▼▼ 青字下線付語句のリンク先は、マウス右クリック+<新しいタブ>で進んでください。(本ブログ関連)の最下段に「次の投稿ホーム」があるとき次ページがあります。▼▼
検索キーワード「八百比丘尼 -ソンヒ」に一致する投稿を関連性の高い順に表示しています。 日付順 すべての投稿を表示
検索キーワード「八百比丘尼 -ソンヒ」に一致する投稿を関連性の高い順に表示しています。 日付順 すべての投稿を表示

2025年4月9日水曜日

(資料)八百比丘尼

先日(1/27)のブログに、「椿(ツバキ)」の分布と八百比丘尼の関係について、柳田国男が「雪国の春」で「(福井県)若狭の八百比丘尼(仏教の尼僧)のごとく、玉椿の枝を手に持って、諸国を巡歴したという旅人はあったのである」と述べたことを記した。

(本ブログ関連:”八百比丘尼”)

そこで、まず八百比丘尼についての思い出を記したい。八百比丘尼を初めて知ったのは、NHKのテレビドラマ「女人幻想」*(1972年)の現代劇を見てのことと思う。主演の佐藤友美(1941年10月8日~)は、八重歯が印象的な女優で、日本人にはそんな歯並びが好まれる**。それに、ちょっと擦れ声した(いわゆる妖艶さとは違う意味での)ハスキーボイスも魅力的だった。
(*)「女人幻想」(1972/02/26、22:10-23:40、番組表): テレビドラマデータベース
    ー http://www.tvdrama-db.com/drama_info/p/id-13062
----------------------
不老不死の女性八百比丘尼の伝説を下敷きに時空を越えた愛を描く。【以上、文・のよりん】突然失踪した妻の行方を捜す若い医師と、彼につきあって旅に出た作家がたどる怪奇な旅。
---------------------
(**)八重歯について、以前、韓国語の教室で、日本人の歯並びを口にした者がいた。日本人が八重歯を好む(愛らしく感じる傾向がある)のを不思議がっていたので、こんな例を伝えた・・・それは中東・北アフリカの羊市場で、買い手が商品の羊を品定めするとき、唇をめくり歯並びを確認(重視)すると。日韓の歯並びに対する視点の違いを、朝鮮の場合、高麗時代に長くモンゴルの支配下にあったからではないかと仄めかしたわけで・・・それを聞いた発言者は黙ってしまったことがあった。

さてドラマに戻ると、場所を変えて現れる或る女性を追い続ける、追慕を描いた不思議な印象を受けたが、物語の展開をつぶさに記憶に残していないのが残念。


以下、八百比丘尼に関する資料を探した

■ 鳥取短期大学研究紀要 (46), 21-38, 2002-12-01  ← 論文としての調査報告(都道府県別一覧表がある)
「八百比丘尼伝說 一 山陰を中心にその伝承の種々相を考える一」(酒井董美(ただよし))
    ー https://cygnus.repo.nii.ac.jp/record/276/files/bulletin46_03.pdf
以下「要旨」から:( )内の用語は論文内に記述のもの
-------------------------------------------------------
わが国には「八百比丘尼」に関する伝説が多く,27都府県にわたって存在している・・・
要旨は,漁師たちが竜宮に招かれて,人魚の肉を料理に出されるがだれも食べないたまたま一人がそれを持ち帰り,そこの娘(未婚女性)が食べたところ八百歳の長寿を得,しかも容姿は若い娘のままである娘は比丘尼(仏教への帰依)となって諸国を行脚し,植樹をしたり橋などを建立したりするが,最後は若狭の国で入定するというのが一般的な形である.本稿ではこの説話と「浦島太郎」の説話を対比(浦島伝説の方が古い)させながら,人々の長寿を願う気持ちを背景に,祖霊信仰を踏まえて成立したものであることを,民俗学の立場から考察したものである.
-------------------------------------------------------
上掲論文は、東大寺の二月堂で春に行なわれる「修二会(しゅにえ)」の法会の行事「お水取り」との関係を説明している。八百比丘尼が入定したという、若狭の小浜から「若水」が送られる「お水送り」に何かの象徴を感じる・・・以前数度、東大寺のお水取りに、火の粉をかぶりに行った覚えのある者にとってハッと驚く。

