昨日(6/26)、透き通るような陽射しの午前中、地元公民館主催の市民講座「小金井の新田開発」(5回シリーズ)の第5回最終講義を聴きに行く。最後まで講義室は聴講者で満員の盛況だった。
(これまで、鷹場、街道、玉川上水、新田創設という切り口で、江戸との一体化について解説された)
今回も、東京学芸大学の大石学教授から、江戸時代に武蔵野新田に植樹された、松、栗、竹、そして桜の記録資料について、いつものように丁寧な解説と興味深いお話を聴かせていただいた。
【松】
・元禄7年(1694年)の文書に、玉川上水の両岸に植えて、橋の建材に使用したという記録がある。江戸の早い段階から植林が始まっている。その後、新田の囲いとして植えたてられることになる。
【栗】
(栗林を今も散見できる)
・将軍家へ栗を献上するため、栗林を仕立てる経緯が、「大岡越前守忠相日記」の元文2年(1737年)以降に克明に記されている。
・栗林は、小金井を中心に作られた。(下小金井新田、関野新田、梶野新田、井口新田、野崎新田、大沢新田、境新田、関前新田、上保谷新田、田無新田)
・栗林の下草を刈り取り、畑の肥料などに使われたが、管理は厳重に行なわれた。
・払い下げの栗老木を売った代金について、周辺村々と争いも生じたりした。
・献上を通じて、将軍家との一体化の意識が生まれる。栗林については行政(幕府)が支援し、地域は自分(農民)たちで管理するという関係が成立する。
(本ブログ関連:"小金井雑記"、"小金井雑記"、"春の兆し")
【竹】
・栗林とセットで育成された。これも同様に、「大岡越前守忠相日記」の元文3年(1738年)以降に記されている。
【桜】
(「小金井桜」として名をなしている)
・桜の植樹について、その時期を知る一次資料が見つかっていない。寛永年間(1624年~1644年)、寛文10年(1670年)、享保年間(1716年~1736年)、元文年間(1736年~1741年)、寛延年間(1748年~1751年)などの諸説がある。しかも、桜の苗木産地(和州吉野、常州桜川など)といわれている所にも記録がない。
・植え付けの理由に次の3説がある。
① 地域振興のため:飢饉など経験から政策のひとつとして。
② 上水の浄化のため:桜は水毒を消すという。
③ 玉川上水の堤が崩れぬため
・桜木の払い下げについて幕府最古の資料が明和年(1772年)にある。
小金井桜
・文政2年(1829年)の資料に、すでに「小金井桜」の名が見える。
・当初知られなかった小金井桜も、江戸後半には遠くても江戸からの花見客で賑わうようになり、泊りがけ(小金井橋ほとりの柏屋)で見物に来るようになったりもした。当時のガイドブック「小金井道しるへ」なども発行される。
・天保15年(1844年)、将軍になる前の徳川家定も観楼に来た。
(本ブログ関連:"小金井公園のさくら"、"春のぬくもりにさそわれて")
以上、江戸時代を通じて、小金井地域の村々は(首都)江戸との関係のなかで、首都圏として成長・発展した・・・という、終わりの言葉をいただいた。
(付記)
郷土の歴史を知りたいことから、ついつい身近に目が行くが、今回のような大きな切り口(鷹場、街道、玉川上水、新田創設、そして桜)を通じて時代の流れを俯瞰する意義も知った。
(本ブログ関連:"「小金井の新田開発」")
2012年6月27日水曜日
2012年6月12日火曜日
「小金井の新田開発」(4)
朝から小雨がぱらつく午前中、地元公民館主催の市民講座「小金井の新田開発」(5回シリーズ)の第4回目に行く。前回にも増して更に早く到着するも、部屋には聴講者が次々入室してすぐに満員になった。
今回は、享保改革の将軍吉宗の懐刀であった、大岡越前守忠相(ただすけ)の新田開発とのかかわりについて次の通り説明があった。
・幕府3大奉行(町奉行、寺社奉行、勘定奉行【現在の財務+農水+国交省】)の内、町奉行、寺社奉行を歴任しつつ、地方(じかた)御用【農政を担当】を勤めた。
・新田開発に当たっては、実践的、機動力のある配下を擁して、勘定奉行と対立することもあった。
・官僚化した勘定奉行との対立関係が庶民にうけて、大岡政談などの伝説につながったという。
・しかしながら、新田開発や検地(幕府のコントロール)を通じて農業の経済化(江戸を支える食料などの物流、私的土地所有など)を実現し、結果として官僚機構の勘定奉行の実質的強化を推し進めたことになる。
また、古文書「武蔵国多麻郡下小金井村見取検地帳(享保十八年丑四月)」(一部)のコピーをもとに、下小金井村の生産規模や関係者などの記述を解読して、歴史を知ることは、まず一次資料から・・・ということを気付かせていただいた。
(本ブログ関連:"「小金井の新田開発」")
(追記)
なぜか最近、火曜日に小雨が多い。今晩も、韓国語教室には雨傘をさして通う。
それにしても今日一日中冷えるなあ。厚手の長袖シャツを引っ張り出して着ているのだから。
今回は、享保改革の将軍吉宗の懐刀であった、大岡越前守忠相(ただすけ)の新田開発とのかかわりについて次の通り説明があった。
・幕府3大奉行(町奉行、寺社奉行、勘定奉行【現在の財務+農水+国交省】)の内、町奉行、寺社奉行を歴任しつつ、地方(じかた)御用【農政を担当】を勤めた。
・新田開発に当たっては、実践的、機動力のある配下を擁して、勘定奉行と対立することもあった。
・官僚化した勘定奉行との対立関係が庶民にうけて、大岡政談などの伝説につながったという。
・しかしながら、新田開発や検地(幕府のコントロール)を通じて農業の経済化(江戸を支える食料などの物流、私的土地所有など)を実現し、結果として官僚機構の勘定奉行の実質的強化を推し進めたことになる。
また、古文書「武蔵国多麻郡下小金井村見取検地帳(享保十八年丑四月)」(一部)のコピーをもとに、下小金井村の生産規模や関係者などの記述を解読して、歴史を知ることは、まず一次資料から・・・ということを気付かせていただいた。
(本ブログ関連:"「小金井の新田開発」")
(追記)
なぜか最近、火曜日に小雨が多い。今晩も、韓国語教室には雨傘をさして通う。
それにしても今日一日中冷えるなあ。厚手の長袖シャツを引っ張り出して着ているのだから。
2012年5月23日水曜日
「小金井の新田開発」(2)
昨日は、小雨が一日中降り続き肌寒かった。それが、今日は打って変わって、日中カラリと晴れ渡り、まるで夏の陽射しだ。ところが、夕方に近づくとにわかに曇りはじめ、風が吹いてきたのだ。落ち着きのない空模様である。
ところで雨のきのう、地元公民館主催の市民講座「小金井の新田開発」(5回シリーズ)の第2回目が開かれた。一週休みを空けてのこと、おまけに小雨ながら、開始5分前に講義室に入ってみると満員状態。窮屈な座席に滑り込んだ。
さて今回は、次のような内容で講義があった。
1.江戸と武蔵野を含む郊外とのつながりを、街道および水道の成立について
1-1.街道
① 多摩地域には、甲州街道(五街道のひとつ)と、青梅街道が通る。
② 青梅街道の輸送で着目されたのが、「石灰」である。初め江戸城造営に使われたようだ。
→ 青梅辺りで石灰を製したが、奥多摩地域の石灰岩を利用したのだろう?
