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2026年1月21日水曜日

(Gemini)小倉の井筒屋百貨店そばにあった駐留軍施設

子どものころ、西鉄の市電に乗って、小倉にあったデパート「井筒屋(百貨店)」へ連れて行ってもらうことはハレなできごとだった。生活に密着した地元商店街での買い物とは違う、おとなの洒落た空間を感じたからだ。それに、高い階にあった食堂で食事するのは、子どもにとって最大の楽しみだった。

夕方、陽が落ちたころ、窓越しに米軍の軍用車が並んでいるのを見た思い出がある。はたして、井筒屋の周辺にそのような場所があったのか気になって、生成AIのGemini に問い合わせてみた。

(本ブログ関連:”米軍基地”)

■ Gemini

Q.昔(WWⅡ終戦のしばらく後)のこと、九州の小倉に「井筒屋デパート」がありましたが、そのそばに米駐留軍の軍用車が多数駐車していたのを見下ろした記憶がありますが・・・当時そうだったのでしょうか?
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A.ご記憶の通り、当時の小倉(現在の北九州市)の状況として、その光景は非常に正確なものだと思われます。

戦後の小倉は、九州における連合国軍(主に米軍)の最大の拠点の一つでした。井筒屋デパート周辺がどのような状況だったのか、当時の背景を整理しました。

1. 井筒屋の目の前が「米軍司令部」だった

井筒屋小倉店のすぐ近く、現在はリバーウォーク北九州や小倉城があるエリア(城内地区)には、当時 <米軍のキャンプ・コクラ(Camp Kokura)> が置かれていました。

特に井筒屋から紫川を挟んだ対岸付近には、米軍の司令部や兵舎、車両基地が集中していました。そのため、井筒屋の窓から外を見下ろせば、軍用トラックやジープが整然と、あるいは大量に並んでいる光景が見えたはずです。

2. 接収されていた周辺施設

終戦直後、小倉城周辺の広大な旧陸軍施設(造兵廠など)米軍に接収されました。

  • 車両の集積: 小倉は朝鮮戦争(1950年〜)の際にも重要な補給基地となり、膨大な数の軍用車両や物資がこのエリアに集められました。

  • 井筒屋自体の接収: 実は井筒屋の一部も米軍に接収されていた時期があり、米軍専用の販売所(PX)として利用されていた歴史もあります。

3. なぜ「見下ろした記憶」が鮮明なのか

当時の小倉で、井筒屋は数少ない高層建築でした。 周囲に高い建物がなかったため、デパートの上層階から城内方面を眺めると、現在の「公園」や「文化施設」の場所が、すべて <「オリーブドラブ色(米軍機の色)の車両で埋め尽くされた基地」> として一望できたのです。

お客様が見られたのは、まさに「軍の街」としての小倉が最も色濃かった時代の象徴的な風景だと言えます。当時の喧騒や、独特の排気ガスの匂いなどもセットで思い出されるのではないでしょうか。

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(参考)
■ FNNプラムオンライン
「戦後80年 『まちなかの大兵器工場』 小倉陸軍造兵廠の歴史を振り返る 8月9日の原爆の第1投下目標にも… 【福岡発】」(テレビ西日本、2025年5月20日 火曜 午後2:27)
    ー https://www.fnn.jp/articles/-/874389?display=full#google_vignette

2025年11月2日日曜日

ワールドシリーズ LAドジャース勝利

子どものころ、米大リーグの印象といえば、日本人にかなわぬ体力と技のオンパレードだった。テレビのブラウン管を通して、強力なホームランと華麗な守備を見せつけられたものだ。(あるとき、米軍基地《駐留軍基地》の少年野球チームが小学校に来て、上級生と試合をするのを観戦したことがあった。アメリカの子どもたちが、ユニホームを着ているのを見て驚いた覚えがある)

大リーグのワールドシリーズで頂点を極めたチームが、日本チームと試合のため来日したが、夫人連れでどう見ても観光気分にしか見えなかった。それでも日本チームは勝つのに苦心したのだ。

そんな時代を経て、有能な「イチロー」、「野茂」、「松井」選手といったひとたちが大リーグで活躍し、日本人選手進出の足場を固めてくれた。今は、「大谷」、「山本」選手たちがいる。

(本ブログ関連:”大リーグ”、”ワールドシリーズ”)

今年のワールドシリーズの結果を、テレビを見てなかった(BSやネット配信を契約していない)ので、ネットニュースで知った。大谷、山本選手が所属する「ロスアンジェルス・ドジャース」が延長11回の末 5対4 で勝利した。球団史上初のワールドシリーズ連覇になる。
山本投手は、確実なリリーフによりワールドシリーズのMVPに選出され、日本人選手としては、松井選手以来2人目という。凄い!


