市民参加型新聞といわれる韓国のオーマイニュースの記事「[イシュー] 昔の友に会ったように嬉しいLP」(1/29)に、中古LPレコードの宝庫ともいうべきソウルの”会賢地下商店街(회현 지하상가)”について以下のように紹介している。
なお、同地下街には、イ・ソンヒのLPレコードの発掘に3回ほど出かけたことがある。2回ほどで大方収集できた・・・というか、彼女のLPが容易に入手できたことに驚いた。LPレコード中心であるため、中古CDの品揃えは少ない。(CDはネット頼みかもしれない)
(本ブログ関連:”会賢(フェヒョン)地下商店街”)
本記事には、中古LPの話題以外に、1970年代に行なわれた「禁止曲」について若干触れられており、若者に浸透を始めたロックやフォークに及んだことが分かる。独裁国に見られる締め付けだが、「退廃芸術」や「社会主義リアリズム」ほど大々的には至らなかったようだ。
⇒ (参考)「1970 年代以降の韓国禁止歌と韓国社会」(金珉廷)
禁止理由分類に年度に偏りあるものとコンスタントのものとがある。
(本ブログ関連:”禁止曲”)
イ・ソンヒは、1984年にデビューしており、その後の世代にあたるが、禁止曲に該当したシン・ジュンヒョン(申重鉉、신중현)作詞・作曲の「美しい江山(아름다운 강산)」(1972年)を、カバーというか国民歌謡にまで再生している。
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・真昼でも息が暖かく感じる氷点下の天気のため、屋内や地下路だけ通うことになる。ソウルの明洞と南大門市場をつなぐ「会賢地下商店街」には(中古)LP店が多い。イ・ソンヒ、ヤン・ヒウン、山びこ、新村(シンチョン)ブルースなどの歌が、ターンテーブルから聞こえてくる。
・LP(ジャケット)にある写真を見ると、古くからの友に会ったようでうれしい。当時の歌の言葉は、歌詞が美しくて詩的なのでいい。歌を吟味することができる。(また)1970年代には、多くのLPが禁止曲だった。
・LP店のおやじさんが教えてくれた、一番記憶に残る禁止曲は、キム・セファンが歌った「道端に座って(길가에 앉아서)」(1973年)だ。
その理由は「勤労意欲低下」だったと。
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(参考)Youtube登録「道端に座って」(歌詞も記載: 登録者に感謝)
以前の「テレビレポート」の記事「ユン・ヒョンジュ ”道端に座って” 禁止曲、なぜやることなく眺めているのか」(2012年9月22日)だが、「道端に座って」が禁止になった訳を作者の口を通じて次のように紹介している。
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・(「道端に座って」の曲について)MCのシン・ドンヨプは「このようにさわやかな歌が(どうして)禁止曲だったんですか?」と聞き、これに対して(同曲を作詞・作曲した)ユン・ヒョンジュは、「やることなく、通り過ぎる人をどうして眺めているのかと禁止曲になった」と言って、大きな笑いをとった。
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何でこの曲が・・・。(当時、禁止対象となった曲の関係者に、大麻が仕込まれて事件化したようだ・・・真偽はどうだったのか?)
2018年2月5日月曜日
2016年12月18日日曜日
「美しい江山」の経緯
イ・ソンヒのコンサート終盤に必ず歌われる歌がある。コンサートの時期に合ったヒット曲とは違い、観客にとり民族の血を沸かす定番ともいえる曲、 「美しい江山(아름다운 강산)」がある。客は総立ちして両手を大きく揺らす。もちろん客層から、若者の熱狂と趣が異なるのがすぐ分かる。日本の客人にとって、この渦に紛れ込むには正直なところ少々の躊躇がある。
(本ブログ関連:”美しい江山”)
この歌の起源や歌手について、このブログで何度も記してきた。ソウル経済の記事、「シン・デチョル、『バクサモ*、父が作った ”美しい江山” 歌う資格はない・・・むしろ私と交渉せよ』」(12/18、キム・キョンミン記者)は、原曲者のシン・ジュンヒョン(申重鉉、신중현、1938年1月4日~)の息子シン・デチョルが、現在の世情について触れたもので、父の曲を親朴槿恵派の集会で歌われたことへの批判である。が、ここでは、その中から、「美しい江山」誕生の経緯について扱った部分のみ抜粋する。イ・ソンヒのバージョンについても語っているが・・・。
(*) バクサモ(박사모): 親朴槿恵派団体
現存者の近親者の発言として意義がある。ただしそれゆえの偏りにも考慮する必要があるだろう。
(本ブログ関連:”シン・ジュンヒョン”、”キム・ジョンミ”)
(参考1) 「もっと!コリア」の記事「韓国芸能界の二世タレントについて教えてください。(下)」
(参考2) 上記(参考1)にも触れられているが、シン・ジュンヒョンは、「韓国人の父と日本人の母の間にソウル明洞で生まれた」
(段落改変)
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・(シン・デチョルの)記事で、彼は、「『美しい江山』という歌は、私の父が74年に作曲した歌だ。この歌を作ることになった事情がある。当時、私の父は最高のヒット曲作曲家であった」といい、「父の証言によれば、大統領府が 『閣下(朴正煕、パク・チョンヒ)の歌を作れ』という内容の強権を行ったという。すなわち、朴正煕称賛の歌を作れということだった。しかし、父はそのような歌は作ることができないと断った。すると、この後、(民主)共和党だといって再び電話がかかったという。やはり同じ内容で、もし作らなければケガするという脅迫もしている。しかし再度断った」と、当時の状況を描写した。
(参考) 朴正煕(1917年11月14日~1979年10月26日)の大統領任期は、1963年12月17日~1979年10月26日
・そして、「その後、父の作品は次々と禁止曲になる。当時は『美人』という歌が大ヒットして国民歌謡となった時期だ。ところが、『美人』は突然禁止曲になる。それだけでなく、キム・チュザが歌った『嘘』など多くの愛を受けた数十曲が禁止された」といい、「苦心した父、当時の父のバンドであった『シン・ジュンヒョンとヨプチョンたち』の2集(74年)に、『美しい江山』を収録する。
・オリジナル・バージョンは、この後イ・ソンヒのリメーク・バージョン(第4集アルバム、1988年)とは大いに違う。
・この曲は、権力者を称賛する歌は作ることができないが、美しい私たちの大韓民国を称賛する歌は作ることができるという意志の表現だった」と付け加えた彼は、「激しい独裁権力者朴正煕の強権を拒否し、我が国を一つに重ね合わせる歌を作ったが、この曲もやはり禁止曲になった。
・ところで、『美しい江山』の歌詞をよく調べてみると巧妙なメッセージが隠れている」といい、「歌の前半部の核心は、『美しいここに 私がいて 君がいるよ/手をとり合い行ってみよう 駆けてみよう、あの広野へ/我ら集いて語ってみよう、新たらしい 希望を』であり、後半部核心は、『今日も君に会いに行かなくては/語らなくては 遠い後日(のち)に/君と私 生きて 終(しま)う/永遠のここに 我らの 新しい夢を/作ってみたくて』」との歌詞の背景を説明した。
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(本ブログ関連:”美しい江山”)
この歌の起源や歌手について、このブログで何度も記してきた。ソウル経済の記事、「シン・デチョル、『バクサモ*、父が作った ”美しい江山” 歌う資格はない・・・むしろ私と交渉せよ』」(12/18、キム・キョンミン記者)は、原曲者のシン・ジュンヒョン(申重鉉、신중현、1938年1月4日~)の息子シン・デチョルが、現在の世情について触れたもので、父の曲を親朴槿恵派の集会で歌われたことへの批判である。が、ここでは、その中から、「美しい江山」誕生の経緯について扱った部分のみ抜粋する。イ・ソンヒのバージョンについても語っているが・・・。
(*) バクサモ(박사모): 親朴槿恵派団体
現存者の近親者の発言として意義がある。ただしそれゆえの偏りにも考慮する必要があるだろう。
(本ブログ関連:”シン・ジュンヒョン”、”キム・ジョンミ”)
(参考1) 「もっと!コリア」の記事「韓国芸能界の二世タレントについて教えてください。(下)」
(参考2) 上記(参考1)にも触れられているが、シン・ジュンヒョンは、「韓国人の父と日本人の母の間にソウル明洞で生まれた」
(段落改変)
