昨日は、小雨が一日中降り続き肌寒かった。それが、今日は打って変わって、日中カラリと晴れ渡り、まるで夏の陽射しだ。ところが、夕方に近づくとにわかに曇りはじめ、風が吹いてきたのだ。落ち着きのない空模様である。
ところで雨のきのう、地元公民館主催の市民講座「小金井の新田開発」(5回シリーズ)の第2回目が開かれた。一週休みを空けてのこと、おまけに小雨ながら、開始5分前に講義室に入ってみると満員状態。窮屈な座席に滑り込んだ。
さて今回は、次のような内容で講義があった。
1.江戸と武蔵野を含む郊外とのつながりを、街道および水道の成立について
1-1.街道
① 多摩地域には、甲州街道(五街道のひとつ)と、青梅街道が通る。
② 青梅街道の輸送で着目されたのが、「石灰」である。初め江戸城造営に使われたようだ。
→ 青梅辺りで石灰を製したが、奥多摩地域の石灰岩を利用したのだろう?
③ やがて他地域との競合および川舟利用などで、青梅街道の「石灰」輸送が減少する。
むかし、若き歴史学者の、近世の「石灰」生産流通について研究した遺稿が、友人の手で纏められたという話を聞いたことがあるが、上記のような内容もあるのだろうか。
1-2.水道
① 大田道灌時代の飲料は、井の頭池、赤坂溜池、および山の手沿いの井戸などが利用された。
② 神田上水(井の頭→練馬→水道橋→堀)は、約20年をかけて開発。
③ 多摩川上水(羽村【多摩川から取水】→四谷)は、何と驚異の半年で完成(技術についても不明な点が多い)。
また、吉宗までの100年間に、33箇所で分水が開設され、上水、灌漑など利用の他に水車が稼動する。
水車という分業化が進み、産業の幅の広がり、技術の高度化がみられる。
→ 水車が、産業をさらに進めて、産業革命に繋がっていたならなあ・・・。
2.江戸の規模(人口)と、それを支える郊外の特に武蔵野新田の歴史について
2-1.江戸
① 吉宗の享保期に町民50万人、および武家を50万人(推定)として100万人とする通説がある。
② 大岡越前守忠相によって、(現代に通じる)都市政策が実施された。
2-2.武蔵野新田
① 江戸初期の「古村」は、北条、武田武士の末裔による土豪の手で成立した。
村の名前に、高井戸、小金井、貫井などのように水につながる「井」(=井戸)の文字が見える。
② 江戸前期の「古新田」は、土豪の開発による他に、代地や移住などの理由で拡大した。
③ 享保改革(吉宗)期の「新新田」は、武蔵野新田で82か村になる。
いよいよ次回から、当地の歴史に直接関連することになるのか、楽しみである。
(追記)
昨日は雨が止まず、晩まで降りつづいた。おかげで先週同様に、韓国語教室の往復に傘が必要だった。