■ Youtube(登録: SPOTVNOW)
「【ドジャース、球団史上初&21世紀初のWS連覇!MVP山本が胴上げ投手に、カーショウは有終の美を飾る!】ドジャースvsブルージェイズ 試合ハイライト MLB2025 ワールドシリーズ第7戦」(2025/11/02)
    ー https://www.youtube.com/watch?v=bVJXbYih6B8

■ Youtube(登録: SPOTVNOW)
「【山本由伸 ワールドシリーズMVPに輝く!松井秀喜以来日本人2人目の快挙】ドジャースvsブルージェイズ MLB2025 ワールドシリーズ第7戦 11.2」(2025/11/02)
    ー https://www.youtube.com/watch?v=Y-VVNAktKX8

2025年8月24日日曜日

少年野球

昼間*、野鳥観察(探鳥会)のフィールドがある公園を巡った。園内にあるグラウンドで、リトルリーグというか少年野球の試合が行なわれているのに出会った。たまたまのきっかけだが、少し観戦してみることにした。
(*)きょうの最高気温は 38.5℃(13:41)、暑い一日だった。公園の自販機で飲料水を2度買うほど。

(本ブログ関連:”少年野球”)

ピッチャーの投球が定まらず、フォアボールで進塁した選手が、今度は盗塁するといった場面がつづいた。どうやら9回裏ツーアウトらしい。新たにバッターボックスに入った打者が、フォアボールを狙い、バットを振らずにいた。それを見かねたか、自軍の指導者が「バットを振れ!」と大声で指示を出したのだ。結果、打者は三振に終わって、試合が決着した。

暑さのせいか監督・コーチ陣以外、応援の姿があまりない。グラウンドを囲むネットの外側にある木陰で、ほんの数組の家族が覗いていたぐらい。私にとっては、少年野球の観戦は、一瞬だったが久しぶりのことだった。

ところで、子どものころ、米軍基地の少年野球チームが何とユニフォーム姿で 私たちの小学校を訪れたことがあった。それを迎えた普段着姿の上級生チームは、フォアボールと盗塁で打ち勝ったのを思い出した。

2024年11月22日金曜日

大谷翔平選手のMVP受賞

時代の変化を感覚的に感じるのに、例えば「野球」についていえば、子ども時代の野球界のこと、小学校の校庭で行なわれた少年野球のことなどがある。ブログに何度か書いてきたことだが次に記してみる。

① 九州にいたころ、子ども時代の野球のヒーローは、川上哲治稲男和久中西太の各選手だった。その後、関心が深まってからのこと、米大リーグの優勝チームが訪日して、日本のプロ野球チームと対戦することがあった。強力な体力の米国チームによる、豪快・剛腕のホームランに日本チームは苦戦した。しかも、米選手たちは婦人同伴で日本旅行を満喫するといった具合だった。
それだけに、子どもたちの野球への関心は国内リーグにとどまり、米大リーグは彼方の存在だった。日米野球の間に圧倒的な高い壁があった。

② 小学校の小使いさんの息子が、当時米軍基地に勤めていたこともあり、あるとき、基地内の少年野球チームを連れて来て、小学校の上級生たち(臨時編成チーム)と試合することになった。驚いたのは、基地の子どもたちはヘルメットとユニフォームを着用していた。映画でしか見たことのない光景だった。当然、日本のチームは普段着のまま対戦した。
結果は、バントと盗塁を駆使した日本チームの勝利だったが、考えられないといった顔をした基地の少年野球チームの表情を今でも覚えている。

その後の時代、米大リーグに飛び込み、実績を積み上げてきた日本人野球選手がいたわけで今日がある。今の子どもにとって、大谷翔平選手の存在が起点であり、彼が活躍する米大リーグは舞台だろう。見える世界が、私の子ども時代と全く違っているはず。

そんなことを思いながら、ドジャースの大谷翔平選手が、今季MVPに輝いたことに、しかも3度目に驚く。テレビの情報番組では気が早く、来年の成果に「サイヤング賞」(最優秀投手賞)を期待したりしていた。

■ スポーツ報知(抜粋)
「大谷翔平が前人未到の3度目の満票MVP受賞 またしてもメジャーの新たな歴史刻む偉業」(2024年11月22日 8時53分)
https://hochi.news/articles/20241122-OHT1T51005.html?page=1
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・ドジャース・大谷翔平投手(30)が21日(日本時間22日)、全米野球記者協会(BBWAA)が選出するナ・リーグ*の最優秀選手(MVP)を満票で受賞**した。
・エンゼルス時代の21、23年に続いて2年連続3度目の受賞。投票権を持つ30人の記者全員が1位票を投じ、3度目の満票受賞となった。昨年、満票でのMVP2度目の時点で史上初の快挙だったが、自身の記録をさらに上回る前人未到3度目の満票MVPとなった。
・今季の大谷は、54本塁打130打点の2冠王。打率3割1分と59盗塁もリーグ2位で、最終戦まで3冠王を争う大活躍を見せた。史上6人目となる「40―40」(40本塁打&40盗塁)を8月23日に早々と達成すると、史上初の「50―50」***も9月19日には達成した。日本人史上初となるトリプルスリー(3割、30本、30盗塁)も軽々クリア。さらには初めて出場したポストシーズンでは快進撃を見せてワールドシリーズ制覇にも貢献した。
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(*)MVPは、ナショナルリーグ、アメリカンリーグごとに選定される。
(**)指名打者(DH)での受賞は初。
(***)史上初の「50―50」: 50本塁打 & 50盗塁

