イ・ソンヒが、デビュー初期の待遇や環境の変化への戸惑いと驚き、いわゆる夜営業(ステージのある店)に出演する際に直面したそして軋轢をガードした警備員の存在などを知ることができた。
(本ブログ関連:”(資料)イ・ソンヒ(27歳当時)の「スター・ストーリー」”、”資料:이선희 Profile”)
[8] 夜の舞台時代の警備員の話
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1985年2月、私は初めて第一アルバムを世の中に出した。1集に収録されたすべての曲は、全てソン・ジュホ氏が作曲した歌だ。高校時代、チャン・ウクチョ音楽室での出会いが縁だった。
<少女の祈り(소녀와 기도)>と<女心(여심)>をそれぞれ(レコード)裏表面のタイトル曲として載せた1集アルバムはあきれるほどとても売れた。ソウルでは「あ! 昔よ(아! 옛날이여)」と「葛藤(갈등)」が人気であり、地方では「また咲く愛のために(다시 필 사랑위해)」、「光の子ら(빛의 자손들)」、「愛の約束(사랑의 약속)」、「少女の祈り(소녀의 기도)」などが強い勢いを見せた。(レコード)盤一つで、何と六曲もヒットしたのだ。ファンは、レコードの入手が難しいと不平を言うほどであった。
ただ一つ、今でも予測するのが難しいのは、特定の歌に対するファンの反応だ。作曲家や歌手が(レコードの)A、B面の頭の曲なら明らかに最も自信がある歌であるのに間違いないはずなのに、ファンはほとんど期待もしなかった歌をもっと好きだったりする。6集アルバム中の「思い出のページをめくれば(추억의 책장을 넘기면)」もやはりタイトル曲ではないのだから。
とにかく、1集の大ヒットは、私を「マイカー族」の隊列に立たせた。今でも忘れることはできない、私の一番の車、(現代製の)白色のポニー2。
私は、レコードがよく売れて、自家用車を運転する厳然とした歌手だった。歌が下手な歌手は、もう歌手ではない。私はデビュー直後から、そうそうたる先輩歌手を追いかけて行くのではなく、「正面対決」を繰り広げて、私の道を歩んできたと思う。
歌唱力を評価する基準は、他の人の歌をどれくらい上手く歌うかにかかっていると私は信じる。
私は、デビュー当初や今も、放送に出演して他の歌手の曲をたくさん歌う方だ。私の歌があまり多くなかった新人時代には、70年代のフォークソングと先輩歌手の歌をたくさん歌った。チョー・ヨンピル、キム・スヒ、ユン・シネ、キム・ヨンジャさんなど当時最高歌手と舞台に一緒に立って、内心競争的に相手の方の歌を熱唱したその時の経験が、今日の私に多いに役に立ったと思う。
私も自分の声が高いと感じている。キー(Key)がハイ(high)なため、私は歌わねばならない相手歌手の歌が低音を中心にしている場合には、ちょっと苦労しなければならなかった。寝る間を惜しんで、歌詞を諳んじて、私の声をその歌手の声に合わせて・・・
先に話したように、デビュー初め、私はしばらく夜営業の所(キャバレー・酒場など)に出演した時期があった。ところで、行く所ごとに、どこでどのように聞いてきたのか、青少年のファンたちまで未成年者の立入禁止場所である酒場の中に入ってこようと出入口前でもめごとをしたりした。また、客は、客なのに「いくら芸能人でも『ちっちゃな』学生がこのように出てはいけないよ」と、隙さえあれば意見しようとした。
「いや、私も法的には完全な成人なのに、なんでこのように・・・」 しかし、何となく「突っ張って」自然に夜営業の所には往来を控えるようになった。
(この)夜営業の出演と関連して、ほとんど伝説的な話で、チェ・ヒジュン先輩が酔客から白のスーツに酒とおつまみの洗礼を受けた時、気まずくなった雰囲気を淡々として余有ある態度で、それ以上悪化させなかったという話がある。
反面、ある女性歌手は、意地悪な客にあらゆる悪口を浴びせまくることによって、禍を自ら招いたという話も聞いた。
私は、幸い酒に酔った客に辱めに会ったことが一度もなかった。恐らく、放送などを通して映った幼いイメージのおかげでないかと思う。その上、私は舞台の上に釘付けされたように、本来の場所で歌を歌うスタイルでない。客席と客席の間、テーブルとテーブルの間の通路をうんと歩き回る方だった。できるだけ多くの人々と握手もしながら・・・
荒いことで有名な永登浦地域の夜営業で2ヶ月間歌を歌う時、私はウェイターから感謝の言葉をしばしば聞いた。普段あまり目立たないが、円形舞台の周囲にはウェイターの「きらりと光る」視線がある。舞台上の芸能人が、警備員の役割まで兼ねているのだ。
ところが、私が出演してからは、荒い客よりネクタイ姿の会社員が多くなって仕事をするのがはるかに楽というのだった。あたかも「剣道館」や(学級委員の中から選ばれる)「善導部長」になったように、得意になった瞬間だった。
そのようなある日、舞台下に降りて握手するのを楽しむどころか、絶対に夜営業には途絶する事件が起きた。
ある夜の舞台だったか、「あ、昔よ」を歌っている時だった。
