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2017年2月26日日曜日

アイザック・バシェヴィス・シンガー

しばらく振りに、近在の街の書店へ行ってみた。いつも利用する書店とは反対の側の街だが、ここの大型書店は欲しい本がだいたい見つかる。それに、ぶらぶら書棚を巡ると自然に手が伸びる出会いもある。そんな幸運に得した気分になる。

イディッシュ語で作品を上梓して、ノーベル文学賞を受賞した作家アイザック・バシェヴィス・シンガー(1902年~1991年 יצחק באַשעװיס זינגער  イサック・バシェビス・ズィンゲル)の短編集「不浄の血  アイザック・バシェヴィス・シンガー傑作選」(西 成彦訳、河出書房新社)を手にする。イディッシュ語作品が英訳されたことで、広く知られたようだ。巻末の題にイディッシュ語について、および翻訳のいきさつについて解説がある。

(本ブログ関連:”イディッシュ語”)

短編集の表題作である「不浄の血」(田中壮泰、西成彦訳)は、実直不器用な老人が晩年こともあろうに評判の悪い女(リシェ)と結婚することから始まる。まさに、作品の書き出しの通り「血への情熱と肉欲」の顛末だ。毒婦であり、淫蕩な女は、男を連れ込み、ユダヤ教のカシュルート(コシェル:食事規定)を全く無視した商いをする。しまいに棄教に追い込まれ、山月記の悔恨に遠く及ばぬ獣そのままに最期を迎える。

「不浄の血」は、転がりながら物語を混沌、変質する。だから最後は、伝承のように子どもたちに次の歌をうたわせて終わる。最も最後の詞は、言葉がずれて回転する・・・「片輪車」のように炎に包まれて回り続けるのか。
    リシェはひどいよ
    馬を屠った
    おかげで腐る
    地のなかで

    (略)

    魔女なんて生かしちゃおけぬ
    なんて生かしちゃおけぬ魔女
    生かしちゃおけぬ魔女なんて

2021年12月7日火曜日

大雪2021

きょうは、二十四節気の「大雪(たいせつ)」。大雪(おおゆき)のイメージがするが、それより「木枯らし」(風速8m以上の北風で、10月半ば~11月末までの間に限る)すら吹いてない。早朝の冷え込みに身が凍みるようになったものの、降雪の気配もまったくない。

(本ブログ関連:”大雪(たいせつ)”)

さて、冬はなぜ寒いのだろう。夏が暑いのに対して・・・。

以前、ブログ(2017年5月22日)に記したが、むかしの東欧にユダヤ人の村「ヘルム」があって、長老が <夏は暑く、冬が寒い分け> を講釈する滑稽話しがある。落語の粗忽長屋の話しと思って聞けばうなづける。
(イディッシュ語作家、アイザック・バシェヴィス・シンガーの児童書「まぬけなワルシャワ旅行」(工藤幸雄訳)に所収の短編「ヘルムの長老とゲネンデルの鍵」より)


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(ヘルムの村の大長老グロナムが言った)
「ゆうべはまんじりともできなんだ - 夏がどうして暑いのか、そのわけを考えあぐんでな。やっと答えは出たが」
「して、どんな」と長老連が声をそろえた。
「つまり、冬のあいだ、村じゅうが暖炉をたく、するとその熱がヘルムぜんたいにたまる、おかげで夏は暑い、こういうわけじゃ」
長老連はうなずいた、ただぼんくらレキッシュだけは別で、こう聞きかえした。
「なら、冬が寒いわけは?」
「わかり切っとる」とグロナムは答えた。「夏場は暖炉に火をくべない、だからせっかくの暑さも冬まで残らん、ただそれだけのことよ」
長老連はグロナムのどえらい知恵をほめそやした。
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ところで、シンガーの児童書・絵本に「ヘルムのあんぽん譚(たん)」(関憲治訳、篠崎書林)があって、上記ヘルム(ここでは町だが)の統治者としてグローナムが登場する。物語は長老と取り巻きたちのそそっかしくて滑稽な語りが展開するが、顛末がいささか生々しい。ヘルムと他所の争いごとに、政治風刺を効かせ過ぎて児童書の枠を超えているように感じられる。せっかくの挿絵(ユーリ・シュレビッツ画)が、ストーリーに引きずられてしまい、勿体ないことになっている。

