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2014年7月8日火曜日

KBS WORLD「国楽の世界へ」 茶

KBS WORLD「国楽の世界へ」は、先週水曜日(7/2)に文化的なキーワードに基づく韓国文化シリーズの第62回として、昔ながらの趣が感じられる「茶」にまつわる話を紹介した。
(先週は特別番組で休みのため、2週間ぶりの放送になる)

まず、時間をかけて飲む緑茶の効用について、次のような紹介から始まった。
・茶に色々な種類がある。喫茶店で「お茶をする」こともあるが、本来、緑茶のように茶の葉で抽出するものをいう。昔はどのようにして茶を楽しんだのだろうか。
・茶の中でも緑茶は時間をかける飲み物で、入れ方にこだわりがある。水は泉の水の方が良く、沸騰させた後、ある程度冷めるまで待つ。(発酵させた茶には沸騰した湯をそのまま注ぐが)緑茶は少し冷ませて注ぎ、しばらく待つ。この時間は、忙しい現代人に無駄に思えるかもしれないが、客と茶について多様な話ができるし、一人であれば自分だけの時間に集中できる。待つ時間があるからこそ、茶が更に香ばしく感じられる。白い茶碗に、透き通った緑色の茶。昔の人々には、これが風流であった。

▼ 「清声の曲(청성곡)」(清声とは高い音域を指す国楽用語)を聴く。短簫の響きは、落ち着いて澄み平明である。

次に、朝鮮後期の草衣禅師(초의선사、本名張意恂、1786年~1866年)の茶との関わりを次のように説明された。
・古く三国時代から茶を飲んだ。特に、仏教では茶の供養を重要視し、仏教美術の作品に茶に関するものがある。茶の新しい境地を開いたことで有名な、草衣禅師は修行僧だが、わらぶきの小さな庵を作り「一枝庵(일지암)」と名付けた。そこに茶の木を植えて育てながら「茶禅一味」(茶道と禅が一体であること)を広く知らせた。草衣禅師の詩「東茶頌(동다송)」には、茶に関する内容が歌われ、湯を沸かす音がひっそりとしていて、冷たい空気が骨に染み込んで魂を覚ます、という内容から始まる。茶を入れる方法から、識別する方法、飲み方、そして、韓国茶の趣や香り、中国茶より薬効が優れている点など、美しい詩で記録した。

▼ 「東茶頌(동다송)」を聴く。茶を古色にたしなむ・・・今様で。(参考:Ohmynews

最後に、朝鮮後期の名筆と言われた秋史・金正喜(추사 김정희、1786年~1856年)と草衣禅師の茶を通した友情について、次のように解説された。
・忙しい中、茶をする時間は幸せだ。秋史・金正喜先生は、草衣禅師と手紙をやりとりして友情を分け合った。その中に、草衣禅師に対し、茶を送ってくれるようねだる手紙がある。「禅師に会いたいわけでも、手紙を待っているわけでもありません。ただ、茶に絡んだ縁だけは切ることができません」から始まるのに対して、草衣禅師は「茶の香りがしたのでふと目が覚めました。手紙が届いていることには気が付きませんでした」と返書した。このようなやりとりに微笑む二人の姿が想像され、友情が伝わってくる。どんなに忙しくても大切な人と茶をいっぱいできる余裕のある一日を過ごしたい。

▼ 「風が伝える言葉(바람이 전하는 말)」を聴く。南米の風音かと思わせる・・・今様である。

金寶愛さんの、茶には「ゆっくりと時間をかけてする時間の余白」があるという言葉、本当にそう思います。

2014年7月7日月曜日

七夕2014

今日は、旧暦の6月11日で7月7日までしばらくあるが、新暦では7月7日であることから、「七夕」の節日になる。真夏の宵を感じる時候ではないけれど、テレビのニュースや商店の飾りに短冊をつるした笹竹を見ることがある。七夕の祭りを旧暦で行なうか、それとも新暦で行なうか・・・どうなのだろう。

素直な子どもたちが七夕をともに経験するには、夏休み前の学校で、願いごとを書いた短冊で笹竹を飾るのもいいな・・・どんな願いをしたのか見てみたいものだ。一方、家族連れが夜祭りに七夕を楽しむなら、夏真っ盛りの旧暦の頃がよいのだろう。代表的なものに仙台の七夕まつりがあり、近くで阿佐ヶ谷の七夕まつりがある・・・ところで、京都にも七夕まつりがあるそうだが、大きな祭りとしての歴史は古くなさそうだが、どうだろうか。

旧暦6月11日の今日は、二十四節気の「小暑」で、感触からすれば、微かに夏の気配がする。

(本ブログ関連:”七夕”、”小暑”)

空模様がはっきりしないこの頃だが、澄んだ夜空を願って、そのむかし子ども心に大人の雰囲気を感じさせてくれたビング・クロスビー(Bing Crosby)の歌声で「スターダスト(Stardust)」を聴いてみよう。

(本ブログ関連:”Stardust”、”ビング・クロスビー”)

(Youtubeに登録のBand Standに感謝)

2014年7月6日日曜日

何ごともあって、何ごともなし

昨晩の酒がきいたのか、今朝は気分爽快で、出かける準備をする。ブックフェアの入場券の裏にアンケートに応えて書き込む。これでよしと、入場券を表に返して開催日を確認したら・・・な、何と!昨日までではないか。朝っぱらから挫けてしまった。

せっかくなので、近在の駅ビルにある書店に行く。そういえば、「月の銀色の林檎/太陽の黄金の林檎」のフレーズを思い出し、イェイツ(Yeats)の「さまようイーンガスの歌(The Song of Wandering Aengus)」が収まった詩集はないものかと探したが見つからない。とりあえず、岩波文庫の詩集から始めよう。

ケルトの愛と若さの神イーンガス(オェングス)によせて、愛するものを、林檎の花の飾りした少女を永遠に探す・・・。

若い林檎は純粋さがあるだけに、自分の傲慢に気付かないこともあるけれど、老いてなお林檎を求め続けるとは、神話の世界なればこそか。

(本ブログ関連:”イ・ソンヒの「リンゴの木の下で」”)

2014年7月5日土曜日

ひまわり畑

今日は、外出の行き帰り霧雨がけぶる。通り道にある畑のひまわりは、夕方に近づく頃も顔を東に向いたままだ。太陽に向けて顔を廻すというのに変化が見られないのは、あいにくの天気のせいか、それともただ億劫なだけか・・・どうして?