Youtube(登録: おどろ寺子屋)八百比丘尼の物語を名調子に要約されている。
「【怖い伝説】八百比丘尼〜人魚の肉を食い不老長寿・不老不死となった娘〜怪談朗読」
    ー https://www.youtube.com/watch?v=4MKP882Bq5I

Youtube(登録: 福井県小浜市の公式チャンネル)
「八百比丘尼物語」
    ー https://www.youtube.com/watch?v=m0VAkOJYW5E

百目鬼恭三郎著「奇談の時代」(朝日新聞社(出版))
① 「不死伝説」として、室町時代に記された八百歳の老尼に記録(下記、柳田国男が記す「臥雲日件録(がうんにっけんろく)」)より始まる。ただし、見世物的要素があり「ウサンくさい」としている。他に長老の人物(痴呆)を利用した例があるという。
② 同様に柳田国男も触れている、林羅山が若いときにこれに関心を持ったということに触れている(まあ、合理主義者の林羅山が興味を示したといえば、ちょっと耳を傾けたくなるわけで・・・)。

柳田国男著「雪国の春」の「若狭の八百比丘尼の物語」(「青空文庫」より)
    ー https://www.aozora.gr.jp/cards/001566/files/54403_54217.html
① 親が手に入れた人魚の肉を娘が食ってしまい、八百比丘尼となる構図である。 
② 八百比丘尼は日本各地を巡りながらも、その終結点として若狭の地があげられる。
③ この伝承は、「発揮し宣伝するには最も適したのが、庚申講の夜であった」としている。

<人魚の肉>
----------------------------------------------------------
 前に申した若狭の八百比丘尼の物語は、・・・ 足利氏の中期に、若狭に八百比丘尼という長生の婦人ありしことは、すでに馬琴の『八犬伝』によってこれを知った人が多いが、少なくとも当時その風評は高く、ある時は京洛の地に入って衆人に帰依せられたことは、文安六年五月から六月までの、『臥雲日件録(がうんにっけんろく)』や『康富記(やすとみき)』、もしくは『唐橋綱光卿記(からはしつなみつきょうき)』など、多くの日記の一致するを見れば疑うところはないのである。ただしいかにしてそのような長寿を得たかは、これらの記録には何も見えず、林道春(追補:林羅山)が父から聞いたといって、『本朝神社考』に書いたのが一番に古いが、これとても『清悦物語』の出現よりは前であった。すなわち昔この比丘尼の父、山中にして異人に逢い、招かれて隠れ里にいたる。人魚の肉を饗せられてあえて食わず、これを袖にして帰りきたるを、その女食いて長寿なりといっているのがそれである

 同じ話はまた『若狭郡県志』、『向若録』などにも出ている。この方では父は小松原という村の人で、海に釣をして異魚を獲たのを、娘だけが食べたということになっている美しい女性のいつまでも若いのを、「人魚でも食ったのか」という習いは、今でも諺のようになって残っている。基づくところかくのごとく久しいのである。・・・しかるを本人は怪しんであえて食わず、かえって無邪気なる小娘が、その恩恵をもっぱらにしたということは、話の早くからの要件であったと見えて、現に『清悦物語』でも同行者の一人がこれを持ち帰り、その女のこれを食うた者がつい近ごろまで存命であったと、不必要に問わず語りを添えているのである。『塩松勝譜(えんしょうしょうふ)』には常陸坊海尊、衣川にて老人に逢い赤魚をもらって食った。その婢女もまたこれを分ち食したとあるのは同じ話である。

