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2018年12月28日金曜日

イ・ソンヒの娘

普通でも娘と父の関わりはむつかしい。それぞれの家庭に歴史がある。イ・ソンヒには、ひとり娘のユン・ヤンウォン(父姓はユン)*がいる。この娘にとって、父との関係は、幼くして父の死との出会いであり、その後、母イ・ソンヒが再婚した義理父との関係など、複雑な境遇にある。実際、韓国で暮らす両親とは別に、アメリカで単独生活しているようだ。
また、イ・ソンヒの場合も、僧侶**の娘として生まれた結果、子ども時代にいじめにあい、苦しい立場を経験している。イ・ソンヒと娘ともどもに、父親との関係でいろいろ想起させられるものがある。

(*) ユン・ヤンウォン: 彼女の父はユン・ヒジュンで、かつてイ・ソンヒのマネジャーであり曲作り(作詞・作曲)をした。ユン・ヒジュンは、イ・ソンヒの最初の結婚相手だったが、6年後に離婚、事業に失敗との説があり、服毒自殺している。

(**) 僧侶: 韓国仏教の主流宗派は僧侶の妻帯(韓国では帯妻)を認めていない。戦後の韓国仏教の党派性の原点ともいえる。イ・ソンヒの父は、明治以後に日本の仏教の影響による妻帯を認めた宗派に属し、仏教音楽の「梵唄」を指導したといわれる。

(本ブログ関連:”スペック”、”イ・ソンヒの娘”、”妻帯僧”)

現在26歳のユン・ヤンウォンは、米コーネル大学卒業***後、同大でジャーナリズムを勉強中という。子の成長を見守る母が語るSBSのテレビ番組「憎たらしいうちの子ども(미운 우리 새끼)」で、イ・ソンヒは、現在26歳の娘について、大学で長く勉強を続けて欲しい、結婚が少し遅れてもよい、いろいろな経験をして欲しいなど述べているとのこと。番組中、娘との関係について様々ないきさつを縷縷語ったようだ。

(***) 米コーネル大学卒業: イ・ソンヒと娘を交えたコーネル大学卒業式でのFB掲載の写真がある。
https://www.facebook.com/leesunheePH/posts/congratulations-to-sun-hees-daughter-who-just-graduated-from-cornell-university/196766714379526/

(参考)韓国ブログ「イ・ソンヒ 娘ユン・ヤンウォン 公開」
イ・ソンヒと娘の関係についてテレビ番組で語った話題をもとに、さらに(多分、過去ニュースを渉猟して)時系列風に紹介しているようだ。
http://gabrialno.tistory.com/271

2015年3月20日金曜日

(資料)「【パク・ソンソ評論】 韓国最高のディーヴァ、イ・ソンヒを再び聞く」

今年1月、イ・ソンヒが1984年の「江辺歌謡祭」に登場して翌年発表した第1集アルバム「あ! 昔よ(아! 옛날이여)」(1985年)のリマスター版(JCDS0824)が発売された。そのとき、このアルバムについて解説された記事がネットにあって、本ブログに紹介させていただいた。

(本ブログ関連:”(資料)イ・ソンヒ「1集(REMASTERING ALBUM)」の紹介”)

大衆音楽評論家・ジャーナリストのパク・ソンソ氏の評論で、リマスター版登場の意義を、彼女の衝撃的なデビューとその才能、国民からの支持について、振り返る意味で記されたものだ。

イ・ソンヒの初期アルバムが、続けてリマスタリングされている2集、3集についても、以下の記事のようにパク・ソンソ氏の評論がなされている。イ・ソンヒの2集以降、デビュー当時の活躍も含めて論評が、NewsMakerの記事、「【パク・ソンソ評論】現 大韓民国 最高のディーヴァ(歌姫)、イ・ソンヒを再び聞く」(3/5)として掲載されている。

特に、イ・ソンヒ最大級のヒット曲である「分かりたいです」登場に直接関わった作詞家、作曲家とのインタビューもあり大変興味深い記事になっている。

(重複部分である第1集リマスター版の解説部分は上記リンク先を示してあるので、後述部分を次のように載せていただく。感謝)
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「8090熱風(80年代、90年代ブーム)」と共に「イ・ソンヒ再び聞くブーム」 - デビュー30年、イ・ソンヒのデビュー当時のレコードを再び聞き直す

改めて、「8090熱風」に加え、「イ・ソンヒの再リスニング」ブームである。
再び、歌謡界の原動力となっている、8090曲の単純な記憶の中の歌ではなく、
実際に、多くのオールドファンに思い出という新たな響きを満たしてくれている、
デビュー30年、しかし今も相変らず「少女」のような姿に透明な音色の、
そして、一層深くなった感性・・・イ・ソンヒは、ますます音楽愛好家の関心が高まる不思議な魅力の所有者だ。

特に、最近の世界的な傾向である、リマスタリング(Remastering)アルバムの発売ラッシュに合わせて、イ・ソンヒのデビュー当時のアルバム1、2、3集もすべてリマスタリング、再発売されるところになった。
このアルバムが発表された1980年代、わが国の大衆音楽界にも新しい変化を繰り返していた。
特に、当時の男女歌手の最高のスター、チョー・ヨンピルとイ・ソンヒによって、わが国大衆音楽の地図が「ポップの時代」から「歌謡の時代」に転換し始めたのがそれ。
最近のある調査で、40~50代中高年のための「土土歌(MBC「土曜日、土曜日は歌手だ」)」を作成するならば、最も見たい歌手Top3に、チョー・ヨンピル、イ・ムンセ、イ・ソンヒがそれぞれ選ばれた。
かように、彼らのその何がオールドファンを今でも熱狂させるのだろうか。
デビュー当時の、イ・ソンヒのアルバムを探して、再び聞いてみる。

(文、パク・ソンソ大衆音楽評論家、ジャーナリスト)

■ イ・ソンヒ1集、デビュー30周年を迎えるイ・ソンヒ 初のソロアルバム「あ!昔よ」

(略)本ブログ掲載の”(資料)イ・ソンヒ「1集(REMASTERING ALBUM)」の紹介”に相当します。


■ イ・ソンヒ2集  イ・ソンヒ再発見、10代若者のスターから万人の恋人に浮上する

「イ・ソンヒ2集」は、無限の変化を繰り返している、現在のイ・ソンヒに最も近いアバター(avatar)だ。現在のイ・ソンヒの歌には慣れ親しんでいるものの、初期の歌が多少馴染み薄い今の世代、すなわちニンジン(イ・ソンヒのファンクラブ)たちには、「デジャヴ(既視感、deja vu)」が強く感じられそうだ。様々なジャンルの歌でも、「絶対音感の所有者」という評価とともに、シンガーソングライターとしての第一歩を踏み出したアルバムだからである。

1984年、デビュー初年、MBC 10代歌手賞、新人賞、最高人気歌謡賞を総なめし、3冠王に上がったイ・ソンヒ、これに対し専属会社<地球(レコード)>は、「10代だけのスター」から「全国民的に愛を受ける歌手」にするために、ソン・ジュホ作曲の歌で満ちあふれた「1集」からの軌道を旋回、当時のヒットメーカー作家を大挙参加させて、二番目のレコード制作に入る。

「秋の風(갈바람)」(チョン・ウンイ作詞、ナム・グクイン作曲)、「ケンチャナ(괜찮아、大丈夫)」(パク・ゴンホ、イ・ボムヒ)、「貧しい恋人のために(가난한 연인을 위하여)」(イ・ギョンミ、イ・ヒョンソプ)、「ソウルの夜(서울의 밤)」(ハ・ジヨウン、イ・ホジュン)、「そうです、誤りは私にあります(그래요, 잘못은 내게 있어요)」(チュ・セホ、チョン・ギョンチョン)などをはじめとして、イ・ソンヒ本人作曲の「風の中で(바람 속에서)」まで。

「デビューから5ヶ月だけで、10代歌手賞を受賞するほどの大型歌手としての力量が十分だったんですよ。音感も非常に良かったし。そして、『江辺歌謡祭の1等』より、『歌謡界全体の1等』を作らなければならないという考えでヒットメーカーを動員、様々なジャンルで幅を広げましたよ。また、本人が直接作った曲はもちろん、(イ・ソンヒ)本人が歌いたいと持ってきた『後悔(후회)』まで多様に収録しました。」と、アルバムA&R(Artist&Repertoire)を務めたイム・ソクホ、当時文芸部長の言葉だ。このように幅広いジャンルを試みた「イ・ソンヒ再誕生プロジェクト」は、すぐに続く3集の収録曲「分かりたいです(알고 싶어요)」(ヤン・インジャ作詞、キム・ヒガプ作曲)などで絶頂に達する。

去る2012年、イ・ソンヒはある媒体とのインタビューでこのように明らかにした。 「これ(2012年)まで、音楽的関心や趣向がずっと変わってきましたよ。子供の頃は、音楽の海が無尽蔵なことをそこまで知らなかった。しかし、デビュー以来、私が手にしたものが全てではないということに気づいたでしょう。意地がちょっと強いけれど、心を開いて受け入れるのも分かります。他の人たちがこの音楽が好きだ、あなたのものにしてみろ・・・ そのように薦めれば、ためらわず受け入れました。」

作曲家なら誰も曲を与えたいこのシンデレラについて、「2集」参加の作家はこのように評価する。

「声において非常に原則的な歌手です。基本的な発声、正確な拍子はもちろん、感情を節制しながらも、音そのものを堅固に出す、きれいな声を持った歌手でしょう。そういう少女的感性を生かしたくて『そうです、誤りは私にあります』の歌詞を書きましたよ。」 - 作曲家チュ・セホ。

「歌詞と意を正確に伝達する優れた歌手です。歌詞の感情を適切に表現する点も高く評価したいです。」 - 作詞家イ・ギョンミ。

「音色自体に豊かな感性が含まれている不思議な魅力の所有者でしょう。中 - 低 - 高音域、どの音域でもブレのない歌唱力、そのような利点を生かしてあげたくて、『貧しい恋人のために』と『希望(소망)』を作りましたよ。」 - 作曲家イ・ヒョンソプ。

今から30年前の85年11月に発売された、このレコードジャケットとジャケットに入っているブロマイドも当時話題になった。俗称「おばさん(アジュンマ)パーマ」という、いわゆる「滝(폭포)パーマスタイル」で、<江辺歌謡祭>に初めて姿を現したイ・ソンヒが、いつのまにか10代の少女たちに「イ・ソンヒそっくり(따라하기)ブーム」を起こらせた、「トンボ眼鏡にカットヘヤのキャラクター」を存分に誇ったアルバムだからである。この写真は、現在のドキュメンタリー写真家キム・ヨンボムが当時ファッションとロマンのメッカであった梨大(梨花女子大)入口を巡って撮影したものである。

純粋さ、それ以上この歌に込められてまだドキドキがそのまま感じられる、イ・ソンヒだけのアナログ的感性、その深い響きがファンにどのような感動的に近付くかとても気になる。


■ イ・ソンヒ3集、最高のArtistが集まって作ったイ・ソンヒの力作、その美しいラブソング

新たに「8090熱風」と共に、「イ・ソンヒの再リスニング」ブームだ。耳を傾けるほど、清らかで透明な音色に盛り込められている感性の深さが違うためだ。再び歌謡界の原動力となっている8090曲の、単純な記憶の中の歌ではなく、実際に多くの人々にとって思い出となり、80年代と90年代をまた他の響きで満たしてくれている。

このアルバムが初めて発売された1986年11月、大衆音楽界も新しい変化を重ねていた。特に、当時の男女歌手最高のスター、チョー・ヨンピルとイ・ソンヒなどによって、韓国大衆音楽の支配権が「ポップの時代」から「歌謡の時代」に転換し始めたのがそれ。

「イ・ソンヒブーム」を起こしたこのアルバムは、当時の最高のアーティストたちが大挙参加した力作である。そのラインナップを見ると、「A&R(Artist&Repertoire)_イム・ソクホ/ Violin_キム・ドンソク/キム・ジョンサン、イ・グァンイル、チョン・ミョンジャ、キ・ムユソン、シン・ユミ/ Cello_クォン・スミ、ペク・ンオク/ Guitar_イ・ユシン、キム・グァンソク/ Keyboard&Synthesizer_キム・ヨンニョン、キム・ジョンテク/ Bass_イ・スヨン/ Drums_ペ・スヨン/指揮_オ・チス/ Recording&Mixing_イ・テギョン、チャン・インソク/ Cutting_チャン・ジョングァン/ Photo_ホ・ジョンテ/ Design_ファン・チョルジュン」。

「10代スター」から「万人の恋人」として位置づけになる2集に続き、3集も当時のヒットメーカーたちが大挙アルバムに参加した。作曲家キム・ヒガプ、ナム・ククイン、イ・ボムヒ、チェ・ジョンヒョクを始め、ロックスタイルの実験的な音楽を追求していたキム・ホンタク、ユン・フイジュンはもちろん、「大学歌謡祭」出身の大学生作曲家まで、例えば、プロからアマチュアまでの様々な音楽ジャンルが共存するアルバムなのである。

「Young(영)」、「涙(눈물)」に加え、イ・ソンヒ3集の中で最も注目された曲は、やはり「分かりたいです(알고 싶어요)」だ。今でも最もソンヒらしいという評価を受けるの歌でもある。


■ 名コンビ「ヤン・インジャとキム・ヒガプのカップル」が歌詞とメロディーでやりとりした世紀のラブレター、「分かりたいです」

▼先に発表した「Jへ(J에게)」と「あ!昔よ」がそうであったように、「分かりたいです」もイ・ソンヒにに来て新たに生まれた歌だ。この歌は、これより先に1978年、「秋の木々の間で(가을나무 사이로)」(キム・ヒガプ作詞・作曲、キム・イルウ*歌)というタイトルで、すでに発表された歌だ。題名と歌詞を変えて「分かりたいです」に再誕生させた作詞家ヤン・インジャさんに、当時の逸話を聞いてみた。

(*)「秋の木々の間で」を歌った歌手を、1984年にイ・スンジェ(이승재)と紹介する記述がある(チェ・ギュソン大衆文化評論家)。上記によれば、1978年発表とのことで更に以前になる。

