今夜も、奈良東大寺の二月堂の舞台から松明を突き出して、その先の火の粉を舞い散らしては、見上げるひとびとに春を知らせていることだろう。毎年この時期、ブログに「お水取り(修二会)」に出かけたことがあると書くけれど、今年もと思いながら果たせないでいる。
(本ブログ関連:”お水取り”)
火にまつわる宗教的な話は別にして、京都八坂神社の新年の祭りに「をけら詣り」がある。学生時代、京都の友人の下宿を拠点にして、一冬を楽しんだことがある。余談だが、下宿屋の主人に、無断で泊まったときつく咎められた。
縄の先に火を灯して、それが消えないように振り回しながら自宅に持ち帰るのだが、下宿先へ運ぶことはなかった・・・。
(本ブログ関連:”をけら参り”)
火は、新年や春といった、季節の区切りに使われる。火は永遠であり、炎を繋ぐことができる。火は熱と明かりを等しく照らしだす共感の対象でもある。古来のひとびとが何かを感じても不思議はないだろう。
今日の日中は暖かだった。そのつもりで軽装で外出したが、夕方の帰り道はえらく冷えた。まだ気を許すほどの温もりじゃない。だから足元のストーブを仕舞い込めないでいる。