 桃井塘雨(ももいとうう)の『笈埃(きゅうあい)随筆には、今浜洲崎という地に異人来り住み、一日土地の者を招いて馳走をした。人の頭をした魚を料理するのを隙見して、怖れて食う者もなかったが、ただ一人これを懐にして帰り、その妻知らずしてこれを食ったという話を載せている。これは疑いもなく寛永二年の隠岐島紀行、『沖のすさび』のまる写しであって、彼には伯耆(ほうき)弓浜の洲崎の話となっているのを、今浜洲崎と改めて若狭まで持ってきただけである。味は甘露のごとく食し終わって身とろけ死して夢のごとく、覚めて後目は遠きに精しく耳は密に聞き、胸中は明鏡のごとく顔色ことに麗わしとあって、ついに生き残ってしまったのである。七世の孫もまた老いたり、かの妻ひとり海仙となりて山水に遊行し諸国を巡歴して若狭にいたり、後に雲に乗りて隠岐の方に去れりとも記し、すなわちこの島焼火山その他の所々の追跡を説明しているのである。人の妻とある例はこれがただ一つであるが、海仙となって諸国に遊んだというのが、何か海尊仙人の口碑と因縁あるべく思われるただしこの話は九州を除くの外、ほとんど日本の全国に分布し、しかもたいていは同じ由来談を、若干の差異をもって説いているので、すなわち平泉の清悦の奇怪談が、必ずしも一人や二人の与太話よたばなしでなかったことだけは、もう十分に証明せられるのである。
----------------------------------------------------------

<八百比丘尼の事>
----------------------------------------------------------
 しからば人魚の効能と『義経記』との関係やいかん。それを考えるにはなお少しく類似の例を列挙してみなければならぬ。若狭の方面には『沖のすさび』のほぼ同じころに、貝原益軒(かいばらえきけん)の『西北紀行』があって、忠実に土地の所伝を録している。小浜の熊野山の神明社に、そのころはすでに比丘尼の木像と称するものがあり、しかもその由来記はまた別箇の趣を具えていた。昔この地方に六人の長者、おりおり集まって宝競べの会を催していたが、その一人人魚を調味して出したのを、五人の客疑って食わなかった。それから家に持ち帰って少女が食ったという段は、すべて他の例と一つである。

 佐渡では羽茂はもちの大石という村でも、八百比丘尼この地に生まると説いている。やはり異人饗応の話があり、人魚の肉によって千年の寿を得たのだが、その二百歳をさいて国主に譲り、女自身は八百歳に達した時、若狭に渡って死んだと伝えている。『播磨鑑』では私などの郷里神崎郡比延村に、この比丘尼は生まれたと主張する。これも八百になって比延川に身を投げたともいえばあるいは今一度人魚を捕りに、明石の浦へ出かけたまま帰ってこぬなどともいうのである。土佐国でも同じ人の海に入った話、その他いろいろの遺跡はあるのだが、人魚に関係せぬものはすべて省略する。『西郊余翰(さいこうよかん)』巻一に、土佐高岡郡多野郷の賀茂神社にある八百比丘尼の石塔の事を記しているが、白鳳(はくほう)十二年という大昔、この海辺に千軒の民家があった時代という。七人の漁翁が人魚を捕って刑に処せられた。七本木というのがその古跡である。村に一人の医者があって、ひそかに一切れの肉を貰い受けて、自分の娘に食わせると、すなわち後の八百比丘尼になった。三百年を経て一度帰り、この石塔を建てたともいい、あるいは死んだ後に若狭から届いてきたともいうが、人魚を食ったという証拠にはならぬのである。

 関東諸国ことに東京の周囲にも、この比丘尼の栽(う)えておいたという老木が多く、下野にも上総にもいろいろの遺跡はあるが、人魚の話はまだ聞いていない。しかも海もない美濃などにも、やはり麻木長者の娘が麻木の箸に付いた飯を、苧ヶ瀬池(おがせいけ)の魚に施した陰徳で、八百比丘尼となって若狭に往って死んだというのが同じだったらしく、さらにさかのぼって飛騨の益田郡、馬瀬の中切の次郎兵衛酒屋の話などは、山国らしい昔話に変化して今も語られる。この酒屋へおりおり一人の小僧が小さなヒョウタンを持って一斗の酒を買いに来る。疑わずに量って与えると、いくらでもそのヒョウタンへ入るのだ。試みに小僧の跡をつけて行けば、村の湯ノ淵という所までやってきて振返り、わしは竜宮の乙姫さまのお使だ。おぬしもござれと引っ張って行き、わずか三日の間款待を受けたと思ったらもうこの世では三年の年の終わりであった。帰る際に竜宮の宝でキキミミという箱を下される。耳をこれに付けていると、人間にはわからぬどんな事でも聞かれる。家に娘があってそれを不思議に思い、誰も知らぬ間にそっと開いてみると、箱の中には人魚の肉が入っていて、いかにもうまそうな香気がする。ついにその古い肉を食ってしまうと、そのお蔭で娘は八百比丘尼になった。村の氏神の雌雄杉の根もとへ、黄金の綱をこしらえて深く埋め、いよいよという場合には出して使えといって、自分は仙人になっていずれへか出て往ったというのである。ちょうど刊本の『義経記』が編纂ものなるごとく、これも地方に流れている三つ五つの物語を、端切り中をつんで冬の夜話の用に供したものらしい。