(本ブログ関連:”分かりたいです”)

「1985年、仕事のためにキム・ヒガプ先生のお宅に行くことになりました。その日、音楽を一つ聞かせてくれましたが、『秋の木々の間で』という歌でしたね。メロディーが美しくて寂しい歌詞と合わないようだといったところ、それでは歌詞を新しく書いてみろとおっしゃったのです。それで歌詞を書こうと、あれこれと思って考えているちょうど、ラジオでエルヴィス・プレスリーの「Are You Lonesome Tonight」が流れて出てきました。注意深く聞いてみたら、歌詞が最初から最後まで、質問形式ですよね。だから私も質問だけの歌詞を一度作ってみよう、と思って作った歌です。」

しかし、しばらくの間、「分かりたいです」の歌詞は、キム・ヒガプ先生の引き出しの中でただ眠っていた。 「わけもなく一人で恥ずかしかったんですって。本当にまれことでしょうか? そうなのかも知らずに、私は、なぜ吹き込まないかとずっと尋ねたところ、そのたびに『しなければならないですね・・・』といって言葉を濁したんですね。」

▼歌詞を歌詞以上に考えたためなのか、当時の状況をキム・ヒガプ先生に直接聞いてみた。

「歌詞を受けてみると、率直な感情のままに直接的話法で表現しましたよ。なぜか瞬間恥ずかしい思いをした。何か一言いわなければならないではないか、という考えにぎこちない気分にもなって・・・だから、慌てて引き出しの中のうち閉じ込めて置きましたよ。そうしている間、イ・ソンヒの新しいアルバムに入れる曲を頼まれ、ヤン・インジャさんに歌を作ろうといったところ、「分かりたいです」こそイ・ソンヒにぴったり、なのに何をまたか・・・ってね。そして、しぶしぶ持っていった楽譜でした。最初はアルバムの裏に、それも三番目に挟んで入れたが皆がこの曲が良いということでしょう。いやはや・・・」

歌詞が、歌の理性ならばメロディーは歌の感性だ。その感性と理性に、イ・ソンヒのいきいきとして暗い影のない感情がさらに作用して、この歌は、発表直後の1987年当時、KBS「歌謡トップ10」の5週連続1位を取ってゴールデンカップを占めており、「You」、「闇は晴れて(어둠은 걷히고)」、「清らかな愛(청아한 사랑)」などと一緒に、イ・ソンヒに1987年ゴールデン・ディスク賞を与えた。

瞬く間に「万人の恋歌」に位置したこの歌(「分かりたいです」)は、その後、おしどり夫婦であり名コンビの「キム・ヒガプ - ヤン・インジャカップル」の結婚式の祝歌でも歌われた。新郎側の祝歌はブルーベルジュの「私の人生後悔はありませんが(내 인생 후회는 없지만)」、そして新婦側の祝歌がまさにこの歌「分かりたいです」であった。祝歌は、イ・ソンヒが直接歌った。

「イ・ソンヒを念頭に置いた歌詞とメロディー・・・イ・ソンヒは、私が望んだ私の姿の完成でした。歌が良いだけ考えも正しくて尊敬すべき部分が多い歌手ですよ。」ヤン・インジャさんのイ・ソンヒの評価がそうであるよう結論的に、この歌は、歌詞とメロディーでやりとりした「世紀のラブレター」であり、両方の結婚式場で祝歌に歌われた「愛のセレナーデ」になったわけである。一方、裏面のタイトル曲「遅れました(늦었어요)」は、ヤン・インジャさんが執筆したラジオドラマ「朝霧(아침안개)」の主題歌だ。

パワフルなロックスタイルの唱法がそっくりそのまま盛られている曲「もう離れなくちゃ(이제는 떠나야지)」と「暗闇を経て(어둠은 거치고)」もやはり、イ・ソンヒのもう一つの魅力が存分に引き立つ曲だ。

「歌唱力とフィーリング、そしてあや(彩)という三拍子を兼ね備えた歌手ですよ。特にイ・ソンヒのパワフルな歌唱力を生かすために、ソウル・シンガーのアレサ​・​フランクリン(Aretha Franklin)の歌を集中して聞きました。もちろん、イ・ソンヒはその時も見事だったが、時間が経つにつれ、より良い歌手になるだろう、こういう考えたこと思い出します。」 -「もう離れなくちゃ」の作曲家キム・ホンタク(He5、He6のリーダー)の言葉だ。

また、「その表情の意味(그 표정의 의미)」と「別れは本当に難しいです(이별은 정말로 어려워요)」は、1980年の「大学歌謡祭」に「厄払い(푸닥거리)」で参加した「ジプシー」のメンバーのヤン・シチュンが作った曲である。そのように、このアルバムを通じて当時の最高のヒットメーカーと、純粋な大学生作曲家たちが一緒に参加し、イ・ソンヒの隠れた魅力を多様に表出させている。

トップ・アーティストたちが参加したこのアルバムがリマスター作業を経て、原音そのままの音が蘇ったことも意味が大きい。まるで虫眼鏡で見るように声が、そして歌うシーンが歳月の厚さを退けて、まるで目の前に見えるようだ。アナログ的感性をそっくりそのまま再現した、30年前のこの曲は、母と娘の世代を分ける境界線ではなく、一緒に聞いても良い曲に生まれ変わるだろう。

デビュー30周年を経た今もまだ「少女」のような姿にきれいな透明な音色、そしてさらに深くなった感性・・・ますます関心が高まる不思議な魅力の持ち主、イ・ソンヒ。

「思い出はすべてを記憶できるが、記憶は全て思い出しきれない・・・」とか。しかし、長年の記憶の中で蘇る深い響き、鮮やかな現場の音を通じて、単に記憶される歌ではなく、多くの人々に、より大切な思い出としての地位になることを期待してみる。NM(NewsMaker)
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(付記)
イ・ソンヒの1集リマスタリングアルバムを手にしていた・・・ところ、なんと2集、3集もリマスタリングしているというではないか。ネットで調べると確かにある・・・また、新宿に行かねばならない。

2013年5月25日土曜日

(資料)イ・ソンヒが再婚した夫

渡米と同時にイ・ソンヒが不幸なできごとを乗り越えて再婚した夫について、女性東亜の記事「ベールに包まれたイ・ソンヒの夫 直接会ってみると」(5/24)は、インタビューを交えて次のように報じている。(文キム・ミョンヒ記者、写真イ・キウク記者)

(2006年)
・2006年、イ・ソンヒ(現在49歳)の再婚はいろいろ衝撃的だった。当時、イ・ソンヒは、所属事務所のクォン・ジンヨン代表に、交際する人がいるという事実を知らせて、引退を暗示するような発言を残したまま男性と一緒にアメリカに向かった。

・「国民歌手」のイ・ソンヒが、急に国内の生活を整理して引退の示唆までしようと、ファンたちは大きく当惑した。それから四ヶ月後の2006年11月19日、イ・ソンヒは、ファンカフェに文を書いて、自分の再婚の事実を知らせた。当時、イ・ソンヒは「一般人の配偶者が私生活の露出を敬遠するため、秘密裏に結婚し、(当分は、韓国を離れて)アメリカの大学で体系的に音楽の勉強をする計画だ。前から勉強をしたかったものの状況がままならなかったが、夫のおかげで勇気を出すことができた」と打ち明けた。

(2007年)
・その後、イ・ソンヒは、夫のチョン某氏(58)と一緒に米国イリノイ州に滞在し、娘の留学生活を世話して、コミュニティカレッジで英語の授業を受けて新婚生活を満喫した。その間、韓国の知人全ての連絡を切断しているようにした。最側近の人たちでさえ、イ・ソンヒと連絡が取れないと、イ・ソンヒの家族に電話をかけて「米国にいるイ・ソンヒの安否が気になるので、彼女から連絡がくれば、電話一つ必ずして欲しい」という願いをしておくほどだった。

(本ブログ関連:”イ・ソンヒの娘”)

・その間、韓国では、夫のチョン氏の過去の色々な噂が出回った。イ・ソンヒとの結婚が、再婚とか再々婚とかいう、彼の過去と関連した内容だった。また、しばらくの間、イ・ソンヒとチョン氏がアメリカで離婚したという噂が流れたりもしたが、その頃夫婦が一緒に知人の結婚式に賀客で参加したのをきっかけに離婚説は事実無根と明らかになった。

(2008年-2009年)
・イ・ソンヒが2008年に米国から帰国した後、コンサートやアルバム発売を通じた正式カムバック手順を踏まないで、地方のイベントなどにだけ姿を現わしたのに、夫婦に経済的な問題があるではないかという疑惑も起こった。イ・ソンヒは、2009年のMBC「黄金漁場 - 膝打ち導師」に出演しても、「夫のおかげで、娘との関係が良くなった」とだけ話しただけで、その他の私生活については、非常に言葉を慎んで再婚生活に対する知りたくなる事を(返って)煽った。


베일에 싸인 이선희 남편 직접 만나보니


180cmの長身の好男子。「インタビューに応じたら妻に怒られる」

베일에 싸인 이선희 남편 직접 만나보니

・こうした中、最近イ・ソンヒの夫が、ソウル良才洞(양재동)で日本式居酒屋を運営するという消息が聞こえてきた。彼は、個人的知り合いで訪ねてきた客と酒杯を傾けたりもするが、終始愉快に会話を引っ張りながらも、イ・ソンヒの夫として話題になるのは負担になると伝えられた。

・記者が訪れた時も、彼は知人との集まりを持っていた。180cm程になる背丈の好男子である彼は「私はこの酒場の社長ではなくて、後輩たちを助けたり、人々に会うために時々立ち寄る程度」と述べた。最近、活動がまばらな妻イ・ソンヒの近況については「非常によくやっている。今は休んでいるが近いうちにコンサートをするのか、アルバムを出すのかよくわからない。妻の歌手活動については一切関与していない」と述べた。

・正式のインタビューを要請すると、彼は「妻に怒られる」と手で遮りながら笑った。二人が私生の活露出を敬遠する理由には「再婚する時に確認されなかった悪意ある報道があまり多く出たために心の傷を負ったからだ」と述べた。

・チョン氏は、かつて言論(メディア)に、韓国と米国を行き来しながら事業をすると報道されたが、事実、彼はソウルの有名私立大学で建築学を専攻し、米国に留学し、修士号まで取った建築家だ。イ・ソンヒは、自分の娘をアメリカに留学させて、米国留学の経験があるチョン氏から多くの支援を受け、その過程で愛が芽生えたという。

・チョン氏は、現在建築デザイン研究所を運営する一方、ある私立大学で非常勤講師として学生たちを教えている。そのおかげで、大学を卒業した弟子たちが彼に会うためにたびたびこの場所を探したりすることもあると。

・居酒屋が入店しているビルは、チョン氏の所有だ。良才川を見下ろす大通りに位置し、カフェ、バー、病院などが入った6階建ての建物で、かなり安定した賃貸収入を期待することができるという点で、イ・ソンヒ夫婦が経済的に問題があるという噂を一蹴させるに十分だった。

・チョン氏の知人たちは一様に彼の人となりを高く評価し、イ・ソンヒ夫婦がいろいろな噂に包まれたことを惜しんだ。世間で起きている疑惑とは異なり、イ・ソンヒが良い「因縁(인연')」と会ったのは明らかである。

2017年3月16日木曜日

イ・ソンヒの5月、米ロスアンゼルス公演

中央日報のLA版の記事、「国民のディーバ(歌姫)イ・ソンヒ『The Great Concert』LAコンサート開催」(3/13)は、昨年9月にソウル*を起点にして、その後、全国12都市**で開催されたイ・ソンヒの「The Great Concert」を、米国ロスアンゼルス***で単独公演すると次のように記している。

(*) 昨年9月にソウルで開催した「The Great Concert」: コンサート・レポート
(**) 記事入力が3月13日となっているが、本文最後に、「The Great Concert」の国内最終日(慶山:3月4、5日)をこれからのように記しているので、記事はそれ以前に作成されたものと考えられる 。
(***)「The Great Concert」は、米ロスアンゼルスに次いで、9月に豪シドニーでも単独公演を予定している。

(本ブログ関連:”The Great Concert”)

ところで、3年前のことだが、コンサート(「歌う イ・ソンヒ」)の全国ツアーを終えたばかりの頃、スターニュース記事(2014年11月17日)は、「(イ・ソンヒの所属事務所の)フックエンターテインメント関係者は、17日のスターニュースに『全国ツアーを有する間にも、国内で公演した都市はもちろん、しなかった都市で年末コンサートなどアンコール公演を持つという提案を多数受けた』とし、『韓国を越えて、アメリカとオーストラリアなど海外でも単独コンサートをして欲しいという要望が殺到し、今も同じ』と伝えた。」と伝えている。
もしかしたら、今回の米・豪コンサートは、このような流れの中で計画、実現の運びになったのかもしれない。

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・「J 撫でる風に..J あなた想えば..」 そのとき、ラジオから流れ出た繊細ながらも切なかったその声。清く澄んでいるが心の琴線に響く声。このような修飾語を、一度にすべて持つことができる歌手は、大韓民国でイ・ソンヒしかいない。

(参考)イ・ソンヒのデビュー曲 「Jへ(J에게)」

(Youtubeに登録のjustine kellyに感謝)

・いよいよイ・ソンヒの声をLAで来る5月20日初めて直接聞くことができるようになった。デビューから30年を過ぎたイ・ソンヒだが、既成世代(社会の中心世代)には、いまだに彼女の初デビュー舞台がずっと鮮やかなままである。奇妙なギャザースカートに、やぼったかったポグルパーマ。顔の半分を覆ってしまうサングラスまで。歌唱力同様に、彼女のファッションは大衆に新鮮な衝撃を与えた。心地よいながら切ない声で聴衆の心をひたらせてしまったイ・ソンヒは、結局、1984年のMBC「江辺歌謡祭」で優勝を射止めた。

