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2014年7月4日金曜日

(資料)デビュー30周年迎えた「サニー・オンニ(お姉さん)」

「女性東亜」(5月号、p296-299)に掲載の記事「デビュー30周年迎えた『サニー・オンニ(お姉さん)』の驚くべき帰還」(#1#2)(ク・ヒオン記者)は、イ・ソンヒの言葉を借りて、彼女の音楽の原点、および30年に渡る音楽活動(人生)と音楽観について次のように記している。
(イ・ソンヒの言葉の部分を太字表記した)

なお、同時期のインタビュー報道である「レディ京郷」の記事「イ・ソンヒ 伝説を超える」と内容が重複するところがあるが、以下そのまま掲載する。

(本ブログ関連:”SERENDIPITY”)
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<#1>
歌手イ・ソンヒが、デビュー30周年を迎えて、(これまで)生きてきて感じたことを盛り込んだ15枚目のアルバムを出した。率直な家族史も虚心坦壊に公開した。

「太陽のように光を放つあなたよ(태양처럼 빛을 내는 그대여)」、3月25日ソウル、松坡区のウリ金融アートホールで開かれた彼女のデビュー30周年ショーケースで、歌手イ・ソンヒ(50)を見て、ラブホリクス(Loveholics)の歌(「Butterfly」)の歌詞が浮び上がった。15集の「セレンディピティ(세렌디피티)」で帰ってきた彼女は、イム・ジョンヒ、Gummy、T.A Copy、イ・スンギ、ユン・ドヒョンなど、後輩歌手の応援を受けて新曲を熱唱して拍手を受けた。今年で彼女をマネジメントして17年目である所属事務所(HOOK ENTERTAINMENT)のクォン・ジンヨン代表は「百余曲を書いては消してアルバム準備する姿を見て」、かくして、この歌手のマネジャーをしているんだなと「考えた」と話した。

1984年、第5回「江辺歌謡祭」大賞受賞で派手にデビューしたイ・ソンヒ、デビュー曲「Jへ」は清らかな声と爆発的な歌唱力が調和をとれて、彼女を一気にスターの隊列に載せた。その年の放送と授賞式をさらったのはもちろんで、KBS「放送歌謡大賞」新人賞を受け、MBCでは「10代歌手歌謡祭」最高人気歌謡賞・新人賞・10代歌手賞を以って最初の3冠王にのぼる珍記録もたてた。その時も今も、彼女はショートヘヤに丸縁メガネとズボン・スーツ姿だった。

▼コンピュータ習いながら精魂込めて作ったアルバム

15集のタイトル曲は「その中にあなたに出会って(그 중에 그대를 만나)」。彼女のアピール力濃厚な声と美しい旋律が交わったポップ バラードだ。 「ファッション・ショーやイベント会場行っても照れくさくて、フォトウォール(Photowall)*の前に立ってみたことがない」という彼女だが、この日だけは慎ましやかな姿でカメラ前に立ち、フラッシュの洗礼を楽しんだ。

    (*)フォトウォール: イベント会見時に背景に置く、複数の関係企業のロゴを貼り付けた壁。

このように記者懇談会を開いてアルバムを紹介することは、私たちの時代には定着しなかった文化なので、初めて享受してみるんですよ。そのためか、睡眠も十分足りてなかったが、これまで以上に嬉しい気分で最善を尽くして舞台に立つべきと考えて、ここに上がってきています。アルバムを準備する2年間、デビュー30周年になれば、どんな歌をどのようにしようか、歌手としてどんな位置づけを確保しなければならないだろうか、悩み、孤独に準備しましたよ。アルバムが世の中に出ると、一人だけの音楽でない、多くの人々の音楽に成っていくようで楽しいです。おののきますが、とても落ち着きますね。