(本ブログ関連:”ひまわり”)

畑一面に咲くひまわりにそっと近づいて見ると、黄色の花弁に蜂が一匹とまっていた。まるで雨宿りして小休止しているよう。

傘をさしながら写したせいで、蜂に焦点が当たる工夫が足りないため、彼、否、働き蜂はみな雌であるから、彼女の表情が読み取れないのは残念である。

さらに一歩近づいても、蜂は、霧雨をやり過ごすように、ひたすら黙して動かない。
晴天なら、蜂にとってひまわりは重要な蜜源なのだろうが、今日は動きにくいようだ。そのまま、たまの風に揺れる花弁にじっと身をゆだねている。

まだ、開花してさほどでないにもかかわらず、顔を動かさぬひまわりと、静止したままの蜂がいる。よく見れば、二つの命が出会う、そんなのんびりとした世界がそこにあるのに気付く。

ひまわりに、いろいろなイメージがあるけれど、雨の日に咲く命の糊しろの大きい若いひまわりも良いものだ。

2014年7月4日金曜日

(資料)デビュー30周年迎えた「サニー・オンニ(お姉さん)」

「女性東亜」(5月号、p296-299)に掲載の記事「デビュー30周年迎えた『サニー・オンニ(お姉さん)』の驚くべき帰還」(#1#2)(ク・ヒオン記者)は、イ・ソンヒの言葉を借りて、彼女の音楽の原点、および30年に渡る音楽活動(人生)と音楽観について次のように記している。
(イ・ソンヒの言葉の部分を太字表記した)

なお、同時期のインタビュー報道である「レディ京郷」の記事「イ・ソンヒ 伝説を超える」と内容が重複するところがあるが、以下そのまま掲載する。

(本ブログ関連:”SERENDIPITY”)
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<#1>
歌手イ・ソンヒが、デビュー30周年を迎えて、(これまで)生きてきて感じたことを盛り込んだ15枚目のアルバムを出した。率直な家族史も虚心坦壊に公開した。

「太陽のように光を放つあなたよ(태양처럼 빛을 내는 그대여)」、3月25日ソウル、松坡区のウリ金融アートホールで開かれた彼女のデビュー30周年ショーケースで、歌手イ・ソンヒ(50)を見て、ラブホリクス(Loveholics)の歌(「Butterfly」)の歌詞が浮び上がった。15集の「セレンディピティ(세렌디피티)」で帰ってきた彼女は、イム・ジョンヒ、Gummy、T.A Copy、イ・スンギ、ユン・ドヒョンなど、後輩歌手の応援を受けて新曲を熱唱して拍手を受けた。今年で彼女をマネジメントして17年目である所属事務所(HOOK ENTERTAINMENT)のクォン・ジンヨン代表は「百余曲を書いては消してアルバム準備する姿を見て」、かくして、この歌手のマネジャーをしているんだなと「考えた」と話した。

1984年、第5回「江辺歌謡祭」大賞受賞で派手にデビューしたイ・ソンヒ、デビュー曲「Jへ」は清らかな声と爆発的な歌唱力が調和をとれて、彼女を一気にスターの隊列に載せた。その年の放送と授賞式をさらったのはもちろんで、KBS「放送歌謡大賞」新人賞を受け、MBCでは「10代歌手歌謡祭」最高人気歌謡賞・新人賞・10代歌手賞を以って最初の3冠王にのぼる珍記録もたてた。その時も今も、彼女はショートヘヤに丸縁メガネとズボン・スーツ姿だった。

▼コンピュータ習いながら精魂込めて作ったアルバム

15集のタイトル曲は「その中にあなたに出会って(그 중에 그대를 만나)」。彼女のアピール力濃厚な声と美しい旋律が交わったポップ バラードだ。 「ファッション・ショーやイベント会場行っても照れくさくて、フォトウォール(Photowall)*の前に立ってみたことがない」という彼女だが、この日だけは慎ましやかな姿でカメラ前に立ち、フラッシュの洗礼を楽しんだ。

    (*)フォトウォール: イベント会見時に背景に置く、複数の関係企業のロゴを貼り付けた壁。

このように記者懇談会を開いてアルバムを紹介することは、私たちの時代には定着しなかった文化なので、初めて享受してみるんですよ。そのためか、睡眠も十分足りてなかったが、これまで以上に嬉しい気分で最善を尽くして舞台に立つべきと考えて、ここに上がってきています。アルバムを準備する2年間、デビュー30周年になれば、どんな歌をどのようにしようか、歌手としてどんな位置づけを確保しなければならないだろうか、悩み、孤独に準備しましたよ。アルバムが世の中に出ると、一人だけの音楽でない、多くの人々の音楽に成っていくようで楽しいです。おののきますが、とても落ち着きますね。

歌の歌詞には、彼女が生きてみて感じて気付いたことを盛り込んでいる。

いつもそばにあったものをよく知らないまま、常に別の処を眺め、羨ましがって、人に付いて行こうとう気持で過ごしたようです。ところが、ある瞬間、そばにいたことを知って、それによって人生が違うように見えるんです。一人だけの悟り(でしょうか)? 今回のアルバムには、家族に対する内容もあるし、歌う人として受けた感動に対する内容もあります。デビュー後、多くの人たちが呼応してくれるとき、『ありがとうございます』、『幸せです』といったけれど、トップから降りてきて、過ぎた時間を眺めると、その言葉がより多くのものを含んでいたのに、そこまで分からなかったんだなと思いましたよ。私のファンに、絶えず自らを鞭打って発展していき、今もどこかへ向かって行きつつあるとのをお見せしたかったのですよ。私を好きになった方々に対する記憶、私が享受した人気、まさにそんなことが暖かい力となって、私がこのように(年月が)(た)っているという話をしたかったのです。

