今日は、2016年以来施行されている祝日「山の日」だ。山にちなんだイベントもあるようだが、趣味の鉱物採集から遠ざかって以来、山に近寄ることもなくなった。いくつかの公園の中に、山の名を冠した標高50m~70m台の山がある。山というには余りにも低山。いつの間にか通り過ぎている。
(本ブログ関連:山の日”2016”、”2017”、”2018”)
「山の日」にちなんで、山にかかわる歌を思い浮かべた。その出しに「山には山の うれいあり」から始まる「あざみの歌」(作詞横井弘、作曲八洲秀章、1949年)がある。何と、昨年の今日もそれをブログに記していた。それじゃあ「山男の歌」ってか・・・、よほど山への想像力が足りないようだ。もともと、近場の高尾山が限界だったせいもある。
山といえば、おじさん好みの、山の怪異集「山怪」(山と渓谷社)シリーズがある。聞けばなんと累計17万部を突破したという。書店を巡ると書棚に真っ黒なカバーをした「山怪」シリーズが並んでいる・・・書店の規模に関わらず目にすることができる。どうやら秘かなブームのようだ。
(本ブログ関連:”山怪”)
「山怪」の発行元「山と渓谷社」のニュースリリース「累計17万部突破のベストセラー『山怪』第三弾! 現代版遠野物語『山怪 参 山人が語る不思議な話』刊行」*(2018/09/10)は次のように紹介している。(抜粋)
(*) https://www.yamakei.co.jp/news/release/20180910_02.html
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インプレスグループで山岳・自然分野のメディア事業を手掛ける株式会社山と溪谷社(本社:東京都千代田区、代表取締役社長:川崎深雪)は、9月10日に『山怪 参 山人が語る不思議な話』を刊行しました。
2015年6月に刊行されてベストセラーとなった『山怪 山人が語る不思議な話』、2016年1月に刊行された続編『山怪 弐 山人が語る不思議な話』(共に田中康弘・著)に続く第3弾に当たります。
本書は、長年、マタギや狩猟など山に入り取材を続けてきた著者が、山に暮らす人や働く人をはじめ、多くの山人の元を訪ね、山の不可思議な体験談を取材しまとめた一冊です。本シリーズは「現代版遠野物語」として、新聞・雑誌等数多くのメディアで絶賛され、今作も同様に、すべて改めて取材した「現在形のフィールドワーク」であり、その集大成。シリーズ初となる北海道の取材を決行しています。
また、前作『山怪』『山怪 弐』は、2018年8月15日放送のNHK BSプレミアム「異界百名山」の原案にもなりました。
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真っ黒な装丁をした本といえば、埴谷雄高の全集なんて思い出す・・・。
2019年8月11日日曜日
2025年7月2日水曜日
「山怪 青」
山の人びとに伝わる、ある意味<民話>の原初的な伝承を伝えるシリーズ「山怪(やまかい)」(山と渓谷社)がある。著者 田中康弘氏の誠実なフィールドワークによる聞き書き*を通して、山で生活した人びとの精神世界まで知ることのできる貴重なシリーズだ。
(*)民話の聞き書きの原則: 時期、採集地、話者(人名・語り口)を具体的に記す。
(本ブログ関連:”山怪”)
以前、田中氏が <伝承の誕生>について解説された「『雪国の民話の誕生』田中康弘氏の説明」の中から、特に印象に残ったもの(2024年12月19日にメモ)を再掲する。
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「冬山において 山怪はどのように育まれていったのか」、雪国の生活から民話がどのように誕生したかについて語られる。何度も足を運ばれた方だけに、とても説得力があり納得させていただいた。
・むかしの囲炉裏ばたは、作業場であり爺さんや婆さん、母や孫たちが囲む場所であった。(父親は出稼ぎに)
ー めいめいが自分の時間と空間を持つ今の時代とは違って、
・話のタネが植えられて、それが何代も繰り返される。(おもに祖父母が語り手となって)
ー 話は育てられ、ききやすい言い伝えや伝承などとなり民話が誕生する。
ー 記憶は語られることにより残る。
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今回(7/1)、第五巻目の「山怪 青 山人が語る不思議な話」が出された・・・惜しむらく、著者はこれをシリーズ最終巻「ラスト山怪」と語られている。理由は、伝承する人が老いたこと、ご自身も体力的に採話が難しくなったことのようだ。
(追記) 7/2の夕方、近隣街の書店でさっそく購入しました!
「山怪 青」の発刊にあたって、田中氏が関連の話をYoutubeで語られている。
ー 願いを聞き入れる神と違う、自然の驚異・恐れる神が原初にあったのではといわれた。
■ Youtube(登録: オカルトエンタメ大学)
①「『山怪』最新刊から初出し! 祟り神の怖い話を田中康弘先生が語ります。」
ー https://www.youtube.com/watch?v=Jz12fdkmg20
②「最後の【山怪】授業!日本全国で相次ぐ妖狐の祟り・怖い話を田中康弘先生が語ります。」
ー https://www.youtube.com/watch?v=pqR9xNBBrd8
※ 狐の話を聞かないのは四国。かわりに悪さをするのは狸。何にしろ、言い訳に使える身近な動物だからだろうという。
※ 同Youtube番組から、田中氏は最後の回になった・・・別の機会に聞かせていただきたい。
2019年8月15日木曜日
異界百名山
山歩きにとって「日本百名山」踏破は夢だろう。私にしてみれば、根っからきついことに触手がおよばない。登山であれトレッキングであれ、関心はあっても登山靴の紐を結ぶ(ブートする)ことはできなかった。
そんなぐうたら気分でも、登山気分や山の風景を味合わせてくれる番組が、深夜に再放送を重ねている。NHKの「にっぽん百名山」(関連の番組)だ。その番外ともいえる、山を異界に見立てて不思議な体験を伝える番組があった。「異界百名山~体験者が語る不思議な話~」(初2018年8月15日、再2018年9月9日、再2019年8月15日)は、山中やその周辺で体験したいくつかの奇妙なエピソード紹介と同時に、(人選に多少疑問があるが)四人の人物による体験(経験)を踏まえたスタジオトークが展開された。
NHKのサイトにある同番組「異界百名山」の紹介に、スタッフから「異界百名山との出会い」のタイトルで番組成立の背景(動機)について次のように語られている。(抜粋)
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・・・今回の番組のディレクターが「面白い本があるんですよ!」と嬉々として見せてくれたのが「山怪〜山人が語る不思議な話」という「山と渓谷社」から出版されている本でした。著者の田中康弘さんはマタギの暮らしなどを撮影している写真家で、日本各地の山で聞いた不思議な体験を地道な取材によってまとめたルポルタージュでした。まさに自分がこれまで山で聞いて来たような不思議な話が、鬼気迫るリアリティと共に、かなりのボリュームでまとめられていたのです。この本で紹介されている不思議体験者の中には、昔からの知り合いもいて、本で紹介された話をベースに映像化したら相当面白いドキュメンタリー番組が出来るのではないかとディレクターとうなずき合ったのでした。
さっそく、著者の田中さんや出版社の方に連絡し映像化について相談したところ快諾を頂き、本には登場しない新たな取材先も加えつつ番組制作が始まりました。どうせなら、体験者の人物像や山での暮らしぶりなども深掘りしつつ、不思議体験を安易な再現映像にはせずに、山の風景のイメージ描写とインタビューのみで表現しようと考えました。撮影には情景描写に優れる一眼レフカメラを多用。結果、山の“異界感”の表現に成功したと思います。
日本の山は、太古の昔から、この世とあの世をつなぐ異界の入口だったというテーマのもと、日本人の死生観や自然との付き合い方、また、神話や物語の生まれる原点などについてスタジオトークも盛り上がりました。私たち日本人は、山にひかれ、山を仰ぎ見て、ご来光に手を合わせます。現代人が無意識のうちに求めている「異界の物語」の魅力とは何なのか?
都会でなくしてしまった「山」の中でしか得られない「何か」に気づく番組となりました。
※取材協力 田中康弘 「山怪」より
(クリエイティブネクサス プロデューサー 佐藤知樹)
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なるほど、元ネタは、ブログでも関心を持った本「山怪」(田中康弘著、山と渓谷社)だった。「山怪」シリーズが(秘かな)ブームになっていることを先日(8/11)の祝日「山の日」に記した。今回の上記番組について率直な感想をいえば、活字と映像ではイマジネーションの入り込む余地に違いがありそう。まして「神話や物語の生まれる原点」について語り合うのなら、人選にも注意を払っていただきたかった。
(本ブログ関連:”山怪”)
そんなぐうたら気分でも、登山気分や山の風景を味合わせてくれる番組が、深夜に再放送を重ねている。NHKの「にっぽん百名山」(関連の番組)だ。その番外ともいえる、山を異界に見立てて不思議な体験を伝える番組があった。「異界百名山~体験者が語る不思議な話~」(初2018年8月15日、再2018年9月9日、再2019年8月15日)は、山中やその周辺で体験したいくつかの奇妙なエピソード紹介と同時に、(人選に多少疑問があるが)四人の人物による体験(経験)を踏まえたスタジオトークが展開された。
NHKのサイトにある同番組「異界百名山」の紹介に、スタッフから「異界百名山との出会い」のタイトルで番組成立の背景(動機)について次のように語られている。(抜粋)
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・・・今回の番組のディレクターが「面白い本があるんですよ!」と嬉々として見せてくれたのが「山怪〜山人が語る不思議な話」という「山と渓谷社」から出版されている本でした。著者の田中康弘さんはマタギの暮らしなどを撮影している写真家で、日本各地の山で聞いた不思議な体験を地道な取材によってまとめたルポルタージュでした。まさに自分がこれまで山で聞いて来たような不思議な話が、鬼気迫るリアリティと共に、かなりのボリュームでまとめられていたのです。この本で紹介されている不思議体験者の中には、昔からの知り合いもいて、本で紹介された話をベースに映像化したら相当面白いドキュメンタリー番組が出来るのではないかとディレクターとうなずき合ったのでした。
さっそく、著者の田中さんや出版社の方に連絡し映像化について相談したところ快諾を頂き、本には登場しない新たな取材先も加えつつ番組制作が始まりました。どうせなら、体験者の人物像や山での暮らしぶりなども深掘りしつつ、不思議体験を安易な再現映像にはせずに、山の風景のイメージ描写とインタビューのみで表現しようと考えました。撮影には情景描写に優れる一眼レフカメラを多用。結果、山の“異界感”の表現に成功したと思います。
日本の山は、太古の昔から、この世とあの世をつなぐ異界の入口だったというテーマのもと、日本人の死生観や自然との付き合い方、また、神話や物語の生まれる原点などについてスタジオトークも盛り上がりました。私たち日本人は、山にひかれ、山を仰ぎ見て、ご来光に手を合わせます。現代人が無意識のうちに求めている「異界の物語」の魅力とは何なのか?