やっぱり、ヘルムの場所は日々の生活で精いっぱいな住民が織りなす、ときに素っ頓狂でお間抜けな阿呆村でいつづけて欲しい。そこに私たちを見つけてしまうのだから。

2017年5月22日月曜日

ヘルムの夏が暑いわけ

「夏日」があたりまえになると、「真夏日」を期待したりする。まるで高い吊り橋から深い谷底を覗き見る、危ういものへ引き寄せられるように。昨日、近在で「真夏日」に到達した。今日は夏日に戻ったが、それでも暑かった。

       夏日   :日最高気温が25度以上の日。
       真夏日:日最高気温が30度以上の日。
       猛暑日:日最高気温が35度以上の日。

ところで、「夏がどうして暑いのか」。イディッシュ語作家、アイザック・バシェヴィス・シンガーの児童書「まぬけなワルシャワ旅行」(工藤幸雄訳)に所収の短編「ヘルムの長老とゲネンデルの鍵」にこんな明快な説明がある。

(本ブログ関連:”アイザック・バシェヴィス・シンガー”、”イディッシュ語”)

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(ヘルムの村の大長老グロナムが言った)
「ゆうべはまんじりともできなんだ - 夏がどうして暑いのか、そのわけを考えあぐんでな。やっと答えは出たが」
「して、どんな」と長老連が声をそろえた。
「つまり、冬のあいだ、村じゅうが暖炉をたく、するとその熱がヘルムぜんたいにたまる、おかげで夏は暑い、こういうわけじゃ」
長老連はうなずいた、ただぼんくらレキッシュだけは別で、こう聞きかえした。
「なら、冬が寒いわけは?」
「わかり切っとる」とグロナムは答えた。「夏場は暖炉に火をくべない、だからせっかくの暑さも冬まで残らん、ただそれだけのことよ」
長老連はグロナムのどえらい知恵をほめそやした。
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そう、夏が暑いわけは、探せば見つかる。むつかしく考えなければ答えは出る。あとはそれに同意するかどうかだ。日常はそれで充分だった。(今だって、そんなものかもしれない。それに、むつかしく考えれば正解というものでもないし・・・)

2017年11月30日木曜日

秋期イディッシュ語 2017-9th

先週、大学祭のための休講をまたいでの授業、久し振りの感がするのは不思議。何のことはない、日ごろこつこつと積み重ねを怠っていた証かも知れない・・・、かすかに雨粒を感じながら出かけた。

今回は、いろいろ豊富な授業だった。
・文法編:(名詞の<複数>の続き)複数形の作り方、① 接尾辞に、ער, -ס, -וח- を付ける、② 名詞の母音の変更、③ 接尾辞に、ן, -ען- をつける、④ ヘブライ語男性名詞に ים- を付ける。
         例 (Book)    複数     単数
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         Yiddish      בוך   ביכער
         Hebrew    ספֿר  ספֿרים
                       [sforim] [seyfer]
         ----------------------------
その他の話題
・書籍:「Unchosen」超正統派コミュニティーからの離脱について(社会学者の調査を元にした本)
・DVD:  映画「א געשעפט」、前回、音声が聞こえなかったが、前半一部を鑑賞できた。
・余談: Tevaサンダル

前回の教室で、仲間に紹介された、イディッシュ語作家「アイザック・バシェヴィス・シンガー」の小説「悔悟者」(大崎ふみ子訳、吉夏社、2003年)を読んだので、感想方々持参した。俗(肉欲)なるものから聖なるものへの転換だが、実はそれが二重らせんしていて、作者は物語の背景にシニカルな独特な視点を持って描いているようだ。(主人公が作家に語りかけるといった体裁は、どこかで見たようで、随分と直截的だ)

(本ブログ関連:”アイザック・バシェヴィス・シンガー”)

(気分しか記憶にないけれど)大審問官との論争や、状況に屈する転向論のような苦さを、心に準備ないままこの物語から感じ取るには遠いかもしれない。「本来あるべきユダヤ人」をイメージできる知識も情報もないのだから。でも、主人公のヨセフ・シャピロが、悔悟者にいたるふらつきぶりが人間らしくて面白い。どうやら彼は、非ユダヤ的ではなくなったようだ。身の置き場をやっと見つけたといった方が、分かりやすいかもしれない。
(他の教室仲間も、この小説を読まれるとのこと)

ユダヤ人も、そのコミュニティーの中で、あるいはその出入りにおいて、それなりに大変でやっかいな問題を抱えながら生活しているようだ。人に共通なこと、ユダヤ人ならではのことで・・・。