今回のアルバムの収録曲11曲中、イ・ソンヒ作曲が9曲、作詞が7曲だ。それだけ、シンガーソングライターとしての力量が集約されたアルバムだ。後輩であるイ・スンギの話によれば、コンピュータもできないイ・ソンヒが直接コンピュータを習いながら作業するほど熱意を見せたと。イ・ソンヒは、「14集までは、編曲やアルバムの外的な部分には参加しなかったが、15集はそこまで残らず参加した」と話した。アルバム作業をしながらあったエピソードも聞かせてくれた。

どうしてもモニタリング(評価)してくれる人たちが会社の人以外にいないけれど、歌作りして、聞いてみてといっても別に反応がないのです。それでは『別に良くないか?』と思って消し、また他の歌を作って、そのような形で百余曲近く完成しました。『手応えあるまで、作ってみよう』という心情でした。録音に参加した友人たちがみな若かったんですよ。朝起きて夕方に寝る私と別に、その友人たちは午後の5時頃起きて眠らずに夜を明かして、明け方の5~6時に寝入りましたよ。折衷して、午後の4時から歌ったが、皆赤くした目で遅く出てきて、『先輩、申し訳ありません』と(笑い)。私がそのフクロウ(夜型人間)たちを連れて作業するのに、苦労をちょっとしましたよ。

彼女は、「普段(人々の反応に対して)モニタリングをたびたびする方だが、世代により私のイメージが違うのですよ」と、「デビュー当時を記憶する方々にはボーカリスト、(映画)『王の男』に挿入された『因縁』で私を、子どもがいない(若い)友人たちにはシンガーソング・ライターという認識がより強いようだ」といった。

あえて、シンガーソング・ライターで記憶されるなくちゃいけないという考えはないです。私はボーカリストです。歌うのが良くて、マイク握るが良くて、言葉ではなく歌で感情表現をもっとうまくできるし、それが大好きです。直接曲を書く理由も、私の声をさらに良く表現できてるからです。ふだんの私は、私が一番よく分かりますね。低く話すとか囁(ささや)く声など、専門の作曲家が表現できなかった自分を表現しなければならないように見えて、曲作業を始めました。ロック、国楽などの色々なジャンルの音楽をやりながら感じた点を表現して見たら、欲求が生じてきて、他のジャンルはどうだろうか度々実験することになりましたよ。もちろん、実験が成功したことも、失敗したこともあったんですよ。

「これから、どんな方向に進んでいくのか」と尋ねると、すぐに彼女は「これから、どのようにしていくのか…」といいながら質問を低く口ずさんだ。

好きなジャンルはバラードです。ボーカルが勢いよく歌って、シャウティングして込める力でなく、私たちの言葉と音色が与える力があるけれど、そのような力を表す音楽ならばジャンルに関係なく歌うでしょう。歳も取って、幼いとき聞いた音楽がみなそのためか、歌詞が与える力が無限に大きな歌を好きです。ただ流される曲も良いけど、十分にかえりみて考えることができる歌詞がはるかに良かったんですよ。今後もずっとそのような音楽を作って、そのような歌詞を書くつもりです。どんな方向に進むかは、私がどのように変るかも知れなくて話せないが、留まっていないだろうということだけは確かに申しあげることができます。


<#2>
彼女は、代表的な芸能界の「童顔(若々しい)スター」に挙げられる。彼女は、「笑い話しで施術したといえば、そんなことが記事に大きく出る」といったり、「そうでなくて、マッサージを受け、皮膚科も通っている」と話した。

私もいっぱい変わりました。けれど、変化が大きくないとお考えになるのは、私から感じられるはっきりしたイメージのためでしょう。多分、髪をアップしてドレスを着れば時間の痕跡を探すでしょうが、今もズボンにジャケットを着ているから(笑い)。前は、すっぴんでお会いしたが、今は化粧を少ししたということ位いですよ。

「オンニ(お姉さん)の帰還」は、茶の間のテレビ劇場視聴率上昇にも一助となった。2回に渡って放送された、彼女が出演したSBS「ヒーリング・キャンプ」は、同時間帯視聴率1位を記録もした。彼女は過去、マイケル・ジャクソンの両親にラブコールを受けた理由を聞かせた。27才のとき、女性歌手5人を集めてアジア版「ジャクソン・ファイブ」を作ろうと思ったマイケル・ジャクソンの両親から、ニューヨークで活動しようという提案を受けたこと。彼女は、「オーディションまで合格した」と明らかにした。この時期、彼女は、日本のグループ「安全地帯」が書いた曲で日本に進出する考えもあった状態であった

▼留まらなかったけれど、いつもその場にいた歌手

しかしながら、彼女の海外進出は結局失敗に終わってしまった。代わりに彼女は政界に出た。イ・ソンヒは、その年(1991年)、最年少のソウル市市会議員*になって話題を集めた。彼女は「韓国にしばらく立ち寄った間、マネジメントから私と相談なく市会議員出馬の書類に印鑑を押した。私がしなければ色々な人が難しくなる状況だから、やむを得ず海外進出の夢をあきらめて政治に挑戦した」と海外進出が失敗に終わった理由を明らかにした。

    (*)本ブログ関連:”ソウル市市会議員

「ヒーリング・キャンプ」では、率直な彼女の家族史も聞くことができた。イ・ソンヒは、帯妻僧(結婚して妻と家庭をもうけた男性の僧侶=妻帯僧)の父のおかげで幼い時期、森の中で育った話も聞かせた。彼女は「祖父は風流を知る人なので町内で歌(歌唱)ったりしたが、父はとてもきちんとした人である。学校は、市内の中心にある所に通ったが、家族は森の中の寺で生活した」として、「念仏をたくさんそらんじた父のおかげで喉ができあがったようだ」と話した。2006年、空白期をもって、娘と共にアメリカ留学に進んだ『情熱ママ(教育ママ)』でもあるイ・ソンヒは、現在アメリカ名門大であるコーネル大でジャーナリズムを専攻している娘ユン・ヤンウォンさんに対しても言及した。

