韓国の仏教新聞の書評記事、「仏教の生活方式・文化を訪れる歴史旅行」(10/31、アン・ジクス記者)は、同紙記者チャン・ヨンソプ(ペンネーム、チャン・ウンヨン)が著した、「仏教に関する些細だが、決定的な問い49」(ダムエンブックス)を紹介している。
同書は、仏教について一般的な49の質問、「尋ねるには曖昧な、些細だが気になる問い」に回答するという。僧侶がなぜ菜食(精進料理)なのか、仏教から見た「神」とは、「高僧」とはどういう僧侶なのかなど、いってみれば素朴な疑問に解説回答している。
そのなかで、イ・ソンヒの父親に関連して、僧侶の妻帯(韓国では”帯妻”)の解説があり、次のような説明(⇒引用)がある。余りにさらりと書き流しているが、韓国の仏教界の独特な内情について、戦後史も含めて特有な性格の理解が必要と思われるのだが・・・。
(本ブログ関連:”妻帯僧”、”韓国仏教”)
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「歌手イ・ソンヒ氏が、ある放送で、父が帯妻僧(대처승)であったという事実を告白した。父のために幼い頃いじめを受けたというイ・ソンヒ氏のやるせない話しのように、帯妻僧は現代史のシミとして残っている。一時は、帯妻僧が韓国仏教の主流だった時代があった。僧侶の帯妻は日本から渡ってきた風習だ。12世紀以前まで、日本の仏教は修行者に結婚生活を許諾しなかった。明治維新以前の日本では女性と同衾した僧侶を刑事処罰できたが、1872年3月、(キリスト教)プロテスタント牧師を意識して、政権は僧侶にも帯妻を許諾した。」
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韓国仏教には、妻帯を認める「太古宗」(韓国仏教界最大宗派で妻帯を認めない「曹渓宗」に次ぐ第2位の宗派)などがある。イ・ソンヒの父親は、仏教音楽「梵唄(ぼんばい:범패)」の指導者であったという。所属宗派は、イ・ソンヒの言葉によれば「一乗宗」、ネット情報では「太古宗」というものもある。
(参考)
・浄土真宗、親鸞の夢(1201年)
・明治5年(1872年)4月25日、太政官布告第133号 「僧侶肉食妻帯蓄髪並ニ法用ノ外ハ一般ノ服着用随意タラシム」
2016年11月2日水曜日
2015年1月29日木曜日
(資料)韓国の宗教人口
韓国の宗教人口について、1984年~2014年の間、韓国ギャラップが5回の調査を基にした「韓国人の宗教1984-2014(1)宗教の実態」報告(1/28)を、クリスチャン・トゥデイの記事「無宗教の人たちの選好する宗教、仏教・キリスト教(カトリック)・キリスト教(プロスタント)の順」(1/28、イ・デウン記者)は、次のように要約している。(抜粋)
(本ブログ関連:韓国の”宗教人口”、”仏教宗派”)
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韓国ギャラップ、30年間の変化の実態を発表・・・儀礼などの参加度はキリスト教が最も高く
・韓国ギャラップで、1984年から2014年までの30年間、韓国人の宗教と宗教意識の変化を比較した「韓国人の宗教の実態」調査結果を28日発表した。
・韓国ギャラップは、①1984年に初めて全国民を対象とした宗教関連の調査を開始した後、②1989年、③1997年、④2004年、⑤2014年の比較調査をそれぞれ実施した。2014年の調査では、4月17日から5月2日まで済州を除く全国満19歳以上の男女1500人を対象に実施された(信頼水準95%)。
・2014年現在、宗教分布は、仏教22%、キリスト教(プロテスタント)21%、キリスト教(カトリック)7%の順だった。ギャラップ側は、「仏教は、高齢者と我が国東側(慶南・北)で、プロテスタントは若年層と我が国西側(首都圏·全羅)で、相対的に強みを見せた」と明らかにした。調査結果だけで見れば、知られているものとは異なり、カトリックの教勢は大きく増えなかった。
(本ブログ関連:韓国の”宗教人口”、”仏教宗派”)
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韓国ギャラップ、30年間の変化の実態を発表・・・儀礼などの参加度はキリスト教が最も高く
・韓国ギャラップで、1984年から2014年までの30年間、韓国人の宗教と宗教意識の変化を比較した「韓国人の宗教の実態」調査結果を28日発表した。
・韓国ギャラップは、①1984年に初めて全国民を対象とした宗教関連の調査を開始した後、②1989年、③1997年、④2004年、⑤2014年の比較調査をそれぞれ実施した。2014年の調査では、4月17日から5月2日まで済州を除く全国満19歳以上の男女1500人を対象に実施された(信頼水準95%)。
・2014年現在、宗教分布は、仏教22%、キリスト教(プロテスタント)21%、キリスト教(カトリック)7%の順だった。ギャラップ側は、「仏教は、高齢者と我が国東側(慶南・北)で、プロテスタントは若年層と我が国西側(首都圏·全羅)で、相対的に強みを見せた」と明らかにした。調査結果だけで見れば、知られているものとは異なり、カトリックの教勢は大きく増えなかった。
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| 調査 | 事例数 | 韓国の宗教人口分布(%) | ||||||
| (年) | (人) | 仏教 | プロテスタント | カトリック | その他宗教 | 非宗教者 | ||
| 1984 | 1,946 |
19
|
17
|
6
|
3
|
56
|
||
| 1989 | 1,990 |
21
|
19
|
7
|
2
|
51
|
||
| 1997 | 1,613 |
18
|
20
|
7
|
1
|
53
|
||
| 2004 | 1,500 |
24
|
21
|
7
|
1
|
47
|
||
| 2014 | 1,500 |
22
|
21
|
7
|
0
|
50
|
||
【第5回 比較調査概要】
(注)仏教について、曹渓宗(조계종)、太古宗(태고종)などの宗派に分かれる。
⇒ ”妻帯僧”
⇒ 東京大学仏教青年会「第16回 朝鮮仏教史 5. 韓日併合期と独立後の仏教」
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・明治時代に入ると日本仏教勢力が朝鮮に進出してきます。最初に江戸時代の朝鮮通信使とも繋がりのあった浄土真宗大谷派が、続いて日蓮宗、浄土真宗本願寺派、浄土宗と進出してきました。 そのような日本仏教の進出を受け、朝鮮仏教界も大きく動きます。日本を訪れ積極的に開化政策を進めようとする僧侶が出る一方で、それに反対し伝統仏教を回復しようとする鏡虚(きょんほ)らのグループも現れました。 日本が韓国を併合すると、朝鮮総督府が直接、朝鮮仏教の統率に乗り出し、寺刹令(じさつれい)を制定しました。 ・・・
・第二次世界大戦が終わり、日本から独立した韓国の仏教は、日本仏教の支配と影響を廃して、復興に向かいました。その第一歩として妻帯僧を追放し寺院の生活を正す浄化運動が起きます。 日本では明治時代に入って僧侶の妻帯が認められたこともあり、その支配下にあったときには妻帯する僧侶が韓国でも現れました。 それに対して戒律の遵守を求め妻帯を禁止する僧侶らと妻帯僧の間で紛争が起きました。その結果、曹渓宗から妻帯僧らが分派して太古宗が生まれました。 その他にも、新たに円仏教、真覚宗、元暁宗、法華宗、仏入宗といった宗派が誕生し、今に至っています。
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(注)シャーマニズム的な巫俗(ふぞく:무속)は、宗教としてでなく精神の源泉として下部構造に位置づけられるようだ。
(注)儒教も宗教としてでなく、儒教>宗教>巫俗といった精神構造の道徳律的な最上位に位置づけられるようだ。
- 調査期間: 2014年4月17日~5月2日(3週間)
- 調査対象: 全国(済州除く)満19歳以上の男女1500人
- 標本誤差: ± 2.5%ポイント(95%の信頼水準)
- 標本抽出: ステップ2層別化集落地域無作為抽出
- 標本ポイント内の性/年齢別の割り当て抽出 →(参考)「韓国ギャラップ・オムニバス調査標本設計報告書」
- 応答方式: 面接調査員のインタビュー
- 依頼先: 韓国ギャラップ独自の調査過去の調査の概要
- 調査対象: 全国(済州除く)は、18歳以上の男女
調査期間/サンプルサイズ/標本誤差(95%の信頼水準)/すべての面接調査、韓国ギャラップ独自の調査
(注)仏教について、曹渓宗(조계종)、太古宗(태고종)などの宗派に分かれる。
⇒ ”妻帯僧”
⇒ 東京大学仏教青年会「第16回 朝鮮仏教史 5. 韓日併合期と独立後の仏教」
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・明治時代に入ると日本仏教勢力が朝鮮に進出してきます。最初に江戸時代の朝鮮通信使とも繋がりのあった浄土真宗大谷派が、続いて日蓮宗、浄土真宗本願寺派、浄土宗と進出してきました。 そのような日本仏教の進出を受け、朝鮮仏教界も大きく動きます。日本を訪れ積極的に開化政策を進めようとする僧侶が出る一方で、それに反対し伝統仏教を回復しようとする鏡虚(きょんほ)らのグループも現れました。 日本が韓国を併合すると、朝鮮総督府が直接、朝鮮仏教の統率に乗り出し、寺刹令(じさつれい)を制定しました。 ・・・
・第二次世界大戦が終わり、日本から独立した韓国の仏教は、日本仏教の支配と影響を廃して、復興に向かいました。その第一歩として妻帯僧を追放し寺院の生活を正す浄化運動が起きます。 日本では明治時代に入って僧侶の妻帯が認められたこともあり、その支配下にあったときには妻帯する僧侶が韓国でも現れました。 それに対して戒律の遵守を求め妻帯を禁止する僧侶らと妻帯僧の間で紛争が起きました。その結果、曹渓宗から妻帯僧らが分派して太古宗が生まれました。 その他にも、新たに円仏教、真覚宗、元暁宗、法華宗、仏入宗といった宗派が誕生し、今に至っています。
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(注)シャーマニズム的な巫俗(ふぞく:무속)は、宗教としてでなく精神の源泉として下部構造に位置づけられるようだ。
(注)儒教も宗教としてでなく、儒教>宗教>巫俗といった精神構造の道徳律的な最上位に位置づけられるようだ。
2016年5月19日木曜日
イ・ソンヒの仏教的な背景
イ・ソンヒには、音楽的才能とは別に特別な宗教観、道徳観があるように見える。そのことは、彼女の自伝に触れられている家庭環境からうかがい知ることができる。
(本ブログ関連:”「イ・ソンヒの『スター・ストーリー』」”)
宗教観、道徳観の源は、父親が所属した仏教と大きく関係があるようだ。合わせて、韓国における仏教宗団の問題点、相克も知ることになる。彼女の生育に大きな影響と意味を持ったことだろう。
特に韓国仏教界で争点となった妻帯問題に絡めて、イ・ソンヒの父が属した宗団「太古宗」を取りあげる例が多い。イ・ソンヒの自伝では、「一乗宗」の名を挙げているが。正直いまだに、どちらの宗団に属したのか確証となる情報を得ていない。今回は太古宗を中心にしたものである。
(本ブログ関連:”太古宗”、”一乗宗”)
韓国仏教では、原則妻帯を否定した宗派「曹渓宗」が圧倒的主流である。それに対して、イ・ソンヒの父が、妻帯を認める宗派「太古宗」に属しているることから記事にされるようだ。
芸能記事に<再照明>といって、芸能人の過去記事や話題をアレンジ、詳細化して再掲することがある。イ・ソンヒの場合も度々で、ある意味プライバシーに深入りしたものが多い。コリアデイリーの記事、「イ・ソンヒの『出生の秘密』 僧侶にまつわる何事か分かってみれば『ビックリ』」(5/14、チョン・ウンチェ記者])は、妻帯問題を片手に記したものといえる。
(本ブログ関連:”韓国仏教”)
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(韓国仏教)太古宗(태고종)僧侶にまつわる、歌手イ・ソンヒの父の生(=人生)の秘密、釈迦生誕日にうわさ
14日、ネチズンの間では、釈迦生誕日に話題が集まる中、我が国仏教宗団の二番目に大きな太古宗僧侶出身である歌手イ・ソンヒの父の人生が注目をあびている。
