この時期、気になるのが、奈良「東大寺」で3月1日から2週間行なわれる「修二会(しゅにえ)」*の中の「お水取り」の行事だ。今晩、庶民にとっては一番のクライマックスだが、関西のことゆえなかなか聞こえてこない。
(*)修二会:1250有余年の歴史を持つという。関わった僧侶たちの顔々を想像すると歴史の重みが増してくる。
「お水取り」には、庶民に春を知らせ健康安全を分ける「お松明(たいまつ)」がある。長い竹竿の先に火を灯した松明を、「童子」**が「二月堂」の(バルコニー風の)舞台を小走りしながら欄干の先で揺すって火の粉を撒く。人びとは、二月堂の下に群がり、火の粉を求める(高い舞台から落ちるので、燃えかすになっていて火傷の心配はない・・・直に浴びることもない)。
(**)童子: 童子といっても子どもではない。
これまで、「お水取り」に3度ばかり行ったことがある。1度目は仕事を早めに終わらせて新幹線で駆けつけた。2度目はそれが間に合わず、夜の奈良公園の屋台で、生姜風味の効いた甘酒を飲んだ。3度目は、無理せずツアーに参加してゆっくり楽しんだ(これは実に楽ちんだった)。
今年こそはと思いながら、間際になって気付き残念がる、そんなことを繰り返してきた。今年はだめだったが、来年はきっと行こう・・・と。来年、どうしようか。
(本ブログ関連:”お水取り”)
(Youtubeに登録の朝日新聞に感謝)
2017年3月12日日曜日
2016年3月12日土曜日
行ってみたかった、東大寺二月堂のお水取り
五行の要素でも、とりわけ「火」に強く反応する。日常、当り前のように火を操るが、火山の噴火、落雷や山火事で延焼する炎に超越した力を感じる。火は当たり前の、当たり前でない存在なのだ。
火は信仰につながる。護摩に火を焚いたり、山伏の火渡りがあったりする。宗教行事であり、習俗として身近に接するものがある。火は、神事であれ、仏事であれ、燃え継ぐことで永遠性を想わせる。
大晦日の夜、京都「八坂神社」の「をけら参り」で、火のついた縄をもらいうけ、消えぬよう縄を廻しながら帰宅する。学生時代、京都の知人の下宿を足場にして正月前後の行事を見て廻った。そういえば、火縄をぐるぐる廻す光景が記憶にないな。
今晩も行なわれる、天平勝宝4年(752年)以来の奈良「東大寺二月堂」の「お水取り」行事、「修二会」の大松明を見に3度出かけたことがある。二月堂の高い舞台から延びた大松明の火の粉が舞い散るのを人々は歓声をあげて見守る。かすかに火の粉が流れてきてもいとわない。春が来る喜びでもある。帰り道、甘酒売りがあって、冷えた体を温めたりする。行ってみたかった。
お水取りの行事に「達陀(だったん)の行法」があるが、この「達陀」の音に「韃靼」がイメージしてならない。
(素晴らしいお水取りのYoutube映像・音声、感謝)
(Youtubeに登録のsharakucorpに感謝)
火は信仰につながる。護摩に火を焚いたり、山伏の火渡りがあったりする。宗教行事であり、習俗として身近に接するものがある。火は、神事であれ、仏事であれ、燃え継ぐことで永遠性を想わせる。
大晦日の夜、京都「八坂神社」の「をけら参り」で、火のついた縄をもらいうけ、消えぬよう縄を廻しながら帰宅する。学生時代、京都の知人の下宿を足場にして正月前後の行事を見て廻った。そういえば、火縄をぐるぐる廻す光景が記憶にないな。
今晩も行なわれる、天平勝宝4年(752年)以来の奈良「東大寺二月堂」の「お水取り」行事、「修二会」の大松明を見に3度出かけたことがある。二月堂の高い舞台から延びた大松明の火の粉が舞い散るのを人々は歓声をあげて見守る。かすかに火の粉が流れてきてもいとわない。春が来る喜びでもある。帰り道、甘酒売りがあって、冷えた体を温めたりする。行ってみたかった。
お水取りの行事に「達陀(だったん)の行法」があるが、この「達陀」の音に「韃靼」がイメージしてならない。
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2019年3月12日火曜日
お水取り
若い頃、仕事を早めに切り上げて、何度か奈良の東大寺二月堂で行なわれる「お水取り」の行事に出かけたことがある。記憶のままとどめておくには惜しい、今年こそと思いながら機会をかなえずにいる。
(本ブログ関連:”お水取り”)