都会でなくしてしまった「山」の中でしか得られない「何か」に気づく番組となりました。
※取材協力 田中康弘 「山怪」より
(クリエイティブネクサス プロデューサー 佐藤知樹)
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なるほど、元ネタは、ブログでも関心を持った本「山怪」(田中康弘著、山と渓谷社)だった。「山怪」シリーズが(秘かな)ブームになっていることを先日(8/11)の祝日「山の日」に記した。今回の上記番組について率直な感想をいえば、活字と映像ではイマジネーションの入り込む余地に違いがありそう。まして「神話や物語の生まれる原点」について語り合うのなら、人選にも注意を払っていただきたかった。
(本ブログ関連:”山怪”)
2018年10月26日金曜日
山怪 [参]
いつも興味しんしんに読んでいる、山に住む人々に伝わる不思議な話を集めた「山怪」シリーズの第3弾がついに発行された(初版 2018.9.25)・・・今日、近くの書店を巡っていて見つけたのだが。
(本ブログ関連:”山怪”)
山岳関連の出版社「山と渓谷社」は、山の奇談について黒色の装丁をした一連の書籍を出版をしている。ユニークなことだが、それが継続しているのは、私のように山の怪異話に興味ある読者の支持があるからだろう。(特に登山に熱心とはいえない者にも受け入れられているようだ)
久し振りの「山怪 [参]」(田中康弘著)に、挨拶と待ちわびたことを伝えたい。山人の特別な話であるが、その意味を考えさせてくれる。山の自然と調和する中で育まれた(人の)共同性を母胎にした伝承だからだ。山と離れた私たちにも響く不思議さがある。時代の波に削られて、やがて消えていくかもしれないが、いずれかの形で残るだろう。
第1話「優しい狐と幻の椿」に、次のような山人の言葉がある。
「山さ入る時はかならず山神様に手を合わせて入るんだ。いつも猟さ行く時、途中さ祠(ほこら)があるんだよ、山神様のな。そこを超えたらもう山言葉しか使ってはいけねぇのさ」
「その祠から上で赤い椿の花さ見たら山下りねばなんねぇんだ。・・・」
「里言葉」と違った「山言葉」とは一体どんなものなのだろう。そして、「赤い椿の花」が、モノクロ写真のなかに唯一赤色に浮かんで見えるようだ。椿には美しさと怖さがある、五瓣の椿のように。
(本ブログ関連:”山怪”)
山岳関連の出版社「山と渓谷社」は、山の奇談について黒色の装丁をした一連の書籍を出版をしている。ユニークなことだが、それが継続しているのは、私のように山の怪異話に興味ある読者の支持があるからだろう。(特に登山に熱心とはいえない者にも受け入れられているようだ)
久し振りの「山怪 [参]」(田中康弘著)に、挨拶と待ちわびたことを伝えたい。山人の特別な話であるが、その意味を考えさせてくれる。山の自然と調和する中で育まれた(人の)共同性を母胎にした伝承だからだ。山と離れた私たちにも響く不思議さがある。時代の波に削られて、やがて消えていくかもしれないが、いずれかの形で残るだろう。
第1話「優しい狐と幻の椿」に、次のような山人の言葉がある。
「山さ入る時はかならず山神様に手を合わせて入るんだ。いつも猟さ行く時、途中さ祠(ほこら)があるんだよ、山神様のな。そこを超えたらもう山言葉しか使ってはいけねぇのさ」
「その祠から上で赤い椿の花さ見たら山下りねばなんねぇんだ。・・・」
「里言葉」と違った「山言葉」とは一体どんなものなのだろう。そして、「赤い椿の花」が、モノクロ写真のなかに唯一赤色に浮かんで見えるようだ。椿には美しさと怖さがある、五瓣の椿のように。
2023年7月6日木曜日
山怪〔朱〕
山へのあこがれをふくめて、仙人の生き方に関心がある。歴史に名を残した隠者と比べて、仙人には奇人の側面もあり、超絶した異世界(たとえば「山海経」にある)に棲むものたちもいる。もう少し、世俗に接する山中や里山に生活する人びとの中で、そんな気配を感じてみたい。
(本ブログ関連:”山海経”)
日本の山地(山中、ふもと)に住む人びとに伝わる、不思議な体験を知りたい。生活の中で、世代を経て醸成し、共感されたものだからだ。それを巧みに聞き出したシリーズがある。「山怪」シリーズ(田中康弘著、山と渓谷社)がそれだ。これまで3冊が刊行されてきた。
(本ブログ関連:”山怪”)
あるとき、Youtubeに田中氏が登場して、4冊目「山怪〔朱〕」が出版されていることを知り入手した。今回、同本カバーの背と裏面が、朱色地になっている。これまではカバーの表を含めて全て黒地だったが、なにか変化でもあったのだろうか。〔朱〕本に理由は語られていないが。
山に生活する人の経験
山中の奇怪なできごとに、山とかかわりが深く住む人びとと、いわゆる都市生活者である登山家の体験がある。山で生活する家族や集落に受け継がれてきた人びとの記憶・価値観は、その共同体のなかで掟(おきて)や象徴につながる。一方、自然への外来者は、受け継ぐべきもない個人的意識のため、一時的な恐怖が多いように思う。その点を明確に気づいて、著者は、山と深く密接にかかわる人びとへのインタビューを続けているのだろう。
登山者の経験
〔朱〕本には、めずらしく登山者の体験談も加えられているが、瞭然、恐怖しかない。山にかかわる生活者のものと異質である。時間をかけてもまれ、規範化されるような物語性がないのだ。
いってみれば、伝承は共感と緊張、話者の息吹と語り口、そんな何もかもが具体的で重層的に共感できる場所でこそ引き継がれる。物語り(小説)に磨き上がる前のことだ。
鉱山関係の話
今回の〔朱〕本には、鉱物関係の話も載っている。北海道松前半島の南側で、砂金探しに古くから多くの人びとが山に入った。その中には、修験者、山伏・行者、迫害をのがれたキリシタンも紛れ込んでいたという。鉱物に関心があって、その点に興味をひいた。以前、東北地方の金山に砂金採りに赴いたときに、指導者からキリシタンの件をうかがったことがある。
江戸期の鉱山での、山師を含め鉱山労働者やキリシタンの存在について、これまでブログに触れているが、別途、ChatGPTに質問を投げかけてみたい。
(Youtube資料)
田中康弘氏が「山怪」の事例を紹介している、Youtubeのサイト「オカルトエンタメ大学」がある。まさに、ストーリーテラーとして面目躍如、一人語りされたりや対談したもの合わせて、次に番組のURLリストを記す。
https://www.youtube.com/watch?v=BVRByBvdbOc
https://www.youtube.com/watch?v=XJbXPXostNU
https://www.youtube.com/watch?v=DbUHUsnjsD0
https://www.youtube.com/watch?v=0kZbP_0uyLw
https://www.youtube.com/watch?v=JIl_8IfWHfc&t=109s
https://www.youtube.com/watch?v=4a6tkaACP_A
https://www.youtube.com/watch?v=enDPSYcSfpU
https://www.youtube.com/watch?v=a6_EEnKVKhQ
https://www.youtube.com/watch?v=xBIB3pJW-zU
https://www.youtube.com/watch?v=E-v34GERG6g
https://www.youtube.com/watch?v=4a6tkaACP_A
https://www.youtube.com/watch?v=QySz7e3HQ5Q
https://www.youtube.com/watch?v=mw5B3kUNLGI
https://www.youtube.com/watch?v=DbUHUsnjsD0
https://www.youtube.com/watch?v=Y_Atl4mIGxI
https://www.youtube.com/watch?v=tHm-A6lktig
https://www.youtube.com/watch?v=HkM__Sxnhss
https://www.youtube.com/watch?v=KBbCYHqwvOQ
https://www.youtube.com/watch?v=vvGyvTZVaC4
https://www.youtube.com/watch?v=qsvNyS0UEFI
2017年9月19日火曜日
雑談、雑談、山怪 [弐]
① いずれの本で読んだか、その本が見当たらぬ。「Jアラート」がうるさいという話から思い出したこと。昔、WWⅡでノルマンディ上陸作戦の死線を越えた連合軍兵士たちが、意気揚々とフランスの田舎路を通り抜けていたとき、農家の窓が開き老婦人が「うるさい」と叫んだという。いつの世にも日常を最優先する人がいる。
② テレビの美術番組で、徳川家光のころの絵図、<狩野探幽(1602~74)が描いた幻の作品「八尾狐図(やおのきつねず)」が、京都市内で(2015年に)発見された(参照: Art Annual Online)>と紹介されていた。
このブログでは、「九尾狐」について話題にしてきたこともあり、尾が八つなのはなぜか気になる。妖狐の尾は、最終九本まで増え続ける、丁度その手前という説があるようだが・・・。一方で、狐は稲荷神の使いでもある。
(本ブログ関連:”九尾狐”)
