地元の郷土史で知られる、川崎平右衛門についての知識はつたない。農民出身ながら、その才能を見出され、享保の改革時に、江戸町奉行大岡忠相の配下として武蔵野新田の世話役に登用され、窮乏する新田の農民を救い、その結果、新田規模を拡大さえしたというのだ。
(本ブログ関連:”川崎平右衛門”)
地元では近々、合唱構成劇に採りあげられるというパンフレットも見たほどに、今だに信望が厚い。ネットでは、川崎平右衛門に関わる地域住民同士の交流も行なわれたという。彼について、もっと知りたい。
今日、散歩で寄った、小金井公園近くにある小金井市文化財センター(旧浴恩館)の資料展示室の一角に川崎平右衛門の紹介があり、彼の供養塔について解説したリーフレットから人となりを次に転記する。
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・享保年間、幕府の政策で武蔵野新田の開発が行なわれましたが、困窮する出百姓*が続出して新田の農村の存続の危機を招きました。そこで関東地方御用掛**であった大岡越前守忠相は多摩郡押立村の名主川崎平右衛門定孝(1694~1767)を元文4年(1739)に南北武蔵野新田世話役に登用し、武蔵野新田82ヵ村の振興に当たらせました。平右衛門は田方養料の名目で幕府から補助金を借り、一時に分配せずに肥料をまとめて買い、必要分だけを渡す養料金(やしないりょうきん)制度や貯穀などによって、出百姓の生活の安定化を図りました。こうして、平右衛門が美濃に転じる寛延2年(1749)までの10年間で南北武蔵野新田には新たに戸数300戸、人数1800人、開発反別2000余町が増加したといわれます。平右衛門はその後、美濃や石見銀山の代官を歴任しましたが、明和4年(1767)に江戸で没しています。墓地は府中市の龍光寺にあります。(以下略)
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(*) 出百姓: 他の村から新田に入ってきた百姓
(**) 関東地方御用掛: 江戸時代の享保改革期の新田開発などを担当した役職