14日、注目をあびる太古宗は、韓国仏教の27ほどある宗団の一つだ。高麗時代(末期)、太古普愚国師を宗祖としながら、釈迦世尊の自覚覚他・覚行円満の根本教理を敬って実践し、太古普愚国師の宗風を宣揚して、見性成仏・伝法度生することを宗旨としている。
<写真> イ・ソンヒの学校卒業時の両親との家族写真
このような太古宗とイ・ソンヒにまつわる人生史は、コリアデイリーとのインタビューで、「祖父が唱をされたが、私もその影響が大きいようだ」とし、「父も声が良かったです。妻帯僧で祈祷をたくさんした」と、父が僧侶だった事実をありのままに明らかにして話題になったりもした。
これに対して、イ・ソンヒは僧侶だった父のために幼年時代を林の中で暮らした。学校は都心で通って、放課後には外部と遮断された山寺で暮らした当時、とても大きい寺なので、数多くの僧侶と一緒に暮らしたしその中にあって、常に僧侶が仏教をそらんずるとき思わず真似たりしたと幼い人生を回想した。
このような父の人生により、イ・ソンヒの生(=人生)は、仏教と密接な関連があり、太古宗僧侶だった父の意により一時ソウル市(議会)議員になり、政治にも関与したりもした。
一方、イ・ソンヒの父が僧侶であった太古宗は、解放後<全国僧侶大会>の決議により、「朝鮮仏教曹渓宗総本寺太古寺法」と曹渓宗名を廃止して、「朝鮮仏教」という単一宗団でスタートしたが、3大教正(宗正)の宋曼庵によって「曹渓宗」に宗名が還元された。
1954年5月、大統領李承晩が家庭を持って生きる僧はみな寺刹から退けという特別談話以後、曹渓宗は独身を主張する勢力と僧侶の結婚を許容する勢力に二分されたが、5.16革命(朴正熙による軍事クーデター)後、仏教再建委員会によって、1962年、「大韓仏教曹渓宗」を宗名として統合宗団が成立した。
しかし、中央宗会を構成する双方の意見対立で、1970年1月、朴大輪を宗正にして統合宗団から分離して太古宗宗団を発足し、韓国仏教曹渓宗と統合して「韓国仏教太古宗」と改称し今日に至っている。
太古宗は寺刹の個人所有認定と僧侶の結婚問題を自律に任せていて、出家をしなくても寺刹を維持運営できる裁可交易者制度である校任(교임)制度を置いている。
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(本ブログ関連:”「イ・ソンヒの『スター・ストーリー』」”)
宗教観、道徳観の源は、父親が所属した仏教と大きく関係があるようだ。合わせて、韓国における仏教宗団の問題点、相克も知ることになる。彼女の生育に大きな影響と意味を持ったことだろう。
特に韓国仏教界で争点となった妻帯問題に絡めて、イ・ソンヒの父が属した宗団「太古宗」を取りあげる例が多い。イ・ソンヒの自伝では、「一乗宗」の名を挙げているが。正直いまだに、どちらの宗団に属したのか確証となる情報を得ていない。今回は太古宗を中心にしたものである。
(本ブログ関連:”太古宗”、”一乗宗”)
韓国仏教では、原則妻帯を否定した宗派「曹渓宗」が圧倒的主流である。それに対して、イ・ソンヒの父が、妻帯を認める宗派「太古宗」に属しているることから記事にされるようだ。
芸能記事に<再照明>といって、芸能人の過去記事や話題をアレンジ、詳細化して再掲することがある。イ・ソンヒの場合も度々で、ある意味プライバシーに深入りしたものが多い。コリアデイリーの記事、「イ・ソンヒの『出生の秘密』 僧侶にまつわる何事か分かってみれば『ビックリ』」(5/14、チョン・ウンチェ記者])は、妻帯問題を片手に記したものといえる。
(本ブログ関連:”韓国仏教”)
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(韓国仏教)太古宗(태고종)僧侶にまつわる、歌手イ・ソンヒの父の生(=人生)の秘密、釈迦生誕日にうわさ
14日、ネチズンの間では、釈迦生誕日に話題が集まる中、我が国仏教宗団の二番目に大きな太古宗僧侶出身である歌手イ・ソンヒの父の人生が注目をあびている。
14日、注目をあびる太古宗は、韓国仏教の27ほどある宗団の一つだ。高麗時代(末期)、太古普愚国師を宗祖としながら、釈迦世尊の自覚覚他・覚行円満の根本教理を敬って実践し、太古普愚国師の宗風を宣揚して、見性成仏・伝法度生することを宗旨としている。
<写真> イ・ソンヒの学校卒業時の両親との家族写真
このような太古宗とイ・ソンヒにまつわる人生史は、コリアデイリーとのインタビューで、「祖父が唱をされたが、私もその影響が大きいようだ」とし、「父も声が良かったです。妻帯僧で祈祷をたくさんした」と、父が僧侶だった事実をありのままに明らかにして話題になったりもした。
これに対して、イ・ソンヒは僧侶だった父のために幼年時代を林の中で暮らした。学校は都心で通って、放課後には外部と遮断された山寺で暮らした当時、とても大きい寺なので、数多くの僧侶と一緒に暮らしたしその中にあって、常に僧侶が仏教をそらんずるとき思わず真似たりしたと幼い人生を回想した。
このような父の人生により、イ・ソンヒの生(=人生)は、仏教と密接な関連があり、太古宗僧侶だった父の意により一時ソウル市(議会)議員になり、政治にも関与したりもした。
一方、イ・ソンヒの父が僧侶であった太古宗は、解放後<全国僧侶大会>の決議により、「朝鮮仏教曹渓宗総本寺太古寺法」と曹渓宗名を廃止して、「朝鮮仏教」という単一宗団でスタートしたが、3大教正(宗正)の宋曼庵によって「曹渓宗」に宗名が還元された。
1954年5月、大統領李承晩が家庭を持って生きる僧はみな寺刹から退けという特別談話以後、曹渓宗は独身を主張する勢力と僧侶の結婚を許容する勢力に二分されたが、5.16革命(朴正熙による軍事クーデター)後、仏教再建委員会によって、1962年、「大韓仏教曹渓宗」を宗名として統合宗団が成立した。
しかし、中央宗会を構成する双方の意見対立で、1970年1月、朴大輪を宗正にして統合宗団から分離して太古宗宗団を発足し、韓国仏教曹渓宗と統合して「韓国仏教太古宗」と改称し今日に至っている。
太古宗は寺刹の個人所有認定と僧侶の結婚問題を自律に任せていて、出家をしなくても寺刹を維持運営できる裁可交易者制度である校任(교임)制度を置いている。
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2018年12月28日金曜日
イ・ソンヒの娘
普通でも娘と父の関わりはむつかしい。それぞれの家庭に歴史がある。イ・ソンヒには、ひとり娘のユン・ヤンウォン(父姓はユン)*がいる。この娘にとって、父との関係は、幼くして父の死との出会いであり、その後、母イ・ソンヒが再婚した義理父との関係など、複雑な境遇にある。実際、韓国で暮らす両親とは別に、アメリカで単独生活しているようだ。
また、イ・ソンヒの場合も、僧侶**の娘として生まれた結果、子ども時代にいじめにあい、苦しい立場を経験している。イ・ソンヒと娘ともどもに、父親との関係でいろいろ想起させられるものがある。
(*) ユン・ヤンウォン: 彼女の父はユン・ヒジュンで、かつてイ・ソンヒのマネジャーであり曲作り(作詞・作曲)をした。ユン・ヒジュンは、イ・ソンヒの最初の結婚相手だったが、6年後に離婚、事業に失敗との説があり、服毒自殺している。
(**) 僧侶: 韓国仏教の主流宗派は僧侶の妻帯(韓国では帯妻)を認めていない。戦後の韓国仏教の党派性の原点ともいえる。イ・ソンヒの父は、明治以後に日本の仏教の影響による妻帯を認めた宗派に属し、仏教音楽の「梵唄」を指導したといわれる。
(本ブログ関連:”スペック”、”イ・ソンヒの娘”、”妻帯僧”)
現在26歳のユン・ヤンウォンは、米コーネル大学卒業***後、同大でジャーナリズムを勉強中という。子の成長を見守る母が語るSBSのテレビ番組「憎たらしいうちの子ども(미운 우리 새끼)」で、イ・ソンヒは、現在26歳の娘について、大学で長く勉強を続けて欲しい、結婚が少し遅れてもよい、いろいろな経験をして欲しいなど述べているとのこと。番組中、娘との関係について様々ないきさつを縷縷語ったようだ。
(***) 米コーネル大学卒業: イ・ソンヒと娘を交えたコーネル大学卒業式でのFB掲載の写真がある。
https://www.facebook.com/leesunheePH/posts/congratulations-to-sun-hees-daughter-who-just-graduated-from-cornell-university/196766714379526/
(参考)韓国ブログ「イ・ソンヒ 娘ユン・ヤンウォン 公開」
イ・ソンヒと娘の関係についてテレビ番組で語った話題をもとに、さらに(多分、過去ニュースを渉猟して)時系列風に紹介しているようだ。
http://gabrialno.tistory.com/271
また、イ・ソンヒの場合も、僧侶**の娘として生まれた結果、子ども時代にいじめにあい、苦しい立場を経験している。イ・ソンヒと娘ともどもに、父親との関係でいろいろ想起させられるものがある。
(*) ユン・ヤンウォン: 彼女の父はユン・ヒジュンで、かつてイ・ソンヒのマネジャーであり曲作り(作詞・作曲)をした。ユン・ヒジュンは、イ・ソンヒの最初の結婚相手だったが、6年後に離婚、事業に失敗との説があり、服毒自殺している。
(**) 僧侶: 韓国仏教の主流宗派は僧侶の妻帯(韓国では帯妻)を認めていない。戦後の韓国仏教の党派性の原点ともいえる。イ・ソンヒの父は、明治以後に日本の仏教の影響による妻帯を認めた宗派に属し、仏教音楽の「梵唄」を指導したといわれる。
(本ブログ関連:”スペック”、”イ・ソンヒの娘”、”妻帯僧”)
現在26歳のユン・ヤンウォンは、米コーネル大学卒業***後、同大でジャーナリズムを勉強中という。子の成長を見守る母が語るSBSのテレビ番組「憎たらしいうちの子ども(미운 우리 새끼)」で、イ・ソンヒは、現在26歳の娘について、大学で長く勉強を続けて欲しい、結婚が少し遅れてもよい、いろいろな経験をして欲しいなど述べているとのこと。番組中、娘との関係について様々ないきさつを縷縷語ったようだ。
(***) 米コーネル大学卒業: イ・ソンヒと娘を交えたコーネル大学卒業式でのFB掲載の写真がある。
https://www.facebook.com/leesunheePH/posts/congratulations-to-sun-hees-daughter-who-just-graduated-from-cornell-university/196766714379526/
(参考)韓国ブログ「イ・ソンヒ 娘ユン・ヤンウォン 公開」
イ・ソンヒと娘の関係についてテレビ番組で語った話題をもとに、さらに(多分、過去ニュースを渉猟して)時系列風に紹介しているようだ。
http://gabrialno.tistory.com/271
2017年6月18日日曜日
イ・ソンヒ 「父は妻帯僧でした」
今日は父の日。このブログでは、イ・ソンヒの父と家族について、父と母、祖父の生き方、父の仕事、そしてイ・ソンヒの政界進出時の父との関係などさまざまな情報を記してきた。
(本ブログ関連:”イ・ソンヒと父”)
イ・ソンヒの音楽的才能は、祖父譲りのおおらかさと、父の音楽的素養と躾、さらに母の慈愛があって開花したのだろう。その父が、仏教音楽「梵唄」の指導者と知って確信を深めた。彼女の高音とパワフルな声に、そんな背景があったに違いない。彼女の自伝的な「スター・ストーリー」を読めば納得できるだろう。
しかしながら、イ・ソンヒに才能を与えた父が仏教と深い関係があることに葛藤があったのも事実のようだ。仏教における僧侶の妻帯問題だ。この点についてもいろいろと記してきた。
(2014年4月7日午後放送されたSBS「ヒーリング・キャンプ」で、彼女は音楽仲間のとの語らいの中で、この事実を吐露する場面があった。そのとき、歌手仲間たちは初めて知ったといった顔を見せた。本人の口から直接聞かない限り、ネット上で、あるいは書籍で既知であっても、そういった対応をせざる得ないものだ)
(本ブログ関連:”韓国仏教”、”妻帯僧(韓国では帯妻僧)”)
韓国仏教の中で特異な存在と見られる帯妻僧について、Ko-Wikipediaに次のような解説がある。(参照記事:「韓国仏教の歴史」と「帯妻僧」)
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韓国では、既婚僧侶を可能にする《帯妻僧》の伝統がなかったが、朝鮮後期の《抑仏政策》の中で、寺院の生活を管理(寺院の運営実務を担当)する僧侶を、(参禅・看経・念仏をはじめとする修道に従う)修行僧の『이판승(理判僧)』に対応して、『사판승(事判僧)』と呼んだことから結婚した僧侶という概念が生まれた。