2024年9月13日金曜日

C-119 輸送機

輸送機といえば、民間の場合、旅客機を改造したものがほとんどだろう。専用機として開発されたといわれる「ボーイング 777F」や「エアバス A350F」などあるそうだが、素人目には、ボーイング 777やエアバス A350旅客機の窓がないくらいのものにしか見えない。

自衛隊機で多く見るのは、何といってもターボプロップの四発プロペラ機「ロッキード C-130(ハーキュリーズ)」だろう。その後の国産の双発ジェット機「川重 C-1」、その後継の「C-2」がある。サイズがどんどん大きくなる。

ところで、小学生のころ、九州に住んでいたとき、小学校の校庭の上空を双発・双胴のレシプロ機「フェアチャイルド C-119」が飛んでいた。というか、ゆったりと浮かんでいたといった方がよいかもしれない。たいてい一機だけ。レシプロエンジンのブォーンといった音は、辺り一帯に充満した。

(本ブログ関連:”C-119”)

遠賀川の河口、芦屋海岸に米軍基地(現:空自の「芦屋基地」)があり、C-119輸送機のベースになっていたようだ。子どものころなので、遠賀川は遠くにあって、子どもだけで遊びに行く距離じゃなかった。まして、芦屋基地に行くあてもない。
芦屋という地名を身近に感じていたので、今お騒がせの兵庫県にある芦屋と、なぜかイメージが重なったりした。おかしなものだが。

C-119輸送機が何処へ飛んで行くのか気にしたことはまったくなかった。何度見返しても一向に飛び去る気配がない、そんな機影が不思議だった。だいぶ上空を飛んでいたのだろうけど。

ところで、プラモデル好きだったが、C-119を作った記憶はない。実機をしょっちゅう見ていたのに、やっぱり地味な機体だったせいかもしれない。プラモデル人気はあまりないようで、ネット検索しても国産メーカー大手の「タミヤ」も製造販売していないようだ(イタリアのイタレリ社製を扱っているようだが)。


(付)
① Youtube:「米軍史上最高の軍用輸送機トップ7」(登録:ミリタリーテレビ)
https://www.youtube.com/watch?v=Nj8vdIev3xc&t=21s

② Youtube:「フェアチャイルド C-119 ”Flying Boxcar”の歴史」(登録:Hagerstown Aviation Museum)
https://www.youtube.com/watch?v=xw_gkzEZKu0

2023年11月17日金曜日

エンゼルスの大谷翔平選手のMVP満票選出

きょう、米大リーグのアメリカンリーグのチーム「ロスアンゼルス-エンゼルス」で活躍の大谷翔平選手が、アメリカンリーグのMVP(最優秀選手)に選出されたと報じられた。全米野球記者協会(BBWAA)の記者(30人)による投票の結果、満票1位の選出(2度目)だった。しかも、2度とも満票はメジャー史上初めてのことという。

大谷選手の投打(二刀流)の成績が評価された。高校野球で投打の好成績を残すことはあっても、プロ野球では考えられない。まして米大リーグに進出して二刀流をこなしたのだから、アメリカ人にとっても奇跡(ユニコーン)に違いない。

野球の思い出

・小学校のころ、学校の小使い(用務員)さんの息子が米軍基地に勤めていて、基地の少年野球チームを連れてきた。日本側小学校の上級生たちと試合することになった。アメリカチームの全員がユニフォームを着ていたのに驚いた。(試合は、フォアボールと盗塁を巧みに使って日本チームが勝利したけど)

(本ブログ関連:”野球”)

・子どものころ、アメリカンリーグとナショナルリーグのそれぞれトップチームによる最終決戦(ワールドシリーズ)で、優勝したチームが日本を訪れた。奥さん連れの観光気分ながら試合をすれば、日本のプロ野球チームは大いに苦戦した。当時、(体力的に)とても勝てる相手ではないと誰もが思ったものだ。

・日本のプロ野球のトップ選手たちが米大リーグに進出し始めたとき、物珍しさしかなかった。でも、日本人選手たちは着実に地保を固めた。大谷選手の登場で、とんでもない奇跡を目の当たりにした。


(追記)
大谷選手が、日本の小学校約2万校に対して、野球グローブを1校あたり3つ(右利き用2つ、左利き用1つ)寄贈すると発表*された。スポーツの成績に驚き、社会行為に感動させられる。
(*)Asagei+ : https://www.asagei.com/289072  (2023年11月14日 09:58)

2023年3月23日木曜日

WBC優勝、野球への関心

きのう(日本時間 3/22)、2023 WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)決勝戦で、米国チームと対戦した栗山英樹監督率いる日本チームが勝利した。その瞬間をしっかり見届けられたのは幸いだった。
決勝戦の前日(3/21)、準決勝戦のとき、埼玉県の或る公園で自然観察をしていたが、関心は自然にだけ絞れず、日本チームの勝敗にも及んだ。参加者は試合経過を節目節目ごと伝え合った。