③ やがて他地域との競合および川舟利用などで、青梅街道の「石灰」輸送が減少する。
むかし、若き歴史学者の、近世の「石灰」生産流通について研究した遺稿が、友人の手で纏められたという話を聞いたことがあるが、上記のような内容もあるのだろうか。
1-2.水道
① 大田道灌時代の飲料は、井の頭池、赤坂溜池、および山の手沿いの井戸などが利用された。
② 神田上水(井の頭→練馬→水道橋→堀)は、約20年をかけて開発。
③ 多摩川上水(羽村【多摩川から取水】→四谷)は、何と驚異の半年で完成(技術についても不明な点が多い)。
また、吉宗までの100年間に、33箇所で分水が開設され、上水、灌漑など利用の他に水車が稼動する。
水車という分業化が進み、産業の幅の広がり、技術の高度化がみられる。
→ 水車が、産業をさらに進めて、産業革命に繋がっていたならなあ・・・。
2.江戸の規模(人口)と、それを支える郊外の特に武蔵野新田の歴史について
2-1.江戸
① 吉宗の享保期に町民50万人、および武家を50万人(推定)として100万人とする通説がある。
② 大岡越前守忠相によって、(現代に通じる)都市政策が実施された。
2-2.武蔵野新田
① 江戸初期の「古村」は、北条、武田武士の末裔による土豪の手で成立した。
村の名前に、高井戸、小金井、貫井などのように水につながる「井」(=井戸)の文字が見える。
② 江戸前期の「古新田」は、土豪の開発による他に、代地や移住などの理由で拡大した。
③ 享保改革(吉宗)期の「新新田」は、武蔵野新田で82か村になる。
いよいよ次回から、当地の歴史に直接関連することになるのか、楽しみである。
(追記)
昨日は雨が止まず、晩まで降りつづいた。おかげで先週同様に、韓国語教室の往復に傘が必要だった。
ところで雨のきのう、地元公民館主催の市民講座「小金井の新田開発」(5回シリーズ)の第2回目が開かれた。一週休みを空けてのこと、おまけに小雨ながら、開始5分前に講義室に入ってみると満員状態。窮屈な座席に滑り込んだ。
さて今回は、次のような内容で講義があった。
1.江戸と武蔵野を含む郊外とのつながりを、街道および水道の成立について
1-1.街道
① 多摩地域には、甲州街道(五街道のひとつ)と、青梅街道が通る。
② 青梅街道の輸送で着目されたのが、「石灰」である。初め江戸城造営に使われたようだ。
→ 青梅辺りで石灰を製したが、奥多摩地域の石灰岩を利用したのだろう?
③ やがて他地域との競合および川舟利用などで、青梅街道の「石灰」輸送が減少する。
むかし、若き歴史学者の、近世の「石灰」生産流通について研究した遺稿が、友人の手で纏められたという話を聞いたことがあるが、上記のような内容もあるのだろうか。
1-2.水道
① 大田道灌時代の飲料は、井の頭池、赤坂溜池、および山の手沿いの井戸などが利用された。
② 神田上水(井の頭→練馬→水道橋→堀)は、約20年をかけて開発。
③ 多摩川上水(羽村【多摩川から取水】→四谷)は、何と驚異の半年で完成(技術についても不明な点が多い)。
また、吉宗までの100年間に、33箇所で分水が開設され、上水、灌漑など利用の他に水車が稼動する。
水車という分業化が進み、産業の幅の広がり、技術の高度化がみられる。
→ 水車が、産業をさらに進めて、産業革命に繋がっていたならなあ・・・。
2.江戸の規模(人口)と、それを支える郊外の特に武蔵野新田の歴史について
2-1.江戸
① 吉宗の享保期に町民50万人、および武家を50万人(推定)として100万人とする通説がある。
② 大岡越前守忠相によって、(現代に通じる)都市政策が実施された。
2-2.武蔵野新田
① 江戸初期の「古村」は、北条、武田武士の末裔による土豪の手で成立した。
村の名前に、高井戸、小金井、貫井などのように水につながる「井」(=井戸)の文字が見える。
② 江戸前期の「古新田」は、土豪の開発による他に、代地や移住などの理由で拡大した。
③ 享保改革(吉宗)期の「新新田」は、武蔵野新田で82か村になる。
いよいよ次回から、当地の歴史に直接関連することになるのか、楽しみである。
(追記)
昨日は雨が止まず、晩まで降りつづいた。おかげで先週同様に、韓国語教室の往復に傘が必要だった。
2012年5月29日火曜日
「小金井の新田開発」(3)
幸い天気に恵まれた午前中、地元公民館主催の市民講座「小金井の新田開発」(5回シリーズ)の第3回目に行く。混みあいを気にして、早めに到着するも、直ぐに聴講者で座席が埋まった。大盛況だ。
シリーズに通底する、武蔵野と首都江戸の密接なつながりについて、「街道」(生産と流通)、「水道」(生活用水)を見てきたが、今回は幕府「鷹場」を通じて次のように証左された。
① 江戸周辺に「鷹狩」のため鷹場が設けられた。中断後、享保改革の8代将軍吉宗が復活させる。
・鷹狩の際に、地元農民に負担がかかった。
② 江戸周辺の行政区に「筋」>「領」の階層があり、鷹場のため領に様々な役割が充てられた。
・行政区の筋の外縁に、御三家(尾張、紀州、水戸)の鷹場が設けられた。
③ 農村は、鷹場のもとに編成されて一体化の意識を育み、江戸(城)と心理的に結びついたようだ。
・行政区の領は、幕府を支える役割を果たし、幕府と一体化する。
④ 幕府は、鷹場を設定して地域主体の開発を制限し、幕府主体の開発に乗り出す。
・例:上下小金井新田など。
参考
① 新田開発の拡張により、農村間で秣(まぐさ)場の争いに発展する事件が発生した。
② 鷹場の目的の一つに、農民も巻き込んだ軍事的な要害の意をも持っていたのではないか。
どうやら、小金井新田庶民の生活の姿は、最終回の第5回に聞くことになるだろうだ。
(追記)
韓国語教室から帰りの夜道、小雨が降ってきて、あばたのように顔にあたる。遠雷に一瞬夜空がくしゃみをする。
シリーズに通底する、武蔵野と首都江戸の密接なつながりについて、「街道」(生産と流通)、「水道」(生活用水)を見てきたが、今回は幕府「鷹場」を通じて次のように証左された。
① 江戸周辺に「鷹狩」のため鷹場が設けられた。中断後、享保改革の8代将軍吉宗が復活させる。
・鷹狩の際に、地元農民に負担がかかった。
② 江戸周辺の行政区に「筋」>「領」の階層があり、鷹場のため領に様々な役割が充てられた。
・行政区の筋の外縁に、御三家(尾張、紀州、水戸)の鷹場が設けられた。
③ 農村は、鷹場のもとに編成されて一体化の意識を育み、江戸(城)と心理的に結びついたようだ。
・行政区の領は、幕府を支える役割を果たし、幕府と一体化する。
④ 幕府は、鷹場を設定して地域主体の開発を制限し、幕府主体の開発に乗り出す。
・例:上下小金井新田など。
参考
① 新田開発の拡張により、農村間で秣(まぐさ)場の争いに発展する事件が発生した。
② 鷹場の目的の一つに、農民も巻き込んだ軍事的な要害の意をも持っていたのではないか。
どうやら、小金井新田庶民の生活の姿は、最終回の第5回に聞くことになるだろうだ。
(追記)
韓国語教室から帰りの夜道、小雨が降ってきて、あばたのように顔にあたる。遠雷に一瞬夜空がくしゃみをする。
2014年7月13日日曜日
川崎平右衛門
地元の郷土史で知られる、川崎平右衛門についての知識はつたない。農民出身ながら、その才能を見出され、享保の改革時に、江戸町奉行大岡忠相の配下として武蔵野新田の世話役に登用され、窮乏する新田の農民を救い、その結果、新田規模を拡大さえしたというのだ。
(本ブログ関連:”川崎平右衛門”)
地元では近々、合唱構成劇に採りあげられるというパンフレットも見たほどに、今だに信望が厚い。ネットでは、川崎平右衛門に関わる地域住民同士の交流も行なわれたという。彼について、もっと知りたい。
今日、散歩で寄った、小金井公園近くにある小金井市文化財センター(旧浴恩館)の資料展示室の一角に川崎平右衛門の紹介があり、彼の供養塔について解説したリーフレットから人となりを次に転記する。