夜がふけて、斜面に建つ二月堂の舞台から、長い竹の棒の先に火を灯した松明(たいまつ)の火の粉を撒き散らす。「童子」と呼ばれる世話役(僧侶の付き人)が担う。二月堂の下に集ったひとびとは、直接浴びることはないが、少しでも火の粉が降りかかることを求める。本来。仏教の法会(ほうえ)の「修二会(しゅにえ)」(天平勝宝4年(752年)以来連綿と続く)のひとつであるが、庶民にとっては、新たに春を知る行事ともいわれる。
実は、急いで駆けつけたものの、行事が終わっていたことが2回もあった。人々の帰り道にばったり出くわしたわけで、帰りの流れに合流して寒い奈良公園の夜道を抜けると、甘酒の屋台が立っていたりする。生姜風味のきいた甘酒は、チャンスを逃して残念な思いをしている者を温めてくれた。
一番最近といっても随分昔のこと、子どもと一緒に見たことだろう。少し小雨がぱらついていた。今夜の奈良の天気はどうだったろうか。(気象協会によれば、夕方6時は曇り空で、気温は12℃とのこと)
(本ブログ関連:”お水取り”)
夜がふけて、斜面に建つ二月堂の舞台から、長い竹の棒の先に火を灯した松明(たいまつ)の火の粉を撒き散らす。「童子」と呼ばれる世話役(僧侶の付き人)が担う。二月堂の下に集ったひとびとは、直接浴びることはないが、少しでも火の粉が降りかかることを求める。本来。仏教の法会(ほうえ)の「修二会(しゅにえ)」(天平勝宝4年(752年)以来連綿と続く)のひとつであるが、庶民にとっては、新たに春を知る行事ともいわれる。
実は、急いで駆けつけたものの、行事が終わっていたことが2回もあった。人々の帰り道にばったり出くわしたわけで、帰りの流れに合流して寒い奈良公園の夜道を抜けると、甘酒の屋台が立っていたりする。生姜風味のきいた甘酒は、チャンスを逃して残念な思いをしている者を温めてくれた。
一番最近といっても随分昔のこと、子どもと一緒に見たことだろう。少し小雨がぱらついていた。今夜の奈良の天気はどうだったろうか。(気象協会によれば、夕方6時は曇り空で、気温は12℃とのこと)
2018年3月12日月曜日
東大寺お水取り
今夜も、奈良東大寺の二月堂の舞台から松明を突き出して、その先の火の粉を舞い散らしては、見上げるひとびとに春を知らせていることだろう。毎年この時期、ブログに「お水取り(修二会)」に出かけたことがあると書くけれど、今年もと思いながら果たせないでいる。
(本ブログ関連:”お水取り”)
火にまつわる宗教的な話は別にして、京都八坂神社の新年の祭りに「をけら詣り」がある。学生時代、京都の友人の下宿を拠点にして、一冬を楽しんだことがある。余談だが、下宿屋の主人に、無断で泊まったときつく咎められた。
縄の先に火を灯して、それが消えないように振り回しながら自宅に持ち帰るのだが、下宿先へ運ぶことはなかった・・・。
(本ブログ関連:”をけら参り”)
火は、新年や春といった、季節の区切りに使われる。火は永遠であり、炎を繋ぐことができる。火は熱と明かりを等しく照らしだす共感の対象でもある。古来のひとびとが何かを感じても不思議はないだろう。
今日の日中は暖かだった。そのつもりで軽装で外出したが、夕方の帰り道はえらく冷えた。まだ気を許すほどの温もりじゃない。だから足元のストーブを仕舞い込めないでいる。
(本ブログ関連:”お水取り”)
火にまつわる宗教的な話は別にして、京都八坂神社の新年の祭りに「をけら詣り」がある。学生時代、京都の友人の下宿を拠点にして、一冬を楽しんだことがある。余談だが、下宿屋の主人に、無断で泊まったときつく咎められた。
縄の先に火を灯して、それが消えないように振り回しながら自宅に持ち帰るのだが、下宿先へ運ぶことはなかった・・・。
(本ブログ関連:”をけら参り”)
火は、新年や春といった、季節の区切りに使われる。火は永遠であり、炎を繋ぐことができる。火は熱と明かりを等しく照らしだす共感の対象でもある。古来のひとびとが何かを感じても不思議はないだろう。
今日の日中は暖かだった。そのつもりで軽装で外出したが、夕方の帰り道はえらく冷えた。まだ気を許すほどの温もりじゃない。だから足元のストーブを仕舞い込めないでいる。
2025年12月9日火曜日
甘酒
寒い夜、甘酒は体をよく温める。甘酒に二つの作り方がある。
一つは、米麹(こめこうじ)を原料にしたものだ。若いころ、3月12日に奈良東大寺の二月堂で行われる「お水取り」の晩の火祭りに何度か訪れた。堂の舞台から舞い散る火の粉を浴びると縁起が良いといわれて、できるだけ接近したものだ。
祭りが終わって、上気した気分も、奈良公園を抜けて帰る途中冷えてくる。園内に小さな売店があって、米麹の甘酒を売っていた。生姜の香りがして、冷えた体を温めてくれた。
(本ブログ関連:”お水取り”)
