秋が深まると、みんな詩人になる。紅葉、落ち葉、風、そして旅路に至るまで、そこに人生を想い重ねる・・・毎年この時期になるとね。
きょうは冷えるので、ちょっと暖まる明日…久しぶりに、公園に出て秋に親しもうか。
(*) Youtube(登録:間庭小枝の日本の歌事典 Maniwa Japanese Songs)
「旅の秋 堀内敬三作詞・ロシア民謡 Andante Cantabile」(2022/10/06)
ー https://www.youtube.com/watch?v=9NZsnLvTJL4
ー チャイコフスキーの弦楽四重奏曲第1番・第2楽章『アンダンテ・カンタービレ』の旋律に、歌詞を付した歌曲。
(**)チャイコフスキーの家系:「現在のポルタヴァ州に領地を持っていた、ウクライナ・コサックのチャイカ家に出自を持つ」(Wikipedia)
原曲***を聞いてみると、なるほどたわいない日常の素朴な明るさ、合わせてちょっとアラブ風味の響きも感じる。どんな歌詞かも知りたい。
(***) Youtube(登録:Пелагея - トピック)
「Сидел Ваня на диване」(2018/06/15)
ー https://www.youtube.com/watch?v=VUfNtXKbUvs
そこで、歌について、Gemini に訊ねてみた。
Q.堀内敬三の「旅の秋」がありますが、原歌のロシア民謡について教えてください。
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A.堀内敬三が作詞した「旅の秋(たびのあき)」の原曲は、ロシア(ウクライナ)の民謡をモチーフにした名曲「アンダンテ・カンタービレ」(ピョートル・チャイコフスキー作曲『弦楽四重奏曲第1番 ニ長調 作品11』第2楽章)です。
楽譜や歌集などでは「ロシア民謡」と表記されることが多いですが、その成り立ちと原歌(旋律のルーツ)には以下のような背景があります。
原歌(メロディのルーツ)について
1.民謡の採集
チャイコフスキーが1869年(一説には1870年)頃、ウクライナのカミャンカ(Kamianka)****に滞在していた際、地元の小作人(左官職人とも伝えられます)が歌っていた民謡を聴き留めて採譜したものがベースとなっています。
(****)ウクライナのカミャンカ(Kamianka): 地図で見るとウクライナの中央に位置する町。ナポレオン戦争勝利後、ロシアの自由主義的な思想を持つ知識人の集まり場所(地方貴族のサロン)でもあったようだ。それらの40年後に、チャイコフスキーが同地を訪れたことになる。(Gemini/Wikipedia)
2.原題:『ヴァーニャはソファに座り…』*****
この民謡はロシア・ウクライナ地域で歌われていた『Сидел Ваня на диване(ソファに座っていたヴァーニャ)』(または『ヴァーニャはベンチに腰かけて』)という歌です。
(*****)ソファなのかベンチなのか: 「ロシアの生活史や民謡の文脈においては『ベンチ(木製の長椅子)』と捉えるのが、当時の実態や言葉のニュアンスとして適切です」、「18世紀〜19世紀のロシア農村部や庶民の家においては、『壁沿いに置かれた背もたれのない木製の長椅子(ベンチ)』や、素朴な木製ローソファーのような家具」(Gemini)とのこと。
3.ロシア民謡としての定着
チャイコフスキーがこの旋律を『弦楽四重奏曲第1番』の第2楽章(アンダンテ・カンタービレ)に取り入れたことで、世界的に有名なクラシック旋律となり、日本では「ロシア民謡」の楽曲として堀内敬三の日本語詞がつけられて親しまれるようになりました。
「旅の秋」としての特徴
堀内敬三は、原曲の持つ哀愁漂う美しい旋律に合わせ、次のような詩的な日本語詞を添えています。
月の光 地にあふれ 空行く風もなし
果てし知れぬ 野路の秋 寂しさ身にぞ染む
草に鳴ける 虫の声 現(うつつ)に数えつつ
旅に眠る 秋の夜半(よわ) 澄みたり我が心
静かな秋の夜、旅路で虫の声を聞きながら心を澄ませる静寂感が、チャイコフスキーの描いた郷愁の旋律と見事に調和しています。
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Q.『Сидел Ваня на диване(ソファに座っていたヴァーニャ)』(または『ヴァーニャはベンチに腰かけて』)の歌詞(日本語訳)を教えてください。何だか明るい曲に聞こえますが。
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A.仰る通り、チャイコフスキーが聴いてクラシックに仕上げた「アンダンテ・カンタービレ」の哀愁漂うメロディとは対照的に、元となった民謡『Сидел Ваня на диване(ヴァーニャはソファに腰かけていた)』は、コミカルで少しおどけた(あるいは軽いナンセンスな)日常の民謡・歌謡です。
原歌の日本語訳(大まかな内容)
この民謡は地域や歌い手によって歌詞のバリエーションや続きの節がいくつか存在しますが、最も知られている基本的な歌詞の日本語訳は以下のようになります。
・ロシア語原歌詞(抜粋)
Сидел Ваня на диване,
Курил табак „Махорочку“.
Пришла Дуня, села рядом,
Завела разговор...
・日本語訳(意訳)
ヴァーニャはソファ(または長椅子)に腰かけ、
安タバコ(マホルカ)をくゆらせていた。
そこへ、ドゥーニャ(女性の名)がやってきて、隣に座り、
おしゃべりを始めたとさ……。
(※続きの節では「パイを焼いておくれ」だの「タバコを一口吸わせておくれ」だのといった、素朴で他愛のない男女の掛け合いやコミカルなやり取りが続きます。)
なぜメロディの印象が違うのか?
