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2013年11月5日火曜日

KBS WORLD「国楽の世界へ」 菊花

KBS WORLD「国楽の世界へ」は、先週水曜日(10/30)に文化的なキーワードに基づく韓国文化シリーズの第29回として、菊の花(국화)について紹介した。

始めに、秋の花の菊とそれに関わる詩について、次のような紹介から始まった。
・花というと春を思い浮かべるが、秋にも春に劣らず、きれいに咲く花がある。コスモスを筆頭に、オシロイバナや野菊、そして名も知らぬ花たちが力強く花を咲かせ、散った後、目に入るのが菊の花だ。朝鮮後期、李鼎輔(イ・ジョンボ、이정보、1693年~1766年)が残した、菊の登場する次の時調시조)がある。

「菊よ、おまえは、三月の春の風(東風)を過ぎ、/  落木寒天にひとり花を咲かせたのか、/  おそらく、霜が降りる季節に屈しないのはおまえだけだろう。」

・「落木寒天」は、木の葉が落ち、寒くわびしい冬の風景を表す。この時調は、暖かい春の風が吹いても花を咲かせず、寒い冬になるまで待って、さびしそうに、けれど力強く咲く菊の花を歌う。

▼ 平時調(평시조)の「菊よ(국화야)」を聴く。上記詩の一音一音を延ばし朗詠する。夕陽を逆光に揺れる野菊のよう。

次に、李鼎輔の仕事と彼にまつわる逸話が、次のように語られた。
・李鼎輔は、詞のように相手が王であれ、間違ったことには果敢に言上する政治家だったという。
・一方で、音楽にも造詣が深く、上記時調以外に80編を超える作品を残し、音楽家養成にも携わった。弟子に、桂纖(ケソム、계섬)がいた。彼女は、幼くして両親を亡くし奴婢となったが、李鼎輔と出会い、彼を師匠として歌を学ぶ。彼は桂纖の才を見抜き、常に傍に置き指導した。彼女は名唱として名を轟かした。李鼎輔が世を去ったとき、桂纖は実の父の死を前にしたかのようだった。その後毎日、師匠の墓前で泣きながら歌い続け、生涯かけて恩返した。その姿は、晩秋の道端に咲く野菊のようだ。

▼ 新民謡「野菊(들국화)」を聴く。なんだか、野に咲くの花の陽気で力強さを感じる。

最後に、菊を愛でる優雅な光景について、次のように語られた。
・昔から、ソンビ(博識な学者)たちは、菊を、梅、蘭、竹と共に並べ、四君子と呼ぶ。これらは、操と節義を象徴する花とされ、広く好まれ、植えられた。フンタリョン(흥타령)の歌詞に、四君子のひとつ、菊に関する次の一節がある。

「窓の外に菊を植え、菊の下で酒を醸しておいた。/ 酒が熟成し、菊の花が咲き、友人が来て、月が昇った。/ それ、コムンゴを一曲弾け、夜が明けるまで遊ぼうではないか。」

・花もきれいに咲き、さらにその香りまで漂い、友を誘って一杯傾ける光景、なかなか粋である。菊の酒をゆったりと嗜みながら、あれこれ話をする時間、これこそ、至福のひと時と言えるかもしれない。

▼ 「歌詞 勧酒歌(가사 권주가)」を聴く。揺ったりと古色を漂わせるが・・・どこか新酒の香りする。

2013年11月4日月曜日

菊の花

秋の花に菊がある。鑑賞に、一輪もあれば、束ねたものもある。あるいは、更に集めて加工したものもある。歳をとると、それぞれに美しさを気付くようになる。

子どもの頃、連れられて菊人形展を眺めたけれど、小さな菊の花弁を衣装代わりに身に包んで置かれただけの人形を間近に見て、拍子抜けした記憶がある。大人になれば、菊人形師の努力と期待も合わせてうかがえ受容できるようになる。たぶん鑑賞の視野が広がったのだろう。

イ・ソンヒのアルバム9集の一曲目にアルバムタイトルでもある「一輪菊(한송이 국화)」(作詞チェ・ユジョン、作曲ヤン・ムンソン、1994年)がある。群れて咲く野菊とは別に、一輪の菊にも独特の美しさがある。

    一輪の野菊見やれば、貴方の姿を見るよう
    一輪の野菊見やれば、貴方の姿を見るよう
    華やかな姿なくとも  素朴な香りに染まるように
    小さな花瓶の中で一輪の菊  この世の憂いを洗ってくれる
    黄色い花びら差し出した顔  ささやくように愛を語るよ
    一輪の野菊見やれば、貴方の姿を見るよう
    華やかな姿なくとも  素朴な香りに染まるように
    あ~

(本ブログ関連:”一輪菊”)

(Youtubeに登録のKnightmareSMに感謝)

2013年11月3日日曜日

日光鉱山

さすがに11月ともなれば、早朝は冷える。栃木県塩谷郡塩谷町にある日光鉱山へ鉱物採集に出かけるため、始発電車に間に合うよう家を出ると、あたりはまだ暗い。
いつもお世話になっているH氏と待ち合わせの駅に着いた頃は、空も白みはじめていた。さっそく、H氏の車に同乗させていただき現地に向けて出発する。

昨日ネットで収集した産地情報を片手に、車中で鉱物談義する。H氏は、既に日光鉱山の鉱物採集は経験済みで、今回は何としても美しい二次鉱物の斜開銅鉱(Clinoclase、Cu3AsO4(OH)3)を目玉にされている。わたしも、斜開銅鉱に出会えればと、期待が膨らむ。