③ 以前紹介した山の奇談を収集、紹介した「山怪」(田中康弘、山と渓谷社)の第二弾ともいうべき「山怪 [弐]」を読んでいる。最初の「山怪」は主に猟師から話題を収集している。さらに、山と縁のある人まで広げたのが「山怪 [弐]」だ。
<山の神は女性だといわれている>、<嫉妬深く><若い男を好む>とか生臭い面もある。さて、武蔵御嶽神社は修験の場でもある。山犬(ニホンオオカミ)が眷属(神の使い)として有名だそうだ。同神社の護符は山犬の姿を刷ったもの。その護符を実家で見つけて、関係する人々を訪ねた「オオカミの護符」(小倉美恵子、新潮社)と出会った。これも次のお楽しみ。
ところで、狐信仰は、イヌ(オオカミ)との親和性が強いようであり、山の神の使い ⇒ 田の神の使い ⇒ 商業神信仰へと変遷したという話もある。
(本ブログ関連:”(稲荷信仰)神の使い”)
② テレビの美術番組で、徳川家光のころの絵図、<狩野探幽(1602~74)が描いた幻の作品「八尾狐図(やおのきつねず)」が、京都市内で(2015年に)発見された(参照: Art Annual Online)>と紹介されていた。
このブログでは、「九尾狐」について話題にしてきたこともあり、尾が八つなのはなぜか気になる。妖狐の尾は、最終九本まで増え続ける、丁度その手前という説があるようだが・・・。一方で、狐は稲荷神の使いでもある。
(本ブログ関連:”九尾狐”)
③ 以前紹介した山の奇談を収集、紹介した「山怪」(田中康弘、山と渓谷社)の第二弾ともいうべき「山怪 [弐]」を読んでいる。最初の「山怪」は主に猟師から話題を収集している。さらに、山と縁のある人まで広げたのが「山怪 [弐]」だ。
<山の神は女性だといわれている>、<嫉妬深く><若い男を好む>とか生臭い面もある。さて、武蔵御嶽神社は修験の場でもある。山犬(ニホンオオカミ)が眷属(神の使い)として有名だそうだ。同神社の護符は山犬の姿を刷ったもの。その護符を実家で見つけて、関係する人々を訪ねた「オオカミの護符」(小倉美恵子、新潮社)と出会った。これも次のお楽しみ。
ところで、狐信仰は、イヌ(オオカミ)との親和性が強いようであり、山の神の使い ⇒ 田の神の使い ⇒ 商業神信仰へと変遷したという話もある。
(本ブログ関連:”(稲荷信仰)神の使い”)
2024年12月19日木曜日
「雪国の民話の誕生」田中康弘氏の説明
山の不思議をまとめた「山怪」シリーズで著名な田中康弘氏が語る、下記の「冬山その山怪」のYoutube映像がある。いつもながら話の展開に誠実な人柄がうかがえ、聴く者を暖かくさせてくれる。実際に現地に赴き採集した話であり、山のひとびとの素朴さも伝わってくるようだ。
今回のYoutubeの最後(38:48)に、「冬山において 山怪はどのように育まれていったのか」、雪国の生活から民話がどのように誕生したかについて語られる。何度も足を運ばれた方だけに、とても説得力があり納得させていただいた。
・むかしの囲炉裏ばたは、作業場であり爺さんや婆さん、母や孫たちが囲む場所であった。(父親は出稼ぎに)
ー めいめいが自分の時間と空間を持つ今の時代とは違って、
・話のタネが植えられて、それが何代も繰り返される。(おもに祖父母が語り手となって)
ー 話は育てられ、ききやすい言い伝えや伝承などとなり民話が誕生する。
ー 記憶は語られることにより残る。
■ Youtube(登録:オカルトエンタメ大学)
「冬山その山怪」
https://www.youtube.com/watch?v=7BrLnLyfwXM
2017年2月23日木曜日
山怪
ブログに先ほど記した「キツネにかかわる伝承の分布」の続き。
イ・ソンヒの「狐の嫁入り」(OST)をきっかけに、キツネの話をしたらきりがない。稲荷神社から童話まで、キツネにまつわる奇談、伝承がたくさんある。それに、キツネは化けるとき、タヌキがちょっと間抜けで要領が悪いのに比べて、悪賢く、エロチックであったりする。キツネの化かしには、人間を上から目線でこけにしている節がある。その分、後で痛い目に会うが。
(本ブログ関連:”狐の嫁入り”、”狐”)
先に記した「キツネにかかわる伝承の分布」の中で、「山怪(さんかい)」(田中康弘著)について触れた。同書は、山に住む人々の<山にまつわる不思議な話や体験>が語られている。図書館で借りられるまで待とうと思っていたが、本屋で立ち読みしたらすぐに読みたくなって求めた。
(本ブログ関連:”山怪”)
「山怪」の一番最初の話「狐火があふれる地」(秋田県北部の村、マタギ発祥の地)に、なんとキツネが尻尾を振りながら光を発したのを目撃する体験が語られている。フィンランドの伝承、<キツネの尾には、雪原に触れたことから、火花を巻き上げてオーロラの明かりにする>を思わせる。
「狐火があふれる地」から(抜粋)
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ある日の夕方・・・庭先を抜けると家の裏山に向かう・・・(狐を、母親と一緒に見つける)・・・
狐は山の斜面に差しかかると、その尻尾を大きく振り出した。
「狐がぴょんと跳ぶのが凄いものなあ。そして尻尾をくるくる、くるくるって回すんだぁ。そしたらそのたびにペロペロペロペロって光るんだ。あれは見たもんでねえと分かんねぇ、見事なもんだったよ」
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イ・ソンヒの「狐の嫁入り」(OST)をきっかけに、キツネの話をしたらきりがない。稲荷神社から童話まで、キツネにまつわる奇談、伝承がたくさんある。それに、キツネは化けるとき、タヌキがちょっと間抜けで要領が悪いのに比べて、悪賢く、エロチックであったりする。キツネの化かしには、人間を上から目線でこけにしている節がある。その分、後で痛い目に会うが。
(本ブログ関連:”狐の嫁入り”、”狐”)
先に記した「キツネにかかわる伝承の分布」の中で、「山怪(さんかい)」(田中康弘著)について触れた。同書は、山に住む人々の<山にまつわる不思議な話や体験>が語られている。図書館で借りられるまで待とうと思っていたが、本屋で立ち読みしたらすぐに読みたくなって求めた。
(本ブログ関連:”山怪”)
「山怪」の一番最初の話「狐火があふれる地」(秋田県北部の村、マタギ発祥の地)に、なんとキツネが尻尾を振りながら光を発したのを目撃する体験が語られている。フィンランドの伝承、<キツネの尾には、雪原に触れたことから、火花を巻き上げてオーロラの明かりにする>を思わせる。
「狐火があふれる地」から(抜粋)
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ある日の夕方・・・庭先を抜けると家の裏山に向かう・・・(狐を、母親と一緒に見つける)・・・
狐は山の斜面に差しかかると、その尻尾を大きく振り出した。
「狐がぴょんと跳ぶのが凄いものなあ。そして尻尾をくるくる、くるくるって回すんだぁ。そしたらそのたびにペロペロペロペロって光るんだ。あれは見たもんでねえと分かんねぇ、見事なもんだったよ」
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キツネにかかわる伝承の分布
キツネは、日本人にとって身近な生き物で、昔話や「稲荷神社」などの伝承で知られた存在だが、欧米では狡猾な害獣として扱われているようだ。英国貴族にいたっては、スポーツ感覚でキツネ狩り(Fox hunting)を楽しんだ。
(本ブログ関連:”稲荷神社”)
欧米人にとって、てなづける対象でもないキツネたちを、日本で飼育している場所がある。東北、宮城県白石市の「宮城蔵王キツネ村」がそれだ。来日の欧米人観光客に、(キツネと親しむ)驚きと日本旅行の話題(思い出)となっている。(以前、同施設に興味・関心があって、私も一度行って見たいと思ったことがあるが・・・)
ロシアには、学術的な目的で、キツネの家畜化*を(オオカミからイヌが家畜化したのと対照して)研究している施設があるという。上記「キツネ村」は、放し飼いの観光施設といったところだろうけれど。
(*)家畜化:ナショナルジオグラフィック誌「特集:野生動物 ペットへの道」(2011年3月号)
ところで、中高年のおじさんたち中心に読まれている、<山にまつわる不思議な話や体験談を集めた>書籍「山怪(さんかい)」(田中康弘著、山と渓谷社)があり、ネットで書評をよく見かける。(図書館でも人気で、いつも貸し出し中である)
YOMIURI ONLINE(読売新聞)の記事、「日本の山には『何か』がいる! ・・・ 続く『山怪』ブーム」(2/17、伊藤譲治)は、著者とのインタビューを通じて、山での怪異を演じるキツネとタヌキの地理的分布(特性)を次のよう紹介している。
---------------------------------------
・(著者が)日本各地を回って分かったのは、北に行けば行くほど、狐に関する話が多くなるということ。西に行くほど狐の影響が薄れる。なぜか四国はほとんどが狸の話で、狐は出てこないのだという。「山怪は、姿は確認できないが、音のみ、気配のみという場合が多い。目に見えないもの、何だか分からないものは身近なもののせいにしてきた。狐や狸は山では身近な存在だから、狐や狸のせいにしてきたのではないか」と推測。「山の怪異は、現象ではなく心象だと思う。脳内に浮かび上がる風景だと思うが、その風景を浮かび上がらせる何かが、間違いなく山にはある」と語る。