その日に限って、客席には荒っぽい男が多かった。突然どこかで何かが壊れる音が聞こえたのに続き、舞台の下が騒がしかった。 私を「警備」していた方々と、頭を剃ってズボンの胴には刃物までさげた、ある輩と喧嘩が起こったのだ。
事件の発端はこうだ。
歌手が舞台上で歌っていたら、握手するつもりで舞台の真ん前に出てくる客がいる。数ある中には、握手すると歌手を舞台の下に引っ張るやっかいな人もいる。それで、舞台周りには客を「装った」歌手のマネジャーや警備員が常に緊張の中で待機している場合が多い。
その日も、舞台上にぴたっと寄り添い座って「万が一の事態」に備えていた私の警備員(私が属したプロダクションの職員)を、その不良たちが、熱心な「イ・ソンヒ ファン」と誤認して、不正をはたらいたのだ。私に会わせてくれといって.。
歌っている私に向かって、彼らは「ソンヒよ、後で・・・」、何とかしてと、とても近い仲であるかのようにほらを吹いたし、これに対していきり立った私の「保護者」たちと言い争いを繰り広げることになったのだ。
今日、突然に「警備員」という言葉が登場するようになったのは、記憶も生々しい85年3月20日の脅迫事件がその根元になっている。
当時、私は一日平均7百~8百通ずつ押し寄せるファンレターで、集配人のおじさんの顔色をうかがわなければならない程大変な苦労をしていた。今でも一日に4百通余りの手紙を受けているが、返事はほとんどできない。デビュー初めから今まで、着実に便り伝える方々だけでも1千人近くなる。顔は分からないが名前と字体だけ見てもうれしい方々だ。
話が横道にそれたが、とにかくその頃30代初めぐらいに見える険しい若者3人が訪ねてきた。熱狂ファンなのを自任しながら。
なんだかんだとつまらぬことの末に、結論は「おれたちの店にも出演しないで、他の夜舞台をあちこち出ては『面白く』ないことと思え」と言うのだった。
実際には、一箇所と2ヶ月出演契約を結んだら、1年契約したのと変わらない。放送出演とか練習とかで言って見ると、出演キャンセルすることが多く、約束は約束だから2ヶ月間60回の舞台に立つという契約を守ろうとするなら、およそ1年ほどかかるからだ。
私を連れて行こうとしていた店は、いつのまにか「お連れ」参りし始めたし、当時では破格的な1ヶ月に7百万ウォンという最高水準の待遇を提示する所もあった。
怖いし、また昼間と夜を変えて生きるということに体質的に拒否感もあって、ずっと断ったところ「鼻っぱしらを高くふるまうな。二度と歌を歌えないようにする」という威嚇を受けたりもした。
だが、「お茶を一杯一緒に飲む機会をくれ。そうでなければ拉致する」と見えすいた脅しをする子どもっぽい少年の電話声には「ふざけているのね」といいながら、たいしたことないと思ったりもした。
しかし、私は彼らの顔が分からないが、私の一挙手一投足は完全に公開されたも同然だったので、結局、私の乗用車には警備員2人が同乗することになったのだ。
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今日、突然に「警備員」という言葉が登場するようになったのは、記憶も生々しい85年3月20日の脅迫事件がその根元になっている。
当時、私は一日平均7百~8百通ずつ押し寄せるファンレターで、集配人のおじさんの顔色をうかがわなければならない程大変な苦労をしていた。今でも一日に4百通余りの手紙を受けているが、返事はほとんどできない。デビュー初めから今まで、着実に便り伝える方々だけでも1千人近くなる。顔は分からないが名前と字体だけ見てもうれしい方々だ。
話が横道にそれたが、とにかくその頃30代初めぐらいに見える険しい若者3人が訪ねてきた。熱狂ファンなのを自任しながら。
なんだかんだとつまらぬことの末に、結論は「おれたちの店にも出演しないで、他の夜舞台をあちこち出ては『面白く』ないことと思え」と言うのだった。
実際には、一箇所と2ヶ月出演契約を結んだら、1年契約したのと変わらない。放送出演とか練習とかで言って見ると、出演キャンセルすることが多く、約束は約束だから2ヶ月間60回の舞台に立つという契約を守ろうとするなら、およそ1年ほどかかるからだ。
私を連れて行こうとしていた店は、いつのまにか「お連れ」参りし始めたし、当時では破格的な1ヶ月に7百万ウォンという最高水準の待遇を提示する所もあった。
怖いし、また昼間と夜を変えて生きるということに体質的に拒否感もあって、ずっと断ったところ「鼻っぱしらを高くふるまうな。二度と歌を歌えないようにする」という威嚇を受けたりもした。
だが、「お茶を一杯一緒に飲む機会をくれ。そうでなければ拉致する」と見えすいた脅しをする子どもっぽい少年の電話声には「ふざけているのね」といいながら、たいしたことないと思ったりもした。
しかし、私は彼らの顔が分からないが、私の一挙手一投足は完全に公開されたも同然だったので、結局、私の乗用車には警備員2人が同乗することになったのだ。