もう一つは、酒かす(酒粕)を原料にしたものだ。地元の酒屋で、冬になると店先に酒蔵特製の金色と銀色の袋に入った二種のものを並べる。袋の色の通り、金色のものは値段が少し高いが真っ先に売り切れてしまう。
鍋に酒かすと水を入れてゆっくり温め、米粒を感じられるようにほぐしながら溶かす。後半に砂糖と少しの塩を加えると、実にまろやかで上品に仕上がる。(この酒かすは、温めるとき、スーパーなどで販売しているものと比べて、絞りカスのような独特な匂いがしない)
ところで、子どものころ、和菓子の甘さについて父から教わったことがある。和菓子屋の息子だった父がいうには、塩の塩梅が和菓子職人の腕の見せどころだというのだ。結局、サラリーマンになった父から、どのような塩梅か、厳密な量目やタイミングを聞きそびれたが。酒かすで、甘酒作りに塩分を入れるとき、親父の言葉をいつも思い出す。
(小豆で汁粉を作ることがある。そのとき、塩分により甘みが増すのに気付く。)
2025年4月9日水曜日
(資料)八百比丘尼
先日(1/27)のブログに、「椿(ツバキ)」の分布と「八百比丘尼」の関係について、柳田国男が「雪国の春」で「(福井県)若狭の八百比丘尼(仏教の尼僧)のごとく、玉椿の枝を手に持って、諸国を巡歴したという旅人はあったのである」と述べたことを記した。
(本ブログ関連:”八百比丘尼”)
そこで、まず八百比丘尼についての思い出を記したい。八百比丘尼を初めて知ったのは、NHKのテレビドラマ「女人幻想」*(1972年)の現代劇を見てのことと思う。主演の佐藤友美(1941年10月8日~)は、八重歯が印象的な女優で、日本人にはそんな歯並びが好まれる**。それに、ちょっと擦れ声した(いわゆる妖艶さとは違う意味での)ハスキーボイスも魅力的だった。
(*)「女人幻想」(1972/02/26、22:10-23:40、番組表): テレビドラマデータベース
ー http://www.tvdrama-db.com/drama_info/p/id-13062
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不老不死の女性八百比丘尼の伝説を下敷きに時空を越えた愛を描く。【以上、文・のよりん】突然失踪した妻の行方を捜す若い医師と、彼につきあって旅に出た作家がたどる怪奇な旅。
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(**)八重歯について、以前、韓国語の教室で、日本人の歯並びを口にした者がいた。日本人が八重歯を好む(愛らしく感じる傾向がある)のを不思議がっていたので、こんな例を伝えた・・・それは中東・北アフリカの羊市場で、買い手が商品の羊を品定めするとき、唇をめくり歯並びを確認(重視)すると。日韓の歯並びに対する視点の違いを、朝鮮の場合、高麗時代に長くモンゴルの支配下にあったからではないかと仄めかしたわけで・・・それを聞いた発言者は黙ってしまったことがあった。
さてドラマに戻ると、場所を変えて現れる或る女性を追い続ける、追慕を描いた不思議な印象を受けたが、物語の展開をつぶさに記憶に残していないのが残念。
以下、八百比丘尼に関する資料を探した
■ 鳥取短期大学研究紀要 (46), 21-38, 2002-12-01 ← 論文としての調査報告(都道府県別一覧表がある)
「八百比丘尼伝說 一 山陰を中心にその伝承の種々相を考える一」(酒井董美(ただよし))
ー https://cygnus.repo.nii.ac.jp/record/276/files/bulletin46_03.pdf
以下「要旨」から:( )内の用語は論文内に記述のもの
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わが国には「八百比丘尼」に関する伝説が多く,27都府県にわたって存在している・・・
要旨は,漁師たちが竜宮に招かれて,人魚の肉を料理に出されるがだれも食べない.たまたま一人がそれを持ち帰り,そこの娘(未婚女性)が食べたところ八百歳の長寿を得,しかも容姿は若い娘のままである.娘は比丘尼(仏教への帰依)となって諸国を行脚し,植樹をしたり橋などを建立したりするが,最後は若狭の国で入定するというのが一般的な形である.本稿ではこの説話と「浦島太郎」の説話を対比(浦島伝説の方が古い)させながら,人々の長寿を願う気持ちを背景に,祖霊信仰を踏まえて成立したものであることを,民俗学の立場から考察したものである.
