南西諸島から西日本まで、梅雨が明けたようだ。東京の天気予報を見ると、これから晴れの日がしばらく続きそう(ただし来週末、怪しくなる模様だが)。平年通り、7月19日ころに「梅雨明け」になるかもしれない。
長雨から解放され、からっとした気分に戻りたいものだ。
歳時記を見ると、夏の季語が多いにもかかわらず、野鳥はどうやら限られている。夏の始まりを伝える「ほととぎす」、古式漁法の鵜飼の「鵜」が目につくくらい。現代俳句ではもちろん多様だろうけれど。
ここしばらく晴れ空が戻ってきそうなので、野鳥に限らず陽気なものを探してみたい。
今回は第八巻、「第八 折々のうた」(大岡信、岩波新書)に、連句の中からユニークなものを選んだ、「武玉川(むたまがわ)」*(江戸時代中期の俳人 慶紀逸(けいきいつ)選、寛延3年(1750年)~文化年間 )に掲載されたものだ。
(*)武玉川: 「連句」のお題としての「前句(五七五)」に対して応募した「付句(七七)」から主に選択しているとのこと。
(本ブログ関連:”折々のうた”)
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魂がないと此世(このよ)は面白し (武玉川)
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「第八 折々のうた」で、こんな解説がされている。「なまじ魂などいうものがあるから、反省も後悔もする、いっそ魂などなかったら、どんなに面白おかしく暮らせるだろう」として、他の詩歌などと比べて「俳諧の自由さがよく出ている」と記している。
ところで同書(第一刷)に、この連句について「一体どういう情景を受けて作られた付句だったのだろう」という記述があるが、五七五の構成から、「付句」ではなく、「前句」が適切だったと思うのだが・・・。それとも、この句の前の句に対しての付句だったのか?(前後関係を知らず、暴論だったかもしれない) → 以下、Gemini に確認した結果を追記する。
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> Gemini より
『武玉川』に収められているような「前句付(まえくづけ)」のゲームにおいて、その役割は以下のように固定されています。
● 前句(お題): 「思ひ出しては動くシテツレ」(七・七の短句)
● 付句(解答): 「魂がないと此の世は面白し」(五・七・五の長句)
つまり、あらかじめ出題された七・七(前句)に対して、後から機知を利かせて付けられた五・七・五の側であるため、「魂がないと〜」は付句と呼ぶのが正解です。
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(追記)
「魂」を宗教的にいえば、本来的に仏教的でないのだが、江戸の人がそれをどの程度重きを置いて語ったのか気になる。もしかしたら、現代人のいう個人と等しいものというより、先祖につながるものだったかもしれない・・・。