優勝の結果、大谷翔平選手がMVPとなった。試合の中で、自らを奮い立たせチームを鼓舞させる彼の雄たけびを目にした。試合後になっては、周りへの配慮と感謝を中心に据えて感想を語っていた。とても印象的だった。勝者が誰かであるより、勝利を共にすることを重視する日本(日本野球)の文化を伝えたと思う。もちろん、これからMLBのスタジアムに出場すれば、違った世界での戦いとなる。
(参考)Youtube: MLB News(日本語翻訳字幕付)
    「【感動】大谷翔平ペドロ・マルティネスから最大の賛辞と感謝を受ける トラウトとの配球を直接解説」
    https://www.youtube.com/watch?v=BX7aEQEcyG4

米国の野球が、文化のひとつとして育まれていると感じたのは、ケビン・コスナー主演の映画「フィールド・オブ・ドリームス」を見たときだ。野球の歴史(時間と層)が長く厚い分、彼らは豊富な言葉を持っているように感じてうらやましく思った。

ところで、子どものころ九州にいたとき、小学校に「小使いさん」*がいて、校内に宿舎があった。小使いさんにはすでに独立した息子さんがおり、ときどき通って来たようだ。
(*)その後「用務員」と称されるようになったが、今は職種別に呼称が細分化されている。

その息子さんが米軍基地に勤務していた関係もあり、あるとき小学校に基地の少年野球チームが訪れた。ユニホームを着た彼らを見てとても驚いた。対する日本側の小学生チームは、普段着のままで、寄せ集め編成したものだった。装備がまるっきり違っていた。当時の小学校に野球道具や設備が揃っていたわけではない。日本側小学生チームは、攻撃にいろいろ工夫をした。巧みな戦術(バントや盗塁など)で迎え撃った。強打中心の基地側のチームは、大いに苦戦することになった。試合経過はうろ覚えではっきりしない。ともあれ、結果的にアメリカに対する微妙な自信を感じた思い出がある。

子どものころに関心があったプロ野球選手といえば、巨人の川上、王、長嶋選手、国鉄の金田投手、地元西鉄の稲尾投手、中西選手たちだった。ラジオやテレビから伝わる活躍が忘れられない。また、甲子園の高校生選手は、大人のような兄さんといった風に感じた。

ところが、大人になって、ある出来事から野球への関心が急速に薄れた。「空白の一日」といわれる、ドラフト制度の抜け道を利用した事件だ。
(参考)Youtube「レジェンド・野球人」
    https://www.youtube.com/watch?v=3dUFdya656c&t=1s

以来、野球への関心は薄れるばかりだったが、国際試合となると違う。別の観点から興味、関心が沸いてくる。日本人にとって、野球は子どものころから慣れ親しんだ お祭りでもある。盛り上がるほど、自然と空気に染まる。選手たちの熱気と活躍に感動しているのに気づく。今回、最高峰の試合を見るという、本当に素晴らしい経験をさせていただいた。

2020年8月30日日曜日

(資料)2015年4月「米国連邦議会上下両院合同会議における安倍総理大臣演説」

米国連邦議会上下両院合同会議における 安倍総理大臣の演説
「希望の同盟へ」(2015年4月29日(米国東部時間))
(外務省: https://www.mofa.go.jp/mofaj/na/na1/us/page4_001149.html )
(英語版: https://www.mofa.go.jp/na/na1/us/page4e_000241.html )

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はじめに

 議長、副大統領、上院議員、下院議員の皆様、ゲストと、すべての皆様、
 1957年6月、日本の総理大臣としてこの演台に立った私の祖父、岸信介は、次のように述べて演説を始めました。
 「日本が、世界の自由主義国と提携しているのも、民主主義の原則と理想を確信しているからであります」。
 以来58年、このたびは上下両院合同会議に日本国総理として初めてお話する機会を与えられましたことを、光栄に存じます。お招きに、感謝申し上げます。
 申し上げたいことはたくさんあります。でも、「フィリバスター」をする意図、能力ともに、ありません。
 皆様を前にして胸中を去来しますのは、日本が大使としてお迎えした偉大な議会人のお名前です。
 マイク・マンスフィールド、ウォルター・モンデール、トム・フォーリー、そしてハワード・ベイカー。
 民主主義の輝くチャンピオンを大使として送って下さいましたことを、日本国民を代表して、感謝申し上げます。
 キャロライン・ケネディ大使も、米国民主主義の伝統を体現する方です。大使の活躍に、感謝申し上げます。
 私ども、残念に思いますのは、ダニエル・イノウエ上院議員がこの場においでにならないことです。日系アメリカ人の栄誉とその達成を、一身に象徴された方でした。