・そんな風にデビューしたイ・ソンヒは、歌謡界で新しいパラダイム(規範)を引き起こし始めた。正規(公式)アルバム*ただ一枚なくて、歌謡祭の出場曲だった「Jへ(J에게)」一曲で、その年の新人賞、人気歌謡賞などを含むすべての賞をさらった。保守的だった当時の放送界では、他放送会社でデビューした歌手に、その他の放送会社の活動を許諾しなかったにもかかわらず、MBC出身であるイ・ソンヒがKBSの新人賞を受賞する奇跡に近い歴史を記録した。

(*)彼女の正式アルバム第1集は、1984年のMBC「江辺歌謡祭」の翌年にリリースされた。

・のみならず、「女性歌手には男性ファンが多い」という偏見を打ち破ることで、チョー・ヨンピル(조용필)の「兄さん部隊」に次ぐ、イ・ソンヒの(女子学生だけのファンフループ)「姉さん部隊(언니부대)」を誕生させた。彼女のマスコットであった丸いメガネと、(ショート)カット・ヘヤスタイルは女子学生たちの間でとんでもない人気とともに、「イ・ソンヒ症候群(シンドローム)」を引き起こした。イ・ソンヒらしいボーイッシュな魅力で、彼女は男性ファンだけでなく、トムボーイ(Tomboy、おてんば娘)ファンたちを引き連れて全盛期を享受した。

・今とは違って、リップ・シンク(くちパク)が存在しなかったその時期、イ・ソンヒは澄んで力ある声で、多くの名曲を誕生させた。「Jへ」、「分かりたいです(알고 싶어요)」、「私いつもあなたを(나 항상 그대를)」、「秋の風(갈바람)」、「ヤング(영)」など、今聞いても全く野暮ったくない名曲は、いまも多くの愛(支持)を受けている。そのうちの1集に収録されている、はやいビートの曲である「あ! 昔よ(아 옛날이여)」を完ぺきに消化して、ジャンルがない(こだわらない)歌手であることを証明した。その他にも、シン・ジュンヒョン(신중현)の「美しい江山(아름다운 강산)」をリメークしてパワフルなボーカルを披露した。

・彼女の伝説は今なお書きつがれている。世界的な歌手たちにだけ与えられる栄光を、イ・ソンヒは、2011年、ニューヨークのカーネギーホールのメイン公演会場「アイザック・スターン オディトリアム」で享受した*。

(*)2011年2月3日夜、ニューヨークのカーネギー・ホールの全席完売している。

・イ・ソンヒは、2014年、(アルバム14集以来)5年という空白を破って、正規アルバム15集を発表した。デビュー30周年を記念するスペシャル アルバムでもって、イ・ソンヒはファンたちに「歌を聞く楽しみ」*を分かつために、5年の間、アルバムを準備したと明らかにした。そのうちの、タイトル曲「その中であなたに出会って(그 중에 그대를 만나)」は、曲は楽器配列(編成)を最小化して、イ・ソンヒのアピール力の濃厚な音色をそのままに再現した。

(*)2014年のコンサートタイトルは、「歌うイ・ソンヒ」だった。

・甘美なバラードから軽快でパワフルな音楽まで問題なく消化するイ・ソンヒならばこそ、ドラマと映画のO.S.Tでももれなく名をあげている。イ・ソンヒの初O.S.Tの開始点は、ドラマでも映画でもない、アニメ主題曲だった。80年代の老若男女漏れなく好きだった、国民漫画「走れハニー(달려라 하니)」の主題曲は、彼女の澄んで軽快な声で全国路地にこだました。

・2005年度に発表したイ・ソンヒの「因縁(인연)」という曲は、一千万の観客を動員した(映画)「王の男」に挿入され、多くの愛(支持)を受けた。彼女が直接作詞、作曲をした曲を以って、歌だけうまく歌う歌手ではない、シンガーソングライターの面目を見せたりもした。

・のみならず、視聴率21.0%(ニールセンコリア提供)で、盛況裡に放映を終えたSBSの水木ドラマ「青い海の伝説(푸른 바다의 전설)」 (イ・ミンホ、チョン・ジヒョン主演)のO.S.T 「風花(바람꽃)」を歌って各種音源チャート上位圏に進入した。ドラマと映画に出てくる主人公たちの感情を視聴者に伝達して「O.S.Tの女王」というタイトルを再度確実にした。

・最近では、芸能を通じてもファンとコミュニケートしている。(SBSの)サバイバル音楽番組「ファンタスティック・デュオ」に出演したイ・ソンヒは、一般人「朗朗18歳 イェジンお嬢さん」と共に舞台を作り上げて、5連勝を達成して名誉の卒業をした。最高の賛辞を受けたイ・ソンヒとイェジンお嬢さんの(歌う)「私はいつもあなたを」、「美しい江山」と、「思い出のページをめくれば」は、いまだ番組のレジェンド舞台として残っている。

・小さい体格にもかかわらず、パワフルな歌唱力のために、「小さな巨人」というニックネームを持っているイ・ソンヒは、本人自らも彼女の声は「天がくださった贈り物」と表現した。そんな夢のようなイ・ソンヒの声を、目前で聞くことができる機会がついに来たのだ。

・イ・ソンヒは、昨年9月、ソウルを始め大邱、全州、光州、(大田 )、釜山、仁川、高陽、昌原、水原、議政府、清州など、6ヶ月を経た全国ツアーを持っており、来る3月慶北(慶尚北道)の慶山を最後に国内公演を盛況裡に終了した。全国ツアーを終えたイ・ソンヒは、デビュー32周年をむかえて、(米国)LAの公演を始め、9月には豪州シドニーのオペラハウスでも公演を繰り広げ、本格ワールドツアーを上がる予定だ。

・現在、国内ツアー中の「The Great Concert 」(を含めて)イ・ソンヒは、2006年、(2009年)、2011年、2014年の公演で、4千席余の(ソウル)「世宗文化会館」が全回売り切れる記録的な名品コンサートの記録を立てた。音楽はもちろん、ファンに最高の舞台を見せようとするティーバ(歌姫)の情熱と細心ながらもダイナミックである舞台と演出は観客の胸に長らく残るだろう。そのお目見えが、来る5月20日の夕方7時、LA近郊のパーム スプリングスに位置したファンタジー・スプリングス リゾートで開かれる。

・イ・ソンヒは、「2017 The Great Concert イ・ソンヒ」 LA公演で、「分かりたいです」、「私たちは」*をはじめとして、「因縁」、「思い出のページをめくれば」、「美しい江山」などの珠玉のようなヒット曲を聞かせて、LAの米州韓人に思い出の旅行をプレゼントする予定だ。

(*)「私たちは(우리는)」(1986年)は、ソン・チャンシクの代表曲である。
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2023年1月6日金曜日

(資料)イ・ソンヒの沈黙

イ・ソンヒは、2002年6月29日にソウルの大学路にあるライブ劇場を受け、韓国内初の歌手が公演会場を直接運営した。それを前身にして、同年、資本金5000万ウォンで設立された「フックエンターテインメント」は、公演企画・制作、マネジメント、不動産賃貸業を主な事業としてきた。

(本ブログ関連:”フックエンターテインメント”)

彼女は、同事務所に所属して経営にも携わったとされる。いったん、プライベートな清算の意味も含めて、事務所を離れ渡米した。帰国後、同事務所に復帰している。

(本ブログ関連:”イ・ソンヒの再婚・離婚”)

イ・ソンヒが発見して育てたといわれる歌手イ・スンギも同事務所に所属した。最近になって、イ・スンギと事務所の間で問題が発生した。彼の音源*についての報酬問題((参考②)下記に関連記事)だ。そのことに、彼の師匠にあたるイ・ソンヒが、沈黙を守っているという。

(*)音源: CD、レコードと違い、ネットを通じてストリーミング、ダウンロードされるもの。

(本ブログ関連:”イ・スンギ”)

さらに(音源の報酬問題以外に)、フックエンターテインメント事務所売却による株式譲渡後、持ち分の分配で不透明さが問題視されている。<藪をつついて蛇を出す>結果になったかもしれない。それらについて触れた、次の「マネートゥデー」の記事は伝聞要素が強く、きわどい点もあることに注意。


マネートゥデー
「「イ・ソンヒも『音源精算』一銭も受けられない」・・・ 不当待遇 沈黙した理由は」(チョン・ヒョンジュ記者、2023.01.03  19:49)
https://news.mt.co.kr/mtview.php?no=2023010319402953571
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歌手兼俳優イ・スンギに続き、歌手イ・ソンヒも所属事務所「フックエンターテインメント」(以下フックエンター)から音源料を精算されなかったという主張が出た。

記者出身のYouTuberのイ・ジンホは、3日、YouTubeに掲載した映像で、イ・ソンヒがフックエンターで不当な扱いを受けていると伝えた。

(参考)イ・ジンホの言説には、チェックが必要のようだが。(namu.wikiより)

彼は、フックエンターの前職員などを引用して「私が数回取材し、何度もクロスチェックした結果、音源料をたった一銭も精算されなかった。」と明らかにした。

続いて、「もちろんその他の収入、広告料、出演料はすべて精算された。音源料というのがとても不慣れな概念のようだ。イ・ソンヒも受け取れなかったから、イ・スンギも受け取れなかった」とし、「職員たちが退社とともにフックエンターの会計帳簿を持って出て行った。イ・ソンヒが音源料を受け取ったとすれば、すぐに公開されるべきだった」と主張した。

(写真) 株式会社フックエンターテインメント株主(持株比率など)
https://thumb.mt.co.kr/06/2023/01/2023010319402953571_2.jpg/dims/optimize/

(参考)フックエンターテインメント(namu.wikiより)
現在、hookenter.comドメインのホスティングが、満了したと表示される。イ・スンギのフックエンターテインメント契約の論難(物議:下記(参考②)参照)が起きてから、(イ・ソンヒのマネジャー出身である)クォン・ジニョン(代表)に不利に帰するだろうと、サイトが閉鎖されたため、クォン・ジニョン側で故意にホスティング業者との契約を中断した可能性が高い。

イ・ソンヒがフックエンター社内理事(取締役)を務めるなど、経営に参加したという主張については、「フックエンターの持分は、昨年まで100%クォン・ジニョン代表にあった。このような会社では、社内理事と言っても何の力もない」とし、「イ・ソンヒは、会社経営や収益分配に関与する位置にいたことがない」と強調した。

彼(イ・ジンホ)は、「前職員も、イ・ソンヒが会社で不当な扱いを受けるのを見たと話した。そういうわけで、イ・スンギとフックエンターの葛藤に沈黙を守ることが了解できないと話した。」と伝えた。

イ・ジンホは、イ・ソンヒがイ・スンギとフックエンターの葛藤に沈黙するのが、クォン代表と特殊関係**のためだと見た。

(**)特殊関係: 会社の出資関係にある人と法人も指すことがある。

実際、クォン代表は、チョロッペム・メディア***にフックエンター株100%を440億ウォンで譲渡し、持分約6.9%(30億3600万ウォン)をイ・ソンヒとその娘に贈与した。イ・ジンホは、「イ・ソンヒはクォン代表とほぼ家族とも同じ関係だった。二人は、様々な部分でとても複雑に絡み合っている」とし、「そうでなければこんなに沈黙する理由がない」と話した。((参考①)下記に関連記事)

(***)チョロッペム・メディア: 韓国のドラマとアニメーションの制作会社

(本ブログ関連:”イ・ソンヒの娘”)

イ・スンギは、イ・ソンヒの沈黙にむしろ申し訳ない気持ちを表わしたという。イ・ジンホは、「知人たちに尋ねたところ、イ・スンギが『師匠にはわずらわせたくない。師匠だけでなく、自分のことで誰も困らないでほしい』と言った。これが明確なイ・スンギの意志だった」と伝えた。
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(参考①)
横領や収益未払いで物議の韓国芸能事務所「フックエンターテインメント」の代表が株式をタレントや役職員に無償贈与したことについて

スポーツ・ソウル(日本版)
「横領や収益未払いで物議の韓国芸能事務所、代表が株式をタレントや役職員に無償贈与『不当ではない』」(2022年12月26日)
https://sportsseoulweb.jp/star_topic/id=66039
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所属歌手イ・スンギへの音源収益未払い問題などを抱える韓国芸能事務所HOOKエンターテインメントが、2021年の売却当時、クォン・ジニョン代表の持株を一部役職員および芸能人の親戚にも無償贈与したことが確認された。

HOOKは2021年12月、自社株の100%をチョロッペム・メディアに440億ウォン(役44億円)で譲渡し、クォン・ジニョン代表の持分38%である167億ウォン(約16億7000万円)相当の株式を、所属芸能人および役職員全員に無償で贈与したと明らかにした経緯がある。

金融監督院の電子公示システムによると、当時、HOOKは所属タレントのイ・ソンヒに5.9%の25億9600万ウォン(約2億6000万円)を、イ・ソジンとイ・スンギに3.4%の14億9600万ウォン(約1億5000万円)を支給していた。ほかにもHOOKの役職員である理事AとBに7.5%の32億ウォン(約3億2000万円)を渡している。

所属芸能人と役職員以外の親戚としては、イ・ソンヒの娘(C)と理事Aの従弟2人(D、E)、理事Bの実弟(F)にそれぞれ1%の4億4000万ウォン(約4400万円)を贈与した。

このうちDとFはHOOKのマネージャーとして働き、Eもイ・スンギのアルバムデザインに参加したことがある。だがイ・ソンヒの娘であるCが、HOOKでどのような仕事をしたかは知らされなかった。

このほかにもクォン・ジニョン代表の兄(G)と弟(H)も0.8%の3億5200万ウォン(約3500万円)を受け取った。

これらに関してHOOKは「クォン・ジニョン代表の個人財産を贈与したので何の問題もない」という立場を示している。

HOOK関係者は「会社の売却代金を不当に使ったのではなく、クォン代表の個人持分38%を遺産分配のように役職員に無償贈与した。そのためクォン代表の兄弟が名を連ねた。イ・ソンヒの娘Cの場合、クォン代表が幼い頃から姪のように見守っていたため、贈与者リストに名前を載せた」と説明した。

なおHOOKは最近、所属歌手だったイ・スンギから横領と詐欺の疑いで告訴された。イ・スンギは去る22日、音源料と広告料の一部を横領したとして特定経済犯罪加重処罰などに関する法律違反(業務上横領・詐欺)容疑で、クォン代表と財務担当理事をソウル中央地検に告訴した。

これに対しHOOKは「音源精算が漏れていた点については心からの謝罪を表すが、広告エージェンシー費用の横領はあちらの一方的な主張であり、2015年以後、エージェンシー手数料を全く控除しなかった」と反論している。
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(参考②)
イ・スンギと所属事務所「フックエンターテインメント」とのトラブルについて。

kstyle(日本語)
「イ・スンギ、所属事務所と給料トラブル?再び契約解除の可能性も…報道に様々な憶測」
(TVREPORT、2022年11月18日11時43分)
https://news.kstyle.com/article.ksn?articleNo=2205840
<元記事の配信日時 : 2022年11月18日10時19分 記者 : パク・ソリ.