さて、下流に石積みの砂防ダムを何重にも構築している大きく広がった沢と重なっている、日光鉱山の【南側】ズリから採集を始めた。陽差しが反射してまぶしい。目が肥えてくると、次々いろいろな鉱物が見えてきた。
沢伝いに登ると、せばまった沢の奥には鉄条網にさえぎられて立ち入り禁止になっている。その奥には、ふさがれた坑口や、更に奥に進む沢も見えるが・・・ここまで。この境界辺りでの採集は、極めて残念な結果だった。

いったん道路に戻って【北側】に少し歩み、新たな入り口から山道を登り、斜面の上側に坑口が見える所まで進む。坑口はふさがれていないが、当然ながら覗き見するだけ・・・なにしろ、坑口付近には落盤跡?のような岩が見えるのだから。

以上の結果、採集鉱物は次の通り。
・南側採集地: 黄銅鉱、黄鉄鉱、ブロシャン銅鉱、孔雀石、輝銅鉱、方鉛鉱、閃亜鉛鉱、水晶(小型の美群晶)
・北側採集地: 斜開銅鉱(小片)

日光鉱山の行きも帰りも、国道・県道利用で通したが、休日にもかかわらず渋滞に巻き込まれることはなかった。

2013年11月2日土曜日

日暮れの早いこと、一年の早いこと

夕方というに、ちょいと気を許せば、外はすっかり闇に沈んでいる。帰宅にせわしい街の雑踏も、かえって落ち着きを増すよう。けれども、駅から離れて家路になれば、次第に人影の薄れるのが寂しい。風でも吹けば、否応なしに年末へと押しやられる。

テレビ・ショッピングで、おせち料理の予約受付で豪華?な詰め合わせを説明していた。ハロウィンが終ったと思ったら、あっさり場面転換して、クリスマスそして正月の行事が待っている。

ラジオで聞いたことだが、今年は3連休が多いんだそうだ。10回もあるという。休みが多いからって、それもなんだか・・・気ぜわしいなあ、何かしなければという強迫観念に駆られて、むやみに出かけるのもなあ・・・。

といいながらも、お呼びがかかった石採りに・・・幸い、明日は天気がよいようだ。

2013年11月1日金曜日

VESPA APE50

昔、雑誌に小型自動車の特集記事があって、戦後近くに生まれたさまざまな小型自動車を紹介していた。面白くて興味がそそられ、乗ってみたい気がした。記事を切り取って保存したが、今探してみると見当たらない・・・残念なことをした。

    (注) 小型車といっても、これから普及が試行される「超小型電気自動車」のことではない。

ネットを探してみれば、Wikipediaの「バブルカー」の項に、製造各社の小型自動車の写真が載っている。ヨーロッパで、戦後荒廃した中から生まれた、かつての航空機の技術者たちが関わっている。「バブル」とは、「航空機などの操縦席(コックピット)の風よけの覆い」で・・・つまり「風防」のことで、自動車の運転席の覆いがそれを想わせる構造をしている・・・ということだ。

これらの小型車の中で、わたしのお気に入りは、メッサーシュミット社のKR200(191cc)だ。まさに、航空機に関わった技術者の心意気が感じられる。

そういえば、後発日本のスバル360(360cc)も小型車に属するだろう。製造元の富士重工は旧中島飛行機という航空機メーカーだったわけだし。

今日、イタリア大好きな鉱物仲間から、イタリアのピアッジオVESPA APE50(49.77cc)という小型三輪車を、再生しているという話を聞かせてもらった。1964年に日本に輸入された5台の内の一台だそうで、構造図、配線図などの図面をネット上で探し、一部部品から作って、組み立て直しているというのだ。

    (注) Youtubeの「APE50」(新型のよう)、旧型は2サイクル単気筒50ccだが排気音がいい。(登録者Paulo Cabralに感謝)   赤字訂正
    (注) VESPA APE50が輸入された1964年といえば、イ・ソンヒが生まれた年でもある。
    (注) VESPA APE50は、スクーターのVESPAのエンジンそのままに、車体だけ発展させたもののようだ。

この三輪車、バッテリーがないそうで、スターターは手動、ワイパーは足動というまさにアナログカーである。聞いているだけで楽しくなる。・・・でも、それ以上の技術的なことになると素人の悲しさ、よく分からない、残念。

三輪車といえば、日本のダイハツ・ミゼットD型(250cc)があるが、これも小型車の仲間に入れることにしよう。

2013年10月31日木曜日

残った林檎は6分の1

月の銀の林檎、太陽の黄金の林檎、永遠に摘むことはできないけれど、わが家の台所では冷蔵庫の中で冷たいリンゴが待っている。皮が硬くてちょっと酸っぱいが、サクッと丸かじりすると口中に果汁がほとばしる。

林檎一個を一年に見たてて、芯を通して縦に6等分に切ると、今年は残すところ6分の1しかないことに気付く。あっという間の一年だったな。ゆっくり賞味したろうか、がつがつ貪ったろうか・・・月や太陽に値するというのに、もったいないことをした。

今宵、たそがれにさまよう悪霊、死霊たちが一暴れするかもしれないけど、でも新しい年を迎えられるならしかたないのだが、林檎はまだ6分の1残っている。そう6分の1も残っているのだ。

リンゴをかみしめながら、イ・ソンヒの13集所収の「リンゴの木の下で(사과나무 아래서)」(2005年)を聴こう。リンゴの味は、甘いのか、酸っぱいのか、それとも苦いのか。

(本ブログ関連;”イ・ソンヒの「リンゴの木の下で」”)

(Youtubeに登録のKnightmareSMに感謝)

なぜハロウィン

この時期、ハロウィンがメディアにとりあげられるたび、置き場がないというか落ち着き場所の定まらぬ感覚にとらわれる。人生長いと、様々な行事が次第に既定になっていくのを見てきたが、異質さに馴染むのはなかなか容易でない。若ければあっさり受容してしまうのかもしれないが。

