近所の民家の庭先に、柿の木が実をたわわに膨らませている。まだ完熟前だが、冬近くになって刈り取られる。中には、寒冬を迎える野鳥のために、エサとして其のまま残していることがある。何度か、そのような光景に出会って、主(あるじ)の心配りが見えたような気がした。
(本ブログ関連:”柿の実”)
とはいえ、最近の <クマ問題> を考えると、柿はかれらの格好のエサとなるし、八王子市や秦野市にツキノワグマが出没しているのを聞いて、クマよりいっそ早く食ってしまった方がよいのではと、余計なお節介をしてしまう。
江戸元禄期(17世紀末〜18世紀初頭)の人々を中心にした「古句を観る」(柴田宵曲、岩波文庫)に、庭の柿の実を気にしている次の句がある。本文にある、作者の <宜律> についてどう読むのか(「ぎりつ」?)、あるいはプロフィールの説明がない。(Gemini は或る人物を挙げているが、他方、検索 Labs や ChatGPT は分からないとしている・・・そのため、宜律とだけにとどめる)
------------------------------------------
縁(えん:縁側)に出て手をうつ柿の烏(カラス)かな (宜律)
------------------------------------------
宵曲の解説によれば、<柿に烏> は相当あり触れた題材で、烏を追うという趣向も少くないとして、次に記している(青空文庫:「古句を観る」)。
------------------------------------------
(宜律の句以外に)
•「柿を守る吝(しわ)しき法師が庭に出でてほう/\といひて烏追ひけり」という子規居士の歌もあり、
• 漱石氏はまた(小説)『野分』の一節にこれを用いて、(登場人物)道也先生をして「蛸寺の和尚が烏を追っているんです。毎日がらんがらんいわして、烏ばかり追っている。ああいう生涯も閑静でいいな」と評せしめている。
柿の烏を追う方法もいろいろあるらしい。この三種*の中では、(宜律の)縁へ出て手を打つのが最も消極的のようである。
------------------------------------------
(*)三種: 子規、漱石、宜律 の3通り。ある意味、宜律の句は穏やかである。
■ Google検索 Labs より抜粋
------------------------------------------
柴田宵曲の『古句を観る』は、松尾芭蕉のような有名どころではなく、あえて歴史に埋もれて忘れ去られた無名作家たちの優れた日常句(古句)を取り上げて評釈した随筆です。そのため、宜律個人の詳細な生涯や生没年、経歴といった具体的な伝記データはほとんど残されていません。
宜律の句
「縁に出て手をうつ柿の烏かな(えんに出て 手を打つ柿の からすかな)」
• 句の意味と背景:
秋の日、縁側に出てパチパチと手を叩き、庭の柿の木にやってきて実を突つこうとする烏(カラス)を追い払った、というごく当たり前の日常のひとコマを詠んだものです。
• 柴田宵曲による評価:
著者の柴田宵曲はこの句を高く評価しています。烏を追い払う方法はいろいろありますが、「縁側に出て手を叩く」というのは最も消極的でのんびりとした方法です。宵曲は、後世の正岡子規や夏目漱石の作品に見られる烏追いのエピソード(大声を出す、ガラガラと音を鳴らすなど)と比較しながら、宜律のこの句には、生活に密着した「閑静でのどかな暮らしぶり」がよく表れていると評しています。
当時の流行や技巧に走らず、自分の生活の延長線上にある自然な光景をそのまま五七五に落とし込んだ、素朴で風流な暮らしを送っていた人物であったことが窺えます。
------------------------------------------
■ ChatGPT
------------------------------------------
『古句を観る』のこの箇所から確実にわかるのは、宵曲が宜律の句を、柿を荒らす烏を追う日常の一場面を捉えた作品として紹介していることです。
しかし、宜律の本名、生没年、居住地、師匠や所属する俳諧流派までは、この記述からはわかりません。
なお、この句で私が特に興味深いと思うのは、烏を追うという何でもない動作を、余計な説明や感情を加えずに詠んでいる点です。宵曲もまた、奇抜な趣向を評価するというより、こうした句に描かれた生活の実感を読み取ろうとしているように思います。
------------------------------------------










