昨日(6/26)、透き通るような陽射しの午前中、地元公民館主催の市民講座「小金井の新田開発」(5回シリーズ)の第5回最終講義を聴きに行く。最後まで講義室は聴講者で満員の盛況だった。
(これまで、鷹場、街道、玉川上水、新田創設という切り口で、江戸との一体化について解説された)
今回も、東京学芸大学の大石学教授から、江戸時代に武蔵野新田に植樹された、松、栗、竹、そして桜の記録資料について、いつものように丁寧な解説と興味深いお話を聴かせていただいた。
【松】
・元禄7年(1694年)の文書に、玉川上水の両岸に植えて、橋の建材に使用したという記録がある。江戸の早い段階から植林が始まっている。その後、新田の囲いとして植えたてられることになる。
【栗】
(栗林を今も散見できる)
・将軍家へ栗を献上するため、栗林を仕立てる経緯が、「大岡越前守忠相日記」の元文2年(1737年)以降に克明に記されている。
・栗林は、小金井を中心に作られた。(下小金井新田、関野新田、梶野新田、井口新田、野崎新田、大沢新田、境新田、関前新田、上保谷新田、田無新田)
・栗林の下草を刈り取り、畑の肥料などに使われたが、管理は厳重に行なわれた。
・払い下げの栗老木を売った代金について、周辺村々と争いも生じたりした。
・献上を通じて、将軍家との一体化の意識が生まれる。栗林については行政(幕府)が支援し、地域は自分(農民)たちで管理するという関係が成立する。
(本ブログ関連:"小金井雑記"、"小金井雑記"、"春の兆し")
【竹】
・栗林とセットで育成された。これも同様に、「大岡越前守忠相日記」の元文3年(1738年)以降に記されている。
【桜】
(「小金井桜」として名をなしている)
・桜の植樹について、その時期を知る一次資料が見つかっていない。寛永年間(1624年~1644年)、寛文10年(1670年)、享保年間(1716年~1736年)、元文年間(1736年~1741年)、寛延年間(1748年~1751年)などの諸説がある。しかも、桜の苗木産地(和州吉野、常州桜川など)といわれている所にも記録がない。
・植え付けの理由に次の3説がある。
① 地域振興のため:飢饉など経験から政策のひとつとして。
② 上水の浄化のため:桜は水毒を消すという。
③ 玉川上水の堤が崩れぬため
・桜木の払い下げについて幕府最古の資料が明和年(1772年)にある。
小金井桜
・文政2年(1829年)の資料に、すでに「小金井桜」の名が見える。
・当初知られなかった小金井桜も、江戸後半には遠くても江戸からの花見客で賑わうようになり、泊りがけ(小金井橋ほとりの柏屋)で見物に来るようになったりもした。当時のガイドブック「小金井道しるへ」なども発行される。
・天保15年(1844年)、将軍になる前の徳川家定も観楼に来た。
(本ブログ関連:"小金井公園のさくら"、"春のぬくもりにさそわれて")
以上、江戸時代を通じて、小金井地域の村々は(首都)江戸との関係のなかで、首都圏として成長・発展した・・・という、終わりの言葉をいただいた。
(付記)
郷土の歴史を知りたいことから、ついつい身近に目が行くが、今回のような大きな切り口(鷹場、街道、玉川上水、新田創設、そして桜)を通じて時代の流れを俯瞰する意義も知った。
(本ブログ関連:"「小金井の新田開発」")