ハロウィンは現在、あくまでも商業的なイベントを超えていない。多分、お盆のような宗教的なものと結びつくことがあるわけではないので、風習になるには時間がかかるだろう。その意味で、クリスマスは家族の結びつきを確かめる最早風習に近い。そして、義理を含めてバレンタインはハロウィンより先行している。

ハロウィンのちょっとおどろおどろした雰囲気を知ったのは、米国のブラッドベリ(Ray Bradbury, 1920年8月22日~2012年6月5日)のSFファンタジーの短編集を読んでからのことだ。その頃は、日本でのハロウィンはまだ文字の世界で語られたものだったはず。映画などで見る光景ではあったので、全く知らないわけでもなかった。

(本ブログ関連:”ハロウィン”)

だから、ハロウィンに強い拒絶感はないけれど、ちょっと気になる点がある。ハロウィンのデコレーションに使われる小物もそうだが、全体的な色彩のトーンとして、あのオレンジ色はどうだろう。日本の色使いではないと思うが。
とはいえ、わたしたちの色彩感覚もだいぶ変わってしまっている。そう、アウトドア用品やその衣料品を見れば分かるが、深緑色や青紫色などがすっかり定着してきている。アメリカ発の色彩感覚がそのままとりいれられている。

2013年10月30日水曜日

イ・ソンヒ 「朴景利 ブック・コンサート」

イ・ソンヒは、今月31日に催される「朴景利 ブック・コンサート」に出演する。ファイナンシャルニュースの記事「文学と音楽の調和... 『朴景利 ブック・コンサート』 開催」(10/29)は次のように報じている。(江原=ニュース1、クォン・ヘミン記者)

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・「土地(토지)詩朗読会」が主管し、「朴景利文学公園」が主催する、「朴景利 ブック・コンサート」が今月31日午後7時に、江原道原州市の朴景利文学公園内の野外ステージで行われる。

    (注) 朴景利(パク・キョンニ、박경리、1926年~2008年)、作家、小説「土地(토지)」で著名。
    (資料)イ・ソンヒのスター・ストーリー「3.宗教家である父と、自然とともに過ごした幼い子供

・「朴景利 ブック・コンサート」は、小説家朴景利の文学を伝えたり、彼女の知己を特別ゲストとして招待して文学の世界についての話を聞いたり、音楽演奏を通じて秋の夜の叙情を感じることができる行事だ。今回のブック・コンサートには、文芸評論家チョン・ヒョンギ、小説家キム・イジョンが出演してトークイベントを行い、声楽家クォン・スンハン、テギ(태기)舞踊団の扇舞、ミカ-ウル(미가 울)民謡、フランスの詩人ロスリンの詩朗読、バク・ヨウンオのクラシックギター演奏などが用意されている。

・また、歌手イ・ソンヒ、ムン・ケジョンが歌謡舞台も披露する予定だ。朴景利文学公園の関係者は、 「文学と音楽、舞踊が融合した行事で、全国の朴景利の作品を発表し、地位を高め、秋の叙情を感じることができるだろう」と明らかにした。
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2013年10月29日火曜日

KBS WORLD「国楽の世界へ」 金剛山

KBS WORLD「国楽の世界へ」は、先週水曜日(10/23)に文化的なキーワードに基づく韓国文化シリーズの第28回として、朝鮮半島の太白山脈中央に位置する金剛山(クムガンサン、금강산、最高峰毘盧峰は標高1,638m)について紹介した。

まず四季の変化と金剛山の美しさについて次のような説明から始まった。
・四季折々の変化がはっきりすると人々は自慢する。幼いころから、春夏秋冬を感じて育ったためだ。今の時期、高く、真っ青な空をながめると、風景を分かち合いたいと思う。ソウルを囲んでそびえる山々は、真っ赤に染まった紅葉が目に飛び込む。一生を終えて散り行く物悲しさも加わり、花より美しいと言えるかも知れない。
・昔から、美しい山と川を「三千里錦繡江山(삼천리금수강산)」と呼ぶ。その中で最も美しいとされるのが金剛山だ。古来、多くの詩人や画家、ソンビたちが一度は訪れるべき場所として知られる。

▼「金剛山打令(금강산타령)」を聴く。悠々とした景色を眺めてか、とてもメロディアスに聞こえる。

次に金剛山に遊んだ李穀の「東遊記(동유기)」から次のように紹介している。
・高麗時代(918年~1392年)末期、李穀(イ・ゴク、이곡、1298年~1351年)は、ある秋の日、金剛山を訪れた感動を次のように記している。

「秋にこれから金剛山を遊山にでかけようと、天磨嶺を越えて山の麓で一夜を明かし、朝早く寝床で食事をした後、山に登ると、雲と霧に覆われて薄暗かった。人々が言うところによると、『秋に金剛山に行った人が、雲と霧のため、何も見られずに戻ってくるることが多い』という。共に来た者たちは、みな真剣に黙黙と祈りつづけた。5里ほど行くと、陰った雲が徐々にうすくなり、そこから日の光が漏れ出してきた。『お辞儀峠』に差し掛かったとき、空は明るく、空気も澄み渡り、山の明るさが一段と映えて見えた。1万2000ともいわれる峰を一つ一つ数えることができそうだった。この山に来る人はすべて、必ずこの峠を経由する。峠を登りきると、人々は山を眺めようと、首を下に傾ける。自ら意識しなくとも、この峠では、お辞儀をするかのように頭を下げることになるのだ。このような理由から、この峠は『お辞儀峠』(절재)と呼ばれている」。