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・(シン・デチョルの)記事で、彼は、「『美しい江山』という歌は、私の父が74年に作曲した歌だ。この歌を作ることになった事情がある。当時、私の父は最高のヒット曲作曲家であった」といい、「父の証言によれば、大統領府が 『閣下(朴正煕、パク・チョンヒ)の歌を作れ』という内容の強権を行ったという。すなわち、朴正煕称賛の歌を作れということだった。しかし、父はそのような歌は作ることができないと断った。すると、この後、(民主)共和党だといって再び電話がかかったという。やはり同じ内容で、もし作らなければケガするという脅迫もしている。しかし再度断った」と、当時の状況を描写した。
(参考) 朴正煕(1917年11月14日~1979年10月26日)の大統領任期は、1963年12月17日~1979年10月26日
・そして、「その後、父の作品は次々と禁止曲になる。当時は『美人』という歌が大ヒットして国民歌謡となった時期だ。ところが、『美人』は突然禁止曲になる。それだけでなく、キム・チュザが歌った『嘘』など多くの愛を受けた数十曲が禁止された」といい、「苦心した父、当時の父のバンドであった『シン・ジュンヒョンとヨプチョンたち』の2集(74年)に、『美しい江山』を収録する。
・オリジナル・バージョンは、この後イ・ソンヒのリメーク・バージョン(第4集アルバム、1988年)とは大いに違う。
・この曲は、権力者を称賛する歌は作ることができないが、美しい私たちの大韓民国を称賛する歌は作ることができるという意志の表現だった」と付け加えた彼は、「激しい独裁権力者朴正煕の強権を拒否し、我が国を一つに重ね合わせる歌を作ったが、この曲もやはり禁止曲になった。
・ところで、『美しい江山』の歌詞をよく調べてみると巧妙なメッセージが隠れている」といい、「歌の前半部の核心は、『美しいここに 私がいて 君がいるよ/手をとり合い行ってみよう 駆けてみよう、あの広野へ/我ら集いて語ってみよう、新たらしい 希望を』であり、後半部核心は、『今日も君に会いに行かなくては/語らなくては 遠い後日(のち)に/君と私 生きて 終(しま)う/永遠のここに 我らの 新しい夢を/作ってみたくて』」との歌詞の背景を説明した。
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2018年4月15日日曜日
(資料)韓国歌謡100年、一番使われたキーワード
久し振りに「孝行ラジオ」で、キム・ジョンホ(김정호、1952年~1985年)の代表曲「見知らぬ少女(이름모를 소녀)」(1973年)を楽しんだ。
(本ブログ関連:”孝行ラジオ”、”見知らぬ少女”)
「孝行ラジオ」といっても放送番組ではない。5000曲近くの歌謡曲を収録したマイクロSDカードを差し込んだ(ラジオにもなる)携帯音楽再生プレイヤーである。中高年が山歩きや散策の途中、ながらで次々聞き流すそうだ。ところが、マイクロSDカードの歌謡曲は海賊版で問題となった。現在の流通はどうなっているだろうか。
歌謡曲に対する支持は底堅く、圧倒的な伝統を作っている。そんな数々の歌謡曲の歌詞を基に、語彙分析などすることで、大衆がどのような言葉に関心を持つか(感応するか)がうかがえるだろう。今まで、メディアに語られたそんな情報をブログに記してきた。
(本ブログ関連:”韓国歌謡曲の語彙”、”韓国歌謡曲”)
今回、朝鮮日報(日本語版)に掲載の記事「韓国歌謡100年、一番使われたキーワードは『愛』」(4/15、ユ・ソクジェ記者)は、< 韓国歌謡曲100年間の約2万曲 > について、「語彙」調査した結果を次のように報じている。勝手ながら、資料として全文掲載させていただく。(感謝)
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(1)
1926年にユン・シムドクは「お金も名誉も愛も全て嫌だ」と歌い、2009年にバービー・キムは「愛というやつ、そいつの前でいつも私は空虚な存在だった」と歌った。「韓国歌謡100年」を貫いたキーワードは「恨」ではなく「愛」だった。
最近著書『歌の言語(노래의 언어)』(アクロス 어크로스刊)を出版した仁荷大学韓国語文学科のハン・ソンウ教授(50)は「韓国の約2万曲に至る歌謡のうち『愛』は曲名に1608回、歌詞に4万3583回それぞれ登場しており、名詞の中でも圧倒的首位を占めた」と説明する。「日常言語における登場回数では104位にとどまっている『愛』という単語が、実は歌謡で脚光を浴びていたのです」
国語学者であるハン教授は「希望的な歌」から防弾少年団のKポップに至るまで、1世紀にわたって発表された韓国の大衆歌謡の歌詞に対する人文学的な分析を試みた。「一般大衆が好んで使う言葉の中で、生きている言語について研究しようと思いました。人の感情と時代の流れをそっくりそのまま盛り込んでいるという点で、ヒット曲をしのぐものがあるでしょうか」
資料集めから始めた。「国民が実際に歌っている歌」という基準を立てて、カラオケの歌詞を全てダウンロードし、『韓国歌謡全集』という本に掲載されていない歌謡を補った後、分かち書きなどの校正を行った。その結果、2万6250曲、原稿用紙にして7万5000枚分の資料が集まった。当代のヒット曲の歌詞を集大成したという点で、まるで新羅郷歌集『三代目』*の編さんをほうふつさせる作業と言える。
(*)三代目: この郷歌集は後世に伝わっていない。
その結果、歌詞は時代の変化を盛り込んでいた。「愛」という言葉が使われた歌は、1950年代までは全体の2.19%にすぎなかったが、2000年代以降は「ラブ」までを含めると実に65.22%に急増する。「素直に心を開いて自分のことを表現する世代が登場した証拠です」。女性が愛する対象を表現する際の二人称は、以前はほとんどが「先生」だったが、今では「お兄さん」に変わった。海外旅行が禁止されていた時代には「マドロス」という職業が歌詞に数多く登場していたが、今ではほぼ消え去った。1968年のパールシスターズ(펄시스터즈)の歌に登場する「喫茶店のコーヒー(커피한잔)」は、2010年に10㎝の歌を通じて「アメリカーノ」という単語に変身するものの、酒は時代を超えて常に人々の喜怒哀楽を表現してきた。
(2)
意外な結果も見受けられた。歌詞に最も多く登場する季節は秋ではないかと思われがちだが、実は春(1572回)、冬(1281回)、夏(1001回)に次いで最下位(秋、541回)だった。「『秋の手紙(가을 편지)』『落ち葉とともに去っていった愛(낙엽 따라 가버린 사랑)』のように感情の響きの大きい歌が人々の記憶により多く刻まれただけのこと」との分析だ。「愛することの痛みや流れ行く歳月に対する恨が韓国歌謡の中に多いのは、悲しみに浸り、痛みを感じる過程を通じて妙な快感を覚えるからです。辛い食べ物を食べるときと同じですね」
草稿に1980-90年代の歌謡が非常に多く登場することから、編集者とよく言い争いになったというハン教授は「『若い時は最近の歌が、年を取ってからは昔の歌が好きになる』という通念を破る必要性がある」と話す。「どんな時代でも、歌の『標準語』は青年たちの言語です。だからどの年齢層でも自分が若かった頃の歌が好きになるんです」。そんなハン教授も、防弾少年団の「八道江山」*を初めて聞いた時は、大きなひらめきがあったという。「地域ごとに存在する独特の方言が全て通じるのが韓国語なんだ、という悟りが背後に見え隠れしています。方言を研究する私が常に学生たちに話していることです」
(*)Youtube「八道江山」: 韓国方言を全く存じませんが登録者(JPN sub)の日本語訳に感謝
数多くの歌謡の中で、ハン教授を最も感動させた歌詞は何だろうか。「カン・サンエ(강산에)の『…ですね(…라구요)』です。過去と現在、歴史と情緒を全て網羅している珍しい歌謡です。カラオケで歌ってみたいのはチェ・ペクホ(최백호)の『浪漫について(낭만에 대하여)』です。あ、ただ私は音痴なので、なんとなく口をパクパクさせるだけですが」
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(チェ・ペクホ「浪漫について」1995年:いろいろと凝縮された詞、歌にエネルギーも要るよう・・・おじさんには)
(Youtubeに登録のwit008007に感謝)
(本ブログ関連:”孝行ラジオ”、”見知らぬ少女”)
「孝行ラジオ」といっても放送番組ではない。5000曲近くの歌謡曲を収録したマイクロSDカードを差し込んだ(ラジオにもなる)携帯音楽再生プレイヤーである。中高年が山歩きや散策の途中、ながらで次々聞き流すそうだ。ところが、マイクロSDカードの歌謡曲は海賊版で問題となった。現在の流通はどうなっているだろうか。
歌謡曲に対する支持は底堅く、圧倒的な伝統を作っている。そんな数々の歌謡曲の歌詞を基に、語彙分析などすることで、大衆がどのような言葉に関心を持つか(感応するか)がうかがえるだろう。今まで、メディアに語られたそんな情報をブログに記してきた。
(本ブログ関連:”韓国歌謡曲の語彙”、”韓国歌謡曲”)
