「同じ穴のむじな(狢)」というけれど、さて考えてみると、ムジナという獣の記憶がない。どうやら、ムジナとは、「アナグマ」のようだが、果たして子どものころ動物園でいかに見たか覚束ない。写真の姿は、警戒心の強いインパクトに欠けた小動物に見える。
とはいえ、「同じ穴のむじな(狢)」とは、騙すという似た輩のわけで、アナグマ、タヌキ、テンなどをまとめて指すようだ。アナグマが騙すという由縁を考えると、<擬死>にあるような気がする・・・つまり死んだ振りだ。人間の目から見れば、そんなことより逃げればいいのにと思い、タヌキと似た滑稽さを感じる。アナグマにしてみれば、ただ小心なだけなのかもしれないけど。
タヌキ同様に騙すという習性から、小泉八雲の「狢」では<のっぺら坊>の、お女中になったり、屋台の蕎麦売りになったりする。でも、この話し少し変だ。というのも<のっぺら坊>の、お女中は泣き声をあげるし、屋台の蕎麦売りは「こんなものだったか?」といって自分の顔を見せてダメ押しする。口がない筈なのに。
闇夜に遠く、狢の声が聞こえるという、芥川龍之介の「狢」は物語というより、採話に近い内容だ。狢の話しの古い記録について次のように書き出している。
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書紀によると、日本では、推古天皇の三十五年春二月、陸奥で始めて、貉が人に化けた。尤もこれは、一本によると、化レ人(ヒトニナリテ)でなくて、比レ人(ヒトニマジリテ)とあるが、両方ともその後に歌之(ウタウ)と書いてあるから、人に化けたにしろ、人に比ったにしろ、人並に唄を歌った事だけは事実らしい。
それより以前にも、垂仁紀を見ると、八十七年、丹波の国の甕襲(みかそ)と云う人の犬が、貉を噛み食(ころ)したら、腹の中に八尺瓊曲玉(やさかにのまがたま)があったと書いてある。この曲玉は馬琴ばきんが、八犬伝の中で、八百比丘尼妙椿(やおびくにみょうちん)を出すのに借用した。が、垂仁朝の貉は、ただ肚裡(とり)に明珠(めいしゆ)を蔵しただけで、後世の貉の如く変化自在を極きわめた訳ではない。すると、貉の化けたのは、やはり推古天皇の三十五年春二月が始めなのであろう。
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最初から化かす存在ではなかったようだが、腹の中に曲玉を蔵したことに、化かすことが合わさって、狐と似た具合にもなる。狐は、「腹内には金の壷あり、其の中に仏舎利」、「額にありたる白玉」、「尾の先にありたる二つの針」が存在したとされる。
(本ブログ関連;”(資料) 那須野の殺生石”)
人を騙す程度の悪知恵しかないのなら、身の内に、身のほど知らずの余りいいものを持つべきではないようだ。