバスクレストランを検索すると、港区から中央区にかけてずらりと並ぶ。ユダヤレストランと比べて断然多い。どちらも興味がそそる。

(本ブログ関連:”バスク料理、””バスク”)

平、タイラの両氏が出演する、NHKの語学番組「旅するスペイン語」で、アンチョビ、焼カレイの魚料理、豚の生ハムを食べる回をYoutubeで見たが、そのほか代表的な伝統料理にどんなものがあるのだろうか。バスク地方は、海と山の両方を持つ食材豊かな土地柄といえる。期待がふくらむ。

味覚に言葉はいらない、美味ければみな微笑む。食事はひとを和ませる。百ぺんの会話より一度食事を共にすれば、自然に同じ土俵に立てる。対面して食事することこそ、人間の最大の特徴だから・・・今度、仲間と行ってみようかな。

2019年3月1日金曜日

ポンチキ祭り

イディッシュ語教室にポーランドと縁のあるクラスメイトが多数いた。ワルシャワの音楽祭に参加したクレツマー音楽家たち(二人)、またワルシャワ滞在の長かったピアニスト、さらにポーランド語が堪能な不思議な若者(院生)の方々だ。授業でも、先生からポーランドに関連する書物の紹介があったりして身近に感じた。

(本ブログ関連:”ポーランド”)

昔、ポーランドが勢力を拡大したころ、ユダヤ人が多数が居住したこともあり、イディッシュ語とポーランド文化(語彙や地名など)との関わりは深かったようだ。授業で、食べ物の話題があれば、ポーランド菓子が語られたりした。

以前、外語大の「外語祭」を訪れたとき、学生たちが(多分専攻の言語に合わせて)国別のテントを並べて、その国独特な軽食や菓子を販売していた。ポーランドの模擬店では、「ラズベリージャム入りのドーナッツ『ポンチキPączek)』」(日本では当り前の菓子になっている)が売られていた。さっそく求めて食した。

(本ブログ関連:”外語祭”、”ポンチキ”)

ところで、今日、このポンチキを主題に「ポンチキまつり」が、京王線「柴崎駅」近くにある「ポンチキヤ」*(ポーランド大好きな店のよう)で開かれた。興味しんしん、この機会に出かけてみることにした。

(*)ポンチキヤ: http://poland.saleshop.jp/

若者客が(立錐の予知もないほど)集って、居場所を探すほど。同世代と思われるおじさんと相席したところ、聞けば同じ年齢。食べ物を中心に撮影する写真家とのことで世界を巡られたようだ。ポーランドの食べ物でだけでなく、いろいろな国の料理も聞かせてもらった。まさにアーチストの見本のような生き方の人だった。
店の中心にロシア人男性がいて、モスクワの都市生活者の基本的な家庭料理をたずねれば、スープの「ソーリャンカ」がまさにソウルフードとのこと。(ポーランド料理でいえば「ジュレック」に当りそう・・・らしい)
そこへ、中国からの留学生が参加して、アジア(ツングース語から東南アジアの諸言語)だけでなくヨーロッパ(当然ポーランド語やロシア語も含めて)の言語について、縦横無尽さまざま教えてもらった。学問的関心は、中国古代の音韻学という・・・もうお手上げ。

幸運に、ユニークな名の「ポンチキまつり」で、素晴らしい人々と出会うことができた。

(さてこれから、土産に買ったスモークド・オイル サーディンを食べてみようか)

2019年1月8日火曜日

イディッシュの歌

イディッシュの歌を弾いてという曲、「שפיל זשע מיר אַ לידעלע אין ייִדיש(Play me a little yiddish song)」があります。ブログ「AntiWar Songs」の解説によれば、1930年代の曲で、作詞Yosl Kotliar (1908-1962、ソヴィエト)、作曲Henech Kon(1890-1972、ポーランド)のようで、曲自体はかなり前の作曲ということです。
(קלעזמערל = Musician、pl:קלעזמאָרים)

どうやら、老いも若きも元気で楽しく歌おうといった、願いを込めた歌のようですが、詳しいことは、イディッシュ語教室で教えてもらうことにしましょう・・・。


(Youtubeに登録のThe Soul of Jewish Musicに感謝)

2018年11月23日金曜日

勤労感謝の日 2018(大学祭)

今日は収穫を感謝する宮中の祭祀「新嘗祭」であり、一般に勤労を感謝する祝日「勤労感謝の日」として知られる。アメリカの「感謝祭」(11月第4木曜日)と同様、収穫に感謝する。
ゆるい陽射しの中、先日(11/19)のブログで触れた、東京外国語大学の「第96回 外語祭」に出かけた。午後3時過ぎ、構内は大勢の客であふれていた。