 まだいくつかの例が残っているのである。『丹州三家物語』に録するところは、ほとんど『神社考』と大差なくただ比丘尼の生地を若狭鶴崎としたのみだが、丹後には別に竹野郡乗原という部落に、旧家大久保氏の家伝というもののあることを、近ごろの『竹野郡誌』には詳述している。ある時この村へ一人の修験者が来ておって、庚申講(こうしんこう)に人々を招いた。それから先は例のごとくだが、この家の娘は比丘尼ながら、樹を栽え石を敷きいろいろと土地のためになっている紀州那賀郡丸栖村(まるすむら)の高橋氏でも、庚申講の亭主をしていると、見なれぬ美人がきて所望をして仲間に入った。その次の庚申の日には私の家へきて下さいと招かれたが、その晩土産といって紙に包んでくれたのが、例の人魚の一臠(きれ)であった帰って帯を解くときふと取落とすと、その折二、三歳の家の小娘が拾ってのみ込んでしまった云々と伝え、今もその家の子孫という某は住んでいるが、この事あって以来いつも庚申の晩には、算(かぞ)えてみると人が一人ずつ多くいるというので、とうとう庚申講は営まぬことになった。ここでもどういうわけか八百比丘尼は、末に貴志川へ身を投げて果てたと伝えている。越後の寺泊に近い野積浦の高津家にも、やはり人魚を食った八百比丘尼はこの家から出たといい、今も手植えの老松が残っている。同じく庚申講の夜山の神さまに招かれて、そんな物をもらって帰ったというのである。最後にもう一つは会津の金川寺という村でも、比丘尼はこの村の昔の住人、秦勝道の子だったという口碑がある。勝道はまた庚申講の熱心な勧進者であったが、村の流れの駒形岩の淵の畔(ほとり)において、やはり竜神の饗応を受け、その食物を食べたという点は、丹後紀伊などと似ていた。ただしこれだけは人魚でなくて九穴の貝というものであった。

 捜したらまだ何ほども例は出てくるのだろう。私が知っただけでは娘が取って食ったというのが、平泉を加えて十件あり、食物はそのただ一つのみが九穴の貝であり、さらに庚申講の晩というのが、互いに離れた土地に四つまでもある天平以前に庚申祭などがあったかと、野暮な疑問を抱くことを止めよ。庚申は要するに夜話の晩であった終夜寝ないで話をするために、村の人の集まる晩なのであるすなわち人魚を食ったという長命の女の奇蹟を、発揮し宣伝するには最も適したのが、庚申講の夜であったのであるその話をさも事新しく、なるべく知った人の多くおらぬような土地へ、こうして持ってこようという考えの者が、昔もあったことだけは想像せられる
----------------------------------------------------------

■ 日本伝承大鑑
「八百比丘尼入定洞」← 伝承の地、小浜で八百比丘についてのガイド
 ー https://japanmystery.com/fukui/ningyo.html

■ 福井県小浜市加斗コミュニティーセンター
「玉椿(八百比丘尼)」・・・ 小浜の後瀬山で入定時に詠んだとされる歌がある
「たのみなば 命のほどや ながからん いわまのしずく つきぬかぎりに」
    ー https://www1.city.obama.fukui.jp/obm/kouminkan/kato_k/profilepost/189