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「日本動物民俗誌」(中村禎理著、海鳴社、1987年)は、キツネの信仰の代表である「稲荷神社」の分布が東北日本に偏在していることを次のように解説している。
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・山の神に関連していえば、キツネは同じく山の神に帰属するサルと対抗するもので、稲荷神社は東北日本に多く、後者(サル)につながる日吉(日枝)神社は西南日本に多いという。
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(本ブログ関連:”稲荷神社”)
欧米人にとって、てなづける対象でもないキツネたちを、日本で飼育している場所がある。東北、宮城県白石市の「宮城蔵王キツネ村」がそれだ。来日の欧米人観光客に、(キツネと親しむ)驚きと日本旅行の話題(思い出)となっている。(以前、同施設に興味・関心があって、私も一度行って見たいと思ったことがあるが・・・)
ロシアには、学術的な目的で、キツネの家畜化*を(オオカミからイヌが家畜化したのと対照して)研究している施設があるという。上記「キツネ村」は、放し飼いの観光施設といったところだろうけれど。
(*)家畜化:ナショナルジオグラフィック誌「特集:野生動物 ペットへの道」(2011年3月号)
ところで、中高年のおじさんたち中心に読まれている、<山にまつわる不思議な話や体験談を集めた>書籍「山怪(さんかい)」(田中康弘著、山と渓谷社)があり、ネットで書評をよく見かける。(図書館でも人気で、いつも貸し出し中である)
YOMIURI ONLINE(読売新聞)の記事、「日本の山には『何か』がいる! ・・・ 続く『山怪』ブーム」(2/17、伊藤譲治)は、著者とのインタビューを通じて、山での怪異を演じるキツネとタヌキの地理的分布(特性)を次のよう紹介している。
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・(著者が)日本各地を回って分かったのは、北に行けば行くほど、狐に関する話が多くなるということ。西に行くほど狐の影響が薄れる。なぜか四国はほとんどが狸の話で、狐は出てこないのだという。「山怪は、姿は確認できないが、音のみ、気配のみという場合が多い。目に見えないもの、何だか分からないものは身近なもののせいにしてきた。狐や狸は山では身近な存在だから、狐や狸のせいにしてきたのではないか」と推測。「山の怪異は、現象ではなく心象だと思う。脳内に浮かび上がる風景だと思うが、その風景を浮かび上がらせる何かが、間違いなく山にはある」と語る。
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「日本動物民俗誌」(中村禎理著、海鳴社、1987年)は、キツネの信仰の代表である「稲荷神社」の分布が東北日本に偏在していることを次のように解説している。
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・山の神に関連していえば、キツネは同じく山の神に帰属するサルと対抗するもので、稲荷神社は東北日本に多く、後者(サル)につながる日吉(日枝)神社は西南日本に多いという。
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2019年4月24日水曜日
道迷い遭難
朝から小雨がぱらつき、昼には小休止状態になった。ようやく「穀雨」になった気分。TVのニュースは、都心の駅前や交差点で雨傘をさす通行人の姿を報じた。出かけるタイミングがむつかしい。
(本ブログ関連:"穀雨”)
(本ブログ関連:"穀雨”)
そうこうしている内に外に出るのを忘れ、ヤマケイ文庫の「ドキュメント 道迷い遭難」(羽根田治著)のページをめくった。スポーツとしての(日本アルプスから丹沢領域)登山で、登山者が体験した遭難のドキュメンタリーだ。(ヤマケイ=山渓)
読もうと思ったのは、登山への興味というより、遭難者の心理や意識について知りたかったからだ。もしかしたら、不思議な体験が語られてないか好奇心もあった。
元来、山についてそこに棲息するキツネやオオカミ(山神)の伝説だけでなく、猟師たちが経験した「山怪」という奇談、すなわち人智を超える不思議な体験に興味がある。
(本ブログ関連:”山怪”)
「山怪」の範疇でいえば、山に入って神隠しにあったり、キツネにだまされて行方不明になる話がある。大方、子どもより老人の方が多いようだが。結果として、① 意外にも村の近くや、② 想定外の山奥で偶然発見されたりする。特に大人の場合、本人はいつもの道を歩いていたと断言し、キツネにだまされたに違いないといったりする。周りの者は、彼らをボケてたのじゃないか、キツネにだまされたというのは言い訳に過ぎないと冷ややかだそうだ。山の生活圏とその近辺でも起りうるミニ遭難だ。
ところで、上記のスポーツ登山の場合、遭難者は勝手な思い込みでずるずると深みにはまり込み、みずから窮地へ突き進んでいく。最悪の場合、凍傷で指をことごとく切断することになる。生還したのが救いだが、その事例の場合、読みながら正直吐き気がするほど絶望的だった。
ルートマップに従わずショートカットしたり、標識を都合のよい方に解釈したりすることで始まる。結局は、何度も繰り返される鉄則、「おかしいなと思ったら引き返せ」とか、「道に迷ったら沢を下るな、尾根に上がれ」を無視してしまうことにある。もちろん遭難とは万事休すの状態をさすのだが。
最近、高齢者による自動車運転事故が繰り返されているが、この本の「あとがき(追記)」にも、高齢登山者による遭難の多さについて統計的紹介がされている。年寄りは、お互いによしみとしていうのだが、人に迷惑にならぬよう身の程をわきまえるべきだろう。
読もうと思ったのは、登山への興味というより、遭難者の心理や意識について知りたかったからだ。もしかしたら、不思議な体験が語られてないか好奇心もあった。
元来、山についてそこに棲息するキツネやオオカミ(山神)の伝説だけでなく、猟師たちが経験した「山怪」という奇談、すなわち人智を超える不思議な体験に興味がある。
(本ブログ関連:”山怪”)
「山怪」の範疇でいえば、山に入って神隠しにあったり、キツネにだまされて行方不明になる話がある。大方、子どもより老人の方が多いようだが。結果として、① 意外にも村の近くや、② 想定外の山奥で偶然発見されたりする。特に大人の場合、本人はいつもの道を歩いていたと断言し、キツネにだまされたに違いないといったりする。周りの者は、彼らをボケてたのじゃないか、キツネにだまされたというのは言い訳に過ぎないと冷ややかだそうだ。山の生活圏とその近辺でも起りうるミニ遭難だ。
ところで、上記のスポーツ登山の場合、遭難者は勝手な思い込みでずるずると深みにはまり込み、みずから窮地へ突き進んでいく。最悪の場合、凍傷で指をことごとく切断することになる。生還したのが救いだが、その事例の場合、読みながら正直吐き気がするほど絶望的だった。
ルートマップに従わずショートカットしたり、標識を都合のよい方に解釈したりすることで始まる。結局は、何度も繰り返される鉄則、「おかしいなと思ったら引き返せ」とか、「道に迷ったら沢を下るな、尾根に上がれ」を無視してしまうことにある。もちろん遭難とは万事休すの状態をさすのだが。
最近、高齢者による自動車運転事故が繰り返されているが、この本の「あとがき(追記)」にも、高齢登山者による遭難の多さについて統計的紹介がされている。年寄りは、お互いによしみとしていうのだが、人に迷惑にならぬよう身の程をわきまえるべきだろう。
2017年8月11日金曜日
山の日 2017
今日は、祝日「山の日」。昨年制定されたもので、ブログを見直すとちゃんと記してある。それに、「リオデジャネイロ・オリンピック」の体操競技で、内村選手が金メダルを獲得したことも記していた・・・「山の日」に馴染薄いのは分かるが、オリンピックまで虚ろになっているのにがっくりとする。
山との縁が薄くなった。おととしだったか鉱物採集で、氷が張り付いた岩場で何度か転んだ。同行の仲間は、しっかり登ったにもかかわらず。以来、山に(鉱物採集に)未練があるものの自信なくて遠のいている。
山への関心といえば、書籍「山怪」に紹介された山中の不思議な体験のかずかずを読むことで満足している。怪異と出会う人と、そうでない人がいるように、地域によっても同様だそうだ。古い歴史と伝統を持つ場所と、新たに開拓された地区かによって、土地柄というか精神的な共有の仕方が異なるのかもしれない。
そういう意味では戦後の展開だが、黒部山中の山小屋を舞台にした「定本 黒部の山賊 -アルプスの怪-」(伊藤正一、山と渓谷社)は、前半、タイトルの通り「山賊」といわれる山のつわも(戦前からアルプスを根城にするような人たち)について語る。著者の語り口に、どこか満州の馬賊を髣髴させるような、戦前のひとにありがちな武勇談口調を感じてしまう。後半の山岳遭難事件は、無謀さ、過信を戒める記述もあり、今様の警句になっている。
山は甘く見ちゃいけない・・・ということだが、今のわたしは高尾山すら遠く眺めるだけ。(とはいえ、昔、高尾山から陣馬山への縦走路に、行方不明者の安否を気遣いたずねる家族の張り紙を見た記憶がある)
