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2019年9月24日火曜日

知恵泉 - 大久保長安

NHKの番組に、肩のこらぬよう居酒屋風セットで歴史人物評する「知恵泉」*がある。今晩(22:00~22:45)視聴した。徳川創成期に家康の家臣として従った「大久保長安(ながやす/ちょうあん)」について、司会者と3人の話者**が出演した。
(*)https://www4.nhk.or.jp/chieizu/x/2019-09-24/31/32766/1494231/
(**)出演: 小説家真山仁、東京大学史料編纂所教授山本博文、ハードキャッスル エリザベス、司会新井秀和

江戸の歴史と鉱物趣味から、興味深い人物「大久保長安」を以前のブログで触れたことがある。上記番組では有能な人物として焦点をあてられたが、人間らしい別の面も浮かんでくるかもしれない・・・番組の最後にさらりと触れられたが。

(本ブログ関連:”八王子 - 千人同心”、”鉱山 - 山師”)

猿楽師の家に生まれた大久保長安は、いってみれば(武家としての背景がないことにより)裸一貫で、武田信玄から徳川家康の家臣として渡り歩き出世したようだ。この辺りの肝が座った強さもあって、あらたな都市計画や鉱山開発の使命を実現したのだろう。

① 八王子の街づくり
 ・砦の機能を合わせ持った商業都市をつくる
 ・防備に、旧武田の流れを持つ人脈による「八王子千人同心」をあてる
 ・治水に、旧武田の治水技術「信玄堤」を採用する

② 鉱山(金山・銀山)経営
 ・人の采配として、プロジェクトマネジャー「山師」を重用する
   - 労働成果の分配に工夫する
 ・精錬技術として、「灰吹法」から「アマルガム法」を採用する

③ 一族の繁栄とその後の子孫の悲惨な終焉
 ・(もしかしたら、結局は歴史に利用されただけかもしれないが)

2014年5月8日木曜日

【多摩の代官】代官頭大久保長安

地元の公民館で、江戸時代の多摩地区(武蔵)を治めた代官による自治機構を解説するシリーズ講演会が始まった。朝方に届いたメールに気をとられ、返信などしているうちに・・・はっと気付けば遅刻してしまった。わずかな聴講であったが、興味深く話をうかがうことができた。

講師は法政大学大学の馬場憲一教授で、飄々と話され、かつ要所要所で気分をほぐらせてくれた。

(本ブログ関連:”多摩地区(武蔵)を治めた代官”)

第一回目は、代官頭大久保長安(1545~1613年)だ。(多数の金山を抱え甲州金で知られる)甲州武田家で、蔵前衆として金穀(金銭と穀物)をつかさどっていたが、同家滅亡後に徳川家康に仕え、八王子の代官や、金銀山(石見、伊豆、佐渡、南部)の開発とその金山奉行を勤めた。死後、疑獄が起こり一族は処罰される。

終わりに近かったが、お話を聞くことができたのは、古文書資料などの解説も含めて次のテーマだった。
①代官領「八王子町」について、その町立て、八王子千人同心の成立、代官屋敷の配置など、ミニ城下町の機能を持たせた。
②交通網の整備として、八王寺町に沿う「甲州街道」を開設し、江戸城改修のため御用石灰(消石灰<石灰岩:現青梅市、昔の武州多摩郡上成木村、北小曾木村から、多摩川上流の山の根からの)輸送のために、「青梅街道」を開設した。
③高尾山、御岳山など修験道につながる宗教拠点へ対応(融和)した。

ところで、金山に関わった大久保長安の死後一族は死罪になったが、関東で多数の金山を持った常陸の佐竹氏も1602年に秋田へ転封(てんぽう)されている。他にも、金山、銀山に関わった重責者たちの、その後がどうなったかをそれぞれについて調べてみるのも面白そうだ。

(追記)
国立科学博物館で「企画展 石の世界と宮沢賢治」展(4/19~6/15)が開催されている。

2014年5月22日木曜日

【多摩の代官】関東十八代官

地元公民館で、江戸時代初めの多摩地区(武蔵)を治めた代官による自治機構を解説する、法政大学大学院の馬場憲一教授の第2回目講演「関東十八代官」を聴講した。(前回(5/8)のテーマは「代官頭大久保長安」)

(本ブログ関連:”多摩地区(武蔵)を治めた代官”)

天正18年(1590年)、徳川家康の関東入国にともない、江戸時代前期の「幕領」支配としての4つの代官領の一つである多摩地域の代官頭となった大久保長安は、配下に「関東十八代官」を従えた。その拠点となったのが、代官町を形成した八王子だ。当時の八王子は、宿場(流通経済)、千人同心(武力)、関東十八代官の集住(行政)のミニ城下町機能を持った。

・徳川の支配に、直接支配の「幕領」、間接支配の「私領」(知行権を与えられた:家臣旗本と大名)、「寺領」、「社領」がある。
・十八代官は、幕領支配を担った。
・十八代官は、在地性の強い世襲代官で、出自は圧倒的に旧武田家が多い。
・十八代官は、必ずしも十八家だけが担ったわけではない。代を経て、非役の小普請に落とされたり、切腹する者もいた。
・正徳5年(1715年)に小普請に落ちたケースがある・・・十八代官制度は、100年以上続いた?
・多摩川に沿った武蔵野台地を支配した十八代官のひとつ、(メインテーマである)、武田家出自の高室代官(4代70有余年)の各代について説明された。最後の代官となる四郎兵衛昌貞は、元禄2年(1689年)在職中に、「多分の貢金を私して其会計滞りしにより」、最終的に4月25日切腹を命ぜられる。

今回、興味深かったのは、十八代官の家督を継ぐのは大変なことだったようだ。ある意味、徳川の不正に対する厳しさを、武田家末裔を体制から削ぎ落とす(意図があったかどうかは分からぬが)怖さを感じた。

(追記)
興味深い話しに、江戸時代に石高が増えた理由として、新田開発だけでなく、傾斜地を開墾して段々畑にしたと説明された。今は草木に覆われて忘れられたかもしれないが、耕地に対する地道な努力がされていた。