以前、SNSのFacebookがどのように発生して、どのようにのし上がったかをドラマ仕立てにした映画を見た。その主人公が、Facebook創設者といわれるザッカーバーグ同様に恐ろしく早口だった。
(本ブログ関連:”ソーシャル・ネットワーク”)
早口といっても、アナウンサーの練習ことばではない。いってみれば、TEDのスピーカーがとめどなく言葉をあふれ出すように、自分の言葉で造った自身の世界を語っているのだから。その際、言葉は自身を表現する道具にすぎない。聞こうとする人がいるなら、説得するための専用インターフェースは必要ないのだ。
情報を探し五官に届けるのに、デジタル技術は急速に発展した。インプット技術について、これからもそうだろう。だが、いったん脳内の処理はどうにもならない。どんなに技術が進んでも、人間としての判断は高速化できない。
語りをどうして急ぐのか。他者に聞かせようとするなら、発する言葉に自分の言葉だけではすまないものがあるはずだ。言葉は意味にあらゆる構造体を持っている。パラメーターの加減で機能が変化する。思いついたまま、口先で早口に条件反射するものではないだろう。
アホウドリも船乗りに捕まれば、さきほどまで悠々と海原の上空を浮かび睥睨したときと違い、その無様な姿をさらすだけなのだから。詩人も然り、さらにいえば、ぼくらは全然詩人じゃないのだから。