(参考)上掲の歌について、Geminiによる解説
----------------------------------------------------------
歌の意味を解きほぐす
・たのみなば: 「もし頼むとすれば」という意味で、仮定の条件を表しています。
・命のほどや: 「命の長さはどうだろうか」と、自身の寿命について問いかけています。
・ながからん: 「長く続くのだろうか」と、寿命の長さを疑問視しています。
・いわまのしずく: 岩穴から落ちる雫を比喩として用いており、生命の儚さ、無常さを表しています。
・つきぬかぎりに: 「雫が尽きるまで」という意味で、生命の終わりを暗示しています。

全体的な意味
・この歌は、八百比丘尼が長い年月を生き、多くの経験を積んだ上で、自身の命の終わりが近いことを悟り、詠んだ歌だと考えられます。
・岩穴から落ちる雫のように、自分の命もいつかは尽きるという、生命の有限性を深く認識し、そのことを静かに受け入れている様子が伺えます。
----------------------------------------------------------


(参考)
ところで、むかし(1980年代初期)、家族と一緒に居間のテレビで、吉永小百合主演のNHKドラマ「夢千代日記」を視聴した。当時、テレビドラマには、日本人の心象を、その経験を通じて奥深くから巻きあげるように描く。この作品について、多くの方がいまもネット上で語っている。

2025年4月12日土曜日

(資料)「笈埃(きゅうあい)随筆」にある八百比丘尼

先日(4/9)の「八百比丘尼」の続き。

「江戸奇談怪談集」(須永朝彦 編訳、ちくま学芸文庫)には、江戸期の奇談・怪談について記した書物を並べ、それぞれの代表的な話題をピックアップしている。八百比丘尼を語るとき、まずあげられる資料に、桃井塘雨(ももいとうう)の「笈埃(きゅうあい)随筆」がある。

(本ブログ餡連:”八百比丘尼”)

上記 <奇談怪談集> に掲載の「笈埃随筆」の「八百比丘尼」から、ポイントを抜き出して以下に記す。

① 書き出しは、万葉集の歌から始まる。坂上大嬢(さかのうえのおおいらつめ:坂上郎女(いらつめ)の長女)が、万葉集編者の大伴家持に贈った相聞歌である。(この二人は後に結婚した)
「かにかくに人は言ふとも若狭道後瀬の山(のちせのやま)*の後も逢はむ君」
後瀬山は、文字面から象徴的に(後に逢瀬するの意で)使われただけで、都びとが若狭まで足を運んだわけではないようだ**。
(*)八百比丘尼は各地を巡った最後に小浜(おばま)に戻り、「後瀬山」で入定したとされる。
(**)資料:「すさまじきもの ~「歌枕」探訪~」の「後瀬山(福井県小浜市)」
    ー https://saigyo.sakura.ne.jp/nochisenoyama.html

②「八百比丘尼の父は秦道満(はたのどうまん)と申す由」とあり、秦の苗字を名乗っていて帰化系の響きを感じてしまう。また、名は堂満で、「陰陽師」(おんみょうじ)の「安倍晴明」と宿敵である「蘆屋道満(あしやどうまん)」が浮かんでくる・・・。

③ 八百比丘尼が「隠岐」まで訪れて杉を植え、「八百歳を経て後に、また来りて見ん」といったとある。上記の八百比丘尼が各地を巡った例のひとつ。

④ 伝説で、父親がある宴から不信に持ち帰ったもの(人魚の肉)を、娘が知らずひそかに食して八百比丘尼になるというのが主な展開だが、妻が食った例もある。妻は、その味覚・感触を次のように語った。
-------------------------------------------------------
・ 一口食した時は、味わい甘露のごとくに覚えましたるが、食し終えるや身体(からだ)蕩(とろ)け死して、夢のようにござりました。
・ 暫(しば)しの後、覚めますると、気骨は健やかに、目は遠くまで利き、耳はよう聞こえ、胸中は明鏡のように覚えまする。
------------------------------------------------------
結果、妻は長寿を得て、親族七代を経ても生き続けた。「遂には若狭の小浜に至ったという」。