-------------------------------------------------------
ここで着目するのは、仏教弾圧下の李氏朝鮮時代に遡って、「事判僧」という存在である。韓国仏教について素人なため、事判僧が当時どのような生活をしていたか知らなかったところ、「事判僧」に当ると思われる、戦前・戦後を経験したある無名の僧侶に光をあてたケーススタディがある。「さまよえる『鬼神』一 日本の植民地支配と『近代化』」(岡田活樹 神戸大学国際文化学部助教授、「人類学研究所通信」13・14号、2006年3月)は、いわゆる戦前の朝鮮(韓国)での仏教統治の「寺刹令」、および戦後に持ち越された「帯妻僧」の存在について淡々と多様に事例を紹介している。
実は、帯妻僧問題は、その起源が上記の事判僧の存在にあるように思われるのだが、日韓の特別な課題につながりかねない《微妙な問題を含んでいる》 と思われる。
(本ブログ関連:”イ・ソンヒと父”)
イ・ソンヒの音楽的才能は、祖父譲りのおおらかさと、父の音楽的素養と躾、さらに母の慈愛があって開花したのだろう。その父が、仏教音楽「梵唄」の指導者と知って確信を深めた。彼女の高音とパワフルな声に、そんな背景があったに違いない。彼女の自伝的な「スター・ストーリー」を読めば納得できるだろう。
しかしながら、イ・ソンヒに才能を与えた父が仏教と深い関係があることに葛藤があったのも事実のようだ。仏教における僧侶の妻帯問題だ。この点についてもいろいろと記してきた。
(2014年4月7日午後放送されたSBS「ヒーリング・キャンプ」で、彼女は音楽仲間のとの語らいの中で、この事実を吐露する場面があった。そのとき、歌手仲間たちは初めて知ったといった顔を見せた。本人の口から直接聞かない限り、ネット上で、あるいは書籍で既知であっても、そういった対応をせざる得ないものだ)
(本ブログ関連:”韓国仏教”、”妻帯僧(韓国では帯妻僧)”)
韓国仏教の中で特異な存在と見られる帯妻僧について、Ko-Wikipediaに次のような解説がある。(参照記事:「韓国仏教の歴史」と「帯妻僧」)
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韓国では、既婚僧侶を可能にする《帯妻僧》の伝統がなかったが、朝鮮後期の《抑仏政策》の中で、寺院の生活を管理(寺院の運営実務を担当)する僧侶を、(参禅・看経・念仏をはじめとする修道に従う)修行僧の『이판승(理判僧)』に対応して、『사판승(事判僧)』と呼んだことから結婚した僧侶という概念が生まれた。
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ここで着目するのは、仏教弾圧下の李氏朝鮮時代に遡って、「事判僧」という存在である。韓国仏教について素人なため、事判僧が当時どのような生活をしていたか知らなかったところ、「事判僧」に当ると思われる、戦前・戦後を経験したある無名の僧侶に光をあてたケーススタディがある。「さまよえる『鬼神』一 日本の植民地支配と『近代化』」(岡田活樹 神戸大学国際文化学部助教授、「人類学研究所通信」13・14号、2006年3月)は、いわゆる戦前の朝鮮(韓国)での仏教統治の「寺刹令」、および戦後に持ち越された「帯妻僧」の存在について淡々と多様に事例を紹介している。
実は、帯妻僧問題は、その起源が上記の事判僧の存在にあるように思われるのだが、日韓の特別な課題につながりかねない《微妙な問題を含んでいる》 と思われる。
2014年4月8日火曜日
イ・ソンヒ 「Jへ」にまつわるビハインド・ストーリー
韓国経済の記事「イ・ソンヒ、イ・セゴン作曲家と『Jへ(J에게)』にまつわるビハインド・ストーリー公開」(4/8、ペ・ソニョン記者)に、イ・ソンヒが、デビュー曲「Jへ」との出会いについて、TV番組のインタビューで「裏話」を語ったと、次のように報じている。
すでに本ブログで、経緯を記しているが、彼女自身の言葉としては初めてのことなのだろうか。
ところで少し気になることがある。著作権について、そのあたりは初耳だ・・・下記の追記の中で氷解。
(本ブログ関連:”イ・セゴン(李世建、이세건)”)
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・歌手イ・ソンヒが「江辺歌謡祭」大賞を与えられた歌「Jへ」にまつわるビハインド・ストーリーを公開した。
・イ・ソンヒは、7日午後放送されたSBS「ヒーリング・キャンプ 楽しいじゃないか」に出演した。
・この日、イ・ソンヒは「高等学校2年の時、歌を歌いたくてチャン・ウクチョ(장욱조)音楽室を訪れ、その方面に無名の作曲家が楽譜をゴミ箱に捨てる姿を見た」と話した。当時、(私も)ついその楽譜を取って、「この曲、私が歌ってもかまいませんか?」と尋ねたというイ・ソンヒ、まさにその曲が「Jへ」であった。
・イ・ソンヒは、「楽譜というものが、私をときめかせた。楽譜は、音楽を知ることができるようにする通路であった。絶対にあの楽譜を捨ててはいけないという考えだけだった」と話した。
・イ・ソンヒは、「Jへ」で、「江辺歌謡祭」で大賞を受賞した。そうして国民歌手イ・ソンヒが誕生することができた。また、「Jへ」を作った無名の作曲家であるイ・セゴン作曲家に、著作権をすべて返したとも付け加えた。
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(追記)
news1の記事「『ヒーリングキャンプ』 イ・ソンヒ、「父が帯妻僧」告白・・・帯妻僧とは?」(4/9)に、父親について、次のように触れている記述がある。(抜粋)
これについても、本ブログで繰り返し、韓国仏教と照らし合わせて記している。
(本ブログ関連:”妻帯僧”・・・韓国では”帯妻僧”)
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・この日放送で、イ・ソンヒは自身の幼い時を言及して、父が帯妻僧であったことを明らかにした。 彼女は、「(父は)祈祷をとても多くしていたし、私は市内の学校に通いながら、森の中に住んだ」と明らかにした。
・続いて、「自然に、山寺で僧侶が経をとなえる声を真似たりした」と付け加えた。
・イ・ソンヒが言及した、帯妻僧は男僧侶のうち、結婚して妻と家庭を設けた特定の僧侶を示す言葉だ。火宅僧とも呼ぶ。
・イ・ソンヒの父の情報に接したインターネットユーザーは、「イ・ソンヒの父、帯妻僧、そうですか」、「イ・ソンヒの父、帯妻僧、自然に自然と近かったのですね」、「イ・ソンヒの父、帯妻僧、この頃も帯妻僧はたくさんいらっしゃるのでしょうか?」などの反応を見せた。
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(追記)4/9
釜山comの記事「イ・ソンヒの父 帯妻僧の事実公開へ 『家族写真』注目・・・」(4/8)は、番組「ヒーリングキャンプ」の中でイ・ソンヒが語った家族のことについて、次のように報じた。(抜粋)
これについても、本ブログで繰り返し、彼女のプロフィールに照らして記している。
(本ブログ関連:”資料:이선희 Profile (自伝~1991年、27歳まで)”)
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・イ・ソンヒの父 帯妻僧
・この日放送(SBS「ヒーリング・キャンプ 楽しいじゃないか」)で、イ・ソンヒは「祖父は歌唱をしたが、私もその影響が大きいようだ」とか、「父も声が良かった。帯妻僧で祈祷をたくさんした」と話した。
・続いて、「父のために、幼年時代を森の中で暮らした。学校は、都心に通って、放課後には外と遮断された山寺で暮らした」とか、「とても大きな寺なので、数多くの僧侶と一緒に暮らした。その中にあって、常に僧侶が経を唱える時、私も知らずに真似したりした」と説明した。
・ひるがえって、イ・ソンヒは、去る2012年放送されたMBC「黄金漁場-膝打ち導師」に出演して、「父が宗教家だが帯妻僧だ。小学校6学年の時まで寺で暮らした」と、特異な家庭環境について明らかにしたことがある。
・当時、放送では、イ・ソンヒの帯妻僧だった父とともにとった家族の写真が公開されたりもした。
・イ・ソンヒの父が帯妻僧に、ネチズンは、「イ・ソンヒの父、帯妻僧、以前にも公開された話だな」、「イ・ソンヒの父、帯妻僧、お経で鍛練された歌の実力?」、・・・などの反応を見せた。
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(追記)4/9
マネートゥデーの記事「イ・ソンヒの”Jへ”、作曲家のイ・セゴン 誰? 『ヒット曲製造機』」(4/8、キム・ポヨン記者)は、彼女の代表曲「Jへ」の作者イ・セゴンとの関係について、次のように報じている。(抜粋)
「Jへ」の著作権について、納得した。
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・イ・ソンヒは、「(『Jへ』を捨てようとした)その方(イ・セゴン)が勝手に歌えと言ったよ」として、「3年間大事に保管した『Jへ』を持って江辺歌謡祭に出場した」と話して驚きを誘った。
・続いて、イ・ソンヒは、その作曲家が「イ・セゴンだった」として、「著作権は、大会を契機にイ・セゴンに返した」と話して注目を引いた。
・イ・セゴンは、「Jへ」'をはじめとして、歌手イム・チャンジョンの「すでに僕に(이미 나에게로)」、「嘘のような真実」と、ミン・へギョンの「恋はもうやだ(사랑은 이제 그만)」などの曲を書いた実力派作曲家だ。特に「恋はもうやだ」はミン・へギョンの代表曲に数えられる曲で、彼女の全盛期スタートを切った曲で知らされている。
・これに接したインターネットユーザーは、「イ・ソンヒの『Jへ』の作曲家イ・セゴン。(ミン・へギョンの)『恋はもうやだ』も作曲したよ」、「イ・ソンヒの『Jへ』。 歌、本当に良い」、「イ・ソンヒの『Jへ』。 なぜ他の人(歌手)は拒絶した(受け入れなかった)のだろうか」、「イ・ソンヒの『Jへ』。イ・セゴンとの縁、珍しいね」などの反応を見せた。
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すでに本ブログで、経緯を記しているが、彼女自身の言葉としては初めてのことなのだろうか。
ところで少し気になることがある。著作権について、そのあたりは初耳だ・・・下記の追記の中で氷解。
(本ブログ関連:”イ・セゴン(李世建、이세건)”)
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![]() |
| SBS「ヒーリング・キャンプ」放送画面 |
・イ・ソンヒは、7日午後放送されたSBS「ヒーリング・キャンプ 楽しいじゃないか」に出演した。
・この日、イ・ソンヒは「高等学校2年の時、歌を歌いたくてチャン・ウクチョ(장욱조)音楽室を訪れ、その方面に無名の作曲家が楽譜をゴミ箱に捨てる姿を見た」と話した。当時、(私も)ついその楽譜を取って、「この曲、私が歌ってもかまいませんか?」と尋ねたというイ・ソンヒ、まさにその曲が「Jへ」であった。
・イ・ソンヒは、「楽譜というものが、私をときめかせた。楽譜は、音楽を知ることができるようにする通路であった。絶対にあの楽譜を捨ててはいけないという考えだけだった」と話した。
・イ・ソンヒは、「Jへ」で、「江辺歌謡祭」で大賞を受賞した。そうして国民歌手イ・ソンヒが誕生することができた。また、「Jへ」を作った無名の作曲家であるイ・セゴン作曲家に、著作権をすべて返したとも付け加えた。
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(追記)
news1の記事「『ヒーリングキャンプ』 イ・ソンヒ、「父が帯妻僧」告白・・・帯妻僧とは?」(4/9)に、父親について、次のように触れている記述がある。(抜粋)
これについても、本ブログで繰り返し、韓国仏教と照らし合わせて記している。
(本ブログ関連:”妻帯僧”・・・韓国では”帯妻僧”)
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・この日放送で、イ・ソンヒは自身の幼い時を言及して、父が帯妻僧であったことを明らかにした。 彼女は、「(父は)祈祷をとても多くしていたし、私は市内の学校に通いながら、森の中に住んだ」と明らかにした。