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上掲論文は、東大寺の二月堂で春に行なわれる「修二会(しゅにえ)」の法会の行事「お水取り」との関係を説明している。八百比丘尼が入定したという、若狭の小浜から「若水」が送られる「お水送り」に何かの象徴を感じる・・・以前数度、東大寺のお水取りに、火の粉をかぶりに行った覚えのある者にとってハッと驚く。
■ Youtube(登録: おどろ寺子屋) ← 八百比丘尼の物語を名調子に要約されている。
「【怖い伝説】八百比丘尼〜人魚の肉を食い不老長寿・不老不死となった娘〜怪談朗読」
ー https://www.youtube.com/watch?v=4MKP882Bq5I
■ Youtube(登録: 福井県小浜市の公式チャンネル)
「八百比丘尼物語」
ー https://www.youtube.com/watch?v=m0VAkOJYW5E
■ 百目鬼恭三郎著「奇談の時代」(朝日新聞社(出版))
① 「不死伝説」として、室町時代に記された八百歳の老尼に記録(下記、柳田国男が記す「臥雲日件録(がうんにっけんろく)」)より始まる。ただし、見世物的要素があり「ウサンくさい」としている。他に長老の人物(痴呆)を利用した例があるという。
② 同様に柳田国男も触れている、林羅山が若いときにこれに関心を持ったということに触れている(まあ、合理主義者の林羅山が興味を示したといえば、ちょっと耳を傾けたくなるわけで・・・)。
■ 柳田国男著「雪国の春」の「若狭の八百比丘尼の物語」(「青空文庫」より)
ー https://www.aozora.gr.jp/cards/001566/files/54403_54217.html
① 親が手に入れた人魚の肉を娘が食ってしまい、八百比丘尼となる構図である。
② 八百比丘尼は日本各地を巡りながらも、その終結点として若狭の地があげられる。
③ この伝承は、「発揮し宣伝するには最も適したのが、庚申講の夜であった」としている。
<人魚の肉>
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前に申した若狭の八百比丘尼の物語は、・・・ 足利氏の中期に、若狭に八百比丘尼という長生の婦人ありしことは、すでに馬琴の『八犬伝』によってこれを知った人が多いが、少なくとも当時その風評は高く、ある時は京洛の地に入って衆人に帰依せられたことは、文安六年五月から六月までの、『臥雲日件録(がうんにっけんろく)』や『康富記(やすとみき)』、もしくは『唐橋綱光卿記(からはしつなみつきょうき)』など、多くの日記の一致するを見れば疑うところはないのである。ただしいかにしてそのような長寿を得たかは、これらの記録には何も見えず、林道春(追補:林羅山)が父から聞いたといって、『本朝神社考』に書いたのが一番に古いが、これとても『清悦物語』の出現よりは前であった。すなわち昔この比丘尼の父、山中にして異人に逢い、招かれて隠れ里にいたる。人魚の肉を饗せられてあえて食わず、これを袖にして帰りきたるを、その女食いて長寿なりといっているのがそれである。
同じ話はまた『若狭郡県志』、『向若録』などにも出ている。この方では父は小松原という村の人で、海に釣をして異魚を獲たのを、娘だけが食べたということになっている。美しい女性のいつまでも若いのを、「人魚でも食ったのか」という習いは、今でも諺のようになって残っている。基づくところかくのごとく久しいのである。・・・しかるを本人は怪しんであえて食わず、かえって無邪気なる小娘が、その恩恵をもっぱらにしたということは、話の早くからの要件であったと見えて、現に『清悦物語』でも同行者の一人がこれを持ち帰り、その女のこれを食うた者がつい近ごろまで存命であったと、不必要に問わず語りを添えているのである。『塩松勝譜(えんしょうしょうふ)』には常陸坊海尊、衣川にて老人に逢い赤魚をもらって食った。その婢女もまたこれを分ち食したとあるのは同じ話である。