アメリカと私

 私個人とアメリカとの出会いは、カリフォルニアで過ごした学生時代にさかのぼります。
 家に住まわせてくれたのは、キャサリン・デル-フランシア夫人。寡婦でした。亡くした夫のことを、いつもこう言いました、「ゲイリー・クーパーより男前だったのよ」と。心から信じていたようです。
 ギャラリーに、私の妻、昭恵がいます。彼女が日頃、私のことをどう言っているのかはあえて聞かないことにします。
 デル-フランシア夫人のイタリア料理は、世界一。彼女の明るさと親切は、たくさんの人をひきつけました。その人たちがなんと多様なこと。「アメリカは、すごい国だ」。驚いたものです。
 のち、鉄鋼メーカーに就職した私は、ニューヨーク勤務の機会を与えられました。
 上下関係にとらわれない実力主義。地位や長幼の差に関わりなく意見を戦わせ、正しい見方なら躊躇なく採用する。
 ――この文化に毒されたのか、やがて政治家になったら、先輩大物議員たちに、アベは生意気だと随分言われました。

アメリカ民主主義と日本

 私の苗字ですが、「エイブ」ではありません。アメリカの方に時たまそう呼ばれると、悪い気はしません。民主政治の基礎を、日本人は、近代化を始めてこのかた、ゲティスバーグ演説*の有名な一節に求めてきたからです。

(*演説: 「人民の人民による人民のための政治」 )

 農民大工の息子が大統領になれる――、そういう国があることは、19世紀後半の日本を、民主主義に開眼させました。
 日本にとって、アメリカとの出会いとは、すなわち民主主義との遭遇でした。出会いは150年以上前にさかのぼり、年季を経ています。

第二次大戦メモリアル

 先刻私は、第二次大戦メモリアルを訪れました。神殿を思わせる、静謐な場所でした。耳朶を打つのは、噴水の、水の砕ける音ばかり。
 一角にフリーダム・ウォールというものがあって、壁面には金色の、4000個を超す星が埋め込まれている。
 その星一つ、ひとつが、斃れた兵士100人分の命を表すと聞いたとき、私を戦慄が襲いました。
 金色(こんじき)の星は、自由を守った代償として、誇りのシンボルに違いありません。しかしそこには、さもなければ幸福な人生を送っただろうアメリカの若者の、痛み、悲しみが宿っている。家族への愛も。
 真珠湾、バターン・コレヒドール、珊瑚海…、メモリアルに刻まれた戦場の名が心をよぎり、私はアメリカの若者の、失われた夢、未来を思いました。
 歴史とは実に取り返しのつかない、苛烈なものです。私は深い悔悟を胸に、しばしその場に立って、黙祷を捧げました。
 親愛なる、友人の皆さん、日本国と、日本国民を代表し、先の戦争に斃れた米国の人々の魂に、深い一礼を捧げます。とこしえの、哀悼を捧げます。

かつての敵、今日の友

 みなさま、いまギャラリーに、ローレンス・スノーデン海兵隊中将がお座りです。70年前の2月、23歳の海兵隊大尉として中隊を率い、硫黄島に上陸した方です。
 近年、中将は、硫黄島で開く日米合同の慰霊祭にしばしば参加してこられました。こう、仰っています。
 「硫黄島には、勝利を祝うため行ったのではない、行っているのでもない。その厳かなる目的は、双方の戦死者を追悼し、栄誉を称えることだ」。
 もうおひとかた、中将の隣にいるのは、新藤義孝国会議員。かつて私の内閣で閣僚を務めた方ですが、この方のお祖父さんこそ、勇猛がいまに伝わる栗林忠道大将・硫黄島守備隊司令官でした。
 これを歴史の奇跡と呼ばずして、何をそう呼ぶべきでしょう。
 熾烈に戦い合った敵は、心の紐帯が結ぶ友になりました。スノーデン中将、和解の努力を尊く思います。ほんとうに、ありがとうございました。

アメリカと戦後日本

 戦後の日本は、先の大戦に対する痛切な反省を胸に、歩みを刻みました。自らの行いが、アジア諸国民に苦しみを与えた事実から目をそむけてはならない。これらの点についての思いは、歴代総理と全く変わるものではありません。
 アジアの発展にどこまでも寄与し、地域の平和と、繁栄のため、力を惜しんではならない。自らに言い聞かせ、歩んできました。この歩みを、私は、誇りに思います。
 焦土と化した日本に、子ども達の飲むミルク、身につけるセーターが、毎月毎月、米国の市民から届きました。山羊も、2,036頭、やってきました。
 米国が自らの市場を開け放ち、世界経済に自由を求めて育てた戦後経済システムによって、最も早くから、最大の便益を得たのは、日本です。
 下って1980年代以降、韓国が、台湾が、ASEAN諸国が、やがて中国が勃興します。今度は日本も、資本と、技術を献身的に注ぎ、彼らの成長を支えました。一方米国で、日本は外国勢として2位、英国に次ぐ数の雇用を作り出しました。