今回、朝鮮日報(日本語版)に掲載の記事「韓国歌謡100年、一番使われたキーワードは『愛』」(4/15、ユ・ソクジェ記者)は、< 韓国歌謡曲100年間の約2万曲 > について、「語彙」調査した結果を次のように報じている。勝手ながら、資料として全文掲載させていただく。(感謝)
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(1)
1926年にユン・シムドクは「お金も名誉も愛も全て嫌だ」と歌い、2009年にバービー・キムは「愛というやつ、そいつの前でいつも私は空虚な存在だった」と歌った。「韓国歌謡100年」を貫いたキーワードは「恨」ではなく「愛」だった。
最近著書『歌の言語(노래의 언어)』(アクロス 어크로스刊)を出版した仁荷大学韓国語文学科のハン・ソンウ教授(50)は「韓国の約2万曲に至る歌謡のうち『愛』は曲名に1608回、歌詞に4万3583回それぞれ登場しており、名詞の中でも圧倒的首位を占めた」と説明する。「日常言語における登場回数では104位にとどまっている『愛』という単語が、実は歌謡で脚光を浴びていたのです」
国語学者であるハン教授は「希望的な歌」から防弾少年団のKポップに至るまで、1世紀にわたって発表された韓国の大衆歌謡の歌詞に対する人文学的な分析を試みた。「一般大衆が好んで使う言葉の中で、生きている言語について研究しようと思いました。人の感情と時代の流れをそっくりそのまま盛り込んでいるという点で、ヒット曲をしのぐものがあるでしょうか」
資料集めから始めた。「国民が実際に歌っている歌」という基準を立てて、カラオケの歌詞を全てダウンロードし、『韓国歌謡全集』という本に掲載されていない歌謡を補った後、分かち書きなどの校正を行った。その結果、2万6250曲、原稿用紙にして7万5000枚分の資料が集まった。当代のヒット曲の歌詞を集大成したという点で、まるで新羅郷歌集『三代目』*の編さんをほうふつさせる作業と言える。
(*)三代目: この郷歌集は後世に伝わっていない。
その結果、歌詞は時代の変化を盛り込んでいた。「愛」という言葉が使われた歌は、1950年代までは全体の2.19%にすぎなかったが、2000年代以降は「ラブ」までを含めると実に65.22%に急増する。「素直に心を開いて自分のことを表現する世代が登場した証拠です」。女性が愛する対象を表現する際の二人称は、以前はほとんどが「先生」だったが、今では「お兄さん」に変わった。海外旅行が禁止されていた時代には「マドロス」という職業が歌詞に数多く登場していたが、今ではほぼ消え去った。1968年のパールシスターズ(펄시스터즈)の歌に登場する「喫茶店のコーヒー(커피한잔)」は、2010年に10㎝の歌を通じて「アメリカーノ」という単語に変身するものの、酒は時代を超えて常に人々の喜怒哀楽を表現してきた。
(2)
意外な結果も見受けられた。歌詞に最も多く登場する季節は秋ではないかと思われがちだが、実は春(1572回)、冬(1281回)、夏(1001回)に次いで最下位(秋、541回)だった。「『秋の手紙(가을 편지)』『落ち葉とともに去っていった愛(낙엽 따라 가버린 사랑)』のように感情の響きの大きい歌が人々の記憶により多く刻まれただけのこと」との分析だ。「愛することの痛みや流れ行く歳月に対する恨が韓国歌謡の中に多いのは、悲しみに浸り、痛みを感じる過程を通じて妙な快感を覚えるからです。辛い食べ物を食べるときと同じですね」
草稿に1980-90年代の歌謡が非常に多く登場することから、編集者とよく言い争いになったというハン教授は「『若い時は最近の歌が、年を取ってからは昔の歌が好きになる』という通念を破る必要性がある」と話す。「どんな時代でも、歌の『標準語』は青年たちの言語です。だからどの年齢層でも自分が若かった頃の歌が好きになるんです」。そんなハン教授も、防弾少年団の「八道江山」*を初めて聞いた時は、大きなひらめきがあったという。「地域ごとに存在する独特の方言が全て通じるのが韓国語なんだ、という悟りが背後に見え隠れしています。方言を研究する私が常に学生たちに話していることです」
(*)Youtube「八道江山」: 韓国方言を全く存じませんが登録者(JPN sub)の日本語訳に感謝
数多くの歌謡の中で、ハン教授を最も感動させた歌詞は何だろうか。「カン・サンエ(강산에)の『…ですね(…라구요)』です。過去と現在、歴史と情緒を全て網羅している珍しい歌謡です。カラオケで歌ってみたいのはチェ・ペクホ(최백호)の『浪漫について(낭만에 대하여)』です。あ、ただ私は音痴なので、なんとなく口をパクパクさせるだけですが」
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(チェ・ペクホ「浪漫について」1995年:いろいろと凝縮された詞、歌にエネルギーも要るよう・・・おじさんには)
(Youtubeに登録のwit008007に感謝)
2013年12月19日木曜日
(資料)イ・ソンヒのスター・ストーリー「8.夜の舞台時代の警備員の話」
先日(9/27)、「スポーツ韓国」の紙面(1991年3月8日~4月5日)に連載された「イ・ソンヒ27歳当時のスター・ストーリー」記事の目次を紹介したが、その第8回目をここに載せたい。感謝。
イ・ソンヒが、デビュー初期の待遇や環境の変化への戸惑いと驚き、いわゆる夜営業(ステージのある店)に出演する際に直面したそして軋轢をガードした警備員の存在などを知ることができた。
(本ブログ関連:”(資料)イ・ソンヒ(27歳当時)の「スター・ストーリー」”、”資料:이선희 Profile”)
[8] 夜の舞台時代の警備員の話
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1985年2月、私は初めて第一アルバムを世の中に出した。1集に収録されたすべての曲は、全てソン・ジュホ氏が作曲した歌だ。高校時代、チャン・ウクチョ音楽室での出会いが縁だった。
<少女の祈り(소녀와 기도)>と<女心(여심)>をそれぞれ(レコード)裏表面のタイトル曲として載せた1集アルバムはあきれるほどとても売れた。ソウルでは「あ! 昔よ(아! 옛날이여)」と「葛藤(갈등)」が人気であり、地方では「また咲く愛のために(다시 필 사랑위해)」、「光の子ら(빛의 자손들)」、「愛の約束(사랑의 약속)」、「少女の祈り(소녀의 기도)」などが強い勢いを見せた。(レコード)盤一つで、何と六曲もヒットしたのだ。ファンは、レコードの入手が難しいと不平を言うほどであった。
ただ一つ、今でも予測するのが難しいのは、特定の歌に対するファンの反応だ。作曲家や歌手が(レコードの)A、B面の頭の曲なら明らかに最も自信がある歌であるのに間違いないはずなのに、ファンはほとんど期待もしなかった歌をもっと好きだったりする。6集アルバム中の「思い出のページをめくれば(추억의 책장을 넘기면)」もやはりタイトル曲ではないのだから。
とにかく、1集の大ヒットは、私を「マイカー族」の隊列に立たせた。今でも忘れることはできない、私の一番の車、(現代製の)白色のポニー2。
私は、レコードがよく売れて、自家用車を運転する厳然とした歌手だった。歌が下手な歌手は、もう歌手ではない。私はデビュー直後から、そうそうたる先輩歌手を追いかけて行くのではなく、「正面対決」を繰り広げて、私の道を歩んできたと思う。
歌唱力を評価する基準は、他の人の歌をどれくらい上手く歌うかにかかっていると私は信じる。
私は、デビュー当初や今も、放送に出演して他の歌手の曲をたくさん歌う方だ。私の歌があまり多くなかった新人時代には、70年代のフォークソングと先輩歌手の歌をたくさん歌った。チョー・ヨンピル、キム・スヒ、ユン・シネ、キム・ヨンジャさんなど当時最高歌手と舞台に一緒に立って、内心競争的に相手の方の歌を熱唱したその時の経験が、今日の私に多いに役に立ったと思う。
私も自分の声が高いと感じている。キー(Key)がハイ(high)なため、私は歌わねばならない相手歌手の歌が低音を中心にしている場合には、ちょっと苦労しなければならなかった。寝る間を惜しんで、歌詞を諳んじて、私の声をその歌手の声に合わせて・・・
先に話したように、デビュー初め、私はしばらく夜営業の所(キャバレー・酒場など)に出演した時期があった。ところで、行く所ごとに、どこでどのように聞いてきたのか、青少年のファンたちまで未成年者の立入禁止場所である酒場の中に入ってこようと出入口前でもめごとをしたりした。また、客は、客なのに「いくら芸能人でも『ちっちゃな』学生がこのように出てはいけないよ」と、隙さえあれば意見しようとした。
「いや、私も法的には完全な成人なのに、なんでこのように・・・」 しかし、何となく「突っ張って」自然に夜営業の所には往来を控えるようになった。
(この)夜営業の出演と関連して、ほとんど伝説的な話で、チェ・ヒジュン先輩が酔客から白のスーツに酒とおつまみの洗礼を受けた時、気まずくなった雰囲気を淡々として余有ある態度で、それ以上悪化させなかったという話がある。
反面、ある女性歌手は、意地悪な客にあらゆる悪口を浴びせまくることによって、禍を自ら招いたという話も聞いた。