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HOOKエンターテインメントが家宅捜索を受けた後、所属芸能人であるイ・スンギが精算に関する内容証明を提出したと報じられた。

本日(18日)午前、あるメディアの報道によるとイ・スンギがHOOKエンターテインメントに各活動に対する精算問題を提議し、これを明白に公開して欲しいという内容証明を送った。内容証明に対する十分な答えが出ない場合、契約解除につながる可能性もある。

これと関連し、所属事務所とは連絡が取れない状態だ。

これに先立ち、ユン・ヨジョンもHOOKエンターテインメントを離れるという報道があったが、事務所は「事実ではない」と否定していた。ユン・ヨジョンに続いて事務所の代表アーティストであり、HOOKエンターテインメントで芸能生活を始めたイ・スンギとの不穏な雰囲気もキャッチされ、世間の注目が集まっている。

イ・スンギとHOOKエンターテインメントは、すでに昨年1回決別していた。個人事務所のヒューマン・メイドを設立し、独立を宣言していた彼は契約終了から1ヶ月で、再びHOOKエンターテインメントと契約を締結した。

17年間の同行に終止符を打つとされた2021年5月、何かの理由で再びHOOKエンターテインメントに戻ったイ・スンギが、再契約から1年半で所属事務所に内容証明を送った。イ・スンギとHOOKエンターテインメントがこれを機に決別するか注目が集まる。

一方、今月10日、警察庁重大犯罪捜査課は、ソウル清潭洞(チョンダムドン)にあるHOOKエンターテインメントの社屋を5時間かけて家宅捜索した。捜査の理由は知られていない中、事務所所属の俳優パク・ミニョンの元恋人であるカン某氏との関連があるのではないかという推測が出ていた。HOOKエンターテインメントには、ユン・ヨジョン、イ・ソニ(イ・ソンヒ)、イ・ソジン、イ・スンギ、パク・ミニョンなどが所属している。
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2015年9月24日木曜日

イ・ソンヒの家族史

イ・ソンヒの家族史について、何度かこのブログで触れた。仏教音楽の梵唄(ぼんばい:범패)指導者である父親から音楽的影響を受けたことや、優しい眼差しの祖父との関係などだ。

(本ブログ関連:”資料:이선희 Profile (自伝~1991年、27歳まで)”)

コリア・デイリーの記事「イ・ソンヒ、いま明す秘密の家族史 “ひとたびの女王は永遠の女王”」(9/23、イ・ユンミ記者)は、以前イ・ソンヒがイ・スンギと共にテレビ出演した際の話題で、本ブログに未入手の情報を、次の太字のように紹介した。(抜粋)

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・イ・ソンヒの歌を教えた初の師匠チョン・ギョンス(정경수)*作詞家は、「イ・ソンヒに対する父の格別な愛情が、今日の国民のディーバ(歌姫)として、イ・ソンヒが愛された契機を作った」と話した。

(* チョン・ギョンスについて初耳である。2012年に「韓国歌謡作家協会第9代会長」に選出された(当時59歳の)人物か?・・・出会いの時期、場所について不明)

・イ・ソンヒは、ある放送に出演し、過去の政治に身を置いたビハインド・ストーリーを公開した。イ・ソンヒは、「もともと、”少年少女家長助け合い”に関心があった。海外進出を控えていたある日、所属会社で私に相談もなしに市会議員に登録した。それでやむを得ず、政治活動をするようになった」と、政治を始めることになった契機を明らかにした。

(cf.本ブログ関連:”(資料)イ・ソンヒのソウル市議会議員選出馬の背景”、および ”(続き)”)

・続いて、「政治*をしながら、生涯初めて冷たい視線を受けた。とても恐ろしかった。私に社会を分からせる最も貴重で大切な時間だった。もし、それを体験しなかったなら、今も夢だけで暮らす十やはたちの少女だったろう。人間関係を結ぶことについて多くを学んだ」と話した。

(* イ・ソンヒは、政治と関わりで、歌手として境界が鮮明でない面がある。民自⇒民主⇒セヌリと大きく振れる傾向にある。政治的な痛みを政治で補おうとする限り、振れは止まらなくなる。)

・イ・ソンヒの(ソウル)市会議員出馬ポスターを見たネチズンは、「<イ・ソンヒの市会議員(登録?)記号1番の時期>、<あどけなくて整ったイ・ソンヒの記号1番の時期>、<麻浦(地区)の娘に笑わせるイ・ソンヒ記号1番のころ、あんな姿もあったなんて>、<イ・ソンヒの今日の栄光は父のため>、<妻帯僧である父、イ・ソンヒの幼い時の夢は、歌手でなく何だろう政治家>、<政治家に転進したイ・ソンヒ、歌手女王が似合うよ>」などの反応を見せた。

(本ブログ関連:”イ・ソンヒの政治”)
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この記者、かなり皮肉っぽいのでは?

2015年9月13日日曜日

スペック

人の品性を語るのに「人品」という言葉がある。道徳性や教養といった人として備わるべき特性を指す。それを、履歴書や健康診断書に記載されるような項目で判断することがある。韓国で一般に、「スペック(스펙)」といわれるものだ。

通常、スペック(spec)は、製品の諸元、機能仕様書の項目といった風に使われる。人にも「仕様書」項目があるごとく判断するのがすごい。学歴、身長、職業、年収、・・・顔の美しさ、といった按配である。不足すればルーザー(루저)、敗者となる。そうならないよう、親はわが子に期待し投資することになる。

KBS「【芸能手帳】 勉強で親孝行しました!派手なスペックのスター2世」(9/10)で、イ・ソンヒの母娘の関係についても、彼女が人並みに<親馬鹿?>であるが、それが錯覚でなかったと、次のようにレポートしている。(抜粋)

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・歌謡界の女王、イ・ソンヒさんの娘ヤン・ウォンさんもアメリカで留学中です。
・ヤン・ウォンさんは、アイビーリーグの一つの学校であるコーネル大学校でジャーナリズムを専攻しているんですが。
・イ・ソンヒさんは、少し前のある放送(2014.04.16 SBS)で、幼かったときの娘の逸話を聞かせてくれました。
・<録音>イ・ソンヒ(歌手):「私たちの娘が天才だと思いました。生まれてから胸に置いて童話の本を私が読んであげたが、二、三度読んだ後に再びそこをぴったり広げると、子がそのまま言うんですよ」
・世の中すべての親たちが、「私の子どもは天才」という錯覚をしますでしょ ~、幼いとき童話の本読んだ子供が、今は世界的な名門大に通っていますので、イ・ソンヒさんの思いは錯覚ではなかったようですね。
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(参考) イ・ソンヒの家庭
92年  (91年ソウル市議会議員当選後)、86年以来のマネージャーだった前夫ユン・ヒジュン(윤희중)と結婚。
93年  娘(ヤンウォン、양원)生まれる。
98年  協議離婚。
99年  (IMF時代の後)夫のユン・ヒジュンは、事業の失敗で自死する。(6月5日)

(本ブログ関連:”イ・ソンヒの娘”)

(本ブログ関連:”(資料)イ・ソンヒが再婚した夫”)

2011年7月8日金曜日

(資料)イ・ソンヒのソウル市議会議員選出馬の背景 (続き)

デイリーポットの記事「国民歌手イ・ソンヒ、候補登録中に歯齢まで調査」(6/21)は、元政治家の張慶宇(장경우、民自党)による、イ・ソンヒを1991年6月20日にソウル市会議員選挙に27才で麻浦地区から出馬(民自党)意向を確認するまでの前回インタビュー記事の(6/14:本ブログ紹介)の続編である。
続編では、イ・ソンヒへの正式な選挙出馬要請、選挙候補登録と選挙経過について次のように記している。

 (党としてどのように要請したか)
・直接的に話すことはなかったけれど、組織と広報はもちろん「資金」支援までを全部包括する問いかけは明らかだった。さすがに、(彼女の)周辺で「しっかりしている」、「賢い」という声を聞くほどで、かえってそのような声が出てくるので、私の立場ではより安心した。
・(出馬した場合)「今後1ヶ月の間は、一切の放送活動と演芸活動はすることはできないでしょう。それについては、確実に約束をしてくれなければなりません。選挙が余りにも大変だということを、あらましご存知のようでしたよ。・・・ところでさらに大きな問題は、こういうあらゆることをイ・ソンヒさんがどれくらいはやく消化するかにかかっています。」
・(彼女の回答は)「ひとまず、お父様と相談してみてご連絡さしあげます。」とのことだった。

(イ・ソンヒの父親との面会)
・翌日すぐにお会いしたイ・ソンヒさんのお父上の立場は次のようだった。
・「娘をそのように考えてくれると有難いが、心配になる」という立場であったし、私は「心配なく、大丈夫」という言葉で安心させた。

(党本部への連絡)
・それから党指導部に報告をして、イ・ソンヒさん公認の有無を相談した。党指導部も非常に良い反応だった。がんばれば個人の当選を越えて、全体選挙戦略にも良い影響を及ぼす可能性があるという言葉まで出てきた。そして一瀉千里で進行した。

(問題の発生-戸籍年齢の確認)
・ところで実際に候補登録をしようとしてみたら、一つ問題が発生した。戸籍*に年齢が間違って記載されて、(彼女の)故郷の忠南(忠清南道)の大川(テチョン)まで訪ねて行って証人を探し、当時の医師を探す一方、歯齢(歯の年齢)まで調査してあたふたと裁判を受けてやっと候補登録を終えた。
・それでひとまず私の役割は終わった。
(*)戸籍:下記(本ブログ関連:”戸籍”)にて、実年齢との差異を紹介。

(選挙経過)
・しかし実際に出馬をさせながら・・・心配が山積だった。一部否定的な見解は主としてとても幼いということであった。
・ところで数日後、(麻浦)地区党から電話がきた。
「張議員殿!大成功です!大成功。」
「何だ?何のことだ? じゅんじゅんに少し話してみてよ。」
「ちょっと前、党員たちの前で(イ・ソンヒの)自己紹介の時間を持ちました。ところが、講堂中が大騷ぎになりました。おばさんたちが涙を流して、とにかく今大騷ぎが起こりました。やはり張議員殿の選択は、これは完成品ですよ!」
「そうか?、おお、これは本当にうまくいったね!そうだそうだ、とにかくよく支援して!」

(遊説)
・私は忙しい渦中、翌日時間をあけてイ・ソンヒさんの遊説場を探した。なにをかいわんや。私はびっくりしてしまった。私が聞いてみても本当に涙が出てくるほど上手ではないか!
・子どもの頃難しかった時代の話や、芸能活動をしながら体験した難しい話や、政治をしてみようと出てくるまでの決心過程であり、決して政治的な話ではないながらも、話したいことは一つも欠かさずやっていた。本当に賢くてすごいお嬢さんであった。

(広報物)
・政治家たちの感覚とは途方もない差があった。大衆を相手にする芸能人のプログラムを作ったチームがあって、私たちの政治家とは根本的に違う次元の広報物だった。

(圧勝)
・結局、イ・ソンヒ候補が上手だといううわさが大統領府まで入って、後ほどにはキム・オクスク(ノ・テウ大統領夫人)氏が支援訪問をするに至った。結果的に、イ・ソンヒさんは圧勝したし、市会議員で議員活動もまた、とてもしっかりとお上手にするという噂を聞くようになった。
・とにかく最初の地方自治選挙は、イ・ソンヒさんの善戦を契機に民自党に背を向けた若年層の関心を引いたし、そのような側面で、イ・ソンヒさんが党に寄与した功労もまた大きいといえるだろう。

以上、イ・ソンヒ関係部分

(本ブログ関連:”市会議員”、”戸籍”)


★★★★★ 孫が、保育園行事で頭にヘルメスの羽飾り?をして、父親に抱かれている写真が届いた ★★★★★

2011年1月27日木曜日

イ・ソンヒの娘

イ・ソンヒが「魔法の城(마법의 성)」(歌詞)を歌うステージに走り寄ってきた女の子は、彼女の膝の上で一緒に歌います。それは満2、3歳でしょうか、彼女の娘(양원이)の幼い姿です。歌の最後のフレーズの、しかも特徴的な音(発音)に合わせて、「・・・ヘ」、「・・・タミョン」と元気に声を張り上げます。

2004年の20周年記念コンサートの前に受けたインタビューで、イ・ソンヒは娘について次のように語っています。当時、彼女は小学校5年生の12歳の娘と一緒に、ソウルの(竜山区)東部二村洞に住んでいました。
(jo!nsmsnの記事「イ・ソンヒ デビュー20周年コンサート」(2004年8月17日)より)
・「娘は、明るく愛嬌が良い。人に負けてあげる思いやりも深い子だ。」
・歌手になる才能があるのか、歌手になるのならばさせるのかと尋ねたところ、「娘が生まれたときに、病院で娘が泣けば私の娘だと思った。あまりにも高音で泣いており、看護師が『イ・ソンヒさんの娘が泣きます』といったほどだ」(笑)
・「やりたいことがあまりにも多い子供だ。いつも学びたいこと、経験したいことを5〜6個選択して、お母さんにブリーフィングをする。自分が一番やりたいことは、長所だけ浮き立たせる賢い娘だ」と自慢した。