山との縁が薄くなった。おととしだったか鉱物採集で、氷が張り付いた岩場で何度か転んだ。同行の仲間は、しっかり登ったにもかかわらず。以来、山に(鉱物採集に)未練があるものの自信なくて遠のいている。
山への関心といえば、書籍「山怪」に紹介された山中の不思議な体験のかずかずを読むことで満足している。怪異と出会う人と、そうでない人がいるように、地域によっても同様だそうだ。古い歴史と伝統を持つ場所と、新たに開拓された地区かによって、土地柄というか精神的な共有の仕方が異なるのかもしれない。
そういう意味では戦後の展開だが、黒部山中の山小屋を舞台にした「定本 黒部の山賊 -アルプスの怪-」(伊藤正一、山と渓谷社)は、前半、タイトルの通り「山賊」といわれる山のつわも(戦前からアルプスを根城にするような人たち)について語る。著者の語り口に、どこか満州の馬賊を髣髴させるような、戦前のひとにありがちな武勇談口調を感じてしまう。後半の山岳遭難事件は、無謀さ、過信を戒める記述もあり、今様の警句になっている。
山は甘く見ちゃいけない・・・ということだが、今のわたしは高尾山すら遠く眺めるだけ。(とはいえ、昔、高尾山から陣馬山への縦走路に、行方不明者の安否を気遣いたずねる家族の張り紙を見た記憶がある)
2023年10月27日金曜日
(資料)マタギ奇談
きょうから「読書週間」(10月27日~11月9日)が始まり、その初日を「読書の日」と呼ぶそうだ。といって、身近に何かが起こるわけではないが、久し振りに近隣街にある中型書店に寄ってみた。
同店で、山の奇談を紹介する「マタギ奇談」*(工藤隆夫著、ヤマケイ文庫)を購入した。実は以前、地元の図書館から同書を借りて、江戸時代の鉱山での排水労働に触れた部分(マタギが、鉱山跡の斜面に、錆びてボロボロになった鉄の輪をはめられた人骨を発見する)を本ブログに記述したことがある・・・マタギが発見した人骨は、鉱山の排水(水替)作業にあてられた罪人だったのではないかという。
(*)マタギ: 巻末にマタギの歴史について、まことに合点する解説(高桑信一)がある。
山の奇談には、山の怪し話があり、妖し、奇怪、霊異と広がる。山びとが語る、奇っ怪な体験を収集した「山怪」シリーズ(田中康弘著、山と渓谷社)があって、書棚に並べているうちに上記のごとく、やっぱり手元にそろえることにした次第。
(本ブログ関連:、”山怪”)
書店について
ところで、同書店の本店は、東京駅八重洲口にあって大型店として知られている。その本店が周辺地区再開発のため去年から休店しており、複合ビルが完成する再来年に再び出店するという。全国で書店が減少している中、どのような巻き返しを図るのだろうか。
私の若いころ、すでに書店経営は厳しいといわれていた。
昔のサラリーマン(つまり私の親世代)は、定年後にやりたい仕事として<本屋>とか<喫茶店>経営をあげたものだ。でも、客待ちビジネスの時代ではないと当時でもいわれていた。書店の場合、少子化による読書人口の減少と、それに追い打ちをかけたのがネット通販だろう。新刊書店であれ古書店であれ、経営が難しくなっているのをしろうとでも気付いていた。
紙媒体(メディア)の商品である新聞も苦戦している。いや、メディアごとバッサリ凋落しているのかもしれない。そう考えると、一方向性(一対他:マス)の電波メディアであるテレビ、ラジオも同じ道を進んでいるようだ。
2018年1月28日日曜日
(雑談)山の冬、山の春
寒い日が続く。出かけようと思っても寒気に萎える。雪景色は、子どもに別世界であり、雪の不思議な感蝕を楽しむ遊び場だ。若者にとっては、スキー板を担いで夜行列車で出かける、期待と妄想の場所でもあった。年寄りには、今も昔も変わらぬ、雪掻きするだけの風物でしかない。
歳をとると、雪山に出かける者の気が知れぬとますます確信する。日本の山は、少なくとも、ハイカーにいたるまで踏査されていて、未知な部分はないと思われるし、目の前のそびえる山を見れば、現代人の感覚からすれば、すべて知り尽くされたように感じるものなのだ。
戦前戦後の日本アルプスに棲んだ山人を通じて、山の不思議を語った「黒部の山賊」やシリーズ「山怪」は、それでも世俗的一面を合わせ持つ話題を見せる。更に昔、明治、大正のころになると、「山の人生」(柳田国男)は、世俗と隔絶した地図の彼方に存在する、あたかも異界(伝承の世界)さえ想起させる。
「山の人生」に語られた人々は、どうやら固有名詞があやふやだ。半分現世に身を置き、半分異界に身を溶かし込んでいるような、戸籍といった制度からすり抜けて、噂話にしか残らない、もっといえば、見ても見えぬよう、知っても忘れ去られるよう、命も軽い存在だったのかもしれない。
昔の、海辺や農村の見える遠野の世界とは違って、厳しい山の生活をどうして選んだのだろう。なぜか、連日の寒さを思うと、そんなことを思ってしまう。それが、温んだ春になると、桃の花咲く桃源郷など、仙界を思い浮かべることになるだろう。
歳をとると、雪山に出かける者の気が知れぬとますます確信する。日本の山は、少なくとも、ハイカーにいたるまで踏査されていて、未知な部分はないと思われるし、目の前のそびえる山を見れば、現代人の感覚からすれば、すべて知り尽くされたように感じるものなのだ。
戦前戦後の日本アルプスに棲んだ山人を通じて、山の不思議を語った「黒部の山賊」やシリーズ「山怪」は、それでも世俗的一面を合わせ持つ話題を見せる。更に昔、明治、大正のころになると、「山の人生」(柳田国男)は、世俗と隔絶した地図の彼方に存在する、あたかも異界(伝承の世界)さえ想起させる。
「山の人生」に語られた人々は、どうやら固有名詞があやふやだ。半分現世に身を置き、半分異界に身を溶かし込んでいるような、戸籍といった制度からすり抜けて、噂話にしか残らない、もっといえば、見ても見えぬよう、知っても忘れ去られるよう、命も軽い存在だったのかもしれない。
昔の、海辺や農村の見える遠野の世界とは違って、厳しい山の生活をどうして選んだのだろう。なぜか、連日の寒さを思うと、そんなことを思ってしまう。それが、温んだ春になると、桃の花咲く桃源郷など、仙界を思い浮かべることになるだろう。
2025年7月13日日曜日
台風5号の風と熱帯低気圧の雨、春日八郎の「山の吊橋」
「台風5号」が接近しているが、当地のあす(7/14)の天気予報は、(台風外周の)北北西の風があるものの、大雨に至らないようだ。しかし、東シナ海発生の「熱帯低気圧」が西日本を経由して関東へ進んでおり、あさって(7/15)の午後に小雨が降りつづく模様。
あす、あさってと、台風と熱帯低気圧の時間差襲来があり、風と雨とじめじめした天気が続きそうだ。しかし、これを越えると関東・甲信も「梅雨明け」になりそうと、気象協会は次のように解説している。(先日(7/10)訪れた「自然観察園」の池に水が貯えられていたので、ここ数日雨が加われば、今夏の「水不足」の心配はないかもしれない)
■ tenki.jp
「明日14日 関東・東北に台風接近 西日本は別の低気圧の影響で警報級大雨に警戒」(福冨里香、日本気象協会 本社: 2025年07月13日18:22) より抜粋
ー https://tenki.jp/forecaster/r_fukutomi/2025/07/13/34644.html
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・明日14日(月)は、台風5号が関東・東北に接近。また、別の低気圧*の影響で西日本~東海は警報級大雨のおそれ。
(*)東シナ海には熱帯低気圧があり、九州付近を通過する見込み。
ー 台風5号は北上を続け、14日(月)昼頃に関東に最も接近、15時には風速25メートル以上の暴風域を伴い、関東の東海上を北上する予想です。
ー 15日(火)~16日(水)にかけては、東から太平洋高気圧が西へ勢力を強めるため、西から進んでくる気圧の谷との間で等圧線が混み、南から非常に湿った空気の流れ込みが続くでしょう。東海~関東を中心に同じような場所で雨が続き、大雨となるおそれがあります。
・台風5号が離れた後も、関東や東海など東日本では西から強雨エリアが近づくため17日(木)にかけて大雨に注意が必要です。
・なお、18日(金)以降は、関東甲信~東北も順次梅雨明けとなりそうです。
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ところで、「山怪」の著者(田中康弘氏)は、同シリーズ5巻目をもって終了すると語られている。その理由に、なによりも語り手(山を生活の場にした、例えばクマ撃ちの山人)が高齢化しているからという。
マタギが登場する歌がある。春日八郎氏の「山の吊橋」(作詞:横井弘/作曲:吉田矢健治、1959年【昭和34年】)だ。歌詞の最初に「山のつり橋ァ どなたが通る / せがれなくした 鉄砲うちが」がある。仕事の呼吸が通じる息子を亡くした父親が、黙して渡る姿が浮かんでくる。
この歌が受け入れられた当時の人びとには、息子の戦死の記憶がまだ十分にあり、共有できたはず。山人の営みを伝えるべき若者もいなくなった。その父親もすでにいない。
■ Youtube(登録: CHH)
「山の吊橋 ~ 春日八郎」
ー https://www.youtube.com/watch?v=nbSuqmATyQc
■ Google Gemini
Q,春日八郎の「山の吊橋」で歌われる、鉄砲撃ち(猟師か?)の息子が死んでいるという表現がありますが、無くなった理由は戦死とイメージできますか? そんな解説はありますか?