桃井塘雨(ももいとうう)の『笈埃(きゅうあい)随筆』には、今浜洲崎という地に異人来り住み、一日土地の者を招いて馳走をした。人の頭をした魚を料理するのを隙見して、怖れて食う者もなかったが、ただ一人これを懐にして帰り、その妻知らずしてこれを食ったという話を載せている。これは疑いもなく寛永二年の隠岐島紀行、『沖のすさび』のまる写しであって、彼には伯耆(ほうき)弓浜の洲崎の話となっているのを、今浜洲崎と改めて若狭まで持ってきただけである。味は甘露のごとく食し終わって身とろけ死して夢のごとく、覚めて後目は遠きに精しく耳は密に聞き、胸中は明鏡のごとく顔色ことに麗わしとあって、ついに生き残ってしまったのである。七世の孫もまた老いたり、かの妻ひとり海仙となりて山水に遊行し諸国を巡歴して若狭にいたり、後に雲に乗りて隠岐の方に去れりとも記し、すなわちこの島焼火山その他の所々の追跡を説明しているのである。人の妻とある例はこれがただ一つであるが、海仙となって諸国に遊んだというのが、何か海尊仙人の口碑と因縁あるべく思われる。ただしこの話は九州を除くの外、ほとんど日本の全国に分布し、しかもたいていは同じ由来談を、若干の差異をもって説いているので、すなわち平泉の清悦の奇怪談が、必ずしも一人や二人の与太話よたばなしでなかったことだけは、もう十分に証明せられるのである。
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<八百比丘尼の事>
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しからば人魚の効能と『義経記』との関係やいかん。それを考えるにはなお少しく類似の例を列挙してみなければならぬ。若狭の方面には『沖のすさび』のほぼ同じころに、貝原益軒(かいばらえきけん)の『西北紀行』があって、忠実に土地の所伝を録している。小浜の熊野山の神明社に、そのころはすでに比丘尼の木像と称するものがあり、しかもその由来記はまた別箇の趣を具えていた。昔この地方に六人の長者、おりおり集まって宝競べの会を催していたが、その一人人魚を調味して出したのを、五人の客疑って食わなかった。それから家に持ち帰って少女が食ったという段は、すべて他の例と一つである。
佐渡では羽茂はもちの大石という村でも、八百比丘尼この地に生まると説いている。やはり異人饗応の話があり、人魚の肉によって千年の寿を得たのだが、その二百歳をさいて国主に譲り、女自身は八百歳に達した時、若狭に渡って死んだと伝えている。『播磨鑑』では私などの郷里神崎郡比延村に、この比丘尼は生まれたと主張する。これも八百になって比延川に身を投げたともいえばあるいは今一度人魚を捕りに、明石の浦へ出かけたまま帰ってこぬなどともいうのである。土佐国でも同じ人の海に入った話、その他いろいろの遺跡はあるのだが、人魚に関係せぬものはすべて省略する。『西郊余翰(さいこうよかん)』巻一に、土佐高岡郡多野郷の賀茂神社にある八百比丘尼の石塔の事を記しているが、白鳳(はくほう)十二年という大昔、この海辺に千軒の民家があった時代という。七人の漁翁が人魚を捕って刑に処せられた。七本木というのがその古跡である。村に一人の医者があって、ひそかに一切れの肉を貰い受けて、自分の娘に食わせると、すなわち後の八百比丘尼になった。三百年を経て一度帰り、この石塔を建てたともいい、あるいは死んだ後に若狭から届いてきたともいうが、人魚を食ったという証拠にはならぬのである。
関東諸国ことに東京の周囲にも、この比丘尼の栽(う)えておいたという老木が多く、下野にも上総にもいろいろの遺跡はあるが、人魚の話はまだ聞いていない。しかも海もない美濃などにも、やはり麻木長者の娘が麻木の箸に付いた飯を、苧ヶ瀬池(おがせいけ)の魚に施した陰徳で、八百比丘尼となって若狭に往って死んだというのが同じだったらしく、さらにさかのぼって飛騨の益田郡、馬瀬の中切の次郎兵衛酒屋の話などは、山国らしい昔話に変化して今も語られる。この酒屋へおりおり一人の小僧が小さなヒョウタンを持って一斗の酒を買いに来る。疑わずに量って与えると、いくらでもそのヒョウタンへ入るのだ。試みに小僧の跡をつけて行けば、村の湯ノ淵という所までやってきて振返り、わしは竜宮の乙姫さまのお使だ。おぬしもござれと引っ張って行き、わずか三日の間款待を受けたと思ったらもうこの世では三年の年の終わりであった。帰る際に竜宮の宝でキキミミという箱を下される。耳をこれに付けていると、人間にはわからぬどんな事でも聞かれる。家に娘があってそれを不思議に思い、誰も知らぬ間にそっと開いてみると、箱の中には人魚の肉が入っていて、いかにもうまそうな香気がする。ついにその古い肉を食ってしまうと、そのお蔭で娘は八百比丘尼になった。村の氏神の雌雄杉の根もとへ、黄金の綱をこしらえて深く埋め、いよいよという場合には出して使えといって、自分は仙人になっていずれへか出て往ったというのである。ちょうど刊本の『義経記』が編纂ものなるごとく、これも地方に流れている三つ五つの物語を、端切り中をつんで冬の夜話の用に供したものらしい。