歌の歌詞には、彼女が生きてみて感じて気付いたことを盛り込んでいる。

いつもそばにあったものをよく知らないまま、常に別の処を眺め、羨ましがって、人に付いて行こうとう気持で過ごしたようです。ところが、ある瞬間、そばにいたことを知って、それによって人生が違うように見えるんです。一人だけの悟り(でしょうか)? 今回のアルバムには、家族に対する内容もあるし、歌う人として受けた感動に対する内容もあります。デビュー後、多くの人たちが呼応してくれるとき、『ありがとうございます』、『幸せです』といったけれど、トップから降りてきて、過ぎた時間を眺めると、その言葉がより多くのものを含んでいたのに、そこまで分からなかったんだなと思いましたよ。私のファンに、絶えず自らを鞭打って発展していき、今もどこかへ向かって行きつつあるとのをお見せしたかったのですよ。私を好きになった方々に対する記憶、私が享受した人気、まさにそんなことが暖かい力となって、私がこのように(年月が)(た)っているという話をしたかったのです。

今回のアルバムの収録曲11曲中、イ・ソンヒ作曲が9曲、作詞が7曲だ。それだけ、シンガーソングライターとしての力量が集約されたアルバムだ。後輩であるイ・スンギの話によれば、コンピュータもできないイ・ソンヒが直接コンピュータを習いながら作業するほど熱意を見せたと。イ・ソンヒは、「14集までは、編曲やアルバムの外的な部分には参加しなかったが、15集はそこまで残らず参加した」と話した。アルバム作業をしながらあったエピソードも聞かせてくれた。

どうしてもモニタリング(評価)してくれる人たちが会社の人以外にいないけれど、歌作りして、聞いてみてといっても別に反応がないのです。それでは『別に良くないか?』と思って消し、また他の歌を作って、そのような形で百余曲近く完成しました。『手応えあるまで、作ってみよう』という心情でした。録音に参加した友人たちがみな若かったんですよ。朝起きて夕方に寝る私と別に、その友人たちは午後の5時頃起きて眠らずに夜を明かして、明け方の5~6時に寝入りましたよ。折衷して、午後の4時から歌ったが、皆赤くした目で遅く出てきて、『先輩、申し訳ありません』と(笑い)。私がそのフクロウたちを連れて作業するのに、苦労をちょっとしましたよ。

彼女は、「普段(人々の反応に対して)モニタリングをたびたびする方だが、世代により私のイメージが違うのですよ」と、「デビュー当時を記憶する方々にはボーカリスト、(映画)『王の男』に挿入された『因縁』で私を、子どもがいない(若い)友人たちにはシンガーソング・ライターという認識がより強いようだ」といった。

あえて、シンガーソング・ライターで記憶されるなくちゃいけないという考えはないです。私はボーカリストです。歌うのが良くて、マイク握るが良くて、言葉ではなく歌で感情表現をもっとうまくできるし、それが大好きです。直接曲を書く理由も、私の声をさらに良く表現できてるからです。ふだんの私は、私が一番よく分かりますね。低く話すとか囁(ささや)く声など、専門の作曲家が表現できなかった自分を表現しなければならないように見えて、曲作業を始めました。ロック、国楽などの色々なジャンルの音楽をやりながら感じた点を表現して見たら、欲求が生じてきて、他のジャンルはどうだろうか度々実験することになりましたよ。もちろん、実験が成功したことも、失敗したこともあったんですよ。

「これから、どんな方向に進んでいくのか」と尋ねると、すぐに彼女は「これから、どのようにしていくのか…」といいながら質問を低く口ずさんだ。

好きなジャンルはバラードです。ボーカルが勢いよく歌って、シャウティングして込める力でなく、私たちの言葉と音色が与える力があるけれど、そのような力を表す音楽ならばジャンルに関係なく歌うでしょう。歳も取って、幼いとき聞いた音楽がみなそのためか、歌詞が与える力が無限に大きな歌を好きです。ただ流される曲も良いけど、十分にかえりみて考えることができる歌詞がはるかに良かったんですよ。今後もずっとそのような音楽を作って、そのような歌詞を書くつもりです。どんな方向に進むかは、私がどのように変るかも知れなくて話せないが、留まっていないだろうということだけは確かに申しあげることができます。


<#2>
彼女は、代表的な芸能界の「童顔(若々しい)スター」に挙げられる。彼女は、「笑い話しで施術したといえば、そんなことが記事に大きく出る」といったり、「そうでなくて、マッサージを受け、皮膚科も通っている」と話した。