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A.春日八郎さんの「山の吊橋」の歌詞に登場する、鉄砲撃ちの息子さんの死因についてですね。
歌詞には具体的な死因は明記されていませんが、「鉄砲撃ちの息子が死んだ」という表現から、戦死とイメージすることは十分に可能です。
この歌が作られた時代背景(1960年代)を考えると、戦争の記憶がまだ生々しく残っており、若者の死といえば戦死が強く連想される時代でした。また、父親が鉄砲撃ち(猟師)であるにもかかわらず、息子が命を落とすという状況は、単なる事故や病死では表現しにくい悲劇性を帯びています。
公式な解説や明確な情報として「戦死」と断定する資料は見当たりませんが、多くのリスナーが歌詞からそのように解釈している、あるいは当時の世相を反映していると考えるのは自然なことです。
歌詞が直接的に語らないからこそ、聴き手の想像力に訴えかける余地があり、その解釈の一つとして「戦死」は有力なものと言えるでしょう。
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2017年10月7日土曜日
狸(たぬき)
きのう、純真無垢で愛らしい「タミー」について、彼女の名をタイトルにした歌と合わせて記した。響きが似てるから「狸(たぬき)」の話でもと・・・無理なこじつけだが、してみよう。
山を巡る猟師や山小屋の主人たちの、山中での不思議な体験を集めた「山怪」や「黒部の山賊」には、狸についてもいろいろ語られている。共通しているのは、山陰や鬱蒼とした木立の奥から、あるいは寝静まった山小屋の外で、打撃音が聞こえるというのだ。
(本ブログ関連:”山怪、黒部の山賊”)
それは、木を打つ音であったり、深夜に山小屋の屋根を叩く音であったりする。機械的な物理的な響きがするという。人の気配がない場所で聞こえるにもかかわらず、不思議と恐怖を与えることはないようだ。狸の姿を見たわけではないのに、体験者は、あれは狸の仕業と口にするというのが妙。(童謡「証城寺の狸囃子」の狸も、<ぽんぽこ ぽんの ぽん>といった腹鼓(はらずつみ)する)
ところで、狸はとぼけた風情がして、どちらかといえばおどけた存在に描かれる。そんな狸が、安永の俳人(澤田庄造、号を鹿鳴)と暖かい関係を結んだという。田中貢太郎の掌編「狸と俳人」は、一人暮らしの俳人のもとに通った狸との深い交遊を描いている。(抜粋)
--------------------------------------------
・・・其の庄造が病気になった。初めはちょっとした風邪であったが、それがこうじて重態に陥った。村人達はかわりがわり庄造の病気を見舞ったが、其の都度庄造の枕許まくらもとに坐っている狸の殊勝な姿を見た。庄造は自分の病気が重って永くないことを悟ったので、某日其の狸に云った。
「お前とも永らくの間、仲よくして来たが、いよいよ別れなくてはならぬ日が来た。私がいなくなったら、もうあまり人に姿を見せてはならんぞ。それにどんなことがあっても、田畑などは荒さぬようにしろよ。さあ、もういいから帰れ」
庄造の言葉が終ると狸は悄然(しょうぜん)として出て往った。其の夜、庄造は親切な村人達に看みとられて息を引きとった。それは安永七年六月二十五日のことであった。
それから数日の後のことであった。一日の仕事を終った村人の一人が家路に急ぎながら、庄造の墓の傍近くに来かかった時、其の墓の前に、蹲(うずくま)っている女の姿が眼に注いた。其の女は美しい衣服(きもの)を着て手に一束の草花を持っていた。そして、よく見ると女は泣いているらしく、肩のあたりが微(かすか)に震えていた。それは此の附近ではついぞ見かけたことのない女であった。村人は何人(たれ)だろうと思って不審しながら其の傍へ往った。
「もし」
村人がこう云って声をかけた途端、其の女の姿は忽然と消えてしまった。そして、其の傍には女が手にしていた草花が落ちていた。村人達はそれを聞いて、それはきっと例の狸だったろうと云って、其の行為を殊勝がったが、其の心が村人達をして狸には決して危害を加えまいという不文律をこしらえさせた。爾来(じらい)其の村では今に至るまで狸は獲(と)らないことになっている。
--------------------------------------------
これが狐だったら、随分と色っぽくなったろうし、下世話な感情も浮かんでこようというもの。狸でよかった。狸と俳人との間に取り交わしたことだからこそ、村人と狸との間に純粋で暖かな絆まで遺した。
山を巡る猟師や山小屋の主人たちの、山中での不思議な体験を集めた「山怪」や「黒部の山賊」には、狸についてもいろいろ語られている。共通しているのは、山陰や鬱蒼とした木立の奥から、あるいは寝静まった山小屋の外で、打撃音が聞こえるというのだ。
(本ブログ関連:”山怪、黒部の山賊”)
それは、木を打つ音であったり、深夜に山小屋の屋根を叩く音であったりする。機械的な物理的な響きがするという。人の気配がない場所で聞こえるにもかかわらず、不思議と恐怖を与えることはないようだ。狸の姿を見たわけではないのに、体験者は、あれは狸の仕業と口にするというのが妙。(童謡「証城寺の狸囃子」の狸も、<ぽんぽこ ぽんの ぽん>といった腹鼓(はらずつみ)する)
ところで、狸はとぼけた風情がして、どちらかといえばおどけた存在に描かれる。そんな狸が、安永の俳人(澤田庄造、号を鹿鳴)と暖かい関係を結んだという。田中貢太郎の掌編「狸と俳人」は、一人暮らしの俳人のもとに通った狸との深い交遊を描いている。(抜粋)
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・・・其の庄造が病気になった。初めはちょっとした風邪であったが、それがこうじて重態に陥った。村人達はかわりがわり庄造の病気を見舞ったが、其の都度庄造の枕許まくらもとに坐っている狸の殊勝な姿を見た。庄造は自分の病気が重って永くないことを悟ったので、某日其の狸に云った。
「お前とも永らくの間、仲よくして来たが、いよいよ別れなくてはならぬ日が来た。私がいなくなったら、もうあまり人に姿を見せてはならんぞ。それにどんなことがあっても、田畑などは荒さぬようにしろよ。さあ、もういいから帰れ」
庄造の言葉が終ると狸は悄然(しょうぜん)として出て往った。其の夜、庄造は親切な村人達に看みとられて息を引きとった。それは安永七年六月二十五日のことであった。
それから数日の後のことであった。一日の仕事を終った村人の一人が家路に急ぎながら、庄造の墓の傍近くに来かかった時、其の墓の前に、蹲(うずくま)っている女の姿が眼に注いた。其の女は美しい衣服(きもの)を着て手に一束の草花を持っていた。そして、よく見ると女は泣いているらしく、肩のあたりが微(かすか)に震えていた。それは此の附近ではついぞ見かけたことのない女であった。村人は何人(たれ)だろうと思って不審しながら其の傍へ往った。
「もし」
村人がこう云って声をかけた途端、其の女の姿は忽然と消えてしまった。そして、其の傍には女が手にしていた草花が落ちていた。村人達はそれを聞いて、それはきっと例の狸だったろうと云って、其の行為を殊勝がったが、其の心が村人達をして狸には決して危害を加えまいという不文律をこしらえさせた。爾来(じらい)其の村では今に至るまで狸は獲(と)らないことになっている。
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これが狐だったら、随分と色っぽくなったろうし、下世話な感情も浮かんでこようというもの。狸でよかった。狸と俳人との間に取り交わしたことだからこそ、村人と狸との間に純粋で暖かな絆まで遺した。
2018年10月9日火曜日
(雑談)怪異話
山の怪異話は、都会の人間が入り込むのも稀な白神山地などの奥で、もっぱら父祖伝来の猟師集団に伝わるものの方がイマジネーションを高める。ブログで何度か紹介した「山怪」もそうだが、具体的に伝承者の所在と氏名が語られる。
(本ブログ関連:”山怪”)
これは、怪異話に定則で、古い中国であれ、江戸の市街であれ、主人公たちの所在(あるいは出身地)や名から始まる。しかも、その人物が知られた必要はない。ただ、固有名が語られることで具体的風味を持つことができる。その後に続く話題に信憑性を増すというものだ。
原話に具体的なものを付け替えすることで、時代や場所を超えた様々なバリエーションを生み出すことにもなるだろう。
歴史家ホイジンガだったか、ある市民が戦場と化した都市の被害状況を克明に記したものを紹介している。随所の死者数が何千何百何十何人と事細かに記録しているのだが、一市民が果たしてそんな実測が可能かよりも、そのような数字の確からしさから、一定の心理的なもの(信頼)を感じるようだ。
その場に居合わせた訳でもない話を聞くとき、私たちは一定の準備(身構え)が必要のようだ。怪異であれ、歴史的事件であれ、確からしさを示唆するようなものがあれば、それで十分なのだろう。どうやら容易にそんな術中にはまってしまうようだ。
(本ブログ関連:”山怪”)
これは、怪異話に定則で、古い中国であれ、江戸の市街であれ、主人公たちの所在(あるいは出身地)や名から始まる。しかも、その人物が知られた必要はない。ただ、固有名が語られることで具体的風味を持つことができる。その後に続く話題に信憑性を増すというものだ。
原話に具体的なものを付け替えすることで、時代や場所を超えた様々なバリエーションを生み出すことにもなるだろう。
歴史家ホイジンガだったか、ある市民が戦場と化した都市の被害状況を克明に記したものを紹介している。随所の死者数が何千何百何十何人と事細かに記録しているのだが、一市民が果たしてそんな実測が可能かよりも、そのような数字の確からしさから、一定の心理的なもの(信頼)を感じるようだ。
その場に居合わせた訳でもない話を聞くとき、私たちは一定の準備(身構え)が必要のようだ。怪異であれ、歴史的事件であれ、確からしさを示唆するようなものがあれば、それで十分なのだろう。どうやら容易にそんな術中にはまってしまうようだ。
2018年11月20日火曜日
狐(キツネ)と人と北海道
北海道のキツネといえば「キタキツネ」を思い出す。私の若いころ、フィールドに入ってキタキツネを観察した獣医師がおり、結果としてキタキツネの写真家となった竹田津実氏の写真集がなつかしい。当時、キタキツネはブームになり、親子のふれあい、幼い子キツネの成長など原野をバックに美しい写真におさまっていた。
(本ブログ関連:”キツネ”)
そのころからキタキツネに一種ロマンのようなものがあった。「キツネ」は、ヨーロッパや日本の民話に見られるような、ずるくて人をだますといった生き物ではなく、いってみれば、自然保護の指標として、動物愛護の先鞭となったのかも知れない。
インバウンドで、欧米人の観光客が増えて訪れるという「キツネ村」が東北にあって、今の時代だからだろう、やたら愛情いっぱい接して自撮りする様子をテレビなどで目にする。本来野生の動物であり、人間と敵対していた関係なのに不思議な光景だ。ロシアの実験で、キツネの飼育(家畜化)を繰り返すと、中にイヌのような毛並みに変わり、色違いの模様をするものが出現して、人になつくという。飼育者に、愛されることを無上の喜びにするという。
(本ブログ関連:”キツネにかかわる伝承の分布”、”(雑談) 狼 ⇒ 犬、狐 ⇒ ?”)