---------------------------------------------------------------
・享保年間、幕府の政策で武蔵野新田の開発が行なわれましたが、困窮する出百姓*が続出して新田の農村の存続の危機を招きました。そこで関東地方御用掛**であった大岡越前守忠相は多摩郡押立村の名主川崎平右衛門定孝(1694~1767)を元文4年(1739)に南北武蔵野新田世話役に登用し、武蔵野新田82ヵ村の振興に当たらせました。平右衛門は田方養料の名目で幕府から補助金を借り、一時に分配せずに肥料をまとめて買い、必要分だけを渡す養料金(やしないりょうきん)制度や貯穀などによって、出百姓の生活の安定化を図りました。こうして、平右衛門が美濃に転じる寛延2年(1749)までの10年間で南北武蔵野新田には新たに戸数300戸、人数1800人、開発反別2000余町が増加したといわれます。平右衛門はその後、美濃や石見銀山の代官を歴任しましたが、明和4年(1767)に江戸で没しています。墓地は府中市の龍光寺にあります。(以下略)
---------------------------------------------------------------
(*) 出百姓: 他の村から新田に入ってきた百姓
(**) 関東地方御用掛: 江戸時代の享保改革期の新田開発などを担当した役職
(本ブログ関連:”川崎平右衛門”)
地元では近々、合唱構成劇に採りあげられるというパンフレットも見たほどに、今だに信望が厚い。ネットでは、川崎平右衛門に関わる地域住民同士の交流も行なわれたという。彼について、もっと知りたい。
今日、散歩で寄った、小金井公園近くにある小金井市文化財センター(旧浴恩館)の資料展示室の一角に川崎平右衛門の紹介があり、彼の供養塔について解説したリーフレットから人となりを次に転記する。
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・享保年間、幕府の政策で武蔵野新田の開発が行なわれましたが、困窮する出百姓*が続出して新田の農村の存続の危機を招きました。そこで関東地方御用掛**であった大岡越前守忠相は多摩郡押立村の名主川崎平右衛門定孝(1694~1767)を元文4年(1739)に南北武蔵野新田世話役に登用し、武蔵野新田82ヵ村の振興に当たらせました。平右衛門は田方養料の名目で幕府から補助金を借り、一時に分配せずに肥料をまとめて買い、必要分だけを渡す養料金(やしないりょうきん)制度や貯穀などによって、出百姓の生活の安定化を図りました。こうして、平右衛門が美濃に転じる寛延2年(1749)までの10年間で南北武蔵野新田には新たに戸数300戸、人数1800人、開発反別2000余町が増加したといわれます。平右衛門はその後、美濃や石見銀山の代官を歴任しましたが、明和4年(1767)に江戸で没しています。墓地は府中市の龍光寺にあります。(以下略)
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(*) 出百姓: 他の村から新田に入ってきた百姓
(**) 関東地方御用掛: 江戸時代の享保改革期の新田開発などを担当した役職
2012年5月8日火曜日
小金井の新田開発(1)
江戸の西側、武蔵野に位置する地元の歴史を学ぶ市民講座「小金井の新田開発」(5回シリーズ)が始まった。大変な反響で、定員40名を大幅に超える80名に拡大した。そのうえ30名近くをお断りしたそうだ。
講師は、東京学芸大学の大石学教授で、テレビドラマなどの時代考証も担当されているという。ドラマの時代考証という関心ある話題をまじえて、第1回の今日は、主として江戸が当時「首都」であったという論説を紹介された。
また、江戸を視る目を、明治維新の主導側からでなく、江戸期の安定・平和が維持された点に向けるべきとして話を進められた。そのうえで、江戸と多摩を対立するものでなく、統合して考えるべきと熱く語られた。
ところで、江戸期に来訪した外国人の記録文言紹介の中で、朝鮮通信使に随行した申維翰(しんゆはん)の「海游録」の紹介があった。申維翰について楽しいアイデアまで披露されて・・・。
興味深い初めて知った江戸末期の話題があった。
・江戸近郊各地の水車を利用して爆薬製造が命じられたが、不慣れなために爆発事故が続出したという。
・江戸防衛のため軍事演習場(駒場、板橋など)の拡張計画に対して、百姓一揆(住民運動)にあい中止したという。
次回から、いよいよ新田開発の歴史について解説される。新田開発に関わった庶民の生活についても触れていただけたらと期待している。
講師は、東京学芸大学の大石学教授で、テレビドラマなどの時代考証も担当されているという。ドラマの時代考証という関心ある話題をまじえて、第1回の今日は、主として江戸が当時「首都」であったという論説を紹介された。
また、江戸を視る目を、明治維新の主導側からでなく、江戸期の安定・平和が維持された点に向けるべきとして話を進められた。そのうえで、江戸と多摩を対立するものでなく、統合して考えるべきと熱く語られた。
ところで、江戸期に来訪した外国人の記録文言紹介の中で、朝鮮通信使に随行した申維翰(しんゆはん)の「海游録」の紹介があった。申維翰について楽しいアイデアまで披露されて・・・。
興味深い初めて知った江戸末期の話題があった。
・江戸近郊各地の水車を利用して爆薬製造が命じられたが、不慣れなために爆発事故が続出したという。
・江戸防衛のため軍事演習場(駒場、板橋など)の拡張計画に対して、百姓一揆(住民運動)にあい中止したという。
次回から、いよいよ新田開発の歴史について解説される。新田開発に関わった庶民の生活についても触れていただけたらと期待している。
2024年7月2日火曜日
うどん
きょうは、香川県の製麺事業協同組合が定めた「うどんの日」(1980年:昭和55年)という。「うどん」は、スーパーなどで買ってん、めんを自宅でゆでて食するだけでなく、駅前や駅中の立ち喰い「そば・うどん屋」、チェーン店の「うどん屋」で気軽に食べられる・・・おじさんを超えた国民食である。海外の映画で、場面作りに「うどん食」があるので、世界食になるのもそんなに遠くないかもしれない。
(本ブログ関連:”うどん”)
(Youtubeに登録の 佐藤大輔 氏に感謝)
(本ブログ関連:”ブレードランナー”)
以前、地元の市民講座で、江戸時代の「武蔵野新田」の主要な作物は、段丘上の乾燥した農地ゆえ「麦作」*と聞いた。「水田」は、武蔵野段丘の下側、国分寺崖線から浸み出る湧水を利用できる一部の地しかなかったという。
(*)https://kodaira-tourism.com/tamarokuto/18820/
(本ブログ関連:”小金井の新田開発”)
それを聞いて、ならば日常は「うどん」を食していたのだろうと勝手に想像した。講演の後、講師の方に確認したところ、「うどん」は「ハレ」のときに食べるものであると教えられた。その後、当時の日常は「石臼で大麦をこまかく砕いたひき割り麦や、押し麦にウルチの陸稲をまぜたメシと味噌汁、漬物、煮物が日常食であった」と知った。
「うどん」が、どれほど貴重なものだったかという理解に届かぬほど、今の私たちは豊富な食物を享受している。
さらに、郷土の人びとが厳しい食事をしていたなかで、今に命を伝えてくれたことに感謝をせずにはいられない。
参考
(もしかしたら同様のQ/Aをしたかもしれないが)、江戸時代の武蔵野新田に生きた農民たちの食事を、生成AIの「ChatGPT」、「Gemini」に問うてみたのが次の通り。
■ ChatGPT
Q,日本の江戸時代に、水田がなくて稲作が不適なため麦作中心だった「武蔵野新田」の農民は、日頃どんな食事をしていたのでしょうか?