TPP

 こうして米国が、次いで日本が育てたものは、繁栄です。そして繁栄こそは、平和の苗床です。
 日本と米国がリードし、生い立ちの異なるアジア太平洋諸国に、いかなる国の恣意的な思惑にも左右されない、フェアで、ダイナミックで、持続可能な市場をつくりあげなければなりません。
 太平洋の市場では、知的財産がフリーライドされてはなりません。過酷な労働や、環境への負荷も見逃すわけにはいかない。
 許さずしてこそ、自由民主主義法の支配、私たちが奉じる共通の価値を、世界に広め、根づかせていくことができます。
 その営為こそが、TPPにほかなりません。
 しかもTPPには、単なる経済的利益を超えた、長期的な、安全保障上の大きな意義があることを、忘れてはなりません。
 経済規模で、世界の4割、貿易量で、世界の3分の1を占める一円に、私達の子や、孫のために、永続的な「平和と繁栄の地域」をつくりあげていかなければなりません。
 日米間の交渉は、出口がすぐそこに見えています。米国と、日本のリーダーシップで、TPPを一緒に成し遂げましょう。

強い日本へ、改革あるのみ

 実は…、いまだから言えることがあります。
 20年以上前、GATT農業分野交渉の頃です。血気盛んな若手議員だった私は、農業の開放に反対の立場をとり、農家の代表と一緒に、国会前で抗議活動をしました。
 ところがこの20年、日本の農業は衰えました。農民の平均年齢は10歳上がり、いまや66歳を超えました。
 日本の農業は、岐路にある。生き残るには、いま、変わらなければなりません。
 私たちは、長年続いた農業政策の大改革に立ち向かっています。60年も変わらずにきた農業協同組合の仕組みを、抜本的に改めます。
 世界標準に則って、コーポレート・ガバナンスを強めました。医療・エネルギーなどの分野で、岩盤のように固い規制を、私自身が槍の穂先となりこじあけてきました。
 人口減少を反転させるには、何でもやるつもりです。女性に力をつけ、もっと活躍してもらうため、古くからの慣習を改めようとしています。
 日本はいま、「クォンタム・リープ(量子的飛躍)」のさなかにあります。
 親愛なる、上院、下院議員の皆様、どうぞ、日本へ来て、改革の精神と速度を取り戻した新しい日本を見てください。
 日本は、どんな改革からも逃げません。ただ前だけを見て構造改革を進める。この道のほか、道なし。確信しています。

戦後世界の平和と、日本の選択

 親愛なる、同僚の皆様、戦後世界の平和と安全は、アメリカのリーダーシップなくして、ありえませんでした。
 省みて私が心から良かったと思うのは、かつての日本が、明確な道を選んだことです。その道こそは、冒頭、祖父の言葉にあったとおり、米国と組み、西側世界の一員となる選択にほかなりませんでした。
 日本は、米国、そして志を共にする民主主義諸国とともに、最後には冷戦に勝利しました。
 この道が、日本を成長させ、繁栄させました。そして今も、この道しかありません。

地域における同盟のミッション

 私たちは、アジア太平洋地域の平和と安全のため、米国の「リバランス」を支持します。徹頭徹尾支持するということを、ここに明言します。
 日本は豪州、インドと、戦略的な関係を深めました。ASEANの国々や韓国と、多面にわたる協力を深めていきます。
 日米同盟を基軸とし、これらの仲間が加わると、私たちの地域は格段に安定します。
 日本は、将来における戦略的拠点の一つとして期待されるグアム基地整備事業に、28億ドルまで資金協力を実施します。
 アジアの海について、私がいう3つの原則をここで強調させてください。
 第一に、国家が何か主張をするときは、国際法にもとづいてなすこと。第二に、武力や威嚇は、自己の主張のため用いないこと。そして第三に、紛争の解決は、あくまで平和的手段によること。
 太平洋から、インド洋にかけての広い海を、自由で、法の支配が貫徹する平和の海にしなければなりません。
 そのためにこそ、日米同盟を強くしなくてはなりません。私達には、その責任があります。
 日本はいま、安保法制の充実に取り組んでいます。実現のあかつき、日本は、危機の程度に応じ、切れ目のない対応が、はるかによくできるようになります。
 この法整備によって、自衛隊と米軍の協力関係は強化され、日米同盟は、より一層堅固になります。それは地域の平和のため、確かな抑止力をもたらすでしょう。
 戦後、初めての大改革です。この夏までに、成就させます。
 ここで皆様にご報告したいことがあります。一昨日、ケリー国務長官、カーター国防長官は、私たちの岸田外相、中谷防衛相と会って、協議をしました。
 いま申し上げた法整備を前提として、日米がそのもてる力をよく合わせられるようにする仕組みができました。一層確実な平和を築くのに必要な枠組みです。
 それこそが、日米防衛協力の新しいガイドラインにほかなりません。昨日、オバマ大統領と私は、その意義について、互いに認め合いました。皆様、私たちは、真に歴史的な文書に、合意をしたのです。