・続いて、「自然に、山寺で僧侶が経をとなえる声を真似たりした」と付け加えた。
・イ・ソンヒが言及した、帯妻僧は男僧侶のうち、結婚して妻と家庭を設けた特定の僧侶を示す言葉だ。火宅僧とも呼ぶ。
・イ・ソンヒの父の情報に接したインターネットユーザーは、「イ・ソンヒの父、帯妻僧、そうですか」、「イ・ソンヒの父、帯妻僧、自然に自然と近かったのですね」、「イ・ソンヒの父、帯妻僧、この頃も帯妻僧はたくさんいらっしゃるのでしょうか?」などの反応を見せた。
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(追記)4/9
釜山comの記事「イ・ソンヒの父 帯妻僧の事実公開へ 『家族写真』注目・・・」(4/8)は、番組「ヒーリングキャンプ」の中でイ・ソンヒが語った家族のことについて、次のように報じた。(抜粋)
これについても、本ブログで繰り返し、彼女のプロフィールに照らして記している。
(本ブログ関連:”資料:이선희 Profile (自伝~1991年、27歳まで)”)
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・イ・ソンヒの父 帯妻僧
・この日放送(SBS「ヒーリング・キャンプ 楽しいじゃないか」)で、イ・ソンヒは「祖父は歌唱をしたが、私もその影響が大きいようだ」とか、「父も声が良かった。帯妻僧で祈祷をたくさんした」と話した。
・続いて、「父のために、幼年時代を森の中で暮らした。学校は、都心に通って、放課後には外と遮断された山寺で暮らした」とか、「とても大きな寺なので、数多くの僧侶と一緒に暮らした。その中にあって、常に僧侶が経を唱える時、私も知らずに真似したりした」と説明した。
・ひるがえって、イ・ソンヒは、去る2012年放送されたMBC「黄金漁場-膝打ち導師」に出演して、「父が宗教家だが帯妻僧だ。小学校6学年の時まで寺で暮らした」と、特異な家庭環境について明らかにしたことがある。
・当時、放送では、イ・ソンヒの帯妻僧だった父とともにとった家族の写真が公開されたりもした。
・イ・ソンヒの父が帯妻僧に、ネチズンは、「イ・ソンヒの父、帯妻僧、以前にも公開された話だな」、「イ・ソンヒの父、帯妻僧、お経で鍛練された歌の実力?」、・・・などの反応を見せた。
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(追記)4/9
マネートゥデーの記事「イ・ソンヒの”Jへ”、作曲家のイ・セゴン 誰? 『ヒット曲製造機』」(4/8、キム・ポヨン記者)は、彼女の代表曲「Jへ」の作者イ・セゴンとの関係について、次のように報じている。(抜粋)
「Jへ」の著作権について、納得した。
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・イ・ソンヒは、「(『Jへ』を捨てようとした)その方(イ・セゴン)が勝手に歌えと言ったよ」として、「3年間大事に保管した『Jへ』を持って江辺歌謡祭に出場した」と話して驚きを誘った。
・続いて、イ・ソンヒは、その作曲家が「イ・セゴンだった」として、「著作権は、大会を契機にイ・セゴンに返した」と話して注目を引いた。
・イ・セゴンは、「Jへ」'をはじめとして、歌手イム・チャンジョンの「すでに僕に(이미 나에게로)」、「嘘のような真実」と、ミン・へギョンの「恋はもうやだ(사랑은 이제 그만)」などの曲を書いた実力派作曲家だ。特に「恋はもうやだ」はミン・へギョンの代表曲に数えられる曲で、彼女の全盛期スタートを切った曲で知らされている。
・これに接したインターネットユーザーは、「イ・ソンヒの『Jへ』の作曲家イ・セゴン。(ミン・へギョンの)『恋はもうやだ』も作曲したよ」、「イ・ソンヒの『Jへ』。 歌、本当に良い」、「イ・ソンヒの『Jへ』。 なぜ他の人(歌手)は拒絶した(受け入れなかった)のだろうか」、「イ・ソンヒの『Jへ』。イ・セゴンとの縁、珍しいね」などの反応を見せた。
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2013年10月24日木曜日
(資料)イ・ソンヒのスター・ストーリー「3.宗教家である父と、自然とともに過ごした幼い子供」
先日(9/27)、「スポーツ韓国」の紙面(1991年3月8日~4月5日)に連載された「イ・ソンヒ27歳当時のスター・ストーリー」記事の目次を紹介したが、その第3回目をここに載せたい。感謝。
イ・ソンヒの幼い頃の祖父も含めての家族愛や、「音域の広い」彼女の声が「父から受け継いだ」と語る影響について・・・知りたかったことだ。
(本ブログ関連:”(資料)イ・ソンヒ(27歳当時)の「スター・ストーリー」”、”資料:이선희 Profile”)
[3] 宗教家である父と、自然とともに過ごした幼い子供
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私が三歳になった年である1966年、両親は私を連れて忠南(忠清南道)の保寧からソウルに移住した。初めての定着地は城北区三仙洞だった。
当時、父は大韓仏教「一乗宗(일승종)」の宗会議員と同時に、仏教音楽「梵唄(범패)」の伝授者であった。
(注) ネット上で、イ・ソンヒの父親の所属宗派を「太古宗(태고종)」と記されることがあるが、この記事から(当時)「一乗宗」が正しいようだ。なお、「一乗宗」の正式な成立は1969年とされ、この年に大法院裁定により韓国仏教の最大宗派となる「曹渓宗(조계종)」と「太古宗」が正式に分離している。
(注) イ・ソンヒの家族が保寧から転居したソウルの城北区内に「一乗宗」の一乗寺がある。
(注) 一乗宗の「主な宗団機構は宗正の下、宗務全般を掌握する総務院、糾正(きゅうせい)機関である監察院、議決機関である宗議会などがある。」
(注)「梵唄」については、「太古宗」との関連がネット上で話題にされることが多い。
父の身分が僧侶だったために、所属寺院が変わるたび、わが家は引越し荷物を荷造りしなければならなかった。
そうするうちに、私は仕方なく国民学校だけ六ヶ所を転々と移り渡った。友人とちょっと付き合うだけで、校歌を覚え歌うことができるようになると、私はまた間違いなく見知らぬ学教に転校しなければならなかった。私も知らぬうちに性格は内省的に沈んでいった。
ときおり近所の子供たちとケンカをすると、その悪童たちが必ず私の父をあげつらった。「僧(중)」がどうしたといいながら。朴景利(パク・キョンニ、박경리、1926年~2008年)先生の小説「土地(토지)」で、年齢の幼いキルサン(길상)が悪童に「僧」と冷やかし受ける気持ちを十分に理解することができた。
(注) 韓国仏教における妻帯の問題は、歴史上の課題でもあった。⇒ ”韓国仏教”
自然に私と同じ年頃の子供たちと一緒に過ごす時間が減り、周りの山、木、花、鳥そして風と親しくなった。
(ちなみに)ネパールに「導師」が多いのは、両親が仕事に出て行った後、一人で自然に接して成長した子供たちが多くてとか? とにかく私は木と草に群がる虫たちと話をして育った。
もちろん幼い時からひたすら叙情的で思索的だったことは決してない。森の古木の木の上に綱をぶら下げてターザン遊びをして時間の経つことが分からなかったし、休みになれば田舎の祖父の家に行って明け方から川岸のフナを(網で)すくいてあげた。また、真夜中に近所の野菜畑を堀り散らしに行くマクワウリとスイカ荒らしで、蚊に刺されていることも分からなかった。
ソウルではひょろひょろしっぱなしの私だったが、田舎に行ったら全身に力が湧き、敏捷で活き活きするようになった。
ソウルでも、やはり父について移動も何度もしたが、行く所ごとに常に鬱蒼とした森があった。父の勤め先(?)である寺はたいてい山の中にあるのだから。
ところで日曜日になると、悪い鳥捕りたちが空気銃をかついで「私の森の中」に狩猟にきたりした。
彼らが去った後、かわいそうにも死んだ鳥が数匹ずつ散在していた。
私は、目に映りしだい死んだ鳥のために墓を作った。墓の上に小さな木の枝で十字架を作ってさした。
ところが、まさにその木製の十字架のために、寺にいらした僧侶たちにひどい目にあったことがある。仏さまを祀った寺院のあごの下に、どうしてあえて十字架を差し込むことができるかということだった。そこまで考えが及ぶことができなかったことではないが、さりとて私の腕前で「卍」の字形を作ることは到底できなかった
私の子供時代の思い出は、祖父と父から始まる。
私の考え方や価値観に大きな影響を与えた宗教家としての父、そして特に私だけを心からも愛してくれた私の祖父。
懐かしさは、明け方の山腹を取り囲んで染み入る雲であり、灰色がかった舗道の上に溶けて落ちる白い雪であり、激しい風の末に立っている弱い木の枝だ。
会いたくて懐かしい祖父. その祖父は私が中学校2年の時に亡くなった。だが、あなたのその実直だった姿はまだ私の両目に浮かぶ。
祖父は田舎に住んでいたが、いつもソウルの我が家に来てくれて何月も留まったりした。そのたびに、祖父は古物の自転車を引いて下校時間の2時間前から校門の前で私を待ってくださった。
自転車の後ろの席に座って帰宅する気持ちは喜びそのものであった。祖父は明け方のたび、私を連れて泉(薬水)の汲み場に行った。昔も今も、明け方の静かな泉には騒々しいちびっ子の出入りは禁忌視されているけれど、私だけ祖父の「こね」のおかげで、近所の老人たちが掌握していた泉でも自由にできた。
休みのたびに田舎の祖父の家に行けば、祖父は一日中私の手を握って、野原で山で、歩きながら無数の昔話を聞かせてくださった。
田舎の家の裏庭にある竹で「洞箫(퉁소)」(尺八に似た笛)も直接作ってくれたし、クヌギの木で手作りで「ユッ」(小ちいさな丸い棒切れを割って作る四本一組の遊戯具)も切ってくれた。
(注) ユッは、ユンノリ(윷놀이)遊びに使う。
祖父と私が散歩に出て行くたびに、祖母は袋いっぱいニンニクとネギを満たして祖父に渡したりした。祖父はそんな生ニンニクとネギが好きだった。
あちこち歩き回って脚を休ませようとすれば、祖父と私はニンニクとネギを食べた。口の中がとてもヒリヒリしたら、地面の穀物の穂を拾ってモグモグ食べながら。
考えてみれば、何の科学的根拠もないが、その時そんなにたくさん食べた生ニンニクが私の大きく高い声(高声)の源泉ではないだろうか・・・。
祖父は当時、日毎に変化した時代の潮流とは塀を築いた方だと父はいった。
伽耶琴(カヤグム)と唱を楽しんだ、常に高尚な人(ソンビ)としての風流が好きな方だった。また、外来の文物に対してはほとんど本能に近い警戒心を抱いておられたので、父を新式の学校に送るのは不合理な話だったようだ。
新しい学問に接する道が塞がってしまった父はそれでも何かを学ばなければならないと決心し、ある日さっさと単身寺に入られた。山寺で仏教思想の奥深さ(玄妙)に夢中になった父は永遠に仏と共に生きていく心を決めたという。
父の仏心は家族には薄情と感じられるほど敬虔だった。そのせいで母は家と寺の間を上がり下りするのに、気苦労、体の苦労が非常に激しかった。
父の仏心は、ある夏の日、土砂降りのようにあふれた豪雨で水騒動が起きた時、そしていつだったか、私の不注意で山火事を起こした時に如実にあらわれた。
国民学校の低学年の時だったと記憶している。だから70年代初期ぐらいだ。あまりにも引越しをたびたびすると町の名前もぼうっとする。三仙洞か敦岩洞か、もしかしたら論硯洞か新林洞なのかも分からない。
とにかくその時も、父は家の後方にある山中の寺にいたし、私たちの住居は山麓にあった。
その年の夏、数日をおいて空があいたように豪雨が降った。寺は高い山中にあるのでこれといった水害にあうわけはないが、ふもとにあった我が家は途方もない水騒動を体験しなければならなかった。
谷川があふれると、いつのまにか真っ赤な黄土水が家の前の梨畑を襲って中庭に迫った。母はあわてて木板などをごちゃごちゃ集めてイカダに似たものを作った。私と弟はあたかも渡し舟に乗っているような気分で、恐ろしさはおろかかえって楽しいだけだった。
その瞬間、寺から息を切らして走って降りてきた父が庭に入った。子供の目にも父の顔に心の余裕がない表情を読むことができた。「ああ、母と私たちが心配になって来たんだな。」
ところがそうでなかった。父は部屋に入るやいなや祭器、蓮の提灯、窓戸紙など寺で使う物を取りまとめ始めた。薄情だった。母性愛と父情の間にはそのように大きい差があるのだろうか?