2019年3月16日土曜日

イディッシュ文学の夕べ(東京・特別編)

今夕、小田急「成城学園前駅」から数分の距離にある「アトリエ第Q劇場」で開かれた、「イディッシュ文学の夕べ」に出かけた。なお、この朗読会については、Twitter「#イディッシュ語」で知った。

(*)イディッシュ文学の夕べ:  http://toyscampus.jp/?p=2299

この公演は、もともと関西を中心にイディッシュ文学の連続朗読会であるが、東京・特別編として公開された。宗教学 / ヨーロッパ史・アメリカ史の研究者である赤尾光春氏**(大阪経済法科大学客員研究員)を中心に、イディッシュ語文学作品の日本語訳書籍を朗読と解説された。(役者もしてますとのこと)

(**)赤尾光春氏: https://researchmap.jp/akaom/

本日の内容(上記「イディッシュ文学の夕べ」より、一部追記)
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第一部:シュテットル(shtetl: שטעטל)から世界へ(16:00~18:00)
[朗読]イシダトウショウ・土江優理・赤尾光春
・アイザック・バシェヴィス・シンガー「炉辺の物語」(西成彦訳『不浄の血』〔河出書房新社〕所収)、
・イツホク・レイブシュ・ペレツ「天までは届かずとも」(『世界イディッシュ短篇選』〔西成彦編訳、岩波文庫〕所収)
・ショレム・アレイヘム「ヴァフラクラケス」(『牛乳屋テヴィエ』〔西成彦編訳、岩波文庫〕より)
[演奏]大熊ワタル(クラリネット他)・こぐれみわぞう(チンドン太鼓、歌)・松本みさこ(アコーディオン)

第二部:彷徨える隠遁者――デル・ニステルの作品と生涯(19:00~)
[朗読]宮本荊・土江優理
・デル・ニステル「塀のそばで(レヴュー)」(『世界イディッシュ短篇選』〔西成彦編訳、岩波文庫〕所収)
[解説]赤尾光春(イディッシュ文学の歴史、デル・ニステルの解説)
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朗読会なるものは、初めての経験。今まで敷居の高さを感じて、近寄りがたい気がしていたが、正解でないかもしれないが読む演劇と解釈してはどうだろう。朗読された上記作品を読了していたが、今回読み聞かされて物語の視界が広がった。新鮮な経験だった。

イディッシュ文学の歴史について、第一世代の「ショレム・アレイヘム」、「イツホク・レイブシュ・ペレツ」、「メンデレ・スフォリム」があげられる。その後について、「アイザック・バシェヴィス・シンガー」が知られるが、彼は第三世代にあたる。中間の第二世代について、現在、日本語訳の書籍が出ていない。その意味で、(上記第二部で紹介された)」デル・ニステル(Der Nister)」が、第二世代作家といえる・・・そうだ。

ところで、デル・ニステルの作品「塀のそばで(レヴュー)」が今回朗読されたが、以前読んだときと同様頭がグルグルした。実は、この物語について、ロシア革命時代のユダヤ人の存在などを把握していないと理解できないと、赤尾氏から明快な解説があった。
・デル・ニステル: 埋葬地Abez村(ソ連最大の強制収容所があったヴォルクタ近隣)
・物語の舞台(サーカス): ロシア革命を暗示する、物語りに似た構図のサーカスの絵がある(=シャガール?)。
・ロシア革命期の「ユダヤ人共産党員」による、ヘブライ文化の徹底的な毀損(政治は容易に文化を侵食する)。
・登場人物のモデル:女曲芸師リリス=女性の悪霊、ほか

(追記)
ところで、芸術が政治性を帯びると、(敵対するもの同士が)背中合わせの関係になることがある。文学について不案内だが、例えば絵画、彫刻、映像の場合、対立するはずの「社会主義リアリズム」と「純正芸術」に極めて相同性を感じることがある。多分、大長編の「文学」作品といわれるものについても、危なっかしいものありそうな気がする。そんな例を身近に・近隣に見てきたはずだろう。

2020年8月6日木曜日

おかしな主人公たちの住む町

世の中には色んな阿呆がいる。わたしもその一人で気持ちがよく通じる。もし阿呆たちがそろったらどうなるだろう。収拾の付かないことばかりかもしれないが、意外とよく事が済むかもしれない。