----------------------------------------------------------------
A,江戸時代の武蔵野新田の農民たちが日常的に摂っていた食事については、以下のような特徴があります。
主食
・麦(小麦・大麦):武蔵野新田では稲作が難しいため、主食として麦が中心でした。麦飯(大麦と米を混ぜたもの)や麦粥が一般的でした。
・雑穀:ヒエ、アワ、キビなどの雑穀も食べられていました。
副食
・野菜:畑で栽培された大根、カブ、カボチャ、ナス、キュウリ、ネギなどの野菜を食べていました。また、野草や山菜も重要な食材でした。
・豆類:大豆、小豆、エンドウ豆などがよく食べられ、豆腐や味噌、納豆などに加工されていました。
・魚介類:内陸部であるため新鮮な魚介類は少なく、干物や塩漬けなどの保存食として利用されていました。
・動物性食品:家畜や鶏の卵、狩猟で得た動物の肉(野鳥や小動物)も食されましたが、量は限られていました。
調味料
・味噌:大豆を使った味噌は一般的な調味料であり、汁物や煮物に使われました。
・醤油:味噌と同様に、江戸時代には既に醤油も広く使われていました。
・塩:保存のためや味付けのために塩が重要でした。
食事の例
・朝食:麦飯、味噌汁、漬物
・昼食:残り物や簡単な野菜料理
・夕食:麦飯、野菜の煮物や炒め物、豆腐や納豆、時には魚の干物
このように、武蔵野新田の農民たちは地元で入手できる食材を工夫して利用し、栄養バランスを取って生活していました。
----------------------------------------------------------------
■ Gemini
Q.江戸時代、水田がなく白米が手に入らない、麦作中心の「武蔵野新田」の農民は、日頃どんな食事をしていたのでしょうか?
----------------------------------------------------------------
A.江戸時代、武蔵野新田の農民の食事:麦作中心の食卓
江戸時代の武蔵野新田は、水田がなく白米が手に入りにくい地域でした。そのため、農民の食事は麦を主食とした質素なものだったと言えるでしょう。
主食
・麦飯: 麦を炊いた麦飯が主食でした。白米に比べると栄養価が低く、消化も悪いものでした。
・麦粥: 麦を煮込んだ麦粥も主食として食べられました。
・雑穀粥: 稗、粟、黍などの雑穀を麦と一緒に煮込んだ雑穀粥も食べられていました。
おかず
・野菜: 大根、カブ、ネギ、ゴボウ、ニンジンなどの野菜を自家菜園で栽培し、漬物、煮物、汁物にしていました。
・きのこ: 山に入ってきのこを採ってきて、煮物や汁物にしていました。
・豆類: 大豆、小豆、えんどう豆などの豆類を栽培し、味噌、醤油、豆腐、納豆などの加工食品を作っていました。
・保存食: 漬け物、干し物、味噌、醤油などを保存食として常備していました。
肉・魚
・肉: 馬肉やイノシシ肉などの野生動物の肉を狩猟で獲ることが稀にありました。
・魚: 川魚を釣ったり、干物や塩漬けにして保存したりしていました。
その他
・ドングリ: 凶作の年には、ドングリを拾って粉にして餅や団子を作ることがありました。
調味料
・味噌: 大豆を塩こうじで発酵させた味噌は、汁物や煮物の味付けに使われていました。
・醤油: 大豆と小麦を塩こうじで発酵させた醤油は、貴重な調味料でした。
・塩: 海水から塩を採って、料理の味付けに使っていました。
飲み物
・水: 水を主な飲み物としていました。
・麦茶: 麦を炒って麦茶を作っていました。
・甘酒: 米麹を発酵させた甘酒を飲むこともありました。
白米
白米は貴重なものだったため、正月など特別な日のみに食べる「祝飯(いわいい)」として扱われていました。
麦作以外の収入
農業以外にも、薪炭の販売、機織り、日雇い労働などを行い、収入を得ていました。
まとめ
江戸時代、水田がなく白米が手に入らない、麦作中心の武蔵野新田の農民の食事は、現代の食卓から見ると質素なものだったと言えるでしょう。しかし、限られた食材を工夫して、栄養バランスを考えながら食事を作っていたことが窺えます。
参考資料
・東北大学附属図書館企画展トップページ / 第4部資料一覧
https://www.library.tohoku.ac.jp/collection/exhibit/sp/r3/part2.html
・江戸時代の食事情/江戸庶民のおかず|日本食文化の醤油を知る
http://www.eonet.ne.jp/~shoyu/mametisiki/edo-reference15c.html
・武蔵野新田の歴史:
https://www.city.musashino.lg.jp/
----------------------------------------------------------------
映画「ブラックレイン」の屋台
(Youtubeに登録のMovieclips に感謝)
2014年7月3日木曜日
【多摩の代官】享保改革と農民出身代官の活躍
地元公民館で、江戸時代に多摩地区(武蔵)を治めた代官による自治機構を解説する、法政大学大学院の馬場憲一教授による、第5回*講演「享保改革と農民出身代官の活躍」を聴講した。
(*)前回の第4回テーマは、「【野外研修】八王子の史跡を訪ねて」だったが、人数が限られ参加できなかった。
(本ブログ関連:”多摩地区(武蔵)を治めた代官”)
江戸幕府は自治機構として、幕府創立(1603年)から約100年近くの間、「世襲代官」を使ってきたが、その後は任地が変わる「吏僚代官」へと交代していく。その江戸中期に登場した将軍徳川吉宗(将軍:享保元年(1716年)~延享2年(1745年))は、緻密に時間をかけ、2重体制により「享保の改革」を行なったと次のように解説された。
・吉宗を将軍に推挙した旧老中の交代時期を待った。(機の熟すを待つ)
・新田開発にあたり、財政的裏付けのため、豪商の集まる日本橋に、開発について「高札」を立てた。
・農政で、従来の「地方(じかた)支配」とは別に、(別働隊として)江戸町奉行大岡忠相の配下に農民出身代官を配置した。