「(娘)ヤンウォンが幼いときは、天才だと思いました。胸に抱いて童話の本を読んだが、二三度読んで、その場面を開(あ)けるとそのまま話しましたよ。すべての母親たちが勘違いするように、内心『私はなかなか良い子供を産んだ』と思いました。本を読んでやって、その本(の話し)をより合わせてストーリーを別のように解釈すれば、この子は再びより合わせて別の話をしました。想像を続くようにする私たちだけのゲーム方式でした。ところで、本を買って読んでみなさいといったところ『ママが読んでくれたら分かるの』というんですよ。ストーリーを覚えて想像したのであって、文自体は分からなかったのです(笑い)。

先立って、彼女は記者懇談会で「最近、音楽のトレンドを逃さないように、人気歌謡番組をしばしばモニタリングして、弘大のインディーバンド公演をたくさんたずね歩く」と明らかにしたりもした。長い時間愛されることができる彼女だけの力は何だろうか。

「振り返ってみると、毎年いつも良いことだけではなかったです。ある時は、一人だけの時間を通り過ぎたりもしたし、今よりもより多く関心を集めて一年をむかえたりもしましたよ。それでも、今こんなにうれしい今日を享受することができるのは、私が『元気だったため』なようです。『元気だった』というのは、留まらなかったということですね。ある方法で成功したがそれを捨てることができて、もちろん新しい試みをして足を踏み間違える時もあるが、恐れないでずっと何かをしようとしたので、多くの方々が『イ・ソンヒはいつもその場にあった』と記憶してくださるようです。今後も引き続き働くだろうし、数多くの質問を私にすることで、挑戦することで、その時ごとに好き嫌いが分かれるだろうが、今までそのようにしてきたように失敗するとおじけづいたり萎縮しないでしょう。」
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2014年7月3日木曜日

【多摩の代官】享保改革と農民出身代官の活躍

地元公民館で、江戸時代に多摩地区(武蔵)を治めた代官による自治機構を解説する、法政大学大学院の馬場憲一教授による、第5回*講演「享保改革と農民出身代官の活躍」を聴講した。

(*)前回の第4回テーマは、「【野外研修】八王子の史跡を訪ねて」だったが、人数が限られ参加できなかった。

(本ブログ関連:”多摩地区(武蔵)を治めた代官”)

江戸幕府は自治機構として、幕府創立(1603年)から約100年近くの間、「世襲代官」を使ってきたが、その後は任地が変わる「僚代官」へと交代していく。その江戸中期に登場した将軍徳川吉宗(将軍:享保元年(1716年)~延享2年(1745年))は、緻密に時間をかけ、2重体制により「享保の改革」を行なったと次のように解説された。
・吉宗を将軍に推挙した旧老中の交代時期を待った。(機の熟すを待つ)
・新田開発にあたり、財政的裏付けのため、豪商の集まる日本橋に、開発について「高札」を立てた。
・農政で、従来の「地方(じかた)支配」とは別に、(別働隊として)江戸町奉行大岡忠相の配下に農民出身代官を配置した。

農民出身の代官として、今回は川崎平右衛門について紹介された。
・川崎平右衛門は、新田開発の中で生活に困窮する農民に配慮した、社会政策的な施策として、公共事業で日当(麦)を支給、商品作物の奨励、栗林の栗買い上げ制度など設け、現金収入による生活の安定化をはかった。

(本ブログ関連:”小金井の新田開発”)


(感想)
川崎平右衛門は郷土史に語られることの多い人士で、その名をしばしば耳にする。能力を認められ、他の地でも代官を務めたという有能さを知る。
世襲代官が時代のなかで排され没落していく一方、農民から有能な行政官になり得る時代へと変遷する。庶民の生活を知ったところから人望を勝ち得た人物であり、それを見い出した上層部の懐の深さも知る。

また、徳川吉宗が将軍職を発揮するため、時機を待つだけでなく、人を見い出し配置・組織する周到さを知る。

2014年7月2日水曜日

半夏生2014

今日は、二十四節気の「半夏生」。年の後半を始める頃でもある。梅雨の長雨、ゲリラ豪雨、当地でが見られなかったが近隣の市での局地的な雹。そして、夏を思わせるカラッとした晴れ空。一体、どれが本当なのかと聞きたい。

例年のことながら庭に、ハンゲショウの臭いに似たドクダミ草がところかまわず生え繁っている。この雑節(半夏生)について、身近に感じるのはそれくらいかな。

(本ブログ関連:”半夏生”)

ネットのニュースによれば、福井地方に、土用の丑の日のうなぎの蒲焼ならぬ、半夏生に焼サバを食べる風習があるという。いかにもサラリーマン御用達の定食屋メニューにありそう。少し煙った店のカウンターで昼飯によく食ったものだ。隣町に行けば、魚料理の店があるので、いつか食べに行こうか。

2014年7月1日火曜日

イ・ソンヒ全州コンサート(8/30、31)

イ・ソンヒのデビュー30周年記念コンサートは、4月にソウルを起点として、現在全国ツアーを次のように展開している。今回、全羅北道全州市「韓国ソリ文化の殿堂」でのコンサートが追加されたようだ。(インターパーク

2014年デビュー30周年記念コンサート「歌う イ・ソンヒ」
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・ソウル: 4月18日-20日、「世宗文化会館」 ★4月19日レポート
・大邱: 5月10日-11日、「大邱エックス5階コンベンションホール」
・蔚山: 5月24日-25日、「蔚山東川体育館」
・光州: 6月07日-08日、「金大中コンベンションセンター」
・城南: 6月14日-15日、「城南アートセンターオペラハウス」
・釜山: 6月28日-29日、「KBSホール」
・富川: 7月12日-13日、「富川室内体育館」
・全州: 8月30日-31日、「韓国ソリ文化の殿堂 モアク堂
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イ・ソンヒのデビューは、1984年7月29日に京畿道加平郡南怡島で開催されたMBC第5回「江辺歌謡祭」で、仁川専門大学のグループ「4幕5場」の代表として「Jへ」をデュエットし、大賞受賞したことに始まる。
今月29日は、まさにイ・ソンヒの音楽人生30年を記念すべき日だ。