その夏の水騒動に続き、その年の晩秋には「火事騒ぎ」があった。
深い山中の寺刹も人の住む所だと、毎日毎日ゴミがでた。ゴミを一度に捨てに下山することはできないことなので、たいてい寺近くの空地でゴミを燃やしてしまったりした。
今考えれば、乾いた落葉の覆いかぶさった山中で火をつけることがどれくらい危険千万なことなのか、めまいがするが、とにかく出たその日のゴミの山に燃料を入れて火をつけると、火は風に乗って広がり山の3分の1ほどを焼いてしまった。山火事はたまたま降った雨で消えた。
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イ・ソンヒの幼い頃の祖父も含めての家族愛や、「音域の広い」彼女の声が「父から受け継いだ」と語る影響について・・・知りたかったことだ。
(本ブログ関連:”(資料)イ・ソンヒ(27歳当時)の「スター・ストーリー」”、”資料:이선희 Profile”)
[3] 宗教家である父と、自然とともに過ごした幼い子供
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私が三歳になった年である1966年、両親は私を連れて忠南(忠清南道)の保寧からソウルに移住した。初めての定着地は城北区三仙洞だった。
当時、父は大韓仏教「一乗宗(일승종)」の宗会議員と同時に、仏教音楽「梵唄(범패)」の伝授者であった。
(注) ネット上で、イ・ソンヒの父親の所属宗派を「太古宗(태고종)」と記されることがあるが、この記事から(当時)「一乗宗」が正しいようだ。なお、「一乗宗」の正式な成立は1969年とされ、この年に大法院裁定により韓国仏教の最大宗派となる「曹渓宗(조계종)」と「太古宗」が正式に分離している。
(注) イ・ソンヒの家族が保寧から転居したソウルの城北区内に「一乗宗」の一乗寺がある。
(注) 一乗宗の「主な宗団機構は宗正の下、宗務全般を掌握する総務院、糾正(きゅうせい)機関である監察院、議決機関である宗議会などがある。」
(注)「梵唄」については、「太古宗」との関連がネット上で話題にされることが多い。
父の身分が僧侶だったために、所属寺院が変わるたび、わが家は引越し荷物を荷造りしなければならなかった。
そうするうちに、私は仕方なく国民学校だけ六ヶ所を転々と移り渡った。友人とちょっと付き合うだけで、校歌を覚え歌うことができるようになると、私はまた間違いなく見知らぬ学教に転校しなければならなかった。私も知らぬうちに性格は内省的に沈んでいった。
ときおり近所の子供たちとケンカをすると、その悪童たちが必ず私の父をあげつらった。「僧(중)」がどうしたといいながら。朴景利(パク・キョンニ、박경리、1926年~2008年)先生の小説「土地(토지)」で、年齢の幼いキルサン(길상)が悪童に「僧」と冷やかし受ける気持ちを十分に理解することができた。
(注) 韓国仏教における妻帯の問題は、歴史上の課題でもあった。⇒ ”韓国仏教”
自然に私と同じ年頃の子供たちと一緒に過ごす時間が減り、周りの山、木、花、鳥そして風と親しくなった。
(ちなみに)ネパールに「導師」が多いのは、両親が仕事に出て行った後、一人で自然に接して成長した子供たちが多くてとか? とにかく私は木と草に群がる虫たちと話をして育った。
もちろん幼い時からひたすら叙情的で思索的だったことは決してない。森の古木の木の上に綱をぶら下げてターザン遊びをして時間の経つことが分からなかったし、休みになれば田舎の祖父の家に行って明け方から川岸のフナを(網で)すくいてあげた。また、真夜中に近所の野菜畑を堀り散らしに行くマクワウリとスイカ荒らしで、蚊に刺されていることも分からなかった。
ソウルではひょろひょろしっぱなしの私だったが、田舎に行ったら全身に力が湧き、敏捷で活き活きするようになった。
ソウルでも、やはり父について移動も何度もしたが、行く所ごとに常に鬱蒼とした森があった。父の勤め先(?)である寺はたいてい山の中にあるのだから。
ところで日曜日になると、悪い鳥捕りたちが空気銃をかついで「私の森の中」に狩猟にきたりした。
彼らが去った後、かわいそうにも死んだ鳥が数匹ずつ散在していた。
私は、目に映りしだい死んだ鳥のために墓を作った。墓の上に小さな木の枝で十字架を作ってさした。
ところが、まさにその木製の十字架のために、寺にいらした僧侶たちにひどい目にあったことがある。仏さまを祀った寺院のあごの下に、どうしてあえて十字架を差し込むことができるかということだった。そこまで考えが及ぶことができなかったことではないが、さりとて私の腕前で「卍」の字形を作ることは到底できなかった
私の子供時代の思い出は、祖父と父から始まる。
私の考え方や価値観に大きな影響を与えた宗教家としての父、そして特に私だけを心からも愛してくれた私の祖父。
懐かしさは、明け方の山腹を取り囲んで染み入る雲であり、灰色がかった舗道の上に溶けて落ちる白い雪であり、激しい風の末に立っている弱い木の枝だ。
会いたくて懐かしい祖父. その祖父は私が中学校2年の時に亡くなった。だが、あなたのその実直だった姿はまだ私の両目に浮かぶ。
祖父は田舎に住んでいたが、いつもソウルの我が家に来てくれて何月も留まったりした。そのたびに、祖父は古物の自転車を引いて下校時間の2時間前から校門の前で私を待ってくださった。
自転車の後ろの席に座って帰宅する気持ちは喜びそのものであった。祖父は明け方のたび、私を連れて泉(薬水)の汲み場に行った。昔も今も、明け方の静かな泉には騒々しいちびっ子の出入りは禁忌視されているけれど、私だけ祖父の「こね」のおかげで、近所の老人たちが掌握していた泉でも自由にできた。
休みのたびに田舎の祖父の家に行けば、祖父は一日中私の手を握って、野原で山で、歩きながら無数の昔話を聞かせてくださった。
田舎の家の裏庭にある竹で「洞箫(퉁소)」(尺八に似た笛)も直接作ってくれたし、クヌギの木で手作りで「ユッ」(小ちいさな丸い棒切れを割って作る四本一組の遊戯具)も切ってくれた。
(注) ユッは、ユンノリ(윷놀이)遊びに使う。
祖父と私が散歩に出て行くたびに、祖母は袋いっぱいニンニクとネギを満たして祖父に渡したりした。祖父はそんな生ニンニクとネギが好きだった。
あちこち歩き回って脚を休ませようとすれば、祖父と私はニンニクとネギを食べた。口の中がとてもヒリヒリしたら、地面の穀物の穂を拾ってモグモグ食べながら。
考えてみれば、何の科学的根拠もないが、その時そんなにたくさん食べた生ニンニクが私の大きく高い声(高声)の源泉ではないだろうか・・・。
祖父は当時、日毎に変化した時代の潮流とは塀を築いた方だと父はいった。
伽耶琴(カヤグム)と唱を楽しんだ、常に高尚な人(ソンビ)としての風流が好きな方だった。また、外来の文物に対してはほとんど本能に近い警戒心を抱いておられたので、父を新式の学校に送るのは不合理な話だったようだ。
新しい学問に接する道が塞がってしまった父はそれでも何かを学ばなければならないと決心し、ある日さっさと単身寺に入られた。山寺で仏教思想の奥深さ(玄妙)に夢中になった父は永遠に仏と共に生きていく心を決めたという。
父の仏心は家族には薄情と感じられるほど敬虔だった。そのせいで母は家と寺の間を上がり下りするのに、気苦労、体の苦労が非常に激しかった。
父の仏心は、ある夏の日、土砂降りのようにあふれた豪雨で水騒動が起きた時、そしていつだったか、私の不注意で山火事を起こした時に如実にあらわれた。
国民学校の低学年の時だったと記憶している。だから70年代初期ぐらいだ。あまりにも引越しをたびたびすると町の名前もぼうっとする。三仙洞か敦岩洞か、もしかしたら論硯洞か新林洞なのかも分からない。
とにかくその時も、父は家の後方にある山中の寺にいたし、私たちの住居は山麓にあった。
その年の夏、数日をおいて空があいたように豪雨が降った。寺は高い山中にあるのでこれといった水害にあうわけはないが、ふもとにあった我が家は途方もない水騒動を体験しなければならなかった。
谷川があふれると、いつのまにか真っ赤な黄土水が家の前の梨畑を襲って中庭に迫った。母はあわてて木板などをごちゃごちゃ集めてイカダに似たものを作った。私と弟はあたかも渡し舟に乗っているような気分で、恐ろしさはおろかかえって楽しいだけだった。
その瞬間、寺から息を切らして走って降りてきた父が庭に入った。子供の目にも父の顔に心の余裕がない表情を読むことができた。「ああ、母と私たちが心配になって来たんだな。」
ところがそうでなかった。父は部屋に入るやいなや祭器、蓮の提灯、窓戸紙など寺で使う物を取りまとめ始めた。薄情だった。母性愛と父情の間にはそのように大きい差があるのだろうか?