イディッシュ語を少しかじったとき、語学テキストに閑話休題として小話が用意されていた。ストーリーの舞台に「ヘルム」の町(村)が出てくる。当然ながら、架空の町(村)で、ポーランドにあるという。まさにイディッシュの息づかいを感じる気がする。以来、彼らの粗忽さに落語と似た親近感を感じている。

(本ブログ関連:”阿呆”、”ヘルム”)

イディッシュ語作家でもあるアイザック・バシェヴィス・シンガーの児童書「まぬけなワルシャワ旅行」(工藤幸雄訳)の訳者解説に、同書で話題にしたポーランドのユダヤ人が住む町「ヘルム」の他に、おかしな主人公たちのいる民話の町として次が紹介されていて、以前このブログの「おバカな村」にも記した。
・イギリス「ゴタム」
・オランダ「カンペン」
・イタリア「クネオ」
・ドイツ「シュリートブルク」など

ところで、ドイツにはシュリートブルクの他に「シルダ」というおバカな町があるという。

アンソロジー「日本の名随筆40 愚」(山田風太郎選)に収載の、北杜夫の「阿保について」(「マンボウ人間博物館」の第一話)に、児童文学者のケストナーが記した、<賢人が出張して阿保ばかりが残った*ドイツ中世の「シルダ」の町>について紹介している。
(*)阿保ばかりが残ったのか、賢い者が戻ってきて阿呆の振りをしているだけなのか諸説あるようだ。

■ まず、北杜夫の「阿保」の定義が面白い。精神科医の作家なればこその紹介だが、孫引きする。
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ドイツの誇る精神科医、故ホルスト・ガイヤー博士に、『愚鈍について』という著作がある。彼は白痴患者の専門家であった。その一説、
勤勉は阿呆の埋め合わせにはならない。勤勉な阿呆ほど、はた迷惑なものはない。
・・・・
そもそも世に名高きシルダ人の愚行を記さぬ法はなかろう。シルダ人は、ドイツ中世の伝説の一つで、『ティル・オイレンシュピーゲルのいたずら』と共に、双璧をなしている。いろんな作家がシルダ人の愚行について、童話や小説を書いているが、ケストナーのものがいちばん面白いようだ。
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というわけで、ケストナーの「シルダの町の人びと」が少し触れられている。一匹の海老(ザリガニ)が巻き起こす騒動が面白い。

■ ちくま文庫「ケストナーの『ほらふき男爵』」(池内紀、泉千穂子訳)に所収の「シルダの町の人びと、ザリガニを裁判にかける」は、次のように書かれている。
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ある日、町にやってきたザリガニが、はさみを持っていることから仕立て屋に違いないと町長が結論を出す。さっそく布を切らせてみるとズタズタになる。そこからドタバタが始まり、結果、ザリガニは裁判にかけられる。裁判長は「溺死させるのがよろしい」と死刑を宣告する。
シルダの町の人びとは刑の執行を見守った。「かわいそうだがしかたない。法は曲げられぬ」と。
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こんな具合で、ザリガニは溺死の刑に処せられた。

■ そういえば、上記のシンガーの児童書「まぬけなワルシャワ旅行」にもこんな話がある(「ヘルムのとんちきまぬけな鯉」)。
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ヘルムの長老から大とんまな男へ贈られた鯉が、ぴしゃりと跳ねて男のお顔を叩いた。罰を与えようといろいろ算段したあげく、結局、溺死の刑に処すことになった。
鯉を湖に投げ込む処刑を見ながら、ヘルムの市民は歓声を挙げた。「卑怯きわまる鯉はおぼれてくたばれ!」と。
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ちなみに、ユダヤ料理の一品に使われる「ゲフィルテ」は、鯉のすり身団子だ。瓶詰から取り出してそのまま食べればさっぱりした味わいだ。わたしは、うどんと一緒に煮こんだりした。少々甘みが出てくるが、ふうふういいながら食うのも美味いものだ。

(本ブログ関連:”ゲフィルテ”)


(参考1)
学問的なことは全く不案内だが、ヘルマン・バウジンガー「ドイツ人はどこまでドイツ的?(2)― 国民性をめぐるステレオタイプ・イメージの虚実と因由 ―」(河野眞訳、愛知大学 言語と文化 No. 21)の翻訳に「シルダ」の町について次のような<訳注>がある。
https://taweb.aichi-u.ac.jp/tgoken/bulletin/pdfs/NO21/04KonoS.pdf
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p.68  シルダ(Schilda):シルダは,架空の都市の名前で,民衆本に頻繁に現れ,その市民はいたずら好きな主人公や,また主人公にからかわれる馬鹿な民衆でもあった。シルダの元になった町としては,ザクセンの「シルダウ (Schildau)」 やブランデンブルクの「シルダ (Schilda)」 などが挙がられる。
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(参考2)
学問的なことは全く不案内だが、「論説 《世間》は日本社会の特異性か?  - 欧文の翻訳における《世間》の用例に即した検証 -」(河野眞)も参考に記す。
https://aichiu.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=9219&file_id=22&file_no=1