今はこの金剛山も人々の想像の中にしかない。

▼「金剛仙女(금강선녀)」を聴く。ちょっと、ソ連映画の音楽のよう・・・今様である。

最後に、鄭敾の「金剛全図」とそこに記された詩を次のように紹介している。
・金剛山を描写した古い絵もたくさん残り、最も有名なのが朝鮮時代の画家、鄭敾(チョン・ソン、정선、1676年~1759年)の「金剛全図」だ。ある冬の日の、寒々しい峰の連なる風景を力強く描き、一角に自ら詠んだ詩が書かれている。
・「岩山は何輪もの蓮華の花のように連なり白い光を放っている。またその横には松の木が茂り、道をつくっている。たとえ私の足で直接踏んでみることにしても、これから、またあまねく歩かなくてはならない場所だ。それなのに、どうして枕に寝転び、私の絵だけをじっと見つめているというのか。」。今はこの金剛山に冬が訪れようとしている。

    (注)「金剛全図」には、花崗岩の複雑な白い岩肌と多数の峰々が幾重にも描かれている。

▼「美しい国へ(아름다운 나라로)」を聴く。ミュージカル曲だろうか・・・今様である。

2013年10月28日月曜日

パティ・キムの引退公演

韓国歌謡のCDを集めだしたのは、秋葉原にあった研修センターの帰り道、電器店やCDショップを巡って見つけたパティ・キム(패티김、1938年2月28日~)のCDアルバムからだった。パティ・キムの歌う「マリア」の声量というべきか迫力にひかれて、彼女のシリーズはもちろん、ナフナ(羅勲児)やイ・ミジャ(李美子)、ヘウニ(혜은이)、ミン・ヘギョン(閔海景)などのCDやVHSを探した。当時、日本における代表的な韓国歌手はケイ・ウンスク(桂銀淑)だった。彼女の韓国歌謡からトロットを含めて様々な曲目を知った。

韓国専門書店にも足を運んで店主から情報を得たり、新大久保というよりはそれ以前のこと、新宿職安通りに面した「コリアプラザ」のCDの山をなめた。その頃やっと、イ・ソンヒのCDと出逢うことができた。もちろん、イ・ソンヒについては、CDだけでなく、LPレコードを探しにソウル地下街にある中古LPショップに出かけたことはいうまでもない。

ところで、そのパティ・キムが引退を発表したのは、昨年の2月15日のことだったが、ついに今月の26日に引退公演を迎えた。連合ニュースの記事「パティ・キム、55年の歌人生終了... "本当に恵まれた"」(10/26、イ・テス記者)は、「26日午後、松坡区芳夷洞オリンピック公園体操競技場で開かれた、公式引退公演『グッバイ パティ - パティ・キム 彼女が歌う最後の歌』」を次のように報じている。(抜粋)

(本ブログ関連:”パティ・キム”)

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「長年いつも拍手で私を愛してくださりありがとうございます。私は今、舞台を去りますが、みなさんのそばにいつも私の歌があるよう願います。」

歌手パティ・キム(75)は「ありがとうございます。グッバイ!」という挨拶を最後にマイクを置いて舞台を去った。55年の舞台人生の幕を下ろす瞬間だった。

後輩歌手のヤン・ヒウン(楊姬銀)、イ・ソンヒ、イン・スニ、イ・ウンミなどと孫たちは、先輩であり祖母である彼女に花束を渡して祝福し、客席は手を振って最後の挨拶を送った。
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パティ・キムを日本人歌手にあてはめれば、雪村いずみに当たるのではないだろうか。ともに、時代とジャンル、それにスケールの大きさが重なる大歌手だ。

最後にパティ・キムについて、彼女と吉屋潤(길옥윤)との、出会いと「別離」を知らぬ人はいない。

2013年10月27日日曜日

調布飛行場巡り

秋の陽を受けようと、野川の岸辺を巡り、緑陰の野川公園を抜けて、あわただしさもほどほどに落ち着いてのんびりとした調布飛行場に行く。

旅客ターミナルを見て驚いた。南の島のつながりを感じさせるローカル色が残っていたあのモルタル作りのターミナルが、大きなガラス張りの建物に変わっていたのだ。今年の4月にリニューアルしたとのこと。最近も飛行場近くに何度か訪れたことがあるのに気付かなかった。都下のローカル飛行場(都営コミューター空港)といえども、大きな施設ゆえ・・・と言い訳する。いやあ本当に知らなかった。

以前のようにロビーは狭くて暗くないので、旅行者の動きに慌しさがなくゆったりして見える。そんなわけで、ピカピカのロビーの座席に座って、わたしも旅する気分を味わって、ロビー脇に置かれた観光リーフレットをのぞきながら、新島へちょっと行ってきますという具合だ。
新島の有名な、こうが石で作った緑色のガラス細工写真を見ると、まるで橄欖(かんらん)石の緑色を思いだす。そのまま飛んで行ってみたい気になる。

しばらくの間、いただいたメールの返信など作成して、ターミナルの雰囲気にひたった後、場所を変えて南側にあるプロペラカフェの建物に足を運ぶ。こちらは家族連れで満員状態。プロペラカフェに隣接した格納庫を覗くと、次のような飛行機(ほかにも多数配置されている)が並んでいた。
・JA3187 : 高翼単発セスナ150(写真上部に翼のみ見える、見学用仕切り内側に配置の中古機のよう)
・JA9664 : ヘリコプター、アグスタA109AⅡ、ほか

ところで、カフェの席待ちリストに署名したが、あまりの混み具合に結局辞退した。帰り道は、風が吹き始めたようで、陽も西に傾きひんやりとしてきた。滑走路北側には相変わらずドルニエ機が翼を休めていた。

(本ブログ関連:”調布飛行場”)