(本ブログ関連:”勤労感謝の日”、”外語祭”、”学園祭”、”大学祭”)

まず人混みを避けて、会場奥手から覗くことにした。中央アジアのウズベキスタンやキルギスタン方面に関心ある学生たちが開く売店や展示イベントを訪ねた。

現地留学した学生が収集した、ソ連時代のピンバッチが多数販売されていた。その中にロシア・ソ連の詩人「セルゲイ・エセーニン」のものがあって購入した。なるほど詩人の人気振りがうかがえる・・・でも、どんなタイミングで着用するのだろう。

(本ブログ関連:”エセーニン”)

また、学生たちが保存・管理しているキルギスの民が草原で使用する(テント中央に支柱を用いない)移動式住居「ユルタ」に入って、住居の解説を聞く。合わせて、ウズベキスタンの二弦楽器「ドゥタール」他の演奏を聴く。(素朴な伴奏楽器の気がしたが・・・Youtubeを「uzbek dutar」で検索すれば凄い)

ところで、回廊施設下に展開された数ある屋台のなかで、チェコ関係の売店があり、なぜかポーランドのホットチョコを売っていた。ホットチリペッパーを足して飲む。売り子の学生から、昨年、イディッシュ語を学んだと話を聞いた。

次に、ポーランド関係の売店で、代表的な菓子であるラズベリージャム入りのドーナッツ「ポンチキ」を求めて食べてみれば、どこかで口にした記憶がよみがえる・・・というか、日本で当り前に口にする菓子だと思った。

(余談)
菓子ポンチキは、Wikipediaによれば「ポンチェック」の複数形とある。関係ないけど、韓国にトロットから派生したというべき元気な音楽に「ポンチャック」がある(歴史から消されそうで心配・・・Youtubeでご覧あれ)。歌手のイ・パクサを見るたび、ジャンルは違うが、千葉県の「ジャガーさん」を思い出す。

2018年9月27日木曜日

Beer Cellar Tokyo

狛江市にある「クラフトビール」と「サイダー(シードル)」の店「Beer Cellar Tokyo」にイディッシュ語学習仲間が集った。全員集合前に、教科書内容について熱心な受講者の質問タイムがあり、同席聴講させていただいた。この夏の不勉強を感じて喉が乾いた。

おかげで、皆と乾杯するときには、ビールの味はひとしお。喉にしみた。

いわゆる、缶ビールで知った、大手各社に共通の風味と違って、香りも味もあっさりして飲みやすい。1つ2つと銘柄を変えたものの、そのうちアルコール度数が恋しくなり、濃い物を頼んだ・・・。最後は、サイダー(シードル)でしめたけれど。

(本ブログ関連:”ビール”)

店まで、都下を東西に平行して走る3本電車路線を、南北に通り抜けて行くのに少々手間取った。最適な道順を知らないからだ。ジョルダンの「乗換案内」ツールを参考にしたものの、日頃遠出していないため足元がふらつき、冷えた日にもかかわらず汗が止まない。そんなこともあって、ビールがとても美味かった。

今回のビール会は、もう一つ大きな理由がある。クラスメイトであるミュージシャンが、この夏にポーランドで開催されたクレツマー音楽祭に日本(アジア)を代表して参加された。野外ステージやコンサート会場で、イディッシュ語で歌ったことから、現地のイディッシュのひとびとが大きな感動を覚えたようだ。そのときの様子を、プロジェクターで投影して紹介された。

先生のご家族、これから秋期コースに参加される方、夏期コースに参加された方々が集った。アルコールの力も手伝って和気藹々。勢い、イディッシュ語への取り組みを再確認した次第。秋期コースが楽しみだ。

2018年7月19日木曜日

春期イディッシュ語 2018-14th

さすがにここ連日の暑さには参った。テレビのキャスターが、「身の危険を感じる」ほどと語ったときには、思わず同意して吹き出した。確かに、この暑さに悪意まで感じる。というのは、「イディッシュ語教室」へ出かける途中に寄った図書館から出た瞬間、熱風に襲われた・・・そう思うほどだった。

とはいえ、通い道で太陽を直接浴びるのはわずか。電車、地下鉄がほとんどのため、それほどじゃない・・・はずだが、帰宅してみればシャツに汗が滲んでいた。

(本ブログ関連:”春期イディッシュ語 2018”)