私もいっぱい変わりました。けれど、変化が大きくないとお考えになるのは、私から感じられるはっきりしたイメージのためでしょう。多分、髪をアップしてドレスを着れば時間の痕跡を探すでしょうが、今もズボンにジャケットを着ているから(笑い)。前は、すっぴんでお会いしたが、今は化粧を少ししたということ位いですよ。

「オンニ(お姉さん)の帰還」は、茶の間のテレビ劇場視聴率上昇にも一助となった。2回に渡って放送された、彼女が出演したSBS「ヒーリング・キャンプ」は、同時間帯視聴率1位を記録もした。彼女は過去、マイケル・ジャクソンの両親にラブコールを受けた理由を聞かせた。27才のとき、女性歌手5人を集めてアジア版「ジャクソン・ファイブ」を作ろうと思ったマイケル・ジャクソンの両親から、ニューヨークで活動しようという提案を受けたこと。彼女は、「オーディションまで合格した」と明らかにした。この時期、彼女は、日本のグループ「安全地帯」が書いた曲で日本に進出する考えもあった状態であった

▼留まらなかったけれど、いつもその場にいた歌手

しかしながら、彼女の海外進出は結局失敗に終わってしまった。代わりに彼女は政界に出た。イ・ソンヒは、その年(1991年)、最年少のソウル市市会議員*になって話題を集めた。彼女は「韓国にしばらく立ち寄った間、マネジメントから私と相談なく市会議員出馬の書類に印鑑を押した。私がしなければ色々な人が難しくなる状況だから、やむを得ず海外進出の夢をあきらめて政治に挑戦した」と海外進出が失敗に終わった理由を明らかにした。

    (*)本ブログ関連:”ソウル市市会議員

「ヒーリング・キャンプ」では、率直な彼女の家族史も聞くことができた。イ・ソンヒは、帯妻僧(結婚して妻と家庭をもうけた男性の僧侶=妻帯僧)の父のおかげで幼い時期、森の中で育った話も聞かせた。彼女は「祖父は風流を知る人なので町内で歌(歌唱)ったりしたが、父はとてもきちんとした人である。学校は、市内の中心にある所に通ったが、家族は森の中の寺で生活した」として、「念仏をたくさんそらんじた父のおかげで喉ができあがったようだ」と話した。2006年、空白期をもって、娘と共にアメリカ留学に進んだ『情熱ママ(教育ママ)』でもあるイ・ソンヒは、現在アメリカ名門大であるコーネル大でジャーナリズムを専攻している娘ユン・ヤンウォンさんに対しても言及した。

「(娘)ヤンウォンが幼いときは、天才だと思いました。胸に抱いて童話の本を読んだが、二三度読んで、その場面を開(あ)けるとそのまま話しましたよ。すべての母親たちが勘違いするように、内心『私はなかなか良い子供を産んだ』と思いました。本を読んでやって、その本(の話し)をより合わせてストーリーを別のように解釈すれば、この子は再びより合わせて別の話をしました。想像を続くようにする私たちだけのゲーム方式でした。ところで、本を買って読んでみなさいといったところ『ママが読んでくれたら分かるの』というんですよ。ストーリーを覚えて想像したのであって、文自体は分からなかったのです(笑い)。

先立って、彼女は記者懇談会で「最近、音楽のトレンドを逃さないように、人気歌謡番組をしばしばモニタリングして、弘大のインディーバンド公演をたくさんたずね歩く」と明らかにしたりもした。長い時間愛されることができる彼女だけの力は何だろうか。

「振り返ってみると、毎年いつも良いことだけではなかったです。ある時は、一人だけの時間を通り過ぎたりもしたし、今よりもより多く関心を集めて一年をむかえたりもしましたよ。それでも、今こんなにうれしい今日を享受することができるのは、私が『元気だったため』なようです。『元気だった』というのは、留まらなかったということですね。ある方法で成功したがそれを捨てることができて、もちろん新しい試みをして足を踏み間違える時もあるが、恐れないでずっと何かをしようとしたので、多くの方々が『イ・ソンヒはいつもその場にあった』と記憶してくださるようです。今後も引き続き働くだろうし、数多くの質問を私にすることで、挑戦することで、その時ごとに好き嫌いが分かれるだろうが、今までそのようにしてきたように失敗するとおじけづいたり萎縮しないでしょう。」
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