その夏の水騒動に続き、その年の晩秋には「火事騒ぎ」があった。
深い山中の寺刹も人の住む所だと、毎日毎日ゴミがでた。ゴミを一度に捨てに下山することはできないことなので、たいてい寺近くの空地でゴミを燃やしてしまったりした。
今考えれば、乾いた落葉の覆いかぶさった山中で火をつけることがどれくらい危険千万なことなのか、めまいがするが、とにかく出たその日のゴミの山に燃料を入れて火をつけると、火は風に乗って広がり山の3分の1ほどを焼いてしまった。山火事はたまたま降った雨で消えた。
火が広がる兆しが見えるやいなや、私は遁走を決めた。突然怖くなったためだ。怒られるのが恐ろしくて家にも入れぬまま、夜12時まで雨が降る晩の秋山の中で寒さに震えた。
家で私を探しに出た気配も全くなかった。結局、寒さと腹ペコということと山の獣の鳴き声にこれ以上持ちこたえることができなくて家に入った。
父は鞭を持って私を待っていた。翌日、明け方まで私は涙がにじむように鞭で打たれたし、一場の訓戒(その場だけの戒め)を聞き終えた後、はじめて母の懐で寝つくことができた。
幼い時の父は、私に常に「恐ろしい人」だったが、音域の広い私の声は父から受け継いだようだ。
今でも父の声は素晴らしい「響き」を持っている。朝早く、目覚ましの音には起きられないでも、父の咳は家族全員を起こすほどで、たまに友人の方々を連れて家に来られる時も、「ここが我が家です」という声が家まで聞こえてくる。強いてベルを押す必要がないのだ。
2015年9月24日木曜日
イ・ソンヒの家族史
イ・ソンヒの家族史について、何度かこのブログで触れた。仏教音楽の梵唄(ぼんばい:범패)指導者である父親から音楽的影響を受けたことや、優しい眼差しの祖父との関係などだ。
(本ブログ関連:”資料:이선희 Profile (自伝~1991年、27歳まで)”)
コリア・デイリーの記事「イ・ソンヒ、いま明す秘密の家族史 “ひとたびの女王は永遠の女王”」(9/23、イ・ユンミ記者)は、以前イ・ソンヒがイ・スンギと共にテレビ出演した際の話題で、本ブログに未入手の情報を、次の太字のように紹介した。(抜粋)
├-----------------------------------------------------------
・イ・ソンヒの歌を教えた初の師匠チョン・ギョンス(정경수)*作詞家は、「イ・ソンヒに対する父の格別な愛情が、今日の国民のディーバ(歌姫)として、イ・ソンヒが愛された契機を作った」と話した。
(* チョン・ギョンスについて初耳である。2012年に「韓国歌謡作家協会第9代会長」に選出された(当時59歳の)人物か?・・・出会いの時期、場所について不明)
・イ・ソンヒは、ある放送に出演し、過去の政治に身を置いたビハインド・ストーリーを公開した。イ・ソンヒは、「もともと、”少年少女家長助け合い”に関心があった。海外進出を控えていたある日、所属会社で私に相談もなしに市会議員に登録した。それでやむを得ず、政治活動をするようになった」と、政治を始めることになった契機を明らかにした。
(cf.本ブログ関連:”(資料)イ・ソンヒのソウル市議会議員選出馬の背景”、および ”(続き)”)
・続いて、「政治*をしながら、生涯初めて冷たい視線を受けた。とても恐ろしかった。私に社会を分からせる最も貴重で大切な時間だった。もし、それを体験しなかったなら、今も夢だけで暮らす十やはたちの少女だったろう。人間関係を結ぶことについて多くを学んだ」と話した。
(* イ・ソンヒは、政治と関わりで、歌手として境界が鮮明でない面がある。民自⇒民主⇒セヌリと大きく振れる傾向にある。政治的な痛みを政治で補おうとする限り、振れは止まらなくなる。)
・イ・ソンヒの(ソウル)市会議員出馬ポスターを見たネチズンは、「<イ・ソンヒの市会議員(登録?)記号1番の時期>、<あどけなくて整ったイ・ソンヒの記号1番の時期>、<麻浦(地区)の娘に笑わせるイ・ソンヒ記号1番のころ、あんな姿もあったなんて>、<イ・ソンヒの今日の栄光は父のため>、<妻帯僧である父、イ・ソンヒの幼い時の夢は、歌手でなく何だろう政治家>、<政治家に転進したイ・ソンヒ、歌手女王が似合うよ>」などの反応を見せた。
(本ブログ関連:”イ・ソンヒの政治”)
-----------------------------------------------------------┤
この記者、かなり皮肉っぽいのでは?
(本ブログ関連:”資料:이선희 Profile (自伝~1991年、27歳まで)”)
コリア・デイリーの記事「イ・ソンヒ、いま明す秘密の家族史 “ひとたびの女王は永遠の女王”」(9/23、イ・ユンミ記者)は、以前イ・ソンヒがイ・スンギと共にテレビ出演した際の話題で、本ブログに未入手の情報を、次の太字のように紹介した。(抜粋)
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・イ・ソンヒの歌を教えた初の師匠チョン・ギョンス(정경수)*作詞家は、「イ・ソンヒに対する父の格別な愛情が、今日の国民のディーバ(歌姫)として、イ・ソンヒが愛された契機を作った」と話した。
(* チョン・ギョンスについて初耳である。2012年に「韓国歌謡作家協会第9代会長」に選出された(当時59歳の)人物か?・・・出会いの時期、場所について不明)
・イ・ソンヒは、ある放送に出演し、過去の政治に身を置いたビハインド・ストーリーを公開した。イ・ソンヒは、「もともと、”少年少女家長助け合い”に関心があった。海外進出を控えていたある日、所属会社で私に相談もなしに市会議員に登録した。それでやむを得ず、政治活動をするようになった」と、政治を始めることになった契機を明らかにした。
(cf.本ブログ関連:”(資料)イ・ソンヒのソウル市議会議員選出馬の背景”、および ”(続き)”)
・続いて、「政治*をしながら、生涯初めて冷たい視線を受けた。とても恐ろしかった。私に社会を分からせる最も貴重で大切な時間だった。もし、それを体験しなかったなら、今も夢だけで暮らす十やはたちの少女だったろう。人間関係を結ぶことについて多くを学んだ」と話した。
(* イ・ソンヒは、政治と関わりで、歌手として境界が鮮明でない面がある。民自⇒民主⇒セヌリと大きく振れる傾向にある。政治的な痛みを政治で補おうとする限り、振れは止まらなくなる。)
・イ・ソンヒの(ソウル)市会議員出馬ポスターを見たネチズンは、「<イ・ソンヒの市会議員(登録?)記号1番の時期>、<あどけなくて整ったイ・ソンヒの記号1番の時期>、<麻浦(地区)の娘に笑わせるイ・ソンヒ記号1番のころ、あんな姿もあったなんて>、<イ・ソンヒの今日の栄光は父のため>、<妻帯僧である父、イ・ソンヒの幼い時の夢は、歌手でなく何だろう政治家>、<政治家に転進したイ・ソンヒ、歌手女王が似合うよ>」などの反応を見せた。
(本ブログ関連:”イ・ソンヒの政治”)
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この記者、かなり皮肉っぽいのでは?
2009年10月7日水曜日
イ・ソンヒと山寺音楽会
韓国の寺院は歴史的事情から山深くにあって、9月-10月の清々しい時期に山寺音楽会が行われているようだ。イ・ソンヒの音楽活動の場に、この山寺音楽会があるのはいうまでもない。
彼女の出自を別にすれば、特別に仏教との関係を強調しているか定かでないが、例えばNATE Q&Aに「仏教を信じるアーティストリスト」に、イ・ミジャなどとともに名前があげられている。
韓国仏教について、東国大学教授の金浩星氏による「韓国から見た日本仏教史」(山形大学「歴史・地理・人類学論集」第8号,13-22,2007年)という、ある書評をベースにされたものがある。韓国仏教のある事情を次のように説明されている。
独立前の「朝鮮仏教のほとんどのお坊さんたちは日本仏教の影響を受けて結婚してしまった。1945年独立の後、極少数の比丘(結婚しない独身の僧侶)たちが寺院から結婚していた僧侶(韓国語では「帯妻」といい、日本では「妻帯」という。)たちを追い出したこと。1954年8月24日、禅学院(ソウル)で「全国比丘僧代表者大会」から始まって、1970年5月9日、太古宗が成立されて終わった。比丘僧の宗団がいまの曹渓宗である。」
全羅北道の高敞郡にある曹渓宗禅雲寺(ソヌンサ)で、「禅雲寺の四季」を主題にした山寺音楽会が開催されて、イ・ソンヒが出演している。(「mediabuddha.net 」(9/10)、本ブログ:9/5)
(本ブログ関連:4/14、9/5)
彼女の出自を別にすれば、特別に仏教との関係を強調しているか定かでないが、例えばNATE Q&Aに「仏教を信じるアーティストリスト」に、イ・ミジャなどとともに名前があげられている。
韓国仏教について、東国大学教授の金浩星氏による「韓国から見た日本仏教史」(山形大学「歴史・地理・人類学論集」第8号,13-22,2007年)という、ある書評をベースにされたものがある。韓国仏教のある事情を次のように説明されている。
独立前の「朝鮮仏教のほとんどのお坊さんたちは日本仏教の影響を受けて結婚してしまった。1945年独立の後、極少数の比丘(結婚しない独身の僧侶)たちが寺院から結婚していた僧侶(韓国語では「帯妻」といい、日本では「妻帯」という。)たちを追い出したこと。1954年8月24日、禅学院(ソウル)で「全国比丘僧代表者大会」から始まって、1970年5月9日、太古宗が成立されて終わった。比丘僧の宗団がいまの曹渓宗である。」
全羅北道の高敞郡にある曹渓宗禅雲寺(ソヌンサ)で、「禅雲寺の四季」を主題にした山寺音楽会が開催されて、イ・ソンヒが出演している。(「mediabuddha.net 」(9/10)、本ブログ:9/5)
(本ブログ関連:4/14、9/5)
2014年7月4日金曜日
(資料)デビュー30周年迎えた「サニー・オンニ(お姉さん)」
「女性東亜」(5月号、p296-299)に掲載の記事「デビュー30周年迎えた『サニー・オンニ(お姉さん)』の驚くべき帰還」(#1、#2)(ク・ヒオン記者)は、イ・ソンヒの言葉を借りて、彼女の音楽の原点、および30年に渡る音楽活動(人生)と音楽観について次のように記している。
(イ・ソンヒの言葉の部分を太字表記した)
なお、同時期のインタビュー報道である「レディ京郷」の記事「イ・ソンヒ 伝説を超える」と内容が重複するところがあるが、以下そのまま掲載する。
(本ブログ関連:”SERENDIPITY”)
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<#1>
歌手イ・ソンヒが、デビュー30周年を迎えて、(これまで)生きてきて感じたことを盛り込んだ15枚目のアルバムを出した。率直な家族史も虚心坦壊に公開した。
「太陽のように光を放つあなたよ(태양처럼 빛을 내는 그대여)」、3月25日ソウル、松坡区のウリ金融アートホールで開かれた彼女のデビュー30周年ショーケースで、歌手イ・ソンヒ(50)を見て、ラブホリクス(Loveholics)の歌(「Butterfly」)の歌詞が浮び上がった。15集の「セレンディピティ(세렌디피티)」で帰ってきた彼女は、イム・ジョンヒ、Gummy、T.A Copy、イ・スンギ、ユン・ドヒョンなど、後輩歌手の応援を受けて新曲を熱唱して拍手を受けた。今年で彼女をマネジメントして17年目である所属事務所(HOOK ENTERTAINMENT)のクォン・ジンヨン代表は「百余曲を書いては消してアルバム準備する姿を見て」、かくして、この歌手のマネジャーをしているんだなと「考えた」と話した。