まだいくつかの例が残っているのである。『丹州三家物語』に録するところは、ほとんど『神社考』と大差なくただ比丘尼の生地を若狭鶴崎としたのみだが、丹後には別に竹野郡乗原という部落に、旧家大久保氏の家伝というもののあることを、近ごろの『竹野郡誌』には詳述している。ある時この村へ一人の修験者が来ておって、庚申講(こうしんこう)に人々を招いた。それから先は例のごとくだが、この家の娘は比丘尼ながら、樹を栽え石を敷きいろいろと土地のためになっている。紀州那賀郡丸栖村(まるすむら)の高橋氏でも、庚申講の亭主をしていると、見なれぬ美人がきて所望をして仲間に入った。その次の庚申の日には私の家へきて下さいと招かれたが、その晩土産といって紙に包んでくれたのが、例の人魚の一臠(きれ)であった。帰って帯を解くときふと取落とすと、その折二、三歳の家の小娘が拾ってのみ込んでしまった云々と伝え、今もその家の子孫という某は住んでいるが、この事あって以来いつも庚申の晩には、算(かぞ)えてみると人が一人ずつ多くいるというので、とうとう庚申講は営まぬことになった。ここでもどういうわけか八百比丘尼は、末に貴志川へ身を投げて果てたと伝えている。越後の寺泊に近い野積浦の高津家にも、やはり人魚を食った八百比丘尼はこの家から出たといい、今も手植えの老松が残っている。同じく庚申講の夜山の神さまに招かれて、そんな物をもらって帰ったというのである。最後にもう一つは会津の金川寺という村でも、比丘尼はこの村の昔の住人、秦勝道の子だったという口碑がある。勝道はまた庚申講の熱心な勧進者であったが、村の流れの駒形岩の淵の畔(ほとり)において、やはり竜神の饗応を受け、その食物を食べたという点は、丹後紀伊などと似ていた。ただしこれだけは人魚でなくて九穴の貝というものであった。
捜したらまだ何ほども例は出てくるのだろう。私が知っただけでは娘が取って食ったというのが、平泉を加えて十件あり、食物はそのただ一つのみが九穴の貝であり、さらに庚申講の晩というのが、互いに離れた土地に四つまでもある。天平以前に庚申祭などがあったかと、野暮な疑問を抱くことを止めよ。庚申は要するに夜話の晩であった。終夜寝ないで話をするために、村の人の集まる晩なのである。すなわち人魚を食ったという長命の女の奇蹟を、発揮し宣伝するには最も適したのが、庚申講の夜であったのである。その話をさも事新しく、なるべく知った人の多くおらぬような土地へ、こうして持ってこようという考えの者が、昔もあったことだけは想像せられる。
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■ 日本伝承大鑑
「八百比丘尼入定洞」← 伝承の地、小浜で八百比丘についてのガイド
ー https://japanmystery.com/fukui/ningyo.html
■ 福井県小浜市加斗コミュニティーセンター
「玉椿(八百比丘尼)」・・・ 小浜の後瀬山で入定時に詠んだとされる歌がある
「たのみなば 命のほどや ながからん いわまのしずく つきぬかぎりに」
ー https://www1.city.obama.fukui.jp/obm/kouminkan/kato_k/profilepost/189
(参考)上掲の歌について、Geminiによる解説
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歌の意味を解きほぐす
・たのみなば: 「もし頼むとすれば」という意味で、仮定の条件を表しています。
・命のほどや: 「命の長さはどうだろうか」と、自身の寿命について問いかけています。
・ながからん: 「長く続くのだろうか」と、寿命の長さを疑問視しています。
・いわまのしずく: 岩穴から落ちる雫を比喩として用いており、生命の儚さ、無常さを表しています。
・つきぬかぎりに: 「雫が尽きるまで」という意味で、生命の終わりを暗示しています。
全体的な意味
・この歌は、八百比丘尼が長い年月を生き、多くの経験を積んだ上で、自身の命の終わりが近いことを悟り、詠んだ歌だと考えられます。
・岩穴から落ちる雫のように、自分の命もいつかは尽きるという、生命の有限性を深く認識し、そのことを静かに受け入れている様子が伺えます。
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(参考)