2014年6月30日月曜日

買い物

古いパソコンデスクを使っているので、キーボードとマウスを一緒に並べる余裕がない。そこで、キーボードを中型サイズにしているが、使い勝手が良くない。指使いのせいか、ハングルキーボード用のシールを貼っているキーのうち、右手の「N/ㅜ」と「O/ㅐ」キーのシール文字が消えかかってきた。新しいシールに張り替えるため、新大久保に買い物に出かける。

空模様が芳しくない昼下がり、それでも街は賑わっていた。目指すショップで、シールを購入する前に、CDコーナーにあるイ・ソンヒのアルバムがきちんと陳列されているか監視?して、2階の書籍フロアに上がる。

YUBISASHIシリーズの「韓国×鉄道」(2010年、著:植村誠)を求める。豪華寝台列車(レールクルーズ)「ヘラン(해랑)」の紹介記事が載っている。小冊子なので、「簡易駅」についてまで説明はないようだが、韓国の鉄道の旅を知ることができそう。

ここまで来たのだから、新宿まで足を伸ばし紀伊国屋書店に寄る。1階にある「化石・鉱物標本の店」が拡張していた・・・いつ頃?・・・何と去年の2月からだそうだ。さて、書店に入り、4階の地学書コーナーで、次の書籍を求める。
・「鉱物コレクション」(2014年、監修青木正博):8名のコレクターが鉱物との関わりを語る。今までにない、極まれり!
・「鑛(こう)のきらめき」(2014年、秋田大学鉱業博物館解説書):秋田産を中心にしたカラー地学・鉱山図鑑。凄い!

久し振りの新宿界隈、人混みに気押しされてさっさと帰路につく。

今年もリンゴを半分食う

時の経過を、リンゴの食べ具合に例えている。1年を一個のリンゴの実とすると、今日で半分食ってしまうことになる。視覚的で、食欲と結びついている分、まことに連想しやすい。

(本ブログ関連:”林檎”)

美味いと口にしたリンゴも気付けば半分になっている。半分しか残っていないと慌てる。毎年こんな風に、そのときだけ気をやむ。そして繰り返す。

月は回り、観覧車も、そして6月も巡ってくると、懐かしいジュディ・コリンズ(Judy Collins)の「青春の光と影(Both Sides Now)」(1968年、作ジョニ・ミッチェル(Joni Mitchell))は歌う。もっとも、人生に直面しようという気迫で歌っているのだが。それにしても、「青春の光と影」とはむず痒いタイトルだこと。
この曲、最初に耳にした頃、ただ旋律を楽しんで人生なんて積読(つんどく)枕のようなもの、いずれそのとき紐解こう位いしか考えていなかった。今となっては、ため込んだものが多すぎる。

青春もリンゴのように食ってしまったが、酸っぱいほうが美味い。味覚は思い返すもの。

この「Both Sides Now」が登場する順序は次の通り。
1967年  シンガーソング・ライターのジョニ・ミッチェルがこの曲を作る。
1968年  シンガーソング・ライターのジュディ・コリンズはこの曲を採りあげてリリースする。
1969年  シンガーソング・ライターのジョニ・ミッチェルはこの曲を自分のアルバムに収録する。

(ジュディ・コリンズには、「太陽の黄金の林檎(Golden Apples of the Sun)」(1962年)がある)

2014年6月29日日曜日

日曜日の「この雨やんだら」

昼過ぎまで、真夏のように強い陽射しして、空にいくつもの白い雲が浮かんだ。昨日聴いた、イ・ソンヒの「この雨やんだら」の歌の最後にあるように、(昨夜来の)「この雨がやめば、その美しい陽射しが、私にも光を与えるよ」のごとく、晴れ晴れした気分だ。

気を好くして近所の公園をのぞけば、久し振りの晴れ間に、陽を浴びようと家族連れで賑わっていた。公園を外周する散歩道は、木陰に覆われて、その木漏れ日が叩くような錯覚すら覚えた。まさに緑陰に逍遥する。

帰路、寄り道して通りに出て見ると、なんと辺りが濡れていた。知らぬ間に雨が降ったのだ。西から北の空では、雲が外出時のように明るく照らしていたが、東から南の空には、重く鈍色の雲が幾重にも重なり泰西名画のように、まるで芝居じみて浮かんでいた。

で、写真を撮ったけれど、写り具合が口でいうほどでない。素人写真は逃がした魚のよう。(せっかく載せんと思ったのに)

そんなわけで、雲行きに怪しさを感じていたら、夕方に強雨が我が家を叩き始めた。雨具合、梅雨というより夏雨のよう。あっけらかんとしている。

2014年6月28日土曜日

イ・ソンヒの「この雨やんだら」

一日中、雨がやまない。予報では、明日に思い出すように降るやもしれないけれど、その後は曇天続きのようだ。といっても、降水確率はそれなりにある。カラッとした梅雨明けにはまだ遠い。

イ・ソンヒの歌には、雨降りに思慕するものが多い。7集所収の「この雨やんだら(이 비 그치면)」(1991年、作詞/作曲ソン・シヒョン)もそうだ。雨滴までクリスタルのように美しく繊細に響くよう。(みゆきさんなら、多分どろどろするところでしょうが・・・)
7集には、透明感溢れる珠玉の作品がある。「あなたが私を愛されるなら(그대가 나를 사랑하신다면)」、「恋文(연서)」もそうだ。

(本ブログ関連:”7集”)


この雨やんだら、あなたに行きますよ、
あなたよ少しだけ、待っててください

霧が晴れたら、私は見えるのよ、
あなたよ少しだけ、とどまってください

*濡れた顔であなたを見られません、
こんなに悲しい顔では、なおさら

この雨がやめば、その美しい陽射しが、私にも光を与えるよ、
その時は、私も笑えて、私の涙も止まるよ

(*以下、繰り返し)

(Youtubeに登録のlys2187に感謝)

2014年6月27日金曜日

お疲れさま(FIFAワールドカップ2014)