1984年、第5回「江辺歌謡祭」大賞受賞で派手にデビューしたイ・ソンヒ、デビュー曲「Jへ」は清らかな声と爆発的な歌唱力が調和をとれて、彼女を一気にスターの隊列に載せた。その年の放送と授賞式をさらったのはもちろんで、KBS「放送歌謡大賞」新人賞を受け、MBCでは「10代歌手歌謡祭」最高人気歌謡賞・新人賞・10代歌手賞を以って最初の3冠王にのぼる珍記録もたてた。その時も今も、彼女はショートヘヤに丸縁メガネとズボン・スーツ姿だった。
▼コンピュータ習いながら精魂込めて作ったアルバム
15集のタイトル曲は「その中にあなたに出会って(그 중에 그대를 만나)」。彼女のアピール力濃厚な声と美しい旋律が交わったポップ バラードだ。 「ファッション・ショーやイベント会場行っても照れくさくて、フォトウォール(Photowall)*の前に立ってみたことがない」という彼女だが、この日だけは慎ましやかな姿でカメラ前に立ち、フラッシュの洗礼を楽しんだ。
(*)フォトウォール: イベント会見時に背景に置く、複数の関係企業のロゴを貼り付けた壁。
「このように記者懇談会を開いてアルバムを紹介することは、私たちの時代には定着しなかった文化なので、初めて享受してみるんですよ。そのためか、睡眠も十分足りてなかったが、これまで以上に嬉しい気分で最善を尽くして舞台に立つべきと考えて、ここに上がってきています。アルバムを準備する2年間、デビュー30周年になれば、どんな歌をどのようにしようか、歌手としてどんな位置づけを確保しなければならないだろうか、悩み、孤独に準備しましたよ。アルバムが世の中に出ると、一人だけの音楽でない、多くの人々の音楽に成っていくようで楽しいです。おののきますが、とても落ち着きますね。」
歌の歌詞には、彼女が生きてみて感じて気付いたことを盛り込んでいる。
「いつもそばにあったものをよく知らないまま、常に別の処を眺め、羨ましがって、人に付いて行こうとう気持で過ごしたようです。ところが、ある瞬間、そばにいたことを知って、それによって人生が違うように見えるんです。一人だけの悟り(でしょうか)? 今回のアルバムには、家族に対する内容もあるし、歌う人として受けた感動に対する内容もあります。デビュー後、多くの人たちが呼応してくれるとき、『ありがとうございます』、『幸せです』といったけれど、トップから降りてきて、過ぎた時間を眺めると、その言葉がより多くのものを含んでいたのに、そこまで分からなかったんだなと思いましたよ。私のファンに、絶えず自らを鞭打って発展していき、今もどこかへ向かって行きつつあるとのをお見せしたかったのですよ。私を好きになった方々に対する記憶、私が享受した人気、まさにそんなことが暖かい力となって、私がこのように(年月が)経(た)っているという話をしたかったのです。」
今回のアルバムの収録曲11曲中、イ・ソンヒ作曲が9曲、作詞が7曲だ。それだけ、シンガーソングライターとしての力量が集約されたアルバムだ。後輩であるイ・スンギの話によれば、コンピュータもできないイ・ソンヒが直接コンピュータを習いながら作業するほど熱意を見せたと。イ・ソンヒは、「14集までは、編曲やアルバムの外的な部分には参加しなかったが、15集はそこまで残らず参加した」と話した。アルバム作業をしながらあったエピソードも聞かせてくれた。
「どうしてもモニタリング(評価)してくれる人たちが会社の人以外にいないけれど、歌作りして、聞いてみてといっても別に反応がないのです。それでは『別に良くないか?』と思って消し、また他の歌を作って、そのような形で百余曲近く完成しました。『手応えあるまで、作ってみよう』という心情でした。録音に参加した友人たちがみな若かったんですよ。朝起きて夕方に寝る私と別に、その友人たちは午後の5時頃起きて眠らずに夜を明かして、明け方の5~6時に寝入りましたよ。折衷して、午後の4時から歌ったが、皆赤くした目で遅く出てきて、『先輩、申し訳ありません』と(笑い)。私がそのフクロウ(夜型人間)たちを連れて作業するのに、苦労をちょっとしましたよ。」
彼女は、「普段(人々の反応に対して)モニタリングをたびたびする方だが、世代により私のイメージが違うのですよ」と、「デビュー当時を記憶する方々にはボーカリスト、(映画)『王の男』に挿入された『因縁』で私を、子どもがいない(若い)友人たちにはシンガーソング・ライターという認識がより強いようだ」といった。
「あえて、シンガーソング・ライターで記憶されるなくちゃいけないという考えはないです。私はボーカリストです。歌うのが良くて、マイク握るが良くて、言葉ではなく歌で感情表現をもっとうまくできるし、それが大好きです。直接曲を書く理由も、私の声をさらに良く表現できてるからです。ふだんの私は、私が一番よく分かりますね。低く話すとか囁(ささや)く声など、専門の作曲家が表現できなかった自分を表現しなければならないように見えて、曲作業を始めました。ロック、国楽などの色々なジャンルの音楽をやりながら感じた点を表現して見たら、欲求が生じてきて、他のジャンルはどうだろうか度々実験することになりましたよ。もちろん、実験が成功したことも、失敗したこともあったんですよ。」
「これから、どんな方向に進んでいくのか」と尋ねると、すぐに彼女は「これから、どのようにしていくのか…」といいながら質問を低く口ずさんだ。
「好きなジャンルはバラードです。ボーカルが勢いよく歌って、シャウティングして込める力でなく、私たちの言葉と音色が与える力があるけれど、そのような力を表す音楽ならばジャンルに関係なく歌うでしょう。歳も取って、幼いとき聞いた音楽がみなそのためか、歌詞が与える力が無限に大きな歌を好きです。ただ流される曲も良いけど、十分にかえりみて考えることができる歌詞がはるかに良かったんですよ。今後もずっとそのような音楽を作って、そのような歌詞を書くつもりです。どんな方向に進むかは、私がどのように変るかも知れなくて話せないが、留まっていないだろうということだけは確かに申しあげることができます。」
<#2>
彼女は、代表的な芸能界の「童顔(若々しい)スター」に挙げられる。彼女は、「笑い話しで施術したといえば、そんなことが記事に大きく出る」といったり、「そうでなくて、マッサージを受け、皮膚科も通っている」と話した。
「私もいっぱい変わりました。けれど、変化が大きくないとお考えになるのは、私から感じられるはっきりしたイメージのためでしょう。多分、髪をアップしてドレスを着れば時間の痕跡を探すでしょうが、今もズボンにジャケットを着ているから(笑い)。前は、すっぴんでお会いしたが、今は化粧を少ししたということ位いですよ。」
「オンニ(お姉さん)の帰還」は、茶の間のテレビ劇場視聴率上昇にも一助となった。2回に渡って放送された、彼女が出演したSBS「ヒーリング・キャンプ」は、同時間帯視聴率1位を記録もした。彼女は過去、マイケル・ジャクソンの両親にラブコールを受けた理由を聞かせた。27才のとき、女性歌手5人を集めてアジア版「ジャクソン・ファイブ」を作ろうと思ったマイケル・ジャクソンの両親から、ニューヨークで活動しようという提案を受けたこと。彼女は、「オーディションまで合格した」と明らかにした。この時期、彼女は、日本のグループ「安全地帯」が書いた曲で日本に進出する考えもあった状態であった。
▼留まらなかったけれど、いつもその場にいた歌手
しかしながら、彼女の海外進出は結局失敗に終わってしまった。代わりに彼女は政界に出た。イ・ソンヒは、その年(1991年)、最年少のソウル市市会議員*になって話題を集めた。彼女は「韓国にしばらく立ち寄った間、マネジメントから私と相談なく市会議員出馬の書類に印鑑を押した。私がしなければ色々な人が難しくなる状況だから、やむを得ず海外進出の夢をあきらめて政治に挑戦した」と海外進出が失敗に終わった理由を明らかにした。
(*)本ブログ関連:”ソウル市市会議員”
「ヒーリング・キャンプ」では、率直な彼女の家族史も聞くことができた。イ・ソンヒは、帯妻僧(結婚して妻と家庭をもうけた男性の僧侶=妻帯僧)の父のおかげで幼い時期、森の中で育った話も聞かせた。彼女は「祖父は風流を知る人なので町内で歌(歌唱)ったりしたが、父はとてもきちんとした人である。学校は、市内の中心にある所に通ったが、家族は森の中の寺で生活した」として、「念仏をたくさんそらんじた父のおかげで喉ができあがったようだ」と話した。2006年、空白期をもって、娘と共にアメリカ留学に進んだ『情熱ママ(教育ママ)』でもあるイ・ソンヒは、現在アメリカ名門大であるコーネル大でジャーナリズムを専攻している娘ユン・ヤンウォンさんに対しても言及した。
「(娘)ヤンウォンが幼いときは、天才だと思いました。胸に抱いて童話の本を読んだが、二三度読んで、その場面を開(あ)けるとそのまま話しましたよ。すべての母親たちが勘違いするように、内心『私はなかなか良い子供を産んだ』と思いました。本を読んでやって、その本(の話し)をより合わせてストーリーを別のように解釈すれば、この子は再びより合わせて別の話をしました。想像を続くようにする私たちだけのゲーム方式でした。ところで、本を買って読んでみなさいといったところ『ママが読んでくれたら分かるの』というんですよ。ストーリーを覚えて想像したのであって、文自体は分からなかったのです(笑い)。」
先立って、彼女は記者懇談会で「最近、音楽のトレンドを逃さないように、人気歌謡番組をしばしばモニタリングして、弘大のインディーバンド公演をたくさんたずね歩く」と明らかにしたりもした。長い時間愛されることができる彼女だけの力は何だろうか。
「振り返ってみると、毎年いつも良いことだけではなかったです。ある時は、一人だけの時間を通り過ぎたりもしたし、今よりもより多く関心を集めて一年をむかえたりもしましたよ。それでも、今こんなにうれしい今日を享受することができるのは、私が『元気だったため』なようです。『元気だった』というのは、留まらなかったということですね。ある方法で成功したがそれを捨てることができて、もちろん新しい試みをして足を踏み間違える時もあるが、恐れないでずっと何かをしようとしたので、多くの方々が『イ・ソンヒはいつもその場にあった』と記憶してくださるようです。今後も引き続き働くだろうし、数多くの質問を私にすることで、挑戦することで、その時ごとに好き嫌いが分かれるだろうが、今までそのようにしてきたように失敗するとおじけづいたり萎縮しないでしょう。」
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(イ・ソンヒの言葉の部分を太字表記した)
なお、同時期のインタビュー報道である「レディ京郷」の記事「イ・ソンヒ 伝説を超える」と内容が重複するところがあるが、以下そのまま掲載する。
(本ブログ関連:”SERENDIPITY”)
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<#1>
歌手イ・ソンヒが、デビュー30周年を迎えて、(これまで)生きてきて感じたことを盛り込んだ15枚目のアルバムを出した。率直な家族史も虚心坦壊に公開した。