その娘さんは現在、高2でシカゴに留学しているそうで、来月のニューヨーク公演を待ち遠しく思っていることでしょう。

(Youtubeに登録のに526apollo感謝)

(本ブログ関連:”魔法の城”、”インタビュー”)

2014年7月4日金曜日

(資料)デビュー30周年迎えた「サニー・オンニ(お姉さん)」

「女性東亜」(5月号、p296-299)に掲載の記事「デビュー30周年迎えた『サニー・オンニ(お姉さん)』の驚くべき帰還」(#1、#2)(ク・ヒオン記者)は、イ・ソンヒの言葉を借りて、彼女の音楽の原点、および30年に渡る音楽活動(人生)と音楽観について次のように記している。
(イ・ソンヒの言葉の部分を太字表記した)

なお、同時期のインタビュー報道である「レディ京郷」の記事「イ・ソンヒ 伝説を超える」と内容が重複するところがあるが、以下そのまま掲載する。

(本ブログ関連:”SERENDIPITY”)
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<#1>
歌手イ・ソンヒが、デビュー30周年を迎えて、(これまで)生きてきて感じたことを盛り込んだ15枚目のアルバムを出した。率直な家族史も虚心坦壊に公開した。

「太陽のように光を放つあなたよ(태양처럼 빛을 내는 그대여)」、3月25日ソウル、松坡区のウリ金融アートホールで開かれた彼女のデビュー30周年ショーケースで、歌手イ・ソンヒ(50)を見て、ラブホリクス(Loveholics)の歌(「Butterfly」)の歌詞が浮び上がった。15集の「セレンディピティ(세렌디피티)」で帰ってきた彼女は、イム・ジョンヒ、Gummy、T.A Copy、イ・スンギ、ユン・ドヒョンなど、後輩歌手の応援を受けて新曲を熱唱して拍手を受けた。今年で彼女をマネジメントして17年目である所属事務所(HOOK ENTERTAINMENT)のクォン・ジンヨン代表は「百余曲を書いては消してアルバム準備する姿を見て」、かくして、この歌手のマネジャーをしているんだなと「考えた」と話した。

1984年、第5回「江辺歌謡祭」大賞受賞で派手にデビューしたイ・ソンヒ、デビュー曲「Jへ」は清らかな声と爆発的な歌唱力が調和をとれて、彼女を一気にスターの隊列に載せた。その年の放送と授賞式をさらったのはもちろんで、KBS「放送歌謡大賞」新人賞を受け、MBCでは「10代歌手歌謡祭」最高人気歌謡賞・新人賞・10代歌手賞を以って最初の3冠王にのぼる珍記録もたてた。その時も今も、彼女はショートヘヤに丸縁メガネとズボン・スーツ姿だった。

▼コンピュータ習いながら精魂込めて作ったアルバム

15集のタイトル曲は「その中にあなたに出会って(그 중에 그대를 만나)」。彼女のアピール力濃厚な声と美しい旋律が交わったポップ バラードだ。 「ファッション・ショーやイベント会場行っても照れくさくて、フォトウォール(Photowall)*の前に立ってみたことがない」という彼女だが、この日だけは慎ましやかな姿でカメラ前に立ち、フラッシュの洗礼を楽しんだ。

    (*)フォトウォール: イベント会見時に背景に置く、複数の関係企業のロゴを貼り付けた壁。

「このように記者懇談会を開いてアルバムを紹介することは、私たちの時代には定着しなかった文化なので、初めて享受してみるんですよ。そのためか、睡眠も十分足りてなかったが、これまで以上に嬉しい気分で最善を尽くして舞台に立つべきと考えて、ここに上がってきています。アルバムを準備する2年間、デビュー30周年になれば、どんな歌をどのようにしようか、歌手としてどんな位置づけを確保しなければならないだろうか、悩み、孤独に準備しましたよ。アルバムが世の中に出ると、一人だけの音楽でない、多くの人々の音楽に成っていくようで楽しいです。おののきますが、とても落ち着きますね。」

歌の歌詞には、彼女が生きてみて感じて気付いたことを盛り込んでいる。

「いつもそばにあったものをよく知らないまま、常に別の処を眺め、羨ましがって、人に付いて行こうとう気持で過ごしたようです。ところが、ある瞬間、そばにいたことを知って、それによって人生が違うように見えるんです。一人だけの悟り(でしょうか)? 今回のアルバムには、家族に対する内容もあるし、歌う人として受けた感動に対する内容もあります。デビュー後、多くの人たちが呼応してくれるとき、『ありがとうございます』、『幸せです』といったけれど、トップから降りてきて、過ぎた時間を眺めると、その言葉がより多くのものを含んでいたのに、そこまで分からなかったんだなと思いましたよ。私のファンに、絶えず自らを鞭打って発展していき、今もどこかへ向かって行きつつあるとのをお見せしたかったのですよ。私を好きになった方々に対する記憶、私が享受した人気、まさにそんなことが暖かい力となって、私がこのように(年月が)経(た)っているという話をしたかったのです。」

今回のアルバムの収録曲11曲中、イ・ソンヒ作曲が9曲、作詞が7曲だ。それだけ、シンガーソングライターとしての力量が集約されたアルバムだ。後輩であるイ・スンギの話によれば、コンピュータもできないイ・ソンヒが直接コンピュータを習いながら作業するほど熱意を見せたと。イ・ソンヒは、「14集までは、編曲やアルバムの外的な部分には参加しなかったが、15集はそこまで残らず参加した」と話した。アルバム作業をしながらあったエピソードも聞かせてくれた。

「どうしてもモニタリング(評価)してくれる人たちが会社の人以外にいないけれど、歌作りして、聞いてみてといっても別に反応がないのです。それでは『別に良くないか?』と思って消し、また他の歌を作って、そのような形で百余曲近く完成しました。『手応えあるまで、作ってみよう』という心情でした。録音に参加した友人たちがみな若かったんですよ。朝起きて夕方に寝る私と別に、その友人たちは午後の5時頃起きて眠らずに夜を明かして、明け方の5~6時に寝入りましたよ。折衷して、午後の4時から歌ったが、皆赤くした目で遅く出てきて、『先輩、申し訳ありません』と(笑い)。私がそのフクロウ(夜型人間)たちを連れて作業するのに、苦労をちょっとしましたよ。」

彼女は、「普段(人々の反応に対して)モニタリングをたびたびする方だが、世代により私のイメージが違うのですよ」と、「デビュー当時を記憶する方々にはボーカリスト、(映画)『王の男』に挿入された『因縁』で私を、子どもがいない(若い)友人たちにはシンガーソング・ライターという認識がより強いようだ」といった。

「あえて、シンガーソング・ライターで記憶されるなくちゃいけないという考えはないです。私はボーカリストです。歌うのが良くて、マイク握るが良くて、言葉ではなく歌で感情表現をもっとうまくできるし、それが大好きです。直接曲を書く理由も、私の声をさらに良く表現できてるからです。ふだんの私は、私が一番よく分かりますね。低く話すとか囁(ささや)く声など、専門の作曲家が表現できなかった自分を表現しなければならないように見えて、曲作業を始めました。ロック、国楽などの色々なジャンルの音楽をやりながら感じた点を表現して見たら、欲求が生じてきて、他のジャンルはどうだろうか度々実験することになりましたよ。もちろん、実験が成功したことも、失敗したこともあったんですよ。」

「これから、どんな方向に進んでいくのか」と尋ねると、すぐに彼女は「これから、どのようにしていくのか…」といいながら質問を低く口ずさんだ。

「好きなジャンルはバラードです。ボーカルが勢いよく歌って、シャウティングして込める力でなく、私たちの言葉と音色が与える力があるけれど、そのような力を表す音楽ならばジャンルに関係なく歌うでしょう。歳も取って、幼いとき聞いた音楽がみなそのためか、歌詞が与える力が無限に大きな歌を好きです。ただ流される曲も良いけど、十分にかえりみて考えることができる歌詞がはるかに良かったんですよ。今後もずっとそのような音楽を作って、そのような歌詞を書くつもりです。どんな方向に進むかは、私がどのように変るかも知れなくて話せないが、留まっていないだろうということだけは確かに申しあげることができます。」


<#2>
彼女は、代表的な芸能界の「童顔(若々しい)スター」に挙げられる。彼女は、「笑い話しで施術したといえば、そんなことが記事に大きく出る」といったり、「そうでなくて、マッサージを受け、皮膚科も通っている」と話した。

「私もいっぱい変わりました。けれど、変化が大きくないとお考えになるのは、私から感じられるはっきりしたイメージのためでしょう。多分、髪をアップしてドレスを着れば時間の痕跡を探すでしょうが、今もズボンにジャケットを着ているから(笑い)。前は、すっぴんでお会いしたが、今は化粧を少ししたということ位いですよ。」

「オンニ(お姉さん)の帰還」は、茶の間のテレビ劇場視聴率上昇にも一助となった。2回に渡って放送された、彼女が出演したSBS「ヒーリング・キャンプ」は、同時間帯視聴率1位を記録もした。彼女は過去、マイケル・ジャクソンの両親にラブコールを受けた理由を聞かせた。27才のとき、女性歌手5人を集めてアジア版「ジャクソン・ファイブ」を作ろうと思ったマイケル・ジャクソンの両親から、ニューヨークで活動しようという提案を受けたこと。彼女は、「オーディションまで合格した」と明らかにした。この時期、彼女は、日本のグループ「安全地帯」が書いた曲で日本に進出する考えもあった状態であった。

▼留まらなかったけれど、いつもその場にいた歌手

しかしながら、彼女の海外進出は結局失敗に終わってしまった。代わりに彼女は政界に出た。イ・ソンヒは、その年(1991年)、最年少のソウル市市会議員*になって話題を集めた。彼女は「韓国にしばらく立ち寄った間、マネジメントから私と相談なく市会議員出馬の書類に印鑑を押した。私がしなければ色々な人が難しくなる状況だから、やむを得ず海外進出の夢をあきらめて政治に挑戦した」と海外進出が失敗に終わった理由を明らかにした。

    (*)本ブログ関連:”ソウル市市会議員”

「ヒーリング・キャンプ」では、率直な彼女の家族史も聞くことができた。イ・ソンヒは、帯妻僧(結婚して妻と家庭をもうけた男性の僧侶=妻帯僧)の父のおかげで幼い時期、森の中で育った話も聞かせた。彼女は「祖父は風流を知る人なので町内で歌(歌唱)ったりしたが、父はとてもきちんとした人である。学校は、市内の中心にある所に通ったが、家族は森の中の寺で生活した」として、「念仏をたくさんそらんじた父のおかげで喉ができあがったようだ」と話した。2006年、空白期をもって、娘と共にアメリカ留学に進んだ『情熱ママ(教育ママ)』でもあるイ・ソンヒは、現在アメリカ名門大であるコーネル大でジャーナリズムを専攻している娘ユン・ヤンウォンさんに対しても言及した。

「(娘)ヤンウォンが幼いときは、天才だと思いました。胸に抱いて童話の本を読んだが、二三度読んで、その場面を開(あ)けるとそのまま話しましたよ。すべての母親たちが勘違いするように、内心『私はなかなか良い子供を産んだ』と思いました。本を読んでやって、その本(の話し)をより合わせてストーリーを別のように解釈すれば、この子は再びより合わせて別の話をしました。想像を続くようにする私たちだけのゲーム方式でした。ところで、本を買って読んでみなさいといったところ『ママが読んでくれたら分かるの』というんですよ。ストーリーを覚えて想像したのであって、文自体は分からなかったのです(笑い)。」

先立って、彼女は記者懇談会で「最近、音楽のトレンドを逃さないように、人気歌謡番組をしばしばモニタリングして、弘大のインディーバンド公演をたくさんたずね歩く」と明らかにしたりもした。長い時間愛されることができる彼女だけの力は何だろうか。

「振り返ってみると、毎年いつも良いことだけではなかったです。ある時は、一人だけの時間を通り過ぎたりもしたし、今よりもより多く関心を集めて一年をむかえたりもしましたよ。それでも、今こんなにうれしい今日を享受することができるのは、私が『元気だったため』なようです。『元気だった』というのは、留まらなかったということですね。ある方法で成功したがそれを捨てることができて、もちろん新しい試みをして足を踏み間違える時もあるが、恐れないでずっと何かをしようとしたので、多くの方々が『イ・ソンヒはいつもその場にあった』と記憶してくださるようです。今後も引き続き働くだろうし、数多くの質問を私にすることで、挑戦することで、その時ごとに好き嫌いが分かれるだろうが、今までそのようにしてきたように失敗するとおじけづいたり萎縮しないでしょう。」
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2014年1月29日水曜日

(資料)イ・ソンヒのスター・ストーリー「11.私の華麗な事件」

先日(2013/9/27)、「スポーツ韓国」の紙面(1991年3月8日~4月5日)に連載された「イ・ソンヒ27歳当時のスター・ストーリー」記事の目次を紹介したが、その第11回目をここに載せたい。感謝。

イ・ソンヒの、音楽以外の側面での慈善活動や、詞に政治的なテーマと取り組む試行など、あるいは彼女のファン層について知ることができた。

(本ブログ関連:”(資料)イ・ソンヒ(27歳当時)の「スター・ストーリー」”、”資料:이선희 Profile”)

[11] 私の華麗な事件
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時折、このような質問をする人がいる。「同じ歌、何度も歌ってたらウンザリしない?」

そのような問いに触れると本当にあきれる。私は、私が好む歌をその時その時の気持ちと舞台の雰囲気に合わせて歌うことがとても楽しくて、その独特の雰囲気を「満喫」しているからだ。

「炎のように(불꽃처럼)」のようなダンスミュージック風の歌も入っているが、ポップ・バラードが中心である5集アルバム(1989年)は、私が歌手デビュー後、ぴったり5年ぶりに出た。このアルバムの最高人気曲は「私の街(나의 거리)」。放送とDJ人気チャートで、2ヶ月以上頂上に留まった歌だ。