民謡の「言葉(歌詞)」自体は庶民の気楽な日常や戯れを歌ったものでしたが、ロシア・ウクライナの伝統的な民謡のメロディには、短調(マイナー)の長閑(のどか)でありながらどこか切ない独特の節回しがありました。
1.元歌のテンポと雰囲気
民謡として歌われていた当時は、少し軽快でテンポのよい素朴な歌だったと考えられています。
2.チャイコフスキーによる芸術的昇華
チャイコフスキーはこの民謡のメロディに含まれる深い郷愁と美しさに着目しました。テンポを「アンダンテ(歩くような速さで)」に落とし、弦楽の豊かな響きと弱音器(ミュート)を効果的に使うことで、元歌のコミカルさを一変させ、世界中を魅了する美しい哀歌へと生まれ変わらせたのです。
原曲の歌詞を知ると、あの美しい名曲の意外な素顔が見えて面白いですね。
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Q.原曲に、ちょっとアラブ風の香りがします・・・土地柄でしょうか?
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A.おっしゃる通り、非常に鋭い感性です!「アンダンテ・カンタービレ」の冒頭や原曲のメロディには、西洋音楽の一般的な長調・短調とは少し異なる、オリエンタル(東洋・アラブ風)でエキゾチックな響きを感じ取ることができます。
これには、ウクライナ・ロシアの地理的・歴史的背景と、民族音楽の独特な構造という明確な理由があります。
1.「オリエンタル風」に聞こえる音楽的理由
旋律にアラブや東洋のような「エキゾチックな香り」が漂う最大の理由は、使用されている音階(スケール)にあります。
・混合音階(ポリモーダル)の響き
この民謡のメロディは、西洋音楽で標準的な「ナチュラル・マイナー(自然短音階)」だけではなく、音階の中に半音や全音の独特な配置(あるいは長調と短調が揺れ動くような節回し)が含まれています。
・装飾音と節回し
中東・アラブの音楽(マカーム)やビザンティン聖歌に見られるような、音の周りを滑らかに揺らすような装飾的な節回しが、ロシア・ウクライナの古風な民謡にも深く残っています。
2.土地柄と歴史的背景(ユーラシアの交差点)
ウクライナから南ロシアにかけての広大なステップ(草原地帯)は、歴史的にヨーロッパとアジア・中東が交わる文化の交差点でした。
・シルクロードと遊牧民の影響
古くからスキタイ、ハザール、タタール(モンゴル・トルコ系民族)など、東方や中東系の遊牧民族が行き交い、支配や交流を重ねてきた土地です。
・オスマン帝国やペルシャとの近さ
黒海沿岸地域を通じて、オスマン帝国(現在のトルコ)やアラブ・ペルシャ世界の音楽文化や楽器(弦楽器のドムラやバブラッカなど)が民謡の中に自然と溶け込みました。
3.ロシア音楽における「東方趣味(オリエンタリズム)」
ロシアの作曲家たち(チャイコフスキーやリムスキー=コルサコフなど)は、自分たちの土地に根付いた「西洋とは違う、東洋(アラブ・中東・中央アジア)の香りを含んだ哀愁」を自国のアイデンティティとして大切にしていました。
チャイコフスキーが採集したあの小さな民謡にも、まさにユーラシア大陸の風と歴史がもたらした「アラブ風のオリエンタルな色彩」が静かに宿っていたと言えます。
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Q.チャイコフスキーが民謡を採譜した時代と、ロシアの国民楽派と重なるのでしょうか?
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A.まさにその通りです。チャイコフスキーがこの民謡を採譜し、作品に組み込んだ時代は、まさにロシア国民楽派(いわゆる「ロシア5人組」)の全盛期と完全に重なっています。
時代の重なりと歴史的背景
チャイコフスキーがウクライナの地で民謡『ヴァーニャはソファに座り…』を聴き留めて採譜したのは1869年(または1870年)頃で、それを組み込んだ『弦楽四重奏曲第1番』が作曲されたのは1871年です。
年代 出来事
1862年 サンクトペテルブルク音楽院が開校(チャイコフスキーが入学)
1860年代半ば バラキレフを中心とする「ロシア5人組」が結成され活動が本格化
1869〜1871年 チャイコフスキーが民謡を採譜し『弦楽四重奏曲第1番』を作曲
(ムソルグスキーがオペラ『ボリス・ゴドゥノフ』初稿を完成させた時期とも符合)
ロシアの音楽界において1860年代から1870年代は、「ロシア人独自の音楽とは何か」というアイデンティティの探求が最も熱く繰り広げられた時代でした。
「国民楽派(5人組)」とチャイコフスキーの関係
国民楽派(ミリィ・バラキレフ、モデスト・ムソルグスキー、ニコライ・リムスキー=コルサコフ、アレクサンダー・ボロディン、シーザリ・キュイ)とチャイコフスキーは、手法や立場こそ異なりましたが、「ロシアの民謡や口承文芸を大切にする」という根底の目的を共有していました。
・国民楽派のアプローチ
西欧的なアカデミズム(対位法やソナタ形式など)を拒絶し、ロシア民謡の変則的なリズムや独自の和声感をそのまま生かした生のロシア音楽を目指しました。
・チャイコフスキーのアプローチ
サンクトペテルブルク音楽院で正統な西欧的作曲法を学んだチャイコフスキーは、「ロシア民謡の美しい旋律を、西欧の伝統的な古典形式(弦楽四重奏など)に融合させる」という立場をとりました。
「アンダンテ・カンタービレ」は、まさにロシア民謡の持つ哀愁やオリエンタルな素材を、西洋音楽の巧みな対位法と弦楽四重奏の美意識で包み込んだ、この時代ならではの結晶と言えます。
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