ところで、山の神信仰について、東北へ行くほど「稲荷信仰(稲荷神)」が多いという。書籍「山怪」(田中康弘)によれば、北(=東北)へ行くほどキツネの話題(怪異譚)が同様に多いそうだ。その「山怪」シリーズの「参」に、北海道の場合を次のように説明している。
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北海道では狐に類する話はほとんど聞くことが出来ないようだ。キタキツネは悪さをしないのだろうか。
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(本ブログ関連:”稲荷信仰”)
北海道とお稲荷さんの関係について、朝日新聞に、米作普及の歴史的観点から説明した記事「神仏編 狐とお稲荷さん」(2017年2月24日、文と写真・塚田敏信)がある。同社らしい表現もあるが、時代経過からそうだろという感がする。(抜粋)
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稲荷を追っていたら気になることが出てきた。道内で稲荷神社の名が多いのは、道南から日本海を北上するラインと胆振日高などの沿岸部。つまり海沿いの町なのだ。稲荷の原点は“田”。なのに現在稲作が盛んな空知や上川にはむしろ少ない。どうしてだろう。
水田が北に広まったのは開拓からしばらくしてのこと。それらの土地では別の神がまつられ、稲荷が根づいたのは、比較的早い時期に和人が入った海沿いの地域だった。思わぬところからも見えてくる北海道の姿。だからまち歩きは面白い。
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(本ブログ関連:”キツネ”)
そのころからキタキツネに一種ロマンのようなものがあった。「キツネ」は、ヨーロッパや日本の民話に見られるような、ずるくて人をだますといった生き物ではなく、いってみれば、自然保護の指標として、動物愛護の先鞭となったのかも知れない。
インバウンドで、欧米人の観光客が増えて訪れるという「キツネ村」が東北にあって、今の時代だからだろう、やたら愛情いっぱい接して自撮りする様子をテレビなどで目にする。本来野生の動物であり、人間と敵対していた関係なのに不思議な光景だ。ロシアの実験で、キツネの飼育(家畜化)を繰り返すと、中にイヌのような毛並みに変わり、色違いの模様をするものが出現して、人になつくという。飼育者に、愛されることを無上の喜びにするという。
(本ブログ関連:”キツネにかかわる伝承の分布”、”(雑談) 狼 ⇒ 犬、狐 ⇒ ?”)
ところで、山の神信仰について、東北へ行くほど「稲荷信仰(稲荷神)」が多いという。書籍「山怪」(田中康弘)によれば、北(=東北)へ行くほどキツネの話題(怪異譚)が同様に多いそうだ。その「山怪」シリーズの「参」に、北海道の場合を次のように説明している。
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北海道では狐に類する話はほとんど聞くことが出来ないようだ。キタキツネは悪さをしないのだろうか。
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(本ブログ関連:”稲荷信仰”)
北海道とお稲荷さんの関係について、朝日新聞に、米作普及の歴史的観点から説明した記事「神仏編 狐とお稲荷さん」(2017年2月24日、文と写真・塚田敏信)がある。同社らしい表現もあるが、時代経過からそうだろという感がする。(抜粋)
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稲荷を追っていたら気になることが出てきた。道内で稲荷神社の名が多いのは、道南から日本海を北上するラインと胆振日高などの沿岸部。つまり海沿いの町なのだ。稲荷の原点は“田”。なのに現在稲作が盛んな空知や上川にはむしろ少ない。どうしてだろう。
水田が北に広まったのは開拓からしばらくしてのこと。それらの土地では別の神がまつられ、稲荷が根づいたのは、比較的早い時期に和人が入った海沿いの地域だった。思わぬところからも見えてくる北海道の姿。だからまち歩きは面白い。
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2023年7月8日土曜日
ChatGPT 山師・鉱山労働者とキリシタンについて
山には不思議な話がある。
そんな体験を、山で生活する人びと(たとえば樵や猟師・マタギと家族、集落)にとっては、伝承という形に整理・納得しないとやっていけなかっだろう。また、山を対象化して制覇しようとする都会からやってきた登山者にとっては、テントや山小屋の中で怯え恐怖したいっときのことでしかなかっただろう。
(本ブログ関連:”山怪”)
山にはもう一つの側面がある。
山は鉱物資源を有していることだ。見えないものが見え、鉱山開発するプロジェクトリーダーとなるべき「山師」が必要になる。かれらは消費市場と仲立ちする豪商(背後には奉行)と接触できる能力を有する。それゆえに、過酷な環境下の鉱山労働者と、貨幣で動く市場の両側から胡散臭く見えたのだろう。
でも一番恐ろしかっただろうのは、鉱山労働者たちだった。
地底に潜って働く・あるいは働くことを強制された鉱山労働者たちだった。現在、戦場で傭兵に懲役囚を使うように、都市部の犯罪者を鉱山で労役させた時代があった。生きるか死ぬかの境遇だ。いやそれだけではない、平和を享有しながら差別を主張する現代人がとっくに忘れている、かつてのヴィクトリア朝時代には、子どもたちが坑道を這わされていた*。
(*)My Learning 「地下で子どもたちはどんな仕事をしていたのか?」
ー 「石炭採掘とビクトリア朝時代 地下で働いた児童労働者の物語」
ー https://www.mylearning.org/stories/coal-mining-and-the-victorians/what-jobs-did-children-do-underground
日本のいわゆるプロレタリア文学以前の期に書かれた小説に、鉱山労働者の悲惨さが描かれている。視点が、政治的な存在として扱おうとする以前のこと、欲望のまま衝突を繰り返し、行き場を失う露わな姿が表現されている。
坑道は落盤する。湧水する。ガスがたまる。酸素が枯渇する。粉塵が撒かれる。
かつて、1963年(昭和38年)に発生した三池炭鉱の炭塵爆発事故で、死者458名、一酸化炭素中毒患者839名を出した。たった60年前のこと、わずか二世代前のこと。みんなとっくに忘れている。
ChatGPTへの質問と回答
Q1.江戸時代の鉱山開発にかかわった山師とは?
Q2.江戸時代の鉱山労働者(キリシタンを含めて)とはどんな存在だったか?