学生時代、僅かな経験だが、オーケストラクラブに参加した。オケラの部員は、大勢いるわけで気質も様々だが、所属した金管楽器のメンバーは、いわゆる体育会系気質の傾向があって、どちらかといえばネアカだ。練習も和気あいあい、楽器パートで一緒にする方が多かった。

部活のなかで音楽論議は無縁だった。パートをマスターするのが第一で、よくいえば謙虚だった。また、楽器置き部屋(倉庫)で赤ラベルの「ヒヒニッカ」(Hi Hi NIKKAをそう呼んでいた)を飲んで酔っぱらう方を好んだ。
そんなわけで、プロオーケストラの演奏について、おこがましいことを口にしているのを聞いたことも見たこともない。まして、指揮者の解釈について、論じるなんてそら恐ろし過ぎる。一度だけ、部員がクラシックのLPレコードを手にしているのを見たことがある。あれは、金管メンバーじゃなかったな。

今夕、FIFAワールドカップ2014に参加した日本チームが帰国した。

わたしは、サッカーについて、にわかファンを自認している。ルールもよく理解していないが、そもそもサッカー世代ではなかった。ビートルズの時もそうで、後から流入したのを、肌身に知っているように根っからのファンというには、なかなか馴染めないものだ。エルヴィスに申しわけないし、野球に済まないという思いがある。

もちろん、自然というか必然というか、女子サッカー選手の顔はわりと分かるのだが、男子の場合はそうはいかない。気分で納得し、その気になって応援しているのが現実だ。
テレビの前に坐って、横になって、或いはウトウトしながら応援したけれど、ブラジルで健闘した若い選手たちに熱い声援を送ったつもりだ。

ザッケローニ監督に、選手に、お疲れさまという言葉を素直におくりたい。

2014年6月26日木曜日

映画館

地方にいた子ども時代、映画館といえば、地元町にある2本立て日本映画専門の、いわゆる2番館というか3番館といった方がいいような、場末の臭いするものが2軒あった。たまに親に付いて行くことがあったが、あるとき怪談映画を見せられてから、二度と行くまいと決めた。

(本ブログ関連:”映画館”)

もちろん、駅近くの商店街に行けば、それなりに大きなものがあったし、隣り町に行けばさらに近代的な構えした清潔な映画館もあったけれど、ほんの数回位いしか記憶がない。当時の映画館は、大人が時間を過ごすような場所であって、子どもが楽しめる雰囲気はなかった。子ども向けを意識した、劇場用作品はそんなになかった。

子どもたちは、もっぱら、小学校の家庭科教室といって畳部屋だが、そこで坐りながら児童映画(ディズニー映画や「小鹿物語」など)を鑑賞させられた。夏休みになると、子ども映画会と銘打ったイベントがあり、夜の校庭に張られた、風に揺れる白布の大スクリーンに映し出されたものを、祭り気分で友だちと追いかけごっこしながら眺めたものだ。
ときに、新作の「ゴジラ」や「スーパージャイアンツ」などは、工場敷地に社員専用の映画館(多分公演などもしたのだろう)があって、子どもには小遣い程度で安く見せてくれた。ゴジラの恐怖はここで覚えた。

映画は、いつでも見られるものではなかったし、お金がかかるもの。それが覆されたのは、テレビの登場だった。タダで、いつでも見られるという、空前絶後の驚きだった。それまで、銀幕映画は記憶にしまい場所を決めておくようなものだったが、テレビ・ブラウン管は映像を垂れ流し、消費させるだけの装置でしかない・・・ということに、だいぶたって気付くわけだが。

見たい映画が見られないとき、レコードで我慢したという話しをしようと思ったけれど、話しが横道にそれてしまった。

2014年6月25日水曜日

イ・ソンヒの「Jへ」(30周年記念コンサート)

イ・ソンヒのデビュー30周年記念コンサート、”歌う イ・ソンヒ”は、今年4月に当初2日間であったものをファンの要望に応えて3日間に拡大して、ソウルの世宗文化会館大劇場(最大3000席)で開催された。当時、数日前に起こった海難事故があり、実施が危ぶまれたが、コンサートの規模および観客動員数から、追慕公演の形で公開されることになった。

(本ブログ関連:”30周年記念コンサート”)

コンサートの始まりに、舞台下からせり上がってくるイ・ソンヒの姿は、決して華やかではなく、むしろ抑制しているようにさえ見えた。彼女のデビュー曲である、過ぎ去ったものを追想する歌、「Jへ」(1984年)から静かに始まった。大規模な弦楽器群を背景に歌う彼女は、舞台両サイドに設けられた大型モニターに映し出された。アップした彼女の容貌は、会場の外をおもんぱかってか、あえて舞台化粧を控えたのように思えた。


J 撫でる風に、J あなた想えば
今日も静かに、あなた 偲ぶわ

J きのうの夢に、J 出会った面影
わたしの胸に、染まっているのよ

J きれいな夏の日、遠く消えたとしても
J わたしの愛は、今も変わらない

J あなたを永久(とわ)に
J あなたを愛して
J ともに歩いた、J 思い出の道

わたしは今宵も、寂しく歩くのね
寂しく歩くのね

(Youtubeに登録のangma1988に感謝)

2014年6月24日火曜日

KBS WORLD「国楽の世界へ」 欲をいましめる歌

KBS WORLD「国楽の世界へ」は、先週水曜日(6/18)に文化的なキーワードに基づく韓国文化シリーズの第61回として、伝統芸能パンソリの中から「欲をいましめる歌」にまつわる話を紹介した。

始めに、欲の深さを示す故事とパンソリ「水宮歌수궁가)」の紹介から、次のように始まった。
・故事に「(後漢の光武帝が)隴を得て蜀を望む」がある。欲望に限りなく、満足を知らない。小さなことに満足するのも簡単でない。世に多様な欲望、食欲、性欲、睡眠欲、物欲、所有欲、名誉欲がある。最も諦めつかぬのが名誉欲(権勢欲)だ。ためにソンビ(学識者)は、官職を捨て隠遁生活することもあった。
・パンソリにも、欲に関する内容を伝える「水宮歌수궁가)」がある。兎(うさぎ)の肝を探すように命じられた亀が兎をおびき出す物語で、そのとき使った手口も名誉欲だ。陸上で猛獣に追われてばかりだが、海中では魚の頭になれるとおびき出された兎は、命を奪われそうになる。日本昔話「クラゲの骨なし」とも似て、名誉欲は捨てがたいという教訓を与える。