2017年3月6日月曜日

(童話)自分はどっち

思考ゲームみたいな童話。先日触れた、母語イディッシュ語が主体である作家アイザック・バシェヴィス・シンガーの童話集「お話を運んだ馬」(岩波少年文庫)に、「自分はネコだと思っていた犬と/自分は犬だと思っていたネコのお話」がある。

(本ブログ関連:”イディッシュ語”)

貧しい農家を行商人が訪れた。農家の主婦が、無理して「鏡」を買ってしまうことから、家族だけでなく、飼い犬とネコまで巻き込んだ大騒ぎになる。そこで、題名の犬とネコの騒動にしぼる。

元々、犬とネコの2匹は、自分たち以外の動物を知らない。だから自分は互いに相手と同じ生き物だと思っている。犬はネコを見ていて、自分も同じ姿のネコだと思っているし、ネコは犬を見ていて、自分も同じ姿の犬だと思っている。そこに、「鏡」が置かれたのだ。

犬は「鏡」の中の犬の姿に驚き吠え、ネコは「鏡」の中のネコの姿に驚きつかみかかる。自分にとって見たことのない動物が突然現れたのだから。やがて興奮は高まり、収拾がつかなくなった犬とネコの2匹は、生まれて初めて飼い主も慌てるほどの本格的な取っ組み合いをする。

「鏡」に映った本当の姿を知ったとき、それを事実として受け止められない大混乱の結果、犬は屋外に、ネコは家の中に置かれた。一方、「鏡」は人間にも欲望を混乱させた・・・。結局、行商人に「鏡」を返すことになる。

考えてみれば、私も鏡無しに直接自分の姿を見たことはない。

(付記)
享保の改革で、郷土史で知られる川崎平右衛門(定孝)の武蔵野新田開発に焦点をあてた講演があった。武蔵野の名主の長男に生まれたが家督を弟に譲り、幕府の行政官として武蔵野新田開発だけでなく、後に、美濃の国の治水、石見銀山の鉱山経営に功績を残した。

2017年5月26日金曜日

おバカな村

この世に、とりあえず納得できることなら何でも信じてしまう頓珍漢な人がいて、そんな人たちの住む村や町があるという。先日(5/22)、冬場に家々の暖炉から熱気が排出して上空に溜まった結果、「夏が暑い」のだと思い込んでしまった村人が登場する童話について記した。

そんなおバカというか愉快な人々が住む(ポーランドの)村ヘルムについて、アイザック・バシェヴィス・シンガーの児童書「まぬけなワルシャワ旅行」(工藤幸雄訳)の巻末に訳者解説があり、他にも似た町があると紹介している。
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民話のなかで、おかしな主人公たちの住む町としては、イギリスではゴタム、オランダにはカンペン、イタリアではクネオ、ドイツではシュリートブルクなどがある。
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そこで、ネットに探してみたところ、唯一、「イギリスのゴタム村」を舞台にした昔ばなしの紹介ページがあった(ブログ「アマミツル空の色は Ⅱ」に感謝)。ゴタム村の人々もなるほどと思わせる粗忽振り。それ以外の町については、これからゆっくり探していきたい。

日本におバカな村を舞台にした昔ばなしがないものかと考えた。それらしい所が思いつかない。でも、おバカな人々が出てくる話しがある。「落語」の長屋であり、熊さん八さんの世界だ。イディッシュ語の昔ばなしに通じる、思い込みと逆転世界といったおバカな物語りだ。(例えば「粗忽長屋」、「頭山(あたまやま)」)

(本ブログ関連:”(雑談)本当は誰なの”)

イディッシュ語テキストの代表である「College Yiddish」の著者ウリエル・ヴァインライヒ(Uriel Weinreich)の妻、民俗学者のベアトリス・ヴァインライヒ(Beatrice  Weinreich)の著「イディッシュの民話(Yiddish Folktales)」(秦剛平訳、青土社)をさっそく注文した。楽しみだ。