2025年1月27日月曜日

椿(ツバキ)

冬になって公園で見かける樹の花に、花弁が散る「サザンカ」がある。花一輪ごと落ちる「椿(ツバキ)」とあまり出会わなかったが、先日(1/25)公園の外周を回ったとき、民有地側の柵越しに咲いたツバキの花が丸ごと路面側に落ちていた。久し振りの光景だ。

(本ブログ関連:”ツバキ”)

「椿」の言葉でいえば、テレビで知った「五瓣の椿」(山本周五郎 原作)のドラマの壮絶な主人公が浮かんでくる。ポピュラーなイメージから演歌「アンコ椿」(都はるみ)の方が順当かもしれないが(伊豆大島の「椿油」しかり)。名前つながりで洒落ていえば、映画「椿三十郎」(三船敏郎主演)だろう、主人公は無敵だ。椿には、かくのごとくいろいろな色合いがあるようだ。

椿の花について、柳田国男の「雪国の春」の項「樹の花」に、次のように記されている。(福井県)若狭について紀行した文末に「八百比丘尼」と <椿> の結びつきを触れるとは・・・海辺に咲く椿の花が、海中の竜宮と陸地を結ぶ。実際のところ椿の分布には、下記に転載するように、人手による考え方があるようだが。そして、その広がりの役割を果たしたのに、永遠(一応八百年を区切りにする)の若さを持った「八百比丘尼」につながる(椿の花を携えた)旅人があったという。

(本ブログ関連;”八百比丘尼”)

■ 青空文庫
「雪国の春」(柳田国男、1956年(昭和31年))
https://www.aozora.gr.jp/cards/001566/files/54403_54217.html
同文の【椿の旅】の項より抜粋
----------------------------------------------------------
 全体に椿という木の分布順序については、まだ若干の学者の考え残しがあるように思う。太平洋岸でも気仙、唐桑以北の数か所、日本海の方でも津軽の深浦、それから青森湾内の小湊その他の岬の蔭に、おおよそ鳥が実をついばんで一息に飛ぶ距離の、五倍か七倍かの間隔をもって、いずれも一団の林をなして成長繁茂するのを、果して自然界のでたらめと見ることができるであろうかどうか。

 しかも他の一方には若狭の八百比丘尼のごとく、玉椿*の枝を手に持って、諸国を巡歴したという旅人はあったのである。愛する土地の美女と約束をして、またの年には椿の実を携えて再び訪ねてきたら、これを見て悦ぶべき恋人はもう死んでいたので、それを地に投じて歎き慕うていると、芽を吐き成長して神の樹となったという類の言い伝えも、土地によっては残っているのである。それからまたこの木の茂る所は、たいていは神の杜である。無論椿存在の奇異が、神を祀った原因であったとも言いうるが、とにかくに人とこの植物との関係は昨今でなく、また鳥などよりも親しみが深かったのである。

 植物には榎(えのき)や柳のごとく、庭木でないまでも里の木であって、山野に行けばかえってしだいに少なくなるものが稀れでない。これらを存在せしめるだけでも人間の意思であった。奥羽に向かってはその上に積極的に、若干の努力が加わっているかと思う。人が考えて移し試みなかったならば、椿などはとうてい雪国には入りえなかったろう。この細長い日本という島は、常にチューブのごとくまた心太(ところてん)の箱のごとく、ある力があって常に南方の文物を、北に向かって押し出していたのである。椿が稲や田芋と同じ程度に、人間生活との交渉の深いものでなかったということは、天然信仰の一向に研究せられぬこの国においては、まだまだ断言しうる者はないはずである。あるいはこれもまた隠れたる一つの史蹟記念物であって、単なる天然の記念物ではなかったかもしれぬのである。むやみに専門家の独断を信じないことにしよう。
----------------------------------------------------------
(*)玉椿: ツバキの美称

八百比丘尼については、あらためて記したい。

2025年5月2日金曜日

(資料)時空を超えた愛の映画「アデライン、100年目の恋」と・・・

ネットを巡っていたら、映画アデライン、100年目の恋(原題:The Age of Adaline)」(2015年)を紹介するYoutubeがあった。時空を超えた恋愛を描いたファンタジーだ。まあ、ちょっと若い女性向きの物語といっていいのかもしれない。

