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2014年7月3日木曜日

【多摩の代官】享保改革と農民出身代官の活躍

地元公民館で、江戸時代に多摩地区(武蔵)を治めた代官による自治機構を解説する、法政大学大学院の馬場憲一教授による、第5回*講演「享保改革と農民出身代官の活躍」を聴講した。

(*)前回の第4回テーマは、「【野外研修】八王子の史跡を訪ねて」だったが、人数が限られ参加できなかった。

(本ブログ関連:”多摩地区(武蔵)を治めた代官”)

江戸幕府は自治機構として、幕府創立(1603年)から約100年近くの間、「世襲代官」を使ってきたが、その後は任地が変わる「僚代官」へと交代していく。その江戸中期に登場した将軍徳川吉宗(将軍:享保元年(1716年)~延享2年(1745年))は、緻密に時間をかけ、2重体制により「享保の改革」を行なったと次のように解説された。
・吉宗を将軍に推挙した旧老中の交代時期を待った。(機の熟すを待つ)
・新田開発にあたり、財政的裏付けのため、豪商の集まる日本橋に、開発について「高札」を立てた。
・農政で、従来の「地方(じかた)支配」とは別に、(別働隊として)江戸町奉行大岡忠相の配下に農民出身代官を配置した。

農民出身の代官として、今回は川崎平右衛門について紹介された。
・川崎平右衛門は、新田開発の中で生活に困窮する農民に配慮した、社会政策的な施策として、公共事業で日当(麦)を支給、商品作物の奨励、栗林の栗買い上げ制度など設け、現金収入による生活の安定化をはかった。

(本ブログ関連:”小金井の新田開発”)


(感想)
川崎平右衛門は郷土史に語られることの多い人士で、その名をしばしば耳にする。能力を認められ、他の地でも代官を務めたという有能さを知る。
世襲代官が時代のなかで排され没落していく一方、農民から有能な行政官になり得る時代へと変遷する。庶民の生活を知ったところから人望を勝ち得た人物であり、それを見い出した上層部の懐の深さも知る。

また、徳川吉宗が将軍職を発揮するため、時機を待つだけでなく、人を見い出し配置・組織する周到さを知る。