農民出身の代官として、今回は川崎平右衛門について紹介された。
・川崎平右衛門は、新田開発の中で生活に困窮する農民に配慮した、社会政策的な施策として、公共事業で日当(麦)を支給、商品作物の奨励、栗林の栗買い上げ制度など設け、現金収入による生活の安定化をはかった。
(本ブログ関連:”小金井の新田開発”)
(感想)
川崎平右衛門は郷土史に語られることの多い人士で、その名をしばしば耳にする。能力を認められ、他の地でも代官を務めたという有能さを知る。
世襲代官が時代のなかで排され没落していく一方、農民から有能な行政官になり得る時代へと変遷する。庶民の生活を知ったところから人望を勝ち得た人物であり、それを見い出した上層部の懐の深さも知る。
また、徳川吉宗が将軍職を発揮するため、時機を待つだけでなく、人を見い出し配置・組織する周到さを知る。
(*)前回の第4回テーマは、「【野外研修】八王子の史跡を訪ねて」だったが、人数が限られ参加できなかった。
(本ブログ関連:”多摩地区(武蔵)を治めた代官”)
江戸幕府は自治機構として、幕府創立(1603年)から約100年近くの間、「世襲代官」を使ってきたが、その後は任地が変わる「吏僚代官」へと交代していく。その江戸中期に登場した将軍徳川吉宗(将軍:享保元年(1716年)~延享2年(1745年))は、緻密に時間をかけ、2重体制により「享保の改革」を行なったと次のように解説された。
・吉宗を将軍に推挙した旧老中の交代時期を待った。(機の熟すを待つ)
・新田開発にあたり、財政的裏付けのため、豪商の集まる日本橋に、開発について「高札」を立てた。
・農政で、従来の「地方(じかた)支配」とは別に、(別働隊として)江戸町奉行大岡忠相の配下に農民出身代官を配置した。
農民出身の代官として、今回は川崎平右衛門について紹介された。
・川崎平右衛門は、新田開発の中で生活に困窮する農民に配慮した、社会政策的な施策として、公共事業で日当(麦)を支給、商品作物の奨励、栗林の栗買い上げ制度など設け、現金収入による生活の安定化をはかった。
(本ブログ関連:”小金井の新田開発”)
(感想)
川崎平右衛門は郷土史に語られることの多い人士で、その名をしばしば耳にする。能力を認められ、他の地でも代官を務めたという有能さを知る。
世襲代官が時代のなかで排され没落していく一方、農民から有能な行政官になり得る時代へと変遷する。庶民の生活を知ったところから人望を勝ち得た人物であり、それを見い出した上層部の懐の深さも知る。
また、徳川吉宗が将軍職を発揮するため、時機を待つだけでなく、人を見い出し配置・組織する周到さを知る。
2024年12月1日日曜日
名勝小金井桜と野草たち
公開講座の「雑学大学」は、月2回開催されていて、内容は多彩。今回は、「玉川上水」*の両岸に、江戸中期の元文2年(1737年)に植樹した「ヤマザクラ」による「名勝(=景色のよい)小金井桜」の歴史と、樹下の野草たちについて講演会「武蔵野新田開発と小金井桜と野草たち」があったので参加した。講師は、日本樹木医会元会長の椎名豊勝氏である。
(*)玉川上水: 江戸前期の承応2年(1653年)に上水(=飲用)として築かれた。
以下、聴き間違いなどありましたらご容赦。
現在まで300年の歴史を持つ名勝小金井桜は、武蔵野の新田開発の歴史と重なる。名主の川崎平右衛門は、新田の運営や飢饉に際しての救済など、安定化のため農民への支援を惜しまなかったという。彼は玉川上水に、奈良の吉野山と茨城の桜川からヤマザクラを取り寄せた。
いまだに桜を見られるのは、これまで人びとが植樹を継続**してきたからであり、今後その歴史を継承したい。現在、上水の桜は、他の木々や下草と混在(雑木林化)している。それをどのように整理するか、「生物の多様性」(生態的特徴など)の観点から見直す必要がある。
(**)ヤマザクラの寿命は80年(100~150年)ほどといわれる(最盛は50年目ころ)。
今回、林床の下草を「里山」の考え方(農家・農地 ⇔ 里山(中間地帯・一部手が加わる)⇔ 山林)にもとづきどのように扱うべきか検討し、絶滅危惧から復活した野草が紹介された。
・放置すると、イネ科多年生常緑笹の「アズマネザサ」(シノタケ)の群落に林床が7~8割が覆われる。
・林床にヤマザクラの緑陰が広がれば、本来の自生草本類が育つ環境になる。
・林床で復活した絶滅危惧種(野草)の例:
ー アマナ、 ニリンソウ、キツネノカミソリ、イチリンソウ、ノカンゾウ、ホタルカズラ
最後に、自然とどのように関わるべきかといった議論があることが紹介された。自然のまま、在りのまま手を下さないという考え方。あるいは、今回説明したように里山的な位置づけという考え方・・・だ。
2025年3月24日月曜日
さくら開花宣言(都心)2025
夕方のテレビ報道は、東京管区気象台職員による観測の結果、東京都心の「さくら」(靖国神社の「ソメイヨシノ」の標本木)が開花したと伝えた。
(本ブログ関連:”開花宣言”)
■ 読売新聞
「東京の桜が開花、昨年より5日早く…1週間程度で満開見込み」(3/24(月) 14:16)
ー https://www.yomiuri.co.jp/national/20250324-OYT1T50104/
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気象庁は24日、東京の桜(ソメイヨシノ)が開花したと発表した。開花日は平年と同じで、昨年より5日早かった。今後、1週間程度で満開になる見込み。
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「ソメイヨシノ」の開花を観察するテレビ映像で、見守る人々の服装が冬着に戻ったように見えた。きょうの最高気温は、きのうと比べて、ぐんと冷えている。武蔵野の地についても次の通り6℃ほど低くなっているが、ここ数日は、20℃台前半をキープする。
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3/24 19.6℃(13:49)
3/23 25.7℃(14:34) ← きのうは「夏日」だった!