管制塔とターミナル
プロペラカフェから覗いた航空機

2013年10月26日土曜日

地震、台風、そして感謝会

地震、雷、火事、親父・・・のことではない。

今日の日付に変わった深夜2時10分頃、緩やかな揺れが始まった。いつまでも続く振動が次第に強度を増していくのではないかと不安が走る。深夜のテレビ討論番組を見ていたが、画面に地震速報のテロップが流れない・・・急いで他局を見ると、福島県沖に地震が発生したと表示していた。

気象庁の地震情報は、「福島県沖(牡鹿半島の東南東290km付近)で、震源の深さは約10km、地震の規模はM7.1と推定」とのこと。気象庁によればわが家の震度は「2」だが、不安感を含めると「3」ぐらい・・・だ。

しかも、テレビは繰り返し「津波の注意」を報じた。討論番組のテーマと心配が重なる。

一方、その襲来を恐れていた台風27号は、思いの他平穏であった。進路は当初の予想より南側にずれたような気がする。

過ぎてしまえばホッとする。何事もなかったように終わるが、そんな自分自身に不思議を感じる。恐怖に敏感でも忘れることは速い。地震も台風すら忘れがちだ。

ところで今晩、久し振りに都心に出た。

お世話になった先生を囲んで感謝会を開いた。こちらは、わたしたちの興味と関心を集中的に導いていただいただけに、すぐにご恩を忘れるようなことではない。教えていただいたことを大切に守って、今の高揚を忘れずに更に前に進みたいと思う。
ご指導いただいたL先生と、お礼の会の音頭をとっていただいたK氏に感謝。

2013年10月25日金曜日

歳月が流れても変わらぬ歌唱力と高い音楽的完成度を見せる女性歌手

JKSTARS.COMの記事(10/24)は、昨年10月に調査した、若い世代が「歳月が流れても変わらぬ歌唱力と高い音楽的完成度を見せる女性歌手」として選んだ中に、歌手イ・ソンヒの名をあげている。
記事は、関心となる歌手を見つめる、若い2030世代(20~30代)と中年の4050世代(40~50代)ファン層の見方(世代観)について解説している・・・のだが、ここではイ・ソンヒにかかわる部分だけ焦点を合わせ抜粋する。感謝。

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メンズウェアの代表ブランド第一毛織ギャラクシーが、「世代を越えて世代に(Generation to Generation)」との変わらぬ価値を伝える「タイムレス・クラシック」キャンペーンを展開して、昨年10月の世論調査専門機関のOPENSURVEYを通じて、「世代を超えても変わらない価値」について調査した内容によれば、4050世代に最も愛される女性アイドルグループはシスターだった。

また、2030世代は「歳月が流れても変わらない実力を誇る歌手は誰ですか?」という質問に、女性歌手ではイン・スニ(인순이)、イ・ソンヒ(이선희)、イ・ウンミ(이은미)を選択し、男性歌手ではイジョク、ユン・ミンス、キム・ゴンモを選んだ。

この調査は、(2012年)10月4日から5日まで、(韓国)国内に居住している、2030〜4050世代の500人を対象に実行された。

「おじさんファン」、 「おばさんファン」などはもう知らない単語ではない。4050世代は、積極的にアイドル文化を享​​受しており、逆に2030世代は、これまで活発に活動している中堅歌手たちの音楽に触れ、親の世代が感じる香りに共感する。音楽を通して世代間のギャップが狭くなっているのである。

一方、2030世代は「歳月が流れても変わらぬ歌唱力と高い音楽的完成度を見せて依然として実力を誇っている女性歌手は?」という質問で、
・1位(36%)に、イン・スニを挙げた。
・2位(23.5%)は、小さな体躯でほとばしるエネルギーと歳月を重ねる声色のイ・ソンヒが占めており、
・3位(19%)は、「私は歌手だ」などで完成度の高い歌唱力で大衆に感動を与えるイ・ウンミが選ばれた。
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(Youtubeに登録のBong Jae Kim、doll4021に感謝)

2013年10月24日木曜日

(資料)イ・ソンヒのスター・ストーリー「3.宗教家である父と、自然とともに過ごした幼い子供」

先日(9/27)、「スポーツ韓国」の紙面(1991年3月8日~4月5日)に連載された「イ・ソンヒ27歳当時のスター・ストーリー」記事の目次を紹介したが、その第3回目をここに載せたい。感謝。
イ・ソンヒの幼い頃の祖父も含めての家族愛や、「音域の広い」彼女の声が「父から受け継いだ」と語る影響について・・・知りたかったことだ。

(本ブログ関連:”(資料)イ・ソンヒ(27歳当時)の「スター・ストーリー」”、”資料:이선희 Profile”)


[3] 宗教家である父と、自然とともに過ごした幼い子供
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私が三歳になった年である1966年、両親は私を連れて忠南(忠清南道)の保寧からソウルに移住した。初めての定着地は城北区三仙洞だった。

当時、父は大韓仏教「一乗宗(일승종)」の宗会議員と同時に、仏教音楽「梵唄(범패)」の伝授者であった。

    (注) ネット上で、イ・ソンヒの父親の所属宗派を「太古宗태고종)」と記されることがあるが、この記事から(当時)「一乗宗」が正しいようだ。なお、「一乗宗」の正式な成立は1969年とされ、この年に大法院裁定により韓国仏教の最大宗派となる「曹渓宗(조계종)」と「太古宗」が正式に分離している。
    (注) イ・ソンヒの家族が保寧から転居したソウルの城北区内に「一乗宗」の一乗寺がある。
    (注) 一乗宗の「主な宗団機構は宗正の下、宗務全般を掌握する総務院、糾正(きゅうせい)機関である監察院、議決機関である宗議会などがある。」
    (注)「梵唄」については、「太古宗」との関連がネット上で話題にされることが多い。