日本が掲げる新しい旗

 1990年代初め、日本の自衛隊は、ペルシャ湾で機雷の掃海に当たりました。後、インド洋では、テロリストや武器の流れを断つ洋上作戦を、10年にわたって支援しました。
 その間、5万人にのぼる自衛隊員が、人道支援や平和維持活動に従事しました。カンボジア、ゴラン高原、イラク、ハイチや南スーダンといった国や、地域においてです。
 これら実績をもとに、日本は、世界の平和と安定のため、これまで以上に責任を果たしていく。そう決意しています。そのために必要な法案の成立を、この夏までに、必ず実現します。
 国家安全保障に加え、人間の安全保障を確かにしなくてはならないというのが、日本の不動の信念です。
 人間一人ひとりに、教育の機会を保障し、医療を提供し、自立する機会を与えなければなりません。紛争下、常に傷ついたのは、女性でした。わたしたちの時代にこそ、女性の人権が侵されない世の中を実現しなくてはいけません。
 自衛隊員が積み重ねてきた実績と、援助関係者たちがたゆまず続けた努力と、その両方の蓄積は、いまやわたしたちに、新しい自己像を与えてくれました。
 いまや私たちが掲げるバナーは、「国際協調主義にもとづく、積極的平和主義」という旗です。
 繰り返しましょう、「国際協調主義にもとづく、積極的平和主義」こそは、日本の将来を導く旗印となります。
 テロリズム、感染症、自然災害や、気候変動――。日米同盟は、これら新たな問題に対し、ともに立ち向かう時代を迎えました。
 日米同盟は、米国史全体の、4分の1以上に及ぶ期間続いた堅牢さを備え、深い信頼と、友情に結ばれた同盟です。
 自由世界第一、第二の民主主義大国を結ぶ同盟に、この先とも、新たな理由付けは全く無用です。それは常に、法の支配人権、そして自由を尊ぶ、価値観を共にする結びつきです。

未来への希望

 まだ高校生だったとき、ラジオから流れてきたキャロル・キングの曲に、私は心を揺さぶられました。
 「落ち込んだ時、困った時、...目を閉じて、私を思って。私は行く。あなたのもとに。たとえそれが、あなたにとっていちばん暗い、そんな夜でも、明るくするために」。
 2011年3月11日、日本に、いちばん暗い夜がきました。日本の東北地方を、地震と津波、原発の事故が襲ったのです。
 そして、そのときでした。米軍は、未曾有の規模で救難作戦を展開してくれました。本当にたくさんの米国人の皆さんが、東北の子供たちに、支援の手を差し伸べてくれました。
 私たちには、トモダチがいました。
 被災した人々と、一緒に涙を流してくれた。そしてなにものにもかえられない、大切なものを与えてくれた。
 ――希望、です。
 米国が世界に与える最良の資産、それは、昔も、今も、将来も、希望であった、希望である、希望でなくてはなりません。
 米国国民を代表する皆様。私たちの同盟を、「希望の同盟」と呼びましょう。アメリカと日本、力を合わせ、世界をもっとはるかに良い場所にしていこうではありませんか。
 希望の同盟――。一緒でなら、きっとできます。
 ありがとうございました。
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キャロル・キング:君の友達(You've Got a Friend)【訳詞付】

(Youtubeに登録のfreepasportに感謝)

2018年12月19日水曜日

日本における動力機初飛行の日

今日は、日本で原動機付き飛行機による初飛行の日とされている。以下、Wikipediaの記述をもとに記す。この記念日について残念なことだが、ネット(Google)ニュースで話題にすらなっていない。先日(12/14)の「南極の日」でブログに語ったことと同様、明治のことといえ達成者が軍人であったことからか、その業績を知らせ顕彰するのを封じる気配がする。

(本ブログ関連:”飛行機”、”南極の日”)

今から108年前の今日、明治43年(1910年)12月19日に、代々木錬兵場(現「代々木公園」)にて、徳川好敏大尉がフランス製「ファルマンⅢ 複葉機(Farman III)」に、日野熊蔵大尉がドイツ製「グラーデ単葉機( Grade II Libelle)」に順に搭乗して、日本初の動力飛行(エンジン付航空機による飛行)に成功した。

(次の写真はWikipediaに掲載されている)
ファルマンⅢ 複葉機
グラーデ単葉機












実は、公式初飛行の数日前(同年12月14日)に、同じ飛行場で日野大尉が滑走試験中、一瞬浮上したが公式に認められず、19日をもって「公式初飛行」とされた。そのときの飛行順に従って、徳川大尉の名が初飛行操縦者として記憶にある。

(追記)
大戦後、米軍接収の後に返還された「ファルマンⅢ 複葉機」は、いくつかの変遷を重ねて、現在、入間基地内の「航空歴史資料館 修武台記念館」に展示されているという。その様子がYoutubeに「アンリ・ファルマン・・日本で最初に飛んだ飛行機」として登録されている(登録者tetsuaki muraokaに感謝)。

ところで、作曲家坂井貴祐による「アンリ・ファルマンの飛行」(演奏:古河市立三和北中学校吹奏楽部)がYoutubeにある。複葉ファルマン機が軽々と離陸、上昇して、上空で旋回を楽しんでいる飛翔感がある。全身に風を受けた操縦士が、地上を見下ろす爽快感、機体と一体化して独り浮揚できるなんて何と最高なことだろう。