私は、幸い酒に酔った客に辱めに会ったことが一度もなかった。恐らく、放送などを通して映った幼いイメージのおかげでないかと思う。その上、私は舞台の上に釘付けされたように、本来の場所で歌を歌うスタイルでない。客席と客席の間、テーブルとテーブルの間の通路をうんと歩き回る方だった。できるだけ多くの人々と握手もしながら・・・
荒いことで有名な永登浦地域の夜営業で2ヶ月間歌を歌う時、私はウェイターから感謝の言葉をしばしば聞いた。普段あまり目立たないが、円形舞台の周囲にはウェイターの「きらりと光る」視線がある。舞台上の芸能人が、警備員の役割まで兼ねているのだ。
ところが、私が出演してからは、荒い客よりネクタイ姿の会社員が多くなって仕事をするのがはるかに楽というのだった。あたかも「剣道館」や(学級委員の中から選ばれる)「善導部長」になったように、得意になった瞬間だった。
そのようなある日、舞台下に降りて握手するのを楽しむどころか、絶対に夜営業には途絶する事件が起きた。
ある夜の舞台だったか、「あ、昔よ」を歌っている時だった。
その日に限って、客席には荒っぽい男が多かった。突然どこかで何かが壊れる音が聞こえたのに続き、舞台の下が騒がしかった。 私を「警備」していた方々と、頭を剃ってズボンの胴には刃物までさげた、ある輩と喧嘩が起こったのだ。
事件の発端はこうだ。
歌手が舞台上で歌っていたら、握手するつもりで舞台の真ん前に出てくる客がいる。数ある中には、握手すると歌手を舞台の下に引っ張るやっかいな人もいる。それで、舞台周りには客を「装った」歌手のマネジャーや警備員が常に緊張の中で待機している場合が多い。
その日も、舞台上にぴたっと寄り添い座って「万が一の事態」に備えていた私の警備員(私が属したプロダクションの職員)を、その不良たちが、熱心な「イ・ソンヒ ファン」と誤認して、不正をはたらいたのだ。私に会わせてくれといって.。
イ・ソンヒが、デビュー初期の待遇や環境の変化への戸惑いと驚き、いわゆる夜営業(ステージのある店)に出演する際に直面したそして軋轢をガードした警備員の存在などを知ることができた。
(本ブログ関連:”(資料)イ・ソンヒ(27歳当時)の「スター・ストーリー」”、”資料:이선희 Profile”)
[8] 夜の舞台時代の警備員の話
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1985年2月、私は初めて第一アルバムを世の中に出した。1集に収録されたすべての曲は、全てソン・ジュホ氏が作曲した歌だ。高校時代、チャン・ウクチョ音楽室での出会いが縁だった。
<少女の祈り(소녀와 기도)>と<女心(여심)>をそれぞれ(レコード)裏表面のタイトル曲として載せた1集アルバムはあきれるほどとても売れた。ソウルでは「あ! 昔よ(아! 옛날이여)」と「葛藤(갈등)」が人気であり、地方では「また咲く愛のために(다시 필 사랑위해)」、「光の子ら(빛의 자손들)」、「愛の約束(사랑의 약속)」、「少女の祈り(소녀의 기도)」などが強い勢いを見せた。(レコード)盤一つで、何と六曲もヒットしたのだ。ファンは、レコードの入手が難しいと不平を言うほどであった。
ただ一つ、今でも予測するのが難しいのは、特定の歌に対するファンの反応だ。作曲家や歌手が(レコードの)A、B面の頭の曲なら明らかに最も自信がある歌であるのに間違いないはずなのに、ファンはほとんど期待もしなかった歌をもっと好きだったりする。6集アルバム中の「思い出のページをめくれば(추억의 책장을 넘기면)」もやはりタイトル曲ではないのだから。
とにかく、1集の大ヒットは、私を「マイカー族」の隊列に立たせた。今でも忘れることはできない、私の一番の車、(現代製の)白色のポニー2。
私は、レコードがよく売れて、自家用車を運転する厳然とした歌手だった。歌が下手な歌手は、もう歌手ではない。私はデビュー直後から、そうそうたる先輩歌手を追いかけて行くのではなく、「正面対決」を繰り広げて、私の道を歩んできたと思う。
歌唱力を評価する基準は、他の人の歌をどれくらい上手く歌うかにかかっていると私は信じる。
私は、デビュー当初や今も、放送に出演して他の歌手の曲をたくさん歌う方だ。私の歌があまり多くなかった新人時代には、70年代のフォークソングと先輩歌手の歌をたくさん歌った。チョー・ヨンピル、キム・スヒ、ユン・シネ、キム・ヨンジャさんなど当時最高歌手と舞台に一緒に立って、内心競争的に相手の方の歌を熱唱したその時の経験が、今日の私に多いに役に立ったと思う。
私も自分の声が高いと感じている。キー(Key)がハイ(high)なため、私は歌わねばならない相手歌手の歌が低音を中心にしている場合には、ちょっと苦労しなければならなかった。寝る間を惜しんで、歌詞を諳んじて、私の声をその歌手の声に合わせて・・・
先に話したように、デビュー初め、私はしばらく夜営業の所(キャバレー・酒場など)に出演した時期があった。ところで、行く所ごとに、どこでどのように聞いてきたのか、青少年のファンたちまで未成年者の立入禁止場所である酒場の中に入ってこようと出入口前でもめごとをしたりした。また、客は、客なのに「いくら芸能人でも『ちっちゃな』学生がこのように出てはいけないよ」と、隙さえあれば意見しようとした。
「いや、私も法的には完全な成人なのに、なんでこのように・・・」 しかし、何となく「突っ張って」自然に夜営業の所には往来を控えるようになった。
(この)夜営業の出演と関連して、ほとんど伝説的な話で、チェ・ヒジュン先輩が酔客から白のスーツに酒とおつまみの洗礼を受けた時、気まずくなった雰囲気を淡々として余有ある態度で、それ以上悪化させなかったという話がある。
反面、ある女性歌手は、意地悪な客にあらゆる悪口を浴びせまくることによって、禍を自ら招いたという話も聞いた。
私は、幸い酒に酔った客に辱めに会ったことが一度もなかった。恐らく、放送などを通して映った幼いイメージのおかげでないかと思う。その上、私は舞台の上に釘付けされたように、本来の場所で歌を歌うスタイルでない。客席と客席の間、テーブルとテーブルの間の通路をうんと歩き回る方だった。できるだけ多くの人々と握手もしながら・・・
荒いことで有名な永登浦地域の夜営業で2ヶ月間歌を歌う時、私はウェイターから感謝の言葉をしばしば聞いた。普段あまり目立たないが、円形舞台の周囲にはウェイターの「きらりと光る」視線がある。舞台上の芸能人が、警備員の役割まで兼ねているのだ。
ところが、私が出演してからは、荒い客よりネクタイ姿の会社員が多くなって仕事をするのがはるかに楽というのだった。あたかも「剣道館」や(学級委員の中から選ばれる)「善導部長」になったように、得意になった瞬間だった。
そのようなある日、舞台下に降りて握手するのを楽しむどころか、絶対に夜営業には途絶する事件が起きた。
ある夜の舞台だったか、「あ、昔よ」を歌っている時だった。
その日に限って、客席には荒っぽい男が多かった。突然どこかで何かが壊れる音が聞こえたのに続き、舞台の下が騒がしかった。 私を「警備」していた方々と、頭を剃ってズボンの胴には刃物までさげた、ある輩と喧嘩が起こったのだ。
事件の発端はこうだ。
歌手が舞台上で歌っていたら、握手するつもりで舞台の真ん前に出てくる客がいる。数ある中には、握手すると歌手を舞台の下に引っ張るやっかいな人もいる。それで、舞台周りには客を「装った」歌手のマネジャーや警備員が常に緊張の中で待機している場合が多い。
その日も、舞台上にぴたっと寄り添い座って「万が一の事態」に備えていた私の警備員(私が属したプロダクションの職員)を、その不良たちが、熱心な「イ・ソンヒ ファン」と誤認して、不正をはたらいたのだ。私に会わせてくれといって.。
歌っている私に向かって、彼らは「ソンヒよ、後で・・・」、何とかしてと、とても近い仲であるかのようにほらを吹いたし、これに対していきり立った私の「保護者」たちと言い争いを繰り広げることになったのだ。
今日、突然に「警備員」という言葉が登場するようになったのは、記憶も生々しい85年3月20日の脅迫事件がその根元になっている。
当時、私は一日平均7百~8百通ずつ押し寄せるファンレターで、集配人のおじさんの顔色をうかがわなければならない程大変な苦労をしていた。今でも一日に4百通余りの手紙を受けているが、返事はほとんどできない。デビュー初めから今まで、着実に便り伝える方々だけでも1千人近くなる。顔は分からないが名前と字体だけ見てもうれしい方々だ。
話が横道にそれたが、とにかくその頃30代初めぐらいに見える険しい若者3人が訪ねてきた。熱狂ファンなのを自任しながら。
なんだかんだとつまらぬことの末に、結論は「おれたちの店にも出演しないで、他の夜舞台をあちこち出ては『面白く』ないことと思え」と言うのだった。
実際には、一箇所と2ヶ月出演契約を結んだら、1年契約したのと変わらない。放送出演とか練習とかで言って見ると、出演キャンセルすることが多く、約束は約束だから2ヶ月間60回の舞台に立つという契約を守ろうとするなら、およそ1年ほどかかるからだ。