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ところが武蔵野の地は、今週末から来週にかけて最高気温 11℃ がしばらく続く。そんな中、気象関連会社は、さくらの「満開」を今週末*と予想している。
(*)今週末土曜日と翌日曜日(3/29-3/30)に、小金井公園で「さくら祭り」が開催される。
江戸時代に武蔵野の新田開発にあたり、玉川上水が整備され、合わせて現公園辺りの岸辺にヤマザクラが植樹**された。以降、同公園内も含めて桜の名所になっている。
(**)武蔵野新田の世話役の川崎平右衛門が、幕府(大岡越前守忠相)の命を受け、玉川上水の小金井橋周辺に桜を植えたのが始まり。新田開発に従事する農民たちの慰安や、村おこしの一環として行われたとされる。(Google 生成AI Gemini)
ー
2012年4月21日土曜日
(資料)小麦と武蔵野のくらし
小金井公園にある「江戸たてもの園」で、開園20周年記念特別展として「小麦と武蔵野のくらし」展が今日から始まった。水利の乏しい武蔵野台地で、新田開発した人々の糧でもあった小麦が、どのように栽培され、食されたかが紹介される。昭和期以降の展示が中心で、写真や農機具を通して人々の生活がうかがえる。
以前、地元公民館主催の郷土の歴史散歩シリーズに参加して、江戸期以来の人々の暮らし振りを聞いたことがある。昔の人々が、決して豊かとはいえない、(現在と比べれば)むしろ粗食と思える食事をしていたことを知った。
「小麦と武蔵野のくらし」展では、日常の食事について、次のように記している。
・水が乏しかった武蔵野台地の中央部では、乾燥した畑で栽培ができる麦と雑穀、そしてサツマイモが作物の中心であった。天候にあまり左右されずに収穫できるこれらの作物と、陸稲、根菜類が合わせて栽培された。 人々は季節に応じて、耕地を空かすことなく輪作を行った。
・収穫された小麦で作った手打ちうどんは、ご馳走として、家々の年中行事や冠婚葬祭の席にかかせないものでした。皆で一緒にうどんを打ち、食べることで家族や地域のつながりを深めていったのです。
→(実は、うどんを常食していた時代があったと誤解したことがある・・・ハレの食べ物だったのだ。)
・麦飯
石臼で大麦をこまかく砕いたひき割り麦や、押し麦にウルチの陸稲をまぜたメシと味噌汁、漬物、煮物が日常食であった。
・北多摩の作物と食べ方
武蔵野台地では、かつて大麦・小麦・雑穀・陸稲・サツマイモを主食とした。大麦をほぼ毎食食べ、陸稲のウルチマイを混ぜて炊飯した。大正時代までは雑穀のウルチアワをメシにして食べることもあった。
陸稲のモチゴメはモチにし、雑穀のモチ性のものと混ぜてついた。家によっては正月にモチを一石くらいつき、切ってから水をはった樽に保存し、初夏頃までチャガシにしたり、麦作で忙しい時の昼飯にした。小麦はうどん、まんじゅうにし、寒い夜などは汁にいれてスイトンにして食べた。自家用の醤油のもろみにもした。
・昭和20年代頃は朝・昼・晩に大麦に陸稲のウルチマイをまぜたメシ、10時と15時にはサツマイモや正月についてモチを水に漬けて保存した水モチなどをチャガシとして食した。
→(昭和20年代とは戦後の食料事情の悪い頃のことか? 農村と都市部では大差があったと聞くが・・・)
(本ブログ関連:"小金井雑記"、"小金井雑記"、"小金井雑記"、"小金井の今昔")
以前、地元公民館主催の郷土の歴史散歩シリーズに参加して、江戸期以来の人々の暮らし振りを聞いたことがある。昔の人々が、決して豊かとはいえない、(現在と比べれば)むしろ粗食と思える食事をしていたことを知った。
「小麦と武蔵野のくらし」展では、日常の食事について、次のように記している。
・水が乏しかった武蔵野台地の中央部では、乾燥した畑で栽培ができる麦と雑穀、そしてサツマイモが作物の中心であった。天候にあまり左右されずに収穫できるこれらの作物と、陸稲、根菜類が合わせて栽培された。 人々は季節に応じて、耕地を空かすことなく輪作を行った。
・収穫された小麦で作った手打ちうどんは、ご馳走として、家々の年中行事や冠婚葬祭の席にかかせないものでした。皆で一緒にうどんを打ち、食べることで家族や地域のつながりを深めていったのです。
→(実は、うどんを常食していた時代があったと誤解したことがある・・・ハレの食べ物だったのだ。)
・麦飯
石臼で大麦をこまかく砕いたひき割り麦や、押し麦にウルチの陸稲をまぜたメシと味噌汁、漬物、煮物が日常食であった。
・北多摩の作物と食べ方
武蔵野台地では、かつて大麦・小麦・雑穀・陸稲・サツマイモを主食とした。大麦をほぼ毎食食べ、陸稲のウルチマイを混ぜて炊飯した。大正時代までは雑穀のウルチアワをメシにして食べることもあった。
陸稲のモチゴメはモチにし、雑穀のモチ性のものと混ぜてついた。家によっては正月にモチを一石くらいつき、切ってから水をはった樽に保存し、初夏頃までチャガシにしたり、麦作で忙しい時の昼飯にした。小麦はうどん、まんじゅうにし、寒い夜などは汁にいれてスイトンにして食べた。自家用の醤油のもろみにもした。
・昭和20年代頃は朝・昼・晩に大麦に陸稲のウルチマイをまぜたメシ、10時と15時にはサツマイモや正月についてモチを水に漬けて保存した水モチなどをチャガシとして食した。
→(昭和20年代とは戦後の食料事情の悪い頃のことか? 農村と都市部では大差があったと聞くが・・・)
(本ブログ関連:"小金井雑記"、"小金井雑記"、"小金井雑記"、"小金井の今昔")
2024年12月4日水曜日
市民講座「身近な民間信仰」 ❶
公開講座の「身近な民間信仰」第1日目にあたるきょう、❶「家に祀(まつ)る神様仏様」の講演があった。講師は、府中市「郷土の森博物館」の学芸員、佐藤智敬氏である。(以下聞き間違えがありましたら、ご容赦を)
(本ブログ関連:”市民講座「身近な民間信仰」”)
多摩川の北側にある府中市から、北上して国分寺崖線にいたるまでの小金井市との両エリアにおける、「稲荷信仰」、「講」の2つの伝承について語られた。稲荷信仰は、私にとってかなり興味深いテーマだ。講は、今回初めて聞くことになる。
- 古い2万5千分の一地図上、上記エリアに桑の木が広く栽培されていたのに驚く。
(本ブログ関連:”稲荷”)
① 家の神様(仏様): 稲荷様について
・府中・小金井のエリアにおける、「屋敷神」(個人敷地内)の信仰は、ほぼ稲荷信仰だった。(府中市: 8割)
ー 村共同体の稲荷信仰は、屋敷神から成長(引き継いだり)したものと考えられる。
・屋敷神としての稲荷様の神体は、藁(わら)で作った社(やしろ)や祠(ほこら)の中に置かれた丸い石だったりした。
・屋敷神は、有名な神社・寺院から、分祀・勧請(かんじょう: 分霊をいただいてくる)。
ー 平安時代に、関東エリアに稲荷神はない。
ー 江戸時代中期の新田開発に伴い、村の鎮守として登場。
・朱鳥居は、明治以降に登場したようだ。・・・?