(Youtubeに登録のSAKAI,Takamasaに感謝)

2017年5月16日火曜日

6/3,4 幕張海浜公園上空にDC-3飛来

DC-3は身近なようで、本当は知らない。レシプロエンジンの回転音が懐かしいようで、本当は知らない。知っているのは、カセットテープに収められたハワイ上空を飛ぶ実況録音版だけなのだ。だから実物をいつか見たいと思っていた。

(本ブログ関連:”DC-3”、”飛行機”、”飛行場”)

レシプロエンジンの飛行機といえば、子どものころ、上空をのんびりとまるで停止しているかのように飛んでいた、双胴のC-119(C-one nineteen)輸送機が懐かしい。ブォーンという音を発しながら漂っていた。遠くの米軍基地*を拠点にしていたようだ。私が見上げた空に、すでに戦乱(朝鮮戦争)の臭いはなかった。

(* 米軍基地: 芦屋基地と思っていたが、もしかしたら板付基地だったのかもしれない)

ところで、DC-3について、近々本物と出会うことができるようだ。RedBull AIR RACEの案内に次のような情報がある。九州から順に巡ってきているようだ。
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伝説の航空機「DC-3」が幕張の空を舞う
現在、世界1周飛行中の名機を間近に見られる絶好のチャンス

6月3日(土)、4日(日)に開催されるRed Bull Air Race World Championship 2017シーズンの第3戦、「レッドブル・エアレース千葉2017」。そのサイドアクトの一環で、伝説の航空機として世界中のファンを魅了する「DC-3」が、会場となる千葉県立幕張海浜公園の上空に登場する。

双発プロペラ機の「DC-3」はダグラス・エアクラフト社(現ボーイング社)が開発した旅客機・輸送機で1935年に初飛行。その丈夫さ、低燃費、長距離輸送力により、航空産業を支えた往年の名機として名高い。しかし、今や飛行できる機体は世界で約150機に限られる。そのうちの貴重な1機がまもなく日本上空にその姿を現すのだ。
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(エンジンの始動に息遣いを感じる)

(Youtubeに登録のmatthiashaenniに感謝)

2012年6月14日木曜日

飛行機好き

小学校の校庭の空をいつも、双胴の輸送機が飛んでいた。見上げると、ブンブンと響かせながら白い空に停止しているように見えた。どうやら遠い川の向こうにある、米軍基地から飛んでいたようだ。

中学生になると、ひとなみに飛行機が好きになり、マニア向けの雑誌があると知って、近所の小さな本屋に探しに行った。
「ひこうファンってありますか?」と歳とった主人にたずねた。
「えっ、ひこう?」、いぶかしそうに、主人はまさか「非行」でもあるまいといった顔をしながら聞き返した。
店頭に置かれた雑誌「航空ファン」を見つけて、しばらく愛読者になった。

飛行機雲がぐんぐんと青い空を突き進んでいくのを見るのも好きだった。雲の筋は恐怖の存在ではなくて、上空を突き抜けて宇宙へ向かって行くような未来を感じた。夕陽をうけて、雲の先がきらりと反射する光景を見るとなおさら心が浮き立ったものだ。

飛行機ファンの記憶から、「ワルキューレの騎行」の旋律を背に飛翔する軍用機の姿が消えない。中学生のころプラモデル作りにはまって、しっかり彩色した後、それを手に持って口ずさんだのものだ。手首をひねらせては、あらゆる角度で飛行する様子を想像した。

子を持つ身になったとき、決して軍用機の話はしなかったけれど、飛行機好きになるように、イベントでパイパーチェロキーに一緒に乗ったりした。しかし、それ以来、息子は飛行機が嫌いになってしまったようだ。

ああ、今も好みの飛行機が浮かんでくる。でも、軍用機なので、3機の名は記さないでおこう。

(Youtubeに登録のyoisachiに感謝)

2009年11月12日木曜日

校庭の空の上

九州の八幡市の小学校に通っていた頃、地元の帆柱山は校歌に歌われ、洞海湾沿いの工業地帯が吐き出す煙は「七色の煙」と賛美された。子どもの記憶には、まことに平和な時代だった。

小学校の校庭から見上げる空には、いつも双胴の飛行機がゆったりと飛んでいた。レシプロエンジン音が上空でいつまでも響いていた。この双胴のC-119(C-one nineteen)輸送機がどこから飛び立ち、どこへ降りるのか関心なかった。子どもには、空よりも校庭の方がずっと広かったのだ。

それでも、輸送機が遠賀川の先の芦屋基地にいることをぼんやりと知った。遠賀川といえば遠くにあるものと思っていたし、遠賀川方面に芦屋があるということも何となく聞いていた。C-119輸送機は、遠賀川河口の米軍芦屋基地にいたのだ。

上空を見上げると、双胴のC-119輸送機の機影はどこかのろまなユーモラスな感じがした。しかし、歴史を見ると、決してなまやさしいものではなかったことを知った。
それでも、あの双胴の輸送機は、今だに記憶の中で、レシプロエンジン音を空中にのんびりと聞かせている。