私を連れて行こうとしていた店は、いつのまにか「お連れ」参りし始めたし、当時では破格的な1ヶ月に7百万ウォンという最高水準の待遇を提示する所もあった。
怖いし、また昼間と夜を変えて生きるということに体質的に拒否感もあって、ずっと断ったところ「鼻っぱしらを高くふるまうな。二度と歌を歌えないようにする」という威嚇を受けたりもした。
だが、「お茶を一杯一緒に飲む機会をくれ。そうでなければ拉致する」と見えすいた脅しをする子どもっぽい少年の電話声には「ふざけているのね」といいながら、たいしたことないと思ったりもした。
しかし、私は彼らの顔が分からないが、私の一挙手一投足は完全に公開されたも同然だったので、結局、私の乗用車には警備員2人が同乗することになったのだ。
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今日、突然に「警備員」という言葉が登場するようになったのは、記憶も生々しい85年3月20日の脅迫事件がその根元になっている。
当時、私は一日平均7百~8百通ずつ押し寄せるファンレターで、集配人のおじさんの顔色をうかがわなければならない程大変な苦労をしていた。今でも一日に4百通余りの手紙を受けているが、返事はほとんどできない。デビュー初めから今まで、着実に便り伝える方々だけでも1千人近くなる。顔は分からないが名前と字体だけ見てもうれしい方々だ。
話が横道にそれたが、とにかくその頃30代初めぐらいに見える険しい若者3人が訪ねてきた。熱狂ファンなのを自任しながら。
なんだかんだとつまらぬことの末に、結論は「おれたちの店にも出演しないで、他の夜舞台をあちこち出ては『面白く』ないことと思え」と言うのだった。
実際には、一箇所と2ヶ月出演契約を結んだら、1年契約したのと変わらない。放送出演とか練習とかで言って見ると、出演キャンセルすることが多く、約束は約束だから2ヶ月間60回の舞台に立つという契約を守ろうとするなら、およそ1年ほどかかるからだ。
私を連れて行こうとしていた店は、いつのまにか「お連れ」参りし始めたし、当時では破格的な1ヶ月に7百万ウォンという最高水準の待遇を提示する所もあった。
怖いし、また昼間と夜を変えて生きるということに体質的に拒否感もあって、ずっと断ったところ「鼻っぱしらを高くふるまうな。二度と歌を歌えないようにする」という威嚇を受けたりもした。
だが、「お茶を一杯一緒に飲む機会をくれ。そうでなければ拉致する」と見えすいた脅しをする子どもっぽい少年の電話声には「ふざけているのね」といいながら、たいしたことないと思ったりもした。
しかし、私は彼らの顔が分からないが、私の一挙手一投足は完全に公開されたも同然だったので、結局、私の乗用車には警備員2人が同乗することになったのだ。
2012年11月28日水曜日
シン・ジュンヒョンのコンサート
イ・ソンヒのコンサートに欠かすことができないものに、シン・ジュンヒョン(申重鉉、신중현)作詞・作曲による「美しい江山(아름다운 강산)」(1972年)がある。イ・ソンヒが、この歌をカバーしたことで、国民歌謡まで上りつめたといえる。(なお同歌はアルバム4集(1988年)に所収)
大統領選挙の12月に、シン・ジュンヒョンのコンサートが催されると、東亜日報の記事「シン·ジュンヒョン "30代のときは力で、70代のときは道(精神)で、演奏"」(11/8)は伝えている。2部構成のステージだが、シン・ジュンヒョンは、その第2部で演奏する「美しい江山」について次のように語っている。
・2部は奥深いサイケデリック・ロックだけをレパートリーに決めた。「ディスコ風に変わったイ・ソンヒのバージョンや、1980年代の『シン・ジュンヒョンとミュージックパワー』バージョンのほか、72年の『シン・ジュンヒョンとThe Men』バージョンの幻覚的な『美しい江山』をお聞かせしましょう。そのバージョンが本物でしたよ。大衆を考えず、自分なりのギターの音を正しく聞かせてさしあげるでしょう。」
この「美しい江山」成立のいきさつは、伝説になっているようだ。
ちなみに、シン・ジュンヒョンに代表される「サイケデリック・ロック」について、Ko-Wikipediaは次のように説明している。
・サイケデリック・ロック(Psychedelic rock)は、 ロック音楽の一種である。アシッド・ロック(Acid rock)、ドラッグ・ロック(Drug rock)、または単にサイケデリックとも呼ばれている。名前からわかるように、あたかも麻薬をした状態で演奏したような夢幻的でサイケデリックな雰囲気が特徴である。
・大韓民国の代表的なサイケデリック・アルバムは、シン・ジュンヒョンが作詞、作曲してキム・ジョンミが歌った1973年の「風」、「Now」のアルバムなどがある[出典必要]。
しかし、1975年の緊急措置9号、大麻事件などで、これらのアルバムは禁止曲処分されたり、焼却され、(以下略)
(本ブログ関連:"シン・ジュンヒョン"、"キム・ジョンミ")
大統領選挙の12月に、シン・ジュンヒョンのコンサートが催されると、東亜日報の記事「シン·ジュンヒョン "30代のときは力で、70代のときは道(精神)で、演奏"」(11/8)は伝えている。2部構成のステージだが、シン・ジュンヒョンは、その第2部で演奏する「美しい江山」について次のように語っている。
・2部は奥深いサイケデリック・ロックだけをレパートリーに決めた。「ディスコ風に変わったイ・ソンヒのバージョンや、1980年代の『シン・ジュンヒョンとミュージックパワー』バージョンのほか、72年の『シン・ジュンヒョンとThe Men』バージョンの幻覚的な『美しい江山』をお聞かせしましょう。そのバージョンが本物でしたよ。大衆を考えず、自分なりのギターの音を正しく聞かせてさしあげるでしょう。」
この「美しい江山」成立のいきさつは、伝説になっているようだ。
ちなみに、シン・ジュンヒョンに代表される「サイケデリック・ロック」について、Ko-Wikipediaは次のように説明している。
・サイケデリック・ロック(Psychedelic rock)は、 ロック音楽の一種である。アシッド・ロック(Acid rock)、ドラッグ・ロック(Drug rock)、または単にサイケデリックとも呼ばれている。名前からわかるように、あたかも麻薬をした状態で演奏したような夢幻的でサイケデリックな雰囲気が特徴である。
・大韓民国の代表的なサイケデリック・アルバムは、シン・ジュンヒョンが作詞、作曲してキム・ジョンミが歌った1973年の「風」、「Now」のアルバムなどがある[出典必要]。
しかし、1975年の緊急措置9号、大麻事件などで、これらのアルバムは禁止曲処分されたり、焼却され、(以下略)
(本ブログ関連:"シン・ジュンヒョン"、"キム・ジョンミ")
2016年4月2日土曜日
ヤン・ヒウン、イ・ソンヒ、イ・サンウン、エンバ
イ・ソンヒに対するファンの気質にも関心がある。特に、彼女のファン層の中心である女性ファンの心理といっていいかもしれない。それは、いわゆる「女性的」なものを取り除いたところでの好意、憧れだろうか。一種、宝塚ファンに見られる深層を垣間見る気がする。(あくまでも、男の側からの視点に過ぎないが)
(3月30日、宝塚音楽学校の合格発表の様子をテレビニュースで見た)
イ・ソンヒの大衆音楽界デビューにともない登場したのが、歳下の若い女性が歳上の若い女性に対する憧れを込めた「姉さん(オンニ、언니)」の言葉を持つ、「姉さん部隊(언니부대)」(=若い女子学生のファングループ)だった。初の女学生ファン層である。評論風にいえば、当時の大衆音楽界の女性歌手が、女性を前面に出すことでファンを獲得していた(そうさせられた)ところに、新しいタイプの、女性歌手と女学生ファンが出現したことになる。
若いイ・ソンヒの紹介に使われた言葉に、<小さな体躯>で<独特な力強い、押し出すような、爆発的な高音>とか、<少年のような>という表現がある。彼女の26歳にしても初々しい姿を、モントリオール室内楽団との共演映像を見ると納得できるかもしれない。現在も若々しい<童顔>と形容される。
ところで、ハンギョレ紙の記事、「ヤン・ヒウン、イ・ソンヒ、イ・サンウン(Lee-tzsche)、エンバ* (양희은, 이선희, 이상은, 엠버)」(3/25、26修正、イ・スンハン:テレビコラムニスト)は、4人の女性歌手の持つ、(女性的なものと離れた)雰囲気を解説している。それは、トムボーイ(Tomboy)**と呼ばれる、ボーイッシュな要素だ。話題の中心は、ガールグループ f(x)メンバーのエンバについてだが、彼女の歌に込められたものを通じて、世界が固執する境界とそれに抗することについて記している。
(Youtubeに登録のquark2930、대중가요 1988、SMTOWNに感謝)
(*)エンバ(AMBER): Wikipediaによれば、「台湾系アメリカ人であり、韓国のガールズグループ f(x)のメインラッパーである。」とのこと。f(x)のメンバー構成から、中国市場を意識した戦略が見えてくる。