・狐の上にいる稲荷の姿
ー 神道の神体は、稲を背負う。仏教では、守護神の荼枳尼天(だきにてん)。
・家の神様から、効用を持つ神へ変わる。笠森稲荷=笠(皮膚病の瘡(かさ)ぶた)の平癒。
・「稲荷」の前に「~稲荷」と(正一位など)格付けは、近世中に行なわれた。
② 講(こう):宗教的な講(遠隔地への参詣のための集まり)
・農村にとって、天候は神頼みであり、お参りに行くため「講」が作られた。
ー 講の発達:「御師」・「先達」と呼ばれる宗教者により流布され確立していった。
ー 御師の札配りは、大正ごろまでつづいた。
・集団の参詣:ア)日帰りなど全員で行く、イ)代表者が行く(代参)などがある。
ー 遠隔地へ行くのは金持ちだけ。
・宗教的な講であっても、途中あるいは参詣後、旅行の要素を含む行動があった。
・講の減少:ア)農業人口/田畑の面積の減少、イ)天気予報技術の発達などあって、参詣の必要性が減ったことによる。
ー 郷土史: 民家の屋根裏から参詣の証である「お札(ふだ)」が大量に発見されることがある。
(付記)
民間信仰と関係ないが。早朝5:00の「NHK NEWS おはよう日本」に、気象予報士の近藤奈央さんが復帰しているのに気づいた。12/2からとのこと。
2013年5月4日土曜日
稲穂神社
ゴールデンウィーク後半の今日、小金井公園を起点にしたウォーキングに参加する。例年のイベント(「ウォーキングフェスタ東京」)で、いくつかのコースから選択するのだが、年毎にだんだん歩く距離の短いものになる。暖かい陽射しを受けてゆるり、のんびり、散策を楽しんだ。
5kmのコースの途中、「(山王)稲穂神社」があって、その縁起が次のように紹介されている。
「江戸城の守護神として三百年あまり天下安泰の江戸麹町(東京 赤坂:日枝神社)山王宮より承応3年(1654)下小金井の新田開発のため、御分霊を祭る。/御神祭の大山咋神(おおやまくいのかみ)は開拓の神として古来より新天地への社業繁栄、家運隆昌の御神徳あり。/また山王の紳使(御神猿)は古くから魔が去る「まさる」と呼ばれ、 厄除、魔除の信仰を受け、犬と共に分娩の軽き安産の神とし信仰されている。 /境内に疱瘡神社、稲荷神社があり、病気平癒、縁結び、商売繁盛の御神徳。 」(宮司:渡邊陽正)
祭神は大山咋神で、江戸徳川家の氏神であり、比叡山延暦寺、そして中国の天台山の鎮守につながるという。まあ、そんな公的なものとは違って、ちゃんと庶民のための祈り場所もある。
それは本殿脇に設けられた小さな社の「疱瘡神社」と「稲荷神社」だ。疱瘡神社は、悪病の疱瘡に対する恐れから神頼みになったのだろう。興味深いのは、猿や犬とは関係のない稲荷神社だ。稲穂神社の名にある<稲穂>と縁のある<狐>から稲荷神社へ続くのは決して突飛ではないだろう。
江戸期の町に稲荷神社が次々置かれたそうなので、そんな風潮の中、この神社にも稲荷神社が置かれたのかもしれないが。
そんなわけで、ウォーキングに参加した幼子と一緒の家族連れがお参りしているのを見ながら、ゴールへむけてのんびり歩を進めた。
5kmのコースの途中、「(山王)稲穂神社」があって、その縁起が次のように紹介されている。
「江戸城の守護神として三百年あまり天下安泰の江戸麹町(東京 赤坂:日枝神社)山王宮より承応3年(1654)下小金井の新田開発のため、御分霊を祭る。/御神祭の大山咋神(おおやまくいのかみ)は開拓の神として古来より新天地への社業繁栄、家運隆昌の御神徳あり。/また山王の紳使(御神猿)は古くから魔が去る「まさる」と呼ばれ、 厄除、魔除の信仰を受け、犬と共に分娩の軽き安産の神とし信仰されている。 /境内に疱瘡神社、稲荷神社があり、病気平癒、縁結び、商売繁盛の御神徳。 」(宮司:渡邊陽正)
祭神は大山咋神で、江戸徳川家の氏神であり、比叡山延暦寺、そして中国の天台山の鎮守につながるという。まあ、そんな公的なものとは違って、ちゃんと庶民のための祈り場所もある。
それは本殿脇に設けられた小さな社の「疱瘡神社」と「稲荷神社」だ。疱瘡神社は、悪病の疱瘡に対する恐れから神頼みになったのだろう。興味深いのは、猿や犬とは関係のない稲荷神社だ。稲穂神社の名にある<稲穂>と縁のある<狐>から稲荷神社へ続くのは決して突飛ではないだろう。
江戸期の町に稲荷神社が次々置かれたそうなので、そんな風潮の中、この神社にも稲荷神社が置かれたのかもしれないが。
そんなわけで、ウォーキングに参加した幼子と一緒の家族連れがお参りしているのを見ながら、ゴールへむけてのんびり歩を進めた。
2016年3月20日日曜日
春分の日2016
今日は、昼夜の長さが同じという、二十四節気の「春分」。昼・夜を比べて、最大・最小・同じというのは、一年を区分する目安にしやすい。しかも昼の長さが温暖さに比例し、四季の区別に通じるなら、気分一新できる日でもある。
「春分の日」は、実際には昼の方が長くなっているそうだ。今日は朝から晴れて温く過ごしやすい。ここ数年の「春分の日」を振り返ってみると、晴れだった日が多く、寒い日は少しあったが、天気に恵まれている。
(本ブログ関連:「春分の日」)
こんな穏やかな日曜日は、桜の開花宣言が欲しい。東京の開花日を、Weathermapは3/19(土)、Weathernewsと気象協会は3/21(月)と予想している。その間をとって、今日なら按配よろしかったのではと願ったが、都内千代田区にある靖国神社の(桜の)標本木を、気象台職員が観察したところ、開花は明日に持ち越されたらしい。
温もりに誘われて、昼過ぎに地元公園に出かけた。都下、武蔵野台地(都心より1~2℃低い)ゆえ、桜の陽気に至っておらず、開花の気配もない。陽が陰り始めると、風に冷たさが増す。今年の「桜祭り」は、4月2日(土)~3日(日)、もう少し先とのこと。
ちなみに、公園内にある「江戸東京たても園」では、特別展「小金井の桜-春の江戸東京めぐり」を開催している。江戸東京の桜名所の賑わいを、浮世絵(主に歌川広重の作品)や、工芸品(手箱や印籠)などを使って紹介している。小金井桜については、徳川吉宗の代、武蔵野新田開発に伴い、小金井に桜を植えて名所にしたことを、江戸後期の「江戸名所図絵」や、明治末期の「風俗画報」など展示資料でうかがい知ることができる。
「春分の日」は、実際には昼の方が長くなっているそうだ。今日は朝から晴れて温く過ごしやすい。ここ数年の「春分の日」を振り返ってみると、晴れだった日が多く、寒い日は少しあったが、天気に恵まれている。
(本ブログ関連:「春分の日」)
こんな穏やかな日曜日は、桜の開花宣言が欲しい。東京の開花日を、Weathermapは3/19(土)、Weathernewsと気象協会は3/21(月)と予想している。その間をとって、今日なら按配よろしかったのではと願ったが、都内千代田区にある靖国神社の(桜の)標本木を、気象台職員が観察したところ、開花は明日に持ち越されたらしい。
温もりに誘われて、昼過ぎに地元公園に出かけた。都下、武蔵野台地(都心より1~2℃低い)ゆえ、桜の陽気に至っておらず、開花の気配もない。陽が陰り始めると、風に冷たさが増す。今年の「桜祭り」は、4月2日(土)~3日(日)、もう少し先とのこと。
ちなみに、公園内にある「江戸東京たても園」では、特別展「小金井の桜-春の江戸東京めぐり」を開催している。江戸東京の桜名所の賑わいを、浮世絵(主に歌川広重の作品)や、工芸品(手箱や印籠)などを使って紹介している。小金井桜については、徳川吉宗の代、武蔵野新田開発に伴い、小金井に桜を植えて名所にしたことを、江戸後期の「江戸名所図絵」や、明治末期の「風俗画報」など展示資料でうかがい知ることができる。