ところで、むかし(1980年代初期)、家族と一緒に居間のテレビで、吉永小百合主演のNHKドラマ「夢千代日記」を視聴した。当時、テレビドラマには、日本人の心象を、その経験を通じて奥深くから巻きあげるように描く。この作品について、多くの方がいまもネット上で語っている。
2014年3月21日金曜日
春分の日2014
今日は祝日「春分の日」。二十四節気の四番目の春分である。習わしとして、昼夜の時間が同じという。暦は春十分というに、まだまだ肌寒く、冬の名残り?の咳は一進一退している。気候も体調も、名実共に春を迎えたい。
この春分の日を挟んで、3日前と3日後をそれぞれ「彼岸の入り(3/18)」、「彼岸明け(3/24)」といい、仏事につながる。
もっと直截な春を迎える行事というか、祭事の中心が自然を対象にしているようにしか思えない、東大寺の「お水取り(修二会)」がある。こちらは、3月の中旬まで行なわれるが、大衆としては、二月堂の「お松明」がクライマックスだろう。松明の火の粉にあたれば縁起がいいというが、過去3回の経験から、火の粉を浴びるのは難しい。松明と距離もとられるし、人混みで近づくこともできない。とはいえ、またいつか行きたいものだ。
風が吹き 風邪も治まらぬ 春分の日である。
(本ブログ関連:”春分の日”)
この春分の日を挟んで、3日前と3日後をそれぞれ「彼岸の入り(3/18)」、「彼岸明け(3/24)」といい、仏事につながる。
もっと直截な春を迎える行事というか、祭事の中心が自然を対象にしているようにしか思えない、東大寺の「お水取り(修二会)」がある。こちらは、3月の中旬まで行なわれるが、大衆としては、二月堂の「お松明」がクライマックスだろう。松明の火の粉にあたれば縁起がいいというが、過去3回の経験から、火の粉を浴びるのは難しい。松明と距離もとられるし、人混みで近づくこともできない。とはいえ、またいつか行きたいものだ。
風が吹き 風邪も治まらぬ 春分の日である。
(本ブログ関連:”春分の日”)
2021年12月22日水曜日
冬至 2021、民間信仰
きょうは、二十四節気の「冬至」で、日の出から日の入りまでの昼(日照)時間が一年中で最も短い日だ。東京天文台から見た日の出は 6:47、日の入りは 16:32になり、昼時間は 9時間45分となる。一方、昼時間が最も長い「夏至」(6月21日)の場合、日の出は 4:25、日の入りは 19:00になり、昼時間は 14時間35分となる。
(本ブログ関連:”冬至”)
冬至の昼時間が夏至のときと比べて、約5時間も短いのは驚きだ・・・一年中、昼時間が長ければ活気あふれそうだが、北極圏の「白夜」のように日没がないのはどうなんだろう。逆に冬至の前後に起こるという「極夜」では一日中太陽が昇らないわけで・・・憂鬱なことだろうなんて想像するが、そんなことをいうとトナカイを飼っている民族や、子どもたちへのクリスマスプレゼント準備に忙しいサンタクロースに失礼になる。
幸い、ほどよい緯度に住んでいるおかげで、冬至が生活の一区切りになる。これも体調が揃ってのことで、このところ右膝の調子がおもわしくなく日常の範囲が狭まった。外出も野外散歩から、座ってできることへと移っている。
■ 民間信仰
先日、2回(12/11、18)に渡って市民講座「日本人の民間信仰 - その起源と八百万(やおよろず)の神たち」(久保田裕道氏、東京都文化財研究所 無形民俗文化財研究室長)が開催された。民間行事や芸能、信仰などの精神的な回路(位置取り)として、次のような図解を中心に解説された。(柳田国男の「遠野物語」や折口信夫の「まれびと」の考えも紹介されつつ)
集落(民間信仰の主な場所) - 田畑 - 里山 - 山(神がいる、山岳信仰の場所)
網羅的に整理・理解できないしろうとは、ある局面について関心がいくもの。本ブログでは、民間信仰に近いテーマの一つとして「お稲荷さん(稲荷信仰)」の話題を渉猟したりしている。稲荷信仰について、どのように触れられるか期待しつつ出かけた。
「家の神」として、<屋敷神>の紹介で久保田氏が調査対象にした東京都東村山市の例として「屋敷内に祠が設けられる(屋敷神は)、300軒以上で稲荷神。弁天・霊神が2ケタ、1ケタ台で水天宮・御嶽・八幡・観音・地蔵など」とのこと。
① 圧倒的に「稲荷神」が多い。屋敷神は転居してもそこに残るという。経済と結びつきの多いことから、東村山市は繁栄していたのだろう(稲荷神が武蔵野の新田開発時代のものか、維新以後の商業関連のものかうかがわなかったけれど)。