(**)トムボーイ: Wikipediaによれば、「Tomboy(トムボーイ)は英語でお転婆やボーイッシュの意。 元々は騒がしい男性という意味の言葉で、男性に対して使われる言葉であったが、次第に女性に対して使われるようになり、現在では完全に女性に対してのみ使われる言葉となっている。」とのこと。
(追記) もしエンバが韓国人歌手だったとしたら、韓国紙にこのような論調のコラムが書けるか、大きな関心がある。
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[土曜版](TVコラムニスト)イ・スンハンの ”スルタン オブ ザ TV”
(写真) ガールグループ、f(x)(エフエックス)メンバーであるエンバ
顧みると、韓国大衆音楽界に、「トムボーイ」がいなかったこともない。しかし、最近のエンバに対する韓国社会の視線は、イ・ソンヒとイ・サンウンを経験した国にしては、暴力的であることこの上ない。(エスエム・エンターテインメント提供)
・1940年代以前だけとしても、薄紅(以下「ピンク」)色は男子禁制の色ではなかった。フランス作家グザヴィエ・ドゥ・メストレ(Xavier de Maistre)は、自身の著書、「私の部屋旅行する方法(Voyage autour de ma chambre)」(1794年)で、部屋の雰囲気を改善したい男たちに部屋をピンク色に塗りなさいと薦めた。決闘をして逮捕され、42日間の自宅軟禁刑を受けた血気盛んな二十七の青年が、男たちに自信を持って推薦した色がピンク色だったのだ。
・ピンク色にジェンダー区分がつき始めたのは、20世紀初頭だったが、それにもまして最初は男性的な色と見なされた。1918年のアメリカの子供ファッション紙「アーンショウ インファンツ デパートメント(Earnshaw’s Infants’ Department)」に掲載された説明を見てみよう。「きっぱりとしていて、さらに力強い色であるピンク色が男の子に最も適した反面、女の子は繊細で可愛らしい色である青色を着た時さらにきれいに見えます。」と。 ピンク色が女性的な色の扱いを受け始めた歴史が、未だ100年にならないという意だ。
・かなり最近まで、男が耳に穴を開けて通すのは奇怪なこと扱いされたが、この風潮も事実そんなに古いものではない。三国時代と高麗を経て朝鮮中期に至るまで、長年、耳輪(以下「イヤリング」)は性別の区分なしに幅広く愛された。韓半島の男たちの間でイヤリング文化が一段と弱まったのは、1572年に宣祖(선조)が「身體髮膚 受之父母(신체발부 수지부모)」に言及して、イヤリング禁止令を下した以後であった。イヤリング禁止令も一挙に効き目は挙がらなかった。
・禁止令を下してから25年後の1597年、「丁酉再乱」(=慶長の役)の時、朝鮮に派兵された明軍の経理(경리)の楊鎬(양호)が「朝鮮の軍隊が戦功を水増しするため、むやみに朝鮮人を殺しては倭賊(日本)に見せかけることがある」と追及すると、すぐに接伴使(접반사、外国使臣を接待した官職)の李德馨(이덕형)は、イヤリングの穴跡の有無で倭賊と朝鮮人を区別することができると答えた。当代、朝鮮の男たちの間では耳に穴を開けるのが王命でも、鎮めるのが難しい圧倒的な流行だったのを推し量ることができる要(かなめ)だ。
・突然、ピンク色やイヤリングの話を取り出したのは、「男らしさ」でも「女らしさ」を規定することの歴史が意外にそれほど長くなくて、それさえも自然な選択の結果でなく、色々な理由で数度人為的に変わってきたことを語るためであった。
・服飾やアクセサリー、色と趣向などの基準として、特定の性別を規定しようとする動きというのは、何とはかないことか。それでも、新しい商品や流行が登場するたびに、世の中はそれが男性的なのか女性的なのかをあえて問い詰めて、その基準に合わせて、あえて自身の男性性/女性性を積極的にアピールしない人たちは、性的指向を疑念されるのもしばしば経験している。「ひょっとして、指向がそうした側(の人)ではないだろうか?」という質問の後には、「ゲイ/レズビアンでもないが、なぜ女/男のようにふるまうのか」という問い、なぜ暗黙的である規範に従わないかという追及が隠れているのだ。語り口や行動様式、服を着る好みなどが、性的指向、性的同一性(アイデンティティ)とセットにして変わらないという事実に対する人々の無知は言うまでもなく。
・トムボーイキャラクターである、f(x)のエンバ
・男装女性という偏見
・ソロ曲「Beautiful」、「Borders」で
・自伝的な話、解き明かして
・「私を押さえ付ける圧迫に抗して」
・世間の批判に堂々としていて
・平凡な身分も名もない人々(張三李四)は、それでも目が向けられない方だ。大衆の前で、いかなる役割モデルになることが強要される芸能人の場合は、世界の視線を避けるのはさらに難しい。
・f(x)(エフ エックス)の「エンバ」は、同時代の韓国ガールグループでは簡単に見つけるのが難しかったトムボーイ(中性的で闊達な女性)キャラクターで、多くの女性ファンを引きつけたが、同時にデビューするやいなや彼女を「男装女性」というキーワードで修飾する人々とも向き合わなければならなかった。
・2009年韓国放送「ギャグコンサート」で、「ワン・ビホ」キャラクターで活動した(コメディアン)ユン・ヒョンビンは、エンバを指して「ガールグループというけれど男がいる。ハ・リスのような子」と話した。放送後、多くの視聴者からエンバとハ・リスの共に礼を欠くという批判を受けたにもかかわらず、そのような冗談がディレクター(PD)の事前検査でふるいにかけることも、編集過程で脱落することもなかったというのは、人々の偏見がどれくらい強いことか端的に見せる。
・顧みると、エンバが韓国の大衆音楽界に、初めて登場したトムボーイのキャラクターであることもなかった。
- ギターとフォーク、ジーンズ(青ズボン)の時代だった1970年代のヤン・ヒウンは、白いシャツにジーンズ(青ズボン)姿でギターを弾き、
- ミュージカルでスカート(チマ)を着たことがマスコミに特筆大書されるほどズボンを固執したイ・ソンヒは、「姉さん部隊」を率いて歩き回ることで有名だった。
- 「タムダディ」で一躍スターダムに上がったイ・サンウンはまた、大きな身長と短い髪、ジーンズ姿で女性ファンを魅了した。
・あまりにも長い間、華奢だったり可愛らしいイメージで大衆を相手にするガールグループにだけ慣れて、そうなのか? エンバに対する韓国社会の視線は、イ・ソンヒとイ・サンウンを経験した国にしては暴力的であることこの上なかった。もちろん、1980年代は、世界的にトムボーイ熱風が吹いた時期だったとの点も考慮するべきだが、時代が過ぎて流行が変わったといって、他人の好みや身なりなどを指摘して「模範的な」女性像あるいは男性像の中に相手を閉じ込めようとする試みが正当化されるわけではない。
・エンバは、このような世界の偏見に着実に反問してきた。2015年2月発表した、ソロアルバム「Beautiful」に収録されたタイトル曲「SHAKE THAT BRASS」のミュージックビデオもまた、友達とにぎやかに遊んでバスケットボールを楽しむ姿を入れたし、同名の自作曲「Beautiful」では、「鋭いことばが私の気持ちを深く切って」、世の中は、「狭い鳥かごのよう」だが、自身は他のどんなものでない自分自身になることであり、自身が自身たりえて幸せだと歌った。
・同年7月、自身のインスタグラムにあげた文では、メッセージが一層もっと鮮明になった。
「私は、女と男が、ある一つの外観に拘束されないと思います。美しさというのは、すべての形と大きさから出てきます。私たちはすべて違いますね。もし、私たちが皆同じメロディで歌うなら、どういうふうにハーモニーが存在することができるでしょうか? 他の人々と違うという理由だけで他の人をむやみに判断しないでください。私たち皆お互いの差異を尊重して成長できることを願います。」 嫌いな人たちはずっと嫌いだろうが、自分の面前で自身を冒とくすることは全然違うことなので、一つはっきりしておきたい言葉で始めたこの丁寧な文は、このように終了する。
「いつでも、自分自身になってください。自分自身に真正真実に生きることが、自らのためにできる最も大きなことです。」
・去る3月24日、公開されたソロ音源「Borders(境界)」でも、彼女は同じ話をする。1節で、エンバは世界の指差しに苦しむ。「ここに皆が私を眺めて、首を横に振るよ。私に何が問題なのか・・・(中略) 彼らが言う『完璧』に届くことができるならば、何でもするだろう。その後、多分、私が居る場所も見つけることができるだろう」。
All these people here staring and looking at me
Shaking their heads eyes down strong on me
What's wrong with me?