授業は、先生の特徴ある<イラスト>をまじえてストーリー解説など工夫いただいた。

① 先生がイスラエルで入手されたテキスト「ייִדיש  צום נײַעם לערן ־ יאַר」(続き)
  ・(学校で歌い、帰宅しても歌と踊りを楽しむなど)トピック別に順に読みつぐ

② 基本テキスト「Colloquial Yiddish」(続き)
  ・ダイアログ:(仮題)「דער כּלהס ברודער און די געסט(結婚式の兄と来客たち)」の輪読とロールプレイ
  ・登場人物の関係を、先生の<イラスト>*で理解できました! (* ご了解を得ずリンクしましたこと深謝します
  ・ユダヤ教のHasidik(ハシデイック)とChabad(ハバッド)のイメージについて


(受講者からの話題)
・goodの「גוט」を「gid」と発音する場合がある・・・ポーランド語の影響ではと紹介。
   - 入門者は真似しないようにとのこと。

2018年7月12日木曜日

春期イディッシュ語 2018-13th

年々、行動範囲の同心円が狭まっている。それを突破するのに、毎週木曜日の「イディッシュ語教室」は貴重な機会である。通学に使う地下鉄の「1/f」揺れに、大いにリラックスさせてもらっている。

先週(7/5)、振り替え休講だったため、ひと心地ついたはずなのに、怠け癖があってか予習を忘れたりして・・・間抜けな話だ。

(本ブログ関連:”春期イディッシュ語 2018”)

授業は、先生が先日出席されたイスラエルでの研究会の話題をまじえて工夫いただいた。

① 先生がイスラエルで入手されたテキスト「ייִדיש  צום נײַעם לערן ־ יאַר」の続き
  ・トピック別に順に読みつぐ

② 基本テキストの読み物「די עלטערן פֿונעם בעל ־ שם ־ טובֿ און אליהו הנבֿיא」(Ba'al Shem Tov の両親(となる夫婦)と予言者Elijah)の輪読

③ テルアビブで開かれた研究者の会議の様子を、一般向けに楽しく聞かせていただいた。
   ・研究者の紹介から人柄が知れて、ぐっと身近に感じられた


(受講者からの話題も楽しい)
・上記②の予言者(Elijah)に相当する、中国の仙人「呂洞賓(りょどうひん)」・・・中国古典に造詣の深い受講者から
・ワルシャワの都市地図から歴史的な場所の紹介・・・ポーランドの経験が長い受講者から
・人間が土のちりでできていること(「創世記」2章7)・・・キリスト教の古典に造詣の深い受講者から

2018年7月1日日曜日

ニールセダカの「バラライカを弾き鳴らそう」

昨日で6月が終わり、今年の半分を消化したことになる。一年をリンゴの実に例えるなら、半分喰ってしまい、残り半分しかない。時のあっけなさに驚くばかり。とはいえ、私としてはただ凡庸に過ごすだけ。7月1日の今日もいつ通りである。

それに比べれば若者は違う。チャレンジは常に新しく、明日に、未来につながる。そんな若者たちの情熱を歌った、「ニール・セダカ」のイディッシュ民謡に「バラライカを弾き鳴らそう(Tumbalalaika)」がある。Wikipediaに「Tumbalalaika」の項があり、イディッシュ語と英語の対訳が並んでいる。
(題名に楽器バラライカがあることからロシア系ユダヤ人の歌のようで・・・、ニール・セダカの母はポーランド・ロシア系ユダヤ移民だったとのこと)

(本ブログ関連:”ニール・セダカ(ניל סדקה)”)

若者は愛に確信を持ちたい一心から、不安を打ち消すように、夜にバラライカを弾き鳴らす。そんな高揚した彼の想いに、彼女は応えてくれる。雨がなくても石は固まる、燃え上がった愛は消えることはない、そして憧れに涙はいらないと。バラライカの音を中心に、若い男女の情熱が回るようだ。

若者の問いかけの最初に「雨がなくても育つものは何?」とあり、それに対する女性の応えは「雨がなくても石は育つ」とある。雨と石? 果たしてその関係は。

(本ブログ関連:”石の世界”)(追記:”石が育つこと”)

(イディッシュ語と英語をまじえて歌う)

(Youtubeぶ登録のgrease52に感謝)

2018年6月29日金曜日

梅雨明け2018

昨日、「梅雨明けしたのではないか」という放送キャスターの発言をブログに記した。もうちょっと、様子見かなと思った矢先、何と本日、気象庁から関東甲信の梅雨が明けたと発表されたのだ。