(本ブログ関連:”稲荷信仰”)
② 「地蔵」が1ケタ台というのもうなづける気がした。土地柄がよければ、疫病とも縁が薄いだろうし、子どもを捨てたり水子にすることも少なかったのだろう。(地蔵は、屋敷より地域の境界や外れに置かれたろうから)
(本ブログ関連:”地蔵”)
その他、「鬼」と火の関係など、しろうとにとって偏ったことだが興味・関心がうずうずと湧いてくる話題が多々あった。
2025年7月9日水曜日
冷やしうどん
先日、テレビの料理番組を見ていたら、料理家が「冷やしうどん」の作り方を説明していた。「<冷凍うどん> を水道水にさらして、柔らかくなったものを使う」といっていた。もともと冷たいものを使えばよいという、天の声を聞いた気がした。
なるほどと合点して、スーパーで購入した冷凍うどんを使い、さっそく調理してみた。
しろうとの自己流調理?なので、実にシンプル。
① 冷凍うどんをドンブリに入れて、柔らかくなるまで水道水にさらす。(冷たさを残す!)
ー 柔らかくなったら、適当に水切りする・・・水分が少々残ってもよい。
② 冷えたうどんの上に、次のもの(冷凍庫・冷蔵室で冷やしておいたもの)をかける・置く。
・そばつゆ:(適当)
・冷凍ねぎ:(適当)
・チューブしょうが: たっぶり(適当)
・パック入りもずく: 1パック
③ よくかき混ぜて、冷たいうちに食べる。
冷凍うどんは、水道水でさらしても意外と腰がある。ヒンヤリ冷たいので、あっという間に食ってしまう。レモン風味など工夫の余地がありそう。
ネットで「冷やしうどん」を検索すると、いろいろなトッピング(具材)が紹介されているが、手っ取り早いのは今回のレシピだろう!
2017年5月15日月曜日
ユダヤ・ジョークで?
イディッシュ語講習の配布教材に載っている小話がよく分からない。実は、「ユダヤ・ジョーク集」(ラビ・M・トケイヤー著)という文庫本をAmazonで入手したが、同様の内容があって、それでもどうして? という疑問のままなのだ。ちょっと抜書きしてみる。
これで、お終い・・・ムムム、今一つピンとこない。人ちがいして突然殴られた人物が、笑って済ませている。これでどうしてジョークなのか。文化特有の意味(粗忽さ、または鷹揚さ、教養、或いは取りつくろい)なのか、はたまた私の鈍感さなのか。私だったらいきり立つだろうけれど。イディッシュ語教材は、次のように場面設定は違うが・・・展開は同様。
(文庫本から)「人ちがい」
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水売りのアイザックが、水がめに水を入れてもどってくる途中、ひとりの男が、
「マイヤー、これ食らえ」
と言いながら、アイザックをしたたか殴った。アイザックは立ち上がり、ゲラゲラ笑った。
「マイヤー、何がおかしいんだ。気でも狂ったのか」
「バカなのは、おまえじゃないか、だいたい、おれはマイヤーではないのだ」
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これで、お終い・・・ムムム、今一つピンとこない。人ちがいして突然殴られた人物が、笑って済ませている。これでどうしてジョークなのか。文化特有の意味(粗忽さ、または鷹揚さ、教養、或いは取りつくろい)なのか、はたまた私の鈍感さなのか。私だったらいきり立つだろうけれど。イディッシュ語教材は、次のように場面設定は違うが・・・展開は同様。
(教材から)?װי הײסט איר
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אַ ייִד קומט צו אַ צװײטן ייִד אין הױז און פֿרעגט
?זײַט אַזױ גוט. זאָגט מיר ׃ איר הײסט שׂלמה גאָלדבערג
יאָ. זאָגט דער אַנדערער ייִד
דער ערשטער ייִד גיט אים אַ פּאַטש. אָבער דער צװײטער לאַכט
ה׳ גאָלדבערג. פֿאַר װאָס לאַכט איר? פֿרעגט דער ערשטער
!װײַל איך הײס גאָרניט שלמח גאָלדבערג! איך הײס דוד שװאַרץ
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