■ Youtube(登録:ansson rongstad)
「不老不死を手に入れた女性が108歳まで生きた結果【アデライン、100年目の恋】《映画》」
    ー https://www.youtube.com/watch?v=M9XVVx9PUyg


伝説「八百比丘尼」
上記映画について、「事故の影響で老化が止まり、100年以上も生き続けた女性の数奇な運命を描いている」(Wikipedia)ということから、まず思い浮かんだのは、伝説「八百比丘尼」(たまたま人魚の肉を食べてしまった少女が八百~千歳の長寿を得てしまう)だ。ただし、伝説には恋愛要素が見受けられない・・・比丘尼を主人公としていることから、仏教説話の要素が大きい。

(本ブログ関連:”八百比丘尼”)

映画「ある日どこかで(原題:Somewhere in Time)」
創作に悩んだ脚本家が、旅に出た先のホテルに併設の資料館で、舞台女優の古い写真と出会う。彼女の美しさに衝撃を受けた彼は、いつの間にか過去の世界へ戻り女優を探して恋に落ちる。原作のきっかけは、舞台女優「モード・アダムス」の写真からインスピレーションを受けたようだ。
このストーリー、アメリカのシニア夫婦に絶大に受け入れられ、いまでいう「聖地巡礼」のごとく、映画の舞台となったホテルで、毎年物語にちなんだ催しが開かれている。

(本ブログ関連:”ある日どこかで”、”モード・アダムス”)

レイブラッドベリ の短編「みずうみ」
時空をこえた物語に、レイブラッドベリ の短編「みずうみ」があるが、あまりも痛ましい展開なので本ブログのリンク先を示すのみ。

(本ブログ関連:”みずうみ”、”レイ・ブラッドベリ”)

昔のアメリカのTV番組「アウターリミッツ」(毎週内容が変わる)だったと思う。ある回に、少年が深い森をさ迷い、古い館にたどり着き、そこに住む少女と出会う物語があった。二人の展開が進むのだが、少女は館とともに忽然と消える。いってみれば、女性を神聖化する少年の幻想かも知れない。暗い映像に合わせて流れる、古いイングランドの音楽を思わせる旋律が印象的だった。

(本ブログ関連:”グリーンスリーブス”)

これも昔のアメリカのTV番組「世にも不思議な物語」(毎週内容が変わる)で、「(死産を経験して後、アルコール依存になった)冷え切った(中年の)妻のもとに、破綻した結婚生活をやり直したいと願う<若い頃の夫>(ウォーレン・ベイティ)がやってくる」(原題:"The Visitor")という回がある。こちらは、大人の愛の物語である。
ところで物語に、雨の降る道を走る車が窪地に落ちる場面がある。まるで上記映画「アデライン、100年目の恋」で、車が雪中の川に転落するのに通じる気がする。

(本ブログ関連:”世にも不思議な物語”)

■ Youtube(登録:つむともきのムービーチャンネル)
「世にも不思議な物語 1 『時空を超えた再会』(1/2)」
    ー https://www.youtube.com/watch?v=YS3LD2bqpfw&t=744s
「世にも不思議な物語 2 『時空を超えた再会』(2/2)」
    ー https://www.youtube.com/watch?v=NpbFAm8Xiuc&t=580s


2025年11月12日水曜日

螺貝(にし)

昔、ある人が人魚の肉を持ち帰ったところ、なにを知らぬまま娘が食してしまった。その結果、娘は八百歳の長寿を得ることになった。「八百比丘尼」の由縁である。

(本ブログ関連:”八百比丘尼”)

寛政年間の巷の話を集めた「梅翁随筆」(作者不詳)の「仙女伝」に、我が子から病気治癒のすすめで「螺貝(にし)」を口にした女性が長生きしたという話がある。(「江戸奇談怪談集」 須永智彦 編著、ちくま学芸文庫)
九州の商人一行が山中で出会ったこの女性の話が伝わり、遠賀郡庄の浦の代官がこの貝を探したところ、長寿家系の百姓の家に「長寿貝」と名付けて持ち伝えていたということを知る。(山中の女性が語った螺貝(にし)と、長寿貝が同じものであるとは必ずしもいえないが)