5集で格別に愛着がある曲は、「五月の陽射し」である。「5月の光州の英霊」*たちを考えて、私が歌詩を書いた。少なくとも、国民の愛(支持)を受ける歌手ならば、私たちの社会の痛みに「他人任せ」していることはできないと思った。この歌は、大学街のデモの時も「愛唱」されたし、光州のローカル放送では10週連続1位に留まったりもした。だが、一つ物足りなさは残る。私が直接行ってみた光州を素材で映像ビデオを製作しようとしたが、色々な理由で失敗に終わってしまった苦々しい記憶のためだ。**

    (*)5月の光州の英霊: 1980年5月の光州事件参照
    (**)イ・ソンヒは、善意から政治に関わった経緯があるが振幅もあって、現在は遠ざかっているようだ。

1989年6月には、香港3MGレコード社で「これがオリジナルソングだ」*というディスクが出た。ホイットニー・.ヒューストンなどそうそうたる歌手10人が、自身のヒット曲を収録したアルバムだ。アジアでは私が「代表選手」に選ばれたけれど、チョー・ヨンピル先輩が抜けたという事実が、当時にはちょっと面食らってしまった。

    (*)「これがオリジナルソングだ」: 企画アルバムのようだが詳細不明(ジャケット写真:感謝)

しばしば、イ・ソンヒのファンは少女層が大部分であると知られているが、それは事実と違う。1990年7月のある世論調査結果を見ると、男子大学生の24%、女子大生の15%が私を「最も好きな歌手」と挙げたのだ。その調査で、男性歌手ではチョン・テチュン氏が1位であり、私は女性歌手の中で人気1位だった。

(人気)数字だけ次々並べて見ると、ちょっと目まぐるしい気がする。とにかく、私のレコードは男性がたくさん探して、カセットは女性ファンがたくさん買ったそうだ。職場の趣味サークルの内では、男性中心の同好者の集いで私をよく招待する方だ。

昨年の春(1990年4月)、ミュージカルに出演したことがある。世宗文化会館で幕を上げた「オズの魔法使い」の主人公「ドロシー」役だった。ドロシー役は、米国ではダイアナ・ロスが引き受けたとか。とても手に余る舞台であった。

スカートを着て靴をはいたまま、幕間ごとに明かりの消えた舞台裏を飛び回ったら、台詞をいうたびに息があがってフウフウしなければならなかった。また、緊張の連続だったので、体と心が別々に動いた感がなくはない。気球に乗って帰宅する最後の場面では、靴のかかとに装着された豆電球に点灯しなくて慌てたりもした。確かにかかとをぶつければ明かりが「パッ」と入ってくることになっていたが・・・分かってみれば、あちらこちら暴れる(?) 間に、つながれた電線が切れてしまったのだ。

何も知らずに飛びまわったミュージカルを通じて、私は多くのことを悟った。中学2年生だった末っ子の弟(妹?)*が生まれて初めて私の姿を見に公演会場にきて、また非常に不思議に思った。漫画の映画やビデオでは味わうことが出来なかった夢と希望を感じたと言った。「ずっと大きな」子がそうなのだから、まして子供たちが・・・

    (*)イ・ソンヒは長女で、弟とさらに2人のきょうだい(男?女?)がいる。

公演練習のために、放送出演など私の「生業」が支障をきたすことになって、公演後遺症で病んで横になることが心配だけれども、私は今春にもミュージカル「ピーター・パン」に出演する。ズボンではないが、草色のタイツを着た万年少年のピーター・パンの役に。

体が「パキムチ(葱キムチ)」*になれば、いいのだが。私には、万病に効く、薬のような参鶏湯(サムゲタン)一杯あれば軽く「元気回復」するのを・・・

    (*)葱キムチ: 疲労回復に効能があると、ネット上に記述ある。

ミュージカルにすっぽりはまってみると欲が出る。子どもと青少年に夢と希望をあたえる専用の文化空間をたてたいのだ。それで、今でも日本や米国など外国の資料をこまめに集めている。合わせて、誰かが「コンチュイ・パッチュイ」*など、私たちの話をミュージカルで脚色してくださるように祈る。

    (*)忘れ形見の娘コンチュイが継母とその娘パッチュイにいじめられるが幸せをつかむ。(シンデレラと似る)

また、学生家長と進学できない不遇な青少年のための奨学財団の設立も着々進行中だ。隠れてしようとしたことなのに、つい言論(マスコミ)に「見つけられて」'しまった。全国から多くの方々が寄付を送ってくださるが、ほとんど送り返している。例外は、ぴったり二件、①同じことなら障害者も助けようと直接お金を持って訪ねてこられたある障害者の寄付と、②自身も豊かではないスーパーマーケット女性従業員が寄託された「大金」の百万ウォンは、お二方の勢いがあまりにも「みなぎ」って、どうにもならなく「受付」してしまったのだ。

昨年秋(1990年10月)には、カナダのモントリオール室内管弦楽団と共演した。あの「敷居の高い」世宗文化会館大講堂で。その楽団が著名な外国クラシックオーケストラではなかったとしたら、私一人で世宗文化会館の舞台に立つということが可能だったのだろうか? ほろ苦い。また、私が望んだことは、外国楽団でない私たちのオーケストラであった。しかしながら、伴奏はできないというのだから、私だってどうすることができようか。

昨年の春(1990年4月)には詩集も出版して、詩朗唱会も持った。「去る者だけが愛を夢見ることができる(떠나는 자만이 사랑을 꿈 꿀 수 있다)」という自作詩集であるが、大型書店のベストセラー詩集部門1位に上がったりした。元老詩人の趙炳華(チョ・ビョンファ、조병화)先生は「きれいな露をうける小さい野草のような詩・・・繊細で愛らしい詩語・・・」と過分な評をしくださったりもした。

だが、詩をもって、話したい言葉を全て語ることが少し難しかったので、今年の末か来年の初め頃、私の考え、私の生活を書いたエッセイ集*を出そうと思う。

    (*)エッセイ集: 未確認

昨年の初冬には、哲学者金容沃(김용옥)教授と東国大講堂で「デュエット」で歌ったことがある。曲目は「美しい江山」、金教授の招待で行われた突然この日舞台は、私の歌が主でなく、東洋哲学の講義が目的だったが、教授は「芸術はすべからく大衆と近づかなければならない」という信念で、私を講壇上に呼び出したのだった。金教授はまた、私にまるで詩のようでもあって、幽玄な哲学のようでもある歌詞を二編もくださった。
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2013年12月11日水曜日

(資料)イ・ソンヒのスター・ストーリー「7.『江辺歌謡祭』の裏話」

先日(9/27)、「スポーツ韓国」の紙面(1991年3月8日~4月5日)に連載された「イ・ソンヒ27歳当時のスター・ストーリー」記事の目次を紹介したが、その第7回目をここに載せたい。感謝。

イ・ソンヒが、いよいよ才能が世に見出される瞬間の「江辺歌謡祭」での大賞受賞にかかわる数々のエピソード、あるいは出場したときの名前のセンシティブな情報など・・・まさに数々の裏話を知ることができた。(今回、原文中に特定字句の脱字がいくつか見られた:表示上の理由か?)

(本ブログ関連:”(資料)イ・ソンヒ(27歳当時)の「スター・ストーリー」”、”資料:이선희 Profile”)


[7] 「江辺歌謡祭」の裏話
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私は一人でソロとして、<4>はグループとして、江辺歌謡祭に参加した。

私は(ソ)ロの決選にのぼったが、<4>は予選で脱落した。私は、学校の名誉のために決選で「イ・ソンヒ」の代わりに<4>というチーム名の中に私の名前を埋めてほしいという、先輩の提案を受け入れた。決選で、サークルの先輩イム・ソンギュンさんが、その他伴奏と和音を合わせてくれた。

純粋な気持ちで、私が属した音楽サークルを助力しようとしたことなのに、後日あたかも私が<4>の知名度にタダ乗り(無賃乗車)したように知られたのは、今考えてもとんでもないことだ。

私は、84年の「江辺歌謡祭」もまたTVに中継がないと思っていた。例年は、確かにFMラジオでだけ放送されたのを記憶していたから。さらに、生放送で中継されるのをあらかじめ知ったならば、私は多分参加願書も出さなかっただろう。大学入学後にも、私が勉強よりは歌に陥っている姿を父は極めて不満だった。内心、頑固な父を説得できる「締切期日」を、その年の秋ぐらいに捉えていたので、私はまず父に「バレ」ないことが急務であった。

「江辺歌謡祭」の1、2次予選はソウルで執り行なったが、最終予選と決選は南怡島で寝泊りしながら進行した。「これは困った。家に何か言い訳して抜け出すか。数日だが・・・」

結局、私はちょっと無理をしなければならなかった。ムシムシする7月の蒸し暑さの中で、私は往復5時間の距離の、家と南怡島の間を三日間毎日行き来したのだ。

待望の「江辺歌謡祭」決選の前日、私は「変装」した。ひょっとして父や知り合いがTVを見ても、私が誰なのかを見間違えるようにしようと。まず、頭をチリチリにパーマしたし、メガネも視力が似た友人のものと替えて使った。その上、行事当日の演出者シン・スンホ先生の強要(?)で、着ていたジーンズをスカートに着替えたので、それなりにほとんど完ぺきな変装をしたわけだ。

その時借りてはいたスカートの持ち主は春川から来たオ・ヘウォンという女子中学生だった。余裕がなくて返すことができなかったが、今も家に保管している。この記事を読むことになれば、その時の私のジーンズとヘ・ウォンさんのスカートを交換をする心の準備はないのだろうか・・・。

「江辺歌謡祭」TV生放送時間のカウントダウンが始まった時、私は瞬間的に現場から逃げるところだった。父が近づいて来たのだ。叔父と叔母も一緒に。

叔母はMBC FMを通じて江辺歌謡祭の案内放送で私の名前を確認し、直ちに父に連絡して私を「捕らえに」「出動」したのだった。

私を一時見おろした父の口から想像もできない言葉が流れて出た。「せっかくこのようになったこと、必ず1等になりなさい、学生時代の良い思い出を作ると思って・・・」

夢にも見られなかった「応援団」が現れたのだ。あらためて決意を固めて舞台に上がった。観客席の中の父と目を合わせて呼吸を整えた。

それなりに最善を尽くしてを歌ったが、「大賞」を授かるなんて想像さえしなかった。

私が心の中で「1等」と目をつけたチームは、「アダダ」という歌を歌ったあるデュエットだった。彼らがどの順位にも入ることが出来なかった事実は、今も理解することができない。

(「Jへ」)で、大賞を獲得した後、私はあらゆる流言に苦しめられなければならなかった。いったい「J」が誰なのかということだった。ある新聞か雑誌は、「J」の仮想図をカラフルに載せたりもした。長身に俊秀な容貌だが、洋服の上着に韓服のズボンを好んで着る変わり者の文学青年とか、実名は「ノ・ソクヒョン」なのに「ノ・ソクチン」というペンネームを使うとか、「J」というイ・ソンヒの祥明女子高時代の片想いとか・・・。

    (注)歌「Jへ」に登場する「J」については、作者のイ・セゴンの言葉から知ることができる。

あまりにも問い質すので、ある席だったか「J」という私の甥(姪)の「ジェヒ」を意味すると話してしまった。その声を聞けなかったある記者は、「ジェヒ」が誰かとまた何度も尋ねた。「ジェヒはわが家の子犬の名前です」

冗談で発した返事だったが、いやはてさて、その記者はその話をそのまま記事にしてしまった。「『J』は、イ・ソンヒが飼っている犬の名前だ」と。

誓って、特定の「J」は、この世界にいない。子どもも、青少年も、また中年層さえも口ずさみながら歩いたように、「J」という、誰もが自分の胸中深く大事におさめている思い出の恋人であることもあれば、また、幼なじみであることもあるのだ。チャン(Jang、장)さん、チョ(Jo、조)さん、チョン(Jeon、전)さん、チュ( Ju、주)さんなどが、自分を忘れられないという歌詞を聞いて、非常にうれしがるという話も聞いた。

(「Jへ」)は、私としては信じられないほど大ヒットをした。1985年1月には、放送回数95回で、最も放送された曲になるほどだった。その時、2位はナミ(나미)氏の「クルクル(빙글빙글)」、3位はイ・ウンハ(이은하)氏の「恋もしたことない人は(사랑도 못해본 사람은)」であったと記憶する。

(「Jへ」)の人気は、MBCとKBS両放送局の間の見えなかった「壁」を崩したという話も聞いた。その前までは、MBCの歌謡祭の出身歌手がKBSに出演するということはほとんど想像も出来ないことだったので、私は今でもその時「糸口」をつけたのをこころよく思っている。

さらに、その年12月30日には、KBS「放送歌謡大賞」の新人賞まで受賞した。MBC側で、それとなく期待を抱いていたが、ライバルの放送会社から賞まで与えるとは・・・私もうれしかったが、MBCのシン・スンホ先生は私よりもっと喜ばれた。「ソンヒ(ソニ)よ、きみ、堰の水を切ったね」

MBCでは、その翌日(12月31日)、私は10代歌手に選ばれたし、新人賞に加え最高人気歌手賞まで上乗せてくれた。 3冠王・・・江辺歌謡祭(7/29)以後、ぴったり五月ぶりにあげた収穫だった。

TVをつけたりラジオをつけるたびに響き渡る私の歌に父は慌てた。仕事がそんなに大きくなるとは(?) そこまで予想できなかったのだ。「おまえ、それは趣味でやったことではなかったのかい?」

しばらく歌って彷徨(?)していれば、再び勉強するだろうだと信じた父は、日ごとに職業歌手になっていく私の姿に、ある危機感を感じたようだ。

芸能人に対してはいつも否定的な見解を持っている父との「暗闘」は、かなり長い間持続した。しかしながら、「子どもに勝つ親がいるだろうか」。結局、父は条件付きで、私の歌手活動を許諾した。

「醜聞を起こして、マスコミの噂にのぼる歌手にはならないこと。外ではお前がスターかも知らないけれど、家に帰れば私の子どもであり、私にとってまだ子どもでしかないことを肝に銘じること。 少しでも様子がおかしいなら、再び歌を歌えないようにするぞ。」 おおまかにそのような言葉だった。