について問うてみた結果は次の通り。
Q1.江戸時代の鉱山開発にかかわった山師について、どのような人たちだったのか教えてください。
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A.江戸時代の鉱山開発に関わった人々を「山師(やまし)」と呼びました。彼らは鉱山の探査、採掘、鉱石の精錬など、鉱山業全般に携わる専門家でした。以下に、江戸時代の山師についての情報を提供します。
1.役割とスキル:
山師は、主に鉱山探査や採掘技術に長けた人々でした。彼らは鉱山の地質や鉱脈の存在を調査し、鉱石の埋蔵量や品質を評価しました。また、鉱石の採取方法や精錬技術にも精通しており、鉱山の効率的な運営に貢献しました。
2.奔放な生活:
山師は、自由奔放な生活を送ることが多く、鉱山地域を転々としました。彼らは鉱山の開発が進む地域に集まり、鉱山の採掘権をめぐって争いも発生しました。一方で、彼らは高い技術を持っていたため、地元の領主や商人から重宝され、雇われることもありました。
3.伝統的な知識と技術:
山師は、長い歴史を持つ日本の鉱山開発の伝統的な知識と技術を受け継いでいました。彼らは地質学や鉱石の特性についての知識を持ち、経験に基づいた採掘技術を駆使しました。また、鉱石の精錬や冶金技術にも独自の工夫がありました。
4.貧しい生活と危険な労働条件:
鉱山労働は非常に危険で過酷なものであり、山師も例外ではありませんでした。彼らは狭い坑道での作業や鉱石の採取に従事し、多くの労働者が事故や健康被害に苦しんでいました。また、山師の多くは貧しい生活を送っており、鉱山での収入が不安定であったため、生計を立てるのは難しかったです。
5.社会的地位:
一部の優れた山師は、その知識や技術によって評価され、地元の領主や商人とのつながりを築くことができました。彼らは地域社会で一定の地位を持ち、他の労働者や地元住民からも尊敬される存在でした。しかし、一般的には鉱山労働者として社会的に低い地位にありました。
江戸時代の山師は、鉱山開発において重要な役割を果たした専門家でした。彼らの知識と技術は、日本の鉱業の発展に寄与しましたが、彼ら自身の生活は貧しく、労働条件も厳しいものでした。
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Q2.江戸時代の鉱山労働者は、どのようなひとびとだったのでしょうか。キリシタンがいたという話がありますが、はっきりした事例があるのでしょうか。
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A.江戸時代の鉱山労働者は、一般的には農村から集まった貧しい人々が多くを占めていました。彼らは鉱山での労働を通じて生計を立てるために働いており、労働条件は過酷でした。
鉱山労働者は、狭い坑道での作業や鉱石の採取、運搬などの重労働に従事しました。彼らは長時間の労働や危険な環境下での作業にさらされ、事故や健康被害に苦しんでいました。また、収入も不安定であり、貧しい生活を送ることが多かったです。
江戸時代の鉱山労働者には、キリシタン(キリスト教徒)も含まれていました。当時、キリシタンの信仰は禁止されており、秘密裏に信仰を守る者も多く存在しました。一部の鉱山地域でもキリシタンの鉱山労働者がいたと言われていますが、具体的な事例については資料に限られており、はっきりした事例があるかどうかは確証できません。
ただし、鉱山労働者の中にキリシタンが存在した可能性はあるとされており、彼らは信仰を秘密に守りながら鉱山での労働に従事したと考えられています。しかし、キリシタンであることが発覚すれば弾圧や迫害の対象となり、それによって正確な記録が残されなかった可能性もあります。
総じて言えることは、江戸時代の鉱山労働者は困難な労働環境に置かれ、貧しい生活を送っていたということです。キリシタンの存在についてははっきりした事例が限られており、詳細な情報は得られにくいと言えます。
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2018年7月28日土曜日
鉱山の排水
午前中に出かけるには短過ぎ、午後には台風接近で強風豪雨になるという。結局、出かける機会を失った。台風12号は、北上したものの、普段と違って西側(先日の西日本豪雨災害地域の方面)へと大きく向きを変えた。今後が心配だ。
石に関わりがあれば何でも興味を持ち、山について話をいくつか記してきた。マタギ(猟師)の猟場や登山者たちの利用する山小屋の周辺といった、少々近寄りがたい場所で起った不思議な話しについてだ。ひと気のない隔絶した所に、関心が湧いて想像たくましくなる。
(本ブログ関連:”「山怪」、「黒部の山賊」”)
石つながりの山の話から浮かぶのは鉱山だろうけれど、鉱山は、上記のような深山にあるわけではない。鉱山は産出した鉱石の運搬・物流を前提にするため、怪異の世界というより、むしろ人間臭い世界にある。そんなことから歴史の裏側をのぞく話になる。
図書館で借りた本「マタギ奇談」(工藤隆雄著、山と渓谷社)には、あるときマタギが歴史的な鉱山の斜面に人骨を見つける話がある。時代を戻すと、江戸時代に遡ることになる。金銀銅を産出する貴重な鉱山だったため、掘り進めると水が湧き出ることがある。そこで、湧水を排出するため、囚人やキリシタンを人足として使ったという。立場の弱い人間は、いつも歴史の底に隠される。
(本ブログ関連:”鉱山とキリシタン”、”坑夫”)
ここでは触れないが、ある鉱山の歴史につながる。負の面について、その鉱山特有なことではない。鉱山なら歴史の中で一般に見られたことだからだ。
気になったのは、キリシタンが話題に出たことだ。キリシタン狩りで連れてこられたという話もあるが、一方で彼らに鉱山技術を持っているいる者がいたという話しもある。どこで、誰から学んだのか、少々ミステリアスなことだ。
石に関わりがあれば何でも興味を持ち、山について話をいくつか記してきた。マタギ(猟師)の猟場や登山者たちの利用する山小屋の周辺といった、少々近寄りがたい場所で起った不思議な話しについてだ。ひと気のない隔絶した所に、関心が湧いて想像たくましくなる。
(本ブログ関連:”「山怪」、「黒部の山賊」”)
石つながりの山の話から浮かぶのは鉱山だろうけれど、鉱山は、上記のような深山にあるわけではない。鉱山は産出した鉱石の運搬・物流を前提にするため、怪異の世界というより、むしろ人間臭い世界にある。そんなことから歴史の裏側をのぞく話になる。
図書館で借りた本「マタギ奇談」(工藤隆雄著、山と渓谷社)には、あるときマタギが歴史的な鉱山の斜面に人骨を見つける話がある。時代を戻すと、江戸時代に遡ることになる。金銀銅を産出する貴重な鉱山だったため、掘り進めると水が湧き出ることがある。そこで、湧水を排出するため、囚人やキリシタンを人足として使ったという。立場の弱い人間は、いつも歴史の底に隠される。
(本ブログ関連:”鉱山とキリシタン”、”坑夫”)
ここでは触れないが、ある鉱山の歴史につながる。負の面について、その鉱山特有なことではない。鉱山なら歴史の中で一般に見られたことだからだ。
気になったのは、キリシタンが話題に出たことだ。キリシタン狩りで連れてこられたという話もあるが、一方で彼らに鉱山技術を持っているいる者がいたという話しもある。どこで、誰から学んだのか、少々ミステリアスなことだ。
2019年2月16日土曜日
(雑談)占いごと
ここ数年、パソコン横に「日めくりカレンダー」を吊るしている。日々の移ろいに鈍くならぬためだ。おかげで、季節の変わりを示す「二十四節気」にようやく慣れ親しんできた。
今年になって、他社製の日めくりカレンダーを選んだところ、日ごとの運勢について記した部分にも気を留めるようになった。今日は、「十方ぐれ(暮)入り」とある。始めて知る言葉だ。
ネット(Wikipedia)によると、どうやら今日から十日間ほど、運の巡りの悪い日が多数あって、「この期間は、天地の気が相剋して、万事うまく行かない凶日とされている」そうだ。もちろん(科学的に)何の根拠もない運勢占いだろうけれど。
怪奇・奇談の「聊斎志異」の類は、伝聞にリアリティを持たせるため、話の始めに具体的な地名と登場人物の名を記すのが鉄則。暦占いも同様で、具体的な日を定めて、そこに占いごとを付加すれば、信じやすくなるというもの。
以前、中世の「大預言者」とやらを引っ張り出してきて、地球滅亡の日について具体的に語られた。しかし、そのとき世界では、新しい社会的な事業や計画が次々と発表されていたわけで、小中学生を除いて誰も信じていたわけではない。面白半分に関心を示していたけど。
ところでほんの少し前、パソコンの前でうつらうつらして夢を見た。
窓のないドーム天井の薄暗い部屋で、同僚たちが噂話しをしている。何か重大な発表があるというのだ。そのとき、誰かが入ってきて大声で結論が出たと怒鳴った。プロジェクターで説明するというのだ。壁に眩しい明かりが灯った瞬間、夢から覚めた。(夢は何も教えてくれなかった)
(付記)
NHK(Eテレ)のETV特集「熊を崇め 熊を撃つ」を見る。山と共にあればこそ、マタギは熊を「山の神」と崇め、その肉を決してむだにしない。彼らが語る山の不思議に、自然と精神的に一体化した物語の初源を知る気がする。
(本ブログ関連:”山怪”)
再放送が、2019年2月21日(木) 午前0時00分(60分)にある由、
今年になって、他社製の日めくりカレンダーを選んだところ、日ごとの運勢について記した部分にも気を留めるようになった。今日は、「十方ぐれ(暮)入り」とある。始めて知る言葉だ。
ネット(Wikipedia)によると、どうやら今日から十日間ほど、運の巡りの悪い日が多数あって、「この期間は、天地の気が相剋して、万事うまく行かない凶日とされている」そうだ。もちろん(科学的に)何の根拠もない運勢占いだろうけれど。
怪奇・奇談の「聊斎志異」の類は、伝聞にリアリティを持たせるため、話の始めに具体的な地名と登場人物の名を記すのが鉄則。暦占いも同様で、具体的な日を定めて、そこに占いごとを付加すれば、信じやすくなるというもの。
以前、中世の「大預言者」とやらを引っ張り出してきて、地球滅亡の日について具体的に語られた。しかし、そのとき世界では、新しい社会的な事業や計画が次々と発表されていたわけで、小中学生を除いて誰も信じていたわけではない。面白半分に関心を示していたけど。
ところでほんの少し前、パソコンの前でうつらうつらして夢を見た。
窓のないドーム天井の薄暗い部屋で、同僚たちが噂話しをしている。何か重大な発表があるというのだ。そのとき、誰かが入ってきて大声で結論が出たと怒鳴った。プロジェクターで説明するというのだ。壁に眩しい明かりが灯った瞬間、夢から覚めた。(夢は何も教えてくれなかった)
(付記)
NHK(Eテレ)のETV特集「熊を崇め 熊を撃つ」を見る。山と共にあればこそ、マタギは熊を「山の神」と崇め、その肉を決してむだにしない。彼らが語る山の不思議に、自然と精神的に一体化した物語の初源を知る気がする。
(本ブログ関連:”山怪”)
再放送が、2019年2月21日(木) 午前0時00分(60分)にある由、
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