日本気象協会のtenki.jpの記事「関東甲信 早すぎる梅雨明け 6月は初めて」(6/29)は、関東甲信の梅雨明けが、(観測史上)一番早いと次のように報じている(抜粋)。
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6月の梅雨明けは初めて
・きょう29日、気象庁は関東甲信地方が梅雨明けしたとみられると発表しました。平年(7月21日ごろ)より22日早く昨年(7月6日ごろ)より7日早い梅雨明けです。関東甲信地方が6月に梅雨明けするのは初めてのことです。(これまで関東甲信地方で最も早く梅雨が明けたのは2001年の7月1日でした。)
梅雨の期間(梅雨入りした6月6日から梅雨明け前日の6月28日まで)の日数は23日と、1978年(6月11日から7月4日まで)に並んで1番の短さです。
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(参考)関東甲信の「梅雨入り」
・6月6日ごろで、平年(6月8日ごろ)と比べて、平年差は2日早く、昨年(6月7日ごろ)と比べて、昨年差は1日早い。

(参考)今年(平成30年)の「梅雨明け」
地方平成30年平年差昨年差平年昨年
沖縄6月23日ごろ同じ1日遅い6月23日ごろ6月22日ごろ
奄美6月26日ごろ3日早い3日早い6月29日ごろ6月29日ごろ
九州南部7月14日ごろ7月13日ごろ
九州北部7月19日ごろ7月13日ごろ
四国7月18日ごろ7月13日ごろ
中国7月21日ごろ7月13日ごろ
近畿7月21日ごろ7月13日ごろ
東海7月21日ごろ7月15日ごろ
関東甲信6月29日ごろ22日早い7日早い7月21日ごろ7月6日ごろ
北陸7月24日ごろ8月2日ごろ
東北南部7月25日ごろ特定しない
東北北部7月28日ごろ特定しない


ところで、サッカーのワールドカップで、(昨晩深夜を境に昨日と今日に続いた)「日本対ポーランド戦」は、0-1で敗退したものの、第3戦(決勝トーナメント)への切符を、他チーム(コロンビア対セネガル戦)の試合結果から入手できた。イエローカードやレッドカードの数(ファエプレーポイント)により、最終判定されたからだ。

にわかファンにとって、試合が次へ進めば楽しみも増えるわけで、子どものころ美味しいおかずを残す習性を持った私は、第3戦を展開できることに大満足している。

2018年6月7日木曜日

春期イディッシュ語 2018-8th

「イディッシュ語教室」は語学以外にも得るものが大きい。今日も授業の始まる前、クラスメイトが持ち寄った江戸以降の和綴じ古書(為永春水ほか)を見せてもらった。変体仮名をすらすらと読んで聞かせられて、楽しくなる。

(本ブログ関連:”春期イディッシュ語 2018”、”イディッシュ語”)

春期コースの後半、クラスメイトが入れ替わり、イスラエル、英国、そしてポーランドへ行く。おじさんは、しっかり日本で留守番する(羨ましい)。

さて、今日も授業は順調に進んだ。
① 前回(5/31)の文法のまとめ(主格:Nominative、与格:dative、対格:Accusative、および形容詞の接尾辞)
  ①-1.復習
  ①- 2.Exercise(イディッシュ語の綴り順)
      ・名詞(性)+ 定冠詞 + 前置詞 + ・・・
      ・名詞(性)+ 形容詞 + 定冠詞 + 前置詞 + ・・・
② Dialogue の読み取り
      ・風邪に苦しむ青年を心配した女性の友だちに対し、青年は心配いらない・薬はちゃんとあると言い訳する・・・。
③ (定冠詞 + 前置詞)の「縮約」(イディッシュ語の綴り順)
  ③-1.名詞(性)+ (定冠詞 + 前置詞)
④ 先生の訳例
  ④-1.ショーレム・アレイヘムの「嘆きの壁כּותל-מערבֿי:Koysl-Maarovi)」から
      ・イスラエルの地を踏んで「嘆きの壁」に接した人から話しを聞いたラビは、感激の余り子どもたちへの授業が中断する・・・

(付記)
地下鉄の乗り換え駅に、毎週、日本各地の物産展が開かれている。そのたび、ちょいちょい覗いては(主として食品だが)名産品を買ったりする。今日は、南九州の物産展で、特産品の「ボンタンアメ」と「甘夏みかん(砂糖)漬け」*を購入した。ボンタンアメには、すぐに昭和へ戻ることのできる懐かしさがある。

(*)砂糖漬けは、「ボンタン」が名産だが、今回は横に並んでいた「夏みかん」にした。