父の身分が僧侶だったために、所属寺院が変わるたび、わが家は引越し荷物を荷造りしなければならなかった。

そうするうちに、私は仕方なく国民学校だけ六ヶ所を転々と移り渡った。友人とちょっと付き合うだけで、校歌を覚え歌うことができるようになると、私はまた間違いなく見知らぬ学教に転校しなければならなかった。私も知らぬうちに性格は内省的に沈んでいった。

ときおり近所の子供たちとケンカをすると、その悪童たちが必ず私の父をあげつらった。「僧(중)」がどうしたといいながら。朴景利(パク・キョンニ、박경리、1926年~2008年)先生の小説「土地(토지)」で、年齢の幼いキルサン(길상)が悪童に「僧」と冷やかし受ける気持ちを十分に理解することができた。

    (注) 韓国仏教における妻帯の問題は、歴史上の課題でもあった。⇒ ”韓国仏教

自然に私と同じ年頃の子供たちと一緒に過ごす時間が減り、周りの山、木、花、鳥そして風と親しくなった。

(ちなみに)ネパールに「導師」が多いのは、両親が仕事に出て行った後、一人で自然に接して成長した子供たちが多くてとか? とにかく私は木と草に群がる虫たちと話をして育った。

もちろん幼い時からひたすら叙情的で思索的だったことは決してない。森の古木の木の上に綱をぶら下げてターザン遊びをして時間の経つことが分からなかったし、休みになれば田舎の祖父の家に行って明け方から川岸のフナを(網で)すくいてあげた。また、真夜中に近所の野菜畑を堀り散らしに行くマクワウリとスイカ荒らしで、蚊に刺されていることも分からなかった。

ソウルではひょろひょろしっぱなしの私だったが、田舎に行ったら全身に力が湧き、敏捷で活き活きするようになった。

ソウルでも、やはり父について移動も何度もしたが、行く所ごとに常に鬱蒼とした森があった。父の勤め先(?)である寺はたいてい山の中にあるのだから。

ところで日曜日になると、悪い鳥捕りたちが空気銃をかついで「私の森の中」に狩猟にきたりした。
彼らが去った後、かわいそうにも死んだ鳥が数匹ずつ散在していた。
私は、目に映りしだい死んだ鳥のために墓を作った。墓の上に小さな木の枝で十字架を作ってさした。

ところが、まさにその木製の十字架のために、寺にいらした僧侶たちにひどい目にあったことがある。仏さまを祀った寺院のあごの下に、どうしてあえて十字架を差し込むことができるかということだった。そこまで考えが及ぶことができなかったことではないが、さりとて私の腕前で「卍」の字形を作ることは到底できなかった

私の子供時代の思い出は、祖父と父から始まる。

私の考え方や価値観に大きな影響を与えた宗教家としての父、そして特に私だけを心からも愛してくれた私の祖父。

懐かしさは、明け方の山腹を取り囲んで染み入る雲であり、灰色がかった舗道の上に溶けて落ちる白い雪であり、激しい風の末に立っている弱い木の枝だ。

会いたくて懐かしい祖父. その祖父は私が中学校2年の時に亡くなった。だが、あなたのその実直だった姿はまだ私の両目に浮かぶ。

祖父は田舎に住んでいたが、いつもソウルの我が家に来てくれて何月も留まったりした。そのたびに、祖父は古物の自転車を引いて下校時間の2時間前から校門の前で私を待ってくださった。

自転車の後ろの席に座って帰宅する気持ちは喜びそのものであった。祖父は明け方のたび、私を連れて泉(薬水)の汲み場に行った。昔も今も、明け方の静かな泉には騒々しいちびっ子の出入りは禁忌視されているけれど、私だけ祖父の「こね」のおかげで、近所の老人たちが掌握していた泉でも自由にできた。

休みのたびに田舎の祖父の家に行けば、祖父は一日中私の手を握って、野原で山で、歩きながら無数の昔話を聞かせてくださった。

田舎の家の裏庭にある竹で「洞箫(퉁소)」(尺八に似た笛)も直接作ってくれたし、クヌギの木で手作りで「ユッ」(小ちいさな丸い棒切れを割って作る四本一組の遊戯具)も切ってくれた。

    (注) ユッは、ユンノリ(윷놀이)遊びに使う。

祖父と私が散歩に出て行くたびに、祖母は袋いっぱいニンニクとネギを満たして祖父に渡したりした。祖父はそんな生ニンニクとネギが好きだった。

あちこち歩き回って脚を休ませようとすれば、祖父と私はニンニクとネギを食べた。口の中がとてもヒリヒリしたら、地面の穀物の穂を拾ってモグモグ食べながら。

考えてみれば、何の科学的根拠もないが、その時そんなにたくさん食べた生ニンニクが私の大きく高い声(高声)の源泉ではないだろうか・・・。

祖父は当時、日毎に変化した時代の潮流とは塀を築いた方だと父はいった。

伽耶琴(カヤグム)と唱を楽しんだ、常に高尚な人(ソンビ)としての風流が好きな方だった。また、外来の文物に対してはほとんど本能に近い警戒心を抱いておられたので、父を新式の学校に送るのは不合理な話だったようだ。

新しい学問に接する道が塞がってしまった父はそれでも何かを学ばなければならないと決心し、ある日さっさと単身寺に入られた。山寺で仏教思想の奥深さ(玄妙)に夢中になった父は永遠に仏と共に生きていく心を決めたという。

父の仏心は家族には薄情と感じられるほど敬虔だった。そのせいで母は家と寺の間を上がり下りするのに、気苦労、体の苦労が非常に激しかった。

父の仏心は、ある夏の日、土砂降りのようにあふれた豪雨で水騒動が起きた時、そしていつだったか、私の不注意で山火事を起こした時に如実にあらわれた。

国民学校の低学年の時だったと記憶している。だから70年代初期ぐらいだ。あまりにも引越しをたびたびすると町の名前もぼうっとする。三仙洞か敦岩洞か、もしかしたら論硯洞か新林洞なのかも分からない。