今は、TV画面に映った私の姿と歌をモニターしてくれるほど私の生活を理解している父に、私はなかなか歌謡界の暗い面を話せない。私自身に関しては、常に恥じることがない生活をしてきたので、父の前でいつも堂々ととしていることができる。

私に対する周りの評価はどうだか分からないし、また別に耳をかたむけたい気もないが、私の両親に関する「悪評流言」(デマ)は断じて説明しておかなくちゃいけない。

父は僧侶であるから、言うまでもなく母もまた僧侶を夫としているので、勤倹節約する生活が体質化した人たちである。

したがって、娘ひとりの(おかげ)で贅沢な暮らしをしながら、貴族生活をしているという噂は、話にもならないことだ。歌手が歌数曲ヒットさせると、まず「夜の舞台」(マイナーイメージの舞台)を流れることがわたしたちの現実だが、両親は酒場で歌を歌うことだけは口を極めて止める。最も簡単に大金を握ることができる所なので色々な誘惑も多いが、私自身「夜の仕事」に出て行くことはいやだ。デビュー当初、何も分からない状態で「先輩歌手もみな出て行くので・・・」という考えで、いくつかの営業場所を転々としていた事実を今でも恥ずかしく思っている。

父は、私のために気苦労をたくさんした。娘の有名税を元手に宗団の要職に座ろうという誤解が嫌で、何と2年も寺院を離れていたりもした。

母は今でも、市場の床に散らばっているハクサイのくずやカブなどを拾ってくる。節約が習慣になったのだ。周りではこのような母を巡って、井戸端会議がはなはだしい。「外車に運転手まで置いて通う娘、恥ずかしくもないのか。どういうショーだ。貧乏たらしい様をあらわにしているね。ケチん坊。」 後生だから、「スター・ママ」と色眼鏡で見ないで、家庭を築いていく「主婦」としての私たちの母にきれいな視線を送ってくれるのをお願いする。

私は、(「Jへ」)を歌った時から、歌唱力はいい歌手という評価を受けてきた。私も認める私の歌の実力は、1984年11月、チョ・ヨンナム(조영남)氏が進めていた(KBSの)「ナイト・ショー」に招待されて、その場で初めて接したノ・サヨン氏の「あなたの影(님 그림자)」を歌った時、そしてMBCの「ショー2000」に出て行って「キャンパス ベスト10」の曲をひきつづき歌った時、完全に「公認」された。

前回、うっかり忘れて落とした話がある。江辺歌謡祭の決選で、<4>のメンバーで共に歌ったイム・ソンギュンさんとの関係についてのことだ。

江辺歌謡祭で大賞を受賞した後約3ケ月の間は、イム・ソンギュンさんとデュエットで活動した。デュエットという性格上、私は彼に付いて歩く時が多かったし、周囲では私たちの二人の間を恋人関係まで歪曲したりした。

私はそのような視線が負担だったし、また江辺歌謡祭に当初ソロで参加したように、再び一人で歌いたい欲が出た。それで、私が先に決別を宣言したいきがかりで、ソロアルバムを出すことになったのだ。「<4>の名前を借りて優勝しておいて、なぜお前一人だけスターの振舞いをするのか」という当時の一部難詰に対しては、「歌に対する欲念」のためだったと答えれば十分説明できるだろう。

なおかつ、<4>のメンバーや学校の中では、私のソロ活動に何の反感もなかった。おだてたり、けなしたりして愚弄した人たちは、私たちのグループや私とは何ら関連ない人物たちだけだった。

(「Jへ」)で、1等を「食べた」(受賞した)直後、私は地球レコード社と専属契約を結んだ。その時、契約金の名目で受けた金があれこれ差し引けば、5百万ウォン。生まれて初めてつかんでみた「大金」だった。その金は、全額父の白内障治療費に使われた。これまで、「芸能人」になろうと決意した娘のためにかなりひそひそ言われた父に、少しでも報いたというやりがいを感じる一方、何か相殺されたような妙な快感(?)も味わったことを告白する。
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2011年6月6日月曜日

イ・ソンヒの詩「マックス・ミュラーの『ドイツ人の愛』を読んで」

「ドイツ人の愛(Deutsche Liebe)」(マックス・ミュラー:神話学者)という小説がある。先日(5/20)のソウル漫歩で入手した、イ・ソンヒの詩集「去る者だけが愛を夢見ることができる(떠나는 자만이 사랑을 꿈꿀 수 있다)」(LPレコード版、1990年)に所収の詩「マックス・ミュラーの『ドイツ人の愛』*を読んで(막스 뮐러의 '독일인의 사랑'을 읽고 )」がなければ知ることもなかった。
(*)「ドイツ人の愛」は、「独逸人の愛」(相良守峯訳:太陽出版社、1944年)、「愛は永遠に」(相良守峯訳:角川文庫、1953年)というタイトルで出版された。

イ・ソンヒのこの詩は、「愛は長く待たなければならないもの/しかし愛は一瞬にしてたずねてくるもの/そして愛は絶対的なもの/そして愛は利己的なもの/結局、愛は一度きりのもの」と要約されるだろう。彼女の26歳のときである。

幸いWeb上で、小説の一部(2番目と3番目の回想?)を抄訳(訳:中川英世、高岡法科大学紀要Vol.10、Mar.1990)であるが読むことができる。感謝。
随分と大袈裟な題名だが、その内容を要約すると次のようになる。

・小説は、主人公の一人称「私」で、回想風に語られている。
・幼い6歳の主人公は、父親と一緒に初めて侯爵夫妻に出会い、そのときの素朴で単純な愛情表現の振る舞いを父親から咎められ、「よその人」の存在を知り、その意味を学ぶ。純粋で深い愛情に包まれた子どもの世界から、子どもであることをやめてしまう世界に進むのだが。
・「よその人」に対する新しい愛は、渇望する愛であって、献身的に尽くす愛ではない。突き詰めれば、自分本位の愛である。そのことから、返って「見知らぬ人」こそ、もっとも近しい人だということに気付く。

・学校に通うようになった主人公は、侯爵夫妻の子どもたちと一緒に遊ぶことが許される。この頃、「私のものとあなたのもの」との所有の混乱がおこる。
(この辺りについて、作者つまり主人公のいささか社会性-他者との境(さかい)の認識-の乏しさを感じる)

・侯爵の亡き前妻の忘れ形見である、病弱で無口に寝椅子に横たわっている娘、マリーアと出会う。主人公は、成長して少年になっており、彼女を「よその人たち」のなかに見ることができるようになっていた。
・何歳か知らないマリーアは、子どものように見えたが、その物静かな態度から、もはや子どもではあり得なかった。ある暖かい春、彼女は誕生日に自ら指にはめている指輪を、4人の弟妹たちに渡す。そのとき、少年は彼女との間にある「よその人」の境を忘れる。彼女の最後の指輪を持ちたいという欲求にかられる。それに気付いた彼女は、いずれ皆の前から去るときに身に着けておきたかった指輪まで彼に渡した。
・ようやく「よその人」との境に気付いて少年は言った。「この指輪は、あなたが持っていかなければなりません。何故ならあなたのものは私のものだからです。」
指輪を自分の指にはめ直したマリーアは、「あななたは自分の言っていることが解らないのよ。自分が何をいっているのか理解することを学びなさい-そうすればあなたは幸せになれるでしょうし、多くの人々を幸せにすることができるでしょう。」と応えた。

(本ブログ関連:イ・ソンヒ詩集”1、2”)

2016年4月26日火曜日

イ・ソンヒの「オズの魔法使い」

イ・ソンヒの珍しい映像がある。1990年4月28日、世宗文化会館(大講堂)で公演された、子ども向けミュージカル「オズの魔法使い(오즈의 마법사)」で主役のドロシーを演じた。そのときの「Over the Rainbow(虹の彼方)」を歌う姿をYoutubeで見ることができる。

(本ブログ関連:”オズの魔法使い”)

このミュージカルに出演した翌年、イ・ソンヒは長文の自伝を著している。その中で、彼女が珍しい舞台姿(いつものズボンから童話に相応しいスカート)になったことなどについて、次のように語っている。既に本ブログに紹介したものだが、抜粋再掲する。この語りの前文に、ファン層は女学生だけでなく、男性ファンもいたと説明している。このように子ども向けとはいえミュージカルを次々と連続することで、彼女のファン層が厚くなった理由もうなずける。

(本ブログ関連:”資料:이선희 Profile”)

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・昨年の春(1990年4月)、ミュージカルに出演したことがある。世宗文化会館で幕を上げた「オズの魔法使い」の主人公「ドロシー」役だった。ドロシー役は、米国ではダイアナ・ロスが引き受けたとか。とても手に余る舞台であった。

・スカートを着て靴をはいたまま、幕間ごとに明かりの消えた舞台裏を飛び回ったら、台詞をいうたびに息があがってフウフウしなければならなかった。また、緊張の連続だったので、体と心が別々に動いた感がなくはない。気球に乗って帰宅する最後の場面では、靴のかかとに装着された豆電球に点灯しなくて慌てたりもした。確かにかかとをぶつければ明かりが「パッ」と入ってくることになっていたが・・・分かってみれば、あちらこちら暴れる(?) 間に、つながれた電線が切れてしまったのだ。

・何も知らずに飛びまわったミュージカルを通じて、私は多くのことを悟った。中学2年生だった末っ子の弟(妹?)*が生まれて初めて私の姿を見に公演会場にきて、また非常に不思議に思った。漫画の映画やビデオでは味わうことが出来なかった夢と希望を感じたと言った。「ずっと大きな」子がそうなのだから、まして子供たちが・・・

    (*)イ・ソンヒは長女で、弟とさらに2人のきょうだい(男?女?)がいる。

・公演練習のために、放送出演など私の「生業」が支障をきたすことになって、公演後遺症で病んで横になることが心配だけれども、私は今春にもミュージカル「ピーター・パン」に出演する。ズボンではないが、草色のタイツを着た万年少年のピーター・パンの役に。

・体が「パキムチ(葱キムチ)」*になれば、いいのだが。私には、万病に効く、薬のような参鶏湯(サムゲタン)一杯あれば軽く「元気回復」するのを・・・

    (*)葱キムチ: 疲労回復に効能があると、ネット上に記述ある。

・ミュージカルにすっぽりはまってみると欲が出る。子どもと青少年に夢と希望をあたえる専用の文化空間をたてたいのだ。それで、今でも日本や米国など外国の資料をこまめに集めている。合わせて、誰かが「コンチュイ・パッチュイ」*など、私たちの話をミュージカルで脚色してくださるように祈る。

    (*)忘れ形見の娘コンチュイが継母とその娘パッチュイにいじめられるが幸せをつかむ。(シンデレラと似る)
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(Youtubeに登録のD I V A ■ LEE SUN HEE ■に感謝)

2013年10月5日土曜日

(資料)イ・ソンヒのスター・ストーリー「2.私が三歳も若く生きることになった理由」

先日(9/27)、「スポーツ韓国」の紙面(1991年3月8日~4月5日)に連載された、イ・ソンヒ27歳当時の「スター・ストーリー」記事の目次を紹介したが、その第2回目をここに載せたい。感謝。

(本ブログ関連:”(資料)イ・ソンヒ(27歳当時)の「スター・ストーリー」”、”資料:이선희 Profile”)


[2] 私が三歳も若く生きることになった理由
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小さいことは美しいんですって?
わたしは背が小さくて、
あなたはわたしを見おろしているじゃない。

まるで、小さな子どもを相手にするように、
あなたはわたしを子ども扱いする。
けれど、わたしは大人よ。

それでも、あなたの前ではどうしようもありません。
胸がドキドキするのに、
顔が赤らむのに、
何の文句を言うことができないのです。

大きくなりたいです。
あなたの心の中で。
あなたの寝ついた間に、こんなに大きくなって、

朝になったら、あなたは見つけるでしょう。
手に負えないほど大きくなってしまったわたしを。


私の自作詩「小さな不満(조그마한 불평)」の全文だ。

私は(陰暦)1964年11月11日、忠清南道保寧郡珠山面篁栗里257番地に生まれた。

父(이종규、54歳)、母(최병문、.52歳)は、私が最初の子供なのでそれとなく息子であることを期待したようだ。

更に母の胎夢は唐辛子畑で草取りするものであり、父は裏山で虎が家の垣根の中に入ってくる夢を見たので、内心息子であることを確信したという。

    (参考)「(資料)胎夢」

「唐辛子」は言うまでもなく、「虎」も勇敢な男児の象徴だから、息子を望んだのもそれほど無理はなかったと思う。

いずれにせよ私は女の子で世の中に出てきて、山の神を意味する虎の夢のために、私の名前には、神仙の「仙」が入るようになった。

    (参考)イ・ソンヒの漢字名は「李仙姫」である。

娘が生まれただけでも残念なのに、新生児のときの私の姿は、それこそまともに一人前に用を果たすことができるかと疑がわれほどに、「姿」が言葉にならなかったという。両親によると、頭の大きさが体の正確に2倍だった。

私の戸籍上の生年月日は、1967年3月10日である。出生届は3年も遅れたのだ。
書類上は、この世で3年の間、存在していなかった他ならぬ私であり、みれば自然に色々な憶測も多かった。

    (参考)修正届けの遅れは、後の彼女のソウル市議会議員選挙立候補で問題となった。

未熟児なのですぐに死ぬと早合点をして、最初から出生届を先送りしたとか、あるいは戸籍上には64年生まれになっているが67年生まれのふりをして通しているとか・・・。

不本意ながら、なんと三歳も若返ることができた根本的な原因は、祖母と父との間の「コミュニケーション上の錯誤」だった。

その時も今も、常に寺と家を行き来している父は、私が生まれた直後に再び入山した。寺に入った父は、祖母に出生届けを頼んだので、当然戸籍に登載(登録)されていると考えていて、祖母は、昔の田舎の老人たちが当然そうであるように、うっかり忘れていたという。

そのせいで67年に生まれた私の弟も、私の戸籍上の年齢に合わせて出生届を1年遅らせなければならなかった。

大学卒業後、繊維芸術系で働いている弟は、私のために一才ほど減ってしまったことを返って幸いに思っている。 1年の浪人の末に大学に入ったが、各種の書類上は明らかに私の年齢で入学したわけだ。
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2013年11月30日土曜日