▼ 「兎の物語り(토끼 이야기)」を聴く。英語版パンソリ、コラボ・・・せわしい今様である。

次に、パンソリ「興甫歌(흥보가)」に登場する兄弟を通じて、欲に負ける話を、次のように紹介した。
・庶民は、暮らしの欲といっても食や生活に関する位いだが、その過剰さに不安を思ったようだ。パンソリ「興甫歌」に、欲が過ぎて身を滅ぼす兄ノルボ*(놀보)の話がある。貧しい弟の興甫(フンボ、흥보)がある日、脚を怪我した燕の傷を治す。すると燕(つばめ)が恩に報い、運んだ種から成った瓢箪(ひょうたん)の実の中から金銀財宝が出てきた。金持ちになった弟の噂を聞き、兄は自分も同じ方法で金持ちになろうとするが、怪我した燕が見当たらない。欲深い兄は燕の脚をわざわざ折った後、治療してやる。燕は兄にも瓢箪の種を運ぶが、瓢箪から老人が現れて、巾着を出して金を求める。

    (*)ノルボの漢字表記:ノル=”奴”の下に”乙”、ボ=甫 ・・・ (「パンソリ」申在孝、平凡社東洋文庫)

▼ 「興甫歌」から、”金を求める不思議な場面”を聴く。先祖なのか貧乏神なのか・・・風体怪しすぎる。

・巾着に金を詰めたら帰ると言うが、不思議なことに、どんなものでも入れる度に無くなってしまう。この巾着は、兄の限りない欲を象徴する。愚か者の兄は、自分の問題に気が付かず、繰り返瓢箪を割って、結局は一文無しになる。この話は兄個人だが、国の重役を担う者が欲に負けると大変なことになる。

最後に、欲に押され戦闘に負ける、「三国志演義(さんごくしえんぎ)」から赤壁歌について、次のように紹介された。
・三国志を基にした創作物「三国志演義」の話に、国の最高権力者となった曹操は、更に欲を出して呉を攻めようとする。しかし、水上の戦闘経験がない曹操と、そこに目を付けた諸葛亮(孔明)の策で、曹操が容易に敗れる。

▼ 「赤壁歌」から「赤壁火戦(적벽화전)」を聴く。手際のよい、めりはりの効いた調子だ。

・船は燃え、数万人に至る兵士が命を落とす。欲を捨てることの難しさが分かる。

2014年6月23日月曜日

神野美伽の「人生は水の駅/人生は簡易駅」

神野美伽には、日本語版アルバム「海峡を越えて」(1998年)があり、もう一つ韓国語版の「OVER THE SEA  해협을 넘어서」(1999年)がある。「韓国側の作曲者がメロディーを先に書き、日本の作詞家がはめ込む型で詩を作った」(小西良太郎)という合作アルバムである。
このなかで、私の好みの曲に、「人生は水の駅」がある。人生の節目節目を駅に例えるなら、その旅路は水の流れのように、或いは果てしない鉄路のようにとどまることなく遠い。ふと、はたを過ぎる駅に、どこかで見たようで、急に懐かしさがこみあがる・・・「私たちは夢の旅人」。ああ、だから演歌はたまらない。

(本ブログ関連:”神野美伽”)

日本語版「人生は水の駅」(作曲:ソン・ミンホ、作詞:荒木とよひさ

(Youtubeに登録の林義隆に感謝)

韓国語版「人生は簡易駅(인생은 간이역)」(作曲:ソン・ミンホ、訳詩:ソン・ミンホ)
この曲は、Youtubeの8分50秒から聞いてください ⇒【歌詞:No.6右端の歌詞アイコンをクリックします】

(Youtubeに登録のsaran06hyonmiに感謝)

K-Wikipediaによれば、韓国の「간이역(簡易駅)」は無人駅とは限らず、小規模・小型駅まで含むと、次のように記述している。
「利用客が少なく、効率が低く、駅長が配置されず、一般的な駅に比べて規模が小さい駅をいう。簡易駅の駅長は、近隣の普通の駅の駅長が兼任して運営する。しかし、場合によっては駅長がある普通の駅でも簡易駅と呼ばれる場合がある。場所の特殊性のため、写真作家たちの主な撮影対象になったり、多くの文学 · 音楽作品の素材になってきた。」
ちなみに、MBCドラマ「北の駅から」(1996年~1997年)の原題が「簡易駅」だそうだ。

2014年6月22日日曜日

日本で作られた漢字文字(国字)があって、その代表例に「(とうげ)」の文字が挙げられる。昨日の教室で、韓国での漢字使用が話題になったとき、同様のことがあるのか先生にうかがったところ、中国で現在使われなくなった漢字が残っているという話しは聞いたことがあるが・・・とのこと。

中里介山は、大作「大菩薩峠」の出だしに、甲州街道(本街道)に対して、(裏街道である)甲州裏街道の途中に存在する大菩薩峠について次のように記している。
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 大菩薩峠は江戸を西に距(さ)る三十里、甲州裏街道が甲斐国東山梨郡萩原村に入って、その最も高く最も険(けわ)しきところ、上下八里にまたがる難所がそれです。
 標高六千四百尺、昔、貴き聖が、この嶺の頂きに立って、東に落つる水も清かれ、西に落つる水も清かれと祈って、菩薩の像を埋めて置いた、それから東に落つる水は多摩川となり、西に流るるは笛吹川となり、いずれも流れの末永く人を湿おし田を実らすと申し伝えられてあります。
 江戸を出て、武州八王子の宿から小仏、笹子の険を越えて甲府へ出る、それがいわゆる甲州街道で、一方に新宿の追分を右にとって往くこと十三里、武州青梅の宿へ出て、それから山の中を甲斐石和へ出る、これがいわゆる甲州裏街道(一名は青梅街道)であります。
 青梅から十六里、その甲州裏街道第一の難所たる大菩薩峠は、記録によれば、古代に日本武尊のみこと、中世に日蓮上人の遊跡があり、降って慶応の頃、海老蔵、小団次などの役者が甲府へ乗り込む時、本街道の郡内あたりは人気が悪く、ゆすられることを怖れてワザワザこの峠へ廻ったということです。人気の険悪は山道の険悪よりなお悪いと見える。それで人の上(のぼ)り煩(わずら)う所は春もまた上り煩うと見え、峠の上はいま新緑の中に桜の花が真盛りです。
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現在では、地図を読むとき、つい鉄道や道路などで路を判断してしまうが、考えてみれば昔の東海道だって箱根の旧道を眺めれば狭くて険しいところを歩んでいたわけで、上に記されているように、「本街道の郡内あたりは人気が悪く、ゆすられることを怖れてワザワザこの峠へ廻った」というくだりは、その当時に戻って考えてみて、始めてうなづけることだ。