・・・
And I'd do anything to be what they call perfect
Then maybe I could find a place to call my own and belong
・しかし、すぐ次の小節から、彼女は違う可能性を思い浮かべて、違う歌を歌い始める。「だが、もし私が十分に強いならば、目を足元に置いて黙々と歩いていくだろうに。なぜなら、母さんが語ったよ。境界を越える時、窮地に追い込まれても、決して恐れるなと。真っすぐ立って、あなたの道のため戦えと。立ち上がって倒れて、再び立ち上がって。私を押さえ付ける圧迫に抗して」。
But if only I was strong
I'll be walking with my eyes down
eyes down eyes down
I'll keep my eyes down
eyes down eyes down
’Cause mom said I'd be crossing borders
Never be afraid even when you're cornered
Stand up straight fight your way
Fight your way fight your way
Stand up, fall down, up again
Up against the pressure I am in
・そうしては、世界に向かっていう。「見せ掛けしないのだ。はるかに多いことが前にあるから」。
No I won't play pretend
There's so much more ahead
・ソロで曲を発表する機会があるたび、エンバは自伝的な話を引き出して、世界の不当な偏見に抗して負けないことを誓った。
・そのメッセージは、もうエンバ本人だけでなく、他の人々と違うという理由で苦しむこれらみなのものとになった。エムネットに出演した時、エンバはこのように話した。「私の考えで、歌手はメッセージを伝達しなければならないのです。音楽で。 自分がいじめだと思う人たち、心が痛む人たち. 勝ち抜くことができます。そんなメッセージを伝達したいです。『エンバも勝ち抜いたので、あなたも勝ち抜くことができます』、そんな話をしてあげたいです」。数多くの基準として、他人の人生を裁いて、指差しするのが好きな世界で、その偏見は不当なことであり、美しさはあらゆる形態と大きさから来て、これ以上他の人々が望む姿を真似ないというメッセージを、世界に伝えるのが使命と考えた歌手が錐(きり)のように鋭く(境界を)突き抜いた。
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(Youtubeに登録のSMTOWNに感謝)
(3月30日、宝塚音楽学校の合格発表の様子をテレビニュースで見た)
イ・ソンヒの大衆音楽界デビューにともない登場したのが、歳下の若い女性が歳上の若い女性に対する憧れを込めた「姉さん(オンニ、언니)」の言葉を持つ、「姉さん部隊(언니부대)」(=若い女子学生のファングループ)だった。初の女学生ファン層である。評論風にいえば、当時の大衆音楽界の女性歌手が、女性を前面に出すことでファンを獲得していた(そうさせられた)ところに、新しいタイプの、女性歌手と女学生ファンが出現したことになる。
若いイ・ソンヒの紹介に使われた言葉に、<小さな体躯>で<独特な力強い、押し出すような、爆発的な高音>とか、<少年のような>という表現がある。彼女の26歳にしても初々しい姿を、モントリオール室内楽団との共演映像を見ると納得できるかもしれない。現在も若々しい<童顔>と形容される。
(Youtubeに登録のquark2930、대중가요 1988、SMTOWNに感謝)
(*)エンバ(AMBER): Wikipediaによれば、「台湾系アメリカ人であり、韓国のガールズグループ f(x)のメインラッパーである。」とのこと。f(x)のメンバー構成から、中国市場を意識した戦略が見えてくる。
(**)トムボーイ: Wikipediaによれば、「Tomboy(トムボーイ)は英語でお転婆やボーイッシュの意。 元々は騒がしい男性という意味の言葉で、男性に対して使われる言葉であったが、次第に女性に対して使われるようになり、現在では完全に女性に対してのみ使われる言葉となっている。」とのこと。
(追記) もしエンバが韓国人歌手だったとしたら、韓国紙にこのような論調のコラムが書けるか、大きな関心がある。
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[土曜版](TVコラムニスト)イ・スンハンの ”スルタン オブ ザ TV”
(写真) ガールグループ、f(x)(エフエックス)メンバーであるエンバ
顧みると、韓国大衆音楽界に、「トムボーイ」がいなかったこともない。しかし、最近のエンバに対する韓国社会の視線は、イ・ソンヒとイ・サンウンを経験した国にしては、暴力的であることこの上ない。(エスエム・エンターテインメント提供)
・1940年代以前だけとしても、薄紅(以下「ピンク」)色は男子禁制の色ではなかった。フランス作家グザヴィエ・ドゥ・メストレ(Xavier de Maistre)は、自身の著書、「私の部屋旅行する方法(Voyage autour de ma chambre)」(1794年)で、部屋の雰囲気を改善したい男たちに部屋をピンク色に塗りなさいと薦めた。決闘をして逮捕され、42日間の自宅軟禁刑を受けた血気盛んな二十七の青年が、男たちに自信を持って推薦した色がピンク色だったのだ。
・ピンク色にジェンダー区分がつき始めたのは、20世紀初頭だったが、それにもまして最初は男性的な色と見なされた。1918年のアメリカの子供ファッション紙「アーンショウ インファンツ デパートメント(Earnshaw’s Infants’ Department)」に掲載された説明を見てみよう。「きっぱりとしていて、さらに力強い色であるピンク色が男の子に最も適した反面、女の子は繊細で可愛らしい色である青色を着た時さらにきれいに見えます。」と。 ピンク色が女性的な色の扱いを受け始めた歴史が、未だ100年にならないという意だ。
・かなり最近まで、男が耳に穴を開けて通すのは奇怪なこと扱いされたが、この風潮も事実そんなに古いものではない。三国時代と高麗を経て朝鮮中期に至るまで、長年、耳輪(以下「イヤリング」)は性別の区分なしに幅広く愛された。韓半島の男たちの間でイヤリング文化が一段と弱まったのは、1572年に宣祖(선조)が「身體髮膚 受之父母(신체발부 수지부모)」に言及して、イヤリング禁止令を下した以後であった。イヤリング禁止令も一挙に効き目は挙がらなかった。
・禁止令を下してから25年後の1597年、「丁酉再乱」(=慶長の役)の時、朝鮮に派兵された明軍の経理(경리)の楊鎬(양호)が「朝鮮の軍隊が戦功を水増しするため、むやみに朝鮮人を殺しては倭賊(日本)に見せかけることがある」と追及すると、すぐに接伴使(접반사、外国使臣を接待した官職)の李德馨(이덕형)は、イヤリングの穴跡の有無で倭賊と朝鮮人を区別することができると答えた。当代、朝鮮の男たちの間では耳に穴を開けるのが王命でも、鎮めるのが難しい圧倒的な流行だったのを推し量ることができる要(かなめ)だ。
・突然、ピンク色やイヤリングの話を取り出したのは、「男らしさ」でも「女らしさ」を規定することの歴史が意外にそれほど長くなくて、それさえも自然な選択の結果でなく、色々な理由で数度人為的に変わってきたことを語るためであった。
・服飾やアクセサリー、色と趣向などの基準として、特定の性別を規定しようとする動きというのは、何とはかないことか。それでも、新しい商品や流行が登場するたびに、世の中はそれが男性的なのか女性的なのかをあえて問い詰めて、その基準に合わせて、あえて自身の男性性/女性性を積極的にアピールしない人たちは、性的指向を疑念されるのもしばしば経験している。「ひょっとして、指向がそうした側(の人)ではないだろうか?」という質問の後には、「ゲイ/レズビアンでもないが、なぜ女/男のようにふるまうのか」という問い、なぜ暗黙的である規範に従わないかという追及が隠れているのだ。語り口や行動様式、服を着る好みなどが、性的指向、性的同一性(アイデンティティ)とセットにして変わらないという事実に対する人々の無知は言うまでもなく。
・トムボーイキャラクターである、f(x)のエンバ
・男装女性という偏見
・ソロ曲「Beautiful」、「Borders」で
・自伝的な話、解き明かして
・「私を押さえ付ける圧迫に抗して」
・世間の批判に堂々としていて
・平凡な身分も名もない人々(張三李四)は、それでも目が向けられない方だ。大衆の前で、いかなる役割モデルになることが強要される芸能人の場合は、世界の視線を避けるのはさらに難しい。
・f(x)(エフ エックス)の「エンバ」は、同時代の韓国ガールグループでは簡単に見つけるのが難しかったトムボーイ(中性的で闊達な女性)キャラクターで、多くの女性ファンを引きつけたが、同時にデビューするやいなや彼女を「男装女性」というキーワードで修飾する人々とも向き合わなければならなかった。