「太陽のように光を放つあなたよ(태양처럼 빛을 내는 그대여)」、3月25日ソウル、松坡区のウリ金融アートホールで開かれた彼女のデビュー30周年ショーケースで、歌手イ・ソンヒ(50)を見て、ラブホリクス(Loveholics)の歌(「Butterfly」)の歌詞が浮び上がった。15集の「セレンディピティ(세렌디피티)」で帰ってきた彼女は、イム・ジョンヒ、Gummy、T.A Copy、イ・スンギ、ユン・ドヒョンなど、後輩歌手の応援を受けて新曲を熱唱して拍手を受けた。今年で彼女をマネジメントして17年目である所属事務所(HOOK ENTERTAINMENT)のクォン・ジンヨン代表は「百余曲を書いては消してアルバム準備する姿を見て」、かくして、この歌手のマネジャーをしているんだなと「考えた」と話した。
1984年、第5回「江辺歌謡祭」大賞受賞で派手にデビューしたイ・ソンヒ、デビュー曲「Jへ」は清らかな声と爆発的な歌唱力が調和をとれて、彼女を一気にスターの隊列に載せた。その年の放送と授賞式をさらったのはもちろんで、KBS「放送歌謡大賞」新人賞を受け、MBCでは「10代歌手歌謡祭」最高人気歌謡賞・新人賞・10代歌手賞を以って最初の3冠王にのぼる珍記録もたてた。その時も今も、彼女はショートヘヤに丸縁メガネとズボン・スーツ姿だった。
▼コンピュータ習いながら精魂込めて作ったアルバム
15集のタイトル曲は「その中にあなたに出会って(그 중에 그대를 만나)」。彼女のアピール力濃厚な声と美しい旋律が交わったポップ バラードだ。 「ファッション・ショーやイベント会場行っても照れくさくて、フォトウォール(Photowall)*の前に立ってみたことがない」という彼女だが、この日だけは慎ましやかな姿でカメラ前に立ち、フラッシュの洗礼を楽しんだ。
(*)フォトウォール: イベント会見時に背景に置く、複数の関係企業のロゴを貼り付けた壁。
「このように記者懇談会を開いてアルバムを紹介することは、私たちの時代には定着しなかった文化なので、初めて享受してみるんですよ。そのためか、睡眠も十分足りてなかったが、これまで以上に嬉しい気分で最善を尽くして舞台に立つべきと考えて、ここに上がってきています。アルバムを準備する2年間、デビュー30周年になれば、どんな歌をどのようにしようか、歌手としてどんな位置づけを確保しなければならないだろうか、悩み、孤独に準備しましたよ。アルバムが世の中に出ると、一人だけの音楽でない、多くの人々の音楽に成っていくようで楽しいです。おののきますが、とても落ち着きますね。」
歌の歌詞には、彼女が生きてみて感じて気付いたことを盛り込んでいる。
「いつもそばにあったものをよく知らないまま、常に別の処を眺め、羨ましがって、人に付いて行こうとう気持で過ごしたようです。ところが、ある瞬間、そばにいたことを知って、それによって人生が違うように見えるんです。一人だけの悟り(でしょうか)? 今回のアルバムには、家族に対する内容もあるし、歌う人として受けた感動に対する内容もあります。デビュー後、多くの人たちが呼応してくれるとき、『ありがとうございます』、『幸せです』といったけれど、トップから降りてきて、過ぎた時間を眺めると、その言葉がより多くのものを含んでいたのに、そこまで分からなかったんだなと思いましたよ。私のファンに、絶えず自らを鞭打って発展していき、今もどこかへ向かって行きつつあるとのをお見せしたかったのですよ。私を好きになった方々に対する記憶、私が享受した人気、まさにそんなことが暖かい力となって、私がこのように(年月が)経(た)っているという話をしたかったのです。」
今回のアルバムの収録曲11曲中、イ・ソンヒ作曲が9曲、作詞が7曲だ。それだけ、シンガーソングライターとしての力量が集約されたアルバムだ。後輩であるイ・スンギの話によれば、コンピュータもできないイ・ソンヒが直接コンピュータを習いながら作業するほど熱意を見せたと。イ・ソンヒは、「14集までは、編曲やアルバムの外的な部分には参加しなかったが、15集はそこまで残らず参加した」と話した。アルバム作業をしながらあったエピソードも聞かせてくれた。
「どうしてもモニタリング(評価)してくれる人たちが会社の人以外にいないけれど、歌作りして、聞いてみてといっても別に反応がないのです。それでは『別に良くないか?』と思って消し、また他の歌を作って、そのような形で百余曲近く完成しました。『手応えあるまで、作ってみよう』という心情でした。録音に参加した友人たちがみな若かったんですよ。朝起きて夕方に寝る私と別に、その友人たちは午後の5時頃起きて眠らずに夜を明かして、明け方の5~6時に寝入りましたよ。折衷して、午後の4時から歌ったが、皆赤くした目で遅く出てきて、『先輩、申し訳ありません』と(笑い)。私がそのフクロウ(夜型人間)たちを連れて作業するのに、苦労をちょっとしましたよ。」
彼女は、「普段(人々の反応に対して)モニタリングをたびたびする方だが、世代により私のイメージが違うのですよ」と、「デビュー当時を記憶する方々にはボーカリスト、(映画)『王の男』に挿入された『因縁』で私を、子どもがいない(若い)友人たちにはシンガーソング・ライターという認識がより強いようだ」といった。
「あえて、シンガーソング・ライターで記憶されるなくちゃいけないという考えはないです。私はボーカリストです。歌うのが良くて、マイク握るが良くて、言葉ではなく歌で感情表現をもっとうまくできるし、それが大好きです。直接曲を書く理由も、私の声をさらに良く表現できてるからです。ふだんの私は、私が一番よく分かりますね。低く話すとか囁(ささや)く声など、専門の作曲家が表現できなかった自分を表現しなければならないように見えて、曲作業を始めました。ロック、国楽などの色々なジャンルの音楽をやりながら感じた点を表現して見たら、欲求が生じてきて、他のジャンルはどうだろうか度々実験することになりましたよ。もちろん、実験が成功したことも、失敗したこともあったんですよ。」
「これから、どんな方向に進んでいくのか」と尋ねると、すぐに彼女は「これから、どのようにしていくのか…」といいながら質問を低く口ずさんだ。
「好きなジャンルはバラードです。ボーカルが勢いよく歌って、シャウティングして込める力でなく、私たちの言葉と音色が与える力があるけれど、そのような力を表す音楽ならばジャンルに関係なく歌うでしょう。歳も取って、幼いとき聞いた音楽がみなそのためか、歌詞が与える力が無限に大きな歌を好きです。ただ流される曲も良いけど、十分にかえりみて考えることができる歌詞がはるかに良かったんですよ。今後もずっとそのような音楽を作って、そのような歌詞を書くつもりです。どんな方向に進むかは、私がどのように変るかも知れなくて話せないが、留まっていないだろうということだけは確かに申しあげることができます。」
<#2>
彼女は、代表的な芸能界の「童顔(若々しい)スター」に挙げられる。彼女は、「笑い話しで施術したといえば、そんなことが記事に大きく出る」といったり、「そうでなくて、マッサージを受け、皮膚科も通っている」と話した。
「私もいっぱい変わりました。けれど、変化が大きくないとお考えになるのは、私から感じられるはっきりしたイメージのためでしょう。多分、髪をアップしてドレスを着れば時間の痕跡を探すでしょうが、今もズボンにジャケットを着ているから(笑い)。前は、すっぴんでお会いしたが、今は化粧を少ししたということ位いですよ。」
「オンニ(お姉さん)の帰還」は、茶の間のテレビ劇場視聴率上昇にも一助となった。2回に渡って放送された、彼女が出演したSBS「ヒーリング・キャンプ」は、同時間帯視聴率1位を記録もした。彼女は過去、マイケル・ジャクソンの両親にラブコールを受けた理由を聞かせた。27才のとき、女性歌手5人を集めてアジア版「ジャクソン・ファイブ」を作ろうと思ったマイケル・ジャクソンの両親から、ニューヨークで活動しようという提案を受けたこと。彼女は、「オーディションまで合格した」と明らかにした。この時期、彼女は、日本のグループ「安全地帯」が書いた曲で日本に進出する考えもあった状態であった。
▼留まらなかったけれど、いつもその場にいた歌手
しかしながら、彼女の海外進出は結局失敗に終わってしまった。代わりに彼女は政界に出た。イ・ソンヒは、その年(1991年)、最年少のソウル市市会議員*になって話題を集めた。彼女は「韓国にしばらく立ち寄った間、マネジメントから私と相談なく市会議員出馬の書類に印鑑を押した。私がしなければ色々な人が難しくなる状況だから、やむを得ず海外進出の夢をあきらめて政治に挑戦した」と海外進出が失敗に終わった理由を明らかにした。
(*)本ブログ関連:”ソウル市市会議員”
「ヒーリング・キャンプ」では、率直な彼女の家族史も聞くことができた。イ・ソンヒは、帯妻僧(結婚して妻と家庭をもうけた男性の僧侶=妻帯僧)の父のおかげで幼い時期、森の中で育った話も聞かせた。彼女は「祖父は風流を知る人なので町内で歌(歌唱)ったりしたが、父はとてもきちんとした人である。学校は、市内の中心にある所に通ったが、家族は森の中の寺で生活した」として、「念仏をたくさんそらんじた父のおかげで喉ができあがったようだ」と話した。2006年、空白期をもって、娘と共にアメリカ留学に進んだ『情熱ママ(教育ママ)』でもあるイ・ソンヒは、現在アメリカ名門大であるコーネル大でジャーナリズムを専攻している娘ユン・ヤンウォンさんに対しても言及した。
「(娘)ヤンウォンが幼いときは、天才だと思いました。胸に抱いて童話の本を読んだが、二三度読んで、その場面を開(あ)けるとそのまま話しましたよ。すべての母親たちが勘違いするように、内心『私はなかなか良い子供を産んだ』と思いました。本を読んでやって、その本(の話し)をより合わせてストーリーを別のように解釈すれば、この子は再びより合わせて別の話をしました。想像を続くようにする私たちだけのゲーム方式でした。ところで、本を買って読んでみなさいといったところ『ママが読んでくれたら分かるの』というんですよ。ストーリーを覚えて想像したのであって、文自体は分からなかったのです(笑い)。」
先立って、彼女は記者懇談会で「最近、音楽のトレンドを逃さないように、人気歌謡番組をしばしばモニタリングして、弘大のインディーバンド公演をたくさんたずね歩く」と明らかにしたりもした。長い時間愛されることができる彼女だけの力は何だろうか。
「振り返ってみると、毎年いつも良いことだけではなかったです。ある時は、一人だけの時間を通り過ぎたりもしたし、今よりもより多く関心を集めて一年をむかえたりもしましたよ。それでも、今こんなにうれしい今日を享受することができるのは、私が『元気だったため』なようです。『元気だった』というのは、留まらなかったということですね。ある方法で成功したがそれを捨てることができて、もちろん新しい試みをして足を踏み間違える時もあるが、恐れないでずっと何かをしようとしたので、多くの方々が『イ・ソンヒはいつもその場にあった』と記憶してくださるようです。今後も引き続き働くだろうし、数多くの質問を私にすることで、挑戦することで、その時ごとに好き嫌いが分かれるだろうが、今までそのようにしてきたように失敗するとおじけづいたり萎縮しないでしょう。」
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