以前、高尾山頂から陣馬山に至る途中、上記にある小仏峠付近に見られる、泥岩の千枚岩(小仏層群、中生代白亜紀後期)をハイキング(今様でトレッキング)かたわら観察に行ったことがある。驚いたのは、防御的な面から要所であり、ゆえに関所が設けられていたことだ。尾根道とはいえ、見晴らしも余りよくない、昔の交通路とはこんな風だったのかと感じたものだ。

ところで、甲州裏街道(青梅街道)の最大の難所といわれた、大菩薩峠は実際に見たことはない。この峠は、地図上で大菩薩嶺の付近の或る箇所に存在する。中国では、峠を意味する文字は「嶺」だそうだが、ある一定の幅を持っていると、中里介山は「『峠』という字」の中で次のように説明している。
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 本来の漢字によれば「峠」は「嶺」である、嶺の字義に関しては「和漢三才図会」に次の如く出ている。

     按嶺山坂上登登下行之界也、与峯不同、峯如鋒尖処嶺如領腹背之界也、如高山峯一、而嶺不一。

 これによって見ると、嶺は峯ではない、山の最頂上では無く領(えり)とか肩とかいう部分に当るという意味である。恐らく、これが漢字の本意であろう。して見ると、嶺字を以て「峠」に当てるのは妥当ならずということは無いが、「峠」という字には「嶺」という字にも西洋語のパス(mountain path)とかサミット(summit)とかいう文字にも全く見られない含蓄と情味がある。
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妄想を二つ並べる。(もちろん時空を超越する語源説など語る気はないが)

中国のような広大な国がら、人が去る様は、空気遠近法のごとく霞め去るとか、あるいは大連山の肩である「嶺」の向こう側に消えるという、おおらかなイメージだろうか。それに比して、山地の多いところでは、線遠近法の「消失点」へと去るものへ情味を集中させる言葉として「峠」が作られたのではないだろうか。かぶせていえば、チャップリン映画の最後に見せる情感を残す技法のように。
韓国の歌「アリラン」に、峠を越えて行く人を想いしのぶ場面がある。峠である固有語の「コゲ(고개)」の音に、東洋的な心情から、どこか日本語の峠(とうげ)に似ている気がする。

2014年6月21日土曜日

夏至 2014

今日は「夏至」だ。一年の内で陽が一番長い。いいかえれば、これから陽が次第に短くなる訳じゃないか。そう思うと、ちょっと残念で惜しい気がする。とはいえ、まぶしい夏はまだ終わっちゃいない。太陽に焼かれて走り回る、子どもたちの楽園がこれから始まるのだから。夏至は、夏の名を付して先走りしただけのこと。この後、二十四節気の「小暑」、「大暑」が追っかけて来る。ジリジリとする夏を待とう。

せっかくの夏至なのに、今日の空模様はどんよりして陽の射す余裕はない。空気も湿気で厚く重い。2014年の夏至は、梅雨の一角を占めたに過ぎなかったようだ。

(本ブログ関連:”夏至”)

話は全然違うけれど、今日の教室で、「ボーカロイド」って何という話題があって、音声合成で作られた「初音ミク」(2007年)という仮想の少女の歌声にまで話しが広がったが・・・。
皆と同じレベルの私としては、初音ミクの歌をネットで聞いたことはあるが、率直な感想を言えば、母音を強調した、つまり日本語として言葉がはっきりする、しかして歌詞の意が通じるもので聞きたい。イメージする曲があるが、いつか記してみよう。

ちなみに、初音ミクの声質やキャラクターとしてのあの長~いヘヤスタイルから、ブルース・ウィルス主演の映画「フィフス・エレメント(The Fifth Element)」(1997年、監督リュック・ベッソン)に登場した、オペラ歌手ディーヴァ・プラヴァラグナの声と薄青緑の肢体が重なってしまうのは私だけか。

(Youtubeに登録のFrizullに感謝)

2014年6月20日金曜日

FIFAサッカー 対ギリシャ戦 引き分け

朝方、律儀にテレビを見る。十秒見たら瞼が下がるような虚ろな状態で。そのうち目が覚めたが、大きな試合のたびに思うことがある。私がこの試合を見たことで、勝ちに運気が向くのか、それとも逆か。大それた天運を持ち合わせている訳ではないのに、なぜかフッと浮かぶ。

地球の裏側で、選手の皆さんが頑張っているのをボンヤリ見ているのは失礼かなと、部屋を片付け始める。そういえば、中学生の頃、定期試験があるたびに、準備の最初にしたのが部屋の片づけだった。緊張感が高まると、身のまわりを整理をするという性分のようだ。

結果は、引き分けだったが、相変わらずルールがよく分からない。勝ち点1がどう有効なのか、テレビの解説を聞いてみよう。といって、毎回聞いては忘れるのだが。

次回、対戦相手はコロンビアで、25日5時に試合開始だそうだ。早い!

(付記)
現在行なわれている試合を「グループリーグ」(8グループ、4チーム/グループ)といい、各グループ中の上位2チームが、次の「決勝トーナメント」に進むことになる。「リーグ戦 ⇒ トーナメント戦」・・・なるほど。
グループリーグの上位2チームの選出の基準がいくつもあって・・・むつかしい。