とにかくその時も、父は家の後方にある山中の寺にいたし、私たちの住居は山麓にあった。

その年の夏、数日をおいて空があいたように豪雨が降った。寺は高い山中にあるのでこれといった水害にあうわけはないが、ふもとにあった我が家は途方もない水騒動を体験しなければならなかった。

谷川があふれると、いつのまにか真っ赤な黄土水が家の前の梨畑を襲って中庭に迫った。母はあわてて木板などをごちゃごちゃ集めてイカダに似たものを作った。私と弟はあたかも渡し舟に乗っているような気分で、恐ろしさはおろかかえって楽しいだけだった。

その瞬間、寺から息を切らして走って降りてきた父が庭に入った。子供の目にも父の顔に心の余裕がない表情を読むことができた。「ああ、母と私たちが心配になって来たんだな。」

ところがそうでなかった。父は部屋に入るやいなや祭器、蓮の提灯、窓戸紙など寺で使う物を取りまとめ始めた。薄情だった。母性愛と父情の間にはそのように大きい差があるのだろうか?

その夏の水騒動に続き、その年の晩秋には「火事騒ぎ」があった。

深い山中の寺刹も人の住む所だと、毎日毎日ゴミがでた。ゴミを一度に捨てに下山することはできないことなので、たいてい寺近くの空地でゴミを燃やしてしまったりした。

今考えれば、乾いた落葉の覆いかぶさった山中で火をつけることがどれくらい危険千万なことなのか、めまいがするが、とにかく出たその日のゴミの山に燃料を入れて火をつけると、火は風に乗って広がり山の3分の1ほどを焼いてしまった。山火事はたまたま降った雨で消えた。

火が広がる兆しが見えるやいなや、私は遁走を決めた。突然怖くなったためだ。怒られるのが恐ろしくて家にも入れぬまま、夜12時まで雨が降る晩の秋山の中で寒さに震えた。

家で私を探しに出た気配も全くなかった。結局、寒さと腹ペコということと山の獣の鳴き声にこれ以上持ちこたえることができなくて家に入った。

父は鞭を持って私を待っていた。翌日、明け方まで私は涙がにじむように鞭で打たれたし、一場の訓戒(その場だけの戒め)を聞き終えた後、はじめて母の懐で寝つくことができた。

幼い時の父は、私に常に「恐ろしい人」だったが、音域の広い私の声は父から受け継いだようだ。

今でも父の声は素晴らしい「響き」を持っている。朝早く、目覚ましの音には起きられないでも、父の咳は家族全員を起こすほどで、たまに友人の方々を連れて家に来られる時も、「ここが我が家です」という声が家まで聞こえてくる。強いてベルを押す必要がないのだ。
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2013年10月23日水曜日

霜降 2013

今日は、二十四節気の「霜降(そうこう)」。牛肉の「霜降り」とは関係ない。曇天とはいえ、まだ夏の余韻が残っており、おまけに台風の運ぶ南からの暖湿(壇蜜ではない)のせいで、まだまだ霜や木枯らしが訪れる景色ではない。

(本ブログ関連:”霜降”)

それよりも台風の方が気掛かりだ。台風27号、28号と次々押し寄せてくる。27号が28号をはじく形になったが、その27号の影響が心配だ。

しかも、この27号と28号の互いの干渉によって、予想外の動きも考えられるという記事がネット上に見受けられたが・・・。

ということで今週は、空模様が次第によろしくない。といって、早めにやっておくこともないけれど。

2013年10月22日火曜日

KBS WORLD「国楽の世界へ」 稲刈り

KBS WORLD「国楽の世界へ」は、先週水曜日(10/16)に文化的なキーワードに基づく韓国文化シリーズの第27回として、稲刈り(벼베기)について紹介した。(先々週10/9は「ハングルの日」特別番組のため休止している)

まず、「米」に対する思いや共感の言葉の紹介から次のように始まった。
・咸敏復(ハム・ミンボク:함민복、1962年~)の詩「肯定的な飯(긍정적인 밥)」の初めに、「詩、一遍に三万ウォンでは/余りにも少ないのではと思いながらも/米二升だと考えたら/すぐに温かい飯となる」とある。農作業を経験したり、親の農作業姿を見たりすれば、この一節に共感できるのではないだろうか。
・昔の人は「飯が天(밥이 하늘입니다)」と考え、米を収穫するまで八十八の手が掛かると言われた。現代は技術が発達して、米はもちろん他の穀物も大量生産が可能となったが、生産者の思いは今も変わらないだろう。

▼南道民謡の「農夫の歌(농부가)」を聴く。ネットに朝鮮時代の歌とも・・・どこか洗練された歌い方・・・現地録音盤を聴きたいけれど贅沢かな。

次に米作りについて次のように解説された。
・米一粒の重さは、0.2ミリグラムほど。この一粒を作るために、農夫は春から秋まで休みなく働く。空から眩(まばゆ)い太陽の光と恵みの雨が、地には様々な微生物が、米作りを助ける。米一粒が農民の重みであり、宇宙の重みであるという言葉が、決して誇張されたものでないと感じ取れる。
・今この時期、稲刈りが最終段階に入ったところだ。例年に増して暑い夏、それだけに穀物の成長も良かった。実りを収穫する農民は、働く体は辛くとも、心はこの上ない幸せを感じているだろう。
・最近は収穫作業も機械化し、稲刈りから脱穀までその場で行うが、昔は人手で、鎌を使って一つ一つ稲を刈り取った。短時間に刈り取るためには、村中が一斉に駆けつけて働かなければならない。大勢の村人が集まって働くとき、農作業の合間に取る間食を女性が中心に準備し、子供もマッコリ運びにかり出されたという。

▼全羅北道金堤郡の「稲刈り唄(벼 베는 소리)」を聴く。いいなあ、汗臭いフレーズの繰り返しに一気に引き込まれる・・・こうでなくては。

最後に、のんびりした時代の農村風景が語られた。
・村中総出で刈り取った稲は3、4日間、田んぼの上に広げて乾燥した。さらに藁一束ずつまとめ、立てた状態で10日ほど乾かした後、庭に運んで脱穀作業を行った。一年の農作業の集大成が、無防備に田畑に広げられていたわけだが、昔は稲が盗まれる事件はなかった。農家の実りは、いつの時代でも喜ばしいものと言える。(今はいろいろやかっかいなこともあるようだが)

▼「告祀徳談(고사덕담)」を聴く。なんだか楽しくなる、めでたい・・・体も揺れるよ。

2013年10月21日月曜日

イ・ソンヒの「クデヨ(貴方よ)」

聞くたびに心地よい歌がある。イ・ソンヒの5集所収の「クデヨ(貴方よ、그대여)」(キム・ポムニョン作詞/作曲)もそうで、このブログに何度も記してきた。
この詞に、「貴方(그대)」と「あなた(당신)」があって、文字で情感を区別したけれど・・・。

(本ブログ関連:”クデヨ”)

貴方よ  貴方よ  わたしの手を支えてください
今日もわたしの心は  さまよっています
月明かりのない夜を  歩いています
雨降る道を  歩いています
あなたの愛が必要です
あなたの愛を待ちます
貴方よ  貴方はいったいどこで何をされてますか

貴方よ  貴方よ  わたしの気持ちをわかってください
今日もわたしの心は  あなたしかない
星明かりのない夜を  覚えていますか
その時のその思い出を  覚えていますか
あなたの愛が必要です
あなたの愛を待ちます
貴方よ  貴方はいったいどこで何をされてますか

(Youtubeに登録のkoreanballadsに感謝)

2013年10月20日日曜日

今日は一日中雨

今日は朝からしとしと雨が降り、こういう雨を「地雨」といっていいのだろうか。歳時記には、この言葉が載っていないけれど、季節の要素はないのだろうか。

この雨の中、隣り街に出かけた。晴耕雨読?の結果を試しに行ったわけだが、はたして慈雨となるのか、涙雨となるのか。

雨といえば、おじさんには、八代亜紀の「雨の慕情」、イ・ウンハ(イ・ウナ、이은하)の「春雨(봄비)」なんかいいんだけどねえ・・・。

小雨の降り続く帰り道に、小さな駅前食堂で「カツどん」を食ったが、果たして効果があるだろうか、間に合っただろうか。

(Youtubeに登録のColumbiaMusicJp、류명진 류に感謝)

2013年10月19日土曜日

一日分の野菜

どういうということもない話・・・一日分の野菜を盛った「野菜たっぷりちゃんぽん」なるものを食った。

隣町での用事が済んで帰り道、ちょいと寄ってみようかと思い、寒空のした足を向けた。ちゃんぽん一杯で一日分の野菜が摂れるなら、それにこしたことはない。ところが、運ばれてきたものを見て驚いた・・・それが凄いのなんのって、けたたましい量の野菜が盛られていて、その下に麺が沈んでいたのだ。しばらくは野菜を掻き分けて、どんぶりの奥底から探し出すようにして麺を食った。

注文を聞きに来た店員さんから「餃子もいかがですか」といわれたが頼まなくてよかった。胃袋にそんな余裕はない。汗をかき、時間をかけて腹をさすりながら食った。最後の頃にはちゃんぽんを食ったのか、ちゃんぽん味がする野菜を食ったのかわからなくなった。

野菜を摂取するのはいいことだ。けれど、一日分を一度に食べるのはきつい(当たり前だ!)。いいことだからといって、無茶はいけない・・・ものごとにはほどほどがある(当たり前だ!)。反省。

2013年10月18日金曜日

女性審査委員の不在

Kstyleの記事「『SUPER STAR K5』に続き『K-POPスター3』まで、女性審査委員の不在・・・“その理由は?”」(10/9、キム・ギョンミン記者)は、韓国のオーディション番組における女性(歌手)審査員不在の現状を報じている。ここでは、唯一女性審査員としてイ・ソンヒおいてほかに人材がいないという点について語られた部分だけ記す。

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・・・このようにオーディション番組の審査委員から女性歌手たちが外される理由は何だろうか? 放送関係者は、審査委員として出演できるような音楽的なキャリアはもちろん、知名度とバラエティセンスを兼ね備えた女性歌手の不在を理由に挙げている。

実際、最初に女性審査委員を投入した「SUPER STAR K」は新しいシーズンが始まる度に出演歌手たちの審査委員資格議論が起こった。参加者の音楽的な実力を評価できるような歌手が審査委員を務めているのかという問題だった。

女性審査委員を投入して唯一審査委員資格議論とならなかったのは、MBC「偉大なる誕生」のイ・ソンヒぐらいであった。女性歌手を代表する知名度を持つシンガーソングライターが韓国の音楽業界にはあまりいないというのが現実である。

・・・
しかし女性歌手がオーディション番組から排除された2013年の音楽業界はもちろん、最近デビューした女性歌手の場合、芸能事務所で徹底的に作り上げられる現在の音楽業界を見れば、今後数十年は審査委員を務められるような女性歌手が現れるのは期待しにくいというのが韓国音楽業界の大きな問題である。
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(本ブログ関連:”シンガーソングライター”)