そこで、螺貝(にし)について、ネットを検索したところ次のような情報があった。(生成AI Google Search Labs)
---------------------------------------------------
・「螺貝」は、巻き貝の総称であり、「にし」は主に「アカニシ」という巻き貝を指すことが多いです。アカニシはサザエに似た食感と味が特徴で、日本では食用として流通しています。 
・「アカニシ(ニシ)」の特徴
    見た目: 殻口が赤く染まることから「アカニシ」と呼ばれます。
    味・食感: サザエに似た味や食感があり、美味しいとされています。
---------------------------------------------------

長寿貝については、百姓が持ち伝えたということから、純然たる農民ならば(漁労に少しも関わりがなければ)、この貝は、海洋性のアカニシではなくて、「田螺(たにし)」に近いのかもしれない。
ただし、上記生成AI LSearch Labsによると、福岡県の一般的食材にタニシはないようだ。

2016年1月23日土曜日

(資料) 騙す狢(むじな)

「同じ穴のむじな(狢)」というけれど、さて考えてみると、ムジナという獣の記憶がない。どうやら、ムジナとは、「アナグマ」のようだが、果たして子どものころ動物園でいかに見たか覚束ない。写真の姿は、警戒心の強いインパクトに欠けた小動物に見える。

とはいえ、「同じ穴のむじな(狢)」とは、騙すという似た輩のわけで、アナグマ、タヌキ、テンなどをまとめて指すようだ。アナグマが騙すという由縁を考えると、<擬死>にあるような気がする・・・つまり死んだ振りだ。人間の目から見れば、そんなことより逃げればいいのにと思い、タヌキと似た滑稽さを感じる。アナグマにしてみれば、ただ小心なだけなのかもしれないけど。

タヌキ同様に騙すという習性から、小泉八雲の「」では<のっぺら坊>の、お女中になったり、屋台の蕎麦売りになったりする。でも、この話し少し変だ。というのも<のっぺら坊>の、お女中は泣き声をあげるし、屋台の蕎麦売りは「こんなものだったか?」といって自分の顔を見せてダメ押しする。口がない筈なのに。

闇夜に遠く、狢の声が聞こえるという、芥川龍之介の「」は物語というより、採話に近い内容だ。狢の話しの古い記録について次のように書き出している。
----------------------------------------------------
書紀によると、日本では、推古天皇の三十五年春二月、陸奥で始めて、貉が人に化けた。尤もこれは、一本によると、化人(ヒトニナリテ)でなくて、比人(ヒトニマジリテ)とあるが、両方ともその後に歌之(ウタウ)と書いてあるから、人に化けたにしろ、人に比ったにしろ、人並に唄を歌った事だけは事実らしい。

それより以前にも、垂仁紀を見ると、八十七年、丹波の国の甕襲(みかそ)と云う人の犬が、貉を噛み食(ころ)したら、腹の中に八尺瓊曲玉(やさかにのまがたま)があったと書いてある。この曲玉は馬琴ばきんが、八犬伝の中で、八百比丘尼妙椿(やおびくにみょうちん)を出すのに借用した。が、垂仁朝の貉は、ただ肚裡(とり)に明珠(めいしゆ)を蔵しただけで、後世の貉の如く変化自在を極きわめた訳ではない。すると、貉の化けたのは、やはり推古天皇の三十五年春二月が始めなのであろう。
----------------------------------------------------

最初から化かす存在ではなかったようだが、腹の中に曲玉を蔵したことに、化かすことが合わさって、狐と似た具合にもなる。狐は、「腹内には金の壷あり、其の中に仏舎利」、「額にありたる白玉」、「尾の先にありたる二つの針」が存在したとされる。

(本ブログ関連;”(資料) 那須野の殺生石”)

人を騙す程度の悪知恵しかないのなら、身の内に、身のほど知らずの余りいいものを持つべきではないようだ。