・2009年韓国放送「ギャグコンサート」で、「ワン・ビホ」キャラクターで活動した(コメディアン)ユン・ヒョンビンは、エンバを指して「ガールグループというけれど男がいる。ハ・リスのような子」と話した。放送後、多くの視聴者からエンバとハ・リスの共に礼を欠くという批判を受けたにもかかわらず、そのような冗談がディレクター(PD)の事前検査でふるいにかけることも、編集過程で脱落することもなかったというのは、人々の偏見がどれくらい強いことか端的に見せる。
・顧みると、エンバが韓国の大衆音楽界に、初めて登場したトムボーイのキャラクターであることもなかった。
- ギターとフォーク、ジーンズ(青ズボン)の時代だった1970年代のヤン・ヒウンは、白いシャツにジーンズ(青ズボン)姿でギターを弾き、
- ミュージカルでスカート(チマ)を着たことがマスコミに特筆大書されるほどズボンを固執したイ・ソンヒは、「姉さん部隊」を率いて歩き回ることで有名だった。
- 「タムダディ」で一躍スターダムに上がったイ・サンウンはまた、大きな身長と短い髪、ジーンズ姿で女性ファンを魅了した。
・あまりにも長い間、華奢だったり可愛らしいイメージで大衆を相手にするガールグループにだけ慣れて、そうなのか? エンバに対する韓国社会の視線は、イ・ソンヒとイ・サンウンを経験した国にしては暴力的であることこの上なかった。もちろん、1980年代は、世界的にトムボーイ熱風が吹いた時期だったとの点も考慮するべきだが、時代が過ぎて流行が変わったといって、他人の好みや身なりなどを指摘して「模範的な」女性像あるいは男性像の中に相手を閉じ込めようとする試みが正当化されるわけではない。
・エンバは、このような世界の偏見に着実に反問してきた。2015年2月発表した、ソロアルバム「Beautiful」に収録されたタイトル曲「SHAKE THAT BRASS」のミュージックビデオもまた、友達とにぎやかに遊んでバスケットボールを楽しむ姿を入れたし、同名の自作曲「Beautiful」では、「鋭いことばが私の気持ちを深く切って」、世の中は、「狭い鳥かごのよう」だが、自身は他のどんなものでない自分自身になることであり、自身が自身たりえて幸せだと歌った。
・同年7月、自身のインスタグラムにあげた文では、メッセージが一層もっと鮮明になった。
「私は、女と男が、ある一つの外観に拘束されないと思います。美しさというのは、すべての形と大きさから出てきます。私たちはすべて違いますね。もし、私たちが皆同じメロディで歌うなら、どういうふうにハーモニーが存在することができるでしょうか? 他の人々と違うという理由だけで他の人をむやみに判断しないでください。私たち皆お互いの差異を尊重して成長できることを願います。」 嫌いな人たちはずっと嫌いだろうが、自分の面前で自身を冒とくすることは全然違うことなので、一つはっきりしておきたい言葉で始めたこの丁寧な文は、このように終了する。
「いつでも、自分自身になってください。自分自身に真正真実に生きることが、自らのためにできる最も大きなことです。」
・去る3月24日、公開されたソロ音源「Borders(境界)」でも、彼女は同じ話をする。1節で、エンバは世界の指差しに苦しむ。「ここに皆が私を眺めて、首を横に振るよ。私に何が問題なのか・・・(中略) 彼らが言う『完璧』に届くことができるならば、何でもするだろう。その後、多分、私が居る場所も見つけることができるだろう」。
All these people here staring and looking at me
Shaking their heads eyes down strong on me
What's wrong with me?
・・・
And I'd do anything to be what they call perfect
Then maybe I could find a place to call my own and belong
・しかし、すぐ次の小節から、彼女は違う可能性を思い浮かべて、違う歌を歌い始める。「だが、もし私が十分に強いならば、目を足元に置いて黙々と歩いていくだろうに。なぜなら、母さんが語ったよ。境界を越える時、窮地に追い込まれても、決して恐れるなと。真っすぐ立って、あなたの道のため戦えと。立ち上がって倒れて、再び立ち上がって。私を押さえ付ける圧迫に抗して」。
But if only I was strong
I'll be walking with my eyes down
eyes down eyes down
I'll keep my eyes down
eyes down eyes down
’Cause mom said I'd be crossing borders
Never be afraid even when you're cornered
Stand up straight fight your way
Fight your way fight your way
Stand up, fall down, up again
Up against the pressure I am in
・そうしては、世界に向かっていう。「見せ掛けしないのだ。はるかに多いことが前にあるから」。
No I won't play pretend
There's so much more ahead
・ソロで曲を発表する機会があるたび、エンバは自伝的な話を引き出して、世界の不当な偏見に抗して負けないことを誓った。
・そのメッセージは、もうエンバ本人だけでなく、他の人々と違うという理由で苦しむこれらみなのものとになった。エムネットに出演した時、エンバはこのように話した。「私の考えで、歌手はメッセージを伝達しなければならないのです。音楽で。 自分がいじめだと思う人たち、心が痛む人たち. 勝ち抜くことができます。そんなメッセージを伝達したいです。『エンバも勝ち抜いたので、あなたも勝ち抜くことができます』、そんな話をしてあげたいです」。数多くの基準として、他人の人生を裁いて、指差しするのが好きな世界で、その偏見は不当なことであり、美しさはあらゆる形態と大きさから来て、これ以上他の人々が望む姿を真似ないというメッセージを、世界に伝えるのが使命と考えた歌手が錐(きり)のように鋭く(境界を)突き抜いた。
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(Youtubeに登録のSMTOWNに感謝)
2025年8月23日土曜日
処暑 2025、自然観察園のバードサンクチュリア
★ 今朝の、野鳥観察会(探鳥会)を寝坊をして欠席した・・・最近、昼夜逆転していて。
処暑
きょうは二十四節気の「処暑」、夏の暑さがピークを迎えズルズルと後退する、真に季節の変曲点にあたる。実際、この時期の子どもたちは公園の木陰で「ツクツクボウシ」の鳴き声を耳にして、夏休みが残り少ないのを知る(覚悟する)ことになるのだろうが・・・それでもまだ、宿題と遊びを天秤にかけているだろう。
(本ブログ関連:”処暑”)
七十二候
処暑の期間(8/23~9/6)を三つの「候」に分けた七十二候は次の通り。
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・初候: 綿柎開(わたの はなしめべ ひらく) 綿の実を包む咢(がく=【柎】)が開くころ
・次候: 天地始粛(てんち はじめて さむし) ようやく暑さが収まる(つつしむ=【粛】)ころ
・末候: 禾乃登(こくも【禾】の みのる【登】) 稲や栗などの穀物【禾】が実るころ
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自然観察園のバードサンクチュリア
ところで、探鳥会を休んだ埋め合わせのため(?)、公園併設の「自然観察園」に出かけた。公園入口広場にあった「野鳥観察施設」(壁の小窓から「バードサンクチュリア」*の野鳥を観察できる)が何と完全に崩されていたのだ。
(*)バードサンクチュリア:「野鳥の聖域」というより「野鳥保護区」が実情に合っている。
「自然観察センター」で確認したところ、施設の利便性を向上するため再建している最中という。工事現場に看板があって、「生物多様性保全整備」と記されていた。
バードサンクチュリアは、立入禁止区域となっている。この場所を、てっきり公園と隣接する大学の敷地と勘違いしていたが、自然観察園のエリアに含まれる。だから、野鳥観察施設とバードサンクチュリア**が一緒に整備工事されているのを納得できる。
(**)バードサンクチュリアの木立を見通しよくするためか、木々が切り倒されている。
バードサンクチュリアには、「あか池」(別名:「ハス池」)があって、「2千年バス」といわれる大賀ハスが咲く・・・と聞いていたが実見したことはない・・・何という迂闊なこと。池の小魚を採りに「カワセミ」がきて、「ハス」の花で休むことがあるそうだ。
ヒオウギ
自然観察園に入って東側に進む小道**の随所で「ヒオウギ」と出会うことができる。オレンジ色の花弁(正式には「花被片」で、萼(がく)と花弁(花びら)の区別ができない)をよく見ると、赤い斑点があって野性味を感じる。一見、可愛らしい花なのだが。
(**)先日歩いたとき1羽の「オハグロトンボ」がふんわりステップ踏むように先導してくれた。きょうは、脇道の草をかき分けて進むと、大勢の「バッタ」が両側に跳ねた。
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