(資料)イ・ソンヒのスター・ストーリー「6.キリギリスのように歌いながら高3の熱い夏を・・・」

先日(9/27)、「スポーツ韓国」の紙面(1991年3月8日~4月5日)に連載された「イ・ソンヒ27歳当時のスター・ストーリー」記事の目次を紹介したが、その第6回目をここに載せたい。感謝。

イ・ソンヒが、高3のときに巡り合った音楽上の幸運、チャン・ウクチョ音楽室、作曲家イ・セゴンとの出会い、仁川専門大のときに音楽環境を整えようとした武勇伝、音楽サークル<4>(四幕五場)への参加、そしてMBC「江辺歌謡祭」への準備などを知ることができた。

(本ブログ関連:”(資料)イ・ソンヒ(27歳当時)の「スター・ストーリー」”、”資料:이선희 Profile”)


[6] キリギリスのように歌いながら高3の熱い夏を・・・
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(父親の意向で)絵を描けないことになると、しばらく疎(おろそ)かにした歌がやりたかった。喉(声帯)がうずうずした。普段なにげなく通り過ぎた音楽学院の看板が、突然両の目に入ってきた。

その音楽学院は、当時ソウル駅と三角地(삼각지)の間に位置していた「チャン・ウクチョ(장욱조)組音楽室」だった。

    (注)本ブログ関連:”チャン・ウクチョ音楽室”

音楽室の門を叩いたが、職業歌手や芸能人になるという考えは夢にもなかった。事実、私は高等学校を卒業する時までも、友人が芸能界のスターを偶像のごとく崇拝する姿をまったく理解することができなかった。

いずれにせよ、「一度、思う存分歌でも歌ってみようかな」という、私心ない気持ちでチャン・ウクチョ音楽室に出入りし始めた。それが高3の時だ。

他の人びとは「高3病」(ストレス)だ。「入試地獄」といって盛んに「大学受験との戦争」に没頭している時、私は絵を描けないので、歌を歌おうと打って出たので、完全に「くそ度胸」だったわけだ。 率直にいって、大学に行きたい気持ちがあまりなかったし。

音楽室に出入りしたりしたが、正式に登録してレッスンを受けたわけではない。「芸能人になろうと決心したのか」と、それこそ目をむいて反対する家で、どうしてあえて受講料をもらうことができようか。私に金を儲ける能力があったわけでもなく。

世の中に無料がどこかにあるだろうけれど、私の歌の実力が音楽室でも受け入れられたし、一種の奨学生同様の待遇を受けることになる破格の経験をした。

チャン・ウクチョ音楽室に入って、歌を歌ってみたいと話すと、当時あまり名が知られなかった作曲家のイ・セゴン(이세건)、ソン・ジュホ(송주호)氏などが「一度、見せてください」と冷ややかな反応を見せた。

私が全情熱を傾けて、ニール・セダカ(Neil Sedaka)の「きみこそすべて(You Mean Everything to Me)」(1960年)を終わらせた時、その方々は非常に満足な表情であったし、したがって私はいつでも喉が「うずうず」したら、音楽室に立ち寄るようになった。

1984年に(江辺歌謡祭で)、私に大賞の栄光をもたらし遭遇したのもまさにここだった。

実力は優れていたが、単に無名の新人という理由だけで、作曲家のイ・セゴン氏は、数多くの歌手に無視されなければならなかったし、心血を注いで書いたものは危うく永遠に、「J~、私はあなたを忘れた・・・」という、残念な思いをするところだったのだ。

    (注)本ブログ関連:”イ・セゴンと「Jへ」”

家中の激しい反対を押し切って、時たまではあるが、音楽室で気が晴れるまで歌を歌うことができたのは、高3の時期、両親と「生き別れ(親離れ)」をしたおかげが大きかった。

父の所属寺院が(ソウルの南の)城南にある寺に変わったが、それでも高3の私を転校させるには大学入試が気にかかったようだ。

それで、私は祖母と三人の歳下のきょうだい達と共に、ソウルの梨泰院の家で「準-少女家長」の役をして生きなければならなかった。

    (注)イ・ソンヒは長女で歳下に弟がいることは知っていたが、更に2人のきょうだい(男女?)がいる。

遊んでばかりいた子どもも高3になれば、慌てて入試勉強に没頭するのが常なのに、なぜか私だけは万事泰平だった。

そのとき、私の心は、イソップ寓話に出てくる「アリ(蟻)」よりも「キリギリス」の側に傾いていたようだ。だから、友達が夏の間、アリのよう熱心に教科書と格闘したときに、私はキリギリスのように歌いながら暑い夏を涼しくおくった。

学校の成績は、「正直」にもどんどん下に落ちた。しかし、心配もなかった。大学というところに対する羨望はそもそもなかったから。

▼ 「私は大学に行かないつもりだ」という話を両親の前でも大っぴらに言い放ったりしたからか、84年度の3月、仁川専門大(인천전문대)環境管理学科に合格しても、父は私が果たして滞りなくやっていくことができるかについて、まったく信じられなかったようだ。本当はそんなことしたくないけれど、娘が大学登録料(授業料)をこっそり引き抜いて隠すのではないか心配になって学校までついてきて、登録済証の印を何度も確かめた。

大学に登録はしたが、数十万ウォンの登録料があまりにも惜しかった。「そのお金さえあれば私がしたい音楽をいくらでもできるはずなのに・・・」考えた末に、私は環境管理学のとある教授を訪ねて行った。

今思えば一言で「話にならない」哀訴を教授にならべた。「私は歌を歌いたいのにお金がないのです。 だから、登録料の半分だけ返していただけないでしょうか?」、まあ、そんな話だったようだ。

しばらく、あっけにとられた表情をしておられた教授は、やがて私を説得し始めた。「音楽することを止(と)めるつもりはない。だが、学校まで止(や)めながら歌を歌わなければならないほど、切迫したわけではないじゃないか。熱心にやって、アルバムでも世間にまず出すようになったら是非手伝ってあげる。」

お言葉を聞いて見ると、句句節節(一言一句)正しい言葉なので、私は考えを改めて講義にも洩れなく出席し、大学新入生としての自由を謳歌した。

思う存分歌を歌うことができるところを物色した私は、校内の音楽サークル<4>の新入会員募集ポスターが目について一走りに駆けつけて入会した。

    (注)ここでいう音楽サークル<4>は、いわゆる「四幕五場」を指すと思われる。

<4>のメンバーは、音楽の実力は優れていたが、ろくな練習スペースが備えられない状態であった。私は、入学時の登録料を回してほしいと教授に駄々をこねた「勝ち気」だけ信じて、学長室に「談判」の長途(長い道のり)についた。学長面談の結果は、大成功だった。 <4>は、学校の建物屋上にある片隅に、ついにみすぼらしくても専用の練習室を整えることができた。

1学年の1学期が終わって夏休みが始まった。<4>は、その年7月29日のMBC「江辺歌謡祭(강변가요제)」を目標に猛練習に入っていったし、私は私なりに本格的に声を整え始めた。私が狙ったのは、秋のMBC「大学歌謡祭(대학가요제)」だったので、江辺歌謡祭はテストする一種の前哨戦ぐらいに軽く考えていた。
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(Youtubeに登録のAshley Maxに感謝)

2011年6月9日木曜日

(資料)イ・ソンヒの選挙広報物

今の歌謡界に、世代を通して口ずさめる歌を提供する歌手がいないようだ。歌手の力量というより、時代(すなわち生産側と消費側のスタイル)が変わってしまったからだろう。タレント歌手は、一部を除いて、舞台にグループで演じる姿が多く見受けられる。そんなグループ歌手のメンバー順位を、実質CD販売枚数で競わせて、「選挙」という名を借りてショー化するまでになっている。

OLPOST掲載のブログ記事「イ・ソンヒ 市会議員時の広報物と公約は?」(5/4、by白黒テレビ)には、本当に「選挙」をしたイ・ソンヒの当時の広報物(写真)をまじえて次のように紹介している。
・きれいな音色で感動を与えた歌手イ・ソンヒが、91年6月20日の(ソウル市会議員)選挙に、27才で麻浦(地区)から出馬当選した。所属政党は当時与党の民自党。
・[イ・ソンヒ候補の選挙公報]について、 なぜかぎこちない姿だが・・・「実践する麻浦の娘」というスローガンがやぼったく見える。([選挙公報裏面]にあるサブスローガンは、「麻浦は希望が必要です」、「麻浦は勇気が必要です」、「麻浦は実践が必要です」、および「実践する女性は未来の希望です」など。)
・イ・ソンヒは、言論(マスコミ)とのインタビューで、当時市会議員活動が人生に多いに役に立ったとして、多くのことを学んだし人生が簡単でないということを市会議員活動をしながら学んだと言っている。

(本ブログ関連:”市議会”、”市会議員”)

2011年1月3日月曜日

イ・ソンヒとトロット

イ・ソンヒの歌唱力については、守備範囲が広く、その実力から「国民歌手」といわれる所以であるが、その彼女が、トロットを歌う動画(「MBC歌謡コンサート イ・ソンヒ スペシャル」)が昨日Youtubeに登録された。今回も登録者は時の旅人の26apolloである。感謝。
イ・ソンヒが聴衆と一体となって実に軽やかに、そしてたくみに歌う、トロットメドレーの曲目は次の通り。
・シム・スボン「愛しか私はわからない(사랑밖엔 난몰라)」
・ナフナ「ムシロ(무시로)」
・チュ・ヒョンミ「片想い(짝사랑)」

(本ブログ関連:”シム・スボン”、”イ・ソンヒの本歌取り”)

なお上記の他に、イ・ソンヒが圧倒的な歌唱力でトロットを歌う代表的な動画がYoutube にある。曲目は次の通り。
・イ・ミジャ「椿娘(동백 아가씨)」
・キム・テヒ「昭陽江の娘(소양강 처녀)」

(Youtubeに登録のtheykilledmon、013pic、www0433、naragoyo、yokosuka30に感謝)

2017年6月17日土曜日

イ・ソンヒの歌う「麦畑」

KBSの国際放送「KBS WORLD」が放送する「国楽の世界へ」を毎週楽しく聴取している。といっても、短波でも中波でもなく、もっぱらネットを通じてだ。「国楽」というと重々しく聞こえるが、内容は豊富で、かつての支配階級の宮廷音楽や教養人の雅趣に富んだ風流音楽、日々たくましい庶民の歌(民謡、祝い歌や労働の歌)、庶民の娯楽であった物語りのパンソリ、更には宗教に関わる仏教音楽(梵唄)や土着的な巫俗音楽まで。そのうえ、ネイティブの録音版から、いまどきの音楽家によるモダンにアレンジした演奏まである。一週間に一度、ある意味直截的に理解できるよい機会でもある。
(解説紹介のキム・ボエさんの優しい語り口が素晴らしい)

国楽について、いつも気になることがある。物語りのパンソリを、市民が果たして聴き取れているのかということだ。実は、漢語の羅列といっていいほど満ちている。東洋文庫の「パンソリ」を参照すれば分かることだが、大筋は大衆的物語りをベースにしているのだろうが、採録者の教養と自負がなせるせいか極めて晦渋で衒学的なのだ。
歌舞伎の演目の場合、通しというより、代表的な幕を選んで観劇することが多い。パンソリも、そんな鑑賞スタイル(大衆受けする場を聞く)かもしれない。聞くところによると、若い人にパンソリの浸透は低いというが・・・。

上記番組で「麦刈りや脱穀に関する曲」の紹介があったのを、一昨昨日(6/14)のブログに記した。麦は、水はけの整わぬ土地柄でも収穫できる貴重な食べ物だ。わたしの地元も、江戸時代に開発された武蔵野新田の歴史がある。以前、郷土の「麦打ち歌」について図書館で調べてみたことがある。旧い村ごとに違っていて、意外に多様なのに驚いた。とはいえ、いくつかのバージョンに、若い男が娘を探すような味付けがされているのを見てニヤッとしたものだ。民謡はこうでなくちゃ。

(本ブログ関連:”麦打ち ①、②”)

ところで、韓国大衆に愛されている愛唱歌に「麦畑(보리밭)」(1952年、作詞パク・ファモク、作曲ユン・ヨンハ)がある。イ・ソンヒも随分と格調高く歌っている。この曲を、韓国のクラシック歌手たちも歌っているのをYoutubeで多数見る。ベルカント唱法というのか、聴いているうちに重くなってしまう。イ・ソンヒの場合は、大衆歌手だから素直に聞き入ってしまう。それに、Youtube映像の、彼女のつけまつげが、かわゆくてしょうがないのだ。


麦畑(むぎばた) 間道(あいだみち)、通り抜ければ
誰かが呼ぶ  声がして
私を止める
昔の想いが  寂しくて
口笛吹けば
きれいな歌、耳元に  聞こえてくる
振り返れば、誰れも  見えなくて
夕焼けの  空だけが
目に満ちる

(Youtubeに登録のjenny.kimに感謝)

2011年1月30日日曜日

イ・ソンヒの娘(2)

イ・ソンヒが14集アルバムを発表して、コエックス・センターでのコンサートを控えた頃、韓国日報から受けたインタビュー記事(2009年3月19日)に、同アルバム収録曲「あなたの道(너의 길)」(歌詞)について、次のように記されている。
・娘(양원이)のために作った曲「あなたの道」は、子供の教育への彼女ばかりの信念が盛られている。娘に伝えるメッセージだが、自分を励ます話でもある。
・「人生そのものが長距離じゃないですか。核心は『人生は思ったより長く、長いだけ当然やり損なうことがある』ということでしょう。失敗をしたり、自分より優秀な人が多いということを知ったとき、自信が崩れるどんな瞬間が来ても、最も重要なのは、自分を愛しなさいということですよ。」

「そして決して一つだけ忘れないで。あなたがどんな姿だったか私には、あなたはとても愛らしい、いつもそんなひとだったのよ。」と、娘に対する母親の気持ちは変わらない。

(本ブログ関連:”イ・ソンヒの娘”)