2009年9月12日土曜日
小金井の今昔
小雨のなか、地元公民館による「小金井の今昔を知ろう」に参加して、貫井(ぬくい)地区を歴史散歩する。
中央線北側のこの地区にある東京学芸大学正門に集合。戦前、現在の大学敷地を超える大規模の「陸軍技術研究所」があった。その範囲を示す貴重な地図(コピー)が配られ、その広大さに驚く。不思議なことに、当時の子どもたちは隣接する稲穂神社からもぐり込み、所内中央の研究用プールで泳ぎ遊んだという。
次に中央線南側を巡る。昔の貫井村は隣接する小金井村と比べて、有利な農業基盤があるばかりでなく、私塾教育など文化的背景も含めて確固とした郷土意識を持っているという話を後でうかがった。今日、たまたま貫井神社の大例祭の日にあたり、年に一度見られる美しい木彫を飾った大きな山車の準備光景をうかがうことができた。
午後のレクチャーで、講師の先生は「歴史として物事をみる場合、伝聞だけでなく、その事実を示すもの、例えば古文書などが必要であるが」と語られた。
帰り際、講師の先生に、当時の武蔵野の常食を教えていただいた。台地に住むものにとって、「うどん」は「ハレ」のときに食するもので、普段は麦飯であったという。また、低地で湧水を利用できた米作農家の二男三男は、「うえ」つまり「乾燥した台地」に上がって独立、活路を拓くこと、うまくいけば台地で新田(≒麦畑)開発した。そうでない時代、家付きとなって他家の跡継ぎ(養子)となることを待つケースもあったという。
また、「武蔵野麦打唄」が当地で歌われたかは確認が必要とのこと(=教示してくれる方を紹介された)。この民謡の最後の「今日の麦はこれ限り 明日は又 どなたの麦を打つやら」のフレーズは、民謡に共通したパターンでもあるので、あまり深読みしなくてもよい。以上の旨を、穏やかな口調で講師の先生は語られた。
次回、最終回だが所用のため参加できないことが悔やまれる。講師の先生および関係者に感謝申しあげる。
中央線北側のこの地区にある東京学芸大学正門に集合。戦前、現在の大学敷地を超える大規模の「陸軍技術研究所」があった。その範囲を示す貴重な地図(コピー)が配られ、その広大さに驚く。不思議なことに、当時の子どもたちは隣接する稲穂神社からもぐり込み、所内中央の研究用プールで泳ぎ遊んだという。
次に中央線南側を巡る。昔の貫井村は隣接する小金井村と比べて、有利な農業基盤があるばかりでなく、私塾教育など文化的背景も含めて確固とした郷土意識を持っているという話を後でうかがった。今日、たまたま貫井神社の大例祭の日にあたり、年に一度見られる美しい木彫を飾った大きな山車の準備光景をうかがうことができた。
午後のレクチャーで、講師の先生は「歴史として物事をみる場合、伝聞だけでなく、その事実を示すもの、例えば古文書などが必要であるが」と語られた。
帰り際、講師の先生に、当時の武蔵野の常食を教えていただいた。台地に住むものにとって、「うどん」は「ハレ」のときに食するもので、普段は麦飯であったという。また、低地で湧水を利用できた米作農家の二男三男は、「うえ」つまり「乾燥した台地」に上がって独立、活路を拓くこと、うまくいけば台地で新田(≒麦畑)開発した。そうでない時代、家付きとなって他家の跡継ぎ(養子)となることを待つケースもあったという。
また、「武蔵野麦打唄」が当地で歌われたかは確認が必要とのこと(=教示してくれる方を紹介された)。この民謡の最後の「今日の麦はこれ限り 明日は又 どなたの麦を打つやら」のフレーズは、民謡に共通したパターンでもあるので、あまり深読みしなくてもよい。以上の旨を、穏やかな口調で講師の先生は語られた。
次回、最終回だが所用のため参加できないことが悔やまれる。講師の先生および関係者に感謝申しあげる。
2009年5月9日土曜日
小金井の今昔
地元公民館による「小金井の今昔を知ろう」というテーマで、月1回ペースで歴史散歩と講師による解説が行われる。今住んでいる処にどのような歴史があるのかを知りたく、昨年と同じく参加する。今日は今年の1回目である。この地は江戸期武蔵野に新田開発された処なので、当時の庶民の目線で歴史を知ることができる。連雀通りに付帯する史跡を武蔵小金井から新小金井に向けて巡った。
ところで、講師は幼いときから長年の在住者であり、豊富な知識と記憶により、その時代その場面を丁寧に謙虚に語られる郷土史家である。郷土史本の記述の背景にある多様な事実と末裔にいたるまでを淡々と述べられた。
わたしといえば、今日紹介された超入門の「こがねい郷土かるた」を早速入手して、解説を読んでいるところだ。
ところで、講師は幼いときから長年の在住者であり、豊富な知識と記憶により、その時代その場面を丁寧に謙虚に語られる郷土史家である。郷土史本の記述の背景にある多様な事実と末裔にいたるまでを淡々と述べられた。
わたしといえば、今日紹介された超入門の「こがねい郷土かるた」を早速入手して、解説を読んでいるところだ。
2025年5月25日日曜日
(江戸東京博物館コレクション)江戸東京のくらしと食べ物
昨深夜の雨は早朝に止み、路地に微かな雨跡を残すのみになった。そういえば、きょうは日曜日、小金井公園の賑わいを見てみようと昼(12時ころ)に出かけた。
公園東側から入り、学生たちがテニスコートの全面でラリー練習しているのを脇に見て過ぎ、「ゆりのき広場」でサッカーなどで遊ぶたくさんの親子連れを眺めて通り抜け、「こども広場」で遊具を使って楽しむ子どもたちの大声を耳にして、「江戸東京たてもの園」にたどり着いた。
「東京都江戸東京博物館」の分館である江戸東京たてもの園で、「江戸東京博物館コレクション ~ 江戸東京のくらしと食べ物 ~」(3/20~6/15)の特別展が開催されている。江戸期の武蔵野新田開発後の食生活が見られるかもと期待して出かけた。実際は、江戸市中の食文化に関する文献の展示といったところが中心で、WWⅡ後の生活(闇市・食器具)まで展示された。
そんなわけで、武蔵野(および葛西)と江戸との関係を示すのは、次図のみである。展示解説冊子に、次のように記している。
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大消費地であった江戸には、その周辺の村落から水路や陸路を経て、その地域でとれた商品作物が送られてきた。
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武蔵野から江戸に陸路で穀類(大麦・小麦・栗など)、および小麦・蕎麦は水車で加工して粉にしたものが運ばれたようだ。(ちなみに、米は葛西方面から送られている)
上記の通り、江戸の食文化に関連する文献・書籍が精緻に造本されていることに驚く。よくぞここまでと思うほど、まるで活版印刷のごとく刷られている。「食文化」について、江戸独自の美味礼讃の書もあったろうと思うが、今回は西洋料理との関係で語られているようだ。
江戸のランキングで見る人気料理(写真左)、豆腐百珍(写真右)
・「日用倹約料理仕方各力番付」:日常の倹約料理の番付として、【精進方】 大関「はちはいどうふ」、【魚類方】 大関「めざしいわし」がある(相撲番付と同様、定期的に変わる)
・百珍物の先駆けとなった「豆腐百珍」(醒狂道人何必醇 著、天明2年(1782年)5月)
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