快調に歩けるようになった。健康体操教室のトレーニングの成果だろう・・・負荷の少ない地味なストレッチ運動中心のおかげか、歩きに疲労感がなくなったのだ。遠くの街で開かれている市民講座「ユダヤの歴史を学ぶ(第2部)」へ通いながら実感した。
(ところで帰りの電車で、若者が席を譲ってくれた・・・最近、歳相応に感謝して座るようにしている)
(本ブログ関連:”ユダヤの歴史を学ぶ”)
今年前期の「ユダヤの歴史を学ぶ(第1部)」(7/8)で 、<アメリカへ渡ったユダヤ人>を解説をされた、東京大学准教授の鶴見太郎氏から「ソ連におけるユダヤ人の生き方」についてうかがった。
帝政ロシア・ソ連時代に、ユダヤ人がどのように生き抜いたかを次のように紹介された。
ポグロム: ロシア革命内戦期に発生したユダヤ人排斥の結果
・ユダヤ人はボリシェヴィキ支持へと傾倒していった
- 1919年、キエフのチェーカー(秘密警察)の75%がユダヤ人だったという推計も
・一方、ユダヤ人に「シオニズム運動」を招くことになる
ソ連体制下: 民族政策の変転
・帝政時代の居住制限から、ソ連時代の当初、移動の自由があった
- イディッシュ語(文化)の普及政策
a.ボリシェヴィキのユダヤ人セクションにいた女性エステル・フルムキン(Esther Frumkin)は忠実に実施
⇒ 1940年、シベリアの収容所に送られ粛清される
b.ユダヤ人自身は、ソ連社会との融和が難しいと判断して敬遠する傾向にあった
c.ユダヤ自治州(州都ビロビジャン)に定着させる: 防衛上、農業定着
⇒ WWⅡ後、3万人に達したが、現在は2,000人程度
・WWⅡ
a.「ホロコースト」(略)
b.1942年、西側ユダヤ人に対し、ソ連支援のため「ユダヤ人反ファシスト委員会」を結成
・WWⅡ後
a.スターリン時代
⇒ 上記ユダヤ人反ファシスト委員会関係者の暗殺・逮捕
⇒ 反ユダヤ主義の立場から、ユダヤ人の活動を「ブルジョワ民族主義」と呼んだ
b.スターリン以降
⇒ イディッシュ語(文化)の名目上の復帰
・1967年「第3次中東戦争」、アラブ支持のソ連でイスラエル・シオニズム批判が起る
・海外(イスラエルおよび諸外国)への移住希望者が増大
a.1989~98年、ソ連圏から120万人(内実質のユダヤ人は80万人)が出国
⇒ 1970~97年、ロシアから30万人が出国
⇒ 1970~97年、ウクライナから42万人が出国
(感想)
イスラエルにおける、ロシア語話者*のユダヤ人が多数いるという。
(*)Russia Beyond「さまざまな情報源によると、ソ連・ロシアからイスラエルに移住した人でロシア語を話すのは、25万〜50万人だ。米フォーブス誌の試算では、2017年時点でイスラエルのロシア語人口は150万だった(同国の総人口は約860万人)」( https://jp.rbth.com/lifestyle/80162-sekai-no-roshiago-jinkou-wa-dono-kurai )
彼らがイスラヘル移住を決めた理由を知りたい。ソ連時代のロシア人だって大変な経験をしているのだから、ユダヤ人はもっと厳しい経験をしただろう。
東欧のポーランドの田舎町や村(シュテットル)にユダヤ人が多数いたことは、ポーランドやリトアニアの歴史から推察できるが、